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虫の道
白い。
陸誠司は、そう思った。
人間は、死ぬと白くなる。そう思った。
鬱蒼と暗さを増してゆく山林の中、その白さだけが鮮やかである。
骨の、白さ。
つい先程までは、腐肉がまとわりついていたのだろう。
今は、白い。綺麗なほどに白い。
眼窩から、虫が這い出して来た。ムカデか、ヤスデか。
他にも様々な虫が、蠢いている。口の中から、肋骨の内側から、溢れ出して来る。
蠢く虫たちの黒さと、鮮やかな人骨の白さ。
誠司は、呆然と見入っていた。
遭難者か、自殺者か。あるいは殺され、遺棄されたのか。
今や、性別すらわからない状態である。
弔われる事もなく山中に放置された屍を、虫たちが綺麗に喰い尽くしているところだった。
死ねば、お前もこうなる。
そんな、養父の声が聞こえたような気がした。
何人目の養父であるのかは、もうわからない。誠司は、数える事をやめていた。
両親が死んだのは、2歳の時である。事故死であったらしい。
その事故で、誠司1人が生き残った。
どのようにして生き残ったのかは、不明である。
とにかく、何かが起こった。
何が起こったのか、誠司自身は覚えていない。何しろ2歳である。
その何か、のせいであろうか。
親族の誰もが、誠司を普通には扱ってくれなかった。
化け物。そう罵り、怯える者もいた。
父方の祖父、母方の祖父。父の兄弟、母の兄弟。様々な人間が、親族としての体面から仕方なく誠司を引き取り、だがすぐに手放した。
たらい回しをされている間に誠司は、小学校へ通うべき年齢に達していた。
だが、誰も誠司を学校へなど通わせてくれなかった。ランドセルも教科書も、買ってくれなかった。
誰も誠司のために、金を使ってなどくれなかったのだ。
今の養父も、そうだ。誠司を小学校へ通わせる代わりに、こんな山の中へと放り出した。
生きてみろ。山頂に辿り着いたら、迎えに行ってやる。死にたければ勝手に死ね。
それだけを、養父は言った。そして誠司をこの山中に放置し、去った。
一応、数日分の食料は与えられた。山中の地図、ナイフやロープといったサバイバル用品もだ。
そんなものを、しかし素人の子供に使いこなせるわけがなかった。
何の事はない、と誠司は思う。自分は、また捨てられたのだ。
よく来たね。これからは私が君を守ってあげる。ずっと、ここにいていいんだよ。
今までの養父母たちは、そんな事を言いながら結局、最終的には自分を放り捨てた。
そういう事を一切、言わなかっただけ、今度の養父はましなのかも知れない。
死にたければ勝手に死ね。彼が口にしたのは綺麗事ではなく、そんな言葉だ。
自分が死にたいのかどうか、誠司にはよくわからなかった。
生きていたくはない。それは、確かである。
自ら命を絶つような度胸はない。ただ、生きていたくないだけだ。
死ぬべき事故で、自分は生き残ってしまった。
だから、化け物などと言われたりもした。祖父も、伯母も叔父も、化け物を見る目で誠司を見た。
自分は、生きていてはならなかったのだ。
物心ついた頃の誠司が、まず最初に思った事が、それである。
死ぬべき事故で、死ねなかった。ならば今からでも、死ぬべきなのか。
死んで、虫に食われてしまうべきなのか。
大木の根元に座り込み、膝を抱えたまま、誠司は見つめていた。蠢く虫たちの黒さと、清冽なほどの骨の白さを。
死ねば、自分もこうなる。
人間など、死んで虫に食われる程度の存在でしかないのだ。
骨の白さを晒している、この彼もしくは彼女が、生前いかなる人間であったのかは、想像するしかない。
自殺であるとしたら、一体どのような絶望を抱いていたのか。
他殺であるとしたら、希望に満ちた人生を理不尽に奪った悪人がいるのか。
希望と絶望。どちらを心に抱いていようと、人間はいずれ死ぬ。虫の餌でしかなくなる。
虫たちは、死肉を食らって命を繋ぐ。
自分は生きていてはならない、などと思う事もなく、ひたすら生きるために腐肉を漁る。
「……うまい……か……?」
眼窩の中や肋骨の内側で黒々と蠢く虫たちに、誠司は問いかけた。
声を発したのは、ずいぶん久しぶりだ、という気がした。
空は青い。当たり前である。
木の葉は、緑色をしている。当たり前である。
圧倒的な「当たり前」が、視界いっぱいに広がっている。
否、少年1人の視界に収まりきるものではない。
誠司を取り巻く世界の全てが、空の青さであり、木々の緑色であった。
山頂である。
緑の山々が、世界の果てまで連なっているように、誠司には思えた。
美しく豊かに生い茂る緑色。その下では虫たちが黒々と蠢き、死せる動物たちを土に還している。
そうして肥えた土が、緑の木々を豊かに茂らせているのだ。
小鳥が歌い花が芽吹く、美しい光景。
屍が腐って虫に食われる、おぞましい光景。
豊かな緑の下では、その両方が繰り広げられている。
美しいものと醜いもの、全てを併せ呑みながら、大自然というものは緑を輝かせているのだ。
輝く緑が、ぼやけた。空の青さが、滲んだ。
誠司は、涙を流していた。
自分は今まで、何をしていたのだ。そんな思いが、涙と一緒に溢れて来る。
親族の間をたらい回しにされ、ただ流されていた。
腐肉の中を這いずってでも日々を生き抜く、あの虫たちの、万分の一でも自力で何かをしようとしたのか。
今の自分は、あの白骨死体の肋の内側から這い出していた、シデムシ1匹にも劣る存在だ。
「野垂れ死んで、山林の肥やしになる……それもまた、有意義な死に様の1つだと思っていたが」
言葉と共に、大きな手が、ぽんと誠司の頭に置かれた。
養父が、いつの間にか、そこに立っていた。
「お前は、それを選ばなかったようだな」
「……お……おれ……」
「どうやら、まともに喋る訓練から始めなければならんか」
養父が、微笑んでいる。
「お前、ここ何年も、他人と会話をした事がないだろう?」
誠司と会話をしてくれる人間など、誰もいなかった。
まともな会話など出来ぬまま、誠司は握り拳で涙を拭った。
「おれ……つよく、なりたい……せめて、虫とおなじくらいに……」
「有意義な死ではなく、過酷な生を選んでしまったようだな」
養父の大きな手が、誠司の汚れた髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「自分の力で、這いずる道……険しいぞ。覚悟しておけ」
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