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<東京怪談ノベル(シングル)>


 時代の亡霊


 広いモノクロのスクリーンに、二つの影が揺れ動いていた。
 平日のレイトショーという時間帯だけあって客の姿は疎らだ。
 特に指定しなくても手に入ったセンターの席に身体をすっぽり収めて、優詩は暗闇に眩しく浮かび上がるスクリーンを眺めていた。
 動員数に苦しむ映画館の苦肉の策なのだろうか、近所の映画館で『不朽の名画リバイバル』という名の特別上映をやっていると知ったのは、つい4日前のことだった。
 常連客の一人が、優詩の淹れたエスプレッソを飲みながら言ったのだ。「そういや、こないだそこの映画館で映画観てきたんだけどさ」。
 そう言って、客はカウンターに乗り出した。
「なぁなぁ、久世くん、何やってたと思う? ここんトコしばらく見なかった俳優のアクション物? 近未来電脳戦争モノ? それとも……ああ、剣と魔法のファンタジー? うん、そう思うだろ? ちーがうんだね、これがどっちも。正解は、古典名画。ほら、レンタル屋の古典とか文芸とかいうコーナーにある、そうそ、あれだよ、あれ。古典名画のDVDなんて今時二束三文で投げ売られてるけど、まさか映画館でまたやってくれるとは思ってなかったからさ。どうしても大画面で観たけりゃホーム・シアターのセット揃えて満足するしかないもんだと思ってた俺としては、もうビックリで。まあ、なんつってもね、大迫力! いかにもローマ・ギリシアって格好した奴隷たちがさ、こう、大画面を埋め尽くしてたりするわけよ。そんでガレー船の船底にズラリ並んで、足枷嵌められながら汗塗れで必死に船漕いでたりさ。戦場を四頭立ての戦車が土煙をあげて疾走するシーンとかも迫力だったねぇ。ほら、歴史物が多いだろ? 舞台の大道具も凄くってさ。今時のCGで全部作っちゃおうとかっていうヤツとは比べものになんないよ! これぞ本物の大スペクタクルって貫禄で。俺、しばらく通っちゃうかも」。
 そう興奮気味にまくしたてて、自称オーディオマニアでもあるという彼は、それから一時間もの間、手振り身振りを交えて古典映画の魅力について延々と語ってくれた。その間、あいづちを打ちながら食器を洗うだの、古くなったメニューを新しいものに取り替えるだの、会計に走るだのしていた優詩だったのだが、例の常連客が帰っていった後も、彼の言葉がどことなく頭の片隅にひっかかっていた。
 彼の話によれば、作品は週替わりで上映しているのだという。いずれも平日レイトショーの時間帯のみでの上映だし、大型新作が入るとあっさり上映時間が変わるからうかうかしていると見逃してしまう。観る気があるなら上映スケジュールを念入りにチェックすること、などとご丁寧なアドバイスまでくれた彼に、今週の映画はと尋ねると、彼はにやりと笑って言った。「今週やってるヤツは、実在した悲劇の高級娼婦の物語だよ。といっても、高級娼婦は仮初めの姿で、正体は女スパイ。そういう波乱に満ちた人生を送った女の役を、サイレントだのトーキーだの、ハリウッドの銀幕全盛期にいた大女優が演じてる。すんげぇ綺麗な女優だ。誰って? ……んー。当ててみてよ」
 そう言われたので、ぱっと思いついた有名どころを何人か挙げてみたが、どれも外れた。客はといえば、優詩がハズしたのが嬉しかったらしく、やけに上機嫌なようすで、「正解は、ナーイショ。観たら『あっ!この人か!』ってなるかもしれないけどな。実際に観に行ってみてくれよ。モノクロ映画ってのは、案外とフルカラーよりも情緒があっていいもんだよ。どっちにしろお楽しみってヤツだ」などと、まるで鼻歌でも歌うような調子で言った。
 映画が嫌いなわけではないが近頃は観に行く機会もなく、また興味を引かれるような作品もとくになかった優詩だ。だから彼の話も初めは一人の客の趣味話として聞いていたのだが、話を聞くうちにある言葉がひっかかった。
 悲劇の高級娼婦。女スパイ。
 なぜそんな言葉が、自分には到底縁の無さそうな言葉が気になるのか。
 とくに思い当たるところはなかった。なのに気になる。
「実在、した人、なんですか?」
「うん、そうなんだよ。事実は小説よりなんとかだろ? まあ、第一次世界大戦頃の話だからね。なんでもアリっぽい時代じゃあ、あるよね」
 第一次世界大戦。優詩の脳裏にもぼんやりとモノクロの情景が浮かんできた。いつか何かのテレビ番組や映画や写真で見た断片的な映像が混ざり合って、コラージュのような漠然としたイメージをつくる。その中に、これまたぼんやりと、古典的な装いに身を包んで佇む、長い睫とルージュのラインがくっきりと美しい女の姿が見えた、気がした。波乱に満ちた生涯を送った女性だったという。世と人とを欺くスパイとなれば、たしかにさぞかし波乱尽くしだっただろう。そして、結末は、悲劇。
「たしかに戦争のさなかとなればいろいろありそうですよね。で、実在ということは、その悲劇というのも事実ですか。実際、どういう?」
「そりゃぁ、……。言ったらネタバレになるじゃねぇかよ」
「あ……。そうですね。すみません」
 謝ると、しかし、客はしばらく黙り込み、カウンターを見つめ、それから困ったようにも怒っているようにも見えるなんとも複雑な顔になった。そうしてから、優詩をじっと見上げてきたので、スポンジを握っていた優詩もさすがに彼から目をそらすことができなくなった。
 どう見ても。どう見ても、ものすごく、物言いたげだ。
 だが、しゃべりたいがしゃべりたくない、という雰囲気も思い切り背負っている。となれば、真っ向から尋ねてはいけないのだろう。かといって、ここで話を終わらせるのも彼には酷だろうし、優詩としても続きが聞きたい。困った末に、そっと尋ねてみることにした。
「……ほんの少しだけ聞かせていただいても、やっぱりネタバレになってしまいます?」
 もとより二人しかいない店の中、小声で尋ねてみると、それまで『すっごく言いたいけど。今すぐすっごく語りたいけど!』と言わんばかりのしかめつらのまま口を尖らせていた客が、ちろりと目を上げて、低くぼそりと呟いた。
「ほんの少しなら、そこまでネタバレには……ならねぇかもだけどさぁ。観に行くっていうんなら、俺がバラさない方がいいだろ? その方がいいはずだ。……そりゃあ、語りたいけど」
 意地を張るようなくちぶりだったが、語尾だけは消え入るように小さかった。優詩は思わず笑ってしまった。ただし、声と顔には出さないよう注意して。
「じゃあ、ほんの少しだけ話を教えてください。その、観に行くにあたっての予備知識として、です。まったく何も知らずに観に行って、わけもわからずに帰ってくるようなことになったら、――ね? 残念ですから」
 そう微笑みかけると、客はひょいと眉を上げた。少し迷うような顔をしてから、素直そうに頷いた。心なしか表情が明るくなったように見えた。
「そうか? いいのか? 話しちまってほんとに良いんだな? じゃ、少しだけ、ほんっとにほんの少しだけ、あらすじを言うとだな。昔……その第一次世界大戦頃ってのな、まあ、さっきも言ったとおり高級娼婦とスパイという二つの顔を駆使して活躍した女ってのがいて。もっとも政治材料として利用されただけだという言い方もあるみたいだがともかく、彼女の仕事は、政府の高官を手玉に取りながらベッドの中で国家機密の情報を手に入れるってのだったんだ。で、スパイだから、偽物の愛情をチラつかせては目的の情報を持っていそうな男たちをたぶらかしてるだけで、もちろん誰も愛してない。また同時に、誰かを愛したりしたらいけなかった。ターゲットになった男たちが命の危険に晒されたり、自分のせいで犠牲にしたからといって、何かを感じてしまってはスパイとして失格で、即座に抹殺されてしまう。そういう点で、彼女は男たちを籠絡するには完璧に美しく、完璧な適正を誇るスパイだったんだが、そんな彼女に一途に惚れ込んでしまった一人の青年将校がいたんだな。どれだけ一途で真っ直ぐかっていったら、そらもう犬みたいなヤツでさ。そしたら……」
 そこまで言って、彼はふいに黙り込み、低く呻いた。「ほんの少し」のはずがしゃべりすぎてしまったと遅まきながら気付いたらしい。
「……ごめん。ちょっと、かなりしゃべっちまったけど、ごめんな! うん、そんな感じの、話なんだ……」
 映画を愛する者として、これから鑑賞しようという者にストーリーをバラしてしまうことは掟に背く、とでも言うように頭を垂れた。
 そして、「今はこれ以上言えないけど、絶対観に行ってくれるよな?」と、むしろ彼こそが犬と言えそうな目で訴えてきた彼に、優詩は思わず「次のオフに観てきます」と答えてしまったのだった。
 モノラル音声を引き延ばしたようなサラウンドに、細かく弾けるような雑音が入り交じっている。
 暗闇の中、そこだけ眩しいスクリーンの中で、彫像のように美しく、異国情緒あふれる装飾で着飾った女が艶然と微笑んでいた。
 気の強そうな弓なりの眉、玲瓏たる頬と額。参列者席の長椅子にしなやかな手脚をゆったりと伸ばして、完全な造形と言うべき唇をうっすらと上げる。それが開いて、目の前にいる、信仰厚い純朴そうな青年将校を背徳の道へと堕とそうと、低く掠れた声で、魔性の囁きを零す。
 今はこの青年が重要な機密を握っている。だから彼女は逢う。それ以外に青年と接触する理由はないのだ。
 一方の獲物である男はといえば、とっくに彼女の虜だ。どうしても彼女を手に入れたい。謎めいた、絶世の美を体現している彼女を。
 それを見透かして、彼女は獲物を翻弄する。思いつきの気まぐれに、彼に究極の選択を迫る。
 今、ふたりをほのかに照らしているのは、祭壇の火だ。
 人気の無い真夜中の教会の片隅に据えられた小さな祭壇。
 聖母像に捧げられたその火は、この小さな教会に遠い昔から昼夜分かたず灯されつづけてきた不断の聖火だった。
 しかし哀れな獲物は、この火を吹き消さないならば帰ると言う彼女の難題に逡巡し、あまたの人々によって、長きにわたり守られてきた厳かな聖火を、――ああ、吹き消してしまった。
 スクリーンが暗転する。
 瞼に残った残像は、獲物を戯れに思うがままに操り遂せた彼女の、冷たい微笑みだった。
 青年将校は、今まで何があろうと裏切るはずがなかった信仰の炎を吹き消し、背徳の底に堕ちて彼女を得た。得たが、それはまがいものだ。真なる愛情ではなかったのに。
 場面が変わるほんのひとときの暗闇の中で、ぞくり、と優詩の背中を駆け上がったものがあった。
 焦がれる気持ちは、狂おしいまでに押しとどめることができない。何をかなぐり捨てても欲しいと逸る恋心は、ハンドルとブレーキを失ったままアクセルを踏み続けて走る車のようなものだ。そして、たとえ崖っぷちへと続く道を走っていたとしても、その周りの景色は、――悲しいかな、恋という炎に眩んだ目には映ることがない。
 覚えがあった。
 自分の意識の輪郭がぼやけるような感覚に囚われはじめる。たとえるならばエレベーターの中で感じる妙な感覚。しっかりと足の裏に捉えていたはずの地面が、急に遠のいていくかのように感じる、あれに近い。
 性別すらも超越したかのような冷厳たる美貌の女スパイ。彼女の顔に、別の顔が重なりはじめていた。
 それは、もう忘れていたと思っていたあの人。
 いや、忘れることはなくても、遠い日の思い出の一つになっていたはずのあの人の顔だった。
 あの人も、この二つの顔を持つ彼女のように、あらん限りの輝かしいものに満ちていた。
 きわめて聡明、才気煥発としていて、行動力と判断力に長け、周囲からの尊敬を集めるだけでなく、時の運を司る神にも愛されていたあの人。
 時折一人の時に見せる静かな横顔に、その人の心の深淵を垣間見ていた。垣間見たと思っていた。
 唯一、すべてを捧げたいと思った人だった。
(そう、あの頃、俺は何の迷いもなく、俺のすべてを捧げられる、捧げたいと思っていた……何の迷いも、ためらいもなく。)
 俺の隣であの人は、臨床結果を踏まえた画期的な論文を次々に発表していった。また時には従前の常識を覆すような驚くべき問題提起をして心理学の学界に一石も二石をも投じ、見る間に国際的な舞台へと羽ばたいていった。あの人は今、どうしているだろうか。
 あれほど周りの人間に敬愛されていながら誰もいらないと言ったあの人は、よく俺に将来の夢を語ってくれた。今の学界にはびこっている錆び付いた固定観念に戦いを挑みたいのだと。正面から対決してみたいのだと、そう熱く語るあの人が眩しかった。嬉しかった。たがいに共通した夢を語り合えるのが幸せだった。
 それから。あの人と俺とのふたりしか認めてくれなかった教授の元で、俺たちはしばしば議論を戦わせた。ふたりで理論を作り上げるために。夜を徹して、何度かは朝が来たのに気付かなかったほど白熱した時間の中で、ショートしそうな頭をフル回転させながらの論争を繰り広げる。真剣勝負の議論だ。それは正しく論争と言えるほどに容赦がなかった。お互いに。
 だが、細かなプラズマがひっきりなしに脊髄を駆け上がっては炸裂するような、たとえようもない昂揚と快感の中で、尊敬するこの人とこうして意見を戦わせられることを至福に感じていた。
 スクリーンの中で、かの女スパイが泣いていた。
 顔に包帯を巻いた青年将校が横たわるベッドに縋って彼女は泣いていた。
 彼女も人の子だった。冷たい大理石の彫像ではなく、血の通った人間だった。
 彼女が青年から機密事項を奪ったために、青年将校は罰せられたのだ。投獄され、拷問に処せられ、恩赦によって辛うじて一命を取り留めて牢を出ることができたものの、失明してしまった青年将校――彼を濡らす彼女の涙に、優詩の心が痛んだ。
 一方の青年将校は、なぜ彼女が泣くのかわかっていない。
 自分がドジを踏んで大切な機密情報を失ってしまったからこんなことになったというのに、なぜきみが悲しむのか。そう言って、包帯からわずかに覗いた口元が微笑んで、彼女を慰めようとしていた。
 あの人は。あの人も、俺が何も言わずに、何も知らずに、この青年将校のようにありつづけたなら、彼女のように涙の一つもくれただろうか。俺を裏切った人。
 それとも自分は、この魔性の女に唯一愛された青年将校ではなく、数多くの手玉に取られた男たちの一人だったということなのか。
 人の心は、怖い。
 自分の心も、怖い。
 この善人である青年将校が、こんな姿になってもなお彼女にに裏切られたことに気付かなかったように、実は他人の心というのはほんの一面しか見えなくて、その上、相手に対する自分の認識の大部分は、自分の思い込みによって作られているのだ。
 あの人はいったいどういう人だったのだろう。
 時折垣間見たと思っていたあの人の素顔は、本当はまったくの幻だったのかもしれない。
 あの人は、今、どこにいるのだろう。
 わからないし、知りようもないが、この世界のどこかで日々を過ごしているはずだ。俺と同じように。
 朝が来て、夜が来て。
 過ぎていく日々の中で、はたして一瞬であれ、俺を思い出すことは、あるのだろうか。
 もしもあるのなら、その回想のうちにわずかながらでも懐かしむ思いは存在するのだろうか。
 それとも、記憶の中にあぶくのように浮かんだ俺の姿を、嗤って、潰して、日常に戻っていくのだろうか。
 いつしかスクリーンには、手書きと思われる古めかしい字体でのクレジットが流れていた。
 俺の人生の一時期を駆け抜けていったあの人との日々。
 あの人は、俺の人生の一つの時代を作ったのだ。その時代が善いものであったのか、悪いものであったのかは、きっと死ぬまで、いや、死んでも答えの出ない問いなのだろう。あれは、一つの時代だったというだけのことだ。
 それだけのこと。
 小さく呟いて、席を立つ。
 古典作品らしくクレジットも短い。通路に出る前に、照明が戻った客席のただ中からスクリーンを眺めた。
 スクリーンは灰色に沈黙していた。
 真実の愛に目覚めた誇り高く気高い彼女の最期の姿は、名残すらも、もうそこには無い。
 眠りから覚めて覚醒した意識の中から去って行く夢の残像のように、暁の光射すとともに薄れていく亡霊の姿のように、あの人の面影もまただんだんと遠のいていく。そしてかわりに、胸の中に穴が空いたような虚しさが忍び込んでくる。
 ずっと右手に握ったままだったチケットの半券をポケットに突っ込んで、映画館を出た。
 どこからか流れてきた煙草の匂いが微かに鼻先を掠めて、終電に乗り遅れた酔っ払いを送るタクシーが目の前を走り過ぎていった。
 昼も夜も見慣れた街並みの夜景が、いつもと変わらずにあった。
 まるで懐を広げて「お帰り」と言ってくれているようで、今ばかりは有り難かった。





<了>