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<東京怪談ノベル(シングル)>


 輝きの華


 優詩の行く手に、いくつもの赤い誘導灯が揺れていた。
"車が通ります"。"車道に広がらないでください"。交通整理をしている警察官たちの声が、ざらざらとしたスピーカーの雑音に乗って聞こえてくる。
 これほどの人出で街中の道が埋め尽くされることはそうそうない。
 優詩たちの前をゆく人々の足取りも、どこか浮ついているように見える。
 いつ尽きるとも知れない人々の黒々と長い行列の外側で、誘導灯は揺れては回り、回っては揺れて、それを見つめているうちに、優詩は自分が影絵の世界の中に入ってしまったかのように思えてくるのだった。



 喫茶『宿り木』の常連客には、何かと催し事に誘ってくれる客が多い。もちろん店を簡単に休みにすることはできないし、ほぼマスターと優詩だけで回っている店であるから、たとえ優詩一人が欠けるだけでも、途端にマスターの負担が大きくなる。だから、誘いにはいつも乗れるわけではなかった。だが、客の中には妙なコネを持っている人種もいて、めったに一般公開されない方面のことに招いてくれたりすることもある。ために、『宿り木』の扉に「本日、店主都合により休みを頂きます」の紙が貼られることも、稀にはあった。
 誘いがあったのは、一週間ほど前のことだった。
 毎年夏の終わりにある大きな花火大会。テレビでも生中継で放送され、毎年この日だけは近隣のホテルも予約開始時点で全満室になるという。もはや夏の終わりの風物詩になっていると言ってもいい、その花火大会に行かないかという誘いだった。たしかに、会場は『宿り木』からはそう近くもないが、その気になれば歩いて行けないこともない距離にあるのだ。
 だが、花火大会は毎年恒例のことであるだけに、めったに見られないものの類に入らない。だから、例年であれば「一番忙しい日だってぇのに店閉めてられるかい」とばかりにあっさり断ってしまうマスターが、この日ばかりは違って、「今年ぐれェはオレも行っとくかなァ」などと言い出したのには、誘った客の方が驚いたくらいだった。



 腹の底に響く重い音が、空を震わせるように轟いた。
 行列の人々の間から一斉にどよめきが起こった。
「ねえ、ねえ! 久世くん、花火はじまったよ!」
 隣で声をうわずらせて飛び跳ねた女の子は、今夜の花火大会に誘ってくれた常連客のひとりだ。
 優詩のところからは見えないが、立て込んでいるビルの隙間からはわずかなりとも花火の影が覗いて見えているらしい。さきほどまで鼻緒が食い込んで痛いだのと言っていた下駄の先を立てて、危なっかしくも無理矢理に爪先立ちしようとしている。ぐらりと今にも転びそうになる彼女の肩を支えて、優詩は思わず笑った。
「ええ、はじまったみたいですね。でも、そんなに慌てなくても、きっと次の角を曲がれば見えても来ますよ」
「もう! 見えてくるかもしれないけど! でもね、花火って短いんだから! すぐ終わっちゃうって、久世くん知ってる? 知らないでしょ」
「知ってますって。詳しくは、ないですけれども。僕も多少は知ってます」
「うううん、ぜったい知らない! ああっ……」
 夜空の一角がぱっと強く照らされて明るくなる。そして、わずか遅れてやってくる、轟き。
 天に咲く花はまだ建物の影になっていて見えなかったが、その名残の明かりが夜空を染めたのは見えた。
「あぁあ、また一つ終わっちゃった……」
 もっと早く行列が動かないかなぁ、と地団駄踏むようにぼやいている彼女の肩を宥めるようにたたきながらも、優詩自身は、身体に直接響いてくるこの花火の音で充分だ、と思っていた。ひとつの心残りをひきずってもいたからだった。
「マスターもさ、来られりゃよかったんだけどな」
 もう片方の傍らを歩いていた蘊蓄好きの常連客が、優詩のわずかに浮かない顔を見抜いたように言った。今は街をいくつも隔てて遠くなった店のある方角を、優詩は何となしに返り見た。
「日頃の疲れが出たんだと思います。ここのところ暑い日が続いてもいましたし。いつも『年寄り扱いなんかしてみろ、目に物見せてやる』なんて言っていますけど、年は年ですから」
「そうだよなぁ、強がっちゃいるけど……」
「マスターもそのあたりは、自分でわかってると思います。でも、一緒に花火を見られなかったのは、ほんとうに……残念だ」
 神妙そうに頷いて、しばらく優詩の方を気遣うように見ていた男が、ぼそりと呟いた。
「それはそうと、久世君の浴衣姿って、なんだかんだで初めて見たんだけどさ。なんてか……似合ってんな」
「似合っ……その言い方、改まって言われるとなんだか恥ずかしいです」
「え? だってさぁ、君、いつも、店じゃあのカッコだろ? 着物だの浴衣だのって、あのカッコから考えたら対極じゃん」
「まあ、そうですけど……」
 男は顎をしゃくって、久世の前を早足で行く女の子を示した。
「浴衣着てくるらしいって、そのコから聞いてさ。全ッ然想像つかなかったんだけど、まあ、きっと白だよなぁ、とか思ってたわけ。涼しそうで、優しい感じのさ、そんなの想像してたら、全然違って俺ビックリでさ。渋い感じの色をお洒落に色っぽく着る久世君」
「ああ、そんなこといちいち想像しなくていいですから! それに、止してください、恥ずかしいって言ってるのに。もうっ」
「へへへ、もっと恥ずかしがれ、もっと」
 愉しげににやつく男の腕を肘で突いて、痛ぇ、とわざとらしい悲鳴を上げた彼へと、優詩はふと微笑みかけた。
「帰ったら、僕がマスターにたくさん話をします。今夜の花火のこと。……ありがとう」



 眩しい、と思った。目を瞠るほどの轟音を、近くに聞いたとも思った。
 見上げると、光の華が咲きこぼれていた。
 前に見えていた建物にずいぶんと音も光も遮られていたようで、それらを越えたとたんに、夜空を照らす華が目の前にあったのだった。
 長く尾を引いて、あかがね色の光の雨が流れ落ちてくる。その中で、弾けるような音がして、小さな華が次々に咲き開く。そして、次第に、煙たなびく夜の闇に溶け込むよう、消えていく。
 ああ、と優詩は溜息を零した。
 小さな頃、夏になると、家族や遊びに来た親戚の従兄弟たちに囲まれて、家の前の水路で花火をよくやったものだった。
 暗い水の流れが、色とりどりに弾け噴き出す火花を映して、煌めいていた。
 とりわけ優詩が好きだったのは、打ち上げ花火でも、握り花火でも鼠花火でもなく、線香花火だった。
 花火の中では一番安くて、自分の小遣いでもかなりの本数を買うことができたからだが、その代わり、はずれも多かった。
 火を点けても、こよりの先がほんの少し赤くなる程度でそのまま立ち消えてしまったり、具合良く丸い滴をつくっても、あっという間にぼたりと落ちて、終わってしまう。
 それでも線香花火が好きだった。
 今度こそ上手くいきますようにと願いながらろうそくの火を移す。すると、花火の赤く輝く先が、ほおずきの種のような滴をつくっていく。
 それは震えながらだんだんと大きくなって、内に秘めた思いをその身に収めておけなくなったとでもいうように、チリチリと音を立てながら、小さな小さな、叫びのような、本当に小さな炎の舌のような稲妻を、閃かせ、走らせて、――やがて。
 この、天に開いた華のように、熱く輝く血潮の雨をさらさらと迸らせ、降らせていた。
 世の人が喩えるように、その姿を人の一生のようだなどと思って見ていたことはなかったように思う。ただ、ほんのひととき、またたくほどの間、震え、身もだえしてその輝きを溢れさせ、あとは何もなかったように闇へと還っていく、その姿をひたすら美しいと思い、愛しいと思って見ていた。子ども心に悲しかったことも辛かったことも忘れて、夢でも見ているかのような気持ちで見つめていた。


 そうだ。

 そうしよう。

「僕、いいことを思いつきました」
 傍らの客が驚いたように優詩を見た。
「マスターが元気になったら、プチ花火大会しませんか」
「プチ花火大会? 大人だけで?」
「そう、大人だけで。できるだけたくさん花火を買い込んで。もうすぐ花火も店頭から消えるかもしれないですし、やるなら急がないといけないかもしれませんが」
「……ああ。ああ、いいねぇ、ガキの頃に戻ったみたいに? じゃあさ、今日来られなかった人も誘ってみるよ。どう?」
「ありがとうございます。きっと、マスター、あれで今頃寂しがっています。みんなで花火ができたら喜ぶと思います」


 そして、僕はたくさんの線香花火を買って、マスターに見せるんだ。
 いつかの日、僕の心を慰めてくれた、輝く華たちを。





<了>