|
誰かがいる街へ
瓦礫と化した高層ビルの窓から、小魚の大群がのんびりと出入りしている。
ひび割れたアスファルトからは、海藻が伸び放題に生えてゆらめき、タコやヒトデや甲殻類の蠢く様を見え隠れさせている。
巨大なホオジロザメが、傍らを通過した。
食われるか、と勇太は思ったが、水死体の如く漂う少年など眼中にない様子で、鮫はゆったりと巨体を揺らし、折れ曲がった信号機をかすめ、泳ぎ去って行った。
東京の街並が、海の底に沈んでいた。
その海の中を工藤勇太は今、漂っている。
息は苦しくない。だが勇太は、自分が今、きちんと呼吸をしているのか、そもそも生きているのかどうかすら、わからずにいた。
(街……誰もいない、街……)
勇太はふと、そんな事を思った。
海に沈んだ街。そこには、人間が1人もいない。いるのは、物言わぬ水棲生物たちだけだ。
「綺麗でしょう? 人間のいない街って」
水の中なのに、声が聞こえる。
「人間なんていない方が、世の中とっても綺麗だって事……わかるわよね?」
水没し、漁礁となったビルの屋上に、その少女は佇んでいた。
まるで入院患者のような、パジャマ姿の少女。顔立ちは美しい、だが暗い。
「人間は、世の中を汚くするもの。こんなふうに綺麗な海の底に沈めてあげるのが、せめてもの優しさよ」
「あんたは……」
勇太は声を発した。
本当に声が出たのかどうかは不明だが、訊きたい事を少女に伝える事は出来た。
「そんなに、人間が嫌いなのか? 何で?」
「……説明が、必要?」
長い黒髪を、海藻の如く揺らめかせながら、少女は微笑んだ。
「貴方は知っているはずよ。人間という生き物が、どれほど……生かしておくに値しない存在であるか」
勇太の脳裏に、何かが浮かんだ。
大勢の、人間の顔だった。
皆、にこやかな表情を浮かべている。有望な実験動物を見る目を、あらゆる方向から勇太に向けている。
「やめろ……」
勇太は顔をそむけた。が、脳裏にいる者たちから目を逸らせる事など、出来はしない。
白衣を着た男たち女たちが、にこやかな笑みを浮かべながら、一斉に手を伸ばして来る。
「やめろ……! やめろ! やめろぉおおおおおおお!」
怒り、と言うより恐怖心が、勇太の中で爆ぜた。
爆ぜたものが、溢れ出した。
しばらく忘れられていたものを、勇太は解放してしまっていた。
にこやかな顔が、全て砕け散った。頭蓋骨の内容物が、まるで花火のように噴出・飛散し、勇太の全身を汚す。
「ああぁ……ぁああぁあぁ……」
呻き、座り込んだ勇太を、無数の人々が取り囲んでいる。
皆、怯えていた。化け物を見る目を、あらゆる方向から勇太に向けていた。
その中に、叔父がいる。
他の人々が、彼1人を責めなじっている。
あんた、自分の親戚だろ。ちゃんと引き取って面倒見なさいよ、あの化け物を。
責任持ちなさいよ。親戚でしょうが?
そんな事を言う人々に押され、叔父がこちらに近付いて来る。
勇太を見るその目には、怯えがあった。苛立ちが、嫌悪があった。
親戚という言葉が、世間体が、これ以上ない重荷となって叔父を苛んでいる。
「やめろ……やめてよ、叔父さん……」
勇太は目を閉じ、頭を抱えてうずくまった。
「そんな顔するなら、俺の事なんか放っといてよぉ……っ」
全員、消えた。叔父も、彼を責めなじる人々も。
風景が、水没した街に戻った。
ビルの窓から、小魚の群れが溢れ出す。
海亀が、のんびりと泳いでいる。割れたコンクリートから、タコが這い出して来る。
誰もいない。実験動物や化け物を見る目を、自分に向ける人間が、1人もいない街。
その中を漂いながら、勇太は呟いた。
「誰も……いない街……」
「どう? 美味しい?」
係員の若い女性が、微笑みかけてくる。
ぺろぺろとソフトクリームを舐めながら、羅意と留意は至福の笑みを浮かべた。
「うまし! アイスうまし」
「われらにアイスをおそなえしたので、おまえにはごりやくがあるのだー」
「本当? 嬉しいなー。じゃ、さっそく御利益をもらっちゃおうかな」
若い女係員は、辛抱強く微笑みを保って言った。
「らい君にるい君、だったよね。君たち、お父さんお母さんと一緒に来たの?」
「我らは、勇太と一緒に来てやったのだぞ」
羅意が答えた。
「なのに、あの馬鹿者は勝手にどこかへ消えてしまった。お前、さっさと捜しに行くと良いのだぞ」
「そ、そうね。捜してあげる。その勇太さんの苗字……ええと上のお名前、教えてくれるかなー?」
水族館の入口近辺で、この2人の迷子を発見したのだ。
兄弟であろう。片方は赤毛、片方は金髪で、お揃いの白い和装に身を包んでいる。なおかつ、犬の耳と尻尾など付けられている。
幼い子供にこんなコスプレをさせた挙げ句、放置してどこかへ言ってしまう。その勇太とかいう名前の保護者が父親なのか兄なのかは不明だが、ろくな人間でないのは間違いなかろう。
(とんでもないDQN親ね、きっと……気をつけて対応しないと、すっごいクレーム騒ぎになりそう)
女係員のそんな思いなど知る由もなく、羅意と留意は、ソフトクリームを舐めながら空を見上げていた。
こんな、ただ高いだけの塔の、一体何をありがたがって人間たちは集まって来るのか。羅意にも留意にも、さっぱり理解出来なかった。
先程の水族館の方が、ずっと面白い。
その水族館を出た瞬間、勇太の姿はいきなり消え失せてしまったのだ。
留意は、じっと見上げた。
塔の頂上付近で、黒雲が渦巻いている。
勇太が一体どこへ行ってしまったのか、留意には何となくわかった。黒雲の中から、勇太の気が漂い出している。
その漂い方が、次第に濃密になってゆくのを留意は感じた。
黒雲が、塔の頂上から、空全体へと広がってゆく。
ぽつり、と水滴が顔に当たって来た。
雨。それも塩辛い雨だった。海水が、降って来ているかのようだ。
「おお雨だ。いかんいかん、アイスが台無しになってしまうのだ」
羅意と留意が、ソフトクリームを慌ててバリバリと口に詰め込んでいる間。
雨が、一気に激しさを増し、叩き付けるような豪雨となった。
女係員、だけでなく電波塔周辺の観光客たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。
「あに者あに者、ずぶぬれだよー」
「わわわわわ、雨がしょっぱい雨がしょっぱい」
まるで海が降って来ているかのような豪雨の中、羅意と留意はおたおたと走り回った。
その足元で、水が激流と化してゆく。
凄まじい速度で水位が増し、小さな兄弟の身体はたちまち激流に運ばれた。
「流されるぅー!」
「あに者あに者、あの塔のてっぺんなのだ! あそこで、よくない力がうずまいてる!」
流されながら、留意は叫んだ。
「ゆう太もきっと、あそこにいるよー!」
「よ、よし! あの馬鹿を、助けに行くぞー!」
激流を蹴るようにして、羅意が跳躍した。
獣の耳と尻尾を生やした、小さな男の子の姿。それが、本来の獣の姿へと戻りながら、水飛沫を蹴立てて空へと舞い上がる。
留意も、それに続いた。
叩き付ける海水の豪雨の中、ふっさりと尻尾をなびかせて天翔る、2匹の狼。
その姿が、塔の頂上付近で滞空した。空中に着地したような格好である。
黒雲は、空全体に広がっている。が、その中核を成すものの気配は、塔の頂上で渦巻くように留まっている。
「ここか! 勇太の馬鹿はここにいるのだな! よーし!」
羅意が、全身の獣毛を逆立てて咆哮を発した。天翔る狼の姿が、雷の如く光を発する。
その光が、渦巻く黒雲の中核を、激しく包み込んだ。
悪しき力を封じ込める、結界。
海水の豪雨が、急速に弱まってゆく。そして小雨になった。
地上は、洪水寸前の有り様だ。人々が、溺れかけた者を助けながら、逃げ惑っている。
ここに再び今のような豪雨が叩き付けられれば、間違いなく水死者が出る。羅意が力尽きた瞬間、そうなる。
「留意! お前は勇太を助けに行け!」
早くも力尽きそうな、辛そうな声で、羅意は叫んだ。
それは留意にとって、死刑の宣告にも等しかった。
兄と離れて、1人で行動する。留意にとって、それは死にも等しい苦行であった。
「や……やだ……」
声が、震えた。
「あ、あに者といっしょじゃなきゃ、やだ……」
「ばか留意! 我らは『かみのつかわしめ』なのだぞ!」
羅意の怒声が、雷鳴の如く轟いた。
「人間を助けなければいかんのだ! 馬鹿勇太も、ついでに助けてやらねばいかんのだ! 両方出来なければ駄目なのだ!」
「あに者……わ、わかったよう……」
勇太からは、大量のアイスクリームを供物として捧げられた。
ここで何か御利益を返してやれぬようでは、神としての面目が立たない。
泣きじゃくりながらも留意は覚悟を決め、結界の中へと飛び込んで行った。
誰もいない街に、誰かがいる。
勇太は突然、それに気付いた。我に返ったような気分だった。
小さな生き物が、水中でじたばたと暴れている。白い和装に身を包んだ、仔犬のような男の子。
そこに、鮫が向かって行く。
「ゆう太ゆう太、はやくたすけるのだ!」
「……留意……!?」
勇太は、とっさに念じた。しばらく封印していた力を、解放した。
その力が、留意の小さな身体を引き寄せる。
一瞬前まで留意がいた辺りで、鮫が大口を閉じた。牙の空振り。
引き寄せられて来た留意を、勇太は両腕で抱き止めた。
鮫が、舌打ちでもしそうな表情をこちらに向けつつ、泳ぎ去って行く。
見送りながら勇太は、腕の中の留意に問いかけた。
「留意……何で、こんなとこに……?」
「バカゆう太! それはこっちのせりふなのだ!」
留意が泣き出した。
「こんなとこで、なにをやってるのだ!」
「何を……やってるんだろうなぁ、俺……」
留意の頭を撫で、獣の耳を弄りながら、勇太は呟いた。
誰もが自分を、実験動物としてしか見ない。化け物としてしか、見ようとしない。
そんな事があるものか、と勇太は思い直した。
少なくとも2人、いるではないか。工藤勇太を、工藤勇太として扱ってくれる、小さな兄弟が。
「……何よ……その子は……」
少女の声が聞こえる。怒りで、憎しみで、震える声。
「私には、誰もいないのに……何で貴方には、そんな……そんなぁああああああ!」
震える絶叫に合わせて、水が激しく渦を巻いた。
留意の小さな身体を抱いたまま、勇太は渦に飲まれた。
「くっ……ぅ……ッ」
まるで、巨大な洗濯機に放り込まれたかのようである。
もぎ取られそうになる留意の身体を、両腕でしっかりと保持しながら、勇太は念を解放しようとした。戦闘のための念。だが。
「たたかっては、だめなのだ!」
留意の叫びが、それを妨げた。
「そとで、あに者ががんばってるのだ!」
ここで戦ったら、外に衝撃が流れ出る。恐らく結界を張っているのであろう羅意の負担が、大きくなる。
留意は、そう言っているのだ。
少女の攻撃の念は、さらに高まってゆく。
「誰もいないのに! 私には、誰もいてくれないのに!」
「……そんな事、ないと思うな」
勇太は言った。
「あんたと俺は同じ……とか言ってたよな。俺もそう思うよ。あんたにだって俺と同じ……誰かが、いると思う。あんたはそれを、自分で見ようとしていないだけだ」
少女に、ではなく自分に、勇太は言い聞かせていた。
叔父は本当に自分を、世間体のためだけの荷物としか見ていないのか。
(俺……叔父さんと、ちゃんと話した事もない……叔父さんを、ちゃんと見てもいない……なのに、勝手に決めつけて……)
「誰かがいる」
勇太は言った。少女は、何も言わなくなった。
彼女の感情が、揺らいでいる。
海に沈む、誰もいない街の風景も、揺らいでいる。
「だから……誰もいない街からは、とりあえず出てみようぜ?」
突然、東京を襲った局地的な豪雨による被害が、全くない事はなかった。
幸いにして、人死には出なかった。
「お前のおかげだな……神様らしい事、したじゃないか」
右腕で抱いた仔犬に、勇太は語りかけた。
「ふふん、これが我らの御利益なのだ」
仔犬が、偉そうな日本語を発した。
「今日はそんなに暑くないから、アイスではなくチョコレートケーキをお供えすると良いのだぞ」
「プリンパフェでも、よいのだぞ」
勇太の左腕で、もう1匹の仔犬が言う。
2匹の、日本犬の仔犬。羅意と留意である。消耗した力が回復するまで、しばらくこの姿でいなければならないらしい。
「ああ、何でも頼むといい……叔父さんが、おごってくれるってさ」
勇太の方から、叔父に電話をしてみた。そして会う事になったのだ。
会って、話をしなければ、人間の事など何もわかりはしないのだ。
ふと、勇太は立ち止まった。
高校生、であろうか。制服姿の少女と、擦れ違ったのだ。
どこかで見たような女の子だ、と勇太が思っているうちに、その少女はすたすたと歩き去ってしまった。
会って話をしなければ、人間の事などなにもわからない。
とは言え、女の子を呼び止めて話をする勇気など、今の勇太にはなかった。
|
|
|