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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


冬のローレライ


 時が、静かに降り積もってゆく。まるで雪のように。
 春に芽吹き、夏に咲き誇り、秋に力尽き、枯れていったものたちの屍を、雪は優しく覆い隠してゆく。
 それと同じだ。
 時は、しんしんと降り積もりながら、様々なものを埋もれさせてゆく。
「ひとたび時に埋もれてしまったものが……再び、この世に現れるなど」
 八瀬清音は語りかけた。この場にいない、この世にもはやいないはずの女性に。
「……あってはならない事なのですよ、異国の方」
 歌が、聞こえたのだ。とても悲しい歌。
 その悲しさは人々を惹き付け、引き寄せ、破滅へと導く。
 外国語の歌詞など理解出来ずとも、その悲しみと絶望は、禍々しいほど強く哀切に伝わって来て、清音の心を締め付ける。
「時に埋もれて眠りなさい。今更この世に目覚め、歌ったところで……その悲しみが癒される事など、ありませんよ」
 清音の語りかけに、その女性は何も応えない。ただ歌うだけだ。
 歌う。それ以外の何かをする事が出来なくなってしまった女性。
 いる、と清音は思った。
 この場にいない、この世にいないはずの女性が、確かにいる。
 無論この六畳間に今いるのは、八瀬清音ただ1人である。茜色の着物姿を、床の間の近くで正座させている。
 あれからずっと、こうして時の降り積もる音を聞きながら過ごしてきた。
 降り積もる時に埋もれる事を拒んで、その女性は歌い続けている。
 邪悪なものを、清音は全く感じなかった。
 純粋な、あまりにも純粋な悲しみに満ちた歌声。
 その悲しみが、聴く者に不幸をもたらし、さらなる悲しみを生む。
「あの子を、不幸にする歌……」
 清音は目を開いた。真紅の瞳が、淡い光を灯す。
 名も知らぬ、顔も知らぬ、祖母として手を触れた事もない「あの子」を、自分は守らなければならない。
 時に埋もれる事を拒んでいる、この女性と、戦う事になろうともだ。
 温かなものを、清音は感じた。
 誰かが「あの子」の傍にいる。
 温かく、優しく、そして強い……魔力、と呼ぶべきものを持つ誰かが。
 黒髪が一瞬、見えた。さらりと艶やかに揺れる、長い黒髪。
 魔女。そんな言葉が、清音の胸中に浮かんだ。
 魔女、と呼ぶべき力を持った女性が「あの子」を守ってくれている。
 それがわかっただけで、充分だった。
 その魔女が何者であるのか、そんな事は清音にとっては、どうでも良い。
「あの子は……独りぼっち、ではないのね……」
 それだけで、清音は充分だった。
「独りぼっちなのは、貴方……」
 すでに失われてしまった面影が、胸の内に蘇る。
 異国から来た、1人の少年。
 彼は、孤独だった。独りぼっちだった。
 孤独に苛まれる彼の心を、清音は癒せなかったのだ。
 だから、彼は去った。
 清音の生んだ子が、すくすくと成長してゆく。父親である彼は、しかし一向に歳を取らない。
 父と子の年齢が、近付いてゆく。
 それに耐えられず、彼は異国へ帰ってしまったのだ。
 息子は怒り狂い、泣き叫んだ。自分も母も、捨てられたのだと。
 息子は父を憎みながら大人になり、清音は年老いて病に倒れた。
 看取ってくれたのは、息子だった。
 私はあの男を許さない、ニコラウス・ロートシルトを絶対に許さない。母さんには申し訳ないけれど、これだけは、どうしようもない事なんだ。
 息子の、そんな泣き声を聞きながら、清音は息を引き取った。
 人間としての生を、そこで終えた。
 そして人ならざる者としての生に戻り、今はこうして、時の降り積もる音を聞いている。
 銀色の髪に、赤い瞳。茜色の着物に身を包んだ、若い娘。それが今の八瀬清音である。
 仮に息子と再会する事があったとしても、もはや母親とは思ってもらえないだろう。
 息子はやがて、とある女性と結ばれた。
 そして、あの子が生まれたのだ。
 祖父ニコラウス・ロートシルトを苛んでいた孤独に、あの子も苦しむ事となるだろう。
 清音はそう思っていた。しかし今、わかった。
 あの子は、孤独ではない。1人きりではない。
「だけど貴方は、今も孤独……」
 届かぬ言葉を、清音は漏らした。
「そして、私も……」
 悲しみに満ちた歌は、もう聞こえない。
 清音は思う。自分は、あの女性と同じだ。
「いくら時が降り積もっても、貴方への思いは埋もれてくれない……ニコ……」


 誰かに呼ばれたような気がした。
 気のせいだ、とニコラウス・ロートシルトは思った。
 懐かしい、胸が締め付けられるほどに懐かしい誰かの声が、聞こえたような気がしたのだ。
 風に揺れる、清かな竹の音と一緒に。小川のせせらぎと共に。
 気のせいに決まっている、とニコラウスは思った。
 彼女はもう、この世にはいないのだから。
 こんな幻聴が聞こえるのは、やはり未練があるからか。
「未練など感じる資格が、私にはないと言うのに……」
 呟きながら、ニコラウスは庭園を見つめた。ロートシルト邸の庭。
 幼い頃、共にここを駆け回った親友が、紅茶を淹れてくれた。
「捨ててしまった、逃げてしまった。そのようにお考えですか?」
 長らく、執事として働いてくれている老人。
 一方のニコラウスは、14歳の少年のまま。
 親友と同じ時を過ごす事も出来ない身体になってしまってから、60年近く経つ。
「あの御方はあの御方で、ニコラウス様の御心を癒せなかった、などと御自身を責めておられたでしょうな。お互い、罪悪感に苛まれていたというわけです」
「あの時、私は……ロートシルト家の全てを捨てる覚悟を、決めたつもりでいた。全てを捨てて、彼女と添い遂げる。そんな気になっていたものだ」
 ニコラウスは思い返した。
 あの頃の自分は、肉体のみならず心もまだ、14歳の青臭い少年だったのだ。
「そんな私に、お前も付いて来てくれたな」
「お2人の邪魔にならぬよう気を遣うのが、いささか面倒ではありました」
 老執事が、微笑んだ。
「罪悪感と後悔を重ねながら、人は年老いてゆくものでありましょう」
「私が、年老いていると思うのかい? ……まあ確かに心は、どうしようもないほど無様に老いさらばえてはいるけれど」
 1つ、朗報があった。
 孫である、あの少年が、10代で成長が止まったりはせず無事に成人してくれたらしい。
 1人の青年を、護衛として同行させてある。
 彼からの手紙によると、時折だが一緒に酒を飲んだりもするという。
「元気だろうか……」
 ニコラウスは呟いた。
 誰の元気を気にしているのか、言わずとも、この老執事にはわかってしまう。
「会いに行かれては、いかがです」
「……会えるわけが、ないだろう? あの子はもう20歳なんだぞ」
 6歳も年下の祖父など、受け入れてくれるはずがない。
「では遠くからでも……御自分の目で、確かめられては?」
 老執事が、食い下がるように勧めてくる。
「人は、嘘を重ねながら年老いてゆくもの……とは言え、時には御自分の心に正直になられるのも良いかと思います」
「……言うまでもないだろう。私が己の心に正直に振る舞った結果、どのような事になったのか」
 出会ってはならない女性と出会い、結ばれ、そして呪われた血筋をこの世に残してしまった。
 なおかつ、それら全てを放り出し、オーストリアへと逃げ帰って来た。
 自分には、もはや己の思いに正直になる資格などないのだ。
「これを」
 老執事が、何やら平たいものを差し出してきた。
 タブレット端末。
 その画面上で、動画が再生されている。
 動画と言うか、楽曲である。投稿されたもの、であるようだ。
「投稿者によって、すでに削除されてはおりますが……ひとたびネットの海に放たれてしまったものを完全に消し去るのは、なかなかに困難でしてな」
「これは……!」
 ニコラウスは息を呑んだ。
 心が締め付けられる。息苦しいほどにだ。
 この歌の主人公は、結ばれた2人を祝福している。祝福しながら、痛切なほどの未練を歌い上げている。
「世に広く受け入れられる曲ではありませんな。私は……嫌いでは、ありませんが」
 老執事が言った。ニコラウスは、何も言えなくなった。
 会わなければならない。
 理由もなく、ニコラウスはそう思った。
 この曲を作り、歌っている若者と、自分は会わなければならない。
 躊躇いも煩悶も、この歌を耳にした瞬間、ニコラウスの胸中からは消え失せていた。