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■家計は燃えているか。■

草村悠太
【0970】【式・顎】【未来世界の破壊者】
【データ修復中】
■式 顎、来訪。

 その男は、品のいい身なりをしていた。
 白王社のビルの、一階にある小さなラウンジ。
 そこで、三下と豊田君と、そしてその男とが、向かい合って座っている。
 目の前のガラステーブルには、小さなカップに入った紅茶が三つ。かすかに立ち上る湯気だけが、気ままに揺らめいていた。
 三下は、改めて目の前の男を観察してみる。
 細身な身体を艶のあるブラックスーツにつつみ、その下のシャツはダークグレー。ネクタイも黒で、それだけだと葬式帰りのようだが、タイの真ん中を一すじ走る鮮やかな緋色のラインが、その印象を打ち消していた。
 身長は、ソファに腰を下ろしている状態で確信はないが、高い方だろう。
 年齢は、たぶん50代。「中年」と呼ばれてしまうほど脂ぎっておらず、「じいさん」と呼ばれてしまうほど枯れていない。
 膝の上で優雅に組まれた両の手や、飄然とした薄い笑みを浮かべている顔は、はっとするほど白い。この歳の男性に使うべき表現ではないが、「抜けるような白さ」というやつだった。
 そして、向かいに座っている三下達へ向けられた、あの瞳。猛禽類のようなむき出しの鋭さとも違う、何か底知れない畏怖を起こさせる瞳だ。
 手荷物の類は何も持っていないようで、それがかえって目の前の男性に宿るどこかしら現実離れした感覚を強めていた。
 平日の昼過ぎ。どこかのオフィスに訪問してくるのに、手ぶらの人間は普通あまりいない。使うにせよ使わないにせよ、なにかしら持っているものだ。
「キミが――」
 不意に男が口を開き、三下ははっとして顔を上げた。あの魂を捉えるような瞳が自分を見据えてきて、今度は顔をそらせなくなる。
「三下記者だね」
 軽く指で指し示すようにして、確認してきた。
「そ、そうです」
 何となく雰囲気に飲まれるまま自己紹介をしていなかったのを思い出して、三下がうなずく。
 と、男は今度は視線を豊田君の方に向け、かすかに首をかしげてみせた。
「…あ、彼は、うちのアルバイトで――」
「豊田 敦彦です」
 三下のあとを引き取って、豊田君は自分でそう名乗ると、「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
 男はどこか面白そうに、その張り付いたような薄い笑みを強めると、
「差し支えないのかな?」
再度三下の方へ目を向けて、問うた。
 豊田君の前で話を始めてしまっていいのかどうか、確認したらしい。
 だが、目の前の男がそもそも何を話すつもりでいるのかが分からないうちから、三下に判断のつくわけがなかった。
「…彼も、アトラス編集部の一員ですから…」
 結局、間違ってはいない事実だけを口にする。
 男は、「いいだろう」というように小さくあごを引いてから、無言で紅茶のカップを手に取ると、一口、口を付ける。
 それから、
「キミは、スクープを求めているのだったね」
思わせぶりに語りはじめた。

 白王社、アトラス編集部。
 事の発端は、お昼休みが終わった少し気だるい時間にこの編集部に飛び込んだ、一本の内線だった。
 「50歳代の男性が、『スクープのことで話がある』と言ってロビーに来ている。
  アトラス編集部の三下さんと、ぜひ話がしたいらしい」
 受付嬢が丁寧な業務用語で伝えてきたその用件は、まとめればつまりそのようなことだった。
「ええ?…僕を名指しですかぁ…?」
 その話を告げられて露骨に不安そうな表情を浮かべた三下に、編集長の碇 麗香は、彼を黙って見つめたまま人差し指を立て、次いでその指をフロア出入り口の方へスイッと動かした。
 『黙って、行け。』のサインだ。
 遺伝子レベルで編集長への絶対服従がインプリンティングされている三下に、逆らえるはずもない。
 さめざめと涙をこぼしながら取材ノート一式を持って、フロアを出て行こうとする三下。と、麗香が声をかけてきた。
「三下君、ちょっと待ちなさい」
 そして、「豊田君、ちょっと」と、有能アルバイターの称号をもって呼ばれる好青年を呼び寄せる。
「豊田君。いま、下に人が見えてるの。詳しいことは分からないけど、何かネタを持ってきてくれたみたい。
 一人じゃ不安だから、君、三下君と一緒に行ってきて」
 どっちのことが不安なのか、聞くに聞けない三下。
 豊田君は表情を輝かせ、「了解っす」とうなずいた。
 「頼んだわよ」と、早くもデスクの書類へ目を移した麗香の声に送り出され、豊田君と連れ立ってフロアを出る。
 エレベーターを降り、こじんまりとしてはいるが一応「ロビー」と呼べるスペースに足を踏み入れて、三下が辺りを見回したとき――いま目の前にいるこの男が、ラウンジのソファの上で、小さく手を挙げたのが見えた。
 三下の知っている顔ではない。
 三下と豊田君は、一瞬顔を見合わせてから、そっちへと向かった。
 二人がソファに着くと、誰か訪問客があったときにいつもそうしているように、受付嬢の女性が小さなカップに入った紅茶を、人数分出してくれた。
 三下が何も切り出さず、豊田君も三下に遠慮してか口火を切ることはせず――何となく中途半端な間が開いた後、男が切り出してきた。
 「キミが、三下記者だね」と。
 そして男が持ちかけてきた話は、実にシンプルなものだった。
 曰く。
 「今日の就業時間後、私に付き合いたまえ。世界のとらえ方が変わるほどの体験をさせてあげよう」

 そうして、今。
 十分ばかりの短い時間、男の――式 顎(しき あぎと)の話を聞いていてから、三下と豊田君は『アトラス編集部』のフロアに戻ってきた。
「…三下さん、さっきの人、どう思います?」
「どうって…」
 エレベーターを降りたところで豊田君に問いかけられ、三下は口をもごもごさせる。
「なんか、死神ってか、殺し屋ってか。
 言ったら失礼ですけど…人間っぽくなかったすよね」
 確かに。豊田君の言葉に、三下は無言で答えた。
「んで、どうするんすか?
 さっきの…式 顎さんでしたっけ。あの人の言うとおり、するんすか?」
「…だって…しょうがないじゃないか。
 「私についてくれば、世界が変わるほどの光景を見せてあげよう」って言われてさ…」
「そうっすよね。
 「なんか変な気がするんで、やめときます」とは、編集長に言えないっすよね」
 しょぼくれた三下の顔を見ながら、ちょっと同情気味に、豊田君。
 それから、
「あ、よかったら、オレも行っていいすか?
 18:00に一階のロビーに行けばいいんすよね」
表情を明るくしながら、言ってくる。
 渡りに船。
 あんまり豊田君に活躍されてしまうと自分のクビが危うくなるとか、本来ここは自分一人で踏ん張って取材をしてくるべきであるとか、そもそも後輩でありアルバイターである豊田君に頼るのは、理屈抜きに恰好がよろしくないとか――そんなものは、三下にとってはすでにどうでもいいことだった。
 足を止め、少し後ろを歩いていた豊田君の方を振り向くと、彼の手をガッシと握る。
「ありがとほぉ…」
 三下の頬は、感涙でだくだくだった。


■惨劇の予感

 三下の携帯電話が鳴った。
 生意気にも、最新鋭のカメラ付きだ。「とっさの時にスクープ写真が撮れるように」と言っているが、いまだロクな写真を撮ってきたことはほとんどない。
 ともあれ。
 三下と豊田君が碇編集長に定時で帰る理由を伝え、「モノにしてきなさいよ」の一言で送り出されて、一階のロビーで昼間の男と――式 顎と落ち合ったちょうどその時、三下の携帯が鳴ったのである。
 わさわさとポケットを探り、引っ張り出してくる。メール着信だった。
 確認してみると、
「今日はお鍋納めです。三下さん、帰って来れそうですか?
 大丈夫なら、返信ください。お肉は綾さん差し入れの松阪牛ですよ♪  恵美。」
とのこと。
 三下の砂漠人生における唯一のオアシス、『あやかし荘』の管理人 因幡恵美からの、心温まる一報だった。
「いい報せでも、あったのかね」
 思わず携帯を胸に押し抱いて感涙にひたる三下に、式 顎がそう声をかけてくる。
 三下は我に返った。
 そうだった。恵美からの連絡は嬉しかったが、彼はこれから何の因果か男三人で、どことも知れない場所に付き合わなければならない。
「…あのぅ…その用事って、どのくらいで済みますか…?」
 三下は顎を上目遣いで見上げながら、未練たらしくそんなことを聞いてみる。
 顎は小さく片眉を上げてから、答えた。
「それほど手間はとらせないつもりだよ。
 …相手次第だがね」
「三下さん、急用っすか?
 何だったらオレ、代わりに取材しときますよ」
 豊田君が好感度スマイルでそう申し出てくれる。
 三下はよっぽど「よろしく」と言いそうになって…どうにか堪えた。
 いくら何でも、ここで取材放棄をしたら、明日から三下のデスクが無くなっているのは火を見るより明らかだ。
 しかもその理由が「鍋だったので…」と言えば、それこそ碇編集長にドラム缶で煮込まれるに違いない。
「いや…大丈夫。
 式さん、急ぎましょう。目的地はどこです? ここから遠いんですか?」
 三下はいそいそと携帯をしまい込み、顎を促した。
 式 顎はきびすを返した。
「手間はとらせないと言っただろう?
 目的地はキミと一緒だよ、三下君。 『あやかし荘』だ」

 一方の『あやかし荘』では。
 いつもの面々が、広めの空き部屋に集まっているところだった。
 テーブルの上にはカセットボンベ式のコンロが置かれ、さらにその上に大きな土鍋が載っている。
 柚葉と嬉璃は早くもテーブルの前に陣取って、準備ができるのを今か今かと待ちかまえていた。
 手際よく立ち働く恵美と歌姫、皿に盛られた肉を満足げに見つめている天王寺――――その中にあって、時音だけが、いい知れない不安と戦っていた。
 感じ取れる冷たい流れは、もはや「違和感」というレベルではなくなっている。
 確かに、とてつもなく強い力を持つ何かが『あやかし荘』に向かってきている。時音は我知らず、きつく手を握りしめていた。
 と、
「時音さん、手伝ってもらっていいですか?」
恵美が声をかけてくる。
 はっとしたようにそちらに顔を向け、時音は口を開いた。
「…恵美さん」
「はい?」
「今日、誰か来客の予定がありますか」
「いえ…ありませんけど?
 あとは、三下さんが帰ってくれば、みんなそろいますよ」
 ちょっと怪訝そうに首をかしげながらも、恵美は屈託のない笑顔で応える。
「そう…ですか」
「なんやー。 時音はん、そない心配せんかて、肉はたくさんあるがな」
 からかうような言葉を向けてくる天王寺に、時音は苦笑いを返した。
「いえ…そういうことじゃないんですが」
「落ち着かんようぢゃの」
 時音の中の不安を見抜いたかのように、嬉璃。
 が、彼が顔を向けると、嬉璃は平然と続けてきた。
「分かるぞ。鍋の前というのは不思議と気が急く。
 何百年生きていても、こればかりは不可解なことぢゃ」
 まじめくさったその言葉に、思わず小さく笑ってしまう。
「そうですね。不思議なものです」
 拭えたつもりになっても、「未来」で刷り込まれた疑心暗鬼はぬぐい去れるものではないのだろう。
 邪気のない『あやかし荘』の人たちに囲まれていると、時折、それを痛切に感じることがあった。
 自分の隣にいる、人間の姿をしたものが、不意に魔の力に魅入られて、自分を殺そうと刃を振るってくる。
 絵空事ではない。珍しいことですらない。『怪異』のあとの世界では、それが当たり前だったのだ。
 だからこそ、時音は今の時代の、この『あやかし荘』が好きだった。そこに住む人たちと、そこを訪れる人たちが。
 人間と妖(あやかし)の心をゆがませる何かが、まだ目覚めていないこの世界が。
「…僕はこの人たちを、守る」
 想いが、小さなつぶやきになった。
「何か言いました?」
「あ…いえ。
 手伝いますよ、恵美さん。何をしたらいいですか?」
 尋ねてきた恵美に微笑みを返しながら、時音は自分の中の『光刃』の力を強く意識した。

 駅から『あやかし荘』に向かう、タクシーの中で。
 式 顎は、穏やかに目を閉じたまま、シートの背もたれに身体を預けていた。
 その隣に座った三下は、何とも居心地の悪い気分でカバンを抱えている。
 顎は終始無言だった。
 会社を出るときに端的に目的地を告げた――「『あやかし荘』だよ」――だけで、あとは一言もしゃべっていない。
 かと言って、不機嫌なのではなさそうだった。今ひとつ感情を感じさせない、顔に張り付いた薄い膜のような笑みを、浮かべ続けている。
 白王社から『あやかし荘』までの経路も完璧に頭に入っているようで、従って三下の出番は全く無かった。ひたすら後ろから顎について行っている。
 「敏腕社長と頼りないカバン持ち」というタイトルで絵を描いたら、きっとこんなのができあがるだろう。
 早く着かないかなぁ…
 車で行けば大した時間ではないその距離が息苦しくて、気付かれないように小さくため息をついたとき。
「キミは、ジャーナリストとしての自覚はあるかね」
 何の前置きもなく、顎がそう声をかけてきた。
 一瞬何か怒られているのかと思って謝りそうになったが、そうではないらしい。あの笑みが消えていない。
「はい…まあ…一応…」
 頼りない声とともに、うなずく三下。
 その答えに、顎は唇の端をつり上げた。
「それは結構だ。
 これから私がキミに見せる光景は、少々…刺激的かも知れない。
 キミがその光景の持つ意味をしっかりと汲み取ってくれることを期待しているよ」
「…あのー。
 いったい、何が始まるんでしょうか…?」
「キミに、世界の真実を見せようと思ってね」
 おずおずと尋ねる三下に、顎は思わせぶりな答えを返す。
「…世界の真実」
 三下がオウム返しに繰り返したとき。
「お客さん、ここでいいんでしょ?」
 運転手の声とともに、タクシーが『あやかし荘』の前に停まった。
「さあ――」
 三下の方を向いて促す顎が、今度こそ本当に、その顔へ笑顔を浮かべた。
 もしも蛇が蛙を襲うとき、そのちっぽけな命をあざ笑うことがあるのだとしたら。
「――始めよう」
 それはきっと、こんな表情なのに違いない。
 

■殺戮の幕開け

 式 顎は、後をついてきているはずの三下とアルバイト――豊田とか言ったか――などには目もくれず、『あやかし荘』の玄関に立った。
 ドアガラスを通して、中の明かりがもれてきている。
 奥まった部屋の方からは、何か談笑しているような声も聞こえていた。
 結構だ。
 顎は、自分の唇がひきつれたように吊り上がるのを抑えられなかった。
 訓練することで身につけた、あの薄い笑顔ではない。心の底からわき上がる残忍な喜びがもたらす、むき出しの笑み。
「三下君」
 ドアの方を向いたまま、後ろに立っているはずの三流記者を呼ぶ。
「…なんでしょう」
 案の定、頼りない返事が返ってきた。
「キミは、ここで確認された時空跳躍者のことを、知っているかね」
 振り返りはしない。今の自分の表情は、彼にはさぞかし「刺激的」だろう。
「…時音さんのことですか」
 ずいぶんと躊躇があった後で、三下が答えた。
 その通りだよ、三流記者君。
「私がここに来たのは、彼もまたここに来るからだ。
 分かるかね?」
「…分かりません」
 結構だとも。
 顎はスーツのポケットから煙草を一本取り出すと、後ろに立っている三下に見えるように、軽く振って見せた。
 それから、それを握った右手の上に載せ、親指を添える。
 怪訝な顔をしているだろうね、三下君。
 心中で軽くあざけりながら、努めて穏やかに一言告げる。
「では、教えよう」
 顎は制御していた力をほんの少しだけ解き放ち、親指で煙草をドアへとはじき飛ばした。
 ほのかな光跡を残して、放物線を描いた紙巻き煙草がドアに触れたとたん。
 巨人の拳で打たれたかのように、『あやかし荘』のドアが爆裂した。

 時音はふと、箸をとめた。
 あの冷たい力が、『あやかし荘』のすぐそばで渦巻いている。それを感じ取って、窓の外へ目を向けたとたん。
 突然玄関で轟音が巻き起こった。
「なんぢゃぁ?」
 嬉璃は手にしていた茶碗を置き、半ばあっけにとられたような声を上げてから、
「三下のやつぢゃな。
 不幸に追われて帰ってくるのはよいが、家を壊すなとあれほど…」
舌打ちしながら立ち上がる。
 そのまま部屋を出て玄関に向かおうとする嬉璃へ、時音はとっさに声をあげていた。
「だめだ! 嬉璃さん!」
 制止された嬉璃も、部屋の中の他の面々も、その声に込められた響きにぽかんとした表情を浮かべた。
「なんぢゃ、時音。
 早く食い止めんと、ヤツの雪だるま式不幸が『あやかし荘』を半壊させるぞ」
 嬉璃は不満げだ。
 が、時音はこれがそんな生やさしいものではないことを理解していた。
「僕が、行きます」
 戸を開けたままでこっちを見ている嬉璃にそう告げて、立ち上がる。
 いつになく険しいその視線に、嬉璃も無言で道を譲った。
「…皆さんは、ここにいてくださいね」
 どうにか笑顔を作りながら、部屋の中に向けて言う時音。
 それにあわせるように、同じ玄関から、今度ははっきりと誰かの悲鳴が響き渡った。
 反射的に走り出した時音は、この状況でじっとしていられる者などあの部屋の中にいないことを、悟った。

 顎がほんの少し『力』をかけただけで、ちゃちなドアは跡形もなく吹き飛んだ。
 時空跳躍者――風野 時音が操るのと同じ、『光刃』の力。それをちょっとアレンジして、紙巻き煙草に附与し、ドアにぶつけた。
 なんということもない。本当に『光刃』が操れているなら、できて当然のこと。
「結界や呪符ぐらい、施してあるかと思ったがね」
 あきれた口調を隠しもせずに、顎は三下を振り返った。
「無防備なものだ。
 キミ達は、よっぽど長閑な時代を生きているらしい」
 答える言葉はない。目の前で起こったことが信じられずに、三下も豊田も、目を見開いて立ちつくしているだけだ。
 まったく、無防備なことだ。
 胸の奥で吐き捨てて、ドアがあった方へと向き直る顎。
 粉々になったドアの残骸を踏みしめて、『あやかし荘』の中に踏み入る。
「さて…誰が出迎えてくれるのかな?」
 呟いたとき。
「――この野郎!」
 背後から誰かに羽交い締めにされた。
 突然ではないし、不意を打たれてもいない。
 ついでに言えば、「誰か」というのも正確ではない。彼自身はずいぶんと俊敏に動いたつもりなのだろうが、顎にとっては見ていなくても分かるほど鈍重な動きだった。
 ショックから立ち直るスピードだけが、唯一評価できる点だろう。
「三下さん! 警察呼んでください!」
 彼を押さえつけている男――豊田が叫んだ。
 ため息が出た。
 哀れなものだ。
「豊田君、だったか」
 ただ一人落ち着き払って口を開き、無造作に手を後ろに回す。
 そして、しっかりと豊田の首筋を掴むと、
「キミは実に勇敢だが、実に愚かだ」
哀れみを込めた口調でそう告げて、顎は彼を三和土に投げつけた。
 細身の、そろそろ老年に手がかかろうかという男性が、片腕で自分より体格のいい青年を投げ飛ばす。
 柔術の動きですらない。何か背中についていたゴミでもとったかのように、無造作に。
 「ウソだろ」と、豊田の唇が動くのが分かった。
 背中を強く打ち付けて、仰向けのまま激しく咳き込む豊田を見下ろしたまま、顎は声をあげた。
「三下君」
 返事はない。声も出ないのだろう。
 顎はくるりと顔を向けた。
 まるでそれを盾にしようとでもいうように、カバンを抱えたまま立ちつくす三下がいた。
「勇敢な青年の死というのは、スクープに華を添えるだろうね」
 言いながら、玄関にあった一輪挿しの椿を手に取る。
 『光刃』を宿らせる。赤い椿が、ほの白い光をまとった。
 もはや歯の根もあわない三下から、足下の豊田に目を移す。
 立ったまま、ダーツの狙いをつけるように、椿の枝の切り落としをその眉間に向けた。
「豊田君。
 キミは実に愚かだが、実に勇敢だった」
 優しげに、とさえ言える声音で告げて、その額を貫こうと構えたとき。
「わぁああ〜!」
 奇声とともに、三下がカバンを投げつけてきた。
 難なくかわす。が、その直後に三下自身までもが飛びかかってきたことは、顎の予想を超えていた。
 手元がわずかに狂い、『光刃』の宿った椿が豊田の右肩を三和土に縫い止める。
 聞き苦しい絶叫が、豊田の口から響いた。
 舌打ちとともに、顎はつぶれた蛙のような格好で自分に飛びついてきた三下の襟を掴みあげる。
「いいかね、三下君」
 苛立ちに力がこもり、三下が顎の手を押さえてバタバタともがいた。
「私はキミに、英雄であることなど求めてはいない。
 私はキミを殺さないが、それは記事を書いてもらうのが目的だからだ。
 勘違いが甚だしいようなら、キミの存在価値はなくなるぞ」
 どうにかその首をへし折るのをこらえ、抑えた口調でそう言い置くと、顎は手を放した。
 糸の切れた操り人形のように、三下が三和土にへたり込む。
 荒く息をつき、それから、気持ちを静めるように、スーツの襟をなおした。
 玄関に、『あやかし荘』の奥から誰か駆けだしてきたのが分かった。
「ほう…」
 その中の一人に、思わず声がもれた。
 向き直る。自分の中で、三下の行動に感じた苛立ちが、獲物に向ける純粋な闘争心へと取りこまれ、昇華していくのを感じた。
「まさか今日、キミに会えるとはね。
 光栄だよ――風野 時音君」
 恭しく頭を垂れて、顎は、陰惨な笑みを浮かべた。


■二人の時空跳躍者

 玄関に駆け出した時音達を待っていたのは、異様な光景だった。
 ドアは跡形もなく吹き飛んでいて、その向こうに、夜空と丘の下に広がる街の明かりとが見えている。
 三和土には、放心したようにへたり込む三下。
 右肩を椿の一輪挿しで串刺しにされ、横たわる青年。
 破壊されたドアの残骸とおぼしき破片が、玄関中に散らばっている。
 そして、その中にただ一人、立って動く紳士の姿。
 仕立てのいいブラックスーツに身を包んだ、長身の、五十歳代のその男は――時音達の姿を見留めると、芝居がかった仕草で会釈をしてきた。
「光栄だよ――風野 時音君」
 ぞわり。と、時音の背筋に怖気が走った。
 今日一日自分が感じ続けていた、あの冷たい力の奔流が、まさに目の前のこの男から流れ出ていることを感じ取る。
 後から追いついてきた恵美が、目の前の光景に息をのんだのが分かった。
 時音のわきをすり抜けて、すぐさまけが人に駆け寄ろうとする彼女を肘で押さえ、
「今は、動かないで」
抑えた声で、そう告げる。
 この男の近くには、誰も寄せ付けてはいけない。
 時音の中で、痛いほどに警鐘が鳴っていた。
「なんぢゃなんぢゃ、これはおぬしがやったのか?」
 怖いもの知らずの嬉璃が、ずいっと前に出て男に問いただす。
「いかにも」
 飄々として、男はうなずいた。
 その答えに、嬉璃が鼻を鳴らす。
「ふん。潔くて良いことぢゃ。
 修理代と治療費を置いて、さっさと帰れ。
 貴様に付き合っていると、鍋が煮詰まる」
「あいにくだが、もう少し仕事が残っていてね」
 男の言葉で、嬉璃は「仕事?」とわずかに首をかしげた。
「三下君」
 男が、傍らでへたり込んだままの三下を呼ぶ。
「大衆は、女児の犠牲に敏感だろうね?」
 その目を、嬉璃に据えたままで。
 刹那。
 二つの影が閃いた。
 灼けた鉄に水を吹いたときのような音とともに、二つの閃光が嬉璃の鼻先で交錯する。
 一つは、時音の『光刃』。
 もう一つは――
「なかなか、やるじゃないか」
 ――楽しげに笑う、黒衣の男の『光刃』だった。
 時音がきつく奥歯を噛む。
 あまりのことに、目の前の刃の一本が自分を狙ったものだったと理解するまで、嬉璃には数秒必要だった。
「お前も『退魔剣術』を…?」
 相手の『光刃』をどうにか食い止めながら、うめくように問う時音。
「そのようだね」
 対する男の方は、涼しい表情だ。
「…お前は…」
 冷や汗を抑えきれない時音に、男の方はこともなげに答えた。
「簡単なクイズではないかね?
 この時代に退魔剣術を使う人間は、キミ達四人しかいない。
 私は、その四人のうちのいずれでもない。
 そして私たちの時代には、人間と戦う人間もいる」
「貴様…!」
 わき上がる怒りに力を借りて、どうにか相手の『光刃』を押し返す時音。
 嬉璃がようやく『光刃』の下から脱して、時音の背中に駆け込んだ。
 男は余裕の笑みを浮かべ、もう一度会釈をしてくる。
「私は式 顎。
 時音君。キミは異邦人だ。ここにいるべき人間ではない。
 私はキミを連れ戻しに来たのだよ」


■顎の条件

 顎の言葉が終わるやいなや。
 時音は『光刃』を振りかざして斬りかかってきた。
 人間なら、いや、名の知られた魔物でさえも両断してのけるのであろう、鋭い斬撃。
 だがそれも、顎には届かなかった。
 首を狙った一撃を軽く上体を反らしてかわし、袈裟懸けの刃に身体を入れ替え、胸を狙った鋭い突きに、手にした得物の刀身をあわせる。
「いい腕だ」
 師が弟子の成長を褒めるような口調で言ってやる。
 時音の目が怒りに燃えるのが分かった。
 斬ち込みの速度が上がった。床に散らばったドアの破片が、その風圧で舞い上がるほどの熾烈な連撃。
 それですら――
「ふむ。
 悪くない」
 顎は全てさばいて見せた。
 時音の表情に、焦りが広がる。
 それでも再び斬りかかろうとするその腕を、顎は一瞬早く押さえ込んでやった。
「落ち着きたまえ、時音君」
 驚愕の表情を浮かべる時音に、顎は呆れ顔を向ける。
「貴様を相手に、落ち着く理由が何かあるのか」
 吐き捨てる時音。
 顎はため息とともに、彼を突き放した。
 一・二歩たたらを踏んだ時音が再び『光刃』を向けてくるよりも早く、意識を失って足下に転がる豊田の首筋に刃をあてがった。
「キミに話を聞く気がないというのなら、仕方がないな。
 ここでこの勇敢な青年の人生が終わる」
 彼の目を見据え、淡々と告げる。
 その言葉に時音の動きが止まり、やがて、音が聞こえそうなほどきつく奥歯を噛むと、ゆっくりと『光刃』をおろした。
「賢明な判断だよ」
 とりあえず、顎も豊田の首にあてていた得物を引いた。
「さて…」
 間を整えるような一言を口にしてから、改めて時音の方へと向き直る。
 彼は依然として『光刃』を顕在化させたまま、射抜くような視線で見据えてきた。
 その背中では、『あやかし荘』の住人たちがことの成り行きを見守っている。
 逃げればいいものを。
 と、あざけりが浮かぶのを禁じ得ない。
 彼女たちがここにいたところで、時音の足手まといにこそなれ、戦力になどなりはしない。
 顎は小さく首を振った。過去も未来も、人間は愚かしい。
「時音君」
 口を開く、顎。
「端的に言おう。
 キミは時空を超えてこの時代に来た、異邦人だ。
 この時代はキミが本来いるべき時代ではないし、ここでキミがやろうとしていることも、未来をゆがめる身の程知らずな行為だ」
 言いながら、顎は手にしていた『光刃』の顕在化を解く。
 時音の後ろに固まっていた『あやかし荘』の住人たちが小さく息をつくのが分かったが、当の時音だけは、硬い表情を浮かべたまま『光刃』を手放そうとはしない。
「…それで?」
 短く問う時音に、顎は小さく肩をすくめた。
「キミはキミのいるべき時代に帰りたまえ」
 さらりと口にした言葉が、時音の中の怒りを再燃させたのが分かる。
「…未来を変えるまで、僕は戻らない」
 半ば自分に言い聞かせるような口調とともに、もう一度『光刃』を構えてきた。
 その様子に、ため息をつく顎。
「どうしてもかね」
「くどい」
「よかろう」
 短い受け答えのあと、顎は再び自分の『光刃』を顕在化させた。
 しかも、今度は二振り。片手に一降りずつ握られたそれは、時音が手にする『光刃』が霞むほど、濃密な光を放っている。
 今度こそ、容赦はしない。
 顎は胸の中でそう告げてから、
「私は厳格だが、冷酷ではない。
 時音君。キミに選択の機会を与えよう」
口に出す言葉は穏やかに、時音を見据えた。
「選びたまえ。
 くだらない希望を捨てて未来に帰るなら、私もキミの大切な人たちを見逃そう。
 が、キミがあくまでこの時代に留まるというのなら――」
 顎の手の中で、二本の『光刃』が眩く燃え上がった。
「――『あやかし荘』の住人たちは、ここで死ぬことになる」


■時音の選択

 自分の構える『光刃』が、線香花火のように思えるほど。
 顎の手にした『光刃』の光は圧倒的だった。
 まるでアーク溶接で散る火花のように、『あやかし荘』の破壊された玄関を照らし出す。
「キミがあくまでこの時代に留まるというのなら、『あやかし荘』の住人たちは、ここで死ぬことになる」
 そう言って選択を突きつけてくる顎の口調は、淡々としてた。
 この男なら、何かの作業のように平然とそれをやってのけるのだろう。
 そしてそれを止める力は――おそらく自分にはない。
 怒りにまかせた粗雑な攻撃ではあったにせよ、式 顎は自分の斬撃をすべてさばいて見せた。
 それも、「難なく」という表現がふさわしい余裕とともに。
 時音の背中を、冷たい汗が伝った。
 未来を変えることをあきらめるか、『あやかし荘』のみんなを見殺しにするか。
 どちらかを選べるようなものではなかった。
 そもそも、たとえば自分が未来に帰ることを選んだとしても、顎がおとなしく『あやかし荘』から手を引くかどうか。
 あいさつ代わりに吹き飛ばされたドアや嬉璃を狙った『光刃』が、自分に対する警告のためだけものなのか。確信はない。
 だが――
「答えは出たかね」
 顎が、言葉を向けてくる。
 彼の足下に一人。
 背後には三下さん。
 今自分の後ろに五人。恵美さん、天王寺さん、嬉璃さん、柚葉さん、そして、歌姫。
 顎から目をそらさないまま、守るべき人たちの位置をそれぞれ思い起こして――時音はゆっくりと目を閉じた。
 顎に『光刃』を振るわせてしまえば、全員を確実に守る方法は、無い。
 はっきりとそう認めると、時音は構えていた『光刃』をおろした。
 …いつまでたっても、僕は無力だ。
 そんな思いがわき上がるのを抑えきれず、口元に自嘲が浮かぶのが分かった。
 自分を見据えている顎の視線に、値踏みするような色が混じる。
 時音はあえてそれを無視すると、後ろで成り行きを見守っていた『あやかし荘』の面々を振り返った。
 大切な人たちが、一様に不安の色を浮かべたまなざしで、自分を見つめ返してくる。
 その表情に、小さく微笑みを浮かべる時音。
「皆さん…」
 口を開いた。
「僕は、この時代に来たことも、皆さんに会えたことも、後悔はしません」
 「時音…」と、誰かが呟くのが分かった。
 時音はもう一度、小さく笑った。
「すみません…誰も傷つけさせないためには、こうするしか、ないんです」
 言いながら、手にした『光刃』の顕在化を解く。結束を失った力の奔流が、ほつれた薄い糸くずのように宙に溶け、消えていく。
 ちらりと肩越しに視線を向けると、顎が満足そうにうなずいてみせるのが分かった。
「賢明な選択だよ、時音君」
 その言葉に答えないまま、みんなの方へと顔を戻す。
 そして、
「歌姫…」
最愛の人の姿をじっと見つめていてから――
「…さよなら」
 頼りなく舞い踊る螢のような燐光だけを後に残して。
 時音は、この世界から姿を消した。


■顎の魂胆

 時音が時空跳躍で燐光を残して消えたとき。
 『あやかし荘』の連中は、そろいもそろって放心したようなまなざしを、一瞬前まで彼がいた空間に向けていた。
 顎はあざ笑うように鼻を鳴らすと、思わせぶりに拍手を始めた。
 乾いた音が、うつろな空白をたたえた玄関に響き渡る。
 やがて『あやかし荘』の住人たちが自分の方へのろのろと顔を向けてきて、顎は拍手の手を止めた。
「すばらしい」
 両手の平を天に向け、大きく腕を広げて。
「時音君は、自らの希望を捨てて、キミ達を救った。
 実に尊い自己犠牲精神だ」
 そこまで言ってから、ゆっくりと『あやかし荘』に残った人間たちを見渡した。
 足下でへたり込む三下を含め、なんの力も持たない人間と、幾ばくかのあやかし達。
 こんな連中を、なぜ必死になって守ろうとするのか。
 全く理解できない。自力で生きられないような存在は、すなわち生きる意味など無い存在なのだ。
 顎は口元に残忍な笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
「さて」
 一仕事始める前に人がそうするように、「パン」と鋭く両手を打ち鳴らす。
「私も次の仕事に移るとしよう」
 そして顎は、『光刃』を顕在化した。
 圧力さえ感じるほどの濃密な光が、玄関を眩い白に照らし出す。
「貴様…」
 うめくような一言ともに、嬉璃が、それだけで人が殺せそうな目で睨み据えてくる。
 が、顎は具合を確かめるように2、3度手の中の『光刃』を素振りすると、
「時音君が私の忠告に従ったのは、誠に賢明で、かつ意外だったがね。
 残念なことに私は、戒めを残さなければいけない」
楽しげとさえ言える声で、告げた。
「『時空跳躍者と関わることは、自らの死を意味することになる』――どこかで実例を示さなければ、こういうことというのは繰り返されるからな。
 さて、三下君。ショウの始まりだ。
 いい記事を、書きたまえ」
 傍らの三下を見下ろして、そう言い置く。
「恵美、皆を連れて逃げるのぢゃ!」
 嬉璃が叫んだ。
 顎の視線が、身を寄せ合う人間たちを捉える。
「でも、嬉璃――」
「たわけ!
 おまえ達がいてどうなることでもないわ!」
 口を開きかけた恵美の言葉を遮ると、嬉璃は両手を胸の前であわせた。
「とにかく、壁ぢゃ!」
 叩き付けるような声で、目に見えない何かに命じる。
 とたん、玄関脇の管理人室から、一斉に畳が飛び出してきた。が、べつに仕掛けがしてある様子でもない。
「ほう」
 思わず声を上げる、顎。
 彼は知らなかったが、これが嬉璃の、座敷童としての力だった。滅多に見せないが、壊さない範囲内で『あやかし荘』の造作を操ることができる。
 顎の目の前で、飛び出してきた畳達は盾のように積み重なって、三和土に立つ彼と玄関の嬉璃達を隔てた。
 天井まで届く畳の壁は、さながら和室の床を縦に持ち上げたようだ。
「さあ恵美、早く行くのぢゃ!」
 その向こうから、くぐもった嬉璃の声が響いてくる。
 顎はもはや蔑みの表情を隠そうともしなかった。
 この時代の人間たちが、なぜ異能者やあやかし達にかくも庇われるのか。それが興味深くさえある。
 ともあれ、思惑通り事を運ぶには三下に一部始終を目撃してもらわなければならないし、そのためにはこの畳が邪魔だ。
 ポケットからもう一本煙草を取り出すと、『光刃』を付与して畳の壁に放る。
 ドアを破壊したのと同じ無形の拳が、そのすぐ裏に立っていた嬉璃もろともに畳を吹き飛ばした。
 声もなく、さして広くない廊下の壁に打ち付けられて、くずおれる嬉璃。
 ぼろぼろに崩れ落ちた畳の壁の向こうで、「逃げろ」と言われていたはずの恵美が、倒れた嬉璃に駆け寄るのが見えた。
 顎は『光刃』を軽く持ち直し、三下に目をやる。三流記者は半ば以上放心したような顔で座り込んでいた。
 だが、とりあえずこの光景が見えているならば問題はない。
 顎はゆっくりと顔を前に戻した。
 その視線の先で、嬉璃を抱きかかえた恵美が、泣き濡れた瞳で自分を睨んでいる。
 その周りには、結局誰一人として逃げ出そうとはしなかった、『あやかし荘』の住人たち。
 まったく、おめでたいことだ。
 顎の中に湧いたその思いに呼応するように、手にした『光刃』が光を噴き上げる。
「はっきりと言っておこう。
 キミ達の友愛は美しいが、同時にあまりにも無力だ」
 言いながら、歩み寄る顎。
 恵美が嬉璃をぎゅっと抱いた。
「恵美…皆も…早く逃げてくれ…」
 その腕の中で、嬉璃がかすれ声で懇願する。
「嬉璃一人おいてなんて、逃げられない」
「そうやで」
 顎から目をそらさないまま、嬉璃を抱きかかえる腕に力を込める恵美に、天王寺が賛同した。
 歌姫と柚葉が、ともにその傍らに立つ。
 顎はにやりと口の端をゆがめた。
「なるほど」
 もっともらしくうなずいて、自分を見据える目つきだけは強気な、無力な獲物の方へと足を踏み出す。
「せっかくだ。キミ達に決めてもらおう。
 私は最初に誰から斬ればいいのかね?」
 顎が、そう言って威嚇的に『光刃』で宙を切り裂いた、その時。
「おまえだよ」
 なんの前触れもなく、顎の首筋に、後ろから『光刃』が突きつけられた。
 自分のものではあり得ない。
 顎は足を止めた。ちりちりと肌を灼くほどに近づけられたその光の刃に、全身が粟立つのを禁じ得ない。
「キミは…」
 平静を装いながらも、小さく喉が鳴るのは抑えようがなかった。
「未来に戻ったのでは、なかったかね」
 ゆっくりと、振り向く。
 『光刃』を構え、立っていたのは、
「確かめるために戻ってきた」
間違いなく、時音だった。
「私との約束を反故にしたということかな?」
「おまえが僕との約束を反故にしないかどうか、確かめに来たんだ」
「…最初から信じていなかったということだね」
 そう言葉を返すと、時音はしばし、穿つような視線を向けながら、口を閉ざしていた。
 やがて、
「気になっていた。何で三下さんと一緒に来たのか。何で三下さんだけは斬ろうとしないのか」
「ほう。で、答えは出たのかね」
「おまえは、僕達を…時空跳躍者を、孤立させようとしている。この時代の人たちから。
 …だから、マスコミの力が使いたかったんだろう?
 『時空跳躍者に関われば自分たちに危害が及ぶ。しかも、当の跳躍者達は、いざとなれば自分たちを見捨てて未来に帰ってしまう存在だ…』
 三下さんに惨劇を見せつけて、そういう記事を書かせようとした…」
「なるほど。キミが私の立場だったら、そうしたということだね」
 からかうような言葉に、時音は答えなかった。
 顎はもったいぶって、ゆっくりとした瞬きを一つ。
「だとすると…私とキミは、実に似たもの同士だな」
 その口元に、残忍な笑みが戻った。
「もう一つ聞いてもいいかね、時音君」
「…なんだ」
「黙って後ろから私の首をはねなかったことを、キミは後悔すると思うかね」
「…僕は、おまえとは違う」
「ほう?」
「誰かを殺せなかったことを、後悔したりはしない」
 顎の首筋から、『光刃』が離れた。時音は一歩下がって間合いを取り、青眼に構え直す。
「時音君」
 顎もまた、身体ごと彼に向き直り、構えを取った。
「それをして、キミは甘いというのだよ」


■決着の時

 先に動いたのは、顎だった。
 両手に握られた二振りの『光刃』。うちの一方が、風を巻いて斬りかかってくる。
 時音はわずかに手元の『光刃』を傾け、小手を狙ったその一撃を受け止めた。
 間髪入れず、もう一方の刃が動く。首筋へ、袈裟懸けの一刀。
 ためらわずに刃の下で身体を入れ替え、いなす時音。
 顎が刃を返す。俊敏な猟犬のように、一度は逃したのど頸へ、『光刃』が追いすがってくる。
 おのが『光刃』の柄じりを跳ね上げるようにして振り立てて、時音がその牙を受け止める。
 押さえ込む刃から解き放たれた最初の一刀が、今度は逆胴へ。一振りの『光刃』では、同時には一方向からの斬撃にしか対応できない。食い止める術のないがら空きの逆胴へ、顎の『光刃』が吸い込まれるかと思うや。
 時音は天地逆に構えた形の『光刃』を軸に、くるりと身体を回転させた。
 一本の柱に両側から食い込んだ刀のように。顎の二振りの『光刃』は、時音の『光刃』に受け止められた。
 届くと思った刃を寸前で食い止められ、顎が唖然とした、その一瞬。
 時音は己の『光刃』で顎のそれを左右にはじき飛ばし、再び青眼の構えを取った。
「…やるじゃないか」
 嬉璃を狙ったときと同じ言葉を、あのときほどの余裕を感じさせずに口にする顎。
「僕はもう、ためらわないぞ」
 時音は静かに息を吐きながら、顎を見据えた。
 未来からの刺客へ、先ほどまでの相手と同じだとは思えないほど、地に根を下ろした樹のような腰の据わった構えが向けられる。
 その威圧感に、顎の表情からあの薄笑いが消えた。
「…私に勝てると?」
 揺るぎないその態度に言いようのない重圧を感じながらも、あえて不敵に問う顎。
「それが、大切な人を守るために必要なら」
 静かに答える時音の手の中で。
「僕はどんな相手にでも、勝つ」
 『光刃』が、魂を吸い込むように鮮やかな蒼の光をまとった。
 不覚にも、顎はその一言に恐怖を感じた。「く…っ」と喉の奥でうめくと、腰を落として『光刃』を構える。
 時音の目へ、顎の肩越しに、『あやかし荘』の人たちの姿が入った。
 心が和らいでいくのを感じた。大切な人たちは、まだ無事だ。その単純な事実が、時音に力を与える。
「三下さん」
 顎に視線を据えたまま、足下の三下を呼ぶ。
「…時音さん…」
 蚊の鳴くような返事が返ってきた。
「…僕は…とんでもないことを…まさかこんな…」
 熱に浮かされる人のように、三下が言葉を紡ぐ。
「嘆くのはあとです。三下さん、みんなを連れて逃げてください」
 ふっと。
 時音は構えを崩し、顎から目を離して、三下の方に顔を向けた。
「三下さんが連れてこなくても、こいつは勝手に来ましたよ」
 そう言って、小さく笑いかける時音。
 押さえつけられていた重しが外れでもしたかのように。
 本来あり得ないようなその「隙」に、顎はつられた。
 左の『光刃』で青眼の剣先を封じ、右で頭を。
 誘い込まれた、と悟ったのは、その直後だった。
 自らその動きを呼び込んだ時音は反応してみせた。
 封じられた剣先をあえて流し、左を殺す。打ち振るわれた右に臆することなく踏み込み、身体を転じて切っ先から姿を消した。
 懐に入った。
 転身の勢いを借り、コマのように鋭く身体を半回転させて、顎の胴中へ肘で当て身を入れる。
 たたらを踏む顎の手首を取り、そのまま――
「貴様…!」
驚愕する彼の脇の下をくぐった。
 回転するウインチにでも巻き込まれたかのように。顎の手首が、肘が、あり得ない方向へとねじられる。
 ぶちり。
 湿った嫌な音ともに、右腕全体に加えられたねじれを吸収しきれなかった顎の右肩の靱帯が、弾けた。
 そこから先を動かすべき筋肉の留め金を失った右腕が、だらりと伸びる。
 離れなければ、背中から斬られる。とっさに顎は、あえて時音の身体の流れに合わせながら、左手の『光刃』を彼の足下へ振るった。
 時音が顎の手首を放し、飛びすさる。
 そして。
 どうにか体勢を立て直して左手だけで『光刃』を構える顎を、時音は凛とした青眼で迎えた。
「未来に帰るのは、おまえの方だな。式 顎」
 あえて抑えた口調でそう言うと、顎が割れそうなほど強く奥歯をかむのが分かった。
「貴様…」
「僕もおまえに選ばせよう。
 このまま大人しく帰るなら、僕はおまえを見逃す。
 もしこれ以上、この時代に留まることにこだわるなら――」
 怨嗟の声を聞き流し、時音は言葉を続けた。
「――気は進まないが、おまえを斬る」
 その一言に、ぎりりと歯ぎしりをした後。
 不意に顎は表情を崩した。
 『光刃』の顕在化を解き、威嚇するように落としていた腰を伸ばす。
「なるほど」
 だらしなく下がった右腕に手をあてて、呟くように口にする。
「それがキミの選択かね」
「そうだ」
 『光刃』を構えたまま、間断ない視線を顎に注いで答える時音。
「なるほど」
 もう一度、顎がうなずいた。
「それでは、お言葉に甘えるとしよう。
 私は未来に帰り、キミはここに残る」
 踏み出した足の下で、砕けたドアの破片がじゃりじゃりと音を立てた。
「だが、時音君。
 人生の先輩としてキミに忠告しよう。
 この選択を、キミは必ず後悔する」
 教師が生徒を諭すような口調でそう言いながら、顎は時音の横を歩みすぎた。
 その背中を見送って、時音が答える。
「言ったはずだ。
 僕は誰かを殺せなかったことを、後悔したりはしない」
 その言葉に、顎は足を止めて振り向くと、
「すばらしい」
芝居がかった仕草で左腕を大きく横に広げた。
「君が私の片腕を壊してしまわなければ、拍手を送りたいところだ」
「…傷はいずれ癒える。その時にすればいい」
 動かない右腕を指し示す顎に、時音が返す。
 顎は面白そうに笑った。
「キミは実に興味深い。
 この傷が癒えたときに、私が拍手だけをすると思うのかね」
「何度でも来ればいいさ。僕は何度でも同じことをする」
「そして後悔はしない、か」
 からかうように後を引き取ると、顎は恭しく頭を垂れた。
 そして。
「だが時音君。私も言ったはずだよ。
 『それをして、キミは甘いという』とね」
 時音が消えたときと同じ燐光を残して。顎は時空跳躍した。


■この時代を生きる人たち。

 ばさり。
 デスクの上に原稿が投げ出された。
 白王社、アトラス編集部。その責任者である碇 麗香のデスクの前に、三下と豊田君と、そしてなぜか時音が立っている。
 いや、その様子はむしろ「立たされている」と言ったほうが正確だ。
「…これは何かしら」
 麗香は今自分で投げた紙束を、ほっそりとした指でトントン叩いてみせた。
「…原稿…の…様な…ものです…」
 三下がか細い声で答える。
 麗香はため息をつくと、その隣に立っている豊田君の方へ目を転じた。
「なんにしても、災難だったわね」
「いえ。ぜんぜん大したことないっす」
 はっきりと答えてくる豊田君は、その言葉とは裏腹に、右腕を三角巾で吊っていた。
 れっきとした取材中の事故。場所は確かに社員の自宅だったかも知れないが、「モノにしてきなさいよ」と言って送り出した以上、麗香と会社の責任は免れようもなかった。
 労災認定の手続きやら社内の始末書やら、豊田君には伝えてないが、麗香にはこの後面倒な仕事が山積みだ。
 もう一度小さくため息をつく。
 それから、麗香は時音へと顔を向けた。
「風野さん?」
 切り口上で、口を開く。
「はい」
「この原稿、読まれましたか」
「三下さんと僕で書きました」
「そう。だったら、確認したいのですけど。
 今現在、この世界のどこかで進行しつつある『怪異』。それがもたらす人類社会への壊滅的な打撃と、その後に続く終わらない戦争。
 風野さんと数人のお仲間は、その『怪異』のもたらす災禍を食い止めるために未来から現代へ来て、数日前、同じように未来からやってきた『式 顎』と名乗る刺客と激闘を演じた。
 風野さんは実力で上回る式 顎の判断ミスを誘い、からくも勝利を収めて彼を未来に追い返した――――
 私の読解能力に問題がないのなら、こういうお話だと思うんだけど?」
「そうです」「ばっちりっすよ」「編集長ぅぅ。分かってくれましたかぁぁ」
 麗香の言葉に、三人がそれぞれに同意を返してきた。
 彼女はにっこりと笑顔を浮かべると、
「そう。じゃ、ボツ」
あっさりと言い放った。
「…なんで…?」
 ぽかんとして呟くようにこぼす三下に、麗香はまなざしを向けた。
「三下君。こんな突拍子もない話、なんの裏付けもなしに読んだ人たちが信じると思うの?」
「でも、そこに書いてあるのは事実っすよ!」
「誰にそんなことが言えるのかしら?
 豊田君、君、未来でも見てきたの?」
「そりゃ…見てないっすけど」
 麗香は、ほらご覧なさいと言うように小さく息をついた。
 そして、
「風野さん。
 この話、読んだ人が、「わあ面白い」、じゃ、意味ないんでしょう」
「…そうです」
続けた彼女の言葉に、時音がうなずく。
 麗香は改めて、彼の方を向いた。
「オカルトファンだけの語りぐさになっても、きっと何も変えられないわ。
 もっと証拠を。はっきりと、私たちが何をしたらいいのかを。
 『怪異』を防ぐために動かなきゃいけないのは、なにもあなた達未来人だけじゃないはずよ」
「…編集長」
「三下君。続けて調査なさい。
 今はまだ、この原稿は、ボツ」
 麗香はそう言って、デスクの上の紙束をフォルダに挟み、引き出しの奥へとしまい込んだ。
 それから、少し驚いたような表情を浮かべている時音に気付き、微笑んだ。
「おかしいかしら?
 私たちだって、自分の未来を守るために戦うことがあるわ」


■未来にて。

 顎は、具合を確かめるように、右腕を大きく回した。
 主観的な時間で、時音に不覚を取ってから数ヶ月が過ぎていた。
 日常生活を送る分には、右腕の回復度は問題ない。
 が、戦闘をこなさなければならないとなればどうか…?
 その答えを出すために、顎はここにいた。
 『怪異』の産んだ歪みの一つ。正式な名称などない。研究する余裕が、人間たちに残されていないからだ。
 ともあれ、顎はそこを『霊気溜まり』と呼んでいた。
 常にじくじくとした瘴気が立ちこめ、人やあやかしの負の感情を増幅させる力が蠢く場所。
 何かに吸い寄せられるかのように、死を迎える獣たちが傷つき衰えた身体でここに集まり、倒れ、折り重なって、いつしか得体の知れない魔物の苗床となる。
 腐肉と怨念をまき散らすそれらの怪物たちは、一様に醜く、そのくせ俊敏で、そして恐ろしくしぶとかった。
 今、顎の目の前にのそりと姿を現した『それ』も同様だった。腐った肉を適当に固めて作ったようないい加減な造形の身体から、言いしれぬ生命力をほとばしらせている。
 しかも、恐ろしく大きい。顎の背丈の、優に三倍はあった。
 『それ』は自分の住処たる『霊気溜まり』の中に見慣れない人間の存在を見留め、咆吼をあげた。
 瘴気を揺らして、それだけで脆弱な人間の心臓を止めるような異音が響き渡る。
 だが顎は、構えも取らずに両腕を組んだまま、不敵に笑うだけだった。
 それを、「侮辱された」と取る知能があるわけでもなかろうが。
 『それ』が顎に轟然と襲いかかる。
 『それ』の形は、いびつな狼のよう。顎はギリギリまで引きつけておいてから、その黒ずんだ牙の一撃をかわした。
 獲物を逸した『それ』の牙が空を咬み、鉄のかたまりを打ち付けたような音を残す。
 『それ』が大地に四肢を突っ張り、身を翻した。
 ネズミを捕る猫のように。顎を狙って、恐ろしく太い爪の生えた前脚を振るう。
 一撃目を身を沈めてかわし、二発目を跳躍で、三発目を上体をのけぞらせていなした顎に、四発目が襲いかかった。
 顎を引き裂こうと、『それ』が振り回した、大木のような前脚。
 だが。
 岩を砕くほどの破壊力を秘めたその一撃を、顎は右腕で受け止めた。
 腹に響く重い音が、瘴気を揺らめかせる。
 『それ』が咆吼をあげた。
 雄叫びではなく、悲鳴だった。
 受け止められた前脚の甲から、『光刃』が突き出している。
 アーク溶接で散る火花のような、あの眩い白の光が『霊気溜まり』を照らし出した。
「ハッ!」
 顎はあざ笑うように声を上げた。
 『それ』が激痛に前脚を引くより早く。閃く顎の『光刃』が、それを細切れの腐肉に変えた。
 再び、瘴気の中を『それ』の苦鳴が響き渡る。
「私の傷は、癒えたようだよ…」
 顎は、『光刃』を構え、呟いた。
 『それ』が片足を失った不安定な身体で、襲いかかってくる。
 顎は大地を蹴り、一瞬のうちに『それ』の腹に潜り込むと、最大出力の『光刃』を縦一文字に一閃した。
 断末魔をあげる余裕さえもなく、文字通り両断された、『それ』の死体を見やる。
「…私は拍手の他に、何をしようか」
 そして顎は、酷薄な笑みをその口元に刻んだ。
 
 
 End.
 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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  【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 0970/式・顎(しき・あぎと)/男/58/未来世界の破壊者
 1219 /風野・時音(かぜの・ときね)/男/17/時空跳躍者

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■         ライター通信          ■
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 お待たせいたしました。草村悠太です。
 『あやかし荘』でのご活躍(?)、ありがとうございました。

 とにかく悪役街道一直線とのことで、「悪の魅力」をてんこ盛りに描いたつもりですが、
 いかがだったでしょうか。
 状況設定として、式 顎は現代に来たばかり、風野・時音とは初顔合わせ、とさせて頂きました。
 また、時空跳躍者や『光刃』、怪異などの点について、
 かなり独自の解釈を付け加えて描いてしまいました。
 僭越ではありますが、そうした世界背景を含め、気に入って頂けたら光栄です。

 ものすごく私事ですが、個人的に式 顎のような「悪の華」は大好きです。
 「いっそ勝たせてしまおうかなー」とも思ったり。個人的にですが。

 それでは、新作へのご参加もお待ちしております。
 ありがとうございました。 


                               草村 悠太