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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 前編】



真っ黒な壁。
闇の中に閉じ込められているみたいだと城ヶ崎竜子は思った。

薔薇の花びらが。

とめどなく降り注いでいる。
金色の髪が風もないのに揺れていた。

かさかさに乾いた唇が微かに震える。
竜子の首に縋り付いているのは、灰色の王様。
本来ならば玉間となっている部屋は、「出口も入り口もない」部屋、大きな正方形の箱へと変化を遂げていた。

「ベイブ…ベイブ…いい子だから、放しておくれよ…。 あたい、誠を助けに行かなきゃなんねぇんだ」

真っ白な髪を優しく撫でながら竜子は子供に言い聞かせる母親のような口調で言う。
ベイブは何も答えないまま、竜子の体に抱きついて動かない。
ゆっくりとその頭を撫でながら竜子は、泣き出したいような気持ちになった。

いや、実際泣いたのだ、何度も。

ベイブと一緒にこの箱に閉じこもり、一体どれだけの時間が経ったというのだろう。
黒須が、中国系マフィアのK麒麟に攫われた。
まだ、ベイブの状態が此処まで酷くなく、白雪によって黒須の現状を知る事が出来ていた時は、まだ、対策を練る余裕があった。
だが、ただでさえ、普段から正気と狂気の間を行ったり来たりし、竜子と黒須の存在で辛うじて、理性を保っていたベイブのか細い神経は、突如前触れもなく、呆気ない程に壊れた。
当然、彼の精神状態を反映して様相を変える、「千年王宮」も狂った姿へと変貌し、竜子はこうして、彼の心に閉じ込められた。
ベイブの精神状態を快方に向かわせる為には、どうしても黒須の存在が必要不可欠だし、完全にベイブが壊れてしまえば、千年王宮自体が崩壊し、王宮に住む無数の住人が現実世界へと流れ出て深刻な影響を日本、もしくは世界にすら与えるかも知れない。

未だ18の少女である竜子の肩に乗っている使命は余りに重く、辛い。

竜子は自分で自分の体を抱きしめて、小さく小さく呟いた。

「誰か 助けて」

ポロリと閉じた瞼から小さな雫が転がり落ちる。

その瞬間、竜子は背後から優しい腕に抱きすくめられた。

「オーケィ。 女王様。 手を貸してやるよ」

息を呑む。
薔薇の花びらが、竜子の肩に、首に、頬に滑り落ち、その花びらの愛撫を遮るように、道化師が竜子の顔を覗きこんだ。

「ハロー? ハロー? ハロー? ご機嫌はいかが?」

道化師は笑って、ベイブの様子に視線を走らせる。

「あーあー、酷い様子だ。  ジャバウォッキーはいない。 ベイブはこんな状態。 女王様は、お疲れのご様子。 誰が、私と遊んでくれる? さぁて、さて、どうしようかねぇ?」

この部屋にどうやって入ってきたかなんて事、もうどうだって良かった。
竜子は悲鳴のような声で「助けてくれ!!」と叫ぶ。
道化師は、目を眇め、そんな竜子を見下ろして「ま、ガラじゃないんだがねぇ」と言った後、ついと、正面を見据えた。
「それでも、私は、こう見えて結構フェミニストなんで、女の子の泣き声っつうのは我慢ならないんだ」

その瞬間、黒い壁に細い隙間が生じる。
ズ、ズズズと開く壁の無効から白い光が差し込んだ。
次の瞬間「ベイブ様!!」とベイブの名を呼びながら転がり込んでくる少女が一人。
真っ白な肌、真っ白な服、白雪が一目散にこちらに駆け寄ってきた。
この部屋の外側から、なんとか此処に入ろうとしていたのか、その爪は剥がれ、指先が血だらけになっていた。
「ベイブ様! ベイブ様ぁ!!!」
何度も繰り返し名を呼びながら、膝をつき、泣き伏してベイブの体に取りすがる白雪に、竜子は掠れた声で「外の状況は?」と問い掛けた。
「城の連中はどうしてる?」
その言葉にキッと睨み返してくる白雪を、竜子は、彼女という人間の性質を考えれば異質なほどの厳かな目で見返した。
白雪は、その目に気圧されるように「…チェシャ猫が反乱を起こした。 最下層に閉じ込められていた筈なのに、あの女、この期に、この城を乗っ取ろうとしている。 既に、彼女にたらし込まれたこの城の下層住人達が、この上層を闊歩し、好き勝手に振舞ってるわ。 この部屋も危うい。 ここに踏み入れられれば…」と、そこまで言って、震えたまま竜子に縋りついているベイブに震える手を伸ばし、血塗れの指先で頬にそっと触れると「ベイブ様は、もう壊れ果ててしまう」と呻く。
竜子は、ぎゅっと目を閉じ、そして、道化師に問うた。

「どうすれば…いい?」

道化師は、二人の少女を交互に見比べると「中々の難問だ」と言って肩を竦め、それから、竜子に「三つ」の課題を与えた。



SideC
【蒼王・翼 編】


「お待ち…申し上げておりました…」

血塗れの指先を、それでも気丈に揃えて床に着き、白雪が、床に頭を擦り付けるようにして下げながら震える声でそう告げた。

目を見開く。

黒い壁。
降りしきる薔薇の花びら。
王座の前で虚ろに蹲るベイブ。

そして疲れきった表情の竜子が、ベイブを抱きかかえたまま、それでも「よう」と掠れた声で翼に挨拶する。

「な…にが…あったんだ…?」と、戦慄く声で問い掛けて、翼は慌てて駆け寄った。


初めて、この王宮を訪ねた際、彼女が風から異変を聞いて見つけた空の歪が、再び生まれている事に気付いた翼は、気軽に遊びに来る位のつもりで、その穴に飛び込んだ。
翼は、先日関わった、K麒麟に攫われた一つ目の少女、『チーコ』の故郷についての報告をするつもりだったのだ。

チーコの故郷に行ったのだと。
チーコの母親に会ったのだと。

チーコの故郷の海は、本当に綺麗だったのだと。

話してやれば、黒須達も喜ぶだろうと考えていた。

なのに…。

「…っ! どういう事だ?!」

そう喚き声をあげ、それからまず白雪の前に膝を付き、その冷たい指先を手に取る。
痛々しく爪のはがれた指先に、哀しげに顔を歪め、それから、傷口に触らぬよう、その掌をそっと撫でた。

まるで、己が痛んでいるかのように辛い。

白雪が翼の掌を弱弱しく両手で握り、「お助け下さい…、この王宮を…」と泣きそうな声で懇願する。
間髪すら入れなかった。

「当然」

その声にこもる気負いのなさは、まるで、呼吸をするかのように自然で、理由を聞かずとも、何をなせば良いのか分からずとも、女性が困っている以上、翼は、己に出来るだけの事を白雪と竜子の為にしてやる覚悟なんて簡単に決める事が出来た。
白雪の体を、安心させるように一度抱きしめ、背中を撫でて、それから今度は竜子とベイブの元へと歩み寄る。
「大丈夫かい? 可哀想に、綺麗な顔が台無しだ」
そう言いながら、竜子の頬を撫でてやれば、ふにゃっと子供のように顔を緩め、首を傾げて翼の掌に頬を摺り寄せる。
「…ごめん。 また、巻き込む」
竜子の詫びに首を振り、「ばか。 謝るんじゃない。 女の子を助けるのは僕のライフワークみたいなものさ」と言って優しく笑いかければ、竜子はくしゃくしゃに顔を歪め、翼の首根っこに齧り付いた。
翼のぎゅうぎゅうと竜子の頭を抱きかかえ、その背中を何度も、何度も撫でながら「呼んだ? 約束しただろ? 困った時に、僕を呼ぶって」と問い掛ける。
竜子は、こくこくと頷いて「…何度も…呼んだ…」と涙声で答えた。

「翼…助けてくれって…」

その瞬間、胸が詰るような気持ちになり、「…ごめん。 待たせて、ごめん」と詫びて、竜子の体を益々強く抱きしめる。
「辛い思いを長い間させてしまった。 ごめんね、竜子」
翼の謝罪に、驚いたように顔をあげ「なんで、翼が謝んだよぉぅ…」とくしゃくしゃの声で竜子が言った。
涙で、アイラインが滲んで目の周りが真っ黒になっている。
仔狸みたいだ。
翼は、少し笑って、その頬を両手で挟みこむ。
途方に暮れた 仔狸。
「もっと早く、その声に気付いてあげられれば、竜子を泣かせたりしなくて済んだ」
翼の言葉に、「ふぅやぁぅ…ぅ…」と意味の分からない鳴き声のようなものをあげ、「た…助けて…もらって…ばかりで…ごめ…ん…っ! でも…あ…あたい…今…も…う…ど…どうしたらいいのか…」と途中まで喋ったところで、ふいに唇を噛んで、翼の両手を自分の頬から、そっと外させると、突然両手で自分の頬を強く叩いた。
パァン!と大きな音が響き、びっくりする翼を見返すと、「ごめん。 弱音吐きそうになっちまった」とまだ、掠れは残るが、それでも、先程までの崩れ落ちそうな声とは一変した、芯の強い声で言う。
「ありがとう。 翼。 来てくれて、本当に助かる」
そう言って、もう一度翼に抱きつき、それから、膝の上で虚ろに眠るベイブの頭をそっと撫でる。

「見ての通りの有り様だ。 酷いもんだろ?」

目を真っ赤にした竜子の言葉に頷けば「…黒須が、K麒麟に攫われた」と彼女は告げた。

そこそこ長い付き合いである事もあり、翼はそれだけで全てを察する。
ベイブの精神が不安定な事は、以前の王宮内での出来事で知っている。
そして、このベイブは随分と黒須と竜子の存在に依存しているようだった。
精神状態が不安定になったからこその、この光景か…。

「…確かに、あの砂丘でK麒麟のNo2だというDrらしき男が、黒須さんを見ていたんだ。 キメラを創り出すような組織。 黒須さんの変異した姿を見て、興味を持つ事は用意に想像できた。 僕がもっと、早く対処していれば……」

悔しさの余りに、くしゃっと頭を掻き毟れば、竜子が慌てて翼の手を掴み「ばか! お前が責任に思うことなんか、微塵もねぇかんな! チーコの事も、これまでの事も、何もかも、翼がいてくれて、あたいも、黒須も、ベイブだって、すっげぇ助かってんんだからな!」とムキになって言い募る。

「悔いるな! 謝るな! お前は最高な奴なんだから! 翼は…王子様なんだろ? あたいの、そんで、女の子達の」

竜子の問い掛けに、翼は、一瞬目を見開き、それから、笑って頷く。
「そうだよ。 お姫様」
「じゃあ、お願いだ。 今から、あんたにこの城の全てを委ねる。 頼む。 守ってくれ。 王宮を、ベイブを、この世界を…チェシャ猫から」
「…チェシャ猫?」と、問い掛ける翼に竜子が答えようとするのを遮り、「竜子…道が開きましたわ。 長くは保ちません。 早く」と白雪が声をかける。

「っ! チェシャ猫については、白雪に聞いてくれ! あたいは、行かなきゃ!」
そう叫び、ベイブを膝から無理矢理下ろして、ふらつきながら立ち上がる竜子に、翼が「何処へ?!」と問う暇すらなく、竜子がよたよたと駆け出す。

「…りゅうこっ…! いやだ! だめだ! いっちゃ、やだ! やだっ! りゅうこは、ここにいなきゃ、いやだ!」

頑是無い声。
ベイブが、竜子に手を伸ばし、一瞬、竜子は振り返り、まるで子供と引き裂かれる母親のように辛そうな顔を見せる。

「…翼の言う事を大人しく聞くんだぞ? ベイブ。 すぐに、誠を連れて戻ってくるから」

そう優しい声で言い聞かせ、そして、翼は白雪へと歩み寄った。

白雪が、頤を上げ、自らの胸をズズズと指を突き立てて開く。
竜子は一瞬の逡巡も見せず、彼女の胸の大鏡に、飛び込んだ。
白雪が胸を閉じれば、そこには、ベイブと白雪と共に、先程見た光景に、呆然としてしまった翼が残る。
「…え?」と首を傾げれば、同じ方向に首を傾げた白雪が「何か?」と問うてくるので「いや…竜子が…君の胸に飛び込んで…消えちゃったから…」と言い、「驚いたんだ」と言葉を続けようとして、余りに此方を真っ直ぐ凝視してくる白雪の視線に最後の言葉が尻すぼみになる。
「…竜子は…何処へ?」と白雪に聞けば、「竜子は、トーキョーの青山に黒須を救いに行きました」と、何だかまっ平らな声で答えられ、白雪はすんすんと鼻を鳴らしながら自分で自分を抱きしめ、蹲り、ぶるぶると震えているベイブに手を伸ばす。
だが、つれないという言葉すら生易しいほどの速度で、その掌をはねのけられた白雪は、傷口に障ったのか、痛みを堪えるような表情を見せ、翼はいつもの調子で「レディに何をするんだ!」と叱りかけて、ベイブの状態を思い出し、口を噤んだ。
普段の、超然としているというか、多分87%位の確率で、何も考えていないのだろう虚ろに、ぼんやりと王座に座っている姿なら、幾らでも説教を喰らわしてやれるものなのだが、今の、しおしおの状態なベイブには流石にキツイ事をいえないし、大体、彼の精神状態=王宮の状況になってくるわけで、これ以上の悪化をさせる訳にはいかない。
結果、殆ど喉半ばにまで来ていた文句は飲み込まねばならないわ、白雪とは微妙にコミニケーション取り辛いわで、何だかんだと(あれ? もしかして、僕、今、結構気まずい状況にいない?)と、呆然と佇んでみる。

こんな状況では雑談も出来たもんじゃないし、そもそも、ベイブには散々苛つかされ、言われたくないような事をズケズケ言われた記憶もある。
男を守らなきゃならんってだけで、テンション下がる部分も正直あるのに、相手がベイブなら更に倍率ドンってなもんで、竜子と約束を交わしたからには命がけで、この城を死守するつもりではいたが、今になって、実力的な意味ではなく、精神的な意味で、結構辛い状況かも…と、悟った。
大体チェシャ猫が何者なのか、これから何が起こるのか一切予想できない身の上。
翼は情報の少なさに、大層困り果てて、ううんと、腕を組む。
とりあえず、チェシャ猫の話を聞こうと口を開きかけた時だった。


「つっまんないわ! つっまんない! つっまんない! クソ、つまんない!」

高飛車な声。

薔薇降りしきるフロアの真ん中に、忽然と姿を現した少女がいた。

「音楽もない! お茶もない! この場所が、あのお城? ケッ! つまんなくて、反吐が出るってものね!」

大きなバスケットを抱えて昂然と顔を上げ、喚き、それから、「クヒッ」と笑って三人を順繰りに見回す。

「さぁて、調子はどんなものなの? おまえ達。 とりあえず、あたしが来たのよ。 拍手喝采を聞かせて頂戴? クラッシックの音色には劣るけど、今のところは、それで満足してあげるわ」

そう言いながら此方にカツカツと歩いてくる彼女の名は「ウラ!」と、ベイブが渾身の声で叫び、手を伸ばす。

そう、ウラ・フレンツヒェン。

ああ、今の彼の精神状態を安定させるのに、彼女はどうも最適の人材らしいと、翼は察し、ほっと安堵する。
ここで会う時は、とんでもない言動と立ち居振る舞いを見せる彼女だったが、どうもこの城の異常さと、彼女のエキセントリックな振る舞いの相性は良いようで、自由気ままに振舞う姿がいつも、しっくり馴染んでいるように見受けられる。
という事はつまり、ウラとベイブの相性が良いという事に他ならないのだろうと翼は察し、ベイブの伸ばした腕の中に切り揃えた前髪を揺らし、美しい黒髪を靡かせて躊躇いなく飛び込んでいくウラを感嘆の思いで眺めた。

「ベイブ、ベイブ、ねぇ、ベイビー、おまえ、どうしたの? いつも以上にしけっちまって、誰かに虐められたのかしら?」
ベイブにしがみ付かれながら、ウラが労わるような声を出す。
「大丈夫よ、ベイブ、あたしが来たからには、もう安心。 震える必要も、もうないわ」
そう言いながら、白髪をゆるゆると撫で、それから翼に目を向けた。
「あら、翼。 おまえも来てたの? まぁ、さしずめ、お城の王子様って感じの役どころね。 おまえにはお似合いだって、褒めてあげる。 だとすれば、あたしは、姫君でいなきゃいけないんだろうけど、今回は守られてあげるつもりはないの。 やってやるわ? 見てて御覧なさい。 やってやるって決めてきたの。 だって、この城には、薔薇園があって、素敵なキッチンがあって、素晴らしい楽団もいるのよ? ねぇ、あたしは、あたしのお気に入りを守る為なら何でも出来るの。 それが美意識が高いって事だから。 だから、あたしも、やってやるのよ。 思いっきり」
ウラが、ヒステリックな調子で捲くし立て「クヒッ」といつもの笑い声をあげた後、不意に今まで一度も見た事のない表情を見せ、「…だから、翼も一緒に頑張って頂戴」と翼に言った。
翼は、彼女の調子に巻き込まれ、口を開く間すら見出せずにいたのだが、その言葉に、目を見開く。

ああ、ウラが真剣になってる。

いつもこの城では、掴みどころのない言動ばかり見せているウラが、本気の眼差しを翼に垣間見せた。

「…勿論だ。 僕も竜子と約束したからね」

そう翼が答えれば、途端いつもの、唇をにいっと曲げた不敵な笑みを浮かべ、「竜子、女王、あたしを出迎えにも来ないなんて、ふざけてやがると思ったけど、そう、あの子は、もう行ったのね? おーけぃ、おーけぃ! 構やしないわ? 今日のあたしは、超寛大! しょうがないから、待っててあげようじゃないの、あの子の帰りを。 ねぇ、ベイブ」と言って、ベイブに声を掛ける。

ウラの体をぎゅうと抱きしめていたベイブが名前を呼ばれたことに反応して、ウラの顔を覗きこんだ。

白い、白い、白い、狂気。

酷い眼差しがウラを見る。
狂気の具現に間近に顔を覗きこまれても、ウラは愉しそうに笑って「よく、あたしの名前を覚えてたわね? ま、忘れるなんてありえないけど、褒めてあげるわ? いい子、いい子」と頭を撫でる。
翼は呆れたように「…よく、まぁ、そこまで懐かせたものだ」と賞賛すれば、「クヒヒッ」と笑い声をあげ、「…餌付けしてやったのよ」とウラは笑った。

「最初の餌はシフォンケーキ、次は砂糖漬けのチェリーだったわ。 さて、さて、今回のベイブの餌は?」と謎かけしつつ、抱えていたバスケットの蓋を開け、中から可愛らしいハート型のケースを取り出した。

「…自信作よ。 泣いて喜びなさいな」

そう言いながらケースを開ければ、その中には……。
翼、思わず見たままの感想を呟いてしまった。

「…泥団子?」

その瞬間、ガスッ!遠慮のない速度で、ウラが前のめりに頭を倒し、額を翼の額にぶつけてくる。
所謂、頭突きを喰らって、痛みにうぐっと呻くものの、ウラは自身も痛かったろうに、あまつさえ、ぐりぐりと、しかも額を強く押し付けながら「チョ コ レー ト!」と力強い声で言う。

ああ、確か、彼女が手作りしたというケーキを前に見た記憶があるが、あれも見た目は然程良くなかったと思い出し、それにしたってと、ケースの中を見下ろす。
ハートのケースの中に詰められていたのは、奇妙奇天烈な形の黒い塊たちだった。
デコレーションが苦手なのだなとウラを横目で窺うも、本人は翼の言葉がいまだに許せないのかプリプリと頬を膨らませている。
黙っていれば、血が通ってないのかと思われるほどに西のものとも、東のものともつかぬ人形めいた容貌の彼女が、感情豊かに振舞う様子は愛らしく、翼は微笑みながら「ごめんね? ウラ。 ほんとだ。 とっても良い匂いがする」と侘び、褒め言葉を口にする。
ウラはツイと片眉を上げ、「匂いどころか、口に入れたら、舌ごと溶けちまう程、味も良いのよ。 しょうがないから、翼にも食べさせてあげるわ」と少し機嫌を直した声で言い、それから、先程からずっとベイブにしがみ付かれているウラを憮然とした眼差しで眺めている白雪にも「さぁ、おまえも食べなさいな。 甘いものを食べれば、その顰めっ面も治るわよ」とチョコを薦める。
翼は一つ摘んだチョコを口に入れると、ここに来る直前まで冷やしていたのだろう、ひやりとした冷たい感触が口の中に広がり、それからゆるゆると口内の温度で溶け出した、甘い味わいに目を細めた。

「…美味しい。 凄く美味しいよ。 絶品だ」

普段から女性の作った料理を貶す事など、絶対にしない翼だが、ウラのチョコは、心からの賞賛を送るに値する味わいで、翼の反応を見て、渋々一度血を拭い、指を伸ばした白雪も、チョコを口の中に入れると、思わずといったように薄っすら笑う。

「…ほらね? 『白兎』が笑った。 これがあたしのチョコの実力よ」とウラは言い、それから、自分の指先に摘み上げたチョコを、ベイブの口に押し当てる。
「さ、ベイブも食べなさいな。 あたしのケーキを美味しいって言ったおまえだもの。 この味も気に入る筈よ?」とウラは言う。
ベイブは、ウラの目を見つめながらゆっくりと唇を開け、その口中にチョコレートを迎え入れた。
白い唇にチョコの溶け痕が残ったのを、ウラがバスケットから取り出した紙ナプキンで拭いてやる。
意外に甲斐甲斐しいウラの様子に驚けば、ベイブは静かな声で「…美味い」と呟いた。
その声は先ほどまでの子供染みた調子よりも、少し冷静になったベイブの声。
翼は、「驚いた。 これの君のチョコの威力?」とウラに問い、ウラは、「クヒッ」と肩を揺らして笑うと「勿論!」と自信たっぷりの声で答えた。

「お茶だって用意してきてやったのよ? 感謝なさい。 普段ならば、あたし自ら紅茶を淹れる事なんて、滅多にないわ」と余り自慢にならない事を誇らしげに言いつつ、バスケットの中から魔法瓶と、カップを取り出すウラを目を見開いて眺めていると、突如白雪が胸を押さえ、「来る」と呻いて俯いた。

「は?」
「何が…来るんだ?」

翼とウラが問い掛けるも、俯いたままの白雪が、突然全身を痙攣させ、ついでぐいっと体を仰け反らせる。

その瞬間、突然白雪の胸から、にゅっと小さくて、柔らかそうな少女の掌が突き出された。

「っ!」

その異常な光景に、翼は咄嗟に、ウラを庇うように一歩前に出た。
白雪の胸が、子供の手によって、ずずずっと、こじ開けられ、彼女の胸の間から「…ふんっぬぬぬぬっ! なんじゃ、この、固い扉わぁ!!」と言いながら一人の少女が顔を突き出す。
「ったく、燐のように愛らしくも、儚き娘が、このような労働をさせられるとは、全くなっておらん! なっておらんぞ!」といいつつ、白雪の胸から這い出すようにして現れた少女は、パンパンと自分の服を手で払うと、「さて! 待たせたな!」と腰に手を当て、もう片方の指でとりあえず何処指して良いからわからなかったのだろう、限りなく適当っぽい場所を指しつつ叫ぶ。

いや、ていうか、待つ待たないより、いきなり、人の胸から出てきた事に驚きすぎたよ、と心臓に悪い光景にバクバク震える心臓を押さえつつ、白雪に目をやれば、既に何事もなかったような状態で、静かな表情で佇んでいる。
納得がいかないような気持ちになりつつも、とりあえず安堵して、この少女は敵ではないらしいと判断すると、新たな客人に視線を戻した。


大きなリボンで髪をポニーテイルにし、ひらひらと裾の広がるピンク色の愛らしいワンピースを着た少女は「この、水無瀬燐が来たからには、まぁ、タイタニック級の大船に乗った気持ちになるがよい! さぁ、敵はどこじゃ?! 曜先輩の、敵は何処じゃー?!」と辺りを見回す。
思わず、「いや、タイタニックはそりゃ、大船だけど…沈んだよね?」と翼が冷静に突っ込めば、突然自分に掛けられた声に、これ程派手な登場をしておいて、指差しポーズのまま固まると、燐という少女はだらだらだらと汗を零し始めた。

凄絶なまでに視線をあっちこっちさせながら、それでも、「お…お主がちぇしゃ猫とやらか?」と問い掛けてくる。
「いや…違うけど?」と翼が言えば、今度はウラに視線を向けて「では、お主がちぇしゃ猫だな?!」と、言いきり口調で断言した。
「んだと、てめぇ…突然出てきやがって、何、ふざけた事抜かしやがる。 飾りじゃねぇ目玉を付けてから、物を言いな!」 
ウラが、余程腹に据えかねたのか口汚く言い返せば、途端、もう既に涙目っていうか、若干、「泣いた」判定が出来るような表情を見せつつ、「え? じゃあ、お主が?」と白雪に問うて首を振られ…そろそろとベイブを眺め、「まさか…?」と言いつつベイブを指差した辺りで、翼は「もう、見てられない!」の気持ちに陥り、燐の肩に両手を置くと「よし、分かったから、まず落ち着け」と声を掛けた。

コクコクコクと連続して頷く燐に「まず、ここに、チェシャ猫は、いない」と一つ一つ言葉を区切って言い聞かせる。
すると燐も、オウムのように「ちぇしゃ猫 いない」と繰り返した。
「僕達は チェシャ猫からこの城を守る為に ここに集まっている」
「チェシャ猫から 城 守る」
「あと タイタニックは 沈む」
「タイタニック 沈む」
「インディアン 嘘つかない」
「インディアン うそつかない」

燐の様子が面白くて、思わず脱線してみれば、無心の様子で言葉を続けた後、ハッと我に帰り、「お、お主、燐をバカにしておるだろー!!!」と喚き声をあげた。
「だって、バカなんだもの」
そうウラが至って平静な声で言うものだがら、燐がうぐぐぐぐっと横目で睨み、されど、先程、物凄い悪態をつかれた事が気になっているのか、「あ…あほー。 前髪パッツンー」と子供の悪口にも劣る台詞を、小声で呟く。
ギラリ、と底光りする目でウラに射られたものだから、慌てた様子で「大体! お主らが、悪の集団ちぇしゃ猫団から世界を守る面々などと、とても信じられぬ! なんか、見た目的には、頼り甲斐がない! 燐は、若干、自分の身の安全が心配になりだしている!!」と、我が身とか絶対微塵も振り返ってないんだろうなぁ…という台詞を吐いた後、えい!と翼を指差し「けど、お主は男前なので、それはちょっと嬉しい!」と素直なんだか、なんなんだかな事を言った。
とりあえず、ふっと「この台詞、僕、何度言わされるんだろう…」と遠い目をしつつ、「ごめんね。 僕、性別は女なんだ」と言えば、その瞬間「がっでむ!」と床に打ち崩れ、そのまま、じたばたと暴れると「終わったのじゃあ! もう、トキメキが終わってしまったじゃあ! 知りたくなかったのじゃあ!」と、翼にしてみれば、もう、むしろ「男でなくてごめんなさい」と謝ってあげたくなるような事を喚き散らす。
「う…うう、曜先輩もそうだが、間違っておる。 お主、生まれてくる性別を間違っておるのじゃ…」
そう言いつつ、ついとこちらに視線を向けると「んで? お主らの名は?」とちょっとびっくりする位の切り替えの速さを見せて問い掛けてきた。
「…僕は蒼王翼」と翼が言えば「ウラ・フレンツヒェンよ。 覚えなさい」と続けてウラが傲慢な声で告げた。
「私は、白雪でございます。 お嬢様」
白雪がそう名乗り、そしてベイブを指示し「あちらにおられるのが、この城の主、リリパットベイブ様です」と紹介する。
ふんふんふんと頷きながら一通りの紹介を聞いた燐は、「ヨシ! 名前は分かった! で、今の状況はどうなっておるのじゃ?」と問い掛けてくる。
その質問に思わずウラと顔を見合わせ、それから二人一緒に白雪に視線を送る。

考えてみれば、千年王宮が危機的状況にあるという事が分かっているだけで、具体的なことは何も知らないのだ。

二人の視線に釣られたのか、燐も白雪に視線を送り、皆の眼差しに答えるように白雪が静かに口を開く。

「現在、城内では、この城の最下層にいたチェシャ猫率いる反乱軍が、この部屋へ突入を果たす為に、外側より試行錯誤している状態です。 チェシャ猫は、狂気に蝕まれた性悪猫。 ズル賢く、地獄に落ちたユニコーンの角より作り出された魔剣の名手で、軍勢を率いた際の指揮官としての能力も侮れません。 この部屋は、ベイブ様の最後の心の殻。 とはいえ、今回の非常事態を受け、内側より、女王である竜子、私、そしてもう一人、現在唯一自在に城内を動き回り、外界とも行き来が可能な道化師が内側から無理矢理開き外界に繋げたり、外客…つまり貴方様方の事ですが…を招き入れた影響もあって、破られるのは時間の問題。 外には無限に等しい王宮内の下層域に棲まう狂気の住人が軍勢となって、部屋を包囲しておりますので…そうですね…」とふっと言葉を切り、「…かなり…ピンチです」と端的な言葉で現状を言い表す。

思わず、三人沈黙し、色々考えをめぐらせる。

(千年王宮の住人であるだけにどこまで実力行使をしていいものか…。 とにかく、ベイブが正気に戻った時に、なるべく以前と変わらない状態であるように手加減しながら対処しよう…)

危機的状況であるのは理解していたが、自身の絶大な力を自覚をしている翼は、過信ではなく、純然たる事実として、他の者を守り、敵軍勢を殺生する事なく、竜子と黒須が戻り、ベイブの正気が戻るまで敵の攻撃を凌ぐのに最適な方法を思案した。

(とりあえず、風で動きを封じ、魅了で行動不能に陥らせる。 大多数相手といえど、前訪れた深層階とは違い、ここには風の息吹がある。 いざとなれば、神剣を召還するか…)とそこまで考えていると、ウラも「まぁ…数が多けりゃ、強いってもんでもないしね…」なんて嘯いてみせる。

燐も、うろうろうろと二人の顔を見回していたが、「…まぁ…乗りかかった船じゃ…ここで逃げては曜先輩に合わせる顔もないしのう…」と、観念したような声で呟く。
「…ていうか、さっきから気になってるんだけど、曜っていうのは?」と翼が問えばキュッと両手を握り合わせ、目の中の星をいっぱい入れて、天を仰ぐと、燐は夢見る少女の声で答えた。

「燐は、中高一貫性の学校の中等部に通っておるのじゃが、曜先輩は、同じ学校の高等部に通う、スーパーウルトラエクセレントゴージャスデリシャスコンチネンタルミラクル格好いい燐の憧れのお人なのじゃ…!」

「デリシャスって言ってたわよ?」
「コンチネンタルとも言ってたね」

燐の並べ立てた装飾語の、明らかにおかしい部分に対してウラと静かに突っ込めど、その「憧れの君」を思い出しているのか、ほやんと霞がかった目で遠くを見つめ続ける燐の耳には届いてないらしく、女性から同じような目で見られる事が非常に多い翼は苦笑を浮かべ「…まぁ、じゃあ、その憧れの先輩に頼まれ、燐はここにきたって事で良いのかな?」と問い掛ける。
「そうじゃ! 曜先輩は、ぎゅっと燐の手を握り締め『可愛い燐。 強大な悪に立ち向かう為に、どうしてもお前の力が必要なんだ。 私と、お前の未来の為にも行ってくれないか?』と言ってくれたのじゃ! ここで、頑張らねば女が廃る!」
そう握り拳を固める燐に「なんて気障な台詞…オエ…」とウラが舌を出し、それから「…誰かさんみたいね?」と翼を見上げてきた。
「…僕は、もっと巧く女性を褒める」
己の矜持に掛けて、そう反論すれば、ウラは呆れたように溜息を吐いた。
(曜さんっていうのは、興信所の関係者か何かかな?)と翼は推測し、今回、白雪や道化師、竜子達が、どういうメンバーに、どのようにして助けを求めたかが、少し気になった。
そもそも、燐は登場自体奇抜すぎて、白雪も説明してくれないし、本人は多分良くわかってないのだろうが、どうやって此処に送られ、どうして白雪の胸の間から這い出る事になったのか、それはそれで気になる。
だが、翼に問い掛けの暇など与えずに、「という訳で『流石は私の燐だ。 信じていたよ…君の力を』と、曜先輩に感動して貰う為にも! 何とか、ここを防衛したい!」と言い切り、即座に「頼んだぞ! お主達!」と流れるような動作で、翼達をびしっと燐は指差してきた。
「…もしかして…堂々の丸投げ宣言?」と、ウラが突っ込めば「だって、燐は、御覧の通りのか弱き婦女子じゃ。 お主らは、見た目こそ、さして強そうには見えぬが、言動や立ち居振る舞いから察するに、かなりの実力者と、燐は見抜いた! という事で、頑張って、応援するからな!」と、ぎゅっと握り拳を固める燐に「…何しに来たのよ…おまえは…」と半眼になったウラが問い掛ける。
確かに、何の戦闘力もないのなら、何故こんな危険な場所に送り込まれてきたのか理解が出来ずに、翼も首を傾げれば、燐は「ふっふっふ!」と不敵に笑うと「実は! 燐はのう! 人に、すーぱーぱわぁを与える、超素敵な血がこの身に流れておるのじゃ!」と自分の能力を明かし、「ええい! 控えおろう!」と、ぐぐい!と胸を反らして仰け反った。

だが翼としては、自分は吸血鬼だし知り合いには異能者やら人間外やらが多いしという事で、「へぇ…」と余り新鮮な反応を返してやれない。
「へぇ…って…」と燐が不満げに翼を睨み、「燐の血を飲めば、どれだけ酷い病に悩まされ、どれ程悪辣な呪いに掛かっておろうとも、たちどころに癒されるのじゃぞ!」と更に訴えれば「ああ、だったら、白雪のその指先や、ベイブの今の状態にも良いかも知れないわね」とウラも平然と述べた。
「ぬ、ぬぬぬ、ぬうう…!」
唸る燐は、「いーやーーじゃー! 褒めてくれなきゃ、つーまーらーんー!」とごね出す。
翼は、じたばたとした様子が、何だか暴れる子猫のようにも見えて可愛く思い、「よーし、よーし」と燐の頭を撫でると、「いやいや、でも、白雪さんの爪や、ベイブの今の窮状を、君の血が救ってくれるのは、本当に助かる。 ありがとう。 それに、多勢を相手にする前に、自分自身の力を増させて貰えるのも、心強いよ」と言えば、ピタと暴れるのをやめ、「ほんとーか?」と何だか不安げに問うてくる。
大きな目をパチパチ瞬かせ、じっと翼を見てくる様子に、「本当だよ?」と、笑顔で頷いて答えれば「えへへへへ…」と、頬をピンク色に染めて笑い、ウラが「何照れてんのよ」と、呆れたように言いつつ、人差し指で燐の頬を突くと、それから「直接、血を飲むのも、浪漫がないわ。 折角、ここにローズティがあるのですもの。 燐の血を落として、『ブラッディローズティ』と洒落込みましょう」と愉しげに提案した。
ゴシックロリータファッションを好んでいるところからも、どうも、そういう様式美に対しては、かなりのこだわりがあるらしく、「クヒッ…戦争前に、血染めの薔薇茶を飲むなんて、何だか猟奇的で、野蛮で、なかなか魅力的な趣向じゃない?」と言いつつ、嬉々としてカップにお茶を注ぎ始める。
翼も、「僕のは、砂糖入れないでね?」と言いつつ床に腰を下ろし、期せずしてティータイムが始まりそうな雰囲気に「そ、そんな呑気な事しておる状況なのか?」と燐が戸惑いを見せる。
「いや…だって、もう、全然緊張感ないし…」と翼が言えば「なっとらん! 気合を入れるのじゃ! 気合を!」と燐が喚く。
「いや、ていうか、緊張感がない原因の9割がおまえにあるわよ?」とウラが指摘すれば、「笑止! 燐は、えぶりでぃ、えぶりたいむスーパークールな立ち居振る舞いを心がけておる! よって、燐のせいで緊張感が失われる等という物言いは詭弁に過ぎぬ!」と、燐の辞書書いてあるスーパークールの意味と、翼が認識しているスーパークールの意味はきっと違うのだろう…としか思えない事を言い放ち、翼は酷い脱力感を覚えながらも、「いや、でも、逆にありがたいよ。 下手に強張っているより、ずっと良い」と言ってあげると、途端、また、「えへへへへ…」と頬を両手で押さえて照れたように笑った。
薔薇の芳しい香りと、甘いチョコの香りが漂い、「ほら、燐も座りなさいな。 おまえの分も、淹れてやったわ。 ありがたくお思い? さぁ、早く、血を、ここに頂戴」と、ウラも言い、結局、誘惑には勝てなかったのだろう、「ま、直接呑まれてもなんだしな…」等と言いつつ燐も腰を下ろす。

円になるようにして座り、まず、燐が自分の指先に細い消毒済みの針で、ツッと穴を開け、ポタポタポタと、血をそれぞれのカップに一滴ずつ垂らした。

赤い血の塊が薄紅色の紅茶の中で緩やかにダンスしている。
ウラがまず、一口飲み、それからせわしなく瞬くと、ついと指先を虚空に翳した。

細く白い指先にパチパチパチと眩い稲妻の光が宿った。
にんまりと笑い、「でかしたわ、燐。 クヒッ…。 褒めてあげる。 いつもよりずっと調子が良いじゃない」と言った後、今度はベイブに紅茶を飲ませた。
カップを持ってやり、ソーサーと共に口元まで運んでやれば、ゆっくりと口を開き、ベイブは紅茶を流し込まれる。

「…熱くない? ほら、零しちゃダメよ……?」

優しい声。 ウラは奇態な言動と相反した丁寧な手付きでベイブに紅茶を飲ませた後、その顔を覗きこむ。
ウラの微笑みはあどけないのに、何処か艶やかで、無心になったようにウラを見つめるベイブとの間に漂う雰囲気は呼吸を顰めたくなる程に色めいている。
その様子を見ていた燐が、「まるで、親鳥と、雛鳥のようじゃ」と小さく呟いた。

微笑ましいのに、どこか背徳めいたその空気を、翼は前にも目の当たりにした事があって、何だか居た堪れないような気にもなり、手持ち無沙汰に紅茶を啜る。
吸血衝動こそないが、吸血鬼でもあり、血の魔術によって相手の記憶を読み取る力を読み取る事もできる翼は、だが必要もないのに、相手のプライバシーを侵害するような行為をするつもりも一切なく、大人しく燐の血液が混入された薔薇茶を啜る。
すると、全身にじわっと熱いような感覚が広がり、体が見違える程に軽くなったのを感じた。
想像以上の実感に目を見開けば、白雪が紅茶を飲んだ瞬間に治癒し、再生された爪先を眺めて、嬉しげに笑う。

「…まさか…こんなに早く効果が現れるとは…」
唸るように言う翼に「侮るな! 超一級の燐の血に掛かれば、そのような傷はちちちんぷいぷいのぷい!じゃ」と燐は誇った。
ベイブが、薔薇茶を飲み干し、数度瞬くと、ゆっくりとウラから身を放し、自分の髪を掻き上げる。

「…白雪」

静かな声。
「…はい…白雪はここに」
白雪が喜びを押し隠すような震える声ですかさず白雪が応答する。
「…どうなっている?」
「チェシャ猫が反乱を起こしました」
くっと唇を折り曲げたベイブは「竜子は?」と問いを重ねる。
「黒須を救いに…」
目を細め、「…誠は?」と問えば、「いまだ、メサイアに虜の身。 されど、道化師が人を集め、黒須を救うべく奔走しております」と白雪はよどみなく答える。
「そして、僕達が、この城を守る為に集まってあげたというわけさ」
翼が口を開くと、ベイブはウラ、燐にも視線を向け「酔狂な…」と掠れた声で呟いた。
「分かってるよ。 でもねぇ、君の為じゃないから。 竜子に頼まれちゃったしね」
ベイブの反応に翼がむっとしながらも告げ、燐も「燐とて、この城の事などまぁったく知らぬが、曜先輩の頼みであるしな」と頷く。
ウラは「あたしが来るのは分かってたでしょ?」とベイブの耳元に囁き、ベイブはウラに視線を送ると、ふぅと溜息を吐き出した。
「それで…正気は取り戻せたのか?」
翼が言えば、ベイブは首を振り「危ういものだ」と静かに笑う。
「とにかく、腹が減って仕方がない」とベイブが言うので「ほら…チョコ、作ってきてあげたわ? お食べなさい」とウラが、チョコをつまんでベイブの口先に差し出した。
翼を驚かせたその形に、燐が目を剥き「べ…ベイブとやら…。 異世界の住人ゆえ、食生活が燐達と違うのも頷けるのだが、それにしたってお主、小石を喰うのか?」と問い掛ける。
その瞬間、口を開いたベイブの唇にチョコを押し込み、振り返り様に「てっめぇ、たわけた事抜かしてっと、口に手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわせてやんぞ!」とウラが怒鳴りつつ、翼にもかましてくれたように、ガツンと頭突きを一発燐にかます。
燐の血の力か、然程痛みを感じてない様子で「チョーーーコーーー!! これは、チョコ! 嗅げ! 嗅ぎつくせ! すんだろ? カカオ臭が! これが石なら、てめぇ、あたしがわざわざ小石にチョコまぶして、持ってきたっつうのか? あぁん? なんだそれ? 何チョコだ? 石チョコか? 誰が、んなもん喰うか、頭の中にちったぁ詰ってんだろう脳みそ稼動させて、考えろや!」とウラが凄めば、二度目という事もあり「な、ななな、だ、だって、み、見えるんだもん! 石に!」と燐も動揺しつつも言い返す。
すると、ぐいと燐の口の中に無理矢理チョコを押し込んで「喰え! とにかく喰え! 喰って石かどうか確かめろ!」とウラは怒鳴り、燐は目を白黒させながらむぐむぐとチョコを咀嚼した。
「…おお…美味…い」
驚いたようにポロリと漏らす燐に、「ふん!」と荒く鼻息を噴出して「とーぜんっ! ほっぺがなくなっちゃいそうでしょ?」と、ニヤリと笑う。
燐は、上目遣いにウラを眺めた後、「…むぅ」と唇を尖らせ、渋々頷くと、可愛らしい手のひらを差し出して「もぉ、一個」とおねだりする。
満足そうに笑いながら、燐にケースを差し出しつつ、「でも、チョコでは腹が膨れないわね…。 キッチンも、今はおかしな状況なの?」とウラが白雪に聞いた。
「ええ。 今では全ての支配権をチェシャ猫に握られています。 とはいえ…ベイブ様が空腹を感じおられるのは、何も人と同じ意味では御座いません」
そう白雪が言うので、夢中になった様子でチョコを食べていた燐が「では、なんで、腹が減っておるのじゃ?」と口の端にチョコをつけながら聞いた。
「精気が必要なのですわ」
「精気?」
ウラが首を傾げる。
「エナジーとも言い換えられますが、言ってみれば生きとし生けるものが皆持つ生命力のようなもの。 ベイブ様は、人の精気を時折摂取せねば精神の安寧を保つのが難しく、普段は竜子や黒須より吸引しておりました」
「ふううん」
興味なさげに頷いて、うぐうぐとお茶を飲んでいた燐が「ならば、少しでも長く正気を保てるよう、我らの中から誰かが提供してやれば良いのではないか?」と気軽に言う。
「ええ、そうして下さればありがたいのですが…」とそこまで言って白雪が言葉を切り、何故か、超ピンポイントで燐を凝視しつつ「…精気の吸引後は脱力状態に陥り、暫しの間行動不能な状態になってしまうのです」と言った。
「…こうどう…ふのう?」
何故か拙い声で問い返す燐に、ぐいと顔を近づけて「とはいえ、動けなくなるのは、ほんの暫しの間ですし、吸引中は大変心地良く、その快美感と酩酊感はきっと、お嬢様を夢見心地にしてくれる事を、この白雪がお約束いたします」と、思いっきり燐に向かって説明する。
恐る恐るといった調子で、翼とウラに視線を向けてくるも翼は、真顔で「今、僕が行動不能な状態になったら、大変な事になるよ?」と告げ、ウラも「悪いけど精気を与えることはできないの。 なぜなら暗闇の向こうへ戦いに行くからよ」と断わる。
「…それに、おまえ、戦闘に関しては別段さしたる能力はないのでしょ?」
ウラの問い掛けに、混乱も露に燐は四方八方を見回して「…えーと、つまり、燐が……」と言いつつ、最後に、びくびくびくとベイブに視線を送る。
飢えた猛獣の如きベイブの眼差しを前に、「ふぎゅ…」と猫のような怯えた声をあげ、冷や汗らしきものをだらだらと零すと、最後に一縷の望みを求めるような眼差しで白雪に視線を向けた。
追い詰められた小動物のような燐の様子に、一切同情を示さず「お願いいたします」と、白雪が無慈悲に頷き、一瞬の硬直の後「いーーーーやーーーーじゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」と燐が叫んでのたうちまわる。
「こ、こここ、こ、怖いのじゃ! なんか、もう、聞くだけでおどろおどろしいのじゃ!」
そう燐が訴えども「大丈夫です。 痛くないですから。 気持ち良いだけですから」と聞きようによっては「いや、それは、それで精神的になんか嫌だ」というようなフォローを白雪が口にする。

「こ、こんな展開になるなんて、聞いてないのじゃ! う、うう、実は曜先輩、燐の事嫌いなのじゃー! こないだ事務所に妖怪ごと突入したの根に持ってるのじゃー!」と泣き言を喚く燐の言葉に「妖怪? 事務所?」と引っ掛かりを覚えつつも、白雪が必死な様子で「ベイブ様も加減してくださいます。 何も命までは取りません」と、血走った目で言い募った。
「て…手加減…せんとどうなるのじゃ?」と涙目で、燐が問えば、何でもないような調子でベイブが「誠は…3日間…生死の境を彷徨った…」と告げた。

わぁ、あの人、マフィアに攫われてようが、ここにいようが命が危険に晒されてんのって、然程状況変わんないんじゃないだろうか?と翼が咄嗟に同情すれば、燐がガタガタガタガタと小刻みに震えつつ、「……えーと、森へ帰らせてください」と「え? どこ出身?」な一言を口にする。

「で、出口はどこじゃ! 燐はどこから此処へやってきたのじゃ!」と喚く燐に「あそこ」と素直に翼は白雪の胸を指差す。
途端、「了解!」と軽快に答えて白雪の胸に飛び込めば、待ってました!とばかりに、白雪がガシッと燐を捕まえて「ご協力を感謝します」と冷静に、翼と、燐両方に向かって礼を述べた。
「うぬうううう! 翼ぁぁぁ! 謀りおったなぁぁ!!」と燐が吼える。

いや、本当の事を言っただけなんだけどなぁ…と、翼が頬を掻けども「燐お嬢様の尊い犠牲は、白雪一生忘れません」と燐をしっかと捕らえたままの白雪は彼女を逃がすつもりが、一切ないらしく、ウラも「さ、ベイブ。 血があれ程の効力がある娘だもの。 いただきなさいな」と勝手に薦めている。
じたばたじたばたともがいた挙句に「はひっ…はひっ…」と荒い息をついた燐は、そのままがっくり項垂れて「わ…分かったのじゃ…もう…観念したのじゃ…」と項垂れ、くるりとベイブに向き直り、それからついと自分の手を差し出した。
「い…痛くするでないぞ?」と念押しすれば、ベイブは頷き、それからその手をとって、自分の唇を近づけるのを「す、すすすすとっぷー!」と燐が制止する。
「く…口からじゃないとダメなのか?」と燐が「…燐はうら若き乙女なのじゃ…。 キスは…ちょっと…」と言えば溜息をつき、それからベイブは燐の手に自分の掌を重ねた。
すっぽりと燐の掌を自身の大きな掌で覆い「口腔経由の方が…効率よく吸えるのだが…」とぼやきつつも、掌から燐の精気を吸い取り始める。
ベイブの掌が、ほの白く光を放ち、燐の強張っていた表情が見る見るとろんと緩んでいった。
「ふ…ゆぅぅにゃぁぁぅ…」
喉を鳴らすような、猫の声をあげ、燐は目を閉じカクンと喉を仰け反らせると「にゃぁぁんかぁ…とおおぅっても、ほわほわするのじゃ…ぁ…」と言い、「…ごちそうさま」と言ってベイブが手を離した瞬間「う〜や〜」と情けない声を上げて、燐はころんと引っくり返った。
とんと白雪が、燐を受け止め「ありがとうございます」と言いながら、そっと床に座らせる。
「ふにゃ…ぁ…全身に…力が…入らぬぞ…」と燐が弱弱しい声で言うのとは対照的にベイブはすくっと立ち上がり「良い精気であった」と燐に向かって感想を述べる。
「…お陰で、少し動けるようになった」と言いながら、ふいに歩き出すベイブに「どちらへ?!」と慌てた様子で白雪が声を掛ける。
「動き回って…いいのか?」とその状態を計るように翼も問い掛ければ、「動ける今のうちに必要なものを取りに行く」とベイブは言った。
「…必要な…もの?」
「敵はチェシャ猫なのだろう? ならば『アレ』が有用な筈だ」
そう言ったベイブが、もう一歩足を踏み出した瞬間、その姿は掻き消えた。
「っ!」
翼は、後を追おうにも消失されたのでは行方を追いようもないと歯噛みし、白雪が心配そうながらも取り乱しはしない姿を見て、大丈夫なのだろうと判断する。
ウラも、てきぱきとした調子で、お茶のカップや、チョコのケースを片付け始め、「そろそろって感じじゃない?」と言いながら薄く笑った。
へにゃんとへたり込んでいる燐が、「う、うう、この状態では逃げ回る事も叶わぬ…。 お主ら…頼んだぞ…」と述べるので「分かった、任しておいて」と翼が請け負えば「…翼ばかりじゃなくて、あたしだって、やるわよ」とウラは言った。
「あたしはね、あたしでも珍しいと思う位、今やる気があるの。 その上、燐の血のお陰ね。 力の調子も絶好調。 今のあたしは無敵よ」
そう自信たっぷりの調子で告げるウラに、白雪は「頼りにしております」と告げた後、「…ですが、あなたの保護者である、あの忌々しき…あら…失礼。 大変、ベイブ様にとっては有害で、胡散臭くて、イケ好かない魔術師が貴女を連れ戻そうと目論んでいる様子」と言う。
翼は「…忌々しいって言葉を言い淀んだ意味が全く見えないくらいの言い様だね」と呆れ、「な、なぜ、白雪にはそんな事が分かるのじゃ? っていうか、ウラは魔術師の娘なのか?!」と燐が視線をキョロキョロさせた。
「そうよ、このウラ様はいずれは大魔術師になるって決まってんの! 今から恐れ多がっておく事ね!」と燐に告げ、「…デリクが…そう…」と、困ったような嬉しいような複雑な表情を見せると、「ねぇ、今ならベイブもいないことだし、なんとか話だけでも出来ない?」とウラは白雪に問うた。

そう、ベイブにとって、魔術師はどうも、天敵らしく、そのせいで、王宮内で散々な目にあった事もある。 下手に顔を合わせれば、前より酷い発狂状態に逆戻りする事だろう。 そういう意味では確かにコンタクトを取るなら、ベイブのいない今のうちだ。

「分かりました。 燐お嬢様の血の効果も御座いますし、今の白雪ならば、出来るやもしれません。 暫しお待ちを…」と目を閉じて、暫く後、白雪がズズズと胸を開く。
自分がその胸をこじ開けて出てきたことは知らぬらしい燐が「な…なんじゃ?!」と驚き、そして、その鏡に映る光景にもまた目を見開く。

そこに映るは、あるマンションの一室。

何か渦の詰った硝子玉を片手に、考え込んでいる様子の魔術師、デリク・オーロフの姿が映る。
どうも自室にいるらしいのに、相変わらずの胡散臭い空気を発していて、プライベートでもデリクという男は胡散臭い男なのだなぁと、かなり酷い感想を抱いた。
前、帽子屋のお茶会をこの鏡で見せてもらった際には聞こえなかった筈の向こう側の音も聞こえてきて、白雪の力が確かに増している事を翼は実感する。

「デリク!! デリィーク!!」

ウラが鏡の向こうのデリクに向かって呼びかける。

「アア、ウラの幻聴まで聞こえてきテ…。 どれだけ私を困らせたら、あの子は気が済むんでショウネ? 私って、ほら、センシティブで、センチメンタルジャーニーですから(間違った日本語)、このままだと、ストレスで胃炎とかを患ってしまうかも知れまセン」
デリクの性格を知る翼からすれば、白目を剥きそうな事をのたまいつつ、再度「デリク! 貴方に世界で一番無縁な病の心配なんてどうでもいいのよ! それよりも、こっちを見なさいよ! このあたしがこんなに一生懸命に呼んであげてるのよ!」とウラがデリクを呼ぶも、デリクは、見るからに、なんか意地になってるなぁという様子で、「…ほら、また幻聴が」と嘯く。
「大体、様式美にこだわる癖に、肝心なトコで抜けてるっていうか、ガサツ? 結構単純? むしろ、考えナシ? なウラに振り回される私は、もう、カワイソウ過ぎまス! しかも、チョコ、私の分ないシ! ないシ!!」と拳をぶんぶん振りつつ訴えるデリクに、「思いっきり拗ねてるだけだ…」と翼が呆れれば、「はぁ」と深い溜息を吐き「…冷蔵庫の二段目に…デリクの分のチョコ菓子が入れてあるから…」と若干疲れた声でウラが言う。
天衣無縫に見えるウラだが、デリクと過ごしている事を考えると、彼女には彼女なりの苦労があるのだろうか?と翼は少し考え込んでしまう。
ウラの言葉に、デリクは機嫌を直したのか、クリンと笑顔でこちらに顔を向けてきて「可愛いウラ! 良かった、無事デ!」と言った。
「まぁ、白々しい! 誰ががさつよ! 考えナシよ! 明日から、デリク、無事に毎日靴を履けると思うんじゃなくってよ? そして、我が家の調味料の安否も気遣うことね! 特に、マヨネーズ、ケチャップ、味噌あたりは、一気になくなると思いなさい!」

ああ、靴に入れるんだ…と、調味料と靴の組み合わせに生理的嫌悪を抱き、ブルブルと背筋を寒くしつつ、デリクとウラの生活を想像してげんなりする。
デリクはそんなウラが可愛くてしょうがないという風にニコニコして「革靴の味噌漬けとか、マヨネーズ和えは、美味しそうジャないのデ、やめて下さイ」と、全然切実じゃない声で頼んでいた。
そして、目を細め、小さく胸の前で拍手をすると、「今日のコーディネートも、大変素晴らしいでス」と褒める。

確かにその姿を見る時はいつも、可愛らしい服に身を包んでいるウラの今日のファッションは、涼しげな白ベースのキャミワンピースを着ていた。
細めの黒いリボンで、フロントも、バックも編み上げられ、レースで胸元を飾っているそのワンピースは、可憐過ぎるデザインと華奢な作りが、着るものを限定するデザインではあるが、これ以上ない程ウラに似合っている。
薔薇の透かし模様が入ったふわふわと広がるワンピースと、厚底の大きなストライプリボンがあしらわれた白いサンダルとの相性はばっちりで、黒髪に留められたキラキラと光る蝶の髪飾りも絶妙なアクセントになっていた。

だが、デリクはその可愛さにはほだされなかったのか、「とはいえ、私に何も言わずに遠出したのハ、大減点でス。 丁度、私の部屋の本棚が、大分乱れてキタ所でス」と、そこまで言ったところで、後に続く言葉を悟ったのか、ウラは盛大に顔を顰め、それでも溜息混じりに、「しょうがないわね! 整理してあげるわ」と珍しく素直に請け負う。
そして、「だから、あたし、まだ、帰らない」ときっぱりとした口調でウラは言った。
目を見開き、首を傾げて、デリクは「どうしてモ?」とだけ問い掛ける。
ウラは、微笑を浮かべ、「どうしてもよ!」ときっぱり言い切ると、「だって、この城の薔薇園も、素敵なキッチンも、美しかった何もかも、今は、糞つまんない事になっちゃってるのよ? そんなの誰が許したって、このあたしが許す筈ないわ!」と笑いながら言い放つ。
「あたしは、あたしのお気に入りが失われる事を許さない。 そして、あたしが許さない限り、その所業が行われる事はありえないのよ。 だって、デリク。 世界はあたしを中心に回っているのだもの」

傲慢な言葉ですら、ウラの薔薇の唇から飛び出せば、予言めいて聞こえる。
我が儘も、不遜も、何もかもだ。

デリクが「ふー」肺の中の空気を押し出すような溜息を吐けば、座り込だままの燐が口を開いた。
「デリクとやら…、まぁ、心配はいらぬ。 燐がついておる限り、ぱわーあっぷきのこ、100体分がウラの味方についておると考えてくれてよい」
そう言い、ぐいと胸を張る燐に「いや、それ心強いのか、心強くないのか、かなり微妙なんだけど…」と翼が思わず言えば「えーと、じゃあ、フラワー! あの、炎がコロコロコロってでるやつ! あれが100本分じゃ!」と、更に「あれ、役に立つか、立たないか微妙なんだよね…」というようなアイテム名を挙げてくる。
「…是非、スター100個分でお願いしまス」と、真顔で頼んでくるデリクに、「デリクさんが、今まで見たことない位、結構必死なのは伝わってくるんだけど、繰り広げられる会話がトンチキ過ぎて、今いち真剣に聞けない…」と、翼が素直な感想を呻き、それから、「ふう…」と溜息を吐いた。

「デリクさん、千年王宮の状態は、今のところは小康状態を保っています。 燐が精気をベイブさんに分け与えてくれたお陰でもあるし、ウラが、ベイブの精神状態を落ち着けてくれた事も大いに役立ってる。 今、彼女は、僕達に必要なんです。 だから…」
ひゅっと翼は息を吸い、「僕が守ります。 この場にいる誰も傷付けない。 信じて下さい」と、凛とした声で言い放った。

決めていた。
竜子に頼まれたときから。

僕が守る。
全てを。


それは、単なる自信のみならず、どこか悲壮めいた決意を秘めた声。
デリクは首を傾げて翼を見つめてくる。
深い群青色した、謎めいた眼差しが、翼の心の奥底まで暴くように此方を覗いていた。
そしてデリクは、ふにゃっと唇を緩め、「コンコン」と鏡面をノックしてくる。
「いいですヨ。 そんなに、気負わなくてモ。 ネ? ウラ」
するとウラは、「あふっ」と一度欠伸して、それから「とーぜん! 馬鹿ね。 翼。 あたしを誰だと思ってるの? 守ってもらわなくても良いなんて言わないわ。 でも、あたしが貴女も守らない理由も無くってよ?」と笑いながら言う。
「燐もじゃ! 燐がおるからには、負けは有り得ぬ! まぁ、任せておけ! すっごい、応援、するから! 前代未聞の応援をするから! 乞う! ご期待!」
座り込んだまま、それでもぐっと握り拳で、「なんで、応援だけなのに、そんなに自信たっぷりなんだ! ていうか、もう、むしろ、前代未聞の応援とか気になるよ! 見たいよ!」と言うような台詞をのたまう燐とウラを振り返り、それから再び翼は苦笑を浮かべて鏡に向き直ると「あなたの大事なお姫様、お預かりします」とデリクに言った。
デリクは、諦めたように肩を竦め、今まで聞いたことのない程の真面目な声で「ウラの事を、ヨロシク頼みマス」とデリクは翼に言った。

さて、デリクとの通信を絶って暫く後、翼は「ミシリ」と不吉な音がするのを聞いて天井を見上げる。

黒い世界に皹が入っていた。

ウラも立ち上がり、周囲を見回し「あらあら」と呑気な声で言う。
「…お楽しみの時間みたいね」

ベイブの姿が再び忽然と現れた。

突如、燐の周りに銀色の結界が現れ、眩い光を放つ。
「…っ…何事じゃ?」
すると、ベイブは振り返り「…竜子よりの念押しだ。 お前の身の安全を何より願う者がいる。 くれぐれも傷を付けてくれるなと請われた」と静かに告げた。
「…曜…先輩?」と小さく呟いて、燐が両手を握り合わせ嬉しげに笑う。

「白雪。 娘の傍へ」
「御衣」

ベイブの命に白雪がそっと燐に寄り添う。
「…調子は?」
翼が問えば、ベイブはつまらなそうに「然程」と答えて、彼女の手に、精緻な薔薇の意匠が施されたロケットペンダントを押し付けた。
「…持っておけ。 いずれ、使える」
ベイブの言葉に首を傾げ「これを取りに言ってたのか?」と翼が問うた瞬間、ミシミシミシと部屋に亀裂が入り、そして見る見る間に崩れ落ちた。
眩いばかりの光に、目を眇め、そしてようやく視界が明瞭になった翼の目に、絶望的なほどの大軍が目には言った。
双頭の竜や、異形の禍々しい姿をした悪魔、毒々しい色合いの夥しい程の触手を持つ巨大な植物に、ぶよぶよと醜悪に震えるスライム、そしてたくさんのトランプ兵。

翼の周囲に風が起こる。

「手加減…なんてさせて貰えないかな?」と苦笑すれば、ウラが、パンと両手を叩き、クルリとまわって指先、爪先に雷を宿らせると、「そうね。 思いっきり踊らなきゃ追いつかないかもしれないわ」と、余裕の笑みを浮かべた。

城の様子も、一変していた。

見覚えのある虹色の水が流れる回廊も、不思議な調度品達も消え失せ、まるで南国の如き奇妙な植物が生い茂りじわっと額に汗が浮かぶような、湿気を含む蒸し暑さに包まれる。
鮮やかだか、悪趣味な色合いの花々がそこらかしこに生い茂り、息苦しいような圧迫感を与えてきた。

「にゃぁぁぁおぅ…へぇぇ、やっと殻を壊せたと思ったら、王子様とお姫様を助っ人に呼んでたってわけかしらぁ?」

醜悪な軍隊の先頭に一人の女がいた。

「ベイブゥさまぁん…酷いじゃないのぉ…わっちを一番最下層に閉じ込めてぇ…自分は、すまし顔で女王とジャバウォッキーとヨロシクやってるなんてさぁ…。 し か も 、最近はお友達も増えたそうじゃない? ねぇ、もう、私はいらない女なの?」

ピンク色のふわふわにウェーブの掛かった髪を腰まで伸ばし、全身にぴったり張り付くような黒いスーツを着ている。
大きく開いた胸元から覗く胸は何か詰め物でもしているのかと疑いたくなるほど大きく、細くくびれた腰に連なる張り出した尻を緩やかに揺らして歩けば、しなやかに伸びた尻尾がゆらり、ゆらりと左右に揺れた。

あいつが チェシャ猫。

ピンク色に染められた唇を尖らせ、「…でもね。 ダメよ? だぁめだめ。 わっちは、ずうっとあんな場所にいる気はないのよん。 はぁい! 王様交代! 今度は、わっちがあんたを最下層に閉じ込めてあげる。 大丈夫。 寂しくないわぁ。 だって…貴方と遊びたーい!っていうお友達が、ほら、こぉんなにたくさんいるんですもの」と、後ろの怪物達を指示す。
気味の悪い声が次々に上り、圧倒的な音になってその世界を塗りつぶす。

燐がぎゅっと白雪にしがみ付き、翼も知らず背筋を冷たい汗が滑り落ちた。

「あらあら、ベイブってば人気者」とウラが唇に手を当て首を傾げれば、「代わってやろうか…?」とベイブが問いかけ、「遠慮させて頂くわ」と即座に断わられていた。

「みんなに相手して貰っているうちに、千年なんてあっという間。 そうね、大事な大事な竜子と誠も、一緒に閉じ込めてあげる。 どうぞ仲良く暮しなさいな。 勿論わっちも遊んであげるわよ? 昔よりも、ずっと、ずっと、たぁっぷりとねん」と言い、チェシャ猫は赤い舌を出して、唇を淫靡に嘗め回した。

「たかだか…猫の分際で…大きく出たものだな」
そうベイブが言えば、「ミャハハッ!」と腹を抱えてチェシャ猫は笑い、「…そんな事を言ってられるのも今のうち」と告げると、翼たちに向かって嘲笑うような表情を見せた。
「あんた達も、ばかな子達ね。 んふ、でも、可愛い子揃いじゃない。 いいわん、ゾクゾクしちゃう。 貴方達も、一緒に閉じ込められたいの? いいわ。 遊んであげる」
そうチェシャ猫は言い、そして後ろの軍勢に向かい「…やっちゃって」と彼女は此方を指差した。

雪崩を打つようにして、此方を四方に囲み向かってくる軍勢を前に、翼はベイブから預かったペンダントを首に掛け、一気に強風を巻き起こす。

いつもよりも、威力が凄まじい。

そこらかしこで、トルネードを起こし、出来るだけ大勢の敵を足止めにした。

ウラがけたたましい笑い声をあげ、激しいステップを踏んだ。
白いスカートの裾を翻し、「ばぁか! ばぁか! 馬鹿野郎の糞野郎共が! あたしを? 閉じ込める? くひっ! くひひひひっ! そんな寝言は寝てからでさえ慎みやがれ!」と叫ぶと、とてつもない雷が魔物たちに降り注いだ。

轟音が断続的に響き渡り、燐が耳を塞ぐと「耳が壊れるのじゃ〜!」と叫んでいる。

チェシャ猫が目を見開き、「…何者?」と問うてきた。

「…僕? 王子様だよ」

翼は笑ってそう答え、そして母の形見の神剣を召還した。

「悪い猫ちゃんにはおしおきだ」

風を操り、敵をなぎ倒し、心がありそうなものは、魅了によって無力化させながら一気呵成にチェシャ猫へ詰め寄る。
チェシャ猫が、ひゅっと腕を横に振り抜けば、その手に銀の細いレイピアが現れて「舐めんじゃないよ…」と喉で唸った。
カンッ!と高い音を立てて、剣と剣がぶつかる。
翼が持ち前の素早さで、足首や、腹、首元を、容赦なく斬りに行けば、猫特有のしなやかさで、身をくねらせ攻撃をかわし、此方の隙をうかがって鋭い一撃を食らわせにきた。
空間さえ切裂く神剣なれど、チェシャ猫の持つ地獄に落ちたユニコーンの角から出来たというレイピアにも相応の魔力が宿っているのだろう。
力任せに剣を叩きつけても、細い外見であるにも関わらず折れる気配は感じられない。
「っ! では、これならどうだ!」とチェシャ猫の不意をつくように、足元で風を起こし、彼女を転倒させようと狙ったが、チェシャ猫はくるりとバック転をしつつ高く跳躍しながら、後ろに飛びのいた

ウラの笑い声が響き渡っている。
燐や、ベイブ達がどうしているかと視線を向ければ、銀の結界付近まで近接した魔物たちも結界に弾かれ手出しは出来ないでいるらしく、ベイブが時折鬱陶しげに振る指から放たれる真っ白な炎に包まれた魔物達は見る影もなく溶け果ててしまっていた。

チェシャ猫は口を歪め、周囲を見回し「侮ってたってことかしらん?」と首を傾げる。

「ベイブの状態があんなに良いだなんて、想像もしなかった。 もっと赤ん坊みたいに泣いてんなら、可愛げもあったのに」

チェシャ猫は、そこまで言ってにっと唇を割く。

「『ママ』におっぱいでも貰ったの? ベイブ」

チェシャ猫は、悪意のある声でそう言って、それから、ベイブの傍へと一気に駆けた。

「っ! 止まれ!」
ウラが叫び、指先に雷を宿らせ一気に頭上から振り下ろすと、その指先から雷の矢が射られる。

まるで光線のように放たれる、その攻撃を右へ左へと避け、一気にベイブの目の前まで辿り着き、チェシャ猫は「ぐっちゃぐちゃ!」と叫んだ。

「何人、一緒にヤったっけ? 血のブレンドスープを何杯一緒に飲み干した?! ここにいる娘っ子たち位の年齢の女が、あんた、大好物だったよねぇ? 今更さ! 今更さ、ベイビー! 昔は、お高く止まった女も知らない騎士団長! お次は、残虐非道、悪辣無比の快楽殺人鬼! それで、今度は何になるつもり? 女の子達に守られて、泣いているばかりの、ベイビーちゃん? 『アリス』をやった時はどんなんだっけ? ねぇ、昔語りをして頂戴? 『アリス』は最期に、あんたになんて言ったんだっけ?!」

ベイブの表情が見る見る歪む。

両手を広げてチェシャ猫が喚くのを、白雪がその眼前に立ち、両手を広げ「おやめなさい!」と喚いた。


「役者が違うんだよ! 白雪!!」


チェシャ猫が叫ぶ。


「ここは あんたなんか お呼びでない 世界さ」

笑うチェシャ猫に白雪が青ざめ言葉を失くした。


「あっ…」

ベイブが頭を抱える。

「うっ…あっ…」

銀色の結界が乱れ始めた。

「あっ…あ…まこ…と…何処? 竜子…りゅう…こ…」

あの時と同じ状態だ。
そう、デリクと初めて会った時に見られた発狂状態。

まずい。

世界がぐらぐらとゆれ、翼は一瞬倒れかける。
壊れかけている。
ベイブが。

そして、彼を修復できる二人は、今はいない。

高らかにチェシャ猫が笑う。

「来ないよ。 可哀想なベイブ。 あんた 捨てられたんだ」

ベイブが、全身を震わせ、耳を塞ぐ。

「あんまり可哀相だから、わっちが拾ってあげようか?」

揺れが酷くなる。
背後から襲い来る魔物達を風で留め、何とかベイブの正気を取り留めるべく一気に駆け寄ろうとした時だった。


「来ない? 女王が? 猫如きが…。 己の分を弁えなさい」


そう言って白雪が立ち上がった。


「悔しいけれど、あの女がこの城の女王である以上、来るのです。 あの女は。 来るのです。 王が呼べば」

白雪が胸に手を掛ける。
ずるりと、燐が訪れた時のように、胸の間から女の指が突き出された。

「竜子!」

ベイブが名を呼ぶ。

「あいよ!」

それは紛れもない竜子の声。
ぐいと白雪の胸を押し開き、竜子が千年王宮に降り立った。

王宮中の人間、魔物ですら、息を呑んだ。

薔薇の飾りがあしらわれ、裾の広がったゴージャスな赤いロングドレスを着ていた。
華奢なハイヒールを履き、豪奢な薔薇モチーフの髪飾りで金色の髪を纏め上げている。
翼にこの城を託して黒須を救いに行った時は、疲れ果て、酷い有り様だったと言うのに、今の姿は、まさに女王の名に相応しい美貌と風格を兼ね備え、血色の良い頬や、滑らかな肌、そして何より表情が、躍動感に満ち、健康的で、華麗な色香を発散していた。

(良かった。 無事だったんだ)と心底安堵する。

余りに、辛そうな様子で行ったものだから、今の元気な姿を見て翼は「全く、心配ばかり掛けて…」と言う。
竜子に次いで、前回チーコを連れた旅で知り合った向坂嵐が現れた。
とはいえ、竜子同様普段の姿から想像できないほどめかしこみ、華美な衣装を身に纏っている。
黒い透かし模様の精緻なレースが施された大き目な白い立て襟のドレスシャツの上に銀色の十字架モチーフがあしらわれ、いたるところにメタルボタンが付けられているインパクトのあるデザインの、裾の長いジャケットコートを羽織り、ウラが好みそうなゴシックファッションを身に纏う無性めいたスレンダーな美青年に変じていた嵐は、翼の驚きの視線に気付いたのか、若干焦り気味に「違うから! 俺の趣味じゃないから! 色々あって、こういう姿をしているだけであって、基本、俺の全身コーディネートの平均額は3000円だから!!」と、「そんな別に知りたくないよ…」情報を公開してくる。
ウラは、予想通り好みの姿だったのか「いいわね。 おまえ、中々素敵だわ」と嵐を褒め、「あら…あの着物もあたし好みよ」と呟いた。

視線の先には見知らぬ美少女。
燐が一目散といった調子で駆け寄り、ぎゅっと抱きついている。

「曜先輩! 曜先輩! 燐は! 燐は、頑張ったのじゃ! 曜先輩の為に、頑張ったのじゃ!」と喚く燐の体をしっかりと抱きしめ「ああ。 よくやった。 えらいぞ、燐」とその頭をくしゃくしゃと撫でた。

あの人が「曜先輩」か。

彼女は、竜子達と行動を共にしているらしく、嵐や 
竜子同様、黒薔薇のモチーフを濃い黒糸で刺繍で施された和洋折衷の打ち掛けを、豪奢に重ねて、羽織り、着飾っている。
美しい絹糸の如き黒髪を背中に流して、十二単を身に纏い、銀色のティアラを頭に飾っている気品ある姫君の如き美少女は、ついと辺りを見回し魔物達が城内を埋め尽くしている情景を眺め眉を顰めた。
竜子と嵐が、ウラやベイブと話し込んでいるのを他所に、曜が銀色の結界の向こう側に立つ翼の姿を見止め、ツイと頭を下げる。

「貴方が、翼さんか?」
問い掛けに頷きで答えた。
「この状況を見る限り、この子を、連れて帰りたい所だがそれも叶わぬ身の上。 だが、竜子がこの子の無事を請け負い、何があっても無事に帰してくれると約束してくれた。 竜子が言ってたんだ。 貴方がいるから大丈夫だと。 頼む…この子を…」とそこまで言ったところで、燐が曜の着物の袖を引いた。
「曜先輩。 燐は…燐は大丈夫なのじゃ」
曜を見上げ、泣きそうな顔を無理矢理のように笑顔にして、燐は言い募る。
「燐は…実は、そんなに怖くなかったのじゃ。 燐は、守られる為に此処に来たのではないのじゃ。 翼と、ウラの力になり、この城をひいては、世界を守る為に来たのじゃ。 大丈夫。 燐は逃げ足が早いのじゃ。 いざとなれば、誰も追いつけはせぬ。 だから…」
ぎゅうと曜の内掛けの袖。
高い着物だろうに、皺になりそうなほどに強く強く握り締め、「…翼は…全部守ろうとしておる。 それでは、余りに、翼が辛い…。 燐は…己が身は、己で守る。 翼の重荷にはなりとうないのじゃ」と燐は言った。
燐が、こんな事を考えていたなんてと、驚き、その健気さに胸を打たれる。
曜は燐の顔をじっと見下ろし、一度コクンと頷いた。
「…キミに、此処に行って貰ってよかった。 今、やっと心から思える。 でも、キミが無事に帰ってこなければ、私は即座に後悔する事になる。 だから…」
曜に向かって「燐は自分の身を守る実力にかけては天下逸品じゃ! 安心するのじゃ!」と明るい声で答え、燐はドンと胸を叩いて請け負った。
薄く笑い、それから翼に視線を向け「この子がキミに会えた事が何よりも、この件に関わって良かったと思える成果になりそうだ。 どうか、他の誰かだけでなく、キミ自信も無事で…」と曜が言うので、想像以上に見事な人物であると驚嘆しながら翼は「お互いに…ね?」と答えて笑った。
曜も美しく微笑み返し、さっと蝶が羽を広げるように着物を脱ぎ捨てる。
着物の下に、下着として着込んでいたのであろう、動きやすそうな小袖姿に変じており、鮮やかな椿の柄があしらわれた着物姿に、下ろしていた髪を素早く纏め上げ、簪で留めた姿は、十二単姿とはまた違う凛とした美しさに満ちている。

「…キミに預ける。 大事な着物なんだ。 よろしくな?」
曜の言葉に感激したように頷いて、それから燐は着物を抱え、深々と頭を下げた。

「…御武運を」

竜子が、ベイブから受け取ったらしい大きなマシンガンを二つ抱えて、白雪に走り寄る。
嵐も、薄紅色の美しい剣を片手に白雪の元へ向かっており、不意に竜子がこちらを見て、大きく手を振り、それから親指を立てた。
翼も親指を立て返せば、「じゃ行くぞ!」とまた白雪の胸の鏡に三人は飛び込んでいく。

ベイブの様子は、竜子の力もあってか落ち着いており、チェシャ猫は地団駄を踏むと「なんで! なんで! あの女!」と喚き散らし、そしてベイブを睨みつける。
だが、最早言葉で篭絡するのは無理と見たのか、「もう…生死の無事も問う気はない。 遊ぶつもりもなくなった。 一気に、叩き潰してやる!」と叫ぶと、魔物達が大きな黒い波のように一気に攻撃を仕掛けてきた。

風で押し返そうとするも、とうとう燐の血の効力が切れたのか、その勢いが留められない。

(くそっ! 数が違いすぎる!)と歯軋りすると、その翼の声に応えたかのように思いもよらぬ援軍が現れた。

それは、空中から、床から、想像もしない場所から不意に現れ、姿を現し、群れになり、そして一気に、敵に踊りかかり始めた。

「っ…これは!」

魔物とはまた別の異形。
羽の生えた下半身が馬男達や、体中を動物の毛皮に覆われた者、鱗や角を生やした不思議の生き物達が魔物たちに喰らいついていく。

「っ!」

翼も風の力を更に強め、神剣を振りかざし、魔物の群れに飛び込むと、近くにいた鋭い鉤爪を生やした男に問い掛けた。

「き…君達は?!」
「キメラだ! K麒麟に掴まってた所を助け出されてな! その代わり、あんた達を助けるように言われてきた!」
男の答えに驚いて、「誰に?」と問い返せば、「青い目の胡散臭い男にだ!」と即座に答えが返ってきた。


デリク。


翼は、誰の差し金か即座に察し、思わず笑ってしまう。


流石というべきか、然し奇想天外な事をやってくれる。
どうやってこの場に彼らを送り込んだのかとか不思議に思わないでもないが、今は正直唯々、ありがたい。
「…自分の身の安全を第一に考えてくれ! あと、非戦闘員は、あの銀色の結界の中に!」
翼が指示をすれば、キメラ達が一斉に声をあげた。
キメラ達が魔物と取っ組みあい、この世の物とは思えない戦闘風景が繰り広げられる中、ウラが突如、ペガサスのような生き物に跨って、魔物の群れの頭上を抜け、何処かへ飛び去ろうとした。

「っ! ウラ!!! 何処へ?!」

翼が叫べば、既に小さな点になり始めたウラが大声で答える。

「迎えに行くの!!」
「誰を!」


「アリスを!」

大きく身じろぎ、そして、天上を見上げる。
そこには相変わらず張り付けにされたアリスの体があって、ウラが一体何を目的としてここを飛び立ったのかが理解出来ずに翼は混乱する。

されど、今は立ち止まっている時にあらず、ウラとて、この城を救う為に真剣であった事を重々承知している翼は、彼女には彼女なりの策があるのだろうと頭を切り替え、魔物の群れを片付けて行く事に専念した。

それから、どの位の時間が経ったのだろう。
風の力を振るい、剣を翳せど、無数に湧き出る魔物の前にはキリがなく、翼は疲労感を覚え始める。
だが、自分が膝を付けば、全てが終わる事も察している翼は、魔物の群れをくぐりぬけ、その中心で嫣然と戦況を見守っていたチェシャ猫へと斬りかかった。

「っ! あらぁ、王子様! ご機嫌麗しく!」

チェシャ猫の言葉に「そちらもね!」と言いつつ剣を振り下ろせば、ひらりと身をかわし「…中々しぶといじゃない。 こんな援軍まで呼んじゃって!」と言い、キメラ達を指示す。
「…あんた、何のつもりなの? 翼って言うんだっけ?」
そう問われ、「ただ、守りたいだけだ!」と言葉を返す。
「っ、守りたい? 何をよ!」
「この城を!」
「何故?!」
「約束したから、竜子と!」
翼の言葉に、チェシャ猫は、声を上げて嗤い「ばかね。 お友達のためぇ…なぁんて、反吐が出るわぁ…おめでたくって!」と言い、レイピアを叩きつけてくる。

「聞いてたでしょう?! ベイブは、気が狂ってる! 昔は、大量に人間を殺して遊んだわ? 正気の時だって危ういものよ! ジャバウォッキーと女王が良い気になって、お気に入りを気取っているけど、それだっていつまで続くものだろうねぇ! あんたが、守ろうと思ってるこの城は、本当にわっちから守り抜き、ベイブに返す事が正しいなんて! 翼はどうして言い切れるの?!」


チェシャ猫の言葉に、一瞬答えを見失った。

「何を持って、わっち達を討ち、何を持って、あの男を守るの? 正義の味方のつもりなら、お門違いも良いとこさ! いいかい、誰が王様になろうと、このお城は危険で、あの男は、わっちよりも、ずっと凶暴で、凶悪なんだ! 翼!」

チェシャ猫が腕を伸ばし、翼の手首を掴んで顔を寄せる。

「あんたが討つべきは、わっちじゃなくて、ベイブじゃないのかい? この世界の為を思うなら、その剣はあっちに向けられるべきもんじゃ、ないだろう?」

甘い、花の香りがする吐息。

くらりと眩暈を感じ首を振れば、妖艶な顔がぐいと翼に寄せられる。


「ねぇ…翼…。 わっちと一緒に行こうよ。 世界、一緒に守ろう。 ベイブの手から」

チェシャ猫に引き寄せられ、背中が丸まる。
猫背になり、ピンク色したチェシャ猫の瞳の色に魅入られた。



「背筋を伸ばせ! 翼!!!」

 

頭を揺らすような燐の声に、咄嗟に背筋を正す。

「曜先輩が、言っておった。 姿勢をただし、背筋をシャンと伸ばせば、大抵の事はなんとかなると。 翼! 惑わされるな! 今、お主が判断基準にすべきは、正しいか、否かではない! そんなもの、誰にも判断できぬ! だから…!」
燐が、チェシャ猫を指差し、ニヤリと仔悪魔のように笑って言った。


「いけすかない奴を叩き潰してしまえ」


翼は、背筋を伸ばし、息を吸う。
チェシャ猫の顔をマジマジと見て、それから翼は頷いた。

「僕は、君とは一緒に行けない」
チェシャ猫が、レイピアを青眼に構え突進してくる。

「だって 僕 君が嫌いなんだ」

微笑んで、剣一閃。

チェシャ猫のレイピアが高く跳ね上げられ、がら空きになった胴を薙ぎ払う。
辛うじて飛びのいたチェシャ猫だが、その剣先はチェシャ猫の胸の辺りを切裂いていた。
大きく魅力的な胸が揺れ、はっとしたように胸を押さえたチェシャ猫は慌てたように顔を上げ、そして翼の胸元を凝視する。


「それ…は、わっちのもんだ!」

手を伸ばしてくるチェシャ猫をいなし、自分の胸元に手を伸ばせば、そこにはベイブから預かったロケットペンダントが下げられている。

「君の?」

「返せ! あんたの胸に掛けられているべきものじゃない!」

そう手を伸ばしてくるチェシャ猫を風で押し返し、その中を開いて確かめようとした時だった。


パン!と突然何かが弾けるような音がして、ポツンと翼の頬に生暖かい液体が当った。

「え?」

そう呟いて見上げた翼の視界一杯。


空中から 魔物と戦っていたキメラ達の 頭が 赤い花が咲くように 弾けていた


「…え?」


呆然とした声が漏れた、一瞬後、雨が降った。

暖かな血の雨が。

首を巡らせれば、キメラ達が皆、頭を爆ぜて倒れていく。


パン、パン、パン

あっけない程に連続して聞こえてくる破裂音。
キメラ達の頭に赤い花が咲いていく。


子供もいた。
女性もだ。
関係なかった。

戦っているものも、ベイブの傍に身を寄せていたものも、軒並み、みんな、頭をなくして、その場に倒れた。


魔物達が血に染まる。
翼も降りしきる鉄の匂いの生温い雨に打たれ、赤く染まった。

それは、地獄めいた光景。


チェシャ猫が、「ひっ…」と引き攣った声を出した。

「ひっ…ひひひっ…ひひっ、ひあっはぁっはぁっはぁぁぁっ!」

大声で笑い、翼を指差し、そして同じように血を浴びている燐と、ベイブの指差す。


「贈り物だ。 わっちへの。 自分達だけ、助けが入るって思ってた? 一緒さ。 わっちにだって、いるんだよう。 『仲間』ってやつがね」

翼は、戦慄く体を無理矢理押さえ、静かに問い掛ける。

「誰?」

問わずとも分かっていた。

キメラの頭を一斉に爆破なんて、出来るものは一人しか思い当たらない。

チーコの肩甲骨の下に、発信機を埋め込んだ男。

人を攫い、異形に仕立て上げたマッドサイエンスト。



彼なら出来る
全てのキメラの頭に小型爆弾を受けこむって芸当を。


「Dr?」

翼の問い掛けに、チェシャ猫が手を叩く。

「ご名答。 彼からの贈り物だわ、この花は! どう? 綺麗なもんでしょう?」

そして血塗れの両手を広げ、微笑みながら言った。

「さぁ、戦況は、またも振り出しに逆戻り! さぁ、あんた達、これからどうする?」




〜to be continued〜


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが遅くなってしまい大変申し訳御座いませんでした。
今回は前編のお届けに御座います。
是非続けて後編も参加くださいますようお願い申し上げます。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。