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■家計は燃えているか。■

草村悠太
【1219】【風野・時音】【時空跳躍者】
【データ修復中】
家計は燃えているか。

■あやかし荘、ご案内。

 東京都内、某所。
 長距離輸送のトラックやダンプが駆け抜けていく幹線道路をひょいとはずれ、ぼんやりした犬だったら迷子になりそうな、曲がりくねった通りをくねくねと抜けていく。
 正しい方向に歩けていれば、角を曲がるたびにコンクリートブロックの壁が生け垣に変わり、生け垣が油土塀に変わっていく。
 そして、車の騒音がのんきな鳥のさえずりやヒグラシの声や鈴虫の羽音に変わる頃、目の前にぽっかりと、嘘のように長い、時代がかった階段が現れるはずだ。
 丘の上に向かって、のんびりと昼寝をする大蛇のように緩くうねりながら登っていくその階段の先には、こんもりとした木々に埋まるようにして、今時珍しい傘付き電球をぶら下げた数棟の木造二階建てのアパートが建っている。
 無意味に広い敷地を囲う板塀にきられた門のわきには、丁寧な墨書で表札がかかっている。
 『あやかし荘』
 そしてそのさらに下には、少し日に焼けた半紙に、かわいらしい字でちょっとした自己主張が付け加えられていた。
 「空き室あります。 怪奇の類、応相談」


■三下氏、がけっぷち。

 三下氏は、あやかし荘の住人である。
 あやかし荘は、貸しアパート(長屋?)である。
 然るに、三下氏はあやかし荘の店子であると同時に、お客さんである。

 その、三下氏が。
 クビになりそうである。

「いつものことじゃん」
 大したことでもなさそうに、頭の後ろで手を組んだ柚葉が切り捨てる。
 が、いつもなら滂沱の涙を流しながら自室に駆け込むはずの三下は、今日に限っては虚脱したように首を横に振った。
「…どうしたんですか?
 まさか、今度は本当に?」
 さすがに心配になった恵美が、影になっている彼の顔をのぞき込むようにして尋ねた。
 ここは、あやかし荘一階の、管理人室。
 要は恵美の仕事部屋なのだが、小さなテレビが置かれていること、掃除が行き届いていること、座布団が人数分あること等々の理由で、何かと住人の集う場所だった。  
 今も、あやかし荘の住人全員が、思い思いの場所に座っている。
 いつものごとく、野戦病院にでも取材に行っていたかと思うほどボロボロになって帰ってきた三下は、恵美の笑顔に導かれるまま、この部屋に入ってきた。
 ちょうどみんなでお茶にしようと恵美が用意を始めたところだったらしい。
 そして、かいがいしく準備をする彼女をぼんやりと見つめたまま、三下がぼそりと口にしたのが、全ての発端だったのである。
 つまり、「僕、アトラス編集部を、クビになりそうです」と。
 恵美の問いに、三下が答えたところをまとめれば、要はこういうことだった。
 三下の勤務先である白王社アトラス編集部に、豊田君という、何とも有能なアルバイト君が入ってしまった。
 几帳面で良く気が利くうえに、大学で体育会に入っているとかで、体力もある。
 日本語はもちろん、英語も得意だ。
 オカルト好きで、目の前を人魂が通っていったら、出所を確かめようとついていくぐらいの胆力も備えている。
 漢字検定1級を持っていて、校正だってこなしてしまう。
 学校の単位は取り終わってしまったとかで、碇の電話一本ですぐに会社に顔を出す機動力も持っている。
「おまえとは正反対ぢゃな」
 柚葉に続き、嬉璃がまたしても容赦なくぶった切った。
 「1+1は2」というのと同じぐらい反論の余地がない一言に、がくりとうなだれる三下。
「僕は、あそこをクビになったら、次の職場なんて…」
 この不景気のさなか、貧乏神と疫病神の憑依量日本一の三下のような男がアトラス編集部を追い出されれば、就職口を見つけることはあまりにも困難だろう。
「え…?
 それはちょっと…困ります」
 恵美が口元に手を当てて、眉根を寄せた。
 自慢ではないが、あやかし荘の経理はかなり綱渡りだ。
 ということは、三下が収入を失う→あやかし荘にまともに金を納める住人が減る→ただでさえ苦しいあやかし荘の経理は、一気に転落する。
「なんやー。三下はん、けっこう大黒柱やったんやなー」
 目の前のテーブルを見る余裕もない三下のお茶請けまでちゃっかり手を伸ばしながら、天王寺がのんきな声をあげた。
 とたんに、みんなの視線が彼女に集中する。
「…なん?」
 手を止めて、皆を見回す天王寺。
「…綾さん、お家賃、三倍にしていいですか…?」
「えげつなっ!」
 恵美の言葉に、さすがに彼女も目をむいた。
「だいたい、なんで三倍やのん?
 三下はんの分としても、二倍やろ!」
「じゃあ、二倍でいいですから」
「あかんて!」
 思わず裏拳ツッコミが出た(寸止め)。
「ウチに頼るのは最終手段にしてや。
 ホンマに、恵美ちゃん、かわいい顔してどぎついこと言ったらあかんて」
「ケチくさい女ぢゃの」
 テレビの前に陣取って、悠々とお茶をすすっていた嬉璃が、ぼつりと一言。
 それから、
「まあ、確かに三下がこのまま無職になるのでは、日がな一日家の中にいられて、邪魔くさくてかなわん」
そう言って立ち上がった。
「幸せは〜歩いてこない♪」
 それにあわせるように、歌姫の歌声が響く。
 嬉璃はうなずいた。
「要は、そのバイト君とやらが何とかなればよいのぢゃろ?
 あやかし荘のためだと思って、一肌脱ごうではないか」


■時音、事態を大きくす。

 威圧的な体格のメイドがあやかし荘に闖入した、その前後。
 まだ何も知らぬ風野・時音は、歌姫の部屋でお茶を飲んでいた。
「そうか…三下さんが、またクビに…」
 気遣わしげにそう言って、少し視線を落とす時音。その様子に、歌姫が小さくうなずいた。
「僕で力になれることがあればいいんだけど」
 大切な人たちのささやかな幸せを守りたい。それだけを胸に自らを鍛え上げてきた青年が、困ったように笑う。
 さすがに、「三下さんのライバル」であるというだけで、豊田君とやらを原子崩壊させてしまうわけにはいかない。
 歌姫は口元にほんの少しほほえみを浮かべて、時音の腕にそっと手を重ねた――――気にしなくていいのよ、と言うように。
「…嬉璃さん達が、いい手を考えてくれるのを期待しよう」
 彼女のまなざしに答えるように、時音がそう言ったとき。
 がらりとふすまが開け放たれた。
 驚いて振り向く二人。
 その向こうには、嬉璃――――のような、子供が立っている。
 体操着とブルマに身を包み、仏頂面を浮かべて。運動会を途中で抜け出してきたかのようだ。
「あ…え…?
 えっと、嬉璃さん…?」
 尋ねる時音の声に、自信はない。
 嬉璃っぽい子供は、フンといらだたしげに鼻を鳴らすと、
「時音、歌姫を連れて逃げた方がいいぞ。
 ヤツに捕まると、歌姫がスクール水着にさせられる」
 その声としゃべり方は、確かに嬉璃のもの。だが、言っている内容が少しも分からない。
「え…? スクール水着?」
「萌えるんだそうだ」
「…燃える? 水着なのに?」
「水着だから、ぢゃろ」
「…で、ヤツって」
「儂も知らん。どこかで見たことはある気がするんぢゃが。
 モビル○ーツみたいなメイドぢゃから、すぐ分かる」
「そんなメイドさん、どこかで見たことがあるんですか?」
 かみ合わない会話に、嬉璃がいらだった声をあげた。
「儂にだって何のことか分からん!
 見てみろ、この格好。ヤツめのせいで、腕や足がすーすーしてかなわん!」
「…いや、かわいいですよ、その格好」
 とりあえず褒めろ。女性のファッション全般に使える真理のはずだったが、嬉璃は物騒な目を向けてきただけだった。
「あいにくと、今はそんなことを言っている場合ではない。
 いいか、時音。ヤツは服装を自在に操る。歌姫のスクール水着を公衆の面前にさらしたくないのなら、連れて逃げろ。
 ちなみに、正面からまともに出て行こうとするなよ。ヤツめ、どうあってもここの住人を全員萌えさせるまでは一人も逃がさんつもりらしい」
 言い捨てて、またふすまをぴしゃりと閉めてしまう。
 残された二人は、顔を見合わせてから、どちらからともなく立ち上がった。
 時音は携帯電話を取り出し、恵美の番号をダイヤルする。
「恵美さん、時音です。
 落ち着いて聞いてください。
 今あやかし荘にお邪魔してるんですけど、可燃物で武装した何者かが、ここを占拠してるみたいなんです。
 嬉璃さんが言うには、外部装甲を自在に変化させる汎用人型戦闘機みたいなメイドさんらしくて…」

 十数分後。
 普段静かな『あやかし荘』の周りへ、回転灯も鮮やかにパトカーが群をなして集まってきた。


■事態、迷走す。

「時音…」
 嬉璃は怨嗟のこもった声で呟いた。
 閃く回転灯の赤い光。硬い革靴がアスファルトを叩く音。音の悪いハンドマイクから、説得とおぼしきがなり声も聞こえてくる。
「逃げろ、と言うたのに、騒ぎを大きくしてどうするのぢゃ…」
 一通り部屋を見て回り、いぎたなく眠りこけていた天王寺と、時音とくつろいでいた歌姫に事態を告げ、まだひっくり返ったままだった柚葉を引きずって、取り敢えず管理人室に戻ってきたのがついさっきのこと。
 海塚は、次なる獲物を探して『あやかし荘』の中をうろつき回っているらしく、取り敢えず目に入る範囲内にはいなかった。
 不幸中の幸いというのだろうか。これ以上あれを見ているのは、精神衛生上はなはだよろしくない。
 ほっと一息つき、どうやって元の姿に戻ろうか、思案を始めた。
 そのとたんに、またこの騒ぎだ。
「立て籠もり犯に告ぐー! 人質を解放しなさーい! 人質が無事なら、君の要求にも応じようじゃないかー!」
 門の方から、警察がハンドマイクで呼びかけている。
 反応などあるものか、と思っていたところへ、
「ふっはははは!」
二階から、あの笑い声が聞こえてきた。

 海塚は絶好調だった。
「ふっはははは!
 愚かしい! 愚かしいぞ貴様らー!」
 二階の窓から身を乗り出して、群をなす警察車両の方を指さす。
 どよどよと、紺色の制服軍団に動揺が広がるのが分かった。
「我が輩を打倒したければ、前人未踏空前絶後、全世界がひれ伏すような都市破壊級の萌えを用意するがよい!」
「…スマン、もう一度言ってくれ」
 ハンドマイクを持ったごま塩男が困ったような声で言った。が、
「愚民相手に二度も理想を語る口は持ち合わせておらーん!」
海塚はそう言い捨てると、また『あやかし荘』の中に姿を消してしまう。
 周囲を取り囲んでいた警察官達が、困惑したように顔を見合わせた。
 そのまん中で、不安に曇った目で『あやかし荘』を見上げる二人。
 時音から連絡を受けた恵美と、恵美から連絡を受けて取材先から飛んできた三下だ。警察を呼んだのも、三下だった。
「待ってくれ、人質は無事なのかー!」
 我に返った説得役の刑事が、再びハンドマイクで呼びかける。
 今度は別の部屋の窓から、海塚が顔を出した。
 そして一言。
「二人、萌えさせてやったわー!」
「二人…」「燃やした…?」
 今度こそ、本物の動揺が警官達の間に走った。
「ふ・二人とは、誰と誰だー!」
 刑事の声も震えている。
「ちっちゃい子だ!」
「嬉璃…」
 海塚の言葉に、呟くようにその名を呼びながら、恵美は気を失ってしまった。
 あわてて抱き留める三下。
「心当たりがありますか?」
 そばについていてくれた婦警さんが、二人の顔をのぞき込むようにして問いかけてくる。
 三下は唇をかみしめながら、うなずくしかなかった。
「たぶん、嬉璃と柚葉の二人だと思います…」
 婦警さんは、励ますように三下の肩に手を置いてから、ハンドマイクを握っていた刑事の方を向く。
「間違いないようです…」
「…ぬぅう…腐れ外道がぁあ…」
 ごま塩頭の刑事が、額に青筋を浮かべた。
 ハンドマイクを再び『あやかし荘』に向ける。すでに引っ込んでしまった海塚に向け、怒号を放った。
「それ以上人質に指一本でも触れてみろ、貴様を簀巻きにして東京湾に沈めてやる!」
 そして、ハンドマイクを傍らの部下に放り投げると、
「ついて来い、突撃隊の組織だ!」
ドスのきいた声で命じた。


■時音、状況を確認す。

 携帯電話が鳴っている。
 三下は呆然とした頭で、通話ボタンを押した。耳に当てると、聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
「三下さん、時音です」
「時音さん! 今、どこです? 実は、『あやかし荘』が…」
 それ以上が言葉にならない。が、時音の声は意外に落ち着いていた。
「分かってます。僕も今、『あやかし荘』にいるんです。歌姫と、それに天王寺さんも一緒です」
「へ…? そうなんですか」
 我ながら間抜けな声が出た。
 しかし何にしても、時音が中にいるというのなら心強い。きっと残る二人を守ってくれるだろう。
「警察、呼んでくれたのは三下さんですか?」
「はい、管理人さんから事情を聞きまして、すぐに…」
「そうですか。占拠犯の様子はどうです?」
「…それが…」
 喉が詰まる。だが、今は少しでも正確な情報を伝えなければならない。
「…犯人は、嬉璃と柚葉を…」
「嬉璃さん、イメチェンしたんですか?」
「…なんですか?」
「体操着着てましたよ」
「…体操着?」
「はい。と、ブルマですね。スクール水着がどうとか言っていたんですけど、今度皆さんで運動会でもやるんですか?」
「…いえ、そんな話は聞いてませんけど…
 それより、時音さん、犯人ですが…」
「あ、そうそう犯人。
 人型戦闘機に乗ってますか?」
「…ええ?」
 どうにも話が見えない。
 混乱する三下の耳に、今度は別の携帯電話の呼び出し音が届いた。
 聞き覚えのあるこのメロディーは、恵美の携帯。
 気を失っている彼女に変わって、着信画面をチェックしてみる。
 『あやかし荘 : 黒電話』
 発信元名が表示されていた。管理人室の黒電話だ。
「時音さん、ちょっと待っててください!
 管理人室から電話が…」
 もしかしたら、犯人からかも知れない。
 三下は震える手で通話ボタンを押した。
 出てみて、本当に犯人からだったら、すぐに警察に変わってもらう――――心の中で三回そう唱えてから、
「も、もしもし」
電話に出た。
 聞こえてきたのは、時音よりも聞き覚えのある声だった。
「恵美か? 儂ぢゃ。
 まだ買い物の途中だったら、子供用の和服をひと揃い、買ってきてもらえんか?」
「…嬉璃…?」
「あ、なんぢゃ、なぜ恵美の携帯電話にかけて貴様が出るのぢゃ」
 えらく不服そうな声で、電話の向こうから嬉璃が文句を言ってきた。
「嬉璃…生きてたのか…?」
 思わず呟いた三下の言葉に、嬉璃がかみつく。
「儂はお前よりずっと昔から生きておる。
 もちろんお前が死んでからも生きておる。
 ちょうど良い、お前、恵美の代わりに和服を買ってこい!
 いつも儂が着ておるようなヤツぢゃぞ!」
「ええっ? そんなぁ…」
「うるさい、黙れ、早く行け。
 柚葉、お前も何かあるか?」
「…柚葉も無事なのか」
「じゃじゃーん! 柚葉ちゃんでーす!
 あのねぇ、ボクねぇ、今、花嫁さんなのだよー!」
 電話口に、嬉璃に変わって柚葉が出た。
 相変わらず、意味もなくテンションが高い。
「花嫁さんなのに指輪がないのでー、指輪買ってきてー♪
 ダイヤの!」
「ええぇ? …無理だよー」
「きゅ〜りょお〜の三ヶ月分ですっ♪
 よろしくねー!」
 一方的な言葉とともに、管理人室からの電話が切れる。
 仕方なく、恵美の携帯を彼女のバッグに戻し、
「もしもし…」
待たせていた時音の電話に出る。
「あ、終わりました? 犯人からでした?」
 律儀に切らないで待っていてくれた時音が問いかけてくる。
「いえ…嬉璃と柚葉でした」
「そうですか。
 じゃ、犯人はまだ『あやかし荘』のどこかを徘徊してるってことですね」
「みたいですね…人質を取ってるって訳でもなさそうだし…」
「てことは、皆さんを『あやかし荘』から避難させたら、犯人と対決するのもアリってことですね」
「…直接見ると、目がつぶれますよ、たぶん」
 先ほど目の当たりにしたものを思い出し、心から忠告する三下。
 そのとき、『あやかし荘』入り口の近くで、鬨の声が上がった。
 あわててそちらに目を向ける。
 ごま塩頭にはちまきを巻いた刑事を先頭に、大盾と警棒で武装した警官達が突入体勢に入っていた。
「希望に満ちた児童の未来を無碍に奪いおって、貴様のようなヤツをこそ「国賊」と呼ぶ!
 今さら命乞いなぞ聞かんぞ、突撃ー!」
 号令一下、警官隊の突入が始まった。
「何事です?」
 時音のいる部屋にもその声は聞こえているようで、電話越しに尋ねてきた。
「警官隊の突入です。
 時音さん、隠れていた方が…」
「チャンスじゃありませんか。犯人は警官の相手で忙しいでしょう。
 三下さん、『あやかし荘』の裏に来れますか?」
「え? …はい、まあ」
「じゃ、はしごを持ってきてください。
 二階の屋根裏から、『あやかし荘』の裏庭に皆さんを脱出させます」
 時音の声は明るかった。
「取り敢えず、歌姫と天王寺さんを。
 あとの二人は、居場所は分かってるんですから、すぐに僕が助けに行きますよ」
「すみません」
「なに言ってるんですか」
 時音が笑う。
「大切な人を守るのに、謝ったり謝られたりは必要ありませんよ」
 そう言って、電話を切った。


■時音、決意す。

 三下に『あやかし荘』の裏に来てくれるように告げて、ひとまず電話を切ったとき。
 時音と歌姫と天王寺の三人は二階の一番奥まった部屋にいた。
「もう大丈夫です。すぐに脱出できますよ」
 時音がそう言って残る二人に微笑みかける。
「そら何よりや。きっと似合うやろうとは思っても、訳の分からん相手に制服姿にされたくはないからなぁ」
 天王寺はほっと息をつき、歌姫が優しく目を細めた。
 時音は『光刃』を作り出し、天井に人が一人通れるぐらいの穴を開ける。
「あとで恵美さんに謝らなきゃいけませんね」
「ウチも一緒に謝ったるさかい。緊急避難っちゅーやつや」
「外壁にも穴を開けなきゃいけませんからね。
 その分も一緒にお願いしますよ」
「う…しゃーないなぁ」
 天王寺は苦笑いでうなずいた。
「じゃ、急ぎましょう」
 時音は肩車の要領で、天王寺を天井の穴から屋根裏へよじ登らせる。
 続いて歌姫を。
 二人を天井裏に押し上げたところで、集団が階段を駆け上ってくる騒々しい足音が聞こえてきた。
 素早く部屋の入り口へ引き返して、聞き耳を立てる。
 かなりの数の集団が入り乱れて格闘しているようだ。
 戦闘そのものは、この部屋から少し離れた場所で行われているらしい。
 扉越しの音だけで瞬時にそこまで判断した時音は、そっと戸を開け、隙間から外をうかがった。
 メイド服の巨漢と、銃器以外で完全武装した警官隊が激突している。
 異様な光景で、しかも卑怯なまでに多勢に無勢だ。
 しかし。
 趨勢は無惨なほどにメイド優位だった。
「その4、『あぅあぅ、ごめんなさいぃ』」
 階段の上に立っていた巨躯のメイドが、やおらぺたんとしゃがみ込んで頭を抱える。
 その瞬間、岩の固まりのように頑強なその身体から、人の目には映らない強烈な黒い波動がほとばしった。
 離れた距離で、後ろから見ていただけの退魔剣士 時音をしてすら、弾かれたようにしりもちをつく。
 ましてや至近距離でそれを食った生身の警官達は、魂を抜かれたようにばたばたと倒れ伏していった。
「どないしたんや、時音」
 部屋の奥で、天井に開けた穴から顔を出したまま、天王寺が声をかけてくる。
 まずい、と、時音の背中を冷や汗が伝った。
 あの調子では、すぐに警官隊は全滅するだろう。そのあとで、あの黒いメイド服男がこの部屋を調べれば、住人の誰かが外に脱出したことは一目瞭然だ。
 「どうあっても、住人全員を萌えさせるまで一人も逃がさんつもりらしい」
 嬉璃の言葉がよみがえる。
「時音ー?」
 もう一度、天王寺が呼びかけてくる。
 時音は静かに扉を閉めると、風のように穴の下までとって返した。
「歌姫、天王寺さん。
 予定変更です。とにかくすぐに壁に穴を開けますので、二人はそこから脱出してください」
「なんや、時音も一回脱出して、状況確かめるんやないのか?」
「あれを野放しにはできません。
 なにが目的であれ、この部屋の天井に開いた穴に気づく前に、なんとかしなくては」
 言うが早いか、身軽に穴の中に上半身を飛び込ませると、手近な外壁に『光刃』で空間をうがった。
「さあ」
 半分あっけにとられて時音を見つめる二人を、穴にぶら下がったまま促す。
 歌姫が時音の肩に手を重ねた。
 その表情が、不安に曇っている。
 時音は微笑んでみせた。
「大丈夫。僕は二度としくじらない」
 外壁に開けられた穴の向こうに、はしごがかけられる。
「時音さーん、歌姫さーん、天王寺さーん」
 はしごをよじ登って、三下が顔を出した。
「さあ」
 時音はもう一度二人を促すと、天井の穴から身体を引き抜き、再び『あやかし荘』の二階に降り立った。


■三下、参戦。

「さぁ、天王寺さん、歌姫さん」
 三下は二人がはしごを下りるのに手を貸し、裏庭に降り立った。
「塀の外に、警官隊がいます。
 ほとんどが突入してしまったんで、あんまり残ってないんですけど、ここよりは安全なはずです」
 言いながら、いそいそとはしごを外す。
 その手を、天王寺はガッシとばかりにつかんだ。
「待ちぃ」
「え…? なんですか?」
「あのな、中に時音が残っとんのや」
「知ってます。時音さんは嬉璃と柚葉を助けに…」
「それが分かっとるんなら、なんでハシゴ外すねん」
「…え…?」
 困惑した表情で天王寺を見る三下。
 天王寺はその様子にもどかしげに頭をかくと、
「分からん男やなぁ!
 占拠されたアパート。訳の分からん大男の犯人。囚われた二人の少女に、それを助けに単身潜入する色男」
「…はぁ…」
「スクープやがな、ス・ク・ー・プ・!」
 天王寺はピンとこない三下を怒鳴りつけ、脱出してきた壁の穴を指さした。
「あんた、追いい。記事にまとめ。
 そしたらそれを碇編集長に提出や。
 なんぼあんたの記事がヘタッピでも、これだけのネタや。バイト君の存在感なんか吹っ飛ぶで」
「ええ!?…僕がですかぁ…?」
「あんたに話してるんや、あんたしかおらんやろ!」
 煮え切らない三下に、指を突きつける天王寺。その後ろで、歌姫もうんうんとうなずいていた。
「だって、うちの雑誌、オカルト誌ですよぉ…事件ものは、新聞社じゃないから…」
「あのな、三下はん」
 不意に、天王寺がにっこり微笑みながら諭すような口調で言った。
「そんな難しい問題とちゃうねん。
 ここで男を見せて、とにもかくにもネタを持って帰るか。
 意気地なしのまんまで職も住むところも失うか。
 そのどっちかや」
 簡単やろ?と、首をかしげる。
 歌姫は無言のまま、はしごを元の位置に戻すと、どうぞというようにそろえた指先で壁の穴を示して見せた。
 三下に、選択の余地はなかった。


■真相、判明す。

 時音は戸の前にしゃがみ込み、階段付近で繰り広げられている一方的な戦いが収まるのを待っていた。
 何はともあれ、この部屋から注意を逸らさなくてはいけない。
 姿を目撃されるぎりぎりぐらいのタイミングを見て部屋から飛び出し、別の部屋の床に穴を開けて、そこから一階に下りる。二階からも相手を引き離して、少しでも二人が脱出した部屋から距離を置かせる。
 嬉璃と柚葉の二人は、時音が相手を引きつけている間に、何とか自力で管理人室から外に逃げてもらう。
 もともと管理人室はあやかし荘の中でも一番門に近い位置にあるから、うまく相手を引きつけられさえすれば何とかなるはずだ。
 そのあと、どこであのメイド服の男と戦うかは――――状況次第だ。
 頭の中でざっとそれだけ組み立てて、再び外の状況に意識を集中させる。
 と、
「痛っ!」
どすんという鈍い音ともに、天井の穴から誰か落ちてきた。
 振り向けば、
「三下さん!」
何ともドジな格好で、三下が畳の上にしりもちをついていた。
「どうしたんです? 今の『あやかし荘』は危険ですよ。
 みんなと一緒に外で…」
 とりあえず歩み寄って助け起こしながら、そう言う時音。
 だが、三下は首を横に振ると、スーツの内ポケットからノートとペンを、ズボンのポケットからカメラ付き携帯を取り出して、答えた。
「取材ですから。行くも地獄、退くも地獄です」
 シャッターボタンを一押しすると、軽い電子音とともに携帯に時音の姿が取り込まれる。
「ダメでしょうか…?」
 それを時音に見せながら、問いかける。
 思いもかけず、自分が三下の力になれる機会が来たようだ。
 そう気づき、時音はふっと微笑むと、答えた。
「僕でお役に立つなら、喜んで」

 戸の向こう側が静かになってきた。
 タイミングを計っていた時音が、すぐ後ろについている三下に目で「準備をするように」と合図をする。
「今だっ!」
 時音の声とともに、二人は一気に戸を開け放ち、向かいの部屋に走った。
 階段を上がりつつあった犯人がこっちを見たのを、視界の隅にとらえる。
 三下が闇雲に携帯のシャッターを切っているのが電子音で分かった。映っているのかどうかは疑問だが、一枚でも撮れていれば特ダネだろう。
「見ィつけたぞぉぉ!」
 犯人――――海塚が突進してくる。
 すんでの所で戸を閉め、『光刃』で床をくりぬいた。
「早く!」
 まず三下が穴に飛び込み、続いて時音が。
 一階の空き部屋に降り立った時音は、素早く三下の手を引いて、廊下に飛び出した。
 『光刃』で穿った穴は、時音の肩幅ぎりぎりにしてある。
 あの体格では、抜けてくるまでに多少なりとも手間がかかるだろう。
 その間に、何とか管理人室の二人のところへたどり着かなくてはならない。
 時音と三下は、細い廊下を走った。
 階段ほどではないにしろ、ここにも昏倒した警官が何人も倒れていて、走りにくいことこの上ない。
 ようやく管理人室にたどり着いた二人は、飛び込むようにして扉を開けた。
 中にいたのは――――嬉璃と柚葉。
 もう少し正確に言うと、赤いブルマに体操着の嬉璃と、純白のウェディングドレスの柚葉。
 その二人が、のんびりとテレビを見ている。
 しかも、荒い息で駆け込んできた時音と三下を見るなり、
「時音。
 儂はただ「歌姫を連れて逃げろ」と言うたのに…どうしてこう騒ぎを大きくするのぢゃ?」
「あー、三下さん、早ーい!
 ボクの指輪、買ってきたー?」
それぞれが好き勝手なことを言ってくる。
 柚葉にまとわりつかれている三下をとりあえず保留して、時音は体操着の嬉璃に歩み寄った。
「嬉璃さん、早く逃げてください」
「逃げる? 何からぢゃ」
「何って…」
「あの無駄に大きいメイド服の男のことか?
 だったら、それはできんぞ。儂はあの男に、元の姿に戻してもらわんといかんのぢゃ」
「…え?
 じゃあその格好は、好きでしてたんじゃないんですか?」
 さすがに少し驚いて、時音は改めて嬉璃の姿をまじまじと見つめた。
「誰が好きこのんでこんな格好になるか。
 初めっから儂はそう説明しとるぢゃろが。服装を自在に操る萌えフェチのモビル○ーツのようなメイド男に気をつけろ、と」
「「もえって…その『萌え』?」」
 図らずも、時音と三下の声がハモった。
「それ以外の何がある。
 儂は体操着、柚葉はウェディングドレス、天王寺は高校の制服で歌姫がスクール水着、恵美がレースクイーンぢゃ」
「萌えって…萌え、萌えかぁ…」
「いやぁ…てっきり可燃物のことを言ってるんだと…」
 何となく恥ずかしくなって、それぞれにうつむく三下と時音。
 嬉璃はあきれたようなため息をつくと、
「やれやれ。要は貴様らの勘違いが、騒ぎを大きくしたんぢゃな。
 で、さっきからやけに二階が静かになっておるが、決着がついたのか?」
今さら驚くでもないと言わんばかりの口調で問いかけてきた。
 その言葉に、時音が首を横に振る。
「まだです。二階に突入した警官隊は、あいつの黒い波動で」
「萌える力」
 嬉璃が時音の言葉を遮った。
「…なんです?」
「萌える力、らしい。
 この『あやかし荘』は、萌えポテンシャルが高い、らしい。
 あいつは、そのポテンシャルを全て自分のものにすべく、住人達を『萌える』姿にしていっている、らしい」
「…そうなんですか?」
 聞き返す時音に、
「そんなこと、儂に聞くな。
 今の今まで『萌える力』なんぞ認識したことはなかったわい」
嬉璃は文句を言う。
「まあ、いいです。
 とにかくその『萌える力』とやらで、警官隊は全員昏倒してしまいました。
 嬉璃さん、あいつの目的はなんなんですか?
 実現可能なことならさっさと果たしてもらって、嬉璃さん達を元に戻してもらいましょう」
 正直言って、時音はあのメイド服と戦いたくはなかった。
 勝ち負けではなく、何か一生ぬぐえない心の傷を負いそうな予感がしていたのだ。
「ま、そう難しいことではないぢゃろ。
 三下、海塚要の仇敵、知っておるな」
「海塚要の?」
 急に話を振られて、三下がとまどったような声をあげる。
「儂もさっき思い出した。変な登場で気をそらされておったがの。
 モビル○ーツメイドは、海塚要ぢゃ。やつにはなんぞ仇敵がおったろ?」
「ああ…彼ですか」
 思い出すだけでも胃が痛むのか、三下の表情が曇った。
「知っておるな。
 そいつ、呼べ」
 あっさりと命じる嬉璃。
「…ものすごく、嫌なんですけど…」
 顔をしかめながら、抵抗を試みる三下。が、嬉璃はとりつく島もなく言い放った。
「仕方なかろ。あの海塚のやつは、その仇敵に勝ちたい一心で『あやかし荘』で萌える力を蓄えておるんぢゃから」
「実にはた迷惑な一本気ですね…」
「彼に会ったら、今度こそ僕は天に召されますよぉお…」
 心底哀れっぽく、三下。
 嬉璃はそんな彼をしばしの間じっと見つめていてから、
「ま、それも人生ぢゃ」
あえなく斬って捨てた。
「そんなぁああ……」
 三下が畳につっぷして泣き始める。
「ちょっと、待ってください」
 電話さえかけてしまえばこっちのものとでも言わんばかりに、泣き崩れる三下を無視して黒電話の受話器をあげようとした嬉璃を、時音が制した。
「要は、その敵に勝つためには、この『あやかし荘』で萌えていてもダメなんだと認識させられればいいんですよね」
「ま、そうぢゃの」
「だったら――――柚葉さん、変化の能力は消えてませんよね」
「うん、健在だよー!」
 柚葉は元気に片手をあげた。
「じゃあ、三下さんに特徴を聞いて、その人に化けてください」
「えー? でもボク、化けたって戦いなんかできないよー?」
「いいんです」
 時音はにっこりと微笑んだ。
「戦う必要はありません。
 僕が今から言うとおりのことを、言ってください」


■あやかし荘は萌えているか。

 海塚は、やっとの事で床の穴から身体を引き抜くことに成功した。
 ふわふわ広がるメイド服を破らないよう気を遣ったので、ずいぶん時間を食っている。
 海塚は喉の奥でうなると、逃げ去った二人を捜して再び徘徊を始めた。
 まだまだだ。このぐらいの萌える力では、負けはしないまでも、まだ苦戦は強いられてしまうだろう。
「もっと萌えを、我に萌えを」
 唱えるように呟きながら、一つ一つ部屋を探っていく。
 そして、残りの部屋数が五指にも満たなくなった、一室で。
 海塚は、部屋の中から自分を見据えている思いもよらない人物に出くわした。
「小僧」
 小癪な余裕をかいま見せながら、ポケットに両手を突っ込んで無造作に立っている少年。
 まさしく宿敵、海塚が今日ここにいる意味の全てだった。
「よもや、今ここで出会おうとはな…!」
 海塚の顔に、あの獰猛な笑みが宿った。
 逃げた二人など、もはやどうでもよい。
 雌雄は、今ここで決する。
 海塚が――――メイド服の巨漢が、身構えた。
 が、少年は「ふっ…」とあざけるように海塚から視線を外すと、
「情っけないなー☆ それでも萌えてるつもりかい?」
指を突きつけ、小馬鹿にした言葉を向ける。
 海塚の表情に、わずかな動揺が走った。が、
「フン…今の私を萌えていないと言うのは、炎が冷たいと言うのと同じこと。
 新開発の『萌えコンボの秘法』で萌え尽きるがいい」
嬉璃・柚葉を萌えさせ、警官隊を全滅させたことが自信につながっているのか、すぐにその動揺は余裕ある笑みの中に消え去っていく。
「萌えコンボ…ねぇ。
 何回コスチュームを変えさせたって、そんなモノは萌えてるうちに入らないよ☆」
「…何…?」
「キミにはやっぱり、萌えのなんたるかが全然☆分かってないみたいだね」
「何を言う。私は…」
「萌えていると思うかい?
 本☆当にさ」
「萌えている…萌えているとも」
 矢継ぎ早な揺さぶりに、次第に海塚の表情から余裕の色が消えていく。
「私は…萌えている」
 自らに言い聞かせるように呟く、海塚。
 そろそろかな。
 少年はそう判断すると、用意しておいた言葉を口にした。
「キミは萌えてなんかいないよ。
 人から教わった萌え方を、マネしてるだけじゃないか☆」
「違うぞ…私は…」
「小さい子萌え、体操着萌え、和服萌え、制服萌え、レースクイーン萌え…聞いたことあるのばっかりだねぇ☆」
 がくり、と、海塚が畳に膝をついた。激しい頭痛に耐えてでもいるかのように、片手で顔を覆う。
「キミは萌えてなんかいないんだ。
 萌えてないから、萌えたようなフリが必要なんだよ☆
 だからいろいろな子に、いろいろな格好をさせたがるのさ☆」
 追撃はゆるまない。海塚の岩盤のような背中が、小刻みに震えていた。
 海塚の中で、そうだったのかとその言葉を認める意識と、そんなことはないと拒む意識とがせめぎ合う。
 だが――――だが――――『萌え』とはなんだ?
 いろいろと珍しい格好をさせれば『萌え』なのか?
 それで――――この小僧に勝てるほどの力が我がモノになるのか?
 混沌とする海塚の意識を見抜いたかのように、相手は言葉を重ねた。
「キミと僕とじゃ、出発点が違うね、初心者君。
 キミの萌えは、ただの仮面さ☆ いくつでも作れるけど、すぐに壊れる。
 僕の萌えは、魂の力なんだよ☆」
 そしてうずくまる海塚へ無造作に近づき、むしろ哀れむように、肩を叩いた。
「一つの萌えすら極められない未熟者が僕に勝とうとは、片腹痛いね☆
 『あやかし荘』のみんなを元に戻したら、出直しといで」
 私は――――私は――――萌えては、いない。
 ついに、海塚は陥落した。
 「萌えている」と思い込むことで自らの裡に押し込めていた魔力が留め金を失い、奔流となって流れ出す。
 その流れは嬉璃に、柚葉に、そして警官隊に流れ込み、それぞれをもとある姿へと戻していった。
 その、奔流の中で。
「小僧…」
 ゆらりと、海塚は立ち上がった。
「今日のところは私の敗けだ。
 だが次こそは…」
 少年はその言葉を受けて、のんきに微笑んだ。
「いつでもおいでだけど、懲りないね☆」
「憂いは残さぬ。
 それが私の魔王学だ」
 そう言って、海塚が、あの肉食獣の笑みを浮かべる。
「好きにしてよ☆ 闘争はいつだって歓迎さ」
「ふっははは!
 まさしくまさしく。 それでこそ我が宿敵というものだ!」
 そして。
 海塚は高笑いとともに、姿を消した。

「…もういいかなー?」
 少年は、きょろきょろと辺りを見回してから、口を開いた。
 海塚が消えてから、すでに五分以上経過している。これで戻ってくるほど間の悪い相手ではないだろう。
「ええ。もういいと思いますよ」
 彼の言葉に応えながら、部屋の押入の中から、時音が姿を現した。その後から、三下もはい出してくる。
「うーん、さすがにちょっと緊張したー♪」
 言って、のびをするように両手を高くかざしながら、その場でくるりと一回転した。
 一瞬の後。
「ぷはー。やっぱり元通りが一番だねー♪」
 そこに立っていたのは少年ではなく、活動的なホットパンツからふさふさした黄金色のしっぽをのぞかせた、柚葉だった。
 時音が満足そうにうなずきながら、彼女の頭をなでる。
「うまくいきましたね。
 柚葉さん、長いセリフなのにスラスラ言えててすごかったですよ。アドリブも最高でした」
「えっへっへー♪
 演技は得意さ!」
 屈託なくVサインをする柚葉。
「これで、みんな元通りになったんでしょうか?」
 とりあえずいつもの格好に戻っている柚葉を見て、三下が呟くように尋ねた。
 うなずきを返しながら、
「なってると思いますよ。ほら、警官隊の人たちも目を覚ましたみたいです」
二階を指し示す、時音。
 確かに、どやどやという声が聞こえ始めている。
「しかし…すごいですねぇ、時音さん」
「何がですか?」
 自分の方に向き直った三下が、感心したような声でそう言ってきて、時音は軽く首をかしげた。
「さっきの柚葉のセリフですよ。
 よくあんなことが、一発で見抜けましたね」
「…ああ」
 時音は少し照れくさそうに笑った。
「あれは、見抜いたんじゃないんですよ。
 何かを追い求める人間が、常に陥りがちな罠を…今回のケースに、「萌え」っていう言葉に当てはめただけなんです」
「え…? そうだったんですか?」
 目を見開く三下に、頷きを返す。
「力を求めるのは、何かを守るため。何かを得るため。
 でも、何かを守りたいと思うあまり、力をつけることばかりに意識が行ってしまうと、いずれ力を得ることそのものが目的になってしまいます。
 それと…同じですよ」
 そう続ける時音の表情は、少し寂しげだった。
「時音さん…」
「言ってみれば、カマをかけたんです。うまくはまってくれて助かりました。
 それに、成功の原因は、なにより柚葉の演技力ですね。
 三下さん、いい記事を書いてくださいね」
 沈みかけた場の空気を打ち消すように、時音は一転、明るい声でそう結んだ。
「ボツはダメだよー!」
「それは、僕が決めることじゃないから…」
 いつものように三下に飛びついて、頭を叩く柚葉。困ったような顔で、苦笑いする三下。
 全てがいつも通りに戻った『あやかし荘』の一室に、
「終わったのか」
嬉璃が入ってきた。
 ――――体操着のままで。
「…あれ?」
 部屋の中の三人が、そろって首をかしげた。


■三下氏、土俵際で盛り返す。

 碇編集長が、原稿を読んでいる。
 三下は、できるだけそれを意識しないようにしようとしつつ…つい編集長の挙動に注意が行ってしまう。
 今編集長が読んでいるのは、昨夜三下が仕上げた原稿だった。
 『あやかし荘 萌え事件』――他に呼び方が思い浮かばない――についての、である。
 天王寺の言ではないが、三下はまさにこの原稿に進退をかけていた。
 ちらりと視線を編集部の奥に向けてみる。
 今日もバイトの豊田君は絶好調で仕事をしていた。一瞬でも席を空けたら、ちゃっかり座られていたっておかしくはない。
 三下は、今朝からトイレも我慢している状態だった。
 この状態を打破するには、豊田君の存在感を払拭するような特ダネをつかまなければならない。
 その「特ダネ」に、この事件をぶち当てた。携帯カメラから画像を吸い出して、写真もつけた。出来映えにはそれなりの自信がある。
 が、それが編集長にどう映っているのか――――三下が、ごくりと固いつばを飲んだとき。
「…三下君」
 編集長のハスキーボイスが、審決を告げる裁判長の木槌の音のように響き渡った。
「ははは、はヒっ!」
 裏返った声で返事をして、編集長のデスクに馳せ参じる。
 碇編集長は、直立不動で次の言葉を待つ三下を少しの間見上げていてから、
「…この、原稿だけど」
もったいぶった口調でそう言って、手にしていたプリントアウトをデスクに軽く放った。
 ――――ダメだったのか…
「悪くないわね」
 絶望しかけた三下の耳に、だが、意外にも優しい響きの碇編集長の声が届いた。
「あんまりウチの編集部向きの記事じゃないけど、まぁ、いいじゃない。
 ウチの会社の大衆週刊誌編集部に、貸しにしてやったっていいだろうし」
「あ…ありがとうございます!」
 思わず編集長の手を取って、振り回しそうになる。
「でもね」
 舞い上がった気分に一気に釘を刺す、編集長の一言。
「ちょっと気になるんだけど。
 なんで、嬉璃ちゃんだけ元に戻らなかったのかしら?」
「え…ですから、あの海塚という男は、自分は萌えているんだっていう思いこみで、魔力を大幅に増幅させていたと思われるんです。
 ですから、思いこみが解かれたとき、魔力も減衰して、嬉璃をのぞく全員が元に戻りました。
 でも嬉璃は戻らなかったわけで、ということはつまり、嬉璃に対して――――その、『体操着+ブルマ』に対して萌えていたというのは、もしかしたら思いこみではなくて真実だったのではないかと…いう風に、書いたつもりだったんですけど…」
「そうね。書いてあったわ」
 あっさりと認める碇編集長。
「確認だけど。嬉璃ちゃんは、今でもまだ元に戻ってないのね?」
「はい…家では体操着の上に着物を着て何とか取り繕ってます」
「ということは、海塚が、嬉璃ちゃんが元に戻っていないということとそれの指し示す事実に気がつけば、また彼女の前に現れるかも知れないってことね?」
「ええ…まあ…可能性としては」
「だったら、継続調査よ」
「…え?」
「継続調査よ。嬉璃ちゃんの前にまた海塚が現れたら、今度もスクープしてきなさい」
 そう言う碇編集長の口元には、クールな笑み。
 ああ、それって、それって――――
「継続調査中は、クビにならないでいいってことですね!」
 今度こそ、三下は飛び上がった。

 こうして、図らずも三下氏は解雇の危機を乗り越えた。
 『あやかし荘』にも、とりあえず平穏が戻ってきた。

「納得いかーん!
 なんで儂だけこんな目に遭うのぢゃー!
 うぁーん、三下の不幸が儂にうつったー!」

 ただ一人、嬉璃だけが浮かばれなかった。

「大丈夫よ、嬉璃。
 その格好もかわいいから」
「そういう問題ぢゃなーい!
 うわーん!
 納得いかーん!」

 子供のように泣きわめく嬉璃の声を聞きながら、時音は今日も歌姫とお茶を飲んでいた。
 ふと、目の前に座っている歌姫に、目を向ける。
「…ちょっと、見てみたかったかも知れませんね」
 いつも変わらぬ楚々とした和装の歌姫は、少し怪訝そうに首をかしげた。
 その仕草は、彼女の装いとなんの違和感もなく解け合っている。
 時音は笑った。
「…いえ。何でもありません」
 大切な人たちの、ささやかな幸せを守りたい。
 それだけが、自分の願い。
 このままでいいのだ。と、時音は歌姫が入れてくれたお茶を、また一口、含んだ。


 了話


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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  【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

1.1219 /風野・時音(かぜの・ときね)/男/17/時空跳躍者
2.0759 /海塚・要(うみずか・かなめ)/男/999/魔王

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■         ライター通信          ■
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 そんなわけで、草村悠太です。
 『あやかし荘』でのご活躍、ありがとうございました。
 初回作品ということで気合いが入りすぎた+頂いたお題が面白すぎたの
 二本立てで、えらく長いお話になってしまいました。アリなんでしょうか。
 時音様、大活躍ですが、歌姫嬢とのランナウェイが描ききれなかったのが、
 力不足の悔やまれるところです。

 なお、VS海塚のラストは少し変更させて頂きました。
 いちおう「決めゼリフ」は使っていますので、ご容赦ください。

 再納品となってしまいましたが、次回作にもご参加頂ければと思います。
 ありがとうございました。 


                               草村 悠太