永き闇へ
●それは偶然か否か
鳥の声が聞こえる。
獲物を見つけた歓喜の声。
その姿を探して、レジーナ・フォースターは頭を巡らせた。
「鳥‥‥自由に羽ばたく鳥。私は、あなたが羨ましい‥‥」
大空を舞い、好きな所へ飛べる羽根があれば自分も、もしかすると。
そんな事を考えながら見上げた空に、影が過った。それが何か確かめたい気もしたが、いかんせん、今のレジーナにはその術がない。何故ならば、彼女は今、巨木の枝にぶら下がっている状態だからである。
山を一気に駆け降りたはいいが、どこをどうなったのか木に引っ掛かってしまったのだ。幸か不幸か、しっかりした枝だったが為、折れる事もなく、また自力で外す事も出来ずに、彼女は枝からぶら下がったままになっていた。
ジャパンの夏の風物詩、風鈴のように。
「‥‥レジーナ風鈴‥‥。それはそれでありかも」
ふむむと腕を組んで考え込んだレジーナに、不意に声が掛けられた。
「もしや、と思いましたが、やはりあなたでしたか」
息が止まる。
思考も止まる。
忘れるはずのない、その声。
一瞬の浮遊感の後、レジーナの足は大地を踏みしめていた。目の前に立つ青年が下ろしてくれたのだと、頭の隅で考える。けれど、信じられない思いの方が大きくて、レジーナはただただ彼を見つめるしか出来ない。
痛い程の沈黙を破ったのは、彼だった。
「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
何事もなかったかのような再会の挨拶に、レジーナの中の何かが切れる音が響く。
「なん‥‥で‥‥」
「‥‥レジーナさん?」
上等の服を一分の隙もなく、嫌味なく着こなした彼の襟元を掴み、縋りつくようにレジーナは叫んだ。
「こんなにあっさり出て来るなんて! どこにいても必ず見つけ出すという、私の固い決意がっ! 無駄にっ!」
「‥‥何だか理不尽な事で怒られている気がします」
絶対に離すものかと自分の襟元を握り締めた手を、彼はゆっくりと引き剥がした。力づくではない、優しい仕草で。
「どうせなら、裏切り者と罵って下さい。‥‥真実ですから」
「ヒュー‥‥ッ!」
握った手に恭しく唇をつけると、彼は静かに退いた。
「それでは、主に言い付けられた仕事がありますので。もう、木に引っ掛からないで下さいね。最初に見た時には、もずの餌かと思いましたよ」
伸ばした手は、寸でのところで届かなかった。
土を舞い上げながら姿を現したドラゴンが、彼の体を浚う。
「ヒューイット! あなたの主は、アイツなんかじゃない!」
飛翔するドラゴンの後を追って、レジーナも駆け出した。飛ぶドラゴンに追いつけるはずもなかったが、それでも追わずにはいられなかった。
「ヒュー!!」
届かぬと分かっていても、レジーナは声の限りに叫んだ。彼が振り返り、悲しげな微笑みを浮かべるのを見たと思う。幻でなければ。その笑みを追って足を踏み出す。
が。
踏み出した先に地面はなかった。
‥‥そして、振り出しに戻る。
●騎士の名誉
最近の若い者は体力がない。
そんな愚痴を胸の中で漏らして、ベアトリス・マッドロックは羊皮紙を広げた。
記録を調べる手伝いをさせたギルドの職員達は、何でも好きなものを食べていいというベアトリスの申し出を断り、ふらふらとよろめきながら帰宅した。たかだか数日、ギルドの仕事の後に記録を遡る為に徹夜した程度で情けない。
「まったく。‥‥まあ、お陰でトリスタンの坊主の足取りは分かったけど」
トリスタン・トリストラムが自分の紋章の由来を削除した時期に関わった依頼だけではなく、円卓の騎士として参加した公式の行事についても調べられていた事には感嘆したが、いかんせん、根性がない。
ぶつぶつ文句を並べながら文字を辿る。
「うーん、こうして見ると‥‥色々大変だったんだね、坊主‥‥」
依頼から戻ったその足で園遊会とか、連夜の舞踏会とか、お疲れ様過ぎる。
本人が、そのような場を好まないと知っているから、尚更目頭が熱くなってくる。
「まあ、円卓に名を連ねりゃ、そんな面倒もあるって事は承知していただろうけどね。それも、騎士の名誉ってやつなんだろうし」
騎士の名誉、とは何だろう。
ふと、思う。
自分は騎士ではないが、騎士の知り合いは多い。彼らの「騎士」としての生き方も知っているつもりだ。
「坊主が由来を消した理由は、人としちゃ尊敬できるけど、騎士としちゃ不名誉ってぇ事かねぇ」
生まれたばかりの我が子を手放すなど、ベアトリスには考えられない。
だからこそ、トリスタンの母親の決断には、そうせざるを得ない事情があったのではないかと思うのだが、もしかするとトリスタンはそう受け取らなかったのか。
「‥‥いや、坊主は」
高潔であるべき騎士の名誉を極めた彼が由来を消した理由は、母の行いを恥じたからだろうか。ベアトリスの知る彼は、名誉を重んじる騎士ならば拒絶しそうな依頼も受けている。‥‥花嫁に化けるとか。
「分からないねぇ」
トリスタンの紋章の写しを手に、ベアトリスは息を吐いた。
紋章は騎士を表す。その紋章に付けくわえられた一輪の白い花は、トリスタンの母への想いを託したものだろう。彼は、由来を消しても、花は消さなかった。
となると、由来を消さねばならなかった理由があるはずだ。
「本っ当に分からないよ、坊主。お前さんは、どうしておっ母さんとの縁を断ち切るような真似をしたんだい?」
心臓を奪われ、今、どこでどのような状態に置かれているのかも不明な彼に向かって、ベアトリスは独りごちた。もしかすると、禍を防ぐ為、もう二度と会えなくなるかもしれない彼に。
●焦りの中で
舞布がふわりと落ちる。
額に噴き出した汗を拭うと、テティニス・ネト・アメンは周囲を見回して安堵の息を吐いた。
舞っている間、スカアハは邪魔にならぬ所で彼女の舞いを見ていたようだ。共に行くと一方的に宣言はしたものの、彼女はあまり乗り気では無さそうだったので、実の所、少しばかり不安だった。
「待っていてくれたのね」
「置いていけば、追って来るつもりであろう? 危険な目に遭ったそなたを助けに行くと、余計な手間が掛るのでな」
なんのかんの言いつつも、テティを助けてくれるつもりなのだ。
笑ったテティを睥睨すると、スカアハは踵を返した。
「終わったのならば、行くぞ。こうしている間にも、地に毒がまわっておる」
「その毒の事なんだけど」
胸に浮かぶ幾つもの顔。
大切な妹、友人達、そして、今は行方知れずの騎士。冒険者として果たす務めは理解している。ただ1人を救う為に、世界を犠牲になど出来ない。けれど、そうすれば悲しい想いをする者達もいる。
ならば、どうすればいいのか。
テティ1人が抱え込むには大きすぎる荷だ。だからと言って、妹や友に知らせる事は出来ない。彼女達の絶望を、テティは見たくなかった。ただ1人、キャメロットでトリスタンの紋章と出自について調べているベアトリスには、事の次第を記した書簡を送ったが。
「今は、怖い場所に向かっているのよね?」
「‥‥何を今更」
素っ気なく答えたスカアハの横顔からは、何の表情も読み取る事は出来ない。
テティは意を決して口を開いた。
「お願い、があるの。クロウの心臓を封じていた器‥‥トリスタン卿の事は、しばらく誰にも言わないでくれる?」
心臓を取り戻す事が難しいと判断したら、スカアハはその器、つまりトリスタンの肉体を滅ぼすつもりだ。
恐らく、彼女は一片の躊躇いも見せずに、彼の体を消し去るだろう。小さな忘れ去られた神々の声を、愛おしそうに聞く彼女に、彼の為に嘆く声が届かないはずはないのに。彼女自身が傷つかないはずがないのに。
「私は、私達は、心臓を取り戻す為に最大の努力をする。それでも手が届かなかった時には、貴女の言う通りになるのかもしれない。でも、今は、誰にも告げないで。あの子達が悲しむだけだから。‥‥まだ、希望はあるのだから」
しばしの沈黙の後、スカアハは簡潔な答えを返した。
「是」と。
だが、その瞳に過る悲痛な色は、テティの中の不安を掻き立てる。
遠回りをしても、いつかその決断に辿り着くのではないか。こんな事をしても無駄なのではないか。
テティが感じている不安によく似た感情を、スカアハも抱いていると知って。
●吹き抜ける風
あー、うん、分かってた。
向かう先が、かつてのバンパイアの都、サウス丘陵だと知って気を引き締め直したエスリン・マッカレルとネフティス・ネト・アメンの行く手を阻んだのは、金色の髪をした小悪魔、イゾルデだった。
行き先が決まったと思っているのはエスリンとネティだけで、最初から分かっていたイゾルデの旅に対する姿勢が変わるはずもない。
興味をひかれるがままに、あっちへふらふら、こっちにふらふらと、先を急ぎたい2人の感情を逆撫でしまくってくれる。
「あ、あのね、イゾルデ」
「はい?」
言いにくそうに切り出したネティに、満面の笑顔が向けられる。無邪気な瞳に、ネティは途端に言葉に詰まった。
「ネティ、私が。‥‥姫、これ以上遅れては、お世話になる方に失礼です。そろそろ、その方の所へ伺いましょう」
「それは大丈夫ですわ。のんびりと旅を楽しんで来るようにと、出立前にお言葉を頂きましたもの」
「それでも!」
はあとエスリンは額を押さえる。
「いくら何でも遅れすぎです」
首を傾げたイゾルデの背を、何が何でも目的地に辿り着きたいエスリンとネティがぐいと押す。貴族の姫に対してそれはどうかと思うが、彼女自身が非常識の塊のようなものなので、礼儀とか遠慮とか、そういったものは全て頭から追いやった。
追いやるしかなかったのだ。
「でもでも、もうすぐ日が暮れますわよ?」
「だから、早く進みたかったのですっ」
何しろ、ここは既にバンパイアの(かつての)お膝元である。最近、この近辺に再びバンパイアの噂が広まっていると言ったのは、目の前の姫だ。出来れば今すぐにでも安全を確保出来る場所に放り込みたいぐらいだ。
なのに、当の本人は呑気なものである。
「知らないは無敵ね」
ぼそり呟いたネティに、エスリンはがくりと肩を落とした。まさに、その通りだ。道行く人々は噂のせいか、皆、早足である。のんびり散策でもしているかのように歩いているのは自分達ぐらいだ。
「はああ‥‥」
イゾルデの言うように、もうすぐ日が沈む。彼女に野宿をさせるわけにはいかない。どこかに宿を取った方が良さそうだ。長く息を吐き出して、エスリンが周囲を見回したその時、
「え? えぇ!? ミリィ!?」
ネティが素っ頓狂な声を上げた。
彼女の視線の先には、旅装の2人連れの姿がある。
「ネティ、知り合いか?」
「うん。ポーツマスのご領主様の所で。久しぶりね、ミリィ、サミュエル」
ミリィと呼ばれた少女は、目を丸くしてネティへと駆け寄った。
「うっそ! ネティ! ネティじゃないの!」
手を取り合って、きゃいきゃい興奮気味に再会を喜び合う少女達に、イゾルデもいたく興味を抱いたようである。てけてけと近付く彼女の気配に、ネティは息を呑み、振り返りざまに友人を庇うように前へ出た。
同時に、エスリンがイゾルデの両脇に腕を突っ込み、がしりと拘束する。
「あら? あらあら?」
「あらあら、ではありません。まったく、油断も隙もない」
ずるずると引き摺られて行く姫の姿と自分とを交互に見遣るミリィに、ネティは引き攣った笑みを浮かべてみせた。正座とやらをさせられて、こんこんと説教を食らうイゾルデの姿を友人の視線から隠しつつ、別の話を振る。
「と、ところで、どうしたの? ポーツマスの夜遊び女王が、こんな時間にこんな所にいるなんて」
「すかしたおバカのせいよ。無駄飯ばかり食ってないで、噂の真相でも調べて来いって。‥‥おのれ、安らかな夜を迎えられると思うなよ」
ちっと舌打ちしたミリィに、サミュエルが溜息をつく。
それだけで、事情は何となく察する事が出来た。
「あー、つまり、ミリィとサミュエルはエドガーさんに言われて、何かの調査に来たのね。差し支えなければ、噂の内容を聞いていい?」
思いつく限りの報復計画を立てているミリィに代わり、答えたのはサミュエルだった。
「この先に、新しい村が出来たという話だ。村というよりは町、だな。大きさ的に」
「町?」
ああ、と男は頷いた。
自分達が歩いて来た道を指差して、彼は言葉を続ける。
「流れて来た連中が、荒れ地を切り開いて家を建てている。村や町を出る事は、そうそう許されてはいないわけだが‥‥まあ、あの規模になってしまっては、早いうちにポーツマスの保護下に置いた方がいいだろうな」
眉を寄せたネティに苦笑いを向けて、サミュエルは肩を竦めてみせた。
「難しい事は、上の奴らに任せていればいいという事だ」
「そういえば、ネティはどうしてここに? 依頼?」
ジャパンに伝わるストロードールの使用を思いついた所で、ミリィが思い出したように問うた。ちらりと窺い見れば、エスリンは延々と説教を続けている。説明すると長くなりそうなので、ネティは適当に誤魔化す事にした。
その方が平和だと思えたので。
「そ、そんなところかな。この先まで、あの子を送っていくの」
「ふぅん。なら、帰りにポーツツマスに寄ってよ。辛気臭いのとか、すかしたのとか、いい加減見飽きたから。一緒にお酒飲も!」
勢いに押されて、ネティは頷いた。
彼女の酒に付き合わされたら、大変な目に遭うのは分かっていたが、たまには構わないだろう。戻る頃には、何らかの情報も得られているだろうし、エスリンも少しは息抜きが必要だし。
「だが」
盛り上がる女子とは逆に、サミュエルは深刻そうな顔で考え込む。
「この先に行くならば、気を付けた方がいい。色々、良くない噂がある」
「それは‥‥私も聞いているわ。でも大丈夫よ。私だって冒険者だもの」
ほら、とネティは懐から手鏡を出してみせた。
「近づいて来る人は、これで確認するから」
「確認出来る所まで近づかれたのでは遅い」
顰めっ面になったサミュエルに、ミリィと顔を見合わせて笑えば、張りつめていた心が何だか軽くなるようだ。
「でも、本当に気を付けてよ。今日は、もう宿を取った方がいいわよ。少し先に行った所にある宿が一番近いかしら。次の宿は、確か結構離れていたわよね?」
ミリィが視線を向ければ、サミュエルが肯定を返す。
「そうなんだ‥‥。うん、今日の宿はそこにしましょ、エスリン」
「ああ。その方がいいだろうな」
気苦労が多い旅の中、唯一、安らげるのが宿で過ごす一時だ。ただし、油断していると、ついうっかり部屋を間違えたイゾルデの抱き枕になるが。
「なら、そちらのお2人もご一緒しませんこと? 男の方はどうでもいいですが、そちらの方はわたくし好みで‥‥むがっ」
遠い目をするエスリンの陰から顔を出したイゾルデの提案に、慌ててネティが口を塞ぐ。
「あー、なんか面白そうなんだけど、ごめん。今日中に戻って報告しないと、またうるさいから」
誰が、とは言わない。
言葉の端々から察してくれという事だ。
無論、下手をすると有害指定になる危険物を抱えるエスリンとネティには、今回ばかりは願ったり叶ったりな話である。
ともあれ、色んな意味で気を抜けない道行きに訪れた友との一時は、初夏に吹きぬける風の如き清涼感を彼女達に残してくれたのだった。
それが一瞬の幻に過ぎないと分かってはいたけれども。
●其を告げし
「‥‥」
金色の妖精に導かれて太陽のような女を拾った。
いや、拾ったというのは語弊がある。
正確に言えば、拾い上げた? 下ろした?
適切な単語を探し、しばし考え込んだグラン・バクは、聞こえて来た音に無言で水の入った器を差し出した。
パンを喉に詰めた妖精が水を舐めるのを確認すると、グランは女の方を見る。
「‥‥」
そう言えば、まだ名前を聞いてなかった。
何と呼びかけるべきか、静かに悩むグランの視線に気づいたのか、女はパンの欠片を口に放り込んで向き直る。無造作ながらも、どことなく仕草に品があるような気がする。
気がする。いい言葉だ、うん。
「本当にありがとうございました。助けて貰った上に、食糧まで分けて頂いて」
「‥‥いや。次からは気をつ」
「ジャパンでは袖摺り合うも他生の縁と言いますし! よろしければ‥‥」
後に続いた女の言葉に、グランは絶句した。
ずっと無口だった彼が言葉に詰まっているなど気付きもしないで、女は嬉しそうに飛び回る妖精に手を差し伸べる。
「‥‥まぁ、いいか」
グランの脳裏に無邪気な声が蘇る。その真意は、グランには理解出来なかったけれど、それでも彼女の言う通りに「太陽」に出会った。
山の中、木の枝にぶら下がっているという、太陽のように苛烈な印象を持つ女に。
●糸の先
「ご苦労さま」
窓の外を眺めていた男が口を開いた。
「かつての主に牙を向けるのはどんな気分?」
「別に、何も」
おいで、と手招けば、銀の色を持つ青年が傍らで頭を垂れる。その頬に手を当てて引き寄せると、彼は触れ合いそうな距離で囁いた。
「‥‥抵抗しないの? 貞操の危機だよ?」
「よいご趣味で」
溜息をついた青年に、男は肩を揺らすと興味を失ったように突き離す。
「あちらは、どんな趣向で楽しませてくれるのかな。楽しみだね。‥‥もうすぐ、茶番の幕が上がるよ」
どこまでも広がる闇の中から聞こえて来る子猫の鳴き声に、男はにぃと口元を引き上げたのだった。
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