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<東京怪談・PCゲームノベル>


psychedelic vision






 広大な広場に、歌川百合子は立っていた。
 背の高い草が辺り一面を覆っている。空は青く、雲は白かった。爽快、というのではなかった。むしろ何処か冷たい感じがする空だった。
 白と青と境目が曖昧で、溶けているのか混じり合っているのか、いつまでも見つめていると、そのうち、ぐるぐると渦を巻き始めそうで、気分が悪くなる。視界の端には灰色の塊がやけにはっきりと見えた。コンクリートの灰色だった。高速道路が頭上を横断していることに、今、気付いた。長い長い、高速道路だ。果てが見えない。
 視界の先を、藍色の車が一台、走り抜けて行く。見覚えがある気がするなあ、とその車のことを、ぼんやりと追う。一体どこで見たのだろう、と考える。けれど、あの車は四輪駆動車であるだとか、とても値段が高いらしいとか、どうでもいいことばかり思い出して、肝心なことが一向に思い出せない。誰の車だったのか、あるいは、いつどのような場面で見た車だったのか、まるで思い出せない。
 車は遠くなっていく。取り残されたような心細さだけが、胸の中にじんわりと居座る。
 風が吹く。
 地を覆い尽くすようにして生えていた草が、一斉に揺れる。
 百合子は、振り返る。


 壁に取り付けられたクリーム色の換気扇が、回っていた。
 気がつけば白い壁に囲まれた四角い部屋の中に居た。病院だ、と気付く。
 地味で陰鬱な感じがする診察室だった。壁は白かったが、くたびれた感じがある。室内は静かで、換気扇の回る音だけが、空気を圧迫するように響いていた。
「歌川さん」
 灰色の事務的なデスクに向かって、カルテのようなものを覗きこんでいた医師が百合子を呼んだ。背もたれのない座面が緑色の回転椅子に腰掛けていた百合子は、換気扇に向けていた目を、医師に戻した。栗色の髪をした端正な横顔が見えた。胸元のネームプレートが目に入る。医師、兎月原、とある。
 何処かで聞いたような名前だ、と思った。けれど、一体それが何処の誰なのか、あるいはどういう状況で目にした名前なのかが、一向に思い出せない。
「今日はどうされましたかー」
 間延びした声で医師が言った。清々しいくらい、軽快だった。病を患っている相手の気持ちをむしろ煩わしく感じているような軽快さだった。
 カルテのページを、電車の待ち時間が暇なので何となく手にとったフリーペーパーのページを繰るような顔つきで、めくっている。人を助けたいだとか、人を癒したいだとかいう熱意は、全く感じられない。それどころか、俺は毎日何十人という患者を見ているので今更そこに一人増えたところで一緒ですよ、貴方もどうせ他の患者さんと一緒なんでしょ、いやまあ仕事だからやってますけどね、正直ちょっと面倒臭いんですよね、とかいう雰囲気だった。
「どうされましたか」
 百合子は医師の言葉を繰り返す。ぼんやりとした気分だった。俯き、意味を理解するまでに数秒かかった。それから、考えた。
 どうされたんですか。
 どうされたのだっけ?
「どうしました? 歌川さん」
「え?」と、呻いて顔を上げた百合子を、切れ長の美しい形をした瞳が、何だコイツ、とでも言いたげに、瞼を落とし、見詰めた。まるで侮蔑の表情だ、と思う。どうしてそんな顔をされなければならないのか、百合子は分からない。そして、それを分かれない自分に、微かな不安を覚える。
 自分が何か、酷く間違ったことをしてしまうのではないかと、自分は常人とは違っているのではないかと、失格の烙印を押されてしまうのではないかと。
 自分の中のとても大切な部分を否定され、いつの間にかそんな自分を許せなくなるのではないかと。そんな恐怖に駆られる。
「じゃあちょっと音とか聞いときましょうか」
 医師は、本当は別に貴方の体がどうなろうと知ったこっちゃないんですけどね、後でちゃんと治療してなかったとか文句言われても嫌だしね、とでもいうような調子で言ったかと思うと、聴診器を首から外し、耳につけた。「服、めくって貰えますかー」
「はい」
 項垂れるようにして頷いて、促されるままに腹を出す。聴診器の感触が胸の下辺りに貼りつく。
「次、背中向いて貰えますかね」
「はい」
 今度は、同じ感触が背中に貼りつき、退き、また、貼りつく。両膝を掴んだ格好で、診察室の床を見つめる。清潔な床だ、と思う。けれど、真新しさは感じられない。室内の明かりが弱いのか四角い部屋の隅の方は、薄く影が差しこんでいた。
 何となくその仄暗さが気になり、眺めていた。暫くすると、背後で医師が、「はい、いいですよー」とか、言った。回転椅子のスプリングが軋み音をあげ、カルテがデスクにぶつかる音がする。椅子を回すと、何処か面倒臭そうな表情で、何事かをカルテに記入している横顔が見えた。
 百合子は特にやることもないので、ぼんやりとした。あんまり人の顔をじろじろ見るのも失礼かなあ、と思い、その背後にある窓の方を見ていた。広大な土地が広がっている。地面を覆い尽くしている背の高い緑色の葉っぱが、風に吹かれて揺れていた。
 ふと、その左側の奥まった場所にあるドアが開いたような気配を感じたので、百合子はドアの方を見た。視線の先で、それまで閉まっていたはずのドアが、薄く、開いていた。看護婦さんでも出てくるのかなあ、とか思ったのだけれど、一向に人が現れる気配はない。影のせいなのか、照明が落ちているせいなのか、向こう側はやけに暗かった。少しだけ目を凝らしてみたが、人が立っているかどうかは判断できない。
 暫くするとドアは、ふわり、と音もなく、閉まった。そしてそのまま、何事もなかったかのように沈黙した。
 すると今度は右側の方に違和感を感じ、百合子はそちらへ目を向けた。最初、感じた違和感の正体が何なのか、分からなかった。軽く辺りに視線を散らし、やっと見つけた。
 床だ、と気付く。床がまるで息でもしたかのように、プクプクと微かに上下していた。
 あれは一体何だろう。百合子は、ぼんやりと、瞬きをする。
 床は一度、沈黙した。見間違えだったかも知れないな、とそんなことを考えた。その目の前で、また、床が上下した。さっきよりも激しく、浮き沈みする。まるで内側から何かが押し上げてはまた戻しているかのような、そしてそのものが今にも這い出てきそうな、そんな勢いがあった。
 不意に、自分の中にどす黒い、不安のような焦りが広がるのを、百合子は自覚する。恐怖のためではなく、あれはあのまま置いておいてはいけないのではないか、と強く思った。何が出てくるか、どうしても思い出せないのだけれど、自分はきっとそれを知っている。それは他人に見せてはいけないものだ。と、そんな予感だけが強くあった。あそこから出てくるのは、自分にとってとても不利になるような何かに違いない、と。
 医師に目を向ける。まるでその一幕に気付いていないかのように、まだカルテを覗きこんでいる。患者と対面しているより、カルテを眺めている時間の方が長いのではないか、と一瞬笑いそうになり、笑っている場合ではない、ということに気づく。
 彼はあの床に気付いていないのか。
 いや、気付かない方がいいんだ。
「あれ? どうしました?」
 医師が一瞬、カルテから顔を上げ、横目に百合子を見た。
「いえ、なんでも、ありません」
 答えながらも床が気になり、そろっと様子を窺う。床が激しく上下している。まるでそこだけが早回しされたフィルムのようだ、と感じ、その瞬間、その動きには音が伴っていないのだ、ということに、気付く。無音で、激しく上下する床。
 ずっと眺めていると、頭がぐらぐらとしてきて、方向感覚を失いそうになる。デスクに手を突き、傾きそうになる体を支える。無音で、激しく上下する床。「床が」と、気付けば呟いてしまっている。
「ああ」
 医師は軽く頷き、百合子の顔を見て、その視線をたどるように同じ場所を見る。「床ですか」
 この不安の出所は何処なのか、確信に近い予感があるだけで、自分をそんな気持ちにさせる正体のことは、一向に思い出せない。その正体を突き止めたい気持ちと、逃げだしたい気持ちが、同時にある。逃げ出したいほど嫌なのに、動向を見守らずにはいられない。
「貴方にも見えますか? あそこの床、外れてますよね?」
 こんなことを言うのは心苦しいんですか、とでもいうような表情で百合子は、思わず、切りだす。医師は「ああそうですか」とか、意味の通らないいい加減な相槌を打ち、カルテを見た。
「俺には見えませんけど、貴方には見えるんでしょうねえ」
 素っ気なく、言う。




 気がつくと見慣れた繁華街の風景の中に紀本は立っていた。
 いつの間にここへやってきたのか、どうしてそんな場所にやってきたのか、上手く思い出せない。辺りを見回す。前方にある花屋の店舗で目が止まった。そうだ、と彼は目的を思い出す。僕は客の誕生日に渡す花を買いに来たんだった。
 店先を覗くと、エプロン姿の小柄な女性店員が近付いてきた。黒い縁の眼鏡をかけた、若い女性だ。二十代くらいだと思う。長い髪は、黒くて細くて、柔らかそうだった。そして何より、その声が、印象的だった。
「いらっしゃいませ」という声が聞こえ、紀本は顔を上げた。姉に似た声を発する彼女は、姉には少しも似ていない。けれど彼女と話していると、懐かしさにも似た愛情のようなものを感じる。
 紀本は白い百合の花を指さした。
「この百合、花束にしてくれる?」
「この百合ですねー」
 彼女はその小ぶりな顔に愛想笑いを浮かべる。「ありがとうございます、贈り物ですか?」
「そうだね、女性に」
「アレンジとかどうしときます?」
 そうだなあ、と紀本は顔を伏せる。「花の事は良く分からないからお任せします」
 毎回、同じことを言っている気がするけれど、彼女は毎回、同じことを聞くので、やっぱり今回も、そう、答える。次の質問は分かっている。「ご予算はどうされますか?」まさにその通りのことを彼女は言い、「一万五千円くらいで」と紀本は、用意しておいた答えを言う。
 馴染みのバーの店員のように、長時間話し込むわけにもいかないし、「いつもの」と言ってバーボンの入ったグラスを差し出して貰うようにはいかないとは分かっているけれど、少しくらい覚えている、というような雰囲気があってくれてもいいのに、と思う。この店にはそれなりの回数、足を運んでいる気がするけれど、その度にリセットボタンを押されているかのように、彼女との距離は縮まらない。
 まだ、彼女の名前も知らない。こちらも名乗ってはいないので、彼女もきっと知らない。ホストだということにすら、気付いているのかいないのか分からない。愛想が悪いわけでは決してなかったが、そこにはいつも、事務的な義務感のような興味のなさが感じられた。
「どう、儲かってる?」
 花に囲まれた狭苦しい店内で、花を包んでくれている彼女に向かい、話しかける。小さく華奢な手が、器用に花を配置していた。ぼんやりとしていて少し危なっかしくも見える彼女の手は、次にやるべきことをしっかりと分かっている。守らなければ壊れてしまうかも知れない、と見る者に想わせる可憐さがあるのに、自分の足でとっとと立ちあがってしまう無邪気さがある。
「そうですねえ」暫くして、彼女は気のない返事をした。曖昧に小首を傾げる。「まああたしは、単なるバイトですからねえ。あんま興味ないんですよねー、でも、そこそこ大丈夫そうですよ」
 そして軽く、お愛想の笑みを浮かべる。まるで気負いのないその笑顔の柔らかい肌触りを、可愛らしいなあ、と感じる。
「別に、店の売上には興味ない?」
「いやあ、ちゃんと考えてますよ」
 図星を指された照れのようなものを滲ませ、笑う。
「あのあれです、お花が売れて嬉しいですよ、ありがとうございます」
 彼女はそう言ったけれど、いや絶対思ってないでしょ、というような雰囲気があった。それどころか、いやもう毎日誰かが何や言うて買っていくんですよ、別にどうでもいいですよ、だいたい花なんて買って何の役に立つのか全然分からないんですよねえ、正直。くらいのことは思っていそうに、見えた。
 外見だけ見れば、お花が好きなんです、とか言いそうだったし、お花を花瓶に飾るのが大好き、とか言ってる方が女の子らしかったかも知れなかったけれど、毅然と花を扱う彼女は爽やかな感じがして、いいなあ、と思う。
「君が喜ぶなら、毎日でも花、買いに来ようかな」
「えー、本当ですかー」
 と、彼女は気にもかけない素振りで笑う。微かな喜びも、戸惑いも、恥じらいすら浮かんでいない。どちらかといえば女性のそういった気持ちには敏感なつもりだったし、むしろ彼女に対しては注意深く見ているつもりだったけれど、そのような意識は全く感じられない。
 店に来る客のことなら分かるのに、と思う。知りたいと思う彼女のことは、分からない。それとも、分からないから、知りたいのだろうか。
「でも、正直なとこ、喜ぶの、あたしじゃなくて、店長ですけど」
「だよね」
 間延びした声で答えて腕を組む。「あ、でもさ。それで給料が上がったら」
「いやそれは嬉しいですけど。上がらないって」
「だよね」
 自分でも余りに現実離れした話だな、と思い、馬鹿馬鹿しいことを言った、と苦笑する。「一人の客が毎日花買ったくらいで君の時給上がらないよね」
「何かそこダイレクトにしたいんだったら自分で店開くしかないですよね」
「まあそうだね」
 二人で向かい合って苦笑する。「じゃあついでにもう一個、馬鹿馬鹿しいこと言っていい?」
「え?」
 もし自分の店を開きたいって考えたら、連絡してよ、とでも言って、名刺を渡そうとしたところで、すいません、と外から男の声が聞こえた。邪魔が入った、と思って彼女を見る。
 顔の表情が、今までと少し、違っていた。
「はい」と声を上げて、「あ、すいません」と、紀本を見る。
 そこにどことなく浮ついた、餌を前に待てを命じられた犬のような雰囲気を感じた。
 彼女は声の主が誰なのかを知っている。しかももしかしたらその人物に会うことを楽しみにすら思っているのかもしれない。
「えっと、何でしたっけ」
 話を促してはくれるものの、心ここにあらず、といった調子で、むしろ可哀想なくらいだ、と思う。
「いや、もういいよ」
 そんな人が居るなんて、と残念な気持ちになる。けれど今、名刺の話を無理矢理続けたところで、彼女の印象に残らないことは間違いがなかった。仕方がないので今回もあきらめることにする。「またの機会にね。えーっと、料金は幾らだっけ?」
「あ、はい、すいません。じゃあ、一万五千円で」
「はい」
「どうも。ありがとうございました。じゃああの、失礼します」
 照れ笑いなのか、愛想笑いなのか、中途半端な笑顔を浮かべながら、いそいそとレジにお金を仕舞った彼女は、一礼してカウンターを離れた。財布を尻のポケットに仕舞いながら様子を窺っていると、そそくさと出て行くのかと思われた彼女は、店の中の花の様子などを見たりしてから、殊更ゆっくりと店を出た。
 ふうん、と思う。
 ほどなくして店の外から彼女の声が聞こえた。
「お決まりですか? あ、何だ、兎月原さん」
 紀本は、カウンターに置かれた花束を持ち上げ、両手で抱えるようにして店を出た。
 店先で背の高い男と話をしている彼女の姿が見えた。笑顔を浮かべ、男の肩を叩いている。楽しそうだ、と思う。義務的ではなく、楽しそうだ、と。そして、寂しい気持ちになる。
 彼女にあんな笑顔を浮かべさせるのはどんな男なんだろう、と少し、思った。そういえば、兎月原、と彼女は言ってなかったか。その名になら聞き覚えがある気がする。誰だったっけ。
 そこで男が、まさにまるで紀本の心を読み取ったかのように、ふと、顔を上げた。
 目が、合う。
 彼女のために浮かべていたと思しき笑顔を剥がし、切れ長の目を細める。抑揚を失くした男の顔は、人形のように冷たい。けれど、ふと、男が笑った。唇の端が微かに上がり、まるで優越感を滲ませるかのように、見えた。
 紀本はぼんやりと、男の端正な美貌を見つめ返している。
 心の奥底で、反射的にムッとしていた。けれど、良く良く考えれば男が優越感を滲ませる理由がない、と思った。彼女に抱いているこの感情を男が知っているわけもないのだし、もともとそういう皮肉な顔つきなだけだ、と片づける。
「こっちの花とかもきれいだよ」
 彼女の声が聞こえ、男は、顔を戻した。
 紀本もまた、顔を背け、少し離れて止めてあった自分の車へ向かい歩き出すことにした。
 黒い、丸みのある高級車の後部座席に乗り込むと、花束を置いて、運転席に向かい「出して」と、言った。
 暫く走ったところで、ふと、「兎月原」が誰だったのかを思い出した。
 兎月原。そうか。
 同業者だ。
 窓の外を流れて行く、高いビルの景色を眺めながら、今までに見たどんなホストとも違う、あの、冷たい目を思い出す。焦りや活気や、欲望とは無縁に見えた。余裕、というのとは何処か違う、あえて言うならば恬淡な佇まいをしていた。
 兎月原といえば、この街でもそれなりに大きな店のナンバーワンホストで、近々独立するとかしないとか、そんな話を聞いた覚えがある。同じような経歴のためか、どこか似ている、と評されたことも思い出したけれど、何処が似ているのか全く分からなかった。ナンバーワンになり独立しようと考える奴なら他にもいるし、それにそもそも誰かと同じだ、と言われるのは嬉しくない。

 それから暫くして、またあの花屋に顔を出したが、彼女はいつの間にかそこを辞め、姿を消していた。
 数年経ち、紀本の身の回りは劇的に変化していた。自分の能力が足りなかったのもあるだろうし、不幸が重なったんだな、という気もする。そんな状況の中で、彼女との再会を果たした。
 紀本はもちろん彼女のことを覚えていたし、こんな状況の自分を見られるのは余り好ましくないなと思い、羽振りの良かった男が一転して借金苦の身だなんてきっと喜劇だろうな、とも思ったのだけれど、彼女の反応はまるで違っていた。
「あ、はじめまして。あたし、歌川百合子です」
 彼女は自分のことを覚えてもいなかった。益々喜劇だ、と笑いだしたくなった。


 はっとして紀本は、顔を上げた。
 眠ってしまっていたのか、と気付く。いつどのようにして眠りについたのか、全く記憶がなかった。空を見回す。自分の部屋のリビングダイニングだと気付く。テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。
 本当に? いつの間に?
 体を起こし、息を吐いた。嫌な夢だった、と思う。あれが夢と呼ぶべきなのか、記憶の氾濫と呼ぶべきなのかは定かではないが、とにかくあまり、思い出して気持ちの良い出来事ではなかった。
 ふと背後でテレビの音が鳴っていることに、気付いた。振り返る。液晶テレビの画面の中で、映像が動いている。そしてその前に置かれたソファに、兎月原正嗣の姿を見つける。チャンネルを手にした男が、くつろぐようにしてソファにもたれかかり、画面を見ている。
 紀本は、ぞっとした。男が来ていることに気づいてなかった。それほど深く眠り込んでいたのだろうか。
「何だよ」
 茫然としている紀本に向かい、兎月原の声が言った。
「なにが」
 はっとして、答える。形の良い後頭部が、ゆっくりと振り返る。お前の心中なんて全部お見通しなんだぞ、と言いたげな、薄笑いの表情とぶつかる。
「今、俺のこと見てただろ」
「見てないよ」
 紀本は曖昧な笑みを浮かべ目を背けた。その向こうにあるテレビ画面に目を向ける。特に面白くもない映像を、目で追う。
「ふうん」と頷いた男は、背もたれに寄りかかるようにして、体ごとこちらを向いた。そのまま、じっと見つめてくる。どうして見ているのか、何を考えながら見ているのか、意識すればするほど体がこわばる。数秒の時を数時間に感じる。体全体に細かい虫が這いまわっているかのように不快だった。
「なに」
「なにが?」
 兎月原は可笑しそうに笑った。相変わらず不愉快な笑い方だ、と思う。
「見てるのはお前の方だろ」
「うなされてたね」
 唐突に言われ、一瞬、返事に窮する。何でもないことのように笑おうとして、失敗した。
「ふうん、そう」
 辛うじて他人事のような顔を作る。「嫌な夢でも見たんじゃないの」
「不本意そうな顔してる」
「別に」
「俺に見られたから、腹立ってるの」
「何それ」
「どんな夢?」
「忘れた」
 椅子から立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
「俺の夢でも見てるのかと思った。俺に苛められてる夢」
 缶ビールを取り出し、思わず、兎月原の方を窺う。「すごいね」
「何が」
「いやどういう顔してそんなこと言えるのかなって思ったけど、意外に普通の顔だったし」
「だって本当のことだもの」
「自意識過剰なんじゃないの」
「どんな夢見てたのか忘れてたんでしょ。だったら俺が決めてやるよ。お前は俺の夢を見てた。それで、うなされてた」
 平然とした顔でそんなことを言う横顔を見つめ、思わず、笑う。
「寂しいの」
 缶ビールを見つめながら、言う。「俺ごときの夢に登場したがるなんて」
「俺にも取ってよ、ビール」
「自分で取れば?」
 兎月原は紀本の言葉を無視して、テレビを見ていた。いや取るよね、当たり前でしょ、とでもいうような表情が浮かんでいる。自分の思い通りにならない人間の姿など目にしたことがない男の顔だった。自信と確信に満ち、自分が多くの人間から愛されるものだということを知っている。そして、人の心など取るに足らないものだと、傲慢な勘違いをしている。数年前の自分と同じ顔。けれど、今は、絶望的に違う顔。
 思い知ればいいのに、と思う。
 こいつも同じ場所に落ちてくればいいのに。
 紀本は缶ビールのプルタブを引いた。一口飲んで、ソファに移動する。
「あれー、俺のビールはー?」
 缶をガラステーブルに置く。リモコンを手に取ってチャンネルを回す。
「とりあえず突っかかっておかないと気が済まないんだよね、お前って」
「いつ突っかかったのよ」
「そんなに俺にかまって欲しいわけ」
「普通、構って欲しくないから突っかかるんじゃないの」
「お前は俺が嫌いなんだろ。大嫌いなんだ」
「別に、好きも嫌いもないって」
「どうして嫌いだと思うのか、分かるか?」
 紀本はまた、チャンネルを回す。こんな日に限って面白い番組など一つもやってなくて、騒がしいだけのクイズ番組にチャンネルを戻す。
「俺は分かってるよ」
「うるさいよ」
 それを見ていて余り楽しい、とは感じなかった。楽しませたい、という意欲があって作られているのかどうかも、分からない。むしろ、騒いでいるところを見せたいだけだったかもしれないし、馬鹿でも大丈夫ですよ、と誰かを安心させたい、であるとか、馬鹿だと駄目ですよ、と誰か不安がらせたい、であるとか、何か別の目的があって作られている番組なのではないか、とすら思うけれど、そのような目的もいまいち読みとれない。
 テーブルに置いてあった缶ビールを兎月原の手が取り上げた。
「最初から俺に負けてるから、もう負けたくないんだよ」
 炭酸を飲み込んだ余韻を滲ませた声が言う。
「これ以上、何を負ければいいって言うんだよ」
 ソファの上についた膝を抱えた。「もう負けようがないじゃないか」
「自分で気づいてるかどうか知らないけどさ。お前、時々、近づいたら可愛がってくれる? って、そんなこと思ってそうな顔、してる」
 紀本は憂鬱げに一瞬膝の中に顔をうずめ、それから、兎月原を振り返った。
 端正な美貌が、こちらを見ている。
「ほら、そういう顔」
 わ、とテレビ画面の中で歓声が上がる。
 ほんの一瞬、ふと意識がそちらに向きかける。手が伸びてきた。柔らかく髪を掴まれ、行く手を阻まれる。
「そういう顔して近づいたら優しくして貰えるって知ってる顔。愛されることを知ってる傲慢な顔だよ。そういう顔見てるとさ、踏みつけにしてやりたくなるんだよね」
 紀本は、目を伏せる。いっそのこと、そんな自分を認めてしまえたらいいのに、と思う。意地もプライドも外聞も見栄も捨てて、崩壊できればいいのに。
「分かるよ、俺だってきっと、踏みつけにしたくなる」
「だろ」
 呟いた唇が近付いてきた。ひやり、とした感触が唇を覆う。どちらのものともつかない熱が、口の中で混ざり合う。髪を離れた手が、腕を滑り落ちていき、手首を掴む。
 憂鬱げに見つめる先で、兎月原の唇がそっと触れる。柔らかい感触が腕をついばむ。硬い、八重歯の感触が皮膚を捉えた。
 痛みに、背筋が泡立つ。
「痛い?」
「痛いよ」
「そう、ごめんね」
 滲んだ血に、赤い唇が吸いつく。舌が這う度、チリチリとした細やかな痛みが脳を突きさした。思わず、眉を顰める。
「新しい場所ばっかり噛むの、やめてくれない」
「なんで」
「半袖来て、人に会えなくなる」
「人になんて会わなきゃいいじゃん」
 溢れてくる血を舐めながら、くすくす、と楽しそうに笑う。「どうせなら腕とか切り落としてあげようか。そしたらそんな心配しなくて良くなるよ」
「半袖の服は控えることにするよ」
「ここにずっと閉じこもってればいいんだよ、人になんて会わずに、俺のことだけ待ってればいいよ。仕方がないから面倒見てあげる」
「俺ごときを思い通りにしたいなら、どうぞ」
「それで飽きたら、捨ててあげるよ」
「もういいだろ」
 引き戻そうとした腕を、更に強い力で封じ込められる。かさぶたになって治りかけていた傷口に指が這う。引き戻そうと更に力を込めるが、手は離れない。えぐるように爪を立てられ、思わず、声が漏れた。「やめろって」
「面の皮が厚いって言うけどさ、お前のことだよね」
「お前だろ」
「全然痛そうじゃないし」
「痛いって」
 顔を覆うつもりで伸ばした左手を、兎月原の手が封じた。
「でも、見るからに怯えそうな奴苛めたって面白くないしさ」
「狂ってる」
「いいよ、別に」
 けらけら、と愉快そうに笑った唇が、また、搾るように傷口を噛む。「だからもっと、怯えて。痛がって見せて」
 紀本は、目を背け顔を伏せる。
 消えてくれればいいのに、と思う。同じくらいの大きさで、今すぐにでも、消えてなくれればいいのに、と思う。どちらかが消えてなくならない限り、ここに居続けそうな自分にぞっとする。
 例えばきっと、他の人間に言われたなら、こんなにも惨めな気持ちにならずに済んだのに。
 自分の思い通りにならない人間の姿など目にしたことがない、自信と確信に満ちたこの男でなければ。人の心など取るに足らないものだと、傲慢な勘違いをしている、数年前の自分と同じ顔をしたこの男でさえ、なければ。
「立居場が逆だったら良かったのに、って、思ってる?」
 誰より、この男にだけは近づくべきではなかったのに。
「何の話」
「血ってどうしてこんなに赤いんだろうな」
「緑色だと気持ち悪いからなんじゃないの」
「でもそれってたぶん、血が赤いことを知ってるからだよな」
 兎月原が掴んでいた手を離す。それから、ゆっくりとソファの上に横たわった。紀本はその場を離れようと、立ちあがろうとしたが、その腰を掴まれ引き戻される。腰を下ろした。腿の上に、高級そうなシャツに血が滲むのもお構いなしにすり寄ってきた兎月原の頭が、乗った。男が女に甘えるのとは違う、同じ生き物に対する同情心のようなものが、ふと、脳の奥の方をさらう。腹筋の辺りにすりついてくる頭を、撫でたい衝動に、一瞬駆られる。
「捨てるなんて、嘘だよ」
 腿の上に乗った頭が、ぼそ、っと呟いた。「俺は多分、お前を捨てられないよ」
 何を言われているか、すぐには意味が理解できなかった。訝しげに、眉を寄せる。
「俺を分かってくれるのは、お前だけだもの」
 意味を理解するにつけ、恐怖のようなものが、ぞっと背筋を抜けた。
「俺達、同じなんだろ」
「やめろよ」
 頭を振り払いたいのに振り払えない。そのことに、恐怖を感じる。立ち去りたいのに、立ち去れない。そのことを、この男に知られることが、怖かった。
「お前はさ」
 俯いたままの兎月原が、静かに、言う。「本当は俺にそう言わせたいんだろ」
 紀本は言葉を発せなかった。口を開いたら、そこから何か、自分にとって不利な何かが滲み出てしまいそうで。
 ほら、と兎月原は、笑った。
「だからさ」
 寝返りを打ち、また平然とした顔でテレビに目を向ける。
「だからお前は俺のことが嫌いなんだよ。唯一、そうさせることが出来ないから」




 百合子は、一定の速度で膨らんでいくエスカレーターの乗り込み部分を、ぼんやり眺めていた。
 子供の頃、それに乗り込むタイミングがつかめなくて、デパートに行くのが恐怖だったことを思い出していた。
 閑散とした、ショッピングモールの中に立っている。自分が何故そんな場所に立っているのか、いつの間に、どうやって来たのか、思い出そうとしてみるけれど、うまくいかない。辺りを見回す。極端に、人の姿が少ない、ということしか分からない。吹き抜けの丸みのある四角形を囲むようにして、あらゆる店舗が並んでいるけれど、奇妙なくらい客の姿がない。そして、静かだ。
 あるべき活気がまるでなく、思わず、経営状態を心配してしまうほどだった。
 百合子は、エスカレーターに乗り込んで、上の階へと昇っていく。閉店後のように静かな店内を歩いた。ふと、書店の前で足が止まる。平台に積まれた本に目を向けた。何となく手にとって、ぱらぱらとめくってみる。
「それってさ」
 声が聞こえ、はっと顔を上げる。「面白いの」
 笑顔を浮かべた青年が立っている。
 百合子は、呆気にとられたような表情を浮かべ、しっかりとした眉とくりくりとした瞳が印象的なその青年の顔を見つめる。「あれ? 森川くん?」
「百合子はさ、俺と一緒に居て、楽しいの?」
 声にはっとして振り返る。今度は反対の方向に、森川の姿を見つける。寂しげな表情を浮かべている。どうして、思うより先に、あの時の顔だ、と思い出す。確か、高校二年の終わりくらいだった。中学の時から付き合っていた彼と、別れた日のあの。
 あんなに好きで四六時中でも一緒に居たいと思っていたのに、気がつけば、彼が重い荷物のように、なっていた。彼を好きになればなるほど、そう思う自分自身に押しつぶされそうになって、面倒だと感じた。
 別れを切りだしたのは多分、彼の方だったはずだ。けれど、何処かで百合子はそれを待っていた自分を感じていた。悲しみより、安堵の方が大きかった。ほっとした。それが偽らざる気持ちだった。やっと解放されたのだ。もう、演じなくていいのだ。そんな気分だった。
 その気持ちが、誰かを愛するより強いのかも知れない、と思った時、ぞっとしたことを覚えている。それではまるで、人を愛せない冷たい人間のようではないか、と戸惑ったのだ。
 悲しげな表情を浮かべていた森川の姿が、どんどんと薄くなって、消えていく。
 あれから連絡を取り合ってなかったから、いったい何年くらい会ってない計算になるのか。あれから幾度となく、交際と別れを繰り返してきたけれど、そのたび自分の正体を知り、今ではそんな自分と折り合いをつけて生きていく術を身に付けたつもりでいる。
 もうきっと、全身全霊で恋をするなんて、きっと出来ない。
「そう思ってても、我を失っちゃうのが恋ってものでさ」
 また、反対の方向から声が聞こえる。同じくらいの高さにある顔が見える。ふわふわとした栗色の柔らかそうな髪が印象的だった。
「あ、栗田くん」
「何回同じ失敗しても、またどうしようもない自分になっちゃうんだって」
 さほど体格は良くなく、どちらかといえば華奢だったけれど、運転が実に上手い人だった。科学小説やミステリ小説が好きで、二人で神秘的な場所を捜し出してはドライブし、あーでもない、こーでもないと、小説の話を語り合った思い出がある。
 一緒に見る映画はいつも、キューブリックだった。
「我なんてもう、失わないよ」
「百合子はそういう自分を楽しんでるだけだよ」
 また反対側から違う声が聞こえ、振り返る。黒縁眼鏡の痩身の男の姿を見つける。
「ケンジくん」
 バンドのベースをやっていた彼だった。
「恋をしてる自分を、ホントは何処かで俯瞰して見てる自分がいる。恋をして恋の歌を聞いて、そんな自分に酔って、携帯を眺めて、どう彼を振り回そうか考えて、楽しんでる。その間は、いい。だけど気をつけた方がいいよ。君の中には、頑なに、自分にしか愛して貰えない思い込んでる、ある部分があるんだから」
 言われている意味がまるで理解できない。百合子は、小首を傾げる。「何言ってんの? どういう、意味?」
「そういう部分が、男心を擽る部分でもあるんだけどさ。その部分を覗きたくて必死になる。だけど君があんまりにも頑なだから。むしろ、自分にしか愛して欲しくない、とすら思ってるようにも見えるくらい、頑なだから。だから皆、退散しちゃうんだ」
「それが? 何を気をつければいいって?」
「そう、気をつけた方がいい。退散させるべきだ」
「え?」
 驚いて見つめる視線の先で、ケンジの顔が薄く消えかかっていく。
「退散させた方がいいんだよ。その自分を見せるくらいなら」
 その唇が動き、聞きなれた声が、言った。
 百合子は、ケンジの顔から、自分の声が出たことに驚き、同時に、何なのだこれは、と、寒気を感じる。そこから人の姿が消えてもまだ尚、目を逸らすことができなかった。茫然とする。
 今のは、一体、何?
 それからはっと、視線を動かしたのは、書店とショッピングモールの境目にある床が、ぷくぷくと息をするように、浮き沈みしているのを、見つけたからだった。
 どんよりとした不安が、胸の中に広がる。
 百合子は、開いていた本を平台に戻した。逃げ去るように、書店を離れる。
 少し歩いた場所にあるカフェに飛び込み、気分を落ちつけることにした。「いらっしゃいませ、ご注文は」と近づいてきたウェイターに、アイスコーヒーを注文する。「かしこまりました」と一礼したウェイターの顔を見て、「あれ?」と、思う。
 茶色い髪と同じ、茶色い瞳をした、端正な顔立ちのその男性に、見覚えがある気がした。
「何か?」
「いえ」
 誰だっけ。
「ご一緒にケーキもいかがですか?」
 艶やかな甘い声に内心で驚くけれど、ウェイターには必要ないよなあ、とか、思う。ついでにケーキも必要ないよなあ、とか思ったので、「いや、あの別にケーキはいらないです」とか、答える。
 するとウェイターは、チッとまでは言わなかったけれど、むしろ言ったかと錯覚するくらいの顔つきになり、「あ、そうですか」とか言って、立ち去った。え、というか、は? というか、すごい何か、あれ、私が悪いですか? みたいな気分になったのだけれど、良く良く考えたら別に、いらないものをいらないと言っただけなので、悪くないはずだ、と思う。
 でも何か、勢いに押されて、じゃあケーキ頼もうかな、とか、追いかけてって言ってしまいそうな自分を自覚し、はっとする。何か、むかつく。絶対ケーキなんか頼むもんか、と決意する。
 けれど、暫くしてアイスコーヒーを運んで来た同じ店員の横顔を見ていたら、その決意が「決意って何だっけ?」というくらいに、どうでも良くなっていて、むしろケーキは頼むべきだ、というような義務感にすら、すり替わっていた。
「あのー、やっぱりケーキとか頼もうかし」
 すると店員に、「あ、もういいですよ」とか、貴方に用はないですよ、くらいの口調で言われ、何か凄い落ち込んだ。いや最悪、最後まで聞けよ、と思う。頼もうかしら、と見せかけといて、実は、頼もうかしら、なんて言わないよ、絶対。かも知れないじゃないか、と、負け惜しみだけど、思う。
 店員は、ガムシロップやミルクやストローを、仕事なんでね、という手つきで置いている。ぞんざいに扱われた気がして、益々、落ち込む。
 百合子は、不貞腐れた顔つきで、それらをコーヒーに入れ、最後に差し込んだストローでくるくるとかき混ぜた。
 立ち去っていく店員の背中を、うらみがましく、見つめる。
 何だアイツ、っていうか、こっちは客だぞ、っていうか、いろいろむかついたのだけれど、わざわざその文句を言いに行くのもむかつくので、黙っていることにする。けれどやっぱりむかつく。
 今に見てろよ、というか、何とかして思い知らせる方法はないだろうか、というか、カフェの店員にやれる仕返しなどあんまりないのだけれど、ちょっと考えてみる。すぐに馬鹿馬鹿しくなって、やめる。
 このコーヒーをさっさと飲んで、店を出よう、と思う。
 するとふと、視界の端で何かが動いた気がして、目を向けた。
 床だ、と気付く。瞬間、体が、凍る。
 ああ、あれが出てくるんだもうすぐ出てくるんだ逃げなきゃいけないんだこんなところであれが出てきたら大変なことになるんだ。
 纏まらない焦燥が頭の中を過る。
 そろそろと、グラスを置いた。恐る恐る立ちあがる。
 それから、弾けるように身を翻していた。走り出す。すると突然、腕を掴まれ、はっと振り返った。
 あの店員が、憐れみのような表情で百合子を見ていた。
「な、何ですか」
「お支払いがまだですよ」
 掴まれた手から、会計が済むまで一歩も外に出しませんよ、とでもいうような勢いを、感じる。こんな時に、と舌打ちが出そうになる。今あたしが大変な時だって見て分からないの、と叫び出しそうになる。
 見えていないはずの床の動向を、すぐ近くに感じる。開いた床からあれが出てくる、もう出てくる、ほらすぐ傍に、と背筋が総毛立つ。
「払えばいいんでしょ、払えば!」
 百合子は思わず、目を閉じて、叫ぶ。

 ふと、体の周りを取り巻いていた濃厚な空気とでもいうようなものが、音もなく消えた感触がして、思わず、目を開いた。
 そこは、また、閑散としたショッピングモールの中だった。
 え、と目を瞬き、方向感覚を掴めず、一瞬よろつく。
 どん、と何かにぶつかった。
 背後を振り返る。
「大丈夫ですか」
 艶やかな男の声が言う。黒いタートルネックに、ジャケット姿の、足の長い美男子が立っていた。色素の薄い茶色い瞳。見覚えのある顔だ、と思う。
「ああ、貴方は」
 貴方は。
 誰だっけ?
「いらっしゃいませ」
 彼は受け止めていた百合子の体をそっと裏返し、手を引く。「洋服を見にいらしたんでしょう?」
「そうですね」と呟き、そうか、と思う。私は服を探しに来たのか。そうか、服を探しに来たんだ。
「どのような洋服をお探しですか?」
 彼に手を引かれながら、店内を歩く。一体どれくらい奥行きがあるのか、長い廊下のような店内の壁には、様々な洋服がディスプレイされている。
「これが、いいかも」
 と、百合子が足を止めると、「それは君にはきっと似合わないよ」と、手を引かれ、「これなんてどう? きっと、似合うよ」と、自分には到底似合いそうにない服を渡される。渡されたからには仕方なく、それを受け取る。
「不服そうだけど」
 不本意そうな表情が、百合子を見下ろす。「俺の見立てが気に入らないのかい」
「いえ、あー、そんなことは、ないんですけども」
「けど、何」
 そう言う顔は、最早、気分を害された王子様の顔だったけれど、別にご機嫌窺いをしなければならない家来でも何でもなかったので、首をはねられることはあるまい、と本音を口に出す。
「いえ、あー、でも、私には似合わないと思うんです」
「そんなこと、ないよ」
「あの」
 百合子は、もじもじと男を見上げる。
「ちゃんと私のこと見てくれていますか?」
 本当は誰か、他の人のことを見ていませんか?
「そんなこと、あるわけないじゃない」
 とってつけたかのように甘い、猫なで声が言う。
 騙されるな、と、強く思った。騙されるな、これは本心じゃないんだ。
 何せ、彼は、ホストの。
 ホストの? 百合子はその思いつきにはっとする。ホストの、誰だっけ?
「おいで」
 しかし突然強く手を引っ張られ、思考を遮られる。
「とにかく着てみたらいいじゃない。それで、本当に似合わないかどうか、見てみればいい」
 いやだ、と思った。
 けれど、力を込めても、相手の力にどんどん引きずられていく。怖い、と思った。これは自分の意思ではないのに。こんな服は着たくはないのに、逆らえない強い力で引っ張られていく。
「嫌ですって」
「ほら、入って」
 気がつけば、無理矢理試着室に押し込められている。
「出して下さい」
 押しつけられた服を放り出し、ドアのノブをがちゃがちゃとひねる。押しても引いてもドアは開かない。向こう側から、強い力で圧迫されている。閉じ込められた、と俄にせりあがってくる焦燥。バンバン、と平手でドアをたたく。
「開けて下さい」
 そこでふと、背後に異様な空気の圧迫を感じ、振り返った。鏡がある。大きな鏡に、自分の姿が映り込んでいる。
 足元を見る。
 床が、ぷくぷくと、息をするように上下している。まさか、と思った。
「あ、開けて下さい!」
 百合子は、焦ったように叫んだ。足の裏に床を押し上げようとする力が伝わってくる。
 あれが出てくる。もうすぐに出てくる。ここからあれが出てくるのだ。最も見たくない、あれが。
「出して」
 掠れた声で、呻く。「出して、お願い」
 じりじり、とドアから遠ざかる。ぴたりと鏡に背中を張り付けて、荒く息を吐き出す。
「だ、出して」
 戦慄く唇で、辛うじて、絞り出す。「あ、開けてください」
 あれが出てくる。
 突然だった。床が、ばか、と開いた。まず、手が見えた。少なくとも人の形をしている手だ。それから人の頭らしき物が姿を現しかけた。
 思わず、顔を覆う。
 のそ、と何かが這い出てくる音がした。
 見たくない。見たくないのに、どうしてもそれを見ずにはいられない。
 指の間から、覗き見る。
 それはまさしく自分の――……。
 ぎゃあ、という自らの悲鳴が、耳をつんざく。



 百合子ははっとして、目を開けた。
 柔らかい感触が、頬に当たっていた。薄目を開けて、瞬きをして、勢い良く体を起こす。
 車の中だ、と認識しながら、運転席に目を向けた。
「あれ? 起きたんだ」
 停車した車の運転席でくつろいでいた紀本が、百合子を振り返る。それから、か弱くほほ笑んだ。「眼鏡、ずれてるし」
「嫌な夢、見た気がするー」
 眠そうに瞼を落としながら、百合子は、運転席と助手席の間に顔を差し込んだ。ぐえー、と体の力を抜く。「何か怖いよーどーしよー」
「えー」
 紀本が笑ったらいいのか、心配したらいいのか、戸惑っているような、中途半端な表情を浮かべた。「大丈夫?」
「あたしさ、昨日、映画見たの」
「いきなりだね、映画?」
「そう。ほら、ショッピングモールにゾンビが集まってくるやつだよ」
「ああ、そうなんだ」
「あたし、いつもあれ見る度に、考えるの。もし噛まれたらさ、ゾンビになる前に殺して欲しいと願うかどうか、すごい真剣に悩むの」
「真剣にね」
「笑いごとじゃないんだって」
 紀本の肩を叩いて反論しておいて、すぐに、照れ笑いを浮かべる。「ってまあ、笑いごとなんだけど。途中でいつも馬鹿だなあ、って思うし」
「いいじゃない。真剣に悩んでる時の顔、きっと可愛いよ」
「あたしはいつだって可愛いんだって」
「そうだね」
 ふわり、と紀本が頷く。「本当に、可愛い」
 そこには、冗談を言っているような雰囲気が見えず、百合子は、調子狂うなあ、と、内心で戸惑う。会話のテンポが合っていないのだ。痒いところに手が届かないというか、いつもいつも、ぴしゃりとはまった返答をする兎月原とばかり話しているからかもしれないけれど。
「何か、その映画の影響っぽい」
「え、何が?」
「いや何か、今見てた、夢?」
「どんな夢だよ」
「ねえ、どんな夢かねー」
 つい今しがたまで、はっきりとした感触があったはずの夢は、思い出そうとすればするほど、するすると、遠のいていった。「何か、上手く思い出せない」
「でも、思い出さなくていいんじゃないの。何せ、嫌な夢なんだし」
「うーん」
 曖昧に小首を傾げ、そうだね、と納得する。
「それよりさ」と、話を変えた。ルームミラーに映った紀本の顔を見て、それから、斜め横にある実物を覗きこむ。「顔色、悪くない?」
 え、と、紀本は、珍しく、酷く驚いた顔をした。
「そう?」と、苦笑しながら頬を撫でている。
「そうだよ」
「見て、分かるくらい?」
「たぶんね。あたしは、分かるよ。まさかとは思うけど、寒いの?」
 もちろん車内は寒くなどないので、そんなわけはあるまいとも思うのだけれど、何せ紀本は、百合子ですら、薄い七分丈のカーディガンを羽織っているだけの車内で、きっちりと長袖のシャツを着て、袖をまくりもしていない。むしろ、暑そうだ。
「寒かったらクーラーとか止めてくれてもいいんだけど」
「寒くはないんだ」
 困ったような顔でほほ笑む。「大丈夫だから」
「じゃあ、嫌なことでも、思い出した?」
「顔色が、変わるくらい?」
「そうだよね、嫌なこと思い出して青ざめるほど、か弱い神経してないよね」
「だと、思いたいんだけど」
「あ、じゃあ分かった。あたしが寝てる間に、兎月原さんに嫌味でも言われたんじゃないの。あの人、嫌味のセンスにかけては天才的だからさ。ちくちくちくちく」
「その口ぶりからすると、言われたこと、あるんだ?」
「そりゃあね。一緒に仕事してたら、見なくていいとこも、見ることになるよね」
「ふうん」
「あ、じゃあ、分かった!」
「ねえ、もうその遊び、やめない?」
「だってさあ、紀本君って、何考えてるか分かんないとこあるんだよねー。興味津々っていうかー」
 その時、助手席のドアが開いて、缶ジュースを手にした兎月原が乗り込んできた。
「あ、百合子、起きたんだ?」
「ねえ、そう思わない?」
 渡された缶を受け取りながら、百合子は早速、兎月原に話を振る。
「ん、何が?」
「紀本君。謎だよね」
 兎月原は、ちら、と紀本の顔を見て、曖昧に小首を傾げる。「うーん、謎と言えば謎のような、分かりやすいと言えば分かりやすいような。なあ?」
「どうかな」
 向けられた笑顔を見ることもなく、紀本が素っ気ない相槌を打つ。
「何かさ、悩んでるんだったら言ってくれても、いいよ」
「いいよ、って」
 ルームミラー越しに百合子を見た紀本が、苦笑を浮かべる。「それってただの興味本位でしょ」
「え? ばれた? いやだってさ、どんなことで悩むのかとか、聞いてみたい気はあるっていうか、ね? 兎月原さん」
「うーん、そうだよねー。でもさ、死ぬほど悩んでても多分、絶対この人は言わないと思うよ」
「えー、何で」
「特に百合子には」
「えーー! 何で!」
「だって。言えないでしょ、ねえ?」
「まあ、そうかな」
 差し出された缶を受け取り、プルタブを引く。「男だから。女性の前では格好つけてたいじゃないか」
「だってさ」
 兎月原が百合子を振り返る。
「そんなもんかなあ」
「ま、そんなこと言ったら百合子を女性の数に入れるのかどうか、が、問題だよね」
 すかさず兎月原が、嫌味のような冗談を飛ばす。その整った横顔に、「パーンチ」と拳をぶつけた。
「あたしを女性に入れないんだったら、この世から女性なんて居なくなるよ」
 とってつけたように憤慨して見せた。
























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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号7521/ 兎月原・正嗣 (うつきはら・まさつぐ) / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。