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<東京怪談ノベル(シングル)>


 微睡の人


 ギターのとつとつと語る甘い音が、平日の午後にふさわしいゆったりとしたメロディを奏でている。
 ランチタイムも過ぎ、客足が一段落したところだった。
「久世くん、まったねー。すっごい名残惜しいんだけどー」
「名残惜しいっておまえ、つい一昨日も来たばっかりじゃねぇかよ」
「おいしかったわ、アイリッシュ。次の時は久世くんおすすめのメヒカーノにしよっと」
 わやわやと喋りながら、今まで残っていた一個団体――男女とりまぜ五人ばかりの客が、レジと開け放たれたドアとの間に黒だかりになっていた。
「はい、ありがとうございます」
 優詩はひとりひとりに微笑みを向け、丁寧に釣り銭とレシートとを渡していく。
 次はメヒカーノにと言った女性客へと、そっと優詩は呼びかけた。
「月末はフラメンコの発表会だとおっしゃっていましたよね。頑張ってください、先生」
 大きな口が特徴的なその女性は、嬉しそうに笑って、口元に手を当てた。
「あら、覚えててくれたの? ありがと。もうね、いつも通りウチの生徒さんの仕上がりも心配だけど、今年はそれより新しい衣装が間に合わなくって大変よ。もし良かったら観に来て?」
「ええ、その日はちょうどお店も休みですから、マスターと一緒に伺いたいと思います。今年こそは観に行きたいって、マスター、半年も前から言っていましたから」
「あー、いいんだー。ねぇねぇ、久世くーん、今度うちの叔父さんの店にも来てよ。お酒なんでも奢るからさぁ」
 割って入ってきた少し小柄な若い女性へと、その後ろから同じく若い男がややあきれた顔でたしなめるように言った。
「おまえさぁ、酒で釣ろうったってそれ無理だよ。久世は奢るなんて言葉でホイホイついていくような男じゃないって」
「じゃあ何だったら釣られてくれるかなぁ」
 唇を尖らせて真剣に腕を組んでいる若い女性へと、優詩は冗談めかして言った。
「お休みが合わないと釣られたくても釣られることができないんです。で、私のオフがどうなるかは、マスターの胸三寸にありますから」
 優詩の悪戯っぽい笑いに、レジ前が湧いた。
「そっか! 久世くんと遊ばせてくれないのはマスターの陰謀だったんだ!」
「マスターじゃなくたって、俺だっておまえに久世をつきあわせるのはやだよ」
「えーっ! なんでアンタまであたしの味方してくれないわけー?」
 大いに盛り上がっていると、
「ええい、おめぇら、いちいちうるせぇぞ! いいかげん出てかんか! 業務妨害だ、業務妨害!」
 カウンターから顔を出したマスターが布巾を片手にがなり立ててきた。
「ほらほら、マスターを悪者にしたからぁ」
「マスターってば、久世くんがモテるからってスネちゃだめだよー! あんまりカッカしてると脳卒中になっちゃうから」
 そう、若い女性が両手で口元を囲んで叫ぶと、一度はひっこんだマスターがにゅっとカウンター下から首を出した。
「ばぁかやろぅ。毎日玄米とヨーグルト食って、健康には気ぃつかってらぁ。歯も二十五本はまだまだ健在だ。いらん世話なこた言ってねぇで、ほらほらとっとと帰ぇれ帰ぇれ!」
 わぁ、おっかなーい、などと逃げるそぶりを見せて、若い女性が笑いながら外へと出て行く。
「皆さま、今日もありがとうございました。またお待ちしております。どうぞお気をつけて」
 会計を済ませた賑やかな常連たちを丁寧に見送ってから、店の前に出していたランチメニューを書いた黒板と、それを立てるイーゼルとを両脇に抱えて優詩は店の中に戻った。
「相変わらず元気だったなぁ、歯医者ンとこの孫娘は。アイツの風邪引いたところを見たことがねぇ」
 ボヤきと痛快さが混ざり合ったような言い方に、優詩は思わず笑ってしまった。
「いくらなんでもそれはないですよ。つい二週間ぐらい前には酷い胃腸炎に罹ったって話を聞きましたし。そのせいかこの間までは少し元気がなくていらっしゃいましたよ。でも、今日はいつも通りで良かった」
「胃腸炎? 胃腸患ってたってのにコーヒー飲んでって大丈夫だったのか?」
「ええ、俺もそう思いましたから、スペシャルブレンドにするんだって言い張ってらしたのを、無理矢理ホットミルクにすりかえました」
「すりかえた!? 無理矢理?! 無理矢理!!」
 マスターが噴きだした。
「俺でもさすがになかなかやれねぇ。まぁ、おめぇだから許される技ってやつなんだろうなぁ」
 涙を拭ってまでひとしきり笑うと、力が抜けたように、はぁ、と息を吐いた。
「で? 何だって言ってた」
「それはもちろん、初めは文句を言っていらっしゃいましたけど、一口飲んだら『おいしい』、と」
 それで済むところが優詩だよなぁ、とマスターは首を振りながらカウンターへと引っ込んでいった。
「それにしても、今日はやけにお客さんが多かったですね。この近くで何かあったのかな」
 カウンターの中から水と皿とをかき混ぜる音が聞こえてくる。
「さあ、どうなんだろうな。最近はどこで何をやってるんだかサッパリわからん」
「ですね。この界隈もずいぶんと新しい建物が増えたし……あ、マスター。それ、俺がやります」
「ん? おう、助かる。まぁな、知り合いの店が消えていくってのは寂しいもんだ。時代の流れってヤツなんだろうが。あいつらみんな今頃どこで何やってンだかなぁ……」
 マスターが溜息まじりに言うと、優詩はほんのわずか首を傾げるようにして、ゆっくり、二度、三度と頷いた。
「そうですね。本当に……」
 遠い昔を思い出すようにそう小さく呟いた。
「四年前だったか? 川向こうの下駄屋の親爺なんざ、一週間前までひとンちに将棋指しに来てたってのに、あっさり夜逃げしちまったしな。あン時は思ったなぁ。オレにはひとことぐらい言ってくれたっていいじゃあねぇかって」
 ほとんど愚痴るように、それでいながら何か懐かしむようでもある口ぶりで、店の扉を眺めて言った。
 このマスターは西洋の紳士然としたその風貌とは裏腹に、生粋の江戸っ子でべらんめぇ口調で話す。さすがに一見やそこらの客に対してべらんめぇで話すことはないが、常連が相手となると憚ることなく口から飛び出すようになる。見掛けとのギャップにはじめは驚く客も多いが、聞き慣れた客曰く「これでこそ『宿り木』の親爺さん。そうでなくっちゃ」、らしい。世代の近い常連たちに向かって本音の毒舌トークを炸裂させるときはきまってべらんめぇ口調になった。
「は、ガラでもねぇや。この曲がいけねぇ、この曲が。優詩、そっち任せるから、オレは裏行ってくる。ええっと、コロンビアと何が足りねぇんだったか」
「あ、マンデリンです。それと、コナブレンドも」
 意外にハけたな、という呟きを残して、腰を叩き叩きマスターは店の奥へと引っ込んでいった。
 客が残していった皿やカップを手に重ね、テーブルを拭く。
 忙しい時間帯に片付けられなかった洗い物をすませて、タオルで水気をぬぐった。 灰皿はとくに気をつけなければならない。水気が残っていると客の煙草が湿気ってしまう。そして、使用済みのコーヒーの粉を盛る。これが臭い消しになる。
 そうしてテーブルのセッティングを済ませ、レジのチェックをしていると、ドアベルがカランコロンと鳴った。
 ロングコートに身を包んだ女性が立っていた。
「お好きな席にどうぞ」と声をかけると、ほんの少しだけ優詩を見たが、目を合わせたとは言えない見方だった。優詩の襟元を見るような遠慮がちな視線が小さく会釈した。
 初めて見る顔だった。
 迷うようにテーブルの間を行き来していたハイヒールが、一つのテーブルの前で止まった。店の中ほどにある窓際の席だった。その窓からは二坪ほどの小さな中庭が見える。芝に覆われた盛り土の上に、細い楡の木が一本生えていて、クリスマスも近い冬になると電飾で飾ったりしている庭だった。
 コートを向かいの椅子の上に畳んでワンピース姿になった客が、その窓際の席に落ち着いたのを見計らって、水のグラスとメニューを持って行く。
「ご注文がお決まりになった頃にお伺いいたします」
 横に流した長い髪が前に落ちて、俯きかげんの目元を隠していた。
 初めての店だからという緊張感からではない沈んだ空気が、彼女の周りにまとわりついているように優詩には思えた。
 かすかに頷いた女性は、しかしそのあと、おしぼりで手を一度拭いたきり、メニューも開かず、グラスにも口を付けなかった。
 相変わらずやや俯いたままで、最前と少し変わったことがあるとしたら、中庭を見ていることぐらいだった。
 見ているといっても、俯いた視線は楡の木を仰いでいるわけではない。なんの変哲もない芝生をひたすら眺めているのだろうか。
 注文を取りに行くタイミングを見計らいながら彼女の様子を窺っていた優詩の胸に、ひとつ、ぼんやりとした感覚が浮かんでいた。
 あの女性は泣いているのだ。
 悲しいことがあったのだ。
 芝生を見つめる瞳からは見えない涙がこぼれているのだろう。
 ほんとうの涙は見せたくないと、芝生の青さに目頭と頭の中の熱さを冷ましてもらいたくて、ああして耐えているのだろう。ほんの少しでも動いたら、涙がこぼれ出てしまう、と。
 テーブルの下に隠れた手はいま、ワンピースの布地を掴んできっと震えているのだろう。
「お客様。こちらは当店のサービスです。もしよろしければ召しあがってください」 そう言ってバニラチャイのカップを差し出すと、彼女は初めて驚いたように顔を上げた。
 瞳が潤んでいて、瞼も目元もかすかに赤い。
「ごめんなさい、わたし、まだ何も頼んでいなかった……。それなのにサービスだなんて」
 チャイのカップと優詩の顔とを見比べながら、戸惑ったような声が言った。
 いつも使うスパイスにバニラビーンズをくわえて煮立てたチャイに、エスプレッソマシンで立てたミルクフォームを乗せ、翡翠色の明るい草原と木々が描かれたカップを選んで、シナモンスティックを添えたものだった。
「いいえ、そのようなことはお気遣いなく。ぶしつけながら、当店の新メニューのモニターをお願いしたくてお出ししたんです」
 やさしくそう笑いかけると、優詩を見あげていた彼女の当惑顔に、不思議そうな色が浮かんだ。
 バニラの甘い香りがこの人の傷を癒してくれるといい。
 泡雪のように溶けるミルクがこの人の心の痛みを溶かしてくれるといい。
 優詩の顔をしばらく見つめていた彼女が、ゆっくりとチャイを見下ろした。
 ソーサーからカップを摘みあげて、そっと唇を寄せた。
 なめらかに泡だったミルクを啜る口元が、一瞬驚いたように窄んで、それからだんだんと柔らかくほころんでいく。
 カップをもどして彼女が顔を上げた。
「……おいしい。これ、おいしいですね」
 そう言って笑った。
 その笑顔に、優詩も思わずほほえんだ。
「よかった。美味しいと言ってくださって嬉しいです。普通のチャイはメニューにあるんですが、このバニラチャイはたった今思いついたところで」
「え、今?」
「はい。お客様から、インスパイアされて」
 そう優詩がこめかみを指でたたいて見せると、彼女は「まさか」と照れたように笑った。
「まさかもなにも、本当です。当店に貢献してくださいましてありがとうございます」
 恭しく一礼して見せて、そして二人で笑った。
 事実、本当なのだが、彼女はジョークだと思っているだろう。もちろんそう思ってもらってかまわない。むしろその方がいいだろう。
 悲しみや痛みは、ときに美しいものを生んでくれると優詩は思う。 
 そうして生まれた美しいものがまた、次なる人の痛みや悲しみを吸い取ってくれるのだ。
 中庭を眺める彼女の横顔から生まれたチャイを、彼女は目を細めて、長い時間をかけて味わって、それは美味しそうに飲み干してくれた。
 そのあとケーキセットを追加して過ごしてくれた彼女は、やがてテーブルを立ち、レジの前で頭を下げた。
「その、ありがとうございました。サービスとか……いろいろ」
「そんな。こちらこそ感謝の気持ちででいっぱいです。お客様は『宿り木』の新メニューの生みの親でいらっしゃいますから」
 彼女は楽しそうに笑ったあと、天井を見回すように店の中を仰いだ。
「『宿り木』って名前なんですね。このお店」
「そうなんです。よろしければ、こちらのカードを」
 店の電話番号とマップが載っているカードを取って渡した。
 それをしげしげと見つめたあと、「素敵なお店ですね、また来ます」。そう弾む声を残して、彼女は店を出て行った。
 彼女の長い髪は、もうその顔を隠してはいなかった。



 静けさの戻った店のなかで、優詩はたった今までの出来事を胸の中で反芻していた。 今日もまた一つ、新たな笑顔を見ることができた。
 見ず知らずの人が、この店で、自分が作るものを飲んで顔を喜ばせてくれる。そして幸せそうに帰って行く。
 だからこの仕事が好きなのだ。
 この店で、マスターのように年老いていく自分を想像する。 
 朝から夜まで、自分のやるべきことは変わらない。
 店に訪れる人たちとほんの少し語らって、毎日は穏やかに過ぎるのだ。
 もっとも、ランチタイムや休日祝日は忙しいし、たまには予想もしないハプニングもある。だが、今の老マスターで二代目だというこの店は、ありがたいことに常連客が多い。常連の中には困ったことが出来湧くたびに手を貸してくれる人たちも少なからずいる。刻々と変わりつづけるこの界隈にあっても、そうめったなことでは揺るがないだろう。
 穏やかに。
 マスターが許してくれるかぎり、この店で、訪れてくれる客の笑顔を糧に、変わらぬ日々を過ごしたい。
 時々、ふと何かの拍子に、時が止まっているような、何かを置き忘れてきたような感じを覚えることもあるが、いや、きっとそれは何かの錯覚だ。
 この穏やかな日々に身を浸しているかぎり、心を荒だてられることはない。掻き乱されることはない。
 だから、俺はこの店とともに――。



 気付けば店の有線のスピーカーから、眠くなるような弦楽四重奏が流れていた。
「優詩ー! 豆買ってきたぞ! クソ重くてギックリ腰起こしそうだ。倉庫の鍵取ってきてくれ!」
「えっ! マスター、遅いと思ったら、出かけてらしたんですか!? ちょっと待って、いま行きます!」
 店の表のステンドグラスからは弱い西日が差し込んでいた。
 夕暮れ時にあつらえ向きの抒情溢れるメロディに混じったバタバタとした足音が、慌てふためいたように遠のいていく。
 磨かれたテーブルには西日が落ちて、一輪挿しの影が長く伸びている。
 喫茶「宿り木」の扉の向こうを、それぞれの人生を背負った人々の忙しげな影がいくつもいくつも通り過ぎていき、扉のこちらがわには――。

 
 ――ひとつの魂が今日も微睡むのだ。




<了>