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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


B−violet.rose



 照明が落とされた部屋の中、窓から差し込む月明かりだけが周囲の様子を薄ボンヤリと浮かび上がらせる。
「貴方に頼みたいことはね」
 女性の細い声は、どこから聞こえてくるのか分からない。水中にいるかのように歪んで聞こえる音に、思わず顔を顰める。
「ある研究所に取り残された数名の救助と、ある薬品の持ち出し、そして研究所の封鎖」
 彼女達の使う“封鎖”は、“破壊”と同じ意味だ。
「数名が、具体的に何人なのかは分からないわ。あの研究所に勤めていたのは、百名いかないくらい。連絡が途絶える前までに少なくとも23名の死亡が確認されているわ。被害はもっと広がっていると思うの」
「マテリアルでの死者も何人かいる。こちらは我々は人数把握をしていない」
 今度聞こえたのは、太い男の声だった。こちらも女性の声同様、どこから聞こえているのかは分からない。
「生きている者は全員救助して欲しいのだけれど、少なくとも3人、必ず救助して欲しい人がいるの」
 その3人が現段階で生きている可能性は? そんな問いかけに、女性は「かなり高いわ」と答えた。
「まず、研究員のローズ。次に、同じく研究員の恭一。最後に、マテリアルの蛍。特にローズは絶対に連れ帰って」
 足元に何かが投げられる。拾い上げてみれば、3枚の写真だった。
「そこでは、キメラの研究をしていたのだが、何らかの理由によってキメラが暴走を始め、研究員を次々襲っている」
「キメラのみを暴走させる薬品か何かを使ったと思うの。 その薬が何なのか、どうやって作ったのかを知りたいけれど、薬が残っている可能性は低いでしょうし、作った研究員が死亡している可能性が高いわ。‥‥でももし、貴方がその薬を持ち帰るか、研究員を生きて連れ出す事が出来れば、報酬を倍払っても良いわ」
「暴走したキメラのうち、3体は向こうで処理したとの報告を受けた。こちらはキメラが全部で何体完成していたのかの報告は受けていない」
「研究所は地下3階まであって、1階は廃工場になっているわ。工場の奥にある扉に番号を打ち込めば、開くわ。番号は1618。地下1階は主に研究員が住み、地下2階はマテリアルが住んでいるの。地下3階は研究室や実践室よ」
「マテリアルの中に能力者がおり、力を暴走させると言う事件が過去に起きたため、地下2階は、能力調査室以外はフロア全体に能力制限がかけられている」
「地下3階は、実践室以外では能力使用は出来ないわ。ただ、フロア自体に制限がかけられているわけではないから、どうしても能力を使いたいのならば廊下におびき出すしかないわね」
「それと、持ち帰って欲しい薬品は“B−violet”の完成品だ。B−violetが何処にあるのかは、ローズ君か恭一君に聞いてもらえれば分かる」
「脱出の際は、地下3階の実践管理室を抜けた先にある下水道を通って。封鎖は完全に地上に出てから行った方が良いわ」
「必要な武器を言ってくれれば揃えよう。“封鎖するための道具”もこちらで揃える。ボタンを押してから5分後に封鎖される」
「前金はもう払っておいたわ。残りは成功報酬よ」
「成功を祈っているよ」


* * *


 中世ヨーロッパのお城を髣髴とさせるような豪華な建物の前で、エリィ・ルーはゴクリと喉を鳴らすと急いでバッグの中からコンパクトを取り出し、自分の姿を映した。
(へ、変な格好じゃないよね、大丈夫だよね‥‥‥?)
 ツインテールにした白金の髪が乱れていないか入念に確かめ、散々悩んで決めた白のワンピースがおかしくないかを改めて確認する。 中世ヨーロッパの姫君が着ていたような豪華で高価なドレスとは比べ物にもならないが、このワンピースだって立派にブランド物だ。そこら辺で5千円均一で売っているものとは生地の手触りも、刺繍の細かさも違っている。
(大丈夫だよね。あたし、浮いてないよね?)
 お城に吸い込まれていくグラマーな美女たちを横目に、エリィは気後れしながらもこっそりとガラス張りのドアを抜けた。 白の制服を着たガードマンがエリィを見下ろし、怪訝な顔で眉を顰める。
 何でこんな子供がここにいるんだ? 誰かの娘さんか? それとも、無断で入って来たのか? ――― ガードマンの瞳はあまりにも雄弁に語りすぎており、エリィは即座にこの人は嘘をつく事が苦手なのだと悟った。 もっとも、人の長所を見つけ出すことに長けたエリィのこと、嘘をつくのが下手なのだとマイナスに考えるのではなく、正直な人なんだと言うプラスに考えていたのだが。
「お呼びたてして申し訳なかったわね、ここまでは迷わずに来れたかしら?」
 あの日、あの部屋で聞いた歪んだ声は、今日はクリアに聞こえた。 綺麗な川のせせらぎのように、決して過度に主張しないながらも確実に心に伝わってくる声は、聞いていて心地良かった。
 腰まで伸びた金色の髪は柔らかにウェーブがかっており、スラリとした体つきに不釣合いなほどにせり出した胸元、冷たく整ったお人形のような顔の中、虹色の瞳だけがアンバランスに輝いていた。
「はい、タクシーで来ましたので。 失礼ですが、レナさん‥‥‥ですよね?」
「えぇ。エリィ・ルーさん、初めまして。‥‥‥もっとも、会うのは2回目ですけれども」
 差し出された手に一瞬戸惑う。 握手を求められているのだと遅まきながらに気づき、エリィはオズオズと手を差し出した。冷たい手に華奢な指、小指には小振りのピンクダイヤモンドが煌いている。
 彼女の名前はレナ・アクィナス。 エリィに仕事を頼んだ組織の1人で、今回渡したいものがあるからと言ってエリィをこの場に呼び出した張本人だった。
「レストランの個室を予約してあるの。行きましょう」
 柔らかに微笑み、レナがガードマンに軽く会釈をすると颯爽と歩き出す。 エリィもガードマンに頭を下げたが、レナほど優雅に会釈が出来たと言う自信はなかった。
(レナさんって、良いところのお嬢様とかかなぁ‥‥‥)
 周りを見渡してみても、レナほど優雅に歩いている人はいない。身体の芯に植えつけられている優雅さは、一日二日で得られるようなものではない。
「ここはね、コースが美味しいのよ。私が勝手に頼んでしまったのだけれど、エリィさん、何か食べたいものとかあるかしら?」
「い、いえ。特には‥‥‥」
「そう。それなら良かったわ。本当にお勧めなのよ、ここのお料理は‥‥‥」
 ふわり、レナが振り返りながら微笑む。 むせ返るような薔薇の香りを纏った彼女は、目の前にいるのにどこか遠くにいるような、そんな不思議な雰囲気を持っていた。



 トリュフにキャビアにフォアグラに鱶鰭に、キラキラとしたソースが芸術的な模様を描くお皿に、天井からぶら下がる重たそうなシャンデリアの光を受けて鋭く光る銀食器に、染み一つない純白のテーブルクロスに、それら全てにエリィは戸惑いながらもレナを上目遣いで見つつ食事をとった。
 食器の音一つせずに食べるレナは、ともすればその存在を忘れてしまいそうになる。 低くクラシックのかかる室内はあまりにも静かで、フォークがお皿に少しぶつかっただけでも煩く響く。
 美味しいと言う以外にまともに味の分からなかった食事が終わり、紅茶とケーキが運ばれて来た頃になってやっとレナが口を開いた。
「エリィさん、今日明日にでも工場の方に向かっていただけるのよね?」
「勿論です」
 本来ならば、救助を待っている人がいるにもかかわらずこんな所でノンビリとお茶を飲んでいる暇などないのだが、レナはいたってマイペースだった。 それは、今生き残っている研究員ならば数時間、数日くらいならば生きていられるだろうと言う確信を持っているのかもしれないし、違った思惑があるのかもしれない。
 恐らく後者だろうと、エリィは思った。 どんな思惑があるのかは知らないが、今回の依頼とは別の事だろうと想像する。
(今回の依頼に直接関わっている事なら何か説明があると思うし。‥‥‥でも、もしも“試されている”んだとしたら‥‥‥)
 突然視線をテーブルの上に落とし、沈黙したエリィを不思議そうに見つめるレナ。 その顔には薄い微笑が張り付いており、エリィの知る限り、その表情が崩れた事はない。食事をとっている最中ですらも薄く微笑んでおり、それが彼女の普通の顔なのかと錯覚してしまいそうになる。
「お渡ししたいものはね、工場の鍵よ」
 純白のハンカチの中から現れたのは、錆の浮かんだ一本の鍵だった。何処にでもあるようなありふれた鍵を取り、エリィは手の中でクルリと回すとおおよその鍵の特徴を捉えた。
 ピッキングで開けようと思えば簡単に開けられる、簡素な作りのものだった。廃れる前、まだ人々がそこで生活していた時から使われていたであろう鍵は、地下の黒い影を否定しているようでもあった。
(廃工場の地下にはキメラ製造所があるなんて、普通誰も思わないよね‥‥‥)
 人間はとても現実的な生き物だ。キメラ製造所などと言う、映画や小説の中でしか見られないようなものは架空の世界のものと割り切って生活している。 物語の世界と現実を明確に線引きしているその姿は賢明だとは思うが、実際にはその線はあまりにも曖昧で儚い。
 ソレを知る人にとって見れば世界は複雑に捩れており、何が正しく何が間違っているのか、何がナイもので何がアルものなのか、いちいち確認していかなければ前には進めない。しかし、ソレを知らない人にとって見れば世界はどこまでもクリアであり、平面的でさえある。
「番号は覚えているわよね?」
「はい、1618ですよね」
「えぇ。 それから、もう2つお渡しするものがあるのよ」
 レナの手がテーブルの端に伸び、そこにチョコンと座っていたベルを持ち上げるとチリチリと軽く振る。
 今時こんな呼び方をする処があったのだと思う反面、こんな小さな音を聞き分けられるのだろうかと言う疑問が膨らむ。 閉め切られた室内ではそこそこの大きさに聞こえたが、ピタリと閉じられた扉の外にはどれほどの大きさを保って響く事が出来るのだろうか。
 沈黙する事ほんの10秒程度、軽いノックの音と共に現れた制服姿の女性は、手に大きな紙袋と封筒を持っていた。
「有難う。 持ってきてもらうように言う手間が省けたわ」
 レナの言葉に女性が無言で微笑み、丁寧に頭を下げた後で部屋を後にする。
「流石ね、ここの人達は。 食後の紅茶を運んだ後だから、私が呼ぶとすればこのことだろうと検討をつけてきたのね」
「レナさんが指示していたわけではないんですか?」
「後で持ってきて欲しいとは言っていたんだけれど、いつ持ってくるのかは言わなかったわ」
「凄いですね‥‥‥」
「凄いわ。けれど、凄いからこそ、間違えていた時は悲惨よね」
 確かにそうかも知れない。 間違えていたときの事を想像し、思わず笑ってしまいそうになる。
「これは、封鎖をするための道具よ。万が一誤爆しては大変だから、かなり厳重に包んであるけれど、中身はさほどないわ」
 紙袋を受け取り、中身をチラリと確認しただけで足元に置く。 先ほどから置き所に困っていた鍵も紙袋の中に滑り込ませて置いた。生理的に、こんなに綺麗なテーブルクロスの上に錆の浮いた鍵を置いておきたくはなかったのだ。
「それと、こちらは成功した際の残りの報酬を受け渡す際の場所の指定よ。 また貴方に出て来てもらう事になるけれど、良いかしら?」
 ダメですなどと言える立場にはない。金を渡すから来いと言う態度には閉口するが、依頼人からの申し出なのだから仕方がない。
 渡された封筒を開け、中を確認する。指定された場所の案内を見てエリィは飛び上がりそうになった。
「これって‥‥‥」
 会員制の超高級ホテルの行き先が細かく書かれ、紹介状にはレナのサインが綺麗な筆記体で書かれている。
「ここのお料理もお勧めなのよ。 あまり愉快でない話の時くらい、お料理は美味しく華やかなものを食べないとね」
 あまり愉快な話ではないからこそ、料理なんて優雅に食べながら話したくはない。 どうやらエリィとレナの感覚はずれているようだった。


* * *


 人の手を離れ、風雨に晒されて長い工場は今にも朽ちかけそうなほどに錆び付いていた。
 二度と動き出す事はなさそうな門を軽々と飛び越え、廃材の山を潜り抜けていく。 あの小奇麗なレストランで見た時はあまりにも浮いていた鍵も、この場所では馴染んでいた。
 廃工場の鍵を開け、黴臭さに顔を顰める。 月明かりが斜めに工場の中に突き刺さり、キラキラと埃が舞っているのが見える。
 埃の絨毯が敷かれた中を足早に抜け、奥の扉の前で立ち止まると1618と打ち込む。 暫しの沈黙の後でエレベーターが到着し、目に痛いほどの光りを撒き散らしながら扉を開いた。
 小さな箱の中には階数指定のボタンはなく、開と閉だけが無愛想に並んでいた。 エリィは閉のボタンを押すと、腰元にぶら下げていた刃渡りの長いナイフを装備した。
 緩やかに下っていったエレベーターが唐突に止まり、何の前触れもなく扉が開く。開いた先、エレベーターよりも薄暗い階段が見え、目の前に白い何かが立っているのに気づく。咄嗟に戦闘態勢に入りナイフを構えた次の瞬間、白い何者かが「うわっ!」と声を上げた。
 1歩後退る相手の正体を確認し、エリィは直ぐにナイフを下ろすと白衣の胸元につけられた名札の文字を読んだ。
「貴方が恭一さんですね?」
 黒髪にガッシリとした体つき、背は高く、見た目は20代にも見える。
「あぁ、キミがレナが雇った子? エレベーターが動いたからそうじゃないかとは思ってたんだけど、まさかナイフを構えてるとは思わなくて焦ったよ」
「すみません。 でも、キメラがいる以上は常に気をつけていないとと思って‥‥‥」
「このフロアにはいないから安心して。 って言うか、このフロアにもいたんだけど処分したから」
 処分 ――― そのあまりにも冷たい言い方に、エリィは唇を噛んだ。
 そんな彼女の様子を察してか、恭一が慌てた様子で手を振りながら言葉を続ける。
「俺達が処分したのは、虫と動物を掛け合わせたキメラなんだ。人と掛け合わせたキメラは隔離してあるから‥‥‥」
「このフロアに恭一さん以外に生存者はいますか?」
「あぁ、あと2人、色々やってるよ」
「色々‥‥‥?」
「エレベーターでの認証とか、各フロアの閉鎖とか。もっとも、メインコンピューターが壊れて、あんまり意味ない事になってるけど。 昨日までは下のフロアの生存者や脱走したキメラの情報なんかも伝わってたんだけど、一昨日からB2と連絡がつかなくなって、B3からはローズと真壁って言う研究者と連絡がついてたんだけど、今朝からつかなくなった」
「B2って、マテリアルのいるフロアですよね?」
「蛍を助け出せって依頼があるはずだけど、なんとも言えないね。 キメラはエレベーターには乗れないようになっているはずなんだけど、どうやら誰かがシステムを書き換えたらしい」
「キメラだけを暴走させる薬を作った研究員が、ですか?」
「そうとは一概には言えない。 ここにいる研究員で、ここが嫌いなやつは何人もいるだろうし」
(ここが嫌いな研究員って、どう言う意味なのかな‥‥‥)
 考え込むエリィの表情からその内容を察したのか、恭一が肩を竦めて白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「ここは、何人もの人が死ぬ場所だ。仲良くしていたマテリアルも、時期が来ればキメラの実験に連れて行かれ、大半は死亡する。世話をしていた動物だって虫だって、ほとんどが死んでしまう」
「それでもここにいる理由は何なんですか?」
「給料が良いからだ。俺の能力を正当に評価してくれるしね。俺にはお金がいる理由が‥‥‥」
「恭一、救助が来たのか?」
 背後から聞こえた声に振り向けば、恭一と同じような格好をした研究員が小走りにこちらに向かってきていた。
 金色の髪に青い瞳、見るからに西欧人の顔立ちの彼は流暢な日本語で恭一に声をかけると、笑顔を浮かべながらエリィを見下ろした。
「僕はアルフレッドって言うんだ。君は‥‥‥恭一、彼女の名前は?」
「あぁ、そう言えばなんて言うの?」
「エリィ・ルーと言います」
「アル、連絡が途絶える前までのB2とB3の状況をエリィちゃんに教えてあげてくれないか? 卜部とキメラ退治に奔走していた俺よりもキミのが詳しいだろ?」
「あぁ。って言っても、あまり良い情報はないよ。 B2で連絡が途絶えるまでに生存が確認されたのは、蛍と白、紅と凛、それからミーファとローラだ。死亡が確認されたのは‥‥‥エリィさんに名前を言っても仕方がないから省略するけど、37名だ。残りの52名については生死は分からない。でも多分、ダメだと思う」
「B3の状況はどうなんですか?」
「B2に劣らず酷い。研究所内の異変に気づいて緊急装置を作動させたんだけど ――― B1のコンピューターで、手動で幾つかの部屋の扉を閉める事が出来るんだ ――― 間に合わなかった。ほとんど全てのキメラが外に出て、部屋の中に残ったのは数体しかいなかった。ローズと真壁との連絡はついたんだけど、他は連絡が取れない」
「B3に行くには普段から武器の携帯が義務付けられていたんだけど、まともに扱えないような連中ばかりなんだ。ローズとか真壁とかは特別に銃の訓練をしてあるんだけど‥‥‥」
「キメラを作っていたのに、銃の訓練もしてなかったんですか!?」
「そもそも、そんな危険なキメラを作ってたわけじゃないんだ」
「キメラを作る時点で十分危険ですよ。 それに、マテリアルの能力が暴走した事件があったということも聞きました」
「マテリアルの能力暴走は、最初から想定されていたんだ。ただ、上があまりこちらの話を聞いてくれなくてね‥‥‥。それと、危険だと思われるキメラは途中で処分しているんだよ。 ただ、1体をのぞいては‥‥‥」
(1体をのぞいては?)
「もしかして、そのキメラって言うのは、能力者と ―――――」
「エリィちゃん、まずはB2とB3に残された研究員とマテリアルを救出するのが先じゃないの? これ以上待っていても、被害は広がるばかりだよ」
 きっと触れられたくないところなのだろう。 これ以上は喋るまいとする恭一とアルフレッドの態度に、エリィは渋々追求を諦めた。
「レナさんから、B−violetの完成品も持ち帰るようにと言われました。ローズさんか恭一さんに聞けば分かると言っていましたけれど、どこにあるんです?」
「この階の機密保管室に入っている。 でも、そこには2つの鍵がないと入れない」
「その鍵は何処に?」
「暴走が起きる前にローズが持ち出したと記録には残っている。鍵を1人が2本持つことは出来ないから、おそらくもう1人誰かが持っているんだと思う」
「1人で2本持てないとは、どう言うことです?」
「規則なんだよ。持ち出す時には指紋認証が必要なんだ。記録には代表者の名前と時間を書いておけば良いんだけどね」
「もっとも、破って1人で2本持ってる人なんて沢山いるけどね。指紋だけを誰かに頼んで」
「アルは悪だからそうかも知れないけど、ローズはそんなことしないよ。規則は規則、そう言うとこは物凄く厳しいから」
「それじゃぁ、ローズさんを見つけないと分からないんですね?」
「そう言うこと」
 それなら、まずはB3から行った方が良いだろう。 B2よりも危険度は上だが、だからこそ、早くローズを見つけて保護しない事には手遅れになる。
「B3に行きましょう。 恭一さんとアルフレッドさんも一緒に」
「え、俺達も行くの?」
「えぇ。一緒に行動するのは危険かも知れませんが、ここに残るのも危険だと思うんです」
「それなら、卜部も呼んでこないとな‥‥‥。卜部はどこにいるんだ?」
「自室からなんとかメインコンピュータに繋いで復旧させようと頑張ってるみたいだけど‥‥‥。僕と卜部は残っておくよ」
「ダメです、危険すぎます」
「エレベーターの制御はある程度なら出来るし、ダウンした場所の電源の回復とか、やってみて損はないと思う」
「でも‥‥‥」
「僕一人じゃ頼りないと思うけど、卜部がいるから大丈夫だよ」
「それじゃぁ、もし危なくなったらエレベーターで地上に逃げてください。 あたしはレナさんから脱出の際の指示も出されていますし、恭一さん達を連れてそちらから出ます」
「残念だけど、あのエレベーターはこちらからは呼べないんだ。常に上からの指示しか受け付けない」
「それじゃぁ、やっぱり‥‥‥」
「エリィちゃん、卜部とアルは大丈夫だよ。エレベーターも今はキメラを乗れないように管理してあるし、アルはともかく卜部は銃の扱いにかけてはローズや真壁に引けをとらないほどだから」
 アルフレッドと卜部と言う研究員をこの階に残しておく事は不安だったが、これ以上押し問答していても仕方がない。 エリィは渋々頷くと、恭一と共に廊下の端で口を開けて待機しているエレベーターに乗り込んだ。
「恭一、大切なもの忘れてる」
 アルフレッドが黒い何かを放り投げ、恭一がそれを上手くキャッチする。手の中で光る黒い物に視線を向け、エリィは思わず顔を顰めた。
(銃を投げるなんて‥‥‥)
 安全装置はきちんとかけられているようだが、危ない事に変わりはない。
『認証中、認証中‥‥‥。研究員の駿河谷・恭平さんと特別研究員のエリィ・ルーさんですね』
 ユルユルと扉が閉まった後、エレベーターの天井付近から機械的な冷たい女性の声が降って来た。
 特別研究員と言う肩書きに眉を顰めたエリィだったが、恭一はそんな些細なことは気にしていないようだった。
 考えてみれば、この研究所には研究員かマテリアル、キメラしかいない。全フロアを行き来できるのは研究員しかいないため、エリィも自動的にそのポジションに振り分けられたのだろう。
「あぁ、そうだよ。 クローズ、今はどの階に行ける?」
『全ての階に行く事が出来ます。アルフレッドさんが設定を変更しました』
「B3に行きたいんだけど」
『了解しました』
「クローズ、現在の状況を教えてくれ」
『現在警戒態勢中です、B2とB3の幾つかの部屋はロックされています』
「アルフレッドか卜部がその設定を変更していないか?」
『現在変更中の項目が1件あります。 ‥‥‥変更事項を伝えます。B3の各種実践室以外のロックは解除されました』
「クローズ、現在研究所内に生存していると思われる個体の数を感知出来るか?」
『生存していると思われる個体はB1に2名、B2に11名、B3に23名、エレベーター内に2名です』
「まだそれだけの人が助けを待っているんですね‥‥‥」
「違うよ、エリィちゃん。クローズ‥‥‥この研究所のメインシステムの名前なんだけど、クローズが感知できるのは呼吸・鼓動・体温とかなんだ。 キメラは心臓も肺も動いているし、体温もある」
「つまり、キメラの数も入っていると言うことですね?」
「そう。 エレベーターの2名は言わずもがな、B1の2名は卜部とアルで間違いないとして、B2とB3にいる“生存していると思われる個体”は全てキメラだと言う可能性がないでもない」
「そんな‥‥‥」
「でも、ローズと真壁は大丈夫だよ。多分、2人とも一緒にいるだろうし」
『エレベーターを作動させても構いませんか?』
「あぁ、頼むよクローズ」
『了解しました』
 エレベーターが緩慢な速度で下りる間、エリィはナイフを仕舞うと銃を取り出した。
「相手がキメラだと分かった時にのみ、照準を合わせるようにしてくれないかな。 ローズも真壁も、それなりの訓練を積んだ人だから‥‥‥」
「それなりの訓練を積んでいるからこそ、相手を見極めてから引き金を引くんですよ?」
「いや、それじゃぁ遅いんだよ。 銃口がコチラに向いているのに気づいた瞬間に撃たないと」
「そんなのって、まるで‥‥‥」
(ボディーガードみたい? ううん、少し違うかな。暗殺者? うーん‥‥‥何者かに狙われている‥‥‥?)
 ローズと真壁は、ただの研究員なのだろうか? エリィの中にモヤモヤとした疑問が膨らんだ次の瞬間、チンと軽い音がしてエレベーターが止まり、扉が開いた。
 チカチカと点滅する蛍光灯、天井から垂れ下がった太い線からは時折火花が飛び散っている。壁には大きな引っかき傷のようなものがつけられ、床には薬莢が散乱し、血が滴っている。
「凄まじいな、ここは‥‥‥」
「直ぐにローズさんと真壁さんを探し出しましょう」
「最初に言っておくけど、俺に期待しないでね。完全な足手まといになる事は分かりきってるから」
「勿論です」
 最初からアテになどしていない。 その言葉を飲み込み、エリィは恭一の先に立って歩き始めた。
 どこからか水が滴り落ちる音が聞こえ、火薬の臭いと血の臭いが鼻につく。扉が破壊された部屋を覗き込めば、白衣を赤く染めた女性が床に座り込んでいる。 黒の膝丈のスカートから伸びる脚は白く、髪の毛は茶色い。夥しい量の血と良い、変な方向に曲がったまま固まった脚と良い、彼女が生きていないことは明白だった。
 次の部屋では床に落とされたパソコンが画面を白黒させながらコチラを見ており、次の部屋では紫色の液体の中に緑色の肌をした巨大な蟷螂のような生物が倒れこんでいた。 次の部屋では白衣を着た男性が3人折り重なるようにして倒れており、次の部屋では2m近くあろうかと言う茶色の生物が紫色の液体の中で倒れていた。
 エレベーター前から伸びていた廊下は突き当たりになり、左右に更に長い廊下が伸びる。左右を確認した後で右手に進む。閉め切られた扉の右上、プレートに赤々とした血が飛んでいる。血のせいで前半に何が書いてあるのかは分からないが、実践室の文字は読み取れた。
「こっから先はずっと実践室だよ」
「それなら、ローズさんと真壁さんはこちらには‥‥‥」
 恭一の声に振り返った瞬間、エリィの視界の端に巨大な何かが映った。 それが何なのか理解する前に恭一を突き飛ばし、銃を構える。躊躇いなく引き金を引くが、巨大なソレは空中で軽く弾を避けた。
 トンボのような薄い羽にカニのような大きな鋏、口は鳥の嘴のようで、脚はカブトムシのよう。そんな異様な姿をしたそのキメラは、体長1m50cmほど、廊下に羽が当たっては耳障りな音を立てている。
 マガジンに入っている弾を全部撃ちつくし、エリィは投擲用のナイフを取り出すとそちらに投げた。真っ直ぐに飛んだナイフはキメラに当たることなく天井に突き刺さり、羽を畳んだキメラがカブトムシのような細い脚で器用に天井を走ると猛スピードでこちらに向かってくる。
「エリィちゃん!」
 恭一が自分の持っていた銃を投げ、エリィは咄嗟に持っていた銃とマガジンを恭一に放り投げた。恭一が四苦八苦しながらマガジンを銃に入れ、エリィが狙いをつけて ――― キメラが動く方向を予想して ――― 引き金を引くが、なかなか当たらない。
 右に左にと器用に避けるキメラに軽く舌打ちする。 撃ちつくした銃を恭一に渡し、代わりに自分の銃を受け取ろうとした時、一瞬だが攻撃の間があいた。キメラが折角のチャンスを見逃すはずもなく、一気に間合いを詰めると鋏を振り下ろした。
(あぶない‥‥‥!)
 恭一の腕を掴んで庇おうとしたのだが、彼はエリィの手をすり抜けると上手く体を捩ってキメラの鋏をかわした。巨大な鋏が床に突き刺さり、それを抜く間キメラの動きは鈍くなる。がら空きの背中を狙っても良いのだが、確実にしとめられなければ逆にやられてしまう危険がある。
(さっきは恭一さんの銃があったからマガジンを替えている間も攻撃を続ける事が出来たんだもんね‥‥‥)
 投擲用のナイフにだって、数に限りがある。ここで全て投げつくして良いはずがない。
「恭一さん、今のうちに逃げましょう!」
「あぁ、分かってる」
 素早く立ち上がった恭一が走り出し、エリィもその後に続く。鋏は深く地面に突き刺さってしまったのか、キメラは奇妙に甲高い声を上げながら体をくねらせている。
「エリィちゃん、いったんエレベーターのところまで戻ろう」
「どうしてですか?」
「このまま向こうに行っても無駄だよ」
(行っても無駄‥‥‥?)
 まるで、向こうにローズと真壁がいないと分かっているかのような口ぶりに首を傾げた時、前を走っていた恭一が振り向き、「危ない!」と叫ぶとエリィの体を抱え込んで床に倒れた
 ツインテールにした金色の髪が揺れ、数本の毛が上空を靡く途中で断ち切られる。頭上を凄まじい勢いで何かが通過し、前方から銃声が鳴り響くと紫色の液体が飛び散った。
「何してるの、恭一!?」
「おいおい、幼女連れ込んで楽しんでる場合じゃないんだぞ」
 突き刺さるかと思うような鋭く冷たい女性の声と、笑いを含んだ柔らかい男性の声が同時に聞こえ、エリィは顔を上げた。
「状況を見ろ真壁!そんなことしてる余裕はないっ! しかもエリィちゃんは幼女じゃないぞ!」
「あの方がローズさんと真壁さんですか?」
「そうだよ。 あの、美人なのにキツイ喋り方するのが玉に瑕なのがローズ、あっちの見るからにふざけたヤツが真壁」
「なに呑気にお喋りなんてしてるの!? 少しは手伝おうって気にならないの!?」
 二丁銃を巧に繰りながらローズが顔を顰める。真壁が煙草を吸いながら ――― 見た目は高校生のようなのだが、どうやら成人しているようだ ――― やる気がなさそうに引き金を引くが、確実にキメラに当てている。
「俺、非戦闘員だから」
「‥‥‥そうだったわね。格闘技だけなんて、使えないわ! そっちの女の子は!?レナが用意した子じゃないの?」
 エリィは彼女達を助けに来た身である以上、率先してキメラと戦わなくてはならない。頭がどれほど混乱していようとも体は反射的に動き、既に銃を構えて引き金を引こうとしている。
 重たい反動に耐えながら引き金を引き続けるエリィの頭の中では、様々な疑問が絡み合い、渦を巻いていた。
(エレベーターからここまでは、分かれ道はないはず。つまり、ローズさんも真壁さんもあたしと恭一さんが通った部屋のどれかにいたはずだよね? あたしと恭一さんはお喋りしながら歩いてたし、ここは静かだから声が良く響く。部屋にいたなら、気づくはずなのに‥‥‥)
 勿論、エリィ達だって部屋の中にいれば気づいただろう。 部屋は悲惨な有様だったし、部屋の奥に扉があるというようなこともなかった。もしあれば、恭一が一言言っていただろう。
(それなのに、どうして気づかなかったんだろう)
 まるでローズと真壁が隠れていたようだ―――。 そう考え、エリィは首を振った。助けてもらおうとしている人が、どうして隠れる必要があるのだろうか? きっと恭一が言い忘れたのだろう。どこかボンヤリしているところもあるし、こんな非常時なのだ、気が動転して言い忘れてしまっても何もおかしなところはない。
(恭一さんと言えば、本当に非戦闘員なのかな‥‥‥)
 マガジンを入れる時のもたつき方からして、銃に扱いなれているようには見えなかった。けれどもキメラの攻撃を避けた時の身のこなしや、エリィを庇った時の様子からして、このような状況に慣れているようにも見える。
(格闘技をやっているって言ってたから、きっとそれで動きが良いんだよね‥‥‥)
 そう納得をしてみるものの、どこか腑に落ちない。
 前後からの集中砲撃にキメラがついに床に落ち、紫色の液体 ――― ここに来て初めてエリィはそれがキメラの“血”である事に気づいた ――― を流しながら痙攣する。 真壁が煙草を床に捨てると足で踏みつけ、止めの一撃をキメラの頭に向けて放つ。
「随分頑丈な作りだけど、これ何と何のキメラなの?」
「私は知らないわよ。 真壁は?」
「俺も知らないな。 でも、No397の成功個体じゃないのか? 一度見た事あるな」
「この研究所で作られたキメラじゃないんですか?」
 キメラの死骸の隣を通りながら、エリィが口を開く。 恭一がローズと真壁にエリィを紹介し、習慣でつい頭を小さく下げてしまう。
「このキメラはここで作られたものに間違いないけれど、残念ながら私達は幾つかのチームに分かれているの。互いの仕事には干渉しないようにしているのよ」
「俺達は“Kプロジェクトチーム”なんだ。 俺と真壁、ローズとアルも同じチームなんだ」
「恭一さん達は、どんなキメラを作っているんです?」
「少なくとも、こんな簡単に逃げ出せてしまうような場所には入れていないわ。 だから、貴方の欲しがっている情報は出せないわ」
「暴走しているキメラが何体いるのかも正確には分からないし、キメラの個体番号も分からない。個体番号が分かればシステム内から能力とかの情報を得る事が出来るんだけどな」
 まるで心の内を見透かされているような返答に、エリィは思わず身構えた。
(確かに、暴走しているキメラの能力とかが分かれば脱出の際とか、遭遇した時に有利になるかなとは思ってたけど‥‥‥)
 今までの会話から、エリィがそう思っている事を推理する事が出来るだろうか? ――― 不可能ではない、とは思う。この研究所で作られたキメラではないのかと言ったあの一言からエリィの考えを想像する事が出来ないわけではないだろうが、それにしても自分の考えを読まれるのはあまり気分の良いものではない。
 ローズと真壁の切り返しばかりに気が向いていたエリィは、彼らが上手くプロジェクトの内容に関しての話題を避けた事に気づかなかった。
「恭一、上には確かアルと卜部がいたはずよね。2人はどうしたの?」
「B1に残ってるよ。システムの復旧を頑張ってるみたいだよ」
「その頑張りのお陰で廊下の電気がついたってわけだな」
「‥‥‥廊下の電気、消えてたの?」
「あぁ、廊下だけな。 廊下だけ別のところで管理してるだろ?」
「それで恭一、B2には行ってみたの?」
「いや。 エリィちゃんが来る少し前まで、こっちはB1のキメラ退治で大変だったんだ。ここと一緒だよ」
「そう‥‥‥。 それじゃぁ、早いところB2に行ってみましょう。エリィさんも、それで良いわよね?」
「それで良いんですけど‥‥‥。 皆さん、今回の暴走原因を作った研究員やその薬について、何か知りませんか?」
「その薬を持って来る事も言われたのか?」
「正規の依頼とは別枠で、ですけれど。 その薬の回収と、キメラの暴走原因を作った研究員も探し出したいんです」
「残念だけど、知っていることは何もないわ。 それに、もうその研究員は死亡しているでしょうね。B3は見まわれるところは見てみたけれど、生存者はいなかったわ」
「見まわれなかったところもあるんですか?」
「実践室には入れないんだよ、エリィちゃん。 実践室だけはシステムの書き換えが出来ないようになっているんだ」
「どうしたら入る事が出来るんですか?」
「とりあえず、お嬢ちゃんのその格好じゃ無理だな」
「格好?」
「特別な武器が必要なのよ。 本来ならきちんとした場所に保管されているんだけれど、鍵が破られていたわ。この混乱の中だから、きっと誰かが持って行ってしまったのね」
「キメラを暴走させる薬なんて、そもそも持ち帰らない方が良いと思うしね。‥‥‥何に使われるのか、分かったものじゃないし」
「恭一、余計なお喋りをしてないで早くB2に行ってみましょう。 蛍の救出は当然依頼されたはずよね? 他にはどんな依頼をされたの?」
「ローズさん、恭一さん、蛍さんの救出と“B−violet”の完成品、それから研究所の封鎖です」
「そうそう、ローズ鍵持ってる?」
「えぇ。持ってるわ。もう1つは卜部が持っているはずよ」
「卜部が? あいつ、そんなこと言ってなかったのに‥‥‥」
「B2から最初に行く? それともB−violetの完成品から取りに行くの?」
 ローズの問いに、エリィは散々悩んだ後で蛍の救出を選んだ。 B−violetは待っていてくれるだろうが、蛍は時間が経てば経つほど生存している可能性が低くなるだろう。命と薬ならば、命をとるのは当然だ。
「B2に行って爆弾仕掛けてB1に行って爆弾仕掛けて、最後にこっちに戻ってきて爆弾仕掛けて‥‥‥って、手間だろ? お前らが上に行ってる間、B3のフロアに俺が仕掛けておこうか?」
「いいえ、ここで別れたら ―――」
 真壁が1人の時にキメラと遭遇した場合、エリィ達は助けに駆けつける事が出来ない。 確かに彼の言う通りこの人数で動く事はあまり賢いやり方とはいえないかも知れないが、万が一の事を考えれば時間をかけてでも確実な行動を取りたい。
「そうね。その方が良いわ」
「でもローズさん、もしも真壁さんが1人の時にキメラの襲撃を受けたら危険です」
「‥‥‥少なくとも、恭一を一人でいさせるよりは安全だわ」
「それはそうですけど‥‥‥」
「真壁なら大丈夫よ。エリィさんもさっき、この人の銃の腕前を見たでしょう? それに、真壁の1人や2人、いなくなってもどうって事ないわ」
「言ってくれるなローズ。 俺がいなくなってから泣いたって遅いんだぞ?」
「馬鹿なこと言ってる暇があるなら、さっさと行動に移ってくれない? お気に入りのバッグに傷がついて涙ぐむ事はあっても、貴方がいなくなったから泣くなんて絶対にありえないわ。何故なら、貴方は私にとって、いてもいなくてもどっちでも良い人間だからよ」
(うわぁ‥‥‥本当にローズさんってきつい性格なんだなぁ‥‥‥)
 言葉が帯びる異常な冷たさと、軽蔑しきったようなローズの瞳は、その言葉が真実だと言う事を告げていた。
 冗談で言っているならまだしも、心の底から言っている人は滅多にいない。 こんな言葉を投げつけられた真壁は精神的にダメージを受けていないだろうかと心配になってチラリと見やるが、ローズと同じプロジェクトに携わっている彼は彼女の扱いを心得ているらしく、肩を竦めただけでそれ以上は何も言わなかった。
「馬鹿は放っておいて、エリィさんに恭一、早速B2に行きましょう。 ‥‥‥蛍がまだ生きていると良いんだけれど」
 エレベーターに乗り込み、恭一がクローズと簡単な会話をしているのを聞き流しながら、エリィはローズをじっくりと、けれど不躾にならないように気をつけながら観察した。
 背中の真ん中辺りまで伸びた金色の髪、端正な顔立ちは冷たく、華奢な手足とは反するように胸元にはボリュームがある。 金色の髪と端正な顔の作りはレナを思い出させるが、お人形のように華やかで愛らしいレナに対して、ローズは大理石で出来た彫刻のように強かで美しい。
 ふわふわと掴み所のない無邪気さの中に狡猾さを潜ませたレナとは違い、ローズは全身から他者を拒絶するかのような孤高さを発している。どこまでも真意の知れないレナよりも、決して自分の内部に人を入れないながらも偽り着こんで武装している様子のないローズに好感を覚えた。
 エレベーターはすぐにB2に着き、ローズとエリィが銃を構えて扉が開くのを待つ。 勇敢な女性二人の背後では恭一が所在なさ気に立っており、白衣のポケットに手を突っ込んで壁にもたれかかっている。
 薄く開いた扉からは薄ボンヤリとした廊下が見え、どっと血の臭いが流れ込んでくる。 恭一が「うっ」と息を詰め、ローズが細い眉を不快そうに顰めると溜息をついた。
「酷い‥‥‥」
 血溜まりにうつ伏せになって倒れる人人人人人 ――――― そんな状況を前に、エリィは思わずそう呟くと唇を噛んだ。
 エリィと同じか、少し若いくらいの少女が壁にもたれかかり、虚ろな瞳で虚空を見つめている。腹部に出来た大きな切り傷からは鮮血が流れ、床に溜まっている。恭一と同じくらいの歳の男性は背中を大きく切られており、彼の下には小さな女の子が折り重なるようにして倒れている。
「マテリアルは、武器を持つ事が出来ないの。だから、逃げ遅れた人は殆ど抵抗が出来なかったに違いないわ」
「ここにも当然研究員がいて、彼らは武器を持っているけれど‥‥‥ほとんど俺と似たり寄ったりの腕前のヤツラばっかりだ。超人的な身体能力を持つキメラの前では、手も足も出なかったと思う」
 蛍光灯が点滅し、廊下が真っ暗になる。 ふわりと前方から風が吹き、エリィは素早く銃を構えると暗がりに照準を合わせた。
 ぴちゃん、ぴちゃん‥‥‥
 湿った足音は確実にこちらに近付いて来ており、エリィはローズと恭一を下がらせると前に出た。 蛍光灯が息を吹き返すかのように点滅し、明るくなる。
 ぴちゃん ―――――
 廊下の先に現れたのは、銀色の髪にピンク色の瞳をした少女だった。 小さく華奢な体に似つかわしくない大きな銃を両手に持ち、真っ白なワンピースを赤と紫の斑に染めながら虚ろな瞳でこちらを見ると構えていた銃を下げた。
「あの子が蛍、ですよね?」
「えぇ、そうよ。 蛍、他のマテリアルや研究員はどうしたの?」
 ゆっくりとした足取りで廊下に倒れる人を避けながら近付いてくる蛍は、抑揚のないトロリとした声でローズの質問に答えた。
「死んだの。皆」
「そう‥‥‥。 貴方はよく生き残ったわね」
「近衛さんが銃をくれたから」
「‥‥‥銃の訓練をしておいて良かったな、ローズ。 確か、連絡が途切れる前までは他に何人かマテリアルが生きていたと思うけど?」
「自ら死を望んだ者もいた。自ら破滅を選んだ者もいた。絶望に負けた者もいた」
「それ、どういう意味なの?」
 エリィの前まで来た蛍が、持っていた銃を差し出した。 ピンク色の瞳が受け取ってと言っているようで、エリィは手を伸ばした。銃に触れた途端、ぬめりとした何かが手につき、思わず掌を見る。赤と紫が混ざり合った液体は、どこまでも不気味な色をしていた。
「可愛がっていた友達に殺される事を選んだ者、研究員が持っていたB−violetを自ら打った者、自ら命を断ち切った者」
「B−violetを自分で注射したマテリアルがいるのか!? それで、そのマテリアルは‥‥‥!?」
「失敗したの」
「そんな‥‥‥」
 失敗の2文字で片付けられた命を思い、エリィは口を開きかけた。しかしそこからは何か良い言葉が出てくるわけでもなく、心の奥に奇妙な靄を抱えたまま閉じざるを得なかった。
「それで蛍、キメラは全部キミが倒したの?」
「近衛さん、他の研究員、皆が頑張ってくれたの。蛍だけじゃないわ。それに、全部は倒してないわ。閉じ込めたりしたの」
「そう‥‥‥。 蛍、貴方全部の部屋を回ってみた?」
「見てないわ」
「それなら、もしかしたらまだ生き残っているマテリアルがいるかも知れないわ。どこかに隠れているとか」
「そうですね。 探してみましょう」
「えぇ。私が探すわ。 エリィさん、貴方は蛍と恭一を連れてB1に行っていてくれない?」
 ローズの一言に、エリィは大きく首を振った。銀色のツインテールがブンと宙を切り、すぐ傍にいた恭一が慌ててその攻撃を避ける。
「まだキメラもいるんですよ!?1人で行くなんて、そんなの危険すぎます!」
「蛍と恭一を連れて行くよりは安全だわ。 爆弾も仕掛けなくてはならないし、恭一と蛍がいては足手まといになる」
「それはそうですけれど、ローズさん1人では‥‥‥」
「動いてる」
 蛍の一言に、他の3人が彼女を振り返った。 小さな彼女は首を大きく反らして上を向いており、その視線を辿ればB1・B2・B3の文字が見えた。エレベーターが現在どの位置にいるのかを示しているそのオレンジ色の光りは、B2の上で点滅するとB1の上に切り替わった。
「真壁さんがB1に行かれたんじゃないですか?」
「真壁? 真壁は、もう‥‥‥」
「ケイのことだよ、蛍」
「ケイ? それなら、おかしい」
「何がおかしいんです?」
「だって、ケイは一人では‥‥‥」
「なんだか、嫌な予感がするわ」
 蛍の言葉を遮って、ローズがそう言うと暗い顔をエリィに向けた。
「嫌な予感、ですか?」
「えぇ。 だって、もしも真壁が乗っていたとしたなら、どうしてこの階を通り過ぎたの?」
「もうあたし達がB1に行ったと思っていたのかも知れませんよ」
「それはないわ。 せめてB2に来て、様子を見てからB1に行くくらいの事はするわ、あの人なら」
「‥‥‥エリィちゃん、すぐにB1に行ってみよう。卜部がいるから大丈夫だとは思うけど、なんだか俺も嫌な予感がするんだ」
「この階の事は任せて。 鍵を渡しておくから、B−violetはお願いね」
「あっ!ローズさん!」
「B3で会いましょう」
 止める間もなく走り去って行ったローズの背中が廊下の先に消える。 蛍光灯が三度点滅し、ゆっくりと光を失った。
「エリィちゃん、急ごう。 俺のこう言う勘は、よく当たるんだ」
「‥‥‥えぇ‥‥‥」
 B1に止まっていたエレベーターを呼び出す間、エリィは奇妙な違和感に唇を噛んだ。
(何かがおかしい‥‥‥何か、あたしの知らない事が起こっている気がする‥‥‥)
 B1に残ったアルフレッドと卜部、B3に残った真壁、そしてB2に残ったローズ。この惨状の中生き残った蛍、突然動き出したエレベーター、蛍の言葉を遮った恭一とローズ。
(蛍はあの時何を言おうとしていたのかな?)
 “真壁? 真壁は、もう‥‥‥”
 “だって、ケイは一人では‥‥‥”
「エリィちゃん、エレベーターが来たよ」
 半ば強引に思考を断ち切られたエリィは、エレベーターに乗り込むと壁に背を預けた。
 その時クローズの声がしなかったことに、エリィは気が付かなかった‥‥‥。



 エレベーターがB1に着き、最初に飛び込んできたのは壁につけられた真っ直ぐな赤い線だった。線の端を辿れば掌の形になっており、そこから暫く真っ直ぐに進んだ後で床に崩れ落ちていた。線が途切れた下には黒髪の男性の姿があり、白衣が真っ赤に染まっている。
「卜部だ!」
 恭一が駆け出し、エリィが止めようとした瞬間、重たい銃声が響いた。 咄嗟に蛍を腕の中に庇い、上空を通り過ぎて行ったものを横目で確認する。オオカミのような硬い毛に、蛇のように長く伸びた舌、手は大きく変形しており、鋭い爪は壁を引っかいて大きな傷を作っている。
「アル!これはどう言う事なんだ!?」
「事情は後で説明する! 恭一、機密管理室の鍵は!?」
「エリィちゃんが‥‥‥」
「もう弾薬がつきかけてるんだ。管理室にならあるだろう?」
 虎のような唸り声を上げるキメラに、アルフレッドが続けて弾丸を撃ち込む。 慣れていないのか、照準はあまり定まっておらず、キメラには一向に当たらない。
 2mはあろうかと言う大型のキメラを前に、エリィの拳銃では心もとない。刃渡りの長いナイフを持ってはいるが、エリィのナイフがキメラに届くより早く、爪がこちらに届いてしまうだろう。
 エリィはローズから渡されていた鍵をアルフレッドに投げると、蛍の手を掴んだ。恭一がすぐに蛍を抱き上げ、エリィは走りながら後ろを振り向くと引き金を引いた。 弾はキメラの足を掠めたが、紫色の血が少し飛んだだけでダメージは少なそうだった。
「エリィさん! これを!」
 アルフレッドがショットガンを投げ、エリィはそれを受け取ると間近に迫っていたキメラの腹部に向けて引き金を引いた。弾は見事に命中し、キメラが数m後方に吹き飛ばされる。 あれだけのダメージを負ったのだからもう立ち上がれはしないだろうと思ったのも束の間、キメラはむっくりと起き上がると大きな声を上げて吠え、先ほどとは比べ物にもならないほどの速度でこちらに走って来た。
 右へ左へと壁を蹴ってジグザグに走りこんで来るキメラを前に、上手く照準がつけられない。 仕舞いには弾薬がつき、引き金を引いてもカチっと言う虚しい音が響くだけになった。
(どうすれば‥‥‥)
 焦るエリィの背後ではアルフレッドと恭一が素早く機密管理室の扉を開け、エリィの名前を呼んだ。 キメラはあと2歩か3歩でエリィに届くかと言うところまで近付いていたが、俊敏さにかけてはエリィも負けてはいなかった。素早くキメラに背を向けて走り出すと機密管理室の扉の中に滑り込んだ。
 アルフレッドと恭一が扉を閉め、蛍が鍵を掛ける。 向こうからキメラが体当たりをし、扉が大きく揺れたが頑丈で厚い扉が破られる事はなかった。
「し‥‥‥心臓が止まるかと思った‥‥‥。何だよあのキメラ。俺、はじめて見たぞ!?」
「確か、あれはNo1897だと思う。 戦闘能力は高かったけれど、危険性はなかった」
「だろうな。そうじゃなきゃ、途中で処分されてる」
「それでアルフレッドさん、これはどう言う事なんですか?」
「卜部が‥‥‥メインコンピューターを操作して、エレベーターの条件を書き換えた。キメラを乗れるようにしたんだ」
「卜部が裏切ったって事か?」
「‥‥‥あぁ。 きっとキメラ暴走化の薬を作ったのも卜部だ」
「どうして卜部さんが‥‥‥!?」
「ここには、好きでいるやつと理由があっているやつがいる。大抵は後者で、卜部もその1人だった」
 恭一が溜息混じりにそう呟き、管理室の奥の棚に並べられていた頑丈そうな箱を取り出すと、隣のガラス張りの棚の中から赤い液体の入ったビンを出して中に詰めた。
(きっとあれがB−violetの完成品なんだ‥‥‥)
 毒々しいまでに赤い色をした液体から目を逸らし、エリィはこの部屋からどうやって出るべきかを考えた。 外にはあのキメラがまだいるだろうし、爆弾も仕掛けなくてはならない。
(この際、爆弾は仕掛けずに脱出を優先させた方が良いかも。 でも、脱出するにしたって。キメラはどうにかしなくちゃならないし‥‥‥)
「アルフレッドさん、恭一さん、暴走したキメラを止める方法ってないんですか?」
「暴走化の原因になった薬を分析できれば方法が見つかるかも知れないけど、薬がないんじゃなんとも言えない」
「もしかして、その暴走化の原因になった薬を作ったのも、卜部さんなんじゃ‥‥‥」
「否定は出来ないな。 でも、卜部だったら尚更、証拠は残しておかないだろう」
「恭一、俺、思うんだけど‥‥‥。今回、全てのキメラが暴走したわけじゃなかっただろう?見つけた時に既に死亡していたキメラもいたってローズと真壁が言ってたし」
「あぁ、それが?」
「暴走したキメラって、マテリアル時に何らかの特徴があったんだと思う。No1897にしても、No986にしても、マテリアル時の実験結果に若干の異常が見られてた。それは肉体的のものだったり、精神的なものだったりしたけど、平均から外れていたように思う」
「興味深いな。 数値異常とマテリアルの暴走は密接な関係にある事が言われているが‥‥‥その点と今回の事の間にも何か関係があるのかも知れない」
(そう言えば、蛍って暴走とかしないのかな‥‥‥)
 確か蛍にはPLの能力があると聞いた。 もしその能力がこんな密室の中で爆発したら、大変な事になる。
 エリィのそんな心配を感じ取ったのか、蛍が自身の胸に手を当てると軽く首を振った。 キメラと人の血で無残にも着色された髪は、それでもサラリと音を立てて可憐に揺れた。
「蛍の暴走する可能性がある危険因子はもうないの。 ‥‥‥蛍の中には、もうないの」
「さぁ、B−violetは詰め終わった。 一応入れられるだけ入れたけど‥‥‥それで、どうする?」
 箱の中には6本のビンが詰められており、恭一が箱を閉めると鍵を閉めた。鍵はズボンのポケットに入れ、赤と紫に染まった汚れた白衣を脱ぎ捨てる。
「外から音はしなくなったけど、まだいるよね、きっと」
「もしくは、諦めて他の階に行ったか。‥‥‥待てよ‥‥‥No1897はそんなに知能指数が高かったか?」
「いや。普通の獣と同レベルだよ。‥‥‥そう言えば、ローズや真壁の報告を聞くに、キメラは扉を開けたりしていたみたいだけど」
「知能も上がるのか。‥‥‥厄介なものを作ってくれたな」
 ヤレヤレと言った様子で首を振り合う呑気な研究員二人を前に、エリィは全身の血液がザァっと引いていくのを感じた。
(もし、あのキメラがエレベーターに乗れるんだとしたら‥‥‥ローズさんや真壁さんが危ない!)
 機密管理室の壁には丸時計がかけられており、時計は狂うことなく正確な時刻を刻んでいる。 ローズと別れたのがいつだったのかは分からないが、感覚からして30分以上は経っているだろう。
「ローズさんと真壁さんが心配です。 すぐに降りましょう」
「ローズや真壁ほどでないにせよ、僕も一応銃の訓練は受けたから、手助けくらいなら出来るよ」
 アルフレッドが銃を構え、恭一が慎重に鍵を開ける。いつキメラが飛び込んできても良いように銃を構え、扉を蹴り開ける。 扉に何かが当たり、ドサリと崩れ落ちるのを聞きながら、エリィは銃口を床の上に崩れた白いものに向けた。しかしそれが何なのかを確認すると、エリィは慌てて銃を下ろした。
「ろ、ローズさん!?」
「いたたた‥‥‥何するのよ! もうっ! いった‥‥‥」
「どうしてローズがここに!?」
 肩を打ったらしく、痛みに顔を顰めながら床に座り込んだローズをアルフレッドが起こす。 素早く廊下を見てみるが、キメラの姿も真壁の姿もない。
「B2の見回りと封鎖の用意が出来て下に行ったのよ。暫くしたらエレベーターが動いて、中から卜部の死体を持ったキメラが出てくるじゃない。もう、驚いたわ‥‥‥。真壁がNo1897の事はよく知っていたみたいで、キメラの急所を狙って何とか倒したのは良いんだけれど、あのレベルのキメラになると急所を狙わないとなかなか倒せないじゃない? それに、あんな卜部を見たら‥‥‥ねぇ? だから、心配になって見に来たのよ」
 そしたら誰もいないし、機密管理室にいるんじゃないかと思って行ってみたら突然扉が開くし、銃は構えてるし、散々だわ。肩も痛いしお尻も痛いし、心配なんてするんじゃなかった ―――
 ローズの延々と続く愚痴を聞き流し、エリィは俯くと目を閉じた。
(やっぱり、あたしの知らない何かが起こってる‥‥‥。 何だろう、分かりかけているのに、分からない。情報が全て揃っていないのもあると思うけど、でも、今までの中から何か掴み取れるはず。何だろう、何がおかしいんだろう‥‥‥)
 卜部の死体を持ったままエレベーターに乗ったキメラ、キメラの急所を知っていた真壁、心配になってきたと言うローズ‥‥‥全ては綺麗な流れを持っているようにも思う。
「B1にも仕掛けて、早いところ外に出ましょう」
 ローズがエリィに手を差し出し、半ば無意識にその手に爆弾を渡す。 ローズが颯爽とした足取りで歩いていき、手早く爆弾を取り付ける。アルフレッドが何かを喋りながら彼女の隣に立ち、蛍がエリィの服の裾を引っ張ると首を傾げた。
「何か、考え事?」
「うん、少し‥‥‥。 そう言えば恭一さん、キメラに急所ってあるんですか?」
「あぁ。急所って言うか、繋ぎ目だよ。見た目には分からないものだけどね」
「恭一さん、何かあたしに隠していることってありませんか?」
 恭一がエリィの言葉に顔を歪める。 一瞬だけのその表情は、今まで見て来た恭一の穏和な表情とは違い、冷たく拒絶するような色を含んでいた。
「例えば、何を?」
「‥‥‥今回の事に関して、何かを」
「そんな曖昧な質問じゃ、答えられないよ」
 何かがおかしいのに、それが何なのか分からない。 そのもどかしさに、エリィは唇を噛んだ。
 B1に爆弾を仕掛け、B3の真壁と合流して下水から脱出する間、エリィはずっとその“何か”について考えていた。


* * *


 あの不可思議な夜を過ぎてから丁度一週間後、エリィはレナと夕食を共にしていた。 会員制と言うだけあり、舌の上でとろける肉や刺身は文句なしに美味しかったが、エリィの心にはまだしこりが残っていた。
(あの時、確かに何かが起こっていた。全ては計算された事だった‥‥‥)
 きっとあの中にいた誰かが作った物語だったのだと思う。あの時の表情からして、恭一はきっと物語を作っていた方だろう。けれど、彼だけじゃなく、他にも誰かいたに違いない。
 もう一度、あの夜の出来事をなぞる。 B1で出会ったアルフレッドと恭一、B3で出会ったローズと真壁、キメラ、B2では蛍と出会い、B1に行けば卜部がキメラに殺されていた。機密管理室から持ち出した薬、様子を見に来たローズ、恭一のあの表情‥‥‥。
「今回は私達が望んだ以上の成果を出してくれて有難う、エリィさん」
 レナがさらさらと小切手に金額を記入し、裏返してそれをエリィの方へと滑らせる。エリィは手元まで来た小切手を直ぐに裏返して金額を確認するようなはしたない真似はしなかった。ただテーブルの端に置き、膝の上で手を組むと顔を上げた。
「研究所も綺麗に爆破されていたし、お見事だったわ。どこに仕掛ければ上手く崩れるのかを知っているのね」
「いえ、あれはローズさんと真壁さんが仕掛けてくださったんです。B1とB2はローズさん、B3は真壁さんが」
「‥‥‥真壁?」
 レナの顔から笑顔が消え、眉を顰めると首を傾げる。
「真壁って、どの真壁なの?」
(確か、真壁さんの下の名前ってケイだったよね。蛍が恭一さんに聞いた時、ケイって答えてたし‥‥‥)
「真壁ケイさんです」
「そんな人、うちの研究所にはいないわ」
「え‥‥‥?」
「あの研究所から生きて帰って来れたのは、駿河谷・恭一、蛍、ローズ・ソフィー、アルフレッド・ブラウンの4名よ」
「そんなはずありません!だって、事実真壁・ケイさんと言う方が‥‥‥」
「真壁と言う研究員がいたことは確かよ。真壁・陽一。でも、彼は既に亡くなっているの。 エリィさんも知っていると思うけれど、あの研究所では以前マテリアルの暴走が起こったのよ。その時に亡くなったの」
「じゃぁ、あの人は誰なんですか‥‥‥?」
「ねぇ、エリィさん。1つ聞いても良いかしら? その真壁・ケイと言う人物は、エレベーターに乗った?」
 何でそんな事を聞くのだろうか。 エリィはそう思いながら首を振った。確か、真壁は一度もエレベーターに乗らなかったはずだ。
 レナはエリィの答えに満足したのか、息を吐き出すと口元に笑みを浮かべた。
「あの研究所にあるエレベーターは、B1で条件付けをする事が出来るの。普段はレベル3に設定してあるんだけれど、緊急時にはレベルの引き下げや引き上げをする事が出来るわ。 一番レベルの低い1は、マテリアル・キメラが研究員と同伴していなくても乗る事が出来るレベルなの。クローズをオフにすればレベル1に出来るの。けれど、1体のキメラに関してはいかなる時であろうともエレベーターに乗ることは出来ないの。つまり、B3から動く事が出来ないのよ」
「そのキメラって言うのは、もしかして‥‥‥能力者の‥‥‥」
「そう。ケイ‥‥‥“Kプロジェクト”で生み出されたキメラよ。 ケイはキメラ完成後、実験中に死亡したと聞いていたけれど‥‥‥やっぱり、あの報告は嘘だったのね」
 クスクスと笑いながら、レナがワインのグラスを回す。 クルクルと回る赤い液体は、エリィに機密管理室で見たB−violetを思い出させた。
「真壁さんがケイと言うキメラだったとして、それが今回の事にどんな意味を持つんです?」
「とても重要な意味を持つわ。 良い、エリィさん、ケイはキメラなのよ?」
 エリィの脳裏に、アルフレッドの言葉が蘇る。
 “今回、全てのキメラが暴走したわけじゃなかっただろう?見つけた時に既に死亡していたキメラもいたってローズと真壁が言ってたし”
「そう、あの研究所内にいたキメラは、暴走するか死亡するかしていたの。ケイ以外は全て」
「どうしてケイさんは無事だったんでしょう? 薬を打たれなかったからですか?」
「打ったか打たないかは分からないけれど、でも‥‥‥私は打ったと思うわ。キメラの暴走化の際、身体能力が上がり、知能もあがっていたと言う報告を受けているから」
「それなら、どうしてケイさんだけ‥‥‥。もしかして、ケイさんが能力者だったからですか?」
「キメラ暴走化の薬が、ケイをベースにして作られたものだからかも知れないわ。ケイの一部‥‥‥血液を使って作り上げた可能性もある」
「ケイさんの血液を使って薬を作ったのは‥‥‥」
「卜部でないことだけは確かだわ。 卜部はKプロジェクトのチームじゃないもの」
「それじゃぁ、卜部さんは‥‥‥あの時‥‥‥」
 卜部がキメラ暴走化の薬を作ったのでなければ ――― あくまであの研究所の一研究員としてあの場にいて巻き込まれただけならば ――― 彼がB1にキメラを呼び寄せる理由があるはずがない。
「アルフレッドさんがエレベーターのレベルを書き換えたんですね。そして、卜部さんはキメラに‥‥‥」
「ねぇ、エリィさん。1つ不思議な事があるんだけれど‥‥‥どうして薬を5個なんて中途半端な数で持ち帰ったの?」
「え?」
「あのケースには6個入れられたはずよ。恭一は急いでいたからと言っていたけれど、本当なの?」
「まさか! あたし、ちゃんと6個入っているの見ましたよ!赤い液体の入ったビンが、6個きちんと!」
「赤い液体‥‥‥? B−violetは紫色の液体のはずよ。キメラの血液と同様、紫色の‥‥‥」
 それでは、エリィが見たあの赤い液体は何だったのだろうか? 幻?見間違い? ――― きっと、アレがキメラを暴走させるための薬なのだと、エリィは悟った。
「とんだ茶番に付き合わされたものね。貴方も、私も」
 レナがクスクスと笑いながら立ち上がり、エリィの前に置いてあった小切手を取ると破いた。 呆気に取られるエリィの前でハンドバッグを開け、新たに小切手を作ると今度は金額の書かれている方を表にしてテーブルの上に置いた。
 普段よりもゼロが1つ多い金額に驚きながら、もう一枚出された紙に視線を滑らせる。携帯電話の番号の下には、レナのサインが綺麗な筆記体で書かれていた。
「貴方とは、また是非お会いしたいわ」
 艶やかな笑顔をエリィに向け、ヒラリと手を振ると歩き出す。 背筋のピンと伸びた後姿を見送っていた時、不意にレナが振り返ると目を細めた。
「凶暴化する薬の作用でキメラの知能が高くなったって扉を開けたり、エレベーターに乗ったり出来たそうね」
「あたし達もエレベーターに乗ってB1に上がったキメラに襲われました」
「‥‥‥キメラがエレベーターに乗るなんて、おかしいと思わない? しかも、一人でなんて」
「でも、実際にB2にはキメラの襲撃を受けた後がありました」
「‥‥‥エリィさん、貴方、卜部が生きている姿は見ていないのよね?」
「それが何か?」
「もし、貴方が到着する前に既に卜部が死んでいたとしたら?」
「でも、エレベーターに乗った時、クローズはB1に生存者が2人いると言ってました」
「生存している個体が2体いると言ったんでしょう? ‥‥‥それが、貴方達を襲ったキメラの正体かも知れないわ。B2の襲撃だって、誰かが先導した可能性がある」
「‥‥‥何のために、そんな事を‥‥‥?」
「無事にケイを連れ出すため‥‥‥いいえ、Kプロジェクトを完成させるため‥‥‥きっとそうだわ」
「プロジェクトの完成って、どう言う事です?」
「最強のキメラを完成させることよ。 最強の戦闘能力、最高の知能、最強の能力、自己再生能力、不老不死 ――― きっと、あの人達は私を狙ってくるわ」
「どうしてレナさんを狙う必要があるんです?」
「‥‥‥彼らが目指しているものの一つを、私が持っているからよ」



END


◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 5588 / エリィ・ルー / 女性 / 17歳 / 情報屋