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<東京怪談ノベル(シングル)>


護る、鏡


 空を覆う厚い雲がどんよりと灰色に染まる、午後。高層ビルとその間を走る電線の下、電柱の立ち並ぶ裏路地を一人歩く青年。やや早足で道を行く様子からすると、たった今会社から出てきたばかりなのだろう。
『黒崎』と印字されたプラスチックの名札をレザーバッグに仕舞い、入れ替わりにスマートフォンを取り出す。そこに残る履歴を確かめバッグに戻した後、空いている手を眼鏡の前にかざし右手でつるを触る。
 ふっと吐き出した小さな息が雨の気配に消えるのを待ち、彼は足早に大通りへと出て行った。

 彼が“仕事”の依頼を受けたのは、この現世での仕事――つまり、ビジネスマンとしての仕事を終えたすぐ後だった。彼の故郷である天界からの指令は、いつも狙い済ましたかのように小休止の合間に突然落ちてくる。
 黒崎は、この世界での仕事用の電話とは別の電話を所持している。そちらに掛かってくる着信を、本来の名前である“黒鷺”として取り、“黒鷺”として遂行する。

「黒鷺、お前のいるビル街から二駅離れた街の廃墟に」
 電話は「失礼」の一言もなく始まる。
「ある“鏡”、それを破壊して欲しい」
 黒鷺はそれを二つ返事で了解する。断る理由は一切ないからだ。

 彼の職業は“福の神”である。数ある福の神の中でも彼が任されているのは、現世に存在する、人間に害を成すものを排除することだ。
 今回のターゲットは、人々の心を惑わし幻を見せる鏡であった。天界の上司が持つ情報によれば、それは覗いた人の心をそっくりそのまま映し、最悪の場合死に追いやるという。
「死に追いやる?」
「たとえば、そこに鏡がある。その鏡像がもし、こちら側の自分に襲い掛かってくるとしたらどうだ。それとも……そうだな。鏡の中の自分が今にも、背後から殺人鬼に襲われるところを鏡越しに見たらどうだ」
「それは、逃げるでしょうね」
「だろう。しかし廃墟にあるのはその鏡と、開け放された窓、そして屋上へ続く階段だけだ」
「他の逃げ道はないのですか? 入り口であったり、下の階へ続く階段など」
「殺人鬼の幻影は、そちらからやってくるのだよ」
 黒鷺の目の色が変わった。心の内でなるほどと納得する。屋上へ向かうしかないのであれば、窓から飛び降りるか屋上へ向かうしかない。
 そしてもし、鏡を覗いた人物が極限まで追い詰められているとしたら――そもそも廃墟に迷い込んでしまった人物が、そこに当てはまらないことの方が少ないはずだ――屋上から逃げるとしたら、一番最初に想像できるのは。
 待っているのは死、もしくはそれに近いもの。
「ターゲットの性質と手口、把握いたしました」
 電話の向こうの上司に向かい、一礼する。
「その他にも、われわれが確認できていない能力を持ち合わせている可能性がある」
 念を押すような言葉に、再び頷く。おそらく向こうにも同意は伝わったはずだ。

「健闘を祈る」
 通話終了を告げるボタンのプッシュ音と、一定のリズムで鳴り響く電子音。
 黒鷺は電話を下ろし、気持ちの切り替えをすべく深呼吸をした。今日は特に“黒崎”としての仕事も多忙であったため、緊張をほぐす小休止はやはり必要だ。
 任務の執行は今日の夜。それまで、英気を養っておかなければ。
 こうして彼は大通りへと出、帰路へ付いた。


 灰色の雲が晴れ始め、おぼろながら月光が降り注ぎ、アスファルトを鈍く光らせる夜。
 街灯が照らす道の上を、革靴の底が立てる足音を一定のペースで響かせながら、黒鷺が横切った。こつこつと鳴る音はばらばらの方向に伸びて回る影を順番に踏みつけ、少し湿った黒い地面から少しだけ湿気を吸い込んだ。
 暖かい夜だ。空気に含まれている水分のせいだろうか。息を吸ってみる。喉から肺へ通り抜けるそれは思いのほか冷たく、任務の緊張でわずかに強張る筋肉の筋一本一本に染み渡った。
 均等に並ぶ街灯の下で、眼鏡のガラスを通した黒鷺の目は鋭く、懐に隠したダガーに似つかわしい眼光を放っていた。それでいてあくまで平静を保った表情は、福をもたらす神というよりも死を運ぶ魔だと勘違いしてもおかしくないほど冷たく、感情を読み取ることができないほどだった。
 福を齎すものとは感情を持つものか? 死を齎すものは冷淡なのか?
 今の黒鷺には意味を成さない質問であるが。

 ターゲットの潜伏している廃墟は、駅から数十分歩いた場所にあった。
 住宅街を抜け破れたフェンスを潜り抜け、手入れのされていない庭のような木々と草の生い茂る空き地を横切り、さらにフェンスを潜った先。膝に付いた土ぼこりを軽く払い髪を手櫛で整え、廃家を見上げる。
 老朽化したコンクリートの七階建てビル。ところどころが崩れ鉄骨が姿を覗かせている。窓ガラスはすべて割れていて、何枚かのふちに残った消しゴムほどの大きさのかけらも、霧を封じ込めたみたいに曇っていた。

 武器である鞭を取り出し、建物の入り口に向かう。犠牲者達は何を思いながらこの扉を潜ったのだろうか。
 開け放された扉は蝶番が錆付き、いまにも千切れてしまいそうだった。屋内は月光をさえぎり、夜よりずっと重い闇が瓶詰めにされた蜂蜜のように黒鷺にまとわり付いた。
 こんな場所に、ふと迷い込む人間がいるのだろうか?
「しかし……本来ならば廃墟に人が迷い込むことは少ないのではないでしょうか」
「まずひとつ、人間には好奇心というものがある」
 会話の途中切り出した黒鷺の質問に、上司は答える。
「しかしそれを差し引いても、犠牲者の数が多すぎるのだ。本来ならば辺鄙な場所に近づかないであろう人物も、あの鏡の力によって命を奪われている」
 たとえば、家庭に問題を抱えているわけでもない主婦や、会社帰りのサラリーマン、怪奇にも廃墟にも興味はない高校生。彼らは少なくとも精神的に追い詰められていることはないと、彼は言い切った。
 それでも何かを抱えている可能性は――と頭の中で思い、口をつぐむ。そう。どちらにしろ、ターゲットの討伐および破壊を遂行してしまえばおしまいだ。たとえ彼らが窮地に立たされているタイプの人間だとしてもそうでないとしても、鏡のせいで死んでしまうことはなくなる。
 上司は話を続ける。これらの犠牲者は、すべて昨日のうちに命を落としたと。つまり、被害者が急増したということだ。
「故に、お前に至急討伐に向かってもらいたい」
 健闘を祈る。
 そんなやりとりはあった。

 廊下を直進すれば右手に階段が現れる。灰色の階段の一段目に革靴を乗せ、力を入れてもう一段上へ上る。一歩一歩を踏み出すたびに、砂まじりのほこりを踏むじゃりっという感触が靴底越しに伝わってきた。
 例の鏡は七階、つまり最上階にある。その上が屋上になっているらしいが、先ほど見上げた時点では、落下防止用の柵は見当たらなかった。誰かが取り去ったのか風化したのか、それとも光の加減で見えなかったのか。すくなくとも屋上自体は存在しているはずだ。
 割れた窓から月明かりが、柱のように差し込んでいる。照らされたコンクリートは灰色というよりも銀に染まっていた。何年前に描かれたのかもわからないらくがきが、やわらかい光のなかでじっとりと何かを待っていた。
 六階までの道のりは、全部そんなものだった。同じことの繰り返し。ほこりを何度も踏みつけて、時々は錆びたクギを踏み、背後や左右に気を配りぼろぼろに朽ち果てた手すりが視界に入り、時折視界が銀色に染まる踊り場に出て、その中にいくつかの無愛想ならくがきが黙り込んでいる。
 四階と五階の踊り場で、黒鷺は鞭を構えた。天界が確認できていない鏡の能力は、どこまで及ぶか解らない。臨戦態勢をとっておいて損はない。
 とはいえ……黒鷺が最も懸念していた、“対象を強制的に七階まで移動させる”という能力を持っている様子はなかった。それに、遠距離から攻撃を仕掛けてくる様子もない。
 しかし、それも作戦かもしれない。
 歩調を緩め、厚く積もるほこりが舞い上がらないほど慎重に歩く。暗闇の中、動くものを見逃すまいと細められた目。靴音と時折聞こえる黒鷺の小さな息の音だけが、廃墟の闇を微かに揺り動かしていた。

 六階にたどり着いた時。ふいに、雑音が耳をくすぐった。
 場所は遠くない。ターゲットはこの上の階に潜んでいるはずだ。つまり、この音の主は十中八九鏡であろう。また同じくこちらも、この場所から先で立てた音は聞かれると考えてもいいはずだ。
 音を一切立てないようゆっくりと、鞭を構えなおす。

 階段を上りながら耳を澄ましてみると、雑音の中身がだんだんはっきりしてきた。それは少女の声だった。年齢は中学生から高校生くらい、誰かと話をしている体だった。
 いや……、誰かと、ではない。彼女は彼女自身と話をしている。
 言葉をつむぐタイミング、同意に否定、問いかけに答え。話の内容までは聞こえないが、少女一人の声が会話の形を取っているのは間違いない。
 一段階段を上るたび、声は近づいてきた。おそらく、踊り場を抜けた先の階段を上れば、真正面に鏡があるはずだ。そしてそこにもしかしたら、少女がいるかもしれない。彼女が新たなる犠牲者なのかそうでないのかは、これからわかる。どちらであっても、危害を加えるわけにはいかない。
 途中で足を止め、これからの行動をすばやくシュミレートする。相手の出方がわからない以上、細部まで予想する必要はない。

 一フィートほど、踊り場に踏み込む。
 小鳥のさえずりのようなおしゃべりが止む。
 こちらの姿を捉えようと、双眸が凝らされる気配。

「来たわ」
 二人の少女の声が重なった。
「何しに来たの?」
 今度は一人の声だ。黒鷺は一瞬言葉を選ぶそぶりを見せ、
「“鏡”の破壊を」
 両手で張った鞭を、ぎちりと鳴らした。
 はっと息を呑む音。それを労わるような優しい声。踊り場の向こうにはどうやら二人の少女が存在しているらしい。となると、声の主の一人が鏡、もう一人がそれとは別の存在――おそらく人間ということになるだろう。ここで二人の人間に出会う確立は低い。
「だめ。この子は壊させない」
 おそらく人間の、少女が言う。
「なぜ?」
「この子は私の親友だから」
 見えない七階から届く、強く芯のある声。
「その親友は、少なくとも三人の人間を殺した。あなたも含め、新たな犠牲者を出すわけにはいかないな」
 “鏡”が少女によって更正されている可能性もある。判断が必要だ。
「お前は、その鏡がしてきたことについてどれくらい知っているんだ?」
「全部知っているわ。この子が来る前に起きたことは、私が教えたから」
 わずかに遠い場所から聞こえる声。おそらく、鏡の声。
「この子が来てからのことは……この子の願いを聞いただけ」
 なるほど。更正の兆候はなし、むしろ少女の存在は鏡の暴走に拍車をかけている。よって、鏡の破壊任務は続行しなければならない。
 鞭を持つ利き手に力を込める。
「ならば、私はお前達を止めなくてはいけない」

 踏み込んだ足がほこりの絨毯をえぐる。すばやく振り向く七階、正面の壁に縁のない鏡が張り付いている。その隣の少女が鏡に向かって一言つぶやけば、鏡像に見えたもう一人の少女が腕を振り上げた。現れた鏡の破片が弓のように眼前へ降り注ぐ。欠片を鞭で叩き落し、残りを舞うように避け、攻撃の手が緩んだと見るや階段を駆け上る。少女は変わらず鏡の傍にたたずみ、鏡像に向かって小さく指示をし黒鷺を指差した。
「あいつをやっつけて」
 と、言っている。
 人はあんなにも殺意に満ちた目ができるのだと、それくらい深い憎しみを湛えた瞳。
「いつもの方法じゃないの?」
「私を壊すって決断してここにやってきた人間に、今までの方法は通用しないわ」
 少女の鏡像という役目を放棄した鏡が、再び魔力の破片を作り出す。今度は、黒鷺を上下左右から取り囲むように。
 静止していた鏡の欠片が銀色の光を放ち、直後黒鷺へと突進する。
 左手でダガーを取り出し、右手で鞭を振るう。遠くにある破片は殴打し、迫る刃は刃でもって切り伏せる。鞭がいくつもの破片を打ち飛ばした。ダガーで背中を守り、そこから前方、右へと一閃。砕けた鏡が砂のように散り消えた。
 武器を振るいながら、ダンスのステップのように階段を一段ずつ上っていく。足元を狙った攻撃を片足立ちで避け、くるりと回転しつつ鞭で薙ぎ払う。上げた足を次の段に乗せ、正面の破片をダガーで叩き砕く。打ち下ろした鞭が砕いた複数の欠片が銀の輝きを雪のごとく振り撒いた。
 鏡の舌打ち。両手を握る少女。
 最後の一段を上り切り七階にたどり着いた黒鷺が、辺りを取り巻いていた銀色の欠片を一回転と共に叩き壊した。
 床に降る破片。鞭が床を打つ。少女が肩を震わせる。
「さあ、お前は退くんだ」
 ダガーを持つ手で階下を示す。が、少女は動かない。両手を口に宛がい、黒鷺を濡れた瞳で見つめ返している。
「嫌。あなたもこの子のことを認めないつもりなんでしょ」
 私の一番の友達を。
 小さな声量で主張する彼女を見ても、黒鷺は一切表情を変えない。鏡にちらりと目をやる。鏡像は少女を慰めるように、慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。
「この子がいなくなるなんて嫌。また一人ぼっちなんて嫌なの」
 言葉が進むにつれ、鏡の周りの空気が変わっていく。黒鷺は鞭を構え直した。魔力が渦巻いている……鏡を中心にして。その真ん中に映る幻の少女が、ゆっくりとその形を変えていく。金色の瞳は濁り、瞳孔は狭く細長く。にっと笑った口の端に、薄汚れた牙。
「お願い、“私”。あいつをやっつけて!」
 叫んだ少女の隣に、どすんと音を立てて降りてきたのは――獣の足。真っ黒の毛皮に覆われた狐の足だった。小さな鏡の中で窮屈そうに身をよじらせて、もう一方の前足を床に付く。続いて頭、腰、後ろ足に尻尾。少女をかばうように現れた漆黒の妖狐が、階段を背にした黒鷺を睨みつけ、牙をむき出した。
 鞭を構えた黒鷺は、その双眸を見返していた。やはりそこに感情は探り当てられず、漂う闇の気配に溶け込むようなオリーヴの虹彩がレンズ越しに怪物を射抜いているだけだった。

 一瞬毛並みを逆立てた狐が、黒鷺に飛び掛った。左へ大きくステップを踏んだ黒鷺は、鋭い牙の噛み付を避け、廊下の入り口まで後退した。疾風のごとく跳躍した獣の爪をダガーで受け流し、足元を潜るように滑り込む。すぐさま体勢を立て直し、狐の後ろ足目掛けて鞭の一撃。怯んだ隙に腕を振り下ろし、真空の刃で同じ足を切り刻む。ぱっと散る鮮血に低いうめき声。傷は浅い。
 続く真空波を避けた獣の爪を避け、振り向き様に刃を突き立てる。既に傷を負った後足を下から上に切り裂く。絶叫。血の噴出す音。
 瞬間、黒鷺は廊下へと吹き飛ばされていた。とっさに取ったダガーの防御体制と受身のお陰でダメージは少ない。頬に付いた血の感触からいって、激昂した狐の後ろ足に蹴り飛ばされたのだろう。こちらを振り返る獣の目はぎらぎらと輝いている。不規則な足音を聞く限り、痛手を負った足をかばっているらしい。
 つまり、跳躍に移る可能性は低い。
 床を蹴り、狐の眼前へと迫る。二三度鞭でけん制した後、後退したその右前足目掛けて突きを繰り出す。攻撃をかわした右足から瞬時に的を移し――左前足に風を絡ませ、動きを止める。真空のオーラをダガーにまとわせ、風を切り裂き標的を貫く。
 少女の悲鳴、ぐらつく妖狐の体。後ずさることすらおぼつかなくなった獣に向け、真空波を二度放つ。怪物は器用に飛びのきそれをかわすと、前足に力を込め上体をそらした。廃墟中に響き渡る遠吠え。直後現れた無数のガラスの槍が、黒鷺を取り囲む。
 左へのジャンプ、槍の砕ける音と共に今度は右へジャンプ。一直線に飛んできた槍は先ほどまで黒鷺が立っていた場所に突き刺さり、砕けて消えた。顔を上げると同時に、迫っていた矛先をダガーで弾き、軸を鞭で絡め取り地面へ叩きつける。狐の悔しそうなうめき声。
 再び狐が遠吠えた。無数にあった槍の幾つかが砕け、さらに無数の小刀へと形を変える。
 槍が飛ぶ。再度矛を叩き鞭で叩き伏せると、後を追うように短剣が落ちてきた。確実にこちらを捉えているものだけを打ち、ステップを踏みながら斬撃をいなしていく。
 低空を飛ぶ槍を飛び越え、剣の雨を真空波で吹き飛ばす。それを貫く銀の矛を鞭で叩き、天井へと軌道をずらす。着地し、小刀をダガーで受け止めた後に、まとわせておいた風のオーラを開放する。ナイフは吹き飛び白い塵となった。

 妖狐の目の色が変わる。尻尾を不機嫌そうに揺らし、血を流す足をひくつかせ、細められた目で見ているのは――黒鷺ではなく、鏡の傍に立った少女だった。
 狐があらんかぎりの力で駆け出したのと、黒鷺がそれに向かって真空の刃を放ったのは同時だった。刃は、ブレーキをかけた獣の鼻先を掠めてコンクリートの壁にぶつかった。天井からぱらりと瓦礫が落ちた。
 続いて、鞭の一撃が前足に入る。高い音。再び振るった鞭で前足を絡め取り、力を込める。
「こいつは、人間の魂を食うタイプの妖だ」
 少女に向けた言葉だ。彼女は黒鷺の目を見、妖狐の目を見た。
「おそらく、鏡の噂を信じている者や興味を持っている者の魂が主食。そういう人間を食っては力を蓄え、人を呼び寄せられるほどの力を得たのだろう」
「じゃあ、私は――」
 頭を抱え、続く言葉を打ち消すように目をつぶる。
 信頼に付け入って多数の人間を呼び寄せ、さらには自分を親友と呼んでいた少女をも騙し捕食しようとした。最初少女をかばっていたのも、捕食のため。
 もしもこの妖に人の心が宿っていたのなら、あるいは……。そう考えていたが。

「妖は妖の世界で生きろ。必要以上に人間を弄ぶな」
 恨めしげに光る目を見、ふっとため息をつく。
 鞭を引く前足の力が強くなり、爪がコンクリートをえぐった。ガラスの槍が現れる。
 黒鷺の目が、細められた。

 一瞬の出来事だった。
 狐が黒鷺へ向き直り、吼えた。槍が白い直線を描き黒鷺へ迫る。彼の周りを取り巻く空気が、動いた。
 次の瞬間、鞭が狐の足を離れる。そしてガラスの槍を捕まえ、その向きを変えた。槍の軸をダガーで受け止め、その手に突風のオーラを凝縮させる。
 廃墟の空気が止まった。空白、無音が、僅かな間夜を支配していた。
 黒鷺がダガーを振り上げた瞬間、矛は狐の胸部を貫いていた。槍が砕け、獣の体が崩れ落ちる。床のほこりを吹き飛ばした風がゆるくなり、止む。
 床に座り込む少女の隣にかかる、横たわる狐を映し出す鏡にひびが入った。


 妖狐の死体の処分を頼む電話の後、黒鷺は狐に寄り添う少女を見下ろした。潤んでいた瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ち、息をしていない毛皮の上に落ちて光った。狐の尻尾は最期に、少女の肩をそっと抱いていた。
 少女は何も言わない。黒鷺は階段を振り返り、窓の外に光る星を見た。
「“それ”も、朝までにはなくなる」
「“それ”なんて言わないで」
 少女の腕が黒い毛皮を撫でた。
「私達、たしかに友達だったんだから」
「それなら、また会いにくればいいだろう。鏡はまだ残っているのだから」
 できるなら、鏡のこちら側で友人を作ってもらいたいものだが。その気持ちだけは心の内に秘めたまま。


 月明かりに照らされる道を、黒鷺の革靴が一定のリズムで叩いている。住宅街に入れば街灯が彼を照らすだろう。
 彼女等の間に、ほのかな、人間のような友情が芽生えていたならば。そこまで考え、息をつく。そうであったならば、何が出来たというのだろう。
「任務完了、ご苦労だった」
 留守番電話に残るメッセージ。
 いつもの通りそれを消去し、帰路を辿る。月は未だ地表を銀の光に染めている。いつもより遅い朝を願おうか。太陽が顔を出す気配は、まだない。