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<東京怪談ノベル(シングル)>


ある俳優の悩み




 撮影現場に入ると、まるで、故郷に戻って来たかのような、安心感と懐かしさを、「私」は、感じる。
 監督によって、現場の雰囲気こそ、ころりと変わるけれど、そこには、カメラや照明やセットがあり、それらを扱う専門の人間が居て、監督が居て助監督が居る、という枠組みに、大きな違いはない。
 ついでに言えば、例えば照明部さんには照明部さん特有の顔つきや雰囲気があったり、撮影部さんには撮影部さんの顔つきや雰囲気があったりと、それぞれの部門にそれぞれ特有の個性があり、それも現場を彩る一つの大きな要素になっている。
 休憩中などに眺めるスタッフの顔つきに、ああ撮影部さんだよな、であるとか、ああ照明部さんだよな、であるとか、そんな感慨をふと抱き、映画の現場に居るんだなと、実感出来るというそのことも、私は、大いに愛している。
 けれど、「私」の体の元の持ち主である水野・まりもは、こと俳優業に関しては、まださほど経験を積んでいない青年であるので、私が私の経験から培ってきた感慨を迂闊に出すわけには、いかない。
 あくまで初々しく、知らない事の多い青年を演じ続けなければならないのだ。
 見た目はピチピチの美丈夫であるこの体の持ち主、水野まりもは、実の所、その苦労とは無縁そうな屈託のない風貌に見合わず、一度は生死の境を彷徨ったことがある、中々に壮絶な人生を送る青年だった。
 十四歳のある麗らかな春の日に、さっくりと交通事故に遭遇してしまい、その際、とある怪しげな組織の怪しげな技術により何とか一命を取り留めたのだけれど、何がどうなったかうっかりと「酒と賭け事がガンで身を持ち崩した58歳の伝説の天才俳優」である私の魂が代わりに入り込んでしまって、この体は、その天才俳優、つまりは「私」の意識下に置かれる事となってしまった。
 これは、一部の関係者のみが知る、極秘事項だ。
 そんなわけで、真実を知る人間以外の目を、この天才的な演技力で欺きながら生活しているのだけど、意外にさほど、困ることはない。
 と。
 そう思って、これまでやってきた。
 実際、苦労はあるし、面倒も多いけれど、考えれば仕事中に長時間の演技をしているだけに過ぎず、そうなればこれはもう私にとってはただの仕事であるので、要するに、私の中のスイッチのオンとオフを切り替えればいいだけだ、と、そんな風に考えていた。
 そして、ばれてしまうのではないか、という危惧を抱く事も、そうした状況も、なかった。

 つい、この間までは。

 まりもは、8歳で稀代の天才少年歌手としてデビューした、とにかく歌唱力に定評のある青年で、これは、私にとって意外にネックだった。
 私は実のところ、致命的な音痴なのだ。
 今は一応、MASA特製のマイクと私の演技力で、まりもの歌声を再現して誤魔化せているけれど、あるいは、誤魔化せていると思っていたけれど、つい先日、とある歌番組の収録の際、歌声が違う、とはっきりと真っ向から指摘してきた男がいた。
 確か新人の。
 私の芸歴とはもちろんのこと、まりもの芸歴とすら雲泥の差があるようなポッと出の、その新人アーティストが、私の歌はまりもとは違う、と指摘をしてきたのだ。
 そりゃあ何せ別人なのだから、違うのは当たり前で、しかも致命的な音痴なのだから、天才歌手と違うのは当たり前で。
 と。
 当たり前のオンパレードだったのだけれど、これは同時に、私のアイデンティティも揺るがすような、わりと衝撃的な出来事だった。
 というかそもそも、この、他人の体の中に魂が入り込んでしまっている、という状況の、何処にアイデンティティを置けば良いのか、と、これは既に意味不明な問いかけではあるのだけれど、それでも私は、自分は何者であり、何をなすべきかという概念について、一応の自分なりの答えを持って存在してきた。
 それはつまり、私は天才俳優であり、まりもを演じきるべきだ、ということ。
 組織曰く、いつかは戻ってくるかも知れない「まりも」本来の魂が本当に戻って来た時、違和感なく、また、日常を再会出来るよう、バトンを繋ぐこと。
 自分にとっては偉業であるこの使命は、誰にも褒められはしないし、殆どの人間の記憶になどは残らないけれど、死んでしまっていたはずの彼が生きた日々として、そこに私の存在していた痕跡は必ず残るのだから、私は彼を演じきらなければならない。
 と。
 そういう所にアイデンティティを置いている身としては、やっぱり、自分の演技によって、上手く人を欺けている時、「まりもが居るんだ」と、相手に認められている時、ある種の達成感を感じる。
 逆に、お前はまりもではない、と指摘された時、私は、私の、存在意義を失う。

 あるいは、今までそんな事はなかったのだけれど。
 そして、その指摘が無かったことに甘んじて、自分の存在意義などについては、全く、考えていなかったのだけれど。

 ここ数日、私は時折、この事について考える。
 そして、そんな事を考える自分に、どうしようもない苛立ちを、感じる。
 何を不安になることがあるのか、と。
 お前のアイデンティティは少しも揺るぎはしていないではないか、と。
 プライドの高い私が、気弱になっている私に囁く。
 けれど私は知っている。
 私は、私が、希代の天才歌手を演じ切れていないことを、知っている。

 何せ、歌に興味がないのだ。
 映画に音楽が入ることで、そのシーンの感情がより高められたり、より研ぎ澄まされたりする事は知っているし、そうした意味で音楽を聴くのは嫌いではないのだけれど、何私にとって音楽や歌は、いつだって、そのように「脇役」だった。
 だから私には、分からない。
 歌への情熱が。
 希代の天才歌手である、まりもが感じていた、歌うことの楽しさが。その熱情が。
 恐らくは、あの新人の男は、その辺りの差異を感じ取ったのだ。私は、直観的にそれを、悟った。
 そして、ぞっとした。
 危険だ、と。
 背筋につっと、冷たい水が這うような感覚を覚えた。
 それは、羞恥だった。
 私は、笑ってしまいそうになるくらいの、羞恥を感じ、怯えた。
 これまで、「はいはいまりもでござーい」などと、調子に乗って演じて来ていた全てが、あるいは、そのように誰かに「全く違う」「こんなのはまりもではない」「変わった」などと、見られていたのではないか。と思うと。
 それなのに私は、これで完璧だろうなどと思い上がり、全く気付いていなかったのだ、と思うと。
 余りの羞恥に顔を覆って、むしろその格好ごと何処かに埋めて欲しい、と思ったくらいだった。
 けれどもちろん、私は何処かに埋められることも、自分で埋まることも出来ず、こうしてのこのこと、映画の撮影現場に「まりも」としてやって来ている。
 撮影の仕事は得意分野であるし、これまではとても気が楽ではあった。
 けれど今は少し、気が重い。
 むしろだからこそ気は抜けないのではないか、ボロが出てしまうのではないか、と気弱な私が囁く。
 私は、私をもっともっと消し去らなければならない。スイッチオンの時には、もっともっと私を消して、もっともっとまりもに近づくように。
 今のここでは、「私」は必要ない。
 とはいえ今度はそうなってくると、生まれたての赤子のように、何をどうしたらいいのか、あるいは今までどうしていたのかが分からなくなってくる有様で。

 映画は、昔に私自身も出演したことのあるリメイク版で、現代風に少し手を加えられただけの、私にとってはある種、完成形の見えているはずの仕事だった。
 それなのに、撮影が始まると、どうにもNGばかりで、中々役を掴み切れず、そんな自分に、ほとほと、嫌気がさした。
 そんな、自信喪失と自己嫌悪の真っ只中でずどーんと暗い顔をしている時に、その男はひょっこり私の楽屋に姿を現した。
 草間、武彦だった。




「伝説のカメレオン俳優がそんなに暗い顔してるのは、あれかな。役作りなのかな」
 とか何か、草間興信所とかいう胡散臭い興信所所長であり、私とまりもの本来の姿を知っている数少ない関係者である彼は、まず最初にそんな事を言い、むしろ、とぼけた顔でそんな事を言い、私を微かに苛立たせた。
「あのさ。僕は、まりもであって、その伝説のカメレオン俳優、とかいうのではないから」
 って既にもー全然聞いてません、みたいに、勝手に楽屋のテーブルに置かれた台本を手に取った草間は、ソファに腰掛け、ページをぱらぱら、と繰る。
「この映画なあ。子供の頃に、ビデオで見たんだよなあ。思春期の時くらいに。あのほら、主役の男がさ、落書きだらけの公衆トイレで、官僚の先輩に、ぼっこぼこにされるシーンあるじゃない。あれ、凄いよね。二人とも凄い気迫で。ぞくぞくしたなあ。あのシーン」
「それは、どうも」
「またまりもでぼっこぼこにされてくれるなんて、楽しみでさー。見学に、来ちゃった」
 台本に目を落としながら、興味があるのかないのか、判断のつかない様子で、言う。
 相変わらず読めない男だ、と思いながらも、私はふと、こう零している。
「まりもに、あの演技が出来ると、思うのか」と。

 チラ、と、センスの良い黒縁のファッション眼鏡の奥の切れ長の瞳が、私を、見た。
 けれどまたすぐに彼は、その目を台本へと、戻す。
「今しがた、私はまりもだ、と注意したばかりで、何言ってんのよ」
「何を言ってるんだろうな」
「まりもに出来るかどうか、はつまり、君に出来るかどうか、と同じことなんでしょ」
「なあ草間」
「うん」
「最近、気付いたんだけどな」
「うん」
「どうやら私とまりもは、別の人間らしいんだよ」
 ぶ、とその瞬間、彼は吹き出した。
 くくく、と、小さく腹を揺らしながら、暫く笑い、「いやそれ、面白いね。そりゃそうだよ、とも言えるし、何だよそれ、とも言えるし」とか何か、人の気も知らないで暢気な事を言う。
 そして最後に、「でもまあ、俺は分かってたよ」とさりげなく付け加えた。
「やっぱり、分かってたんだな」
「だって、演じてるんだろ。君はまりもを演じてる。演じるってことは、別の人間がやることだから、むしろ、別の人間でないと成立しない」
「それはまあ、そうだ」
「だから俺は分かってたよ。分かってて、君を尊敬してもいる」
「何というか。その台詞を、そんなに実感なく、どうでも良さそうに言えるお前は凄い、と、私は逆に尊敬したい」
「そうかな」
「そうだよ。全く相手に伝わってこない。それが演技なら、役者として、最低だ」
「でも、生きてる人間なんて、こんなもんじゃない? だいたい俺は、役者では、ないし」
「お前を演じるのは、きっと難しいな」
「むしろ、簡単かも。カメレオン俳優の君なら」
「カメレオン俳優」
 幾度となく形容されてきたその言葉に、ふとした引っ掛かりを感じ、私は繰り返し呟いている。
「君が出演している映画を見ると、いつも思うんだ。君は演じている、のではなくて、生きているんじゃないかって。まるで演じている、という印象を与えない。つまりこれって、カメレオン俳優だってことだろ」
「しかし私は、憑依型ではないんだ。役柄になりきっているように見える、というのは嬉しいが、実際の私は、完全になりきっているわけではない。凄く心が揺れ動いて、入り込み、のめり込んでいる自分と、それを常に俯瞰して見ている自分が居る。この二つのバランスで、私は成り立つんだ」
「常に?」
「そう、残念なことにな」
「残念なのか」
「憑依型に、最近、憧れるんだ」
「憧れる、はいいけど、人に憑依している君がそれを言うと、滑稽だね」
「普段の生活から役が入ってしまうような天才に、憧れるよ」
「でも君だって天才じゃないか」
 また、まるで人を褒めるような口調ではなく言う草間に、私は曖昧に肩を竦めて苦笑する。
 確かに、天才俳優だと称され、自らも天才として振舞っていたけれど、本当は、天才ではなく、秀才なのだと、誰より自分が知っている。
 ただ、それを口にしたくなかった。プライドが許さなかったのだ。
 確かに、役者としての才能はあるのだろうし、器用だとも思うし、その辺りの能力を天才である、と形容されれば、否定することはしない。けれど、私の思う「天才」の概念とそれは、少し、違う。
 何の努力もなく、まるで神に愛されているかのように、天からの啓示を受け取り、するっと表現出来てしまうような。そういう部分のある人間。
 それが私の思う天才で、少なくとも私は、それではない。
「私はね。もしかしたらまりもこそが、その天才だったのではないか、と、特に最近は良く思うんだ。昔の歌っている録画なんかを見るとね。本当に楽しそうで、無垢で、ありのままを表現しているように見えてね」
「ふうん」

 本当は。
 そのことに、ある種の嫉妬さえ、感じ始めているんだ。

 思わずそう口にしそうになったけれど、それは辛うじて飲み込んだ。

「さて、じゃあ、まりもはぼっこぼこに殴られてくるかな」
 私は不毛な自己嫌悪と休憩を終え、立ちあがる。

 それでも、仕事はこなさなければならないのだし。

「今度はNGを出さないで、ちゃんと殴られてね」
 草間が、のんびりと、そんなことを言った。