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記憶は静かに浮上する
「――悪いけど、お遊びはここまでだよ」
イリエのその言葉は、警告とも言い難いただの宣言であるかの様ですらあった。
――逃げられる。
僅かな逡巡すら許されない。それをしてしまえば、逃げられるだろう。そう感じ取ったスノーは弾ける様に飛び出し、イリエに向かって肉薄した。
その瞬間であった。
スノーの視界に飛び込んで来た、真っ黒な何か。それがイリエの身体の周囲を漂っていた黒い闇が、まるで命を吹き込まれたかの様にスノーに向かって飛び掛ってきたのだ。
「な……ッ!?」
突如として飛んできた闇を纏ったイナゴの様な虫。ヘゲルを振ってそれらを振り払おうと試みるが、埒が明かない。
やがてその虫によってスノーとヘゲルの視界は闇に覆われ、そして視界は奪われた。その僅かな後、スノーとヘゲルの視界はようやく晴れる。
「――ッ!」
《どないなっとんねん……》
スノーとヘゲルの言葉が虚空へと消えていく。
先程まで振っていたノイズの様な大粒の雨も、空を覆っていた分厚い雲も姿を消しているのだ。
「……奈落の王」
スノーの脳裏に浮かんだのは、“奈落の王”と呼ばれるアバドンの存在であった。容姿こそ人間のそれとは全く違う存在であるとされる、堕天した存在。
《アバドンやったか……。笑えへん相手やな。
でも、どないなっとんのや……? もしあれが“あの時”の悪魔なんやったら、またこの世界に呼び出されたっちゅー事か?》
ヘゲルの疑問にスノーは何も答えようとはせずにまっすぐ空を見つめた。
はたして今しがたまで対峙していた存在は、本物であり、現実だったのか。そんな事を考えてしまう。それはひとえに、イリエの放っている気配がかつてのそれとは大きく異なっていたからなのかもしれない。
―――。
「――……ここ、は……」
一面に広がる闇。まるで水中を漂っているかの様な僅かな光の揺らめきがそこにはあった。
ここは境界だ。
スノーによって討たれた彼――イリエは、奈落の底に落ちる事はなく、その人間の生きる世界と奈落を繋いだ境界の淵を漂っていたのだ。
「……皮肉なものだ」
イリエは闇の淵を漂いながら、自分が何故そこにいるのかを理解した。
本来であれば奈落の底へと還らされ、人間の世界とは断絶された世界に閉じ込められる所であっただろう。
それがこうしてここにいるのは、自分を召還した神父の持っていた十字架の蒼玉と、その神父の強い想いが存在を留めたのだ。
とは言え、自分の力で人間の世界に降り立つ事は叶わない。
言うなればこの状況は、あくまでも召還し易い位置に自分がいる、というただそれだけの事であった。
――それは何ら変わらない眠りを迎えるもの。
かつてのイリエにとってみれば、それは何も特別な事でもない。今までと何ら変わりないものだ。
しかし今回は違うようだ。それはイリエを繋ぎ止めた蒼玉の存在だ。
イリエは悠久とも取れるその時間に、蒼玉に籠められた神父の想いに触れていた。
それはイリエにとって、ただの児戯にも等しいもの。
奈落の王――アバドンである彼にとって、人間の想いなどは取るに足らない小さなもの。玩具として多少の役に立てば、それだけでも価値があると言えた。
――神父は敬虔な教徒であった。
神の教えを心から信じ、そしてその教えを広める事で、周りの人間や他の地域に住まう人々にすら、救いの手を伸ばそうとしていたのだから。
それは彼の気まぐれではない。
彼は本当に、ただただ周囲を救おうと考えたのだ。
しかし――、いや、だからこそだろう。彼の心を、結果的に裏切る結果となったのだ。
例え教えがあったとしても、それが全てを救える訳ではなかった。
目の前で苦しむ人々を救おうとどれだけ祈りを捧げた所で、それが届かないのだと彼は理解した。
――流行り病。
次々と苦しみながらも命を落としていく人々。
それを見るほどに、その横で祈りを捧げる程に、彼の心はどうしようもない無力感に苛まれ、そして心が病んでいく。
信じていたからこそ、それに裏切られた様な感覚が彼の心を容赦なく引き裂いていくのだ。それはやがて、自分の信じていた神への絶望が恨みに代わり、そして憎しみに変わっていった。
だからこそ彼は、その反対の存在へと――悪魔へと力を借りる事に至ったのだ。
「神に力はない! 救う為に必要な、力が欲しい……!」
それは神父の叫びだった。
世界を恨み、憎しみ、そして絶望したが故、だったのだろう。
イリエは幾千万という夜を過ごしながら、ただただその神父の心に触れてきた。
彼が何を思い、何を感じ、何に絶望しながら最期を迎えたのか。
蒼玉に刻まれた魂から、彼の人生をなぞる様に。それは何度も何度も繰り返されてきたのだ。
「……あぁ。そういえばそうだったね」
つい先程までスノーと戦っていたイリエは、また別のビルの屋上で空を見上げていた。空には綺麗な満月が浮かんでおり、そのどこか青白い光はイリエの手に握られていた十字架の蒼玉を僅かに煌かせていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――クソォッ!」
男は苛立たしげに声を張り上げ、壁を叩き付けた。
古ぼけた、窓もない地下室。そこには赤い血の様な何かによって描かれた陣が蝋燭の炎に僅かに照らされていた。
数日前に召還したはずの悪魔が、姿を消してしまったのだ。燃え盛る青い炎が焦がした地面が、それが夢ではなかったのだと告げている。
手を尽くして探してはいるものの、悪魔を人混みから探すのは決して容易な事ではない。悪魔は人間に憑き、その姿を隠す事すら出来るのだから。
「人間の身体に憑いている可能性は少ない。それに、ヤツはどういう訳か人間と同じ風貌をしていた。それにしたって封印を自力で解いて動き出すなど、いったいどういう事だ……ッ」
召還して早々に封印を砕き、出て行った。
それもそのはずだ。そもそもこの呪術師は、イリエの様な高位の悪魔を召還する程の実力も持ち合わせておらず、ただ悪魔召還を行ったに過ぎない。
本来冥府の住人を呼び出す程度で済む悪魔召還であったが、奈落の底と人間世界の境界にいたイリエを呼び戻す事になってしまったのだ。男が用意していた悪魔を隷属させる為の魔法は、イリエにとってはなんら効き目がなかったのだ。
「そう、まだ見つかってないのね」
「――ッ、エヴァ様……!?」
男も気付いていなかったのか、背後から声をかけた金色の髪をした少女――エヴァ・ペルマネントの声に男は慌てて振り返り、跪いた。
「申し訳ありません……! 隷属に失敗するなどとは思ってもおらず、この様な醜態を……」
「構わないわ」
エヴァはあっさりとそう答える。
事実として、これはエヴァにとっても嬉しい誤算である。
彼女が所属している組織にとって、ただの使い捨ての悪魔などもはや意味がないのだ。敵対する組織を前に、下級の悪魔ではあまり役には立たない。
しかし今回は思いがけない大物が手に入ったのかもしれない。
多少制御が難しくても、僥倖である事には変わりない。
「盟主様には私から伝えておくわ。無理に捕まえなさい、とは言わないけど、見つけたら連絡を」
「は、はい!」
エヴァはそう告げてその場を去りながら、携帯電話を手に取った。
「……もしもし」
《首尾はどう?》
「どうやら未だ見つかっていない様です」
《……そう。使えそうかしら?》
「えぇ。少しは骨がありそうです」
淡々と喋る二人の会話。どうやらイリエの事について話をしている様であった。
「……分りました。全ては“虚無の境界”の為に」
エヴァは小さくそう答えて電話を切ると、そのまま暗い夜の街へと足を踏み出すのであった。
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ご依頼有難うございます、白神怜司です。
今回のご依頼で、色々と明らかになりつつあるイリエさんの過去。
これからの展開の可能性を広げる為に、今回は予期せぬ召還だったという形をとらせて頂きました。
お楽しみ頂ければ幸いです。
それでは、今後とも、ぜひとも宜しくお願い致します。
白神 怜司
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