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生まれつつある感情
黒と呼ぶのが相応しい、まさに周囲から全ての光量を失くしたかの様な闇が踊る。
月が雲に覆われ闇が深まる中、浮かび上がった赤い大きな瞳だけが仄かに光っている様な錯覚すら覚えるスノーであった。
(……解らない)
スノーはヘゲルを手に構えながら、対峙するイリエについて考察する。
先日の邂逅の際はまるで自分達を歯牙にもかけないかの様な態度を見せ、逃げの一択のみを遂行した存在だ。
しかし今日に至っては、どうしてもあの十字架を手放すつもりはない様に振舞っているのだ。
“闇の住人”。
そう呼称されている者を討つダークハンターであるスノーですら、イリエという存在は異質であった。
本来“闇の住人”は、その欲望のままに人の心――言うなれば魂を喰らいながら生きている。そんな好戦的で危険な存在だ。
しかし先日のイリエとの邂逅で、イリエはまるで降りかかった火の粉を手で払う程度にあっさりと逃げてみせた。
今回も逃げられるのではないか。
そんな事を考えた矢先に生まれた、イリエの応戦しようとする姿勢。
気紛れな彼らに対してここまで思考を巡らせる事もなく、ただ淡々と討滅してきたスノーですら、その変化は無視出来なかった様である。
《スノー、どないしたんや》
ヘゲルの言葉に、ようやく我に返ったスノーは小さく目を閉じ、改めて“敵”を睨み付ける。
「……何でもない」
《にしたって、アイツ……。そこいらの小物とは質がちゃうぞ》
ヘゲルもまた、イリエの放つ妖気とも霊力とも称されるその力を前に警戒心を顕にしていた。
闇を操り、結界によって自身の身体を覆う。そんな厄介な能力を持った相手と対峙するともなれば、いつも通りの勢いだけでは届かないだろう。そんな事を僅かに判断したのだ。
――そんな折、月光が遮られ、しとしとと雨が降り出した。
徐々に勢いを増していく雨の中、それでも動こうとしないスノー達。そんな彼女を見つめながらも、イリエもまた思考を巡らせていた。
(……この十字架。やっぱり“何か”が眠ってる……)
それが強い思いなのか、或いは自分と同じく“闇の住人”であるか。
それは判断がつかないものの、イリエは自身の手にしっくりと馴染む十字架に視線を移した。
――付喪神。
物には、想いや念といった類が宿り、それが息衝く事がある。
本来であれば、相応の強い念や想いでしか生まれないそれらに気付く者は少ない。
しかしイリエはそれに気付いていた。
それは偏に、イリエ自身が人間とは違った何かである事が関係しているのだが、この時のイリエにそんな事は些細な事であった。
イリエは十字架に眠った何かを目覚めさせようと、蒼玉に宿っているそれに封じられた何かを自身の力によって共鳴させ、揺り動かそうと試みる。
――しかし、それに気付いたのかヘゲルの声が響き渡った。
《スノー、行くで!》
その声を合図に地を蹴り、肉薄するスノー。その表情は普段の無表情な彼女らしからぬ、僅かに苦々しさを物語っている。
それは、イリエも同様であった。
自身の手にしっくりと馴染む十字架を奪おうとする存在。その少女を突き動かした大鎌ヘゲル。イリエはその大鎌を睨み付けると、周囲を踊っていた蛇の様な闇を一斉に展開し、四方八方から囲む様にスノーに向かって襲わせた。
僅かにスノーがそれに気付くのが早く、肉薄し、振りかぶっていたヘゲルを前に突き出し、闇を振り払おうと画策した。
身体を僅かに掠る程度に当たってしまうだろう事は百も承知だが、結界と闇を扱われては肉薄するチャンスをいつ作れるかも解らない相手だ。
そんなイリエを前に、躊躇している場合ではないと判断したのである。
「――ッ!?」
しかし、スノーの視界に映った動きは、自身の想像を裏切るものであった。
自分の身体に真っ直ぐ向かって来ているものだと思っていた闇の刃は、スノーの身体を避け、ヘゲルの顔とも呼べるその場所へと集中していくのであった。
《チィッ! 狙いはわしか!》
もはや体勢の変更は難しい。避ける事は困難であると感じたヘゲルであったが、スノーがそれを許さない。
雨が振ったのは彼女にとって僥倖であった。
雹の名を冠するヘゲル。そしてスノーの能力によって、雨がもたらした水分を一瞬で凝固させ、スノーは足場を作り出したのだ。それを踏み台にイリエの上を飛び越える様に更に高く飛び上がる。
あと僅かでヘゲルを捉えられただろう闇の刃は、スノーの機転さえなければヘゲルを砕いただろう。刃の先端と、軸。それらを砕く様に集中していた闇の刃は虚空を切り裂き、霧散する。
「……ヘゲルを壊すつもり?」
「怒ったの?」
「私の大事なパートナーよ。怒らない訳ない」
スノーがヘゲルを構え、再び腰を落とす。しかしイリエは相も変わらずその場に佇み、首を傾げた。
「僕からこれを奪おうとしてるキミに対しても、僕は今のキミと似た気分だと思うよ」
「――ッ」
「いきなり襲ってきたと思ったら、今度はこれを奪いに来た。僕にとって、キミは到底理解出来ない相手だよ」
イリエの胸に生まれた、僅かばかりの怒りの感情。
何故かは知らないが手にしっかりと馴染む十字架を、イリエは手放すまいと改めて強く心に刻んだかの様に握り締めた。
しかし、スノーがイリエの言い分を聞いて取った行動は、イリエも、そしてヘゲルもまた予想だにしないものであった。
「……返して……」
俯きながら消え入る様な声で口を開き、そしてスノーが顔をあげた。
「それは私の大事なモノ……! 失くした形見……! 返して!」
この言葉に。そして泣き出しそうな程に瞳を揺らしたスノーに最も驚かされたのはイリエではなく、ヘゲルであった。
気の遠くなる程の遥か昔。
一人の少女との邂逅によってヘゲルは目覚めたのだ。
生気のない瞳。虚ろな表情。
そんな少女が、自分と契約するとは思えなかった。
それでも少女は自分と契約し、氷雪の力と不老の長命を得た。
一心同体とも言える二人が過ごした永い時の中で、スノーがここまで感情を顕にした姿をヘゲルは知らない。
《おい、坊主。その十字架、返す気はないんか?》
ヘゲルが重たい口調でそう告げる。
出来るなら、叶うならばスノーをそこまで取り乱させる十字架をスノーの手に返してやりたい。そんな親心にも近い感情を持って、ヘゲルはそう申し出たのだ。
しかしヘゲルは、その言葉には期待を込めてなどいなかった。
“闇の住人”の性質を知っている以上、それは無理だと悟っていたのである。
「……大事な、もの……」
イリエが静かに反芻しながら、十字架を握った手を自分の胸に当てた。
その言葉に、何かを感じたのだろうか。
イリエは胸の内をかき乱す様な感覚に驚かされていた。
少女の泣き顔。
「大事なもの」というスノーの言葉。
十字架。
――何かを知れる様な感覚。
それは思い出すという事であるが、それにはイリエも気付く事はなかった。
しかしそれでも、大事な何かがある様な、そんな気すらするのである。
――「返してよッ!」
何か、何処かで聞いた言葉。そんな気がする。
イリエはこの日初めて、戸惑いを感じる事になったのであった。
to be countinued...
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ご依頼有難うございます、白神 怜司です。
今回は局面としてはあまり動きがないので、
心理描写を優先して書かせて頂きました。
まだ明らかになっていないイリエ君の過去やら、
そういった設定などなどが細かく決まりましたら、
解明話として盛り込みますのでお気軽に仰って下さい。
十字架についても、“形見”と称しましたが、
ご希望があればストーリーを繋げつつ、設定を変更しますので、
お気軽にお申し下さい。
それでは、今後とも宜しくお願い致します。
白神 怜司
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