コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


black archetype

■オープニング

 火の付いていない紙煙草を銜えた中年男が某ネットカフェの端末の前に座って何やら書き込んでいる。
 一度何処かの掲示板に書き込んではまた次。一応は場所を選んで、あちこち、何度も同じ内容――けれど文脈は少しずつ変えて書き込んでいるようなそんな感じだった。
 書き込んだ記事の投稿者名は御多分に漏れず匿名希望。
 …『彼』は『ゴーストネットOFF』の投稿掲示板にもまた同様の内容を書き込んでいる。
 書き込む前の時点で、同様のネタが既にして何度も振られている事を確認してから。

 そのネタとは――都内某所の鉄道車両倉庫付近で、一気に三人も惨い殺され方をしていた猟奇殺人事件についての事。
 それだけならばゴーストネットの話題としては畑違い。だがそれでもこのゴーストネットでちらほらと話題になっているだけあって、確かにそういう意味でも怪しい情報が垣間見えている事件でもある。

 三人とも、被害者の遺体は人間では有り得ないくらいの物凄い力で無造作に引き千切られたようにバラバラにされていたらしい。…それも、どうやら生きながらだったのではとか。
 足りない部分まで結構多くあったらしい、と言う話もある。
 だが――場所柄有り得なくもなさそうな轢死と言う訳でもないらしい。場所の方にはそれらしい痕跡は何も残っていなかったとの事。レールにも、車両にも。
 だからと言って――猛獣が近場の動物園から逃げ出したとかそういう話も無いそうだ。
 それから、現場の惨状には本来あるべきものが何故か何処にも無かったと言う話もある。
 無かったもの――それは、血液。
 遺体の破損状況を見る限り現場は血の海になっていておかしくないのだが――何故か血の色は無いに等しかったらしい。…まるで被害者の身体から、予め血が一滴残らず抜かれていたような。

 …ここまでは、『彼』が書くまでもない話。誰かが何処かで書いている話の繰り返しになる。
 だから『彼』はその話を織り交ぜつつ、別の新たな情報をそこに追加する。

 現場付近に設置されていた防犯カメラの映像が――それも、被害者が殺されるその時の様子の一部始終が映されている映像が存在する事を。
 けれどその映像は表立って公表される事は決して有り得ないと。…いやそれどころか、防犯カメラがあった事それ自体さえ表向きは否定される事になるだろうと。
 何故なら映されていたその映像は――何処からどう見ても『化物のディナータイム』としか思えないものだったから。そんなものが公的に認められる訳がない。CG、トリック、ツクリモノと思われるのがオチ。
 けれど、そんな映像が何の細工も無い筈の防犯カメラに実際に残されている。更には人間の力で起こすのは無理だろう猟奇殺人事件の痕跡まで、ツクリモノでは無い証拠とでも言うようにそのカメラが見ていた位置にはっきりと残されている。
 だから『彼』は書き込む事しか――情報を伝える事しかできない。

 ――『食事』であるならこの事件だけで終わると思うか?

 最後にこう問い掛けて、『彼』の書いた記事の内容は締められている。



「…誰か気付けよこれで」
 と、『彼』――紙煙草を銜えたままの中年男は某ネットカフェの端末の一つの前でぼそりと呟く。
 その男は普段はこの手の書き込みをする時は、自分を表す記号として『常緑樹』と言うハンドルネームを利用している事が多い。
 が、今回は使わない。
 …記事が何者かに検閲される可能性が高いから。
 こんなところでこの話――事件の話のみならず『防犯カメラの映像の話』まではっきり出せば、その記事はまず消される。
 だが、情報を提供する場所を選べば――例えばここゴーストネットで書くのなら、対応出来るだけの能力を持った上で首を突っ込んでくる奴も記事を見ている可能性が、高い。消される前に伝えたい連中に伝わる可能性も、高い。
 …実は関連各調査機関にも密かに話を通して、衝撃的な防犯カメラ映像のプリントアウトまで一応預けて来てありもする。
 どんな形でもいい、まともな人間が手を出せそうにないこの事件に、出来る限り速く対応して欲しいから。
 だから頼れそうな奴に出来る限り速く話が届くよう、なるべくこまめにあちこちに――この巨大掲示板であるゴーストネットに書き込む事までしている事になる。

 と。
 …「常緑樹」こと成り行きで怪奇系の担当刑事にされてしまっている常磐千歳――が思っていた通り、ほんの数分後、今彼がゴーストネットに書いた書き込みは何者かの手により消去されている。
 勿論、管理人の瀬名雫や彼女に連なる者の手によってでは無く――それ以外の何者かの手で。



■それぞれの動き方

 画面の中で該当記事が消えたその前後、ちょうど夜神潤は自宅でPC画面を眺めていた。
 ゴーストネットOFFのその事件関係のスレに、ごく一時の間だけ書かれていたその記事。その時はまだ、書き手が書き込んだ時点で何か記事の中に不手際を見付けて消したのか、はたまた何か新たに書き直すつもりで消したのか――と、特に感慨も持たず思っていた。が、何故かその件が頭の片隅に残っているままネットサーフィンを続けて暫し後、この記事がそう言ったありがちな理由で消されているのとは違うらしい、と気が付いた。
 元々、あちこちの掲示板で似たような話をネタにした記事は潤も閲覧している。
 都内某所の鉄道車両倉庫付近で、一気に三人も惨い殺され方をしていた猟奇殺人事件についての話。
 まともな手段――人間で出来る手段で成したのだとは思えない、残された痕跡の事についても色々と書かれている。特に怪奇系の板ではその傾向が顕著である――それはそちらの世界でしか『有り得ない』とされる手段をとられた、としか思えない痕跡であるからだろう。故に、痕跡について幾らかでもまともな論考があるのは怪奇系の板ばかりになる。他のジャンルの板ではそんな痕跡の事を取り上げる際、端からまともに論ずる気など無い――単にセンセーショナルさを売りにした煽り、悪趣味な話だが楽しく騒げる絶好の噂の題材、として取り上げているようにしか見えない書き方の記事が圧倒的に多い。
 本当か嘘か、ネットの世界ではそんな事は話半分に見ておくのが常の事。
 …にも関わらず、先程ゴーストネットで消されていたその記事はどうやら「書き手とは別の何者かに消された」のだとあちこち見て回る内に気が付いた。
 どうやら、自分の見たあの記事に限らず、カメラの件が書き込まれた記事だけが消えている。

 思わず、黙考。
 ………………あからさま過ぎないだろうか。
 カメラの件が一度でも書き込まれた時点で、情報は既に漏れている事になる。ならばそれをわざわざ消すのは――本当に情報を秘匿したいのなら却って薮蛇になるだろう。逆に、知られたくない情報である、と宣伝しているようなものである。
 対処したいだけならネットの世界は玉石混淆なのだから、それを利用して情報の信憑性を下げるなど他にも方法はある筈。
 …と、なると。
 情報を伝えたい者に伝える事を考えているのは――記事を書いた側だけじゃなく、削除している側も同じかもしれない。
 例えば能力者を巻き込んで、何かの実験をしたいとか、逆に何かの後始末を付けさせる為に能力者を巻き込みたい…等々の。
 どういうつもりなのだかは記事を見ただけな今の時点ではまだ何とも言い切れないが、知った以上は放って置ける事でもない。
 …それは本当にただの『食事』であるならば――生きようとする事を咎めるのは酷だと思うが、それにしては行儀が悪いし回数も頻繁ではないだろうか。一気に三人。その時点で――その量には引っ掛かりを覚える。…俺自身には吸血衝動がないから他人事に思えてしまっているだけなのだろうか。わからない。…判断が独り善がりにならないよう、その事だけは予め弁えておく。
 ………………これは、直に現場を見てみるしかないか。
 取り敢えず、そう結論が出る。
 結論が出たところで、隙間を見付ける方が難しい頭の中のスケジュール帳と、今立てた予定――現場へ行ってみる事――とを照らし合わせる。そう簡単に仕事をすっぽかす訳には行かない。

 …何とかなるか。
 そう判断出来た。



 …このクソ忙しい時に、IO2からの依頼が転がり込んできやがった。
 三十代の若さながら東京都知事に就任していたりする伊葉勇輔の元に、その依頼をあろう事か直接持って来たのは喪服の如き黒の上下を纏った――IO2エージェントだった。が、黒服は黒服だが二人連れでもなくたった一人で行動――それも都庁まで直接足を運んで来る辺りどうも変則的である。更に言うならこの黒服、他の黒服連中と違いサングラスを掛けている訳でも無く、どうも見慣れない、毛色の違う温顔な野郎でもある――ついでに瞳が緑色なのに気が付いた。サングラスを掛けていればそのちょっと珍しい色も隠れるだろうに隠してもいない。…まぁ、黒服にサングラスなどと言った風体で都庁内をうろついている方が余程目立つとも言えるかもしれないが。…黒服だけならまだファッションもしくは喪服で通る。
 黒服の歳の頃は勇輔より十くらい上。名前を聞いたら、では『グリーンアイズ』で、とか名乗りだか何だかよくわからないすかした名乗りをされた。が、その時点で相手の正体に気付く。…IO2日本支部総務部内勤の取扱注意、刑部和司とか言う元刑事の男。本来内勤と言う鎖で縛られている筈なのだが理由が付けられる時にはすかさず理由を付けてどんどん外に出て来る辺りが『取扱注意』の所以。…勇輔との面識はこれが初。
 ともあれ、伊葉勇輔はそいつから話を聞かされる。都内某所の鉄道車両倉庫付近で、一気に三人も惨い殺され方をしていた猟奇殺人事件についての話――その調査。犯人を捜し出し適切に対処する事が依頼の概要。聞いてみれば知らない事件でも無い。知事と言う仕事柄ニュースはそれなりに見ているし各社の新聞にも毎日目を通している――通させられているとも言う。それらの中でその事件は、目立つニュースに該当した。
 が。
 …IO2が乗り出すような――オカルト絡みの事件だとは聞いていない。
 勇輔は改めてそこを訊き直す。
 と、現場の防犯カメラに残されていたと言う映像が見せられた。
 …一発で理解した。
 勇輔が理解したかと思うと、グリーンアイズと名乗ったその黒服は勇輔の前からいつの間にか辞している。…こういう鮮やかな去り方もIO2の黒服ならではと言えるかもしれない。
 勇輔は一人になってから、見せられた映像を頭の中でまた再生する。
 …疑いようなくIO2の――俺の管轄だ。
 こんな化物がこの街で好き勝手やらかしているとなりゃあ、放って置ける訳もねぇ。

 が。

 …改めて自分の目の前を見直してみれば、机の上には今日中に知事の決裁が求められている未決の書類が山積みで。
 これもまた都政を預る者としては…幾ら面倒臭いものであってもそう簡単に放り出せるものでもない。

 が。

 知っちまった以上は――この『依頼』の方が余程放っとけるこっちゃねぇ。
「ったく。仕事が溜まってんのによ…」
 愚痴りつつ、がりがりと乱暴に頭を掻き回す。
 髪型が乱れるのも構わない。

 未決の書類と人殺しの化物、どちらに先に対処するべきか。
 ――――――考えるまでもねぇ。都民の平穏を守るのが都政を預かる者の役目だ。



 某鉄道車両倉庫付近。
 陽射しの強い中、腰まである長い黒髪をツインテールに纏めた高校生程度の少女が、ゴシック系の服装に合わせたような華やかな黒い傘を差して佇んでいる。
 フェンス越しに多数のレール――引き込み線が並ぶ中、ごく一部が不自然に青いビニールシートで覆われているのが見える。恐らくあそこが現場――猟奇殺人事件があったと言う現場はやはりここの事で良かったらしい。ネットの情報も結構使える時は使える。…それはある程度割り引いて考える必要はあるだろうが。

 少女――黒蝙蝠スザクは、書き込まれてからものの数分で消されていたゴーストネットの記事について思い出してみる。
 三つの犯行の内の一つか全部かまでは書いていなかったが、とにかく犯行の一部始終を見ていた防犯カメラの映像が存在すると言う事。…そこから見るに、まるで化物のディナータイム――要はお行儀の悪い食事、だとも表現してあった。
 なら、やり方そのものも、わざわざ防犯カメラの前でと言う事も、随分と賑やかな宣伝になっている事になる。
 けれど、情報は速やかに消えて…派手にやり合っても記録されない。
 要領を得ない情報しか、公的なところからは流れてこない。
 …便利な話だと思う。
 だからこそ、まずここに――事件の現場に来てみるつもりになったのだけれど。

 フェンスの内側に入れないかな、と考える。
 出来るならばもっと側で現場を見たい。
 それとなく辺りを見渡して確かめると、入れそうな場所はある。…これでは、簡単だ。
 行ってみる事にした。

 砂利を踏んで歩く。
 …血痕等わかりやすい痕跡は残っていなくとも、他のアトがある筈。地を蹴った足跡、攻撃の余波の残骸。何も無ければ…非物理的な攻撃の可能性がある。下がレールである以上は、見付け難いとは思うけど。
 それでも、普通の殺人事件を扱うような公的な機関とスザクは、見る場所が違うから。
 何か、見付けられると思う。

 まずビニールシートの周り、全体を俯瞰して見てみる。
 ビニールシートから少し離れた場所。ほんの少し、気のせいくらいかもしれないけど、砂利の敷き詰められ方が薄くなっている――凹んでいる場所がある。
 勿論、それは警察がここに来た時に――犠牲者の人たちを片付ける時に何かの拍子で動いただけと言う可能性はある。それ以外の偶然の可能性もある。けれど同時に――何者かが強く蹴り出すような、踏み込みをしたからにも見える。ただ、事件と関係がある踏み込みと考えるには、少し位置が遠過ぎるとも言える。
 それでも、スザクは恐らくこれは事件を起こした者の踏み込みだと直感する。…これだけ離れた位置から踏み込んで、一気に襲い掛かった…と言う事か。それだけの身体能力。相対するには【黒の業火】を主体に考えるべきかもしれない。スザクの速さで惑わす事が出来るか。いや、こういった手合いに対しては同じ土俵に乗らない方が良い。何か手段を考える必要がある。
 薄くなっている場所の砂利を拾ってみた。…砂利自体に何か異常は無いかどうか。
 そこまでは、ない。
 …ならば異能の術式等では無く、強弱の程度の差はあれ普通の手段の範疇か。
 ビニールシートを捲って内側を覗いてみる。
 僅かながら血の色――不自然な黒褐色は残っていた。それはこの砂利では仕方無い程度の痕跡。けれど、元からこの状態だったのならば確かに人三体分と考えるには――いや、一人の事件の現場がここだとして、一体分と考えたとしても――少な過ぎる。

 血が抜かれている。
 食事。
 食事ならば、誰でも何でも良かったのだろうか。
 それとも、選んだ?
 …なら、血を抜かれた三人が誘き寄せられたと言う線もある。
 犠牲者の人たちに共通項はないかどうか。
 あの記事を書いた人になら、訊いてみる価値はある。

 …どうやって伝手をつけようかしら。
 少し考える。
 いつもの皆なら、誰か知っているかもしれない。
 スザクと同じ事を気になっているかもしれない。
 …草間興信所ででも心当たりを訊いてみようかしら。

 そう決める。
 それから、スザクはなるべく早い内にその場所を後にする。
 …鉄道職員さんに見咎められては、面倒臭い。



 草間興信所、応接間のテーブル上。
 何故か色々設備更新がならない草間興信所唯一最大の新設備と言える草間零所有のノートパソコンに、あまり鮮明に被写体が見えない映りの悪い短い映像ファイルが再生されていた。
 その映像を持ち込んだ当人である常磐千歳以外、その場に居る皆がその映像を覗き込んでいる。
 …幾ら霊鬼兵だサキュバスだっつったってあんまり女の子に見せるようなもんじゃねぇが、と前置きしてからの再生だったが、ノートパソコンの持ち主である零も偶然この場に来訪していた明姫リサも、被害者が出ている以上放っては置けない、とその映像を見る事を選んでいる。…都内某所の鉄道車両倉庫付近で、一気に三人も惨い殺され方をしていた猟奇殺人事件。その事件現場にあったと言う防犯カメラの映像。

 ――…時間帯は夜。定点カメラが見つめる中、暫し静寂が続く。映りが悪く見難いのは光量が少ないせいかもしれない。特に画面に動きはなく、そのままで秒数だけが進む。画面隅に入っている時間表示の数字だけがくるくると入れ替わる。
 そんな中、人が歩いて来た。格好からして鉄道職員らしいその人物。何事も無いように普通に画面内に入ってくる。
 かと思ったら。
 いきなりその鉄道職員に――何か、黒い影が躍り掛かった。殆ど時差無く鉄道職員をその場に勢い良く押し倒す。それっきり鉄道職員は動かなくなっている――ただ、襲った方の動きに合わせて時々痙攣らしき尋常でない震えだけが断続的に起こっている。その震えに合わせたように派手な血飛沫。よく見れば有り得ない位置と角度から鉄道職員らしい作業着の袖に包まれた右腕が飛び出している――いつの間にか黒い影に千切られている。血が地面にまで流れ出し、赤い池になる。映されている地面部分一面に広がっている――が、少しして、その池が時間の逆回しでもしているように何故か面積を減らしていく。…黒い影は気が付けば犠牲者の上からは退き、地面に四つん這いになっている。
 暫し後、黒い影は顔の下方を――口元を腕でぐいと拭いながら、ごく普通のさりげない所作で立ち上がる。そしてもう、何事も無かったかのように歩き去って行く。
 そのままカメラの見ている範囲から出た。残された犠牲者の方はもう、明らかに絶命していた。…ただ絶命どころかもう人間の形をしていない。なのに、血の色が殆ど無いに等しいと言う不自然さを残して…――。
 …以上で、終了。

「食事、か」
「…」
 ぽつりとリサが声を上げている。
 零は犠牲者の身になって考えてしまったのか、痛そうな顔で黙り込んでいる。
 続いて、草間武彦の嘆息が聞こえた。
「…警察や関係者が表沙汰にしたがらない訳だ」
「そういうこった。…どう見ても変態の猟奇殺人鬼じゃ済まねぇ」
 同意しながら常磐はプリントアウトの方を――元々草間興信所に預けてあった数枚の中の一枚を取り上げひらひらと振っている。
 その一枚は、犯人と思しき存在が、画素が粗いながらも比較的はっきり写っている画像。
 黒い影が――赤く底光りする目の持ち主が、犠牲者の腕に噛み付き、明らかに牙を突き立て軽々と喰い千切っている『瞬間』を切り取った写真。…映像内の速さでは肉眼ではまず見切れなかったその時の。
 と、そこにコンコン、と軽やかなノックの音が鳴り響いた。
 はい、と零が受け答えて室内に招く前に、外から玄関ドアが開かれる。
 ひょっこりと顔を覗かせたのは、黒蝙蝠スザク。雨でもないのにゴシック系の黒い服装に合わせたような傘を持っている。
 彼女は卒無くこんにちは、と澄ました顔で中の面子にまず挨拶。
 武彦が一番初めに反応した。
「スザクか」
「はい。草間さんにちょっと訊きたい事があって来ました。ひょっとしたら知ってるかもと思って」
「なんだ?」
「最近某鉄道車両倉庫付近であった猟奇殺人事件についての事なんですけど、近頃ネットで色々書かれてますよね。そこでちょっと気になる記事を見付けたんですが…その記事すぐ消されちゃってて」
 と。
 そこまで言った途端、火の点いてない紙煙草を銜えつつ物騒な映像のプリントアウトを持っていた中年男――常盤千歳に、室内に居た一同の視線が集まった。
 室内のその反応に、スザクはきょとんとする。
「?」
「…これがその記事書いた本人だ」
「そう。常盤さん」
「はい」
 常盤。
 室内の誰からともなく指し示され、スザクと常盤の目が思わず合う。
「お。…嬢ちゃんも気付いてくれたんかい」
「あら、凄い偶然ね。…やっぱり草間さんって顔広い」
「…監視されてるようなもんなんだけどな」
 草間興信所そのものが。
 武彦がそう含んで言うと、いやいやいやと常盤は思いっ切り否定する。
「そりゃ職務上の建前に過ぎねぇって。こちとら怪奇現象の類には手ぇ出せねぇんでおめぇさんたちのところに頼ってるだけなんだからよ。ともあれ、気付いて首突っ込んでくれそうだっつー事は嬢ちゃんもその筋の人間て事で良い訳か?」
「ええ。草間さんにはお世話になってます。名前は黒蝙蝠スザク」
「…何だか御大層な名前だな。ああ、俺ァ常盤千歳ってんだ。一応警視庁組織犯罪対策部四課所属の警部補な」
「刑事さんなんですか?」
「まぁな。っつっても弾かれ者だがね」
「暴力団事務所巡回する代わりにうちとかアトラスを巡回させられてるって事だそうだ」
「ま、今回のこれは独断みたいなもんだが」
「…確かに警察のやり方には見えなかったわ」
 常盤がしていたと言う記事のゲリラ書き込み。
「でも、ちゃんと事情を知ってる人じゃなかったら書けない記事だとも思えたの」
「そう思ってもらえりゃ成功だな」
「で、早速ですがその刑事さんに伺いたい事があるんですけれど?」
「防犯カメラの映像の事かい?」
「えっと、そうじゃないんですけど…でもそれも見れるんですか?」
 映像。
 見られるならば見ておいて損は無い。
 思っていると、零がテーブル上に置いたノートパソコンの画面をスザクの方にくるりと回した。
「私たちも、ちょうど皆で見ていたところなんですよ」
 言ってから、再生。
 映りの悪い短い――性質の悪い違法スナッフビデオの如き映像ファイルが一通り流される。
 スザクは眉を顰めた。
 その様子を見て、補足するようにリサが口を開く。
「…相当、動きが速いのよね。それに力も強い」
「うん…。て。お姉さんすっごく胸がおっきい」
 いきなり。
 スザクはリサと話すなり――防犯カメラの映像を見た直後、考え込んでいるところで視界に入ってきたリサのその胸の大きさに目を丸くする。そもそもリサもリサで素肌の上に胸元を開いたライダースーツ一枚と言う風体で居るのだから、ある意味男女の別無く挑発しているとしか思えない事この上無い。…いや、ひょっとすると単純に胸がきつくて締まらないだけ、とか仕方無い理由があるのかもしれないが。…それを言うなら何を着ていてもあまり変わらないのかもしれないが。
 ともあれ、スザクに初対面でいきなりそう言われ、リサは思わず目を瞬かせる。
 それは、Oカップと言う大きな胸に注目される事はそれなりに慣れてはいるが――反面、その事について不届きな下心を感じさせずただ真っ直ぐ感心したように言われる事もあまり無い。
「何食べたらこんな風になれるんでしょうか…。えっと、お姉さん、伺うのが遅れましたがお名前聞いても良いですか?」
「えっと…リサ…明姫リサ、だけど?」
「スザクはスザクと言います。宜しくお願いしますね。リサお姉さま」
 にっこり。
「え? あ、…ああ、宜しく…」
 何だかよくわからないながらもスザクからぺこんとお辞儀をされる。
 それから、よくよく思い返してみれば――今の発言。『リサお姉さま』。
 一拍置いて気付いてから、リサはちょっと慌てた。
「って。…えええ!? ちょっとスザクさん!?」
「はい」
 スザクの方は特に何が起きたと言う訳でもなく、平然と微笑んでいる。
 …気のせいか先程までより愛想が良い。
 と、感心したように常盤が溜息を吐いている。
「やっぱりなぁ…女の子でもまずそっちが気になるもんか。うんうん」
「ってあの常盤さんっ?」
「だぁってよぉ、ある意味凶器だろ。オジサンだって初めて見たときゃ釘付けだったし。こういうヤバい話してるトコでもまずそっちに目が行っちまうのが男のサガってもんでな。なぁ草間の旦那?」
「こっちに振るな」
「…兄さん…そうなんですか」
「いや、零。あのな…」
 義妹に訊かれて口籠る草間の旦那。
 それらの様子に、あのですね、とリサがテーブルにばんと両手を突く。
「今はそんな事言ってる場合じゃないですよね!?」
 然り。
 けれど今テーブル叩いた振動で当然胸まで確り揺れた訳で、リサのこの一喝も効果あったんだか無かったんだかは微妙なところでもある。
 …注目されるのは胸ばかりで誰からもすぐに答えが返って来ない。
 リサ、がくり。
 武彦が何やら面倒そうに頭を振っている。
「…話戻すぞ」
 防犯カメラの映像について。
 スザクがこくりと頷く。
「リサお姉さまが仰る通り、速さも力も相当。刑事さんの書いた通り、やってる事は食事に見える…と。刑事さん、初めに伺いたかった事に戻っていいですか?」
「ん、そういや嬢ちゃんが訊きたかった事ってのァ何だい?」
「被害者の方に共通項が無かったかどうか、です」
 言われ、常盤は、ああ、と気付く。
「…そうさな。共通項らしいもんは特に見当たらねぇんだよ。一人目が防犯カメラに映ってる通りの鉄道作業員で、四十二歳の男。後二人は女。片方が十九歳の学生で片方が五十一歳の主婦。こっちは防犯カメラが見ている位置じゃなかった。…鉄道会社の敷地内じゃなかったって事だが。死体状況は――手口はまったく同じだがな。身体的な特徴は三人とも殆ど合わねぇ。身長も体重も体格もだ。顔の造作も別に似た傾向じゃなかった。被害者の人間関係、趣味、背景的なところもある程度洗ってはみたがそれらしい事は無かった。ま、あくまでマル被じゃなくマル害の事なんで洗い方が完全じゃあねぇかもしれねぇが」
「…じゃあ結局、手当たり次第っぽい訳なんですね」
 その『犯人』の行動は。
 スザクはぽつりと確認する。
「そういうこった」
 すぐに常盤も頷いた。
 …リサが思案げな顔になる。
「手当たり次第…か。私も長期に亘って精気を得ないと禁断症状…と言うかある種の飢餓感に襲われる事があるわ。そうなると理性を失ってしまうかも」
「…そうなのか?」
 ぽつりと確かめる武彦。
 リサは苦笑しながら、はいと頷く。
「母方の…サキュバスの特質が発現した結果です。三年前からなんですけどね。…だから定期的に少しずつお店のお客さんから精気を得ているんですけれど…」
「ああ…それで」
 武彦が曖昧に頷く。
 零がじーっとそんな顔を見つめている。
 二人の様子を交互に見てから、常盤がぽつり。
「…おー、行ったのか」
「行ってない」
 武彦、即答。
 今度はスザクが小首を傾げつつそのやり取りを見ている。
「えっと…リサお姉さまのお店って?」
「…」
 無言。
 その一連の状況に、リサはまた苦笑。…まぁ確かに、草間さんちの義妹さんやらスザクさんにはあまり言わない方が良いような。
「うーん…それより今は事件の事…だったんじゃないのかなぁ?」
「あ、そうでした」
「で。私が思ったのは…この『吸血鬼』も私と同じかもしれないって事。そういう相手かもって。…でも、吸血鬼だってそれで追われる身になっちゃったら不都合な訳だから気を付けているものだと思うけど…」
 そこまで言って、リサは一度言葉を切る。
 それから、ぽつりと続けた。
「…誰かがそう仕向けている?」
 と。
 リサがそこまで続けたところで、ばんと派手に――わざと人目を引こうとしているように玄関の扉が外から開かれた。
 そこに立っていたのは、ダークスーツを小粋に着こなした――と言うか動き易そうに若干着崩している、三十路半ばと思える細身の優男。インナーのシャツもスーツと同系色で、絞めているネクタイだけが白い。
 …と言うか。
 その場に居た皆、その男の姿や顔立ちに何処かで見覚えがあった。
 が、興信所内のそんな微妙な反応など気にもせず、その男はリサの科白を聞いていたように――当然のように続けてくる。
「あぁそうだ。いっくら血が必要ったってな、真っ当な奴ならそれなりに気ィ付けるしそれなりに普通に慎ましやかに社会の一員として生活してるもんなんだよ。なのにこいつァそうじゃねぇ。明らかに喧嘩売って来てやがる――いや、売らされてるのかもしれねぇがな。『誰か』によ」
 にやりと不敵に笑い興信所の中を見渡すその男――若き東京都知事、伊葉勇輔。
 誰もが何処かで見覚えがある訳である。
 が。
 室内を一通り見渡したかと思うと――勇輔のその視線が不自然に途中で止まり、目が瞠られる。

「…うっわ」

 勇輔の視線はばっちりリサの胸。
 …結局やっぱりそれなのか。



 で。
 勇輔は興信所に来訪して早々――暫くリサの胸に目を奪われていたかと思うと、いけねぇとばかりにぶるぶる頭を振る。かと思ったら、それから当然のようにずかずかと入って来、武彦の座るその場のすぐ横で仁王立ち。
「…どうやら説明の必要は無ぇみてぇだな。つー訳でその猟奇殺人事件の始末、この俺が付ける事になった。ついては草間興信所所長の草間武彦氏に御協力願いたい」
「…は?」
「は? じゃねぇ! 昔、可愛がってやったろ。…恩を仇で返すのか!?」
「って、何の話だっ」
「忘れたとァ言わせねぇ。俺たちゃ同じ小学校を卒業した仲じゃねぇか! 勇輔兄ちゃん勇輔兄ちゃん言ってた可愛い後輩のこたァ俺ァずーっと憶えてるぞぉ!」
「誰がいつそんな事を言ったっ!?」
「くっ…あの武彦ちゃんがここまで薄情もんに育っちまうとは…!」
「待て待て待てその辺でその話は止めろ。…お前はそもそも何の話がしたいんだ!?」
「俺ァ草間興信所所長の草間武彦氏に協力を頼みに来ただけだ。つー訳で、囮になれ」
「何?」
「怪奇探偵草間武彦となりゃ今時こっちの業界で知らねぇ奴ぁ居ねぇだろ。他の奴じゃ代わりにならねぇんだよ。この『白トラ』じゃ却って警戒されちまうだろうしな? …興信所の他の連中だって同じさ」
 さらりと言いつつ、勇輔は武彦の横で――ソファにではなくその場でしゃがみ込み、じっと武彦を見上げる。
「どうだい、やっちゃくんねぇかい?」
 猟奇殺人事件の犯人を誘き寄せる為の、囮。
 受けて、武彦の方は酷く嫌そうな顔をしている。
 が、同時にその目の色は、言われた事を真剣に考えてもいるようで。
 武彦の視線が室内の他の面子に向く。零。リサ。スザク。…それから、常盤。
 最後に常盤を見てから、嘆息。
「…狙ってたな?」
「…ん? 俺に言ってるかい?」
 常盤が素知らぬ顔で返してくる。
 …やっぱりな、と武彦は思う。
 勇輔をちらと見ながら口を開いた。
「非常に不本意だがこいつの言う通りだろ。幾ら調査を進めてもこっちの望み通りにやった『犯人』が直接出て来るとは限らない。犠牲者を見る限りは手当たり次第――四十二の男にでもここまで簡単にする以上は女子供だからって特に狙うとも思えない。だったら特に興味を引きそうな対象を、と思うのは自然だし一番可能性がある」
 この面子で考えるなら、俺だろ。
 と、そこまで言った途端。
「草間さん!」
「兄さん!」
 焦ったようなリサと零の声が重なる。
 スザクだけが常盤を見た。
「望むところ。スザクは草間さんを守ります」
 決然と言うと、勇輔が意外そうにスザクを見る。
「お、勇ましいなお嬢ちゃん」
「スザクはスザクです。貴方だって――知事さんだって、囮にって言っても勿論、ただ放り出すつもりじゃないんでしょ」
「おう勿論だ。…それに草間一人に囮頼むのもあからさまだからな…草間を守るってんならお嬢ちゃんにも頼む事にするか。要は囮に出る時一緒に居てやってくれってだけの事なんだけどな」
 ゴシック系なふんわりフレアの黒ワンピースに同系統の傘を持った――恐らくは何らかの異能を持つ少女。…怪奇探偵の周辺に居る者としては自然な範疇になると勇輔は判断する。
「わかりました」
 スザクはこくりと頷く。
 と、慌てたようにリサも身を乗り出して来た。
「だったら私も一緒に行きます!」
 言われ、武彦は苦笑する。
「いや。お前は別動隊の方が良いだろ」
「でも…」
「同系統の種族かもしれないんだろ。だったら却って避けられる可能性もある」
「…却って寄ってくるかもしれませんよ?」
「お前はその方が遣り易い訳か?」
「…それは」
 わからない。
 けれど、冷静に客観的に相手の攻略だけを考えるならば、確かに自分は別動隊でいる方が良いとは思う。草間武彦と共に居る者が一人までなら自然に見えるし相手側も手を出す余地を見出しそうだ。けれど同行者が二人以上では却って警戒されそうなもの。…草間興信所には異能者が揃っている事も業界では広く知られている。
 勇輔に笑い掛けられた。
「んな心配すんなって。問題ねぇよ。この俺が――IO2最高戦力の一人な白トラ様が囮にするんだ。守り通すに決まってらぁな」
「…え」
 IO2。
 その単語を聞いたところで、ひゅうと軽い口笛が聞こえた。
「そういや『白トラ』ってどっかで聞いた事あったな。正体は知事さんだったんかい」
 常盤。
 言われ、勇輔も改めて常盤を見直す。
 考えてみればついさっき、雰囲気が何処か似通った男と会ったような。思いながら自分の記憶を引っ繰り返してみる。と、何故か全然別の事まで記憶の底から出て来た。
「…。…そういや色々事情通っぽいお前さんも目が緑だな? …ん? ひょっとして『グリーンアイズ』って昔新宿のマル暴に居たっつー…?」
 ――デカのコンビに付けられていたすかした仇名。
 さっき会ったIO2エージェントの男の名乗りと重ねてしまう。…IO2としてはあの男を指す名として憶えていたが、それより昔に同じ単語を記憶している事に今になって気が付いた。
 と、その科白を聞いた途端に、常盤は引っ繰り返るようにソファの背凭れに思い切り仰のく。
「…どーしてそんな事が知事さんの口から出るかな」
「当たりか。…さっき片割れ――元片割れか? とにかく会ったぜ」
「あーさいですか。野郎は元気でしたか」
「まぁな。…さっきその『グリーンアイズ』が俺のところにこの話持ってきたんだよ」
「…そりゃ元気そうだ」
 ぽつりと呟いてから、常盤は仰のいたところから億劫そうに体勢を戻す。
 リサが改めて勇輔を見た。
「…IO2の方だったんですね」
「一応な。つー訳で居合わせた縁だ。お姉ちゃんにも協力頼むぜ」
「勿論です。知った以上は放っておけません。草間さんにもしもの事があったら大変ですからね。あ、でもその前に…準備を整えたいので、動くのは夜になってからにして欲しいんです。お店に出て精気を回復させてから行きたいので」
 と、リサがそう続けるなり――空気が止まる。…特に初耳な勇輔、反射的に思わずリサを凝視。
 …それは、夜になってからと言うのは――そのつもりで出向く以上は事件の起きた時間を考え、元々そのつもりではあったのだが。
 がく、と武彦が項垂れる。
「明姫。…あんまり堂々言わないでくれるか?」
 お店とか。
「あ」
 …確かにちょっと無防備過ぎた。



■黒い影

 夜。
 某鉄道車両倉庫付近。
 黒髪黒瞳、華奢な印象の――人目を引く美青年が思案げに目を伏せて佇んでいる。
 青いビニールシートで覆われていた場所――被害者が発見された場所については既に【リーディング】――自分の持つ能力の一つ、通常ならば見えぬものを見、聞こえぬ声を聞く力――で確認した。夜道。偶然通りがかったと思しき犠牲者が襲われたところから絶命の瞬間まで。犠牲者を襲ったのは黒い影。…眷属、ではあるようだった。但し、自分の知っている個体ではない。現れるまでの気配は無いに等しく、犠牲者に牙を爪を突き立てる瞬間から――つまりは激しく動き出すなり気配が爆発的に膨れ上がる。【リーディング】で読み取れた、その影の為した行動を考え直してみる。喰い千切り、引き裂き、啜る。地面に流れ出た血液さえその舌で直に舐め取る程の浅ましさ。…行為にまったく理性が感じられない。それ程の血への渇望。これは、何を話しても聞き入れまい。…ならばその衝動を封印能力で抑えれば…何とかなるだろうか。手段の一つとして考えておく。
 事件時の一連の状況を読み取ってみると、少し引っ掛かりも覚えた。
 …そもそも、今回の事を起こしたこんな個体が社会の中でまともに生活していられたとは到底思えない。
 ここは都会のど真ん中。
 もし本当にこの個体単体の仕業であるならば、空間のねじれでも起きて、いきなりその場に現れ出でもしない限り――この状況は不自然極まりない。それはこの魔都東京、そんな可能性が無い訳でもなかろうが――この場合でそう考えるのは御都合主義的過ぎる結論にも思える。
 誰か、この個体の理性を何らかの方法で奪った――もしくは何処からかこの個体を手引きし連れて来た者でも居るのかもしれない。…誰か、第三者の存在が。…それは掲示板の該当記事を消去した者と同じか、否か。
 青年はビニールシート以外の場所――現場周辺にも事件に何か関係する事象が無かったかを【リーディング】で読んでみる。例えば、この個体が何処から現れたのか。辿ってみる。その結果が今自分が佇んでいる位置。…現場からこの辺りまでなら、この個体は確実に単体で動いている。ここから先。何処まで移動しているだろう。読みながら、辿りながらそちらへ向かってみる――と。
 そんな青年に、よ、とばかりに気安く声を掛けて来たダークスーツの男が一人。その時点では怪しい事この上ないが、相手が知った顔ならば話は別だった。
 知った顔――それは、直接顔を合わせて話すような知り合いで無くとも。
「まさか人気アイドルの夜神潤君が『こっち』にも首突っ込んでるとはな。ああ、先日うちで頼んだイベントのイメージキャラクターのオファー、考えてくれてっかな」
「…確か、都知事の」
 伊葉勇輔。
 皆まで言わせず、ダークスーツの男――伊葉勇輔はにやりと笑う。
「直接口説ける機会が来るたぁ思わなかったが。…ま、今はそれどころじゃないみたいだがな」
 言うと、明後日の方向をちらと見た。
 同時に、美青年――夜神潤の方も透き通るような目で同じ方を見ている。

 今、無視出来ない気配が爆発的に膨れ上がった――それも、潤にしてみればたった今【リーディング】で読んだ黒い影と全く同じ気配が。



 草間武彦と黒蝙蝠スザクが連れ立って歩いている。
 あれから明姫リサが『準備』を整える為に一度離れ、伊葉勇輔は何やら公務で殆ど寝てないとかで後の戦闘に備え体調を万全に整える為の仮眠――の後。打ち合わせ通りに武彦とスザクの二人は囮として――客観的には無謀に見えるだろう二人だけでの事件調査を装って、現場周辺をうろついていた。…ちなみに草間零と常盤千歳はベースでのバックアップ――要は留守番をしている。
 囮の二人は客観的には無謀に見えるだろう――とは言え、本当のところはまったく無謀では無い。
 実際、今現在四神『白虎』の力を借り勇輔が練り上げた風の結界とやらが武彦とスザクの二人を取り巻いている事になる、らしい。…スザクとしては純粋な身体能力では恐らく『犯人』と張り合えない以上、そちらの能力に対するには別の手段をと考えていたところに草間興信所でちょうど良い助力が得られた事になる。
 速さが売りの相手であるなら風の力は有利に立ち回れる材料の一つ。…但し、こうやってただ普通に歩いている分にはそんな気配は全く感じられないのは若干不安材料でもあるが。…これで本当にいざとなったら役に立つのかどうかどうしても疑問に思えてしまうので。
 けれどあの伊葉勇輔と言う知事なら、あれだけ顔が知られている以上は、こんな場面で下手な事はしないだろうなとも思う。IO2については良くは知らないけれど、あの人個人はそのくらいの信用は出来ると思っている。
 それに、興信所所長の草間武彦当人が――何だかんだ言っても結局信用している以上は、スザクとしても特に疑うつもりは無い。
 と。
 ふっ、と嫌な予感がした。
 傍らの武彦を見る。
 気付いていない。
 けれど自分を見たスザクの様子が変わっている事にはすぐ気付き、武彦の方も察してそれとなく周囲を窺っている。
 途端。
 唐突にスザクの視界内で手が見えた。
 何か掴もうとしているような、力を込め指の関節を曲げ広げられている手が。
 禍々しいまでに伸ばされている指の先の――人間離れした鋭く長い爪。
 同時に、ぞっとするような、不吉な風圧。…それだけの勢いで掴み掛かる手がこちらに肉迫している。
 認知した時点でスザクの攻撃の意志が反射的にその手に向く。同刻、殆ど自動的に発現している黒い炎――スザクの持つ能力である【黒の業火】。けれど咄嗟の事なのでスザクは火力まではあまり考えられていなかった。それでも咄嗟の意志のままに結構どす黒く強力な業火がその手に喰らい付いている。…が、その手は動きを止めなかった。この【黒の業火】は例え不可視の存在や肉体を持たない者であっても効果がある筈。ならば、この相手には火が効かないのか?――そんな疑問を持っている余裕も無い。その手はそのままこちらに掴み掛かるように――いや、これまでの犠牲者の顛末を考えれば、この手に触れられたらその時点で最期だと理解する。せめて傘を振り上げ遮る事を頭が身体に命令する。けれど神経の伝達が間に合わない。反応し切れない――!
 思ったところで。
 ごっと凄まじい音と共に竜巻のように周辺の空気が荒れた。その風に手ごとその持ち主も吹っ飛ばされている――とは言え、ほんの数歩退く形に踏鞴を踏んだ程度。どうやら勇輔の展開している風の結界の効果であるらしい。ほっとする――同時に、勇輔に対してひやひやさせないでよねとも思う。
 スザクの【黒の業火】に勇輔の風の結界による竜巻。連続でそれらを食らっているのにそれでも相手に行ったダメージは大した事が無い。…いや、それだけこの黒い影――標的の力が強いと言う事かも知れない。今の竜巻は相当の力があった気がした。
 …大したダメージは無い。けれど今はそれで充分だった。踏鞴を踏んで後退した――今の間に出来たほんの僅かな隙。スザクは一気に傘を開いて防御しつつ標的の懐に飛び込み、そこで今度こそ火力を意識的に上昇させた一撃必殺レベルの【黒の業火】をお見舞いする。…スザクは餌じゃない。駆られて喰われるのはおまえ。内心で嘯く。…この夜の果てに、立っているのはどちらかしら。
 スザクが仕掛けたのと殆ど同時、鋭い裂帛の気合がその場に響いている――スザクの声でも武彦の声でもない。かと思うと『何か』が凄まじい勢いで黒い影の背後から弧を描き飛来、横薙ぎに飛んできたその『何か』に黒い影の首が文字通り叩き折られた。
 もし傍でその様子を見ていたら、いきなり黒い影の首が消えたように見える程の勢いで。
 一拍置いて『何か』の正体がわかる。黒い影の背後、ヒュンヒュンと風音を立て、慣れた手付きで取り回されて――振り回されているそれ。三節棍。その棍を操っているのは、長い長い青色の髪を靡かせた、ライダースーツに収まり切らない巨乳を持つ女性。白木の棒――杭を腰に提げている。
 いつの間にそこまで来ていたのか、スザクに合わせて影の後ろから攻撃に出ていたのは、明姫リサ。



 夜神潤と伊葉勇輔は無視出来ない気配――それぞれの感覚と能力で読み取っていた『犯人』のものと思しき気配が膨れ上がったところで、殆ど同時に動きを見せる。地面を蹴るのも殆ど同時。潤も勇輔も常人離れした動きで気配の元へと移動しようと走り出す――が。
 更にそれらの動きと同時に、潤が瞠目し、『何か』を躱す動きを途中で入れる。直後、頬に一筋傷が迅った。…潤の。アイドルの顔に、と言う事では無い。そんな事はこの際どうでも良い――事実、もう潤の頬に付けられたその傷は塞がっている。再生。そのくらいの事は潤にとっては簡単――いや、簡単どころか当然の、わざわざやろうと思わなくても自然に出来てしまう事。何故なら潤は吸血鬼――それも規格外の力を具えて生まれた突然変異、同じ吸血の民からさえ禁忌の存在とまで言われる程の凄まじい能力者であるが故。
 そんな潤の頬に、例えほんの僅かな傷とは言え今のタイミングで付けられる存在。その時点で、到底侮れるものではない。居合わせた勇輔も察して止まる――刹那の判断で、武彦とスザクの方はひとまず用意してある風の結界、それとスザク当人、そして伏兵のリサに任せておく事に決め、ひとまず目の前の潤に今以上の危害が及ばないようにと考える。…が、勇輔がそう決めた事をすぐさま悟って、潤はそれを否定するように――断るように緩く頭を振った。
 潤の背後、恐らく今交錯したのだろう相手が舌なめずりするような音が聞こえる。その音が耳に入って初めてまともに気配が感じられるようになる。振り返り、見る。挑発するように爪の先――そこに付着した潤の血――を舐めている襤褸を纏った黒い影。何処か異様な目の光り方のそいつもまた、潤と勇輔を振り返っている。振り返ったと思った途端にまた跳躍、再び潤に向かって躍り掛かっている。けれど今度は真正面の話。幾ら速く見えても対処出来ない訳は無い。
 次の瞬間には肉迫する黒い影の腕を、潤は素手で――それも軽々と止めている。
「…眷属の血でも見境無しか。その衝動はどうしても抑えられないものか?」
 説得――と言うより軽い問い掛け。そんな風に聞こえる潤の美声と同時に、黒い影が目を瞠り、停止する。傍目には何をしたのかわからない――けれど、明らかに潤が何かをした。そんな風に見えた。
 潤が黒い影の腕から手を放す。途端、黒い影ががくんと力無く体勢を崩す。そのまま地に崩れ落ちまではしないが、よろめいている。…潤が今この黒い影に施したのは襲撃に至る衝動の【封印】。これで解決出来るならば最良なのだが。思いながら潤は黒い影を見守る。
 が。
 頼りなくよろめいていたその肢体が、急に跳ねるように起き上がり再び潤へと飛び掛かってくる。…速い。それまで通りの動きで黒い影は攻撃をしてきた。潤は今度は受けるのではなく躱す事を選択。黒い影の様子に変化は。…ある。変わった事は、異様な目の光が消えた事。…その事で衝動の【封印】は為されていると確認出来る。けれど襲撃を行っている事は何も変わらない――いや、むしろこれまでより、動きに伴う気配が見切れなくなっているかもしれない。激しく動く時でも爆発的に気配が膨れ上がる事が無い。殺気の欠片も無い。何処か、機械的な――。
 そう潤が分析しているところで、いきなり横合いから脚が飛んできてその黒い影が蹴り転がされた。
 勇輔。
 白虎の神威を借りた状態での――大地と風の氣を集め、金剛石を凌ぐ硬さに練り上げた脚での、蹴撃。
「…こういう手合いは拳で黙らせにゃ始まんねぇよ」
 言いながら蹴り転がした相手の元に近寄り、起き上がり掛けたそこに、宣言通り拳を叩き込む――この拳も勿論白虎の神威を借りている。殴られた勢いで黒い影の身体が地面でバウンド。が、そのダメージすら感じていないように起き上がり様鋭く繰り出される爪。勇輔はそれも軽々避けている。避けた上で、また、拳。
 それを見ていて、潤は思わず考え込んでしまう。…確かにこれは勇輔の言う通りもう戦って止めるしかないかもしれない。けれど目の前の事実に疑問が湧く。気配の差異からして、この個体は世間のニュースに乗ってしまっている事件の――三人を襲撃した個体とは別だ。だが、【リーディング】で読んだ限りの『あの黒い影』と『同じ力』を持つ固体だとは感じられる。それは可能性は無くは無い、けれど低いと考えていた――これ程の行き過ぎた行動、可能性は低いと考えたかっただけなのかもしれない。けれど今目の前に『二体目』が居る。…ならば、こんな輩がまだ他にも何体も居る可能性は、むしろ高い。…第三者が絡んでいる可能性も、また。
 これは、どうするべきだろうか。
 思ったところで、黒い影の攻撃を躱しつつ、的確にタコ殴りにしている勇輔の声がした。
「…どうせだからお前にゃ草間たちの事頼むわ。こいつは俺が締め上げる」
「…」
 どうやら草間武彦もここに来ているらしい。たち、と言う事は彼だけではなく複数居る。…潤が勇輔と遭遇した先程の状況。勇輔のこの余裕の態度。考え合わせると恐らく万全の準備を整えた上で囮として動いてでもいたのだろう。そんな中で俺と遇い、のみならず予期せぬもう一体の黒い影に遭遇してしまったのが、今。
 …断る材料は無い。
 潤はわかったと一言だけ残し、その場から跳躍するとそのまま飛んで行ってしまう。向かう先は、先程勇輔と潤がほぼ同時に気付いた気配の方向。…まずはそこだろうと判断。
 …どうやら意図は伝わったらしい。
 思いながらその姿を見送り、勇輔は感心したようにひゅぅと口笛。
「…やっぱただもんじゃねぇのな」
 夜神潤君よ。



 勇輔の練り上げていた風の結界が効果を奏し、それで出来た僅かな隙を衝いてスザクとリサが仕掛けた直後。
 胸から腹を焼かれ首が折られた黒い影の動きが止まる――と言うより、鈍くなる。…懐からスザクに火力を上げた【黒の業火】を撃たれ、リサの持つ三節棍――お店で吸収・回復してきた精気を通して威力ブースト済み――の一端が予期せぬ方向から頭部を叩き折る勢いで打ち込まれたところ。
 二人は間、髪入れずそのまま畳み込む事を選択する。
 初手からこちらの命を獲りに来た相手――手加減も容赦もする理由が無い。実際に今、スザクとリサどちらの繰り出した攻撃も必殺の威力が籠められてはいた筈。なのに、この相手はまだ動く――致命傷にはなっていない。普通の生き物であるならば充分致命傷であるだろうに、この相手はそうならない。
 今の攻撃を繰り出した時点で二人共そう気付き、次の手を打っている。スザクは【黒の業火】を叩き込んだその反動を籠め飛び退り――地上に至る前、ほんの数十センチに過ぎないが『空中』に着地。着地したところで『当然のように数歩上方』に踏み込み、その『場』を足掛かりに傘を棒術の棒に見立てて斜め上から鋭く打ち込んでいる。同刻、リサの方はスザクの対極になるだろう位置に動いている。スザクが上方ならばリサは下方。低い位置から滑るように近接し、三節棍を下方から振り上げるように打ち込み多段攻撃を仕掛けている。
 黒い影の首は折れたまま――不自然な形で傾いたまま、それでもその攻撃に対処しようと動いているようだった。よろけながらも身を躱し、斜め上からのスザクの傘は若干狙いが外れ威力が削がれた。リサの三節棍も二段目の打撃が狙いからずれ、腕で受け止められてしまっている――襤褸を纏った黒い影の腕に巻き付くような形になっている。認めるなりリサはすかさずそのまま強く手前に引き――黒い影の態勢を崩させる事を狙う。
 崩れそうになったそこ、反射的に黒い影が目で見て己自身の態勢を確かめる――その眼前に今度はスザクの黒炎が燃え上がる。瞬間的に視界が塞がれる。目晦ましの黒炎に続けてスザクは再び傘を強く手前に引き、勢いを付け一気に穿つ。幾ら相手の持つ身体能力が高かろうと外すタイミングでも距離でもなく命中――傘の尖った先端が黒い影の喉に殆ど減り込んでいる。その勢いのまま黒い影の身体が仰のき、肺に残った空気と血をかはりと吐いている。
 そのまま――黒い影は地べたに転がった。
 が。
 それでも再び立ち上がろうとするように、地面に爪を立て、肘を突き、足掻いている。
 まだ、駄目か。思い、スザクは再び傘の先端を黒い影に突き付け突き刺そうとする――が、それをリサが目顔で止めた。かと思うと、三節棍を腰の後ろに差し、代わりに腰に提げていた白木の杭を手に取っている。
「…吸血鬼なら、これが一番の筈」
 それだけ言うと、リサは杭を振り上げ――黒い影のその心臓の位置を狙って一気に突き刺す。精気を消費して身体能力をブーストしたその膂力で。結果として黒い影はそのまま地面に縫い付けられる形になる。
 途端、爆ぜるようにその身体が塵と化し散じた。
 吹き抜ける夜風がその塵を浚う。

 ………………黒い影は、戻って来ない。



■亡霊の名前

 その、すぐ脇の屋根の上。
 伊葉勇輔に頼まれた夜神潤は、事が始まった時には既に『草間たち』の元に辿り着き彼らに手を貸せる位置には居たが――ひとまず手を出すのは控える事にした。
 何故なら、割り込んでは却って邪魔になると見て取った為。それで夜神潤は黒蝙蝠スザクと明姫リサ、そして草間武彦の様子を暫し黙って見守る事を選択する。…スザクとリサがちょうど互いの隙を補い合うようにして黒い影に打ち込む姿。あまり時が経たない内に黒い影を倒し、白木の杭で止めまで刺した。
 …けれど、何かが引っかかる。
 今のあの黒い影は二人によって倒された。それは確実。だが、何かまだある気がしてならない。終わっていないような、予感。一人萱の外に置かれている人物――武彦の方を見る。無事。こちらもこちらで下手に割り込めるものでもないと考え、二人を黙って見守っていたようだった。何か神聖系の大地と風の力で守られているのがわかる――それが勇輔の余裕の理由か。
 一応のけりはついたと見、潤は屋根の上から地上に下り立つ。飛び下りたところでスザクとリサに警戒されるが――次の瞬間、それどころではない事態になっていた。
 地面に下り立った潤のすぐ背後、殆ど同時に黒い影が――『三体目』がその背後に立っていた。振り下ろす寸前――否、瞬間の凶器と化した腕の動きが潤の頭上に。傍目には見えていたのはそこまで。けれど潤は動じていない。気付いていない訳では無い――表情を変える事も無くその『三体目』にも襲撃に至る衝動の【封印】を行って――し損ねた。
 潤はその場で振り返る。凶器と化していた腕もそこには無い――『三体目』は咄嗟に後方に退いていた。潤が【封印】を試みた瞬間、一気に跳んでいる。
 と、今度はその『三体目』の背後に――いつの間に来ていたのかぐるぐると右の肩を回すようにしている勇輔の姿。『三体目』がその事に気付く――気付いたその時に勇輔の拳が『三体目』に振り下ろされた。
 直撃。
「お前もだんまりか? え?」
 勇輔はそう言いながら、再び拳を固めている――白虎の神威を借りた状態のままの。
 その姿に、武彦の声が投げられる。
「伊葉!」
「ちぃと待ってな。これで終わりじゃねぇ」
「…『三体目』だ」
 知らせるようにぽつりと潤。
 それを聞き、スザクとリサも反応する。
「えっ」
「…他にも」
 ああ、と勇輔が肯定した。
「さっきの『二体目』も風で締め上げてみたんだが――何も言わねぇまま途中で呆気無く爆散しやがってな。手加減はしたつもりだったんだが」
「実際に事件を起こした個体――『一体目』は俺が手を出すまでも無く草間と共に居たそちらの二人が倒した」
「そうか。結構やるな姉ちゃん嬢ちゃん…ま、ここはオジサンに任せろよ、っと」
「可能な限り眷属の事を人に任せるつもりは無い」
「じゃあ夜神潤君も手ぇ貸しな。…背後関係探るぞ」
「…」
 無言のまま肯定し、潤も『三体目』を注視する。
 金剛石をも凌ぐ硬さに練られた勇輔の一撃を食らって倒れたその黒い影だが、皆が短いやり取りを交わす間に再び立ち上がっている。かと思うとぼこりとその身体が――腕が、肩が、異様な形に膨れるのが見えた。膨れたそこから弾けるように真っ黒な別の腕が生まれる。毒蛇のような頭部が生える。百足や蛭のようなものが溢れ出る。蝙蝠の翼のような真っ黒な皮膜まで生えた。その中に複数の人間の目がぞろりと開かれる。
 まるで『三体目』の身から澱む闇が広がったような――それまで以上に異様な姿。
 その澱む闇が一気に襲い掛かってくる。潤と勇輔だけでは無く、リサやスザク、武彦にまで。轟音とともに荒れ狂う風が湧き起こる――勇輔の練り上げた風の結界。武彦とスザクを――ついでに囮では無かったリサまで守るべき対象とし、その力を発揮している。
 勇輔と潤は身を守る行動は殆ど取っていなかった。勇輔は白虎の神威を借りた身体で澱む闇を弾き返しつつ、再び本体に拳を叩き込む隙を探している。それでも喰らい付いてくる闇――なかなか思い通りにいかない。一気にタコ殴りにしてしまっては先程の二の舞になり兼ねないと思って控えていればこの状況。
 一方の潤は不可視の武器らしい何か――【アイン・ソフ】を召喚し、ただ無造作に『三体目』に近付いていた。潤にしてみれば闇ならば避ける必要は無い。攻撃は効かないに等しい。毒蛇がその腕に噛み付く。数多の百足や蛭が足から這い登る。けれどダメージは無いに等しい――噛まれた傷はすぐに再生する。毒は効かない。歩く度に百足が剥がれ落ちる――鬱陶しく思ったのか、蠅でも払うように一度【アイン・ソフ】が振られた。それだけで一気に澱む闇の一部が祓われる。同時に、何か恐ろしい力がその場――潤の手許に凝っている事に、【アイン・ソフ】の存在に、誰ともなく気が付いた。
 潤は『三体目』の目前に一番初めに立つ。
 そこに至ると同時に、【アイン・ソフ】の殺気の刃が――当然のように『三体目』の首に回された。
『三体目』は何の反応も出来ていない。
 そのままの状態で、潤は口を開く。
「お前は自ら望んで人を襲うのか。それとも他に理由があるのか」
『…』
「お前は何処から来た。お前のような奴は後どれだけ存在する」
『…』
「答えろ」

『………………世界ノ全テニ安息ヲ。速水博士ノゴ命令』

 ぼそり、と。
 吐いた途端に、『三体目』は爆散した。
「――!」
 潤は瞠目する。
 まだ【アイン・ソフ】の刃をその首に滑らせた訳では無かった。まだ潤は何もしていない。
 なのに、いきなり滅びた。
 …まさか――今の発言のせいか?
 思っていると、おいおい、と嘆息混じりの勇輔の声が聞こえてくる。
「またとんでもねぇ名前が出て来たな」
 呟きながら潤を見る。…勇輔は潤が今『三体目』を殺した訳ではない事は見切っている。
「とんでもない名前?」
「速水博士っつえば虚無の境界に居た狂科学者だ」
 …但し、もうとっくに死んでるが。
 勇輔曰く、速水博士と呼ばれる虚無の境界構成員についてはIO2内では少しは知られた名であるらしい。専門は人外の生体学。功罪ともあれ研究者としての成果は数多あるとされている。特に知られているのは個体能力の強化、そして属性・性質問わず人外を兵士として造り上げ育て上げる技術を確立したと言う成果。事実、本来組織行動などする筈も無い性質の人外の一隊が、きちんと組織立った行動で大規模なテロを行ったとされる報告も世界各地のIO2支部から何度も入っている――それらの元を辿れば、この速水博士に繋がるとされていた。
 が、その肝心の速水博士は二年程前に絶命が確認されている。…IO2アメリカ本部の方で。
「…でも、過去形には聞こえなかったわ」
 聞いていたリサがぽつりと呟く。速水博士のご命令。少なくとも、二年前に死んでいる者からの命令とは聞こえなかった。この命令の形は、速水博士とやらが直接言い渡した事のように聞こえた。そしてこの事件と類似の事件は、少なくとも近場では特に聞いていない。となると、余計に『今』と限定されてしまう気がする。…それは実際の――生前のその速水博士とやらの手口を知らない以上リサとしては言い切れないが、本人では無く模倣犯や名前を借りて使っただけと言う可能性も無いとは言えないだろう。ただ、その事も考え合わせてはみるが、どうもしっくり来ない――何と言うか、そうする意味が感じられないような気がする。
「…『世界の全てに安息を』、か。何かふざけた言い分ね」
 スザクもリサ同様、ぽつりと呟く。
 ああ、と勇輔が頷いた。
「そりゃあ虚無の境界の連中が事ある毎に吐いてる常套句だよ。そこで虚無かどうかが見分けられる。これからも『こっち』に首突っ込むなら覚えといて損はねぇぜ」
「ふぅん…そうなんですか。…覚えとこ」
 ん、と頷き、スザクは傘の柄を大事そうに持ち直す。
 その段になっても『四体目』の出現は、無い。…この場には来ずとも近くで現れたような気配も、無い。武彦にも、スザクにもリサにも感じられない。勇輔の聞く大地の声でも、潤の超感覚でも見出せない。
 …もう必要あるまい。そう判断し、潤は召喚した【アイン・ソフ】を帰還させ、沈思黙考。
 黙り込んでしまったその様子に、スザクが声を掛けた。
「…今のは…お兄さんが倒した訳じゃ…ないですよね?」
「ああ…覚悟の自決か、もしくは対峙した者に話をしたり…何か不都合な状態になった時点でそうなるよう、暗示か薬物か能力か…とにかく何らかの方法で何者かに仕込まれていた、と言うところか」
 そのどれなのかまでは見切れなかったが。
「…くそ」
 勇輔は思わず悪態を吐く。…虚無の境界の常套句、それに並べてとっくに死んでいる筈の「速水博士の命令」発言。それらの言葉を吐くなり、塵と化し消えてしまった黒い影。…これだけの情報で何処まで辿れるか。IO2の方に報告するにも、情報が少な過ぎはしないか。
 少し考える。
 俺に直接依頼に来たあの男。
 …あの『グリーンアイズ』がこの件の背後に心当たりを持っているならまた話は違ってくるだろうが。
 そこまでは勇輔にはわからない。…と言うより、ややっこしそうなので自分では無くそういうのが得意なエージェントに任せるべきだと判断しているので――ひとまず自分はわからないままでも構わないとは思っている。
 …思っているところで、今更になって表の公務を放り出して来ている事が気になってくる。…音もバイブも消した状態でいた携帯を取り出してみる――案の定、メール電話の別問わず、秘書たちからの大量の着信が残されている。それだけ確認して携帯を仕舞った。

「…何にしろ、ここまでで済みゃ良いんだが」
 今回の件が絡む猟奇殺人事件、については。



 数日後。
 ゴーストネットOFFをはじめ、幾つかの怪奇系掲示板に匿名の記事が書き込まれていた。

 内容は、件の猟奇殺人事件の『犯人』は、対応出来る能力を持つ者たちに滅ぼされた、と言う事。
 カメラの件が役に立ったようで何よりだ、とまでその記事には書き込まれていた。
 が。
 今度の記事は、消されていない。
 …カメラの件が出されている内容なのに。

 その、代わり。
 興味本位な数多のレスが繋がってしまっているそのスレッドの途中。
 一件だけ、一種異様さを感じさせる短いレスが付いていた。

--------------------------------------------------------------
 件名:
 投稿者:H

 また一緒に遊んで下さいね、皆さん。
--------------------------------------------------------------

 …。

 都内某所。
 デスクがずらりと並べられ、何処かの会社の事務所のような作りになっている、白亜の一室。
 殆どの人が出払っているその中で、保父さん染みた温顔の、緑の瞳の中年男が――デスクの一つに設置されている筺体の画面に向かいその記事を見て黙り込んでいる。

 ――『白トラ』からの報告は聞いている。

 文面は――文句自体は、その記事単体で見るなら何でもない書き込みになる。
 けれどその何でもなさが、こんな場面では――逆に、異様に感じられてしまうような。
 暫くその書き込みをじっと見てから、緑の瞳の中年男は目を閉じる。

「…全く。いい加減勘弁して下さいよ――――――亡霊さん」

 溜息がてらそれだけ吐く。
 緑の瞳の中年男はそれから、何事も無かったように画面を閉じる操作を行った。

【了】



×××××××××××××××××××××××××××
    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
×××××××××××××××××××××××××××

 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

 ■6589/伊葉・勇輔(いは・ゆうすけ)
 男/36歳/東京都知事・IO2最高戦力通称≪白トラ≫

 ■7038/夜神・潤(やがみ・じゅん)
 男/200歳/禁忌の存在

 ■7847/明姫・リサ(あけひめ・-)
 女/20歳/大学生/ソープ嬢

 ■7919/黒蝙蝠・スザク(くろこうもり・-)
 女/16歳/無職

 ※表記は発注の順番になってます

×××××××××××××××××××××××××××

 …以下、登場NPC(□→公式/■→手前)

 ■常磐・千歳/あちこちの掲示板に書き込んでた人。警察組織に於ける怪奇系斥候役のような人でもある。以前、警察時代の刑部と共にコンビとしてグリーンアイズと仇名で呼ばれていた事がある。
 □草間・武彦/半ば無理矢理巻き込まれた怪奇探偵(指定ありで登場)
 □草間・零/武彦の義妹、探偵見習い。

 ■刑部・和司/現・IO2捜査官。元・刑事で常磐の相棒。コードネーム代わりにグリーンアイズの名を使用。

 ■速水博士(未登録)/今回の黒幕(?)。疾うの昔に死亡している筈の存在。詳細不明の狂科学者。
 
×××××××××××××××××××××××××××
          ライター通信
×××××××××××××××××××××××××××

 伊葉勇輔様、夜神潤様、明姫リサ様には初めまして。
 黒蝙蝠スザク様には再びの発注…と言うか、初回の結果を納品前にこちらの発注も頂いていた訳で結局初めましてに等しいような気もするのですが…。
 とにかく皆様、今回は発注有難う御座いました。

 何やら初めましてから休日絡みな納期で…直前の金曜営業時間中までに間に合わず、伊葉勇輔様、夜神潤様、明姫リサ様の分はお渡しが遅れてしまっているのですが…。
 …当方こんな感じで作成日数目一杯上乗せした上に納期ぎりぎりもしくは少し超過したり(汗)&長文になりがちなライターだったりします。それでも宜しければ以後お見知り置きを。

 で、黒蝙蝠スザク様もですが特に初めましてになる伊葉勇輔様、夜神潤様、明姫リサ様。PC様の性格・口調・行動・人称等で違和感やこれは有り得ない等の引っ掛かりがあるようでしたら、出来る限り善処しますのでお気軽にリテイクお声掛け下さい。…他にも何かありましたら。些細な点でも御遠慮なく。

 内容ですが結構好き勝手やってしまった気がしております。それから、相手は手応えある方向で想定、とかオープニング時点で書いていた割にはどうも色々と呆気無かったかもしれない、とか思ってもいるのですが…(汗)。何だか多少消化不良っぽい終わり方の気もしますし。
 また、結果としてプレイング外になってしまっている描写も多いです。そんな場合は皆様のPCデータやPC様のキャラクター的にやりそうかも話しそうかも、と思えた形で書かせて頂いているつもりではあるんですが…。

 なお、「世界の全てに安息を」が虚無の境界の常套句、と言うのは当方での設定になる事をお伝えしておきます。特に公式の設定と言う訳ではありませんのでその辺はご注意下さい。

 如何だったでしょうか。
 少なくとも対価分は満足して頂ければ幸いなのですが。

 では、また機会がありましたらその時は。

 深海残月 拝