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<東京怪談ノベル(シングル)>


支配の石像


 ある時、イアル・ミラールは獣だった。入浴という習慣を持たぬ、野生の肉食獣。身体は汚れ、悪臭を発した。
 ある時、イアル・ミラールはブロンズ像だった。毒々しいコールタール臭にまみれ、身悶えしながら動けなくなったものだ。
 ある時、イアル・ミラールは氷像だった。臭いなど発する事も感じる事もなく、ただ時だけを重ねた。
 苔の臭いが、様々な記憶を呼び覚ます。頭の中にはとどめておけぬ、だが肉体には拭いようもなく刻み込まれた記憶。
 今のイアルは、石像である。苔むした、石の女人像。
 動けぬ身体の中で、呼び起こされた様々な記憶が渦を巻く。
(やめて……!)
 イアルは叫ぼうとした。だが、唇も舌も声帯も石に変わっている。
 封じられた悲鳴が、暴れている。そんな感じに、イアルの石像化した全身がガタゴトと震えた。
「そう……怖いのね、悲しいのね」
 巫浄霧絵が、泣きながら笑っている。
「貴女を、怖がらせる。悲しませる……それが、こんなに愉しいのは何故かしら」
 優美な五指が、続いて唇が、イアルの石化した肌に触れてくる。
「そう、今……気が付いたわイアル・ミラール。貴女って、生身の時よりも……こうして石になっている時の方が、ずっと素敵」
 美しい唇が、言葉に合わせて蠢きながら、イアルの全身を這い回った。
 石化した身体のあちこちに、腐敗した衣服の如く貼りついた苔を、霧絵が唇で拭い剥がす。
 彼女は今、自分を愛でてくれている。それが、イアルにはわかった。
 人ではなく、物として、自分は今、愛でられている。
(わっ……私は……物……じゃあない……ッッ!)
「物になる悦びを、私が教えてあげる……」
 イアルの周囲で、空気が歪んだ。
 様々なポスターが貼られた、巫浄霧絵のプライベートルーム。その室内風景が、あちこちで歪んだ。
 それら歪みが、いくつもの人面を形作る。
 醜悪な人面の群れが、イアルに向かって舌を伸ばす。そして、石の女人像を舐め回す。
(ミラール・ドラゴン……!)
 イアルは呼びかけた。が、鏡幻龍は応えてくれない。
「あら、誰に助けを求めているの? ちなみに鏡幻龍なら、この中よ」
 霧絵がそんな事を言いながら化粧ポーチを開き、コンパクトミラーを取り出した。
 ポーチもミラーも、お揃いの柄である。スカイフィッシュや空飛ぶ円盤、グレイエイリアンや水晶ドクロが、アルファベット文字「S」「H」「I」「Z」「U」「K」と一緒くたに散りばめられた柄。
 そのコンパクトミラーを、霧絵が開いた。
 虹色の光の塊が、映っている、と言うより鏡に閉じ込められている。
「このお化粧セットもね、限定品なのよ? 手に入れるの大変だったんだから」
 霧絵が言う。だが、そんな事はどうでも良かった。
 魔女結社でさえ、イアルから奪う事が出来なかった鏡幻龍。
 それが、あっさりと抜き取られ、魔法の品でも何でもない鏡の中に封じ込められてしまった。
(これが……虚無の境界、盟主の力……)
 呆然と心の中で呟くしかないイアルに、空間の歪みで出来た人面たちが群がる。
 霊体の舌が、石化した胸の膨らみに貼り付き、しなやかな石のボディラインを舐めなぞり、固い石像の柔らかな尻の丸みを味見する。
 霧絵の美しい指先が、綺麗な唇が、それらに混ざって愛撫を仕掛けてくる。
 嫌悪感と紙一重の、おぞましい快感が、石の肌から這入り込んできてイアルの心を侵蝕した。
 歌が、聞こえる。イアルの好きな歌だ。
 誰もいない廃墟の街で、最初で最後のデートをしよう……
 CDが、先程から掛けっぱなしになっているのだ。
 陽気な、それでいて哀切さを孕んだ歌声を、イアルはぼんやりと聴いていた。
 心が、蕩けかかっている。
(私は……物……じゃあない……っ)
 蕩けた心の中で、イアルは叫び続けた。
(私は……物……)
「……貴女は……危険ね、イアル・ミラール……」
 霧絵が呻いた。
「貴女は、最高の物として……他人の支配欲を満たす……誰もかれもが、だけど支配欲を満たされながら、その実……いつの間にか貴女に、支配されてしまう……美しい、物である貴女に……ふふっ、猫を飼う人間のようなものね。愛玩物として所有しながら……最終的には、支配されてしまう……」
 巫浄霧絵が何を言っているのか、イアルにはもうわからない。
「裸足の王女は……その裸足の足元に、万人を跪かせる存在……この、私でさえも……」
 霧絵が、女人像の下半身にすがりつく。石の美脚に、唇や頬を寄せてくる。
 イアルは今、虚無の境界の盟主を拝跪させているのだ。
 無論、その自覚はない。今のイアルは、何かを自覚する事など出来はしない。
(…………わたし、は…………もの…………)
 その意識を最後に、イアルは思考能力を失った。
 単なる石像に、巫浄霧絵が跪きすがりついている。
 そんな有様の中で「終末の予定」は、いつまでも鳴り流れ続けた。