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ヴォーカリスト達の憂鬱
スタジオの隅から、熱心に自分の事を見つめてくる瞳が、あった。
それは確か、ダンス系ユニット『H2』の内の一人で、始めて見る顔だった。名前は確か、朱月・ヒカルとか、いったっけ。
水野・まりもは、その、執拗に絡みついてくるような切れ長の瞳から逃れるように、ターンを決めるフリで、逃げた。
自分の演技がばれてしまわない自信はあったけれど、その熱心な瞳は、まるでこちらの粗を探してくるかのようで、いけすかない。
だから今日のリハーサルはやめておけば良かったのだ、と「私」は、思った。
見た目はピチピチの美少年であるこの体の持ち主、水野まりもは、実の所、そのあっけらかんとした風貌に見合わず、一度は生死の境を彷徨ったことがある、中々に壮絶な人生を送る少年だった。
十四歳のある麗らかな春の日に、さっくりと交通事故に遭遇してしまい、その際、とある怪しげな組織の怪しげな技術により何とか一命を取り留めたのだけれど、何がどうなったかうっかりと「酒と賭け事がガンで身を持ち崩した58歳の伝説の天才俳優」の魂が代わりに入り込んでしまっていて、つまりは今、この体は、その天才俳優、つまりは「私」の支配下にあって、これは、一部の関係者のみが知る、極秘事項だった。
だいたい、言った所で、誰にも信じて貰えないだろうし。
そんなわけで、真実を知る人間以外の目を、この天才的な演技力で欺きながら生活しているのだけど、意外にさほど、困ることはない。
むしろ、最近は演技力も急激にアップしたんじゃないか、とか何か言われるくらいで、プラスになることはあれど、マイナスになることなんかない。
と。
そんなに話は上手くはいかない。
私は実のところ、致命的な音痴なのだ。
けれど、まりもは、8歳で稀代の天才少年歌手としてデビューした、とにかく歌唱力に定評のある少年なわけで、この溝を埋めるには、苦労がいる。
一応は、MASA特製のマイクと私の演技力で、まりもの歌声を再現して誤魔化せているけれど、こういった歌番組の収録は気を使う。
男の切れ長の目が、まだ、こちらをじーっと見ていた。
その瞳には、恋する男の執着にも似た、囚われた者の危うい光が灯っていて――。
面倒は勘弁してくれよな、と、私は、思った。
初めて水野まりもの歌声を耳にした時の衝撃を、ヒカルは今でも覚えている。
あれは実に悔しい体験だった。
自分よりも随分年下だろう子供が、まだ、子供であるのに完璧なリズム感を持ち、澄みきってどこまでも伸びていくような歌声を持ち、さらに抑揚やふとしたニュアンスまでを詳細に表現する能力を持ち、何よりも心底楽しそうに、歌うことの幸せを噛み締めながら歌っていた。
曲りなりにもヴォーカリストを目指していた者としては、こんな人間が居るんじゃ、自分など存在する意味がないのではないか。同じヴォーカリストとして、俺だってヴォーカリストでござーいなんて、同じ舞台に立つことなど到底出来ないのではないか、と正直完全に落ち込み、打ちのめされた。
しかも、まだまだ成長期で、この先相手には、まだまだ伸びる可能性があったのだ。
もっと豊かな表現力を。もっと深みのある技術を。もっともと身につけていける。
自分ではもう太刀打ちできない、ならばこのままマイクを捨てるべきではないか、と、一時期はそんな所まで考えていた。
その後ユニットを組むという形でデビューし、相方という全く異色の人間に出会い、個性、という概念に出会って、マイクを捨てようなどという気持ちはさっぱり消えたけれど、それでも表現力の壁、圧倒的な歌唱力への憧れは、ずっと胸の奥に存在していて、何かの拍子に沸き上がっては、ヒカルを苦しめてきた。
努力なら惜しまない。自分だってまだ若いんだし、可能性だってあるはずだ、という希望だって捨ててはいない。
けれど、簡単に言ってしまえば才能とでもいうような、向き不向きが人には確実に存在している、というのもまた、真実だった。
このまま自分が何年この道を行っても、そこには辿りつかないような、そんな予感を。それは決して悲観ではなく、ある種のビジョンを見るように、感じるのだ。
だから今は、自分は自分の道を突き詰める事で、いつか追いついて追い越してやる、とそんな風に思って。
それでも――。
やはり、あの歌声への憧憬は、堪え切れず、いつも、ある。
それを生で聞ける機会が来た、というのでヒカルは今日、相方にこそ言わなかったけれど、夜も眠れない程に緊張し、興奮し、胸をときめかせ、あるいは勇み立ち、出かけて来た。
そして。歌声は。確かに上手かったのだけれど……。
何かが、引っ掛かった。
何かが足りない。
何がと、言われても、分からないのだけれど、何かが違う。足りない。
あの憧れ続けた、あんなにも衝撃を受けた、胸の深い場所をじんわりと満たすような甘みを持った歌声とは、何かが、違う。
もっと圧倒的で、もっと驚異的だったはずなのだ。
自分を打ちのめす程だったのだから。この俺が、一旦は負けを認めるほどの力を持った男だったはずなのだから。
もっと有無を言わせない力で、歴然とした差を見せつけて欲しかった。
もっと、もう追いつかないのだと、やはり、あの場所を目指すべきではないのだ、と、思い知らせてほしかった。
そうでなければ、あの時の懊悩は何だったのかと……。
クソッ。
ヒカルは、スタジオを後にして、控室に下がった。
乱暴な仕草でカップに水を汲み、一気に飲み干した。
息を吐いて、顔を上げると、鏡の中に、何どうしたのコイツ、みたいな相方の姿を見つけた。
そのクソ単純な顔を見ていると、余計な事を口走ってしまいそうだったので、控室を出た。
飲むつもりもないジュースを買って、自販機前にあるテーブルセットに腰掛けた。
そこに、まりもが来た。
「お疲れ、す……」
ミネラルウォーターを購入している小柄な背中に、チラ、と目を向けて、呟くように、言った。
もしも無視されてしまっても、あるいはキャリアが全く違うのだから、そういう可能性もあるかも知れないと、そこを想定しての呟きだったのだけれど、意に反して、まりもは軽快に屈託なく、「ああ、お疲れ様です」と、返してきた。
それからそのまま楽屋のある通路の方へ歩きだして、実際、すぐ近くに見える楽屋のドアノブに手を伸ばし。
でもすぐに「あー」と、呻いて手を離した。
「鍵……マネージャだ」
がっかりしたように呟き、仕方ない、とでもいうように、自販機前のテーブルセットへ戻って来た。
ヒカルから離れたテーブルを選び、座る。
暫く、シンと、得体の知れない沈黙が、そこに広がった。
「あの」
少しして、ヒカルは、切り出した。「すいません……水野さん」
「え?」
「あの今日、なんすけど」
「うん。あ。同じ番組に出るんだよね。よろしくね」
「あ、はい。それであの……こんな事聞くの、あれなんすけど」
「え?」
「今日は何か……体調とか、悪かったんすか」
「それは」
笑顔には違いないまりもの顔に、ピク、と何かが走った。「どういう、意味?」
「いえ、別に深い意味は……ありません」
「あ、そ」
じゃあこの話は終わりでいいよね、みたいに、まりもは、さっさと軽く頷いてミネラルウォーターを飲んでいる。
その、触れられたくない話に触れられたかのようにも、あるいは、全く何にも気づいていないかのようにも見える姿に、ヒカルは困惑した。
もしも、触れられたくないという意志表明だったのならば、やはり体調の不良であったとか、そういう何やらのっぴきならない事情でもって、今日のあの低落だっただけで、気づいてはいるけれど今日はどうにも出来なかっただけなのだから、また日を改めれば、復活している可能性は十分にある。
少なくとも、自分の問題に気付いてはいるのだから。
けれどもしも。
もしも、彼が全く自分の低落に気付いていないのだとしたら?
あれで満足してしまっているのだとしたら?
そう思うと、ぞっとする。
「すいませんあの……やっぱり、言っていいすか」
ヒカルは居住まいを正す。
「なにどうしたの。変なの」
くすくす、とまりもが、笑った。「言うって、何を?」
「歌の事す」
「歌のこと?」
「あれ、今日絶対、おかしかったですよね。いつもと全然違うつーか。いやまあ……俺の思い違いかも、知れないすけど」
「君さ」
「はい」
「見てたよね、僕のこと。さっき、リハーサル中、ずっと」
「見て」
と、ヒカルは目を伏せ、手に持ったジュースの缶を眺め、やがて言った。「ました」
「だよね」
「俺、水野さんの歌……凄いなって。ずっと、思ってましたから」
出来るだけ素っ気なく聞こえるように、缶を見つめたまま言った。
そしたらそこで、また、くすくす、とまりもの笑い声が聞こえた。
どうしてそこで笑うのか、全然分からなかったので、思わずその顔を振り返る。
目が合った。
「思ってましたから、なに?」
くるんとした目が、挑むように見つめてくる。
「いや」
ハッとし、ムッとし、追いつめられるような焦燥を感じた。「だから、分かったつーか」
「分かった?」
「歌声が、違うってことです」
フン、と鼻で笑われた。
「違うなんて、そんなわけないじゃない。同じでしょ」
「本気で言ってんですか」
「なに君、もしかして、僕の事、好きなの」
まりもが、呆れるような苦笑を浮かべる。
「茶化さないで、下さい」
「別に茶化してないけど。君のそれは、ただの膨らんだ幻想なんじゃない? 憧れって、そうなること、多いから」
「十歳過ぎて、ただの人、ですか」
「ただの人ですか、って言われてうん、と言うのも、プライドが傷つくけど」
そう言いつつもまりもの顔には、ふんわりとした笑みが張り付いている。「君がそう思うんなら、そうなんじゃない?」
まるで、随分と年上の人間と話しをしているような気分だ。
あしらわれている、そう思った。
「それでさ」
まりも、あるいは「私」は、話を変えるために、そう切り出した。
「……はー」
痩身の、まだ若いだろう青年は、若者特有の不本意そうな顔で頷く。
「いやさっきからわりと気になってたんだけど。君の相方が、あそこで凄い淋しそうな顔して、僕達の事、見てるんだけど。いいの、戻らなくて」
「はー‥‥」
曖昧に頷いて、指し示された方向を見やったその横顔には、口にこそしなかったけれど、話を逸らすな、とそう書いてあった。
繊細で、情緒的で、
どんなにテクノロジーや演技で取り繕っても。
殆どの人間が聞き分けられないレベルで修正する、驚異的なマイクロフォンの能力を以てしても、私のこの天才と謳われた表現力を以てしても。
この男の耳には、聞こえるのだ。その、違和感が。
まりもの歌声に、恋にも似た執着を感じている、この男の耳には。
危険だ。
そう、思った。
「じゃー戻ります」
やがてヒカルが立ちあがった。
「声、大事にして下さい」
そして去り際、そう言い残して行く。
あるいは、それはまるで、宣戦布告のようにも聞こえ――。
「ありがとう。また会う時を楽しみにしてるよ」
けれど私は何も聞かなかったことにして、手を振った。
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