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<東京怪談ノベル(シングル)>


 幸いの聲



安物の灰皿に吸いさしの煙草をおいて、草間はいつになく上機嫌だった。
「ああ、気づいたか? いいだろう」
うっすらと笑んだ口元に煙草の煙がまとわりついて、消える。
スチールデスクに山積みとなった書類を片づけている小さな助手に向かって、自慢するかのくちぶりだ。
助手が淹れてくれたコーヒーをことさら美味そうに飲んで、草間は言った。
「まさか、俺が傘に大枚払うような男に見えるか? 傘に金を使えるんなら、この事務所の備品をどうにかしろ、って、おまえにしたって言うだろう」
草間は顔を赤くして言い募る助手の抗弁に軽く笑い、ソファに深く背を預けて、デスク端にひっかかっている一本の傘をながめた。
張られた布は黒の無地で、どうということもない紳士用の傘に見える。しかし、よく見てみると、ちょうどデスクの端に乗っているハンドルの部分が落ち着いた味のある茶色をしていて、なかなかに美しい。艶にしても軽すぎず、重すぎず、実に品の良い表情の木目を表している。いかにも紳士の持ち物という貫禄があった。――言い換えれば、今使っているソファの布地の破れをさりげなくガムテープで誤魔化していたりする草間にとっては、非常に縁遠いものだった。
「というわけで、心配しなくても俺の傘じゃないんだ。借り物でさ。こないだの夜は、ほら、酷い雨が降っただろう。そういう時に限って折りたたみ傘を限って忘れてさんざんな目に遭ってだな。ん? 誰に借りたか? 久世君という男だ。ああ、もちろん知らないだろうさ。俺だってこないだはじめて会ったんだからな。久世、ユウ……ユウ、なんだったかな。ああ、ユウシ。ユウシだ。優しいに詩集の詩と書いて優詩だって、そういや言ってたな。そう、それが、まるでその名の通りの雰囲気の男でな――」



 その日の草間は非常についていなかった。
 数日前に「原因不明の家鳴りをどうにかしてくれ」という依頼があった。またオカルト絡みか、なんで探偵事務所に心霊相談ばかりが来るのかと草間はいつもどおりにうんざりした。もっとも依頼人の話を聞くだけ聞いてみても、件の家鳴りというのは木造の家の木材が鳴っているだけの自然現象に思えた。しかし、そのことを依頼人に何度告げても納得してもらえなかった。
 しかたなく依頼人の家に向かうことにして翌日出かけたのだったのだが、そんな草間を待っていたものはまず電車の運休というトラブルだった。電気系統の故障のためというようなアナウンスが流れた気もするがよく覚えていない。1時間の足止めを食らったということの方がよほど問題だった。余裕を持って事務所を出たはずだったのに、その余裕は足止め時間のせいでさっくりと消えた。
 どうにかこうにか走り始めた電車の中、いっそ車両の中を走りだしてしまいたいような焦る気持ちを抑えるべく吊革を握りしめた。何度腕時計を確認したかわからない。乗り継ぎの駅では当然ダッシュで階段を駆け降り駆け上がりして、帰りのサラリーマンで溢れるなかを、昨日の電話で依頼人が待ち合わせ場所として指定したビルの前に到着したのが、約束の時間ギリギリになってのことだった。
 ところが、今度は依頼人が来ない。
 ギリギリながらも遅刻を免れたのだから、依頼人が怒って帰ったというのも考えにくい。
 もしや待ち合わせの場所か時間に行き違いがあったのだろうかと携帯で連絡を取ろうとしたら、耳に聞こえたのは「おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、かかりません」と流れるアナウンスだった。
 この肝心な時に、ともう二度三度とかけてみたが同じだった。留守番電話サービスに転送されないかとも思ったが、アナウンスが聞こえるばかりだった。
 草間は途方に暮れた。
 待ち合わせ場所として指定されたビルはいかにも待ち合わせ場所になりそうな前衛オブジェをビルの表においており、たしかに目立つことは目立つ。そこが指定された理由は納得できたが、連絡がつかない以上、依頼人がこの場所に来てくれるのかどうか怪しく思えてきた。もしや、今回の依頼はイタズラ電話のたぐいだったのかという疑心すらもたげてきたが、かといって、即刻帰るわけにもいかない。
 動くに動けず、ひたすら依頼人の方から連絡があることを祈って携帯画面を睨んでいた草間だったのだが、はなはだ運の悪いことにそこに雨が降ってきた。
 ぱらぱらと降っていた雨がいよいよ本降りの兆しを見せはじめた頃に、いつもなら忘れることのない折りたたみ傘を今日に限って忘れたことを思い出した。
 晩秋の冷たい雨だった。
 アスファルトの上を乾いた音を立てては転げていた枯れ葉も、雨に濡れて地に伏した。ぼつぼつとくぐもった音を返すだけになった。
 雨が降るまでにも冷たい風に長い時間さらされつづけていたのだ。首筋や肩口から雨水の冷たさが染みてきて、あっという間に寒気を感じるようになった。
 この依頼を受けたときから何か上手くいかないようなイヤな感じを覚えていた。
 案の定、ろくなことがない。
 頭を抱えたい気分でビルの自動ドアの脇に逃げ込んだ。頭上に出っ張りがあり、狭いスペースだったが、風が吹いてこなければ、どうにか雨をしのげる。待ち合わせの時間からかれこれ1時間半は経っていた。いまだ携帯は沈黙したままだ。
 つるべ落としな暮れ模様にくわえてこの雨のせいでいっそう暗い街中に、頭に書類鞄をかざして駆けていくスーツ姿やら、コンビニでビニール傘を買ったらしいOLたちが、草間の目の前を足早に次々と走り過ぎていく。
 待ち合わせの時間から2時間が過ぎたところで、腹をくくった。
 連絡がつかないのだからしかたがない。商売繁盛を願うなら事務所の名に傷がつくことは極力避けるべきだ、もしかすると依頼人が極端なせっかち人間で待ち合わせ時間が迫っても現れない草間に苛立って家に帰ったのかもしれない、などということを、30分前の草間ならばまだ心の隅で思っていただろう。
 だが、今こうして指も痺れるような冷え切った雨に打たれているうちに、待ち合わせに来なかった依頼人の方がこの場合はどう考えても責められるべきだと強く思うようになった。これで先方から文句を言われたならば、黙って頭を下げるまでだ。むしろ2時間待った俺はよく耐えた方だ、と思うことにして、草間は先ほど降りた駅へと戻ることにした。
 しかし、今日という日の運命の神はどこどこまでも草間に冷たかった。
 アスファルトにできた水たまりを蹴りながら走り出して少しも経たないうちに、もともと本降りだった雨が、ただごとではない降りに変わった。道路にできていた水たまりが見る間につながっていく。黒い水たまりに無数の石つぶてを放り込んだかのように、夜目にもわかる白さで冠が跳ね上がる。
 着ているジャケットはすでにずぶ濡れだったが、あたりを真っ白に変えた稲妻を見て、そしてほとんど同時に轟いた雷鳴を聞いて、草間はすぐ目の前に見えた小さな店の軒下に駆け込んだ。
 ここならば雨は辛うじてしのげる。これ以上風が強くならなければ。
 草間の行く手を阻むよう滝のように降る雨を憎らしげに見上げて、シャワーを浴びたようになっている頭を振った。
 べったりと張り付いた髪を払い、水滴だらけになって白く曇っている眼鏡を外す。
 いっそすがすがしいほどに浸水してぐちゃぐちゃと音を立てている革靴は、つい1ヶ月前になけなしの金で新調したばかりだった。
 この雨と不可解な依頼人への憎らしいという気持ちが、しだいに脱力感へと変わっていく。
 そろそろなにもかもが嫌になってきた草間の視界の隅に、ふと、ぼんやりと小さな看板の形が映った。
 コードつきの古めかしい看板があった。
「喫茶 宿り木」とある。
 この店の名前か、と見てみると、近頃では珍しい古風な店構えの喫茶店が草間の背後に佇んでいた。
 古色の美しい扉には、いくらかすり減ってはいたが、細やかな彫刻がうるさくない程度に施されている。
 扉の横には小さく細い窓があって、ステンドグラスがはめ込まれていた。古びてはいたが、一目見ても安っぽいシートが張り付けられているのではく、本物なのだとわかる。繊細な蔓草模様のところどころに丸く囲まれた西洋の庭と樹木の絵柄が見えた。そのステンドグラスには黄色っぽく暖かな光が柔らかく滲んでいた。
 いいところに喫茶店があった。さんざんな目に遭った今、この店で一服できたならば、少しは今の酷い気分も慰められるかもしれない。そう思って扉の取っ手を握った草間の目に、ノブに下げられたプレートが見えた。
「CLOSED」。
 上向きかけていた気分が一瞬で急降下した。
 普段なら「ああ、閉まっているのか。なら別の店でも探すか」程度にしか思わないその文字が、今日に限っては酷く無情なものに思える。
 ため息をついて己の不運を恨みはじめた時、つい今しがた手を離したノブが、カチャリと小さな音を立てた。
 開いた扉から、ステンドグラスごしに見えていた黄色い光が漏れ出た。その光を背負うようにして中から暗い人影が現れた。
「うわ、やっぱり酷い雨だ。マスター、帰り大丈夫かな……。あれ?」
 人影が言った。
 草間は思わずその人影をふたたび見た。それまでのわずかな間も草間の視線はずっと人影の挙動を追っていたのだが、今、思わず改めて見てしまったのだ。
 今のはなんだったのだろう。
 何気なくもらした独り言のように聞こえた今の声に、草間ははっとさせられたのだ。 街中を歩いている時に耳にして振り返る気になった声に出会ったためしなら、ないこともない。だが、今のはその比ではなかった。
 一瞬の間、冷え切って震えすら来ている自分の身体を忘れるような、鮮やかで潤いのある声をすぐ間近に聞いた、と思った。わけのわからない動揺に突っ立っていると、逆光のせいでよく見えなかった姿が、青ざめた稲光に照らされて一瞬浮かびあがった。
 驚いたように目を丸くして草間を見ている青年の顔が見えた。
 厳めしく険しい雷鳴や稲妻にはとても似つかわしくない、柔らかな面立ちの青年だった。
「傘をお持ちじゃないんですね? 大変だ。風邪を引きます。よろしければ中にいかがです」
 青年は、一目見て、草間を雨宿り客と見破ったらしい。
 もっともズブ濡れの客が店の軒先で突っ立っているという出来事は、この店の店員らしき青年にとってはよくあることなのかもしれない。白いウィングカラーシャツに、黒いロングエプロンを身につけた彼は、店の床にべたべたと靴跡をつけている草間からジャケットを手早く預かり、お好きな席にどうぞ、と優しげな一言を残すと身を翻して店の奥へと消えた。
 草間としては、ぐっしょりと重い水を吸って肩に乗っていたジャケットを脱ぐことができたのもありがたかったが、なによりも暖かな店の空気が嬉しかった。一息深呼吸すると、珈琲豆の香ばしい香りが胸に満ちた。
 よく磨かれたカウンターには、金色のエスプレッソマシンが据えられていた。カウンター背面の作り付けの棚にはずらりとコーヒーカップやソーサーが並んでいる。色とりどりの花柄が描かれたカップに、北欧の海を思わせる青で絵が施されたもの、金銀の縁取りのあるそれらは一つ一つ絵柄が違っていて、一組ずつがまるで美術品のように棚を飾っていた。
 いい店だ、と草間は思った。
 多すぎないテーブルの合間に置かれた大きな壺のような花器には、一抱えほどのドライフラワーが投げ込んであって、そのふっさりとした穂が店の雰囲気にまた温かみを添えていた。
 濡れたスラックスを摘み上げながら手近なスツールの端に腰掛ける。
 膝や腿に張り付いた布地が気持ち悪かったが、しばらく我慢すれば乾くことだろう。
 思いがけなくも素晴らしい雨宿り場所に巡り合わせたものだ。不幸中の幸いという言葉が頭を過ぎった。
 携帯には相変わらず着信記録がないのを確認してから、天井の、今は回っていないシーリングファンを何となく見上げていると、横合いから声をかけられた。
「ほかの服は大丈夫です? あの、よろしければ、このタオルをお使いくださればと思って」
 店の奥から戻ってきた青年はふんわりとした白いバスタオルを2枚、草間に貸してくれた。
「髪を拭くのと、身体を拭くのに。……ああ、ジャケットの下もこんなに濡れていらしたんですね。今、温度上げてきます。それに、私のでよければですが、シャツをお貸ししましょうか」
 空調のものらしき操作盤を弄りながら気の毒げに草間を振り返って言う青年は、草間に比べて年若そうに見えるが、実際はどうなのだろうか。どことなく年齢不詳の雰囲気がある。
「いやいや、ありがとう。もう、このタオルだけでも充分すぎるくらいだ。雨に濡れなくてすむってのはありがたいモンなんだって、こういう時に思うよ。ま、こういう時じゃないとなかなか思えないことなんだが」
 さっそく髪を拭いながら、だからバチがあたったのかもな、と冗談めかすと、青年も笑った。朗として楽しげな笑い声が言った。
「もっともです。私もそんな具合ですよ。明日にはバチがあたるかも。こんな小さな店ですが、どうぞゆっくりしてらしてください。そうだ、温かい飲み物を……身体、冷えていらっしゃるでしょう」
 ぽんと手を叩いた青年の言うことに、草間は驚いた。
「え、いいのか? おもてに準備中の看板がかかっていたが、もう店終いしたんだろう?」
「ああ、全然気になさらないでください。私が飲みたかったんです。仕事の後の一服ってやつです」
 悪戯っぽく笑うと、青年はシャツの中に背を泳がせてカウンターへと戻っていった。
 カウンターの中で手際よく動き回る彼を草間は煙草を片手に眺めていた。
 グラインダーの粉を挽く音が聞こえる。ミルクスチーマーが大きな音を立てて、やがて漂ってくる珈琲の香りがいっそう強くなった。
 ソーサーの端を摘むしなやかな指が草間の目の前に現れて、ゆったりと湯気を立てるカップを置いた。
「カプチーノなんですが、大丈夫でした?」
 カップになみなみと注がれたカプチーノには、きれいな葉の形のラテアートが浮かんでいた。
 風にゆらぐようにゆったりと葉を広げたその模様は、日頃洒落っ気のあるカフェになどこれまた縁のない草間の目を充分に愉しませてくれる。
「全然構わない。それにしても、へええ、凄いな。きれいだ。これはどうやって描くんだ? 筆で?」
「筆は使わないんです。ミルクフォームを、……こんなかんじに注ぐと葉っぱの模様ができるんです。でも、まだまだ修行中です。これはなかなか難しくて」
 手首を揺らしてミルクを注ぐ真似をして見せてくれてから、青年は面映ゆそうに笑った。
「直に表面に描くんじゃないのか、知らなかったなぁ」
 カプチーノを啜りながら草間は青年を隣の席へと勧めた。
 草間にしては珍しいことだった。
 仕事であればもちろん誰とであれ言葉を交わすが、オフ時となればわけが違う。初めての店で初対面の店員に対してうちとけたように話をするというのは、草間にはそう滅多にないことだった。ふだんであればあくまでも必要な言葉のみを交わすに留まる。
 妙なことだった。
 草間自身、これが妙なことだという自覚がぼんやりながらあった。
 暖かな店の中で気が緩んだのだろうか。
 しかし、それにしてもこの青年の声音はなんと心地いいのだろう。
 隣の青年の横顔はこうして見ると端正で、いやみがない。
 俗に言うイケメンというのとは違うな、と草間は思った。見た目がというよりも、青年の周囲にある空気が、白木蓮のように柔らかく澄んでいるのだ。初めて顔を見たときに、若そうだ、と思ったのも、彼の雰囲気が持つ瑞々しさのせいかもしれなかった。今隣にいる青年には落ち着いた印象も見え隠れしていて、もしかすると、草間とそんなにも変わらないのかもしれない。
「君は、その、なんかやってたのか?」
 草間の唐突な質問に、青年は瞬いた。
「はい? あ、私、久世と申します」
「久世君っていうのか。――ほら、歌とか、演劇とか」
 久世と名乗った青年はめっそうもないと言わんばかりに手を振って笑った。
「まさか、歌なんてできません。演劇なんていうのも、とても。人前で歌だとか演技だとかというのは無理でしょうね。きっとものすごくアガってしまう」
 そう恥ずかしげに言う青年の言葉も彼の唇から出てきているとわかるのに、なぜか、草間のすぐ身に迫るところに形を持って立ち上がるように、涼しく優しい声の一言一言が鮮やかに立ち現れているように思えた。
「意外だな。いや、君の声がいいなぁと思ってさ。てっきり何かで喉を鍛えたんだろうと思ったんだ。違うのか」
「違うんです。そうだ、甘い物がお嫌いでなければ、マフィンはいかがです? もっとも、今日の余りで申し訳ないんですけど」
 マフィン、と聞いた途端に、草間の腹が、ぐぅ、と鳴った。どうやら草間の腹は抑えようなく腹を空かしていたらしい。
 決まりですね、と青年は笑って席を立っていった。
 香りよく深みのあるカプチーノが喉を滑り落ちていく。
 なめらかなコクがほっとさせてくれる。
 思いがけず心地の良い時間を過ごしていた草間の腰の辺りで振動が起きた。携帯だった。
 まるで休日に行きつけのカフェで寛いでいるような気にさえなっていたのが、一気に先刻までの事態に記憶が引き戻される。
 画面にはさきほどまで連絡が全くつかなかった依頼人の番号が表示されていた。すぐに通話ボタンを押し、耳に当てる。
「はい、草間探偵事務所です」
 すると、受話器越しにザラついたノイズが聞こえた。続いて、荒々しい声がノイズにかぶさり草間の鼓膜を打った。
『アンタどういうつもりだよ! こっちはずっと待っていたんだ!』
 雑音混じりではあったが、間違いなく依頼人の声だった。
 どういうつもりもなにも、待っていたのはこちらも同じだ。
「申し訳ありませんが、携帯が繋がりませんで、その、どちらの方に」
 それとも待ち合わせ場所の打ち合わせに食い違いがあったのだろうか。昨日、再三確認を取ったのだが。
 もう一度確かめようすると、
『うるせぇよ! 今どこにいんだよ! どこに!』
 いかにも聞く耳を持たないといった口調で怒鳴ってきた。
「昨日仰っていたルネサンスビルの近くの、喫茶店……『宿り木』という喫茶店におりますが」
『喫茶店だとぉ?! こっちは雨の中アンタが来るのを待っていたんだ。長い間待たされて、どうしてくれるんだ! 今からソッチに行くから待ってろよ』
 そうしてブツリと通話が途切れた。
 どうであれ、連絡が取れない状況だったのは先方の方だ。
 電話での言いぐさからして、当たり屋のような強請りめあてのヤツだったのだろうかと今になって思う。
 タチの悪いのにひっかかったなぁ。
 口に出しこそしなかったが、思わず肩で大きな息をつくと、マフィンの皿を片手に心配そうな顔をしている久世と目があった。
 向こうはこちらの耳が痛くなるような声で怒鳴っていたのだから、通話の内容も漏れ聞こえたことだろう。
 案じるような目が「大丈夫ですか?」と言っている。
「あ、気にしないでくれ。よくある……まあ、しばしばあることだ。それよりも、今の電話の相手がこの店に来るみたいなんだが、すまん、こうして閉店中に雨宿りさせてもらってるってのに、ひょっとするとさらに迷惑をかけることになるかもしれん。申し訳ない」
 頭を下げる。知らず早口になっていた。
 久世は首を振ったが、恩を仇で返すとはこのことだ。
 今しがたの調子からして、依頼人は相当な剣幕で怒鳴り込んでくるだろう。こちらの事情をすんなり聞いてくれるならさほどの時間も取られないだろうが、もしも予想通りに強請り目的の手合いだった場合は、こちらの言い分が通るとは思えない。こちらが折れるまで長々と居座られるのが目に見えている。この店に迷惑をかけたくないという自分の心理さえ利用されそうだと思い当たって暗い気持ちになった。
 これが事務所に乗り込んでくるというのなら、自分の城のなかでの話だ。どうとでも出ることができるのだが。今からでも場所を変えられないものかとこちらから電話をしてみたが、半ば予想していたとおりに今度は繋がらない。
「困ったなぁ。奴さん、帰ってくれないかもしれないぞ」
 こうなっては店を出た方がいいかもしれない。まさか草間のいない店にまで迷惑をかけることはないだろう。特別な知り合いの店というわけでもないのだから。
「その、ええと、久世君、本当すまん……礼もできちゃいないんだが勘定を頼んでも」
「かまいませんよ、私が様子を見ていますから。見かねたらそっと警察に通報します。通報係がいた方がよくありませんか?」
 久世の言葉は意外なものだった。一部始終につきあってくれるという。
 まだ先方が何者であるのか確定できる状況ではないが、いくらなんでも通りすがりに近い自分という客のこのトラブルに立ち会ってもらうのは……。
 それはだめだろうという心の声と、彼の言葉に甘えようかという心の声とが交錯した。
 どうと動くこともできずに躊躇していると、店の入り口でけたたましくドアベルが鳴った。
 それと同時に、冷たい風と、うるさい雨音が吹き込んできた。
「草間っての、アンタか。アンタだな」
 黒いブルゾンのずんぐりとした男が、喚きながら大股にやってくるのが見えた。ドカドカとわざとらしく靴音を鳴らして入ってくる。
 その声から電話の声の主、依頼人だと知れた。
 ブルゾンの男の後ろからさらに二人の男も入ってきた。ニット帽を被った禿頭と思しい男と、後ろで長い髪を一括りにした髭面の男だ。
 目付きの悪い男たちを見て、草間は自分の予想が当たったことを確信した。
 三人共、頭から滴を垂らしているが、よくよく見てみると肩の辺りはあまり濡れていない。
 草間は乾いているところがないほどに全身が濡れたというのに。
 このかけつける早さからしてもどこかで草間の様子を窺いながら待機していたのだろう。
 やはり面倒なことになった。
 草間一人でやりあうなら殴るなり逃げるなりなんとでもなりそうなならず者といった風だが、この店に邪魔している今は事情が違う。
「草間さんよ、俺ぁ、今の今まで3時間も待たされたんだ。3時間。3時間もだ。客に詫びってのはねぇのかい。さっきの電話でも一ッ言も聞いた覚えがねぇんだけどもよ」
 勝手に通話を切ったのはそっちではないか、と言っても埒があかないとすでに見えている。
「すみません。何度も連絡を取ろうと携帯の方に電話を掛けたんですが、繋がらなくてですね。どうやら電波の届かないところにいらっしゃったようで」
「ンなわけはねぇ。俺はアンタが言ってた待ち合わせ場所で待っていたんだ。延々とな。しびれを切らして電話してたら、アンタはこんなところで一服してたってんだから驚いた。草間探偵事務所の所長やらってのはオキャクサマを馬鹿にしくさってるクズだな。……って、評判を流してやろうか。悪ィな、俺の方も時間をえらい無駄にしたわ、この通りの雨にやられてさんざんな目にあったわで、腹がおさまらねぇんだ。まあ、アンタが俺にきちんと詫びを入れてくれるってんなら、また話は別……」
 頭の悪そうなブルゾンの男がまくし立てている間に、草間は後ろに立つ久世へとサインを送った。腰の後ろに回した手でカウンターの奥を指さす。イチャモンに巻き込まれたらいけない、奥に引っ込んでくれ、と。
 だが、チラ、と横目に見ると、凛とした顔は荒くれ男達を見つめていた。
 どうやら草間のサインには気付いていないようだ。
「ええと、不幸な行き違いがあったんだと思います。僕はずっとルネサンスビルの前でお待ちしていたんですが。その辺りも弁解という意味ではなくご説明したいですし、僕としてもお話を伺いたいので、ちょっと場所を変えませんか。こちらのお店はもう閉店されているので」
「外は雨だ。場所替えなんざしてられっか。だぁからさ、アンタが詫びの気持ちを示してくれればいいって言ってんだよ」
 ブルゾンの男はそう言うと、手近にあった椅子を荒っぽく掴み寄せた。
 ガシャン、と何かが割れる音がした。
 振り回された椅子の脚が壺型の花器にぶつかって倒れたのだった。倒れた花器は砕けてドライフラワーを床に撒き散らしていた。
 ブルゾンの男は、椅子に跨がると、背もたれに腕を乗せてせせら笑った。
「おおっと悪いねぇ。椅子を借りようと思ったら当たっちまった」
 砕けた花器を長髪の男がめんどくさそうに足蹴にする。
「おまえら!」
 草間に嫌がらせの矛先が向くならばまだいい。だが、何の関係もないこの店に迷惑がかかっては黙っていられなかった。
「おまえらっ、こっちが大人しくしていればこんな……!」
 拳を握って掴みかかろうとした草間の肩に、後ろから手がかかった。
「どういう行き違いがあったか存じませんが」
 そう言って一歩進み出たのは久世だった。
「このようなことをなさるのは、ご遠慮くださいませんか」
 不意に、騒々しかった店の中が、しん、と静まった。
 花器の欠片を踏みにじっていたニット帽の男も打たれたように顔を上げた。
 皆が身動きをとめていた。
 意外なことに、久世の顔に怒りの表情は無かった。むしろ、悲しげに三人の男を見ていた。
「この方は雨にひどく打たれてうちにいらしたんです」
 久世は男たちをまっすぐに見ていた。
「きっと、あなた方をずっと待っていらっしゃった」
 草間は久世に今回のトラブルの一部始終を話していない。だが、電話での遣り取りや今の会話から察したのかもしれなかった。
「それを、おわかりいただけませんか?」
 おわかりいただけませんか。
 草間の頭の中にしん、と久世の声が浸みてきて、回りはじめた。
 そうだ、俺はさっきまでずぶ濡れになって、寒風にさらされていたんだった。
 いつ来るともしれない依頼人を待っていて、雷雨の中を走ってこの店に駆け込んだのだ。
 にわかに蘇ってきた記憶はやけに鮮明だった。
 妙な感覚に駆られながら男たちを見ると、それぞれが奇妙な表情を浮かべている。 そのうちの一人、長髪の男が小さく呻いて頭を押さえた。
 久世がまた一歩、足を進めた。男たちの方へと。
「あなた方は、本当に、草間さんを待っていらっしゃったのですか」
 責める口調ではなかった。
 ただ、その問う声は、草間の心臓をつかむような、いや、心臓の真下のあたりに真っ直ぐと入り込んでくる声だった。
 たとえるなら、聖堂に響く聖句の朗詠のような厳かで、深く、気高い、声音。
 額に手を当てて、ブルゾンの男が俯いた。
 汗を拭うようにして、顔を上げた。目が驚きに見開かれている。
 いったいどういうことなのか、何に苦しんでいるのか、その黒目が小刻みに震えている。
 何が起こっているというのか。
 男の食いしばった歯から潰れた声が漏れてきた。
「お、俺たちは、……たしかに、ハメようと、した」
 小さな溜息が聞こえた。久世のものだった。
「やはり、そうだったのですね」
 罪人を憐れむような静かな声がしんと響いた。
「では、あなたがたこそ、このかたに謝るべきではありませんか」
 ブルゾン男の黒目の振幅がわっと増した。汗に塗れた顔に、犯した罪悪を悔いるような今にも泣きだしそうな表情が宿った。
「わ、悪かった。悪かった!!」
 突拍子もない悲鳴のような声を上げて、ブルゾンの男は後ずさった。
 悪かった、と叫びながら、後ろ歩きに店の戸口へと後ずさっていく。ほかの二人も苦しげに呻きながら、ブルゾンの後に続いて、いまだ土砂降りらしい店の外へと転がるようにして出ていった。
 あとには元の静けさが残った。何もなかったかのような静けさだった。
 ただ、品の良かった花器の残骸だけが、今しがたこの店の中で何が起こったのかを物語っている。
 久世はと見てみれば、驚くことに、狐につままれたような顔で立っていた。
「なんだか慌てたように出て行ってしまいましたね。何かあったんでしょうか、不思議な人たちだった」
 不思議なのは君の方だ、と草間はよほど言いたかったが、どうにか言葉を飲み込んだ。それよりもまず言いたいことがあった。
「……久世、すまん。君の店を荒らしてしまうことになって。あとで弁償する」
「いいんです。それよりも怪我をしなくてすんで良かった。お互いに」
「怪我? 俺の怪我なら舐めときゃ治る。だが、こうなるのだけは避けたかったんだ。警察にも連絡、だな」
 それにしても、と草間は思う。
「久世、君は……」
 だが、その先は言葉にならなかった。
 彼の唇を見つめる。
 どうやら当人は気付いていないようだが、そこから出てくるのは、魔力が宿っているのかというような不思議な声だ。
 久世に出会ってからというもの感じていた違和感が、今しがたの出来事でようやく姿を現したように思えた。ただし、それはこの青年からすればもしかすると氷山の一角のようなものなのかもしれない。
 なぜなら、おそらく、この青年の不思議さは声音だけではないと感じるからだ。この久世という青年の全体から漂う、何か。名状しがたい何かが、声という形になって、草間を突き動かし、さきほどの男たちを動かした。そんなふうに草間には思えたのだ。
 人の心を否応なく突き動かす者が存在する。
 今までにも、超能力や霊の仕業による人心の支配なら数多く見て来た。
 だが、今日久世に見たものは、そのどれとも違っていた。不自然に人の心をねじまげ、屈服させるのではない、もっと人の心に近いもの。
 人の心のすぐ近くによりそって、深くに語りかけてくるもの。
 念のため警察へと通報を済ませてから、草間は古びたカードケースから名刺を1枚抜いた。
「今のやつらがどう動くかが気になる。まさかないだろうが、後々ここにお礼参りなんつッて来るようなことがあったら困るからな。急ぎ追おうと思うんだが、済まん、この場は警察が来るまでこのままにしておいてくれ。掃除は後で手伝う。それと、もう俺の名は知っているだろうが、一応これを。俺は草間っていう。しがない探偵をやってるんだが、もし、何かあれば。あと、こっち方面に来た時には寄らせてくれ」
 久世は名刺をしげしげと見つめてから、顔を上げた。
「掃除なんて。これくらいならきっと草間さんが帰っていらっしゃるまでに片付けが終わってしまいますよ。名刺、ありがとうございます。私は、久世優詩と申します。優しいに詩集の詩と書いて、優詩、です。ええ、ぜひ、いらしてください。お待ちしていますから」
 社交辞令ではないとわかる、「嬉しい」という気持ちに溢れたあたたかな声だった。
 乾燥室で乾かしてくれていたらしいジャケットを羽織り、サービスだからと遠慮する久世にせめてもとカプチーノ代を払って店を出ていこうとすると、久世が何かを手に追ってきた。
「まだ外は雨ですから、これを」
 差し出されたのは傘だった。
 草間はドアの外を見上げた。
 いつしか乾いていたスラックスも、なるほどこの雨の中に出ていけばすぐに元に戻るだろう。
「何から何まで悪いな。有り難く借りようと思う。なるべく早く返しに来るから」
「お気になさらず。いつでも構いませんよ」
 相変わらずの雨の中へと草間は黒い傘を広げて駆けだした。大きな傘はすっぽりと草間の身体を覆って、数時間前にはあれほど草間を悩ませた雨から守ってくれる。
 通りを少し走って振り返ると、暗く霞んだ道の先、店があったあたりに薄く、橙色の灯りに照らされて浮かぶ人影が見えた気がした。
 草間は傘を一つ大きく揺らして見せた。
 見えなかったかもしれない。それにあれは久世ではなかったかもしれない。
 だが、いいのだ。
 礼を言いたかった。
 心が満たされたひとときへの感謝。
 そして、不思議な存在に出会えたことへの感謝。
 今日という日の意味が180度変わったことへの感謝を、あの店に。
 草間はふたたび走り出した。
 雨の夜道はもはや川のようになっていてすこぶる足元の具合は悪かったが不思議と気にならなかった。
 いまや心と身体は軽かった。



「というわけでな、そろそろこの傘を返しに行かなければならないんだが……」
 と、草間は久世から借りた傘を手にとってしげしげと見つめた。
「良い物だよなぁ。でなくて。久世の力を借りられたらって思っててな。絶対にあの力は使える。ゲロらせるのにも使えるだろ? それから、ウンと言わせるのにも使えるだろ? 潜入捜査のときでも使えるだろうし、って、まぁなぁ。協力を頼むったって、本人、あんまり自覚していないみたいだしな。俺が頼んだところでいったい何のことだと言われないとも限らん。それに、自覚したとしてもそういうことに使うのは嫌だと断られる可能性も、あるっちゃ……」
 やたらスプリングのうるさいソファを軋ませて草間は首を鳴らした。
「そうなんだよな。断られるってことも考えとかなきゃならないか。だが、久世の声ってのが俺の感覚からしたら不思議でならないんだ。まあ、おまえも一度会ってみりゃ俺の今言ってることがわかると思うぞ。正直なところ、力の使える使えないじゃない。理解のできないものは畏怖するかより知りたくなるかのどちらかだって言うが、久世の場合はまさに後者だ。……ああいうのを、神に愛された男って言うのかもなぁ。断られる可能性はあるにしても、頼むだけ頼んでみようか……」
 草間はソファから手を伸ばし、ブラインドの板を指で上げてみた。
 窓ガラスの向こうはこの間の雨空とはうってかわって快晴だ。そろそろ傾きかけている陽に染まって、冬間近の青空は黄色がかって見える。
 ブラインドを軽く弾いて、草間は腰を上げた。
「よし、善は急げってヤツだな。傘を返しに行ってくる」





<了>