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<東京怪談ノベル(シングル)>


砂の心の戦巫女


 授業が終わったところで、男女数名の生徒たちに声をかけられた。
「やっほー、カスミ先生。赤ちゃん元気?」
「…………赤ちゃん……って?」
 表情筋がバキバキと音を立てて引きつるのを、響カスミは止められなかった。
「とぼけなくたっていいじゃんよ。大丈夫大丈夫、ちゃんとわかってるからさぁ」
 女子生徒の1人が、ぽんとカスミの肩を叩く。
「結婚してないけど子供産まれるなんての今時、珍しくも何ともないから。うちの親もそうだしー」
「相手の男は誰? なぁんて野暮な事も訊いたりしないから安心してねカスミちゃん。いやホントはめっちゃ知りたいんだけどぉ」
「つーかよォ、カスミ先生孕まして逃げた男ってどこのどいつよ? 俺がブッ殺してやんからよぉお」
「ちちちちょっと待って、待ちなさい」
 教え子たちの言葉を押しとどめるように、カスミは片手を上げた。
「赤ちゃんとか、結婚してないのに子供産んだとか……何、そういう話になっちゃってるわけ?」
「カスミ先生、育休取ってたんでしょ?」
 女子生徒の1人が、決して嘘ではない事を言った。
「あたし見たもの。カスミ先生、駅前のお薬屋さんで紙おむつとか粉ミルクとか買ってた」
「ね、ね、育児ってやっぱり大変? うちのお母さんが言ってたんだけどぉ。無理せずにちゃんと育休取るカスミ先生は、働く女の鑑だって」
「で男の子? 女の子? 名前もう付けた? 俺みたいなDQNネームは駄目っすよ。マジで親ぶっ殺したくなンから」
「そ、それは……」
 本当の事を、ある程度は話すべきなのだろうか、とカスミは思った。
 若い娘を1人、居候させている。別に悪い事をしているわけではないのだ。これが男であれば大問題なのだが。


 親戚の赤ん坊を預かっていた、とカスミは言い張り、どうにか逃げ出した。
「なんて言ったところで……信じてないわよねえ、あの子たち」
 溜め息をつきながら職員室へと向かうカスミに、1人の女子生徒が声をかけてくる。
「あの、響先生……お時間、ちょっといいですか?」
「びっくりした……ええと、なあに?」
 カスミは、とりあえず微笑んだ。
 大人しめな印象の、女子生徒である。顔も名前も、カスミは知らない。生徒全員の名前など、さすがに覚えきれない。
 名前も知らない生徒が時折、こうして相談事を持ちかけてきてくれる。教師としては、やり甲斐を感じるべきところであろう。
「響先生……育休、取っていらっしゃいましたよね」
「……いや、まあ……確かに育休……なんだけど……」
「実は私、女性が働きやすい社会について調べていまして……そういう事に少しでも関われる職業に、就きたいと思っているんです」
「そ、それは随分と……大変な進路を選んだわねえ」
「経験者の方の、お話を聞けたらと思いまして……」
「私の話なんかで、良かったら」
 今回は、教え子たちにも、同僚や先輩の教員たちにも、大いに助けられた。
 女性がつつがなく育児休暇を取得するためには、職場の仲間たちの協力が必要不可欠である。
 それは何としても話しておかなければならない、とカスミは思った。


「ミラール・ドラゴン!」
 鏡幻龍に呼びかけるのも、随分と久し振りであるという気がする。
 イアル・ミラールの、左腕に楯が、右手に長剣が生じていた。
 奇怪な姿をした魔物たちが、あらゆる方向からイアルを襲う。
 全身に原色のキノコを生やしたかのような、醜悪な人型。その顔面からは、鼻か口か判然としない器官がニョロリと伸び、イアルの身体のあちこちを狙って嫌らしく蠢いている。
 深く柔らかな、胸の谷間に。格好良く引き締まった脇腹と、瑞々しく膨らんだ尻に。むっちりと躍動感を詰め込んだ太股に。魔物たちの嫌らしい器官が、伸び迫って来る。
 その全てを、イアルは楯で弾き返し、長剣で切り落とした。
 鏡幻龍の剣。その斬撃を受けた魔物たちが、断面に虹色の光を流し込まれ、硬直する。
 硬直した魔物たちの身体が、砕け散った。まるで鏡を叩き割ったかのようにだ。
「思った通り……鏡幻龍の力を取り戻した貴女は、手に負えないわね。イアル・ミラール」
 呆れたように、感心したように、魔女が言う。
 名乗られたわけではないが、魔女である事は間違いない。
 神聖都学園の制服に身を包んだ、大人しめな女子高生の姿をしている。が、その匂い立つような邪悪な魔力は、制服などで隠し通せるものではない。
「魔女結社の、残党が……こんな所に、隠れ家を作っていたなんてね」
 虹色に輝く剣を、イアルは魔女に向けた。
 神聖都学園、部室棟の地下である。
「まったく、ゴキブリと同じような連中。根絶するのは難しくても1匹1匹、地道に叩き潰すしかない……覚悟して、もらうわよ」
「魔女結社、ね……潰れてくれて、かえって良かったと私は思っているのよ。お局様みたいな先輩もいなくなって私、好きなように出来るから」
 言いつつ魔女が、傍に立っているものを軽く撫でる。
 氷像、に見えた。
 氷で出来た、女人像か。あるいは……生身の女人を、凍らせたものか。
「カスミ……」
 イアルは呻いた。
 魔女を斬殺すべく踏み込もうとする、その足が止まった。
「響先生はね、とってもためになるお話をして下さったわ。育児と仕事の両立には、職場にいる人たちの協力が必要不可欠……要するに、いざという時に協力してもらえるだけの貢献を普段、職場でしているかどうかという事なのよね」
 大人しめな少女、に見える魔女が、禍々しく微笑する。
「つまり、普段から仕事が出来なければ駄目という事。それは、普通の人も私たち魔女も同じ……ためになるお話の、お礼にね。響先生には、ちょっと液体窒素のプールに入っていただいたの」
 何かが、天井から降りて来た。
 それをイアルは、かわす事が出来なかった。
 凍りついたカスミに向かって、魔女が片手をかざしているからだ。
 たおやかな五指と掌が、光を発し、くすぶらせている。攻撃魔法の光だった。
「動かないでねイアル・ミラール。私が少し、念を込めただけで、響先生は砕け散ってしまうのよ。私も出来れば、そんな事はしたくないから」
 魔女のそんな言葉を聞きながらイアルは、天井から降りて来たものに閉じ込められていた。
 透明な、円筒形のカプセルである。
 間髪入れず、何やらドロリとしたものがカプセル内に流し込まれて来た。
 凄まじいコールタール臭が、イアルの息を詰まらせる。
「御覧なさいイアル・ミラール……これは、貴女のせいよ」
 カプセルの外で、魔女が何かを言っている。
「貴女が、鏡幻龍の力を持っているせいで……私は、こんな事をしなければならない……」
 魔女の掌から、攻撃魔法の光が迸る。
 氷像が、砕け散った。
(カスミ……!)
 その思考を最後に、イアルの心も砕け散っていた。


 魔女結社の所有物である、某美術館。
 その庭園に、おかしなブロンズ像が展示されている。
 台座の上で、まるで絶望に打ちのめされたかの如く座り込んだ女人像。
 傍に、1人の少女が佇んでいた。
 神聖都学園の制服を身にまとう、大人しめの美少女。
「……何故?」
 物言わぬブロンズ像に、彼女は語りかけていた。
「どうして鏡幻龍は……貴女の中から、出て来てくれないの? イアル・ミラール……こんなにも、貴女の心を壊したと言うのに……」
 語りかけながら、少女は涙を流している。
「もっと、貴女の心を……壊して、すり潰して、砂のように粉々にしてしまわなければ駄目? 貴女の心を、砂漠にしなければ……鏡幻龍を追い出して、私のものにする事が出来ないのね……」
 少女は、涙を拭った。
 イアルの心を、砂漠に変えてしまう手段。1つだけある。
「……響先生のお話をしましょう、イアル」
 泣きながら、少女は微笑んだ。
「響先生、貴女のために粉ミルクやら紙おむつやら買い込んでいたわね……イアル・ミラール、貴女という人は……赤ちゃんになって、響先生に可愛がられていたの? うらやましいわ……このまま、打ち砕いてあげたいくらいに……ッッ!」
 自分の心の方が、砕け潰れて砂になってしまいそうだ、と少女は思った。
 否。魔女の心など、すでに砂漠である。