■獣の棲む街―鳴動■
在原飛鳥 |
【1521】【五降臨・時雨】【殺し屋】 |
□―――五件目の被害者
悪い夢を見て目が覚めた。
お父さんが怒鳴ったり、お母さんが泣いたりする夢だ。あのこだけはあのこだけはあのこだけは……。
夢から覚めて、里美は怖くなって子ども部屋を出た。そぅっと覗くと、リビングの電気がまだ点いている。暗い廊下を、里美はたっと駆け出した。
「おかあさん……?」
返事はない。里美は床で母が寝ているのを見た。何かを溢したみたいに、赤黒い水溜りが出来ている。びっくりして、里美は母親に駆け寄った。
「おかあさん、起きて!起きてよぅ」
いつもなら「なぁに?」と答えてくれるはずなのに、母は里美が力いっぱい揺すぶっても、かくかく首が揺れるだけだ。
ぬめっとした感覚に、里美は自分の手を見た。
紅い。赤い絵の具をこぼしたみたい。その赤で、母親のパジャマも、里美の手も濡れている。
「あーあ。ガキが起きてきちゃった」
びっくりして里見は顔を上げた。そこには、見たことのない青年が立っている。
母の下にある水溜りと同じ色が、お兄さんのほっぺたにもべったりくっついていた。左手なんか、赤くてびしょ濡れだ。
その手には包丁が握られている。おかあさんが、とうふを切ったり、ネギを切ったりするあの包丁。それが、真っ赤に汚れている。
悪い人が、お父さんとお母さんを倒しちゃった!
里美は飛び上がって駆け出した。むしゃぶりつくようにドアを開けて、もつれる足で階段を駆け上がる。
「待てよ」
お兄さんの声が追いかけてくる。笑っている。
「逃げることないだろ」
里美は自分の部屋に飛び込んだ。どこか、どこか安全なところに隠れなければ。
お兄さんに絶対に見つからなくて、お兄さんが里美を諦めてくれる場所。
タンスの中。それ以外に、隠れることが出来る場所なんてない。飛び込んで、里美は膝を抱えた。
お兄さんは楽しそうに、鼻歌を歌いながら歩いてくる。
こないで。こないでこないでこないで!
……タンスが左右に大きく開かれた。涙でにじんだ視界の向こうで、お兄さんが笑う。
「……見ィつけた」
□―――翌日
「こりゃ……ひどいな」
現場一本で十数年、数々の死体を拝んできた年配の刑事ですら思わず呻いた。それほどに、子ども部屋の惨状はすさまじかったのである。彼に付き従っていた若い刑事は、口を押さえて部屋を飛び出していったきり、まだ戻ってきていない。
若い連中は不甲斐ないといつも嘆いているが、今回ばかりは文句を言う気にもなれない。
少女の死体は、原型も留めないほどに荒らされていた。本来なら白い腹が見えるはずの彼女の胴体は、切り開かれて赤い内臓が露わになっている。引きずり出された臓物は少女の左右に無造作に散らばっていた。幼いその顔の反面は皮を剥ぎ取られ、片目が失われている。血にまみれた女の子用のパジャマがなかったら、性別の判断も付かなかったに違いない。
「直接の死因は?」
「断定できないですが…多分、失血によるショック死じゃないかということです」
これだけ身体を切り刻まれながら、失血死か。苦い顔をした刑事に、それと、と相手が言葉を濁した。
「頬のとこ。肉が削がれてるでしょう。これ、食ったんじゃないですかね」
「またか」
刑事が呻いた。
今年に入って、東京近辺で連続している殺人事件。
まずは20代の男女が殺され、次に一人暮らしの女性が2人襲われて命を落としている。今回の一家3人惨殺事件が一番最近のものだ。
どれも同一犯の犯行と見られているのは、現場からはっきりと指紋が見つかっているからだ。
犯人は動きを奪った被害者を生きたまま切り刻み、被害者は失血死か、痛みによるショック死を引き起こす。二度目の犯行からは死体から肉を切り取って持ち去った形跡があり、三度目の犯行で、犯人は一人暮らしの女性に性的暴行も加えていた。
着衣から足がつくことを恐れたのか、犯人は第一の被害者の部屋から何着か服を持ち出し、その服を着て次の殺害に及んでいる。分かっているのは、それ以外には靴のサイズだけだ。26センチ。一件目の男女殺害現場から持ち出したものと見られている。
血がついた服は、その場で捨て、盗んだ服または持ち込んだ服を着て逃走…。
これだけ犯行が続いているというのに、未だに犯人の姿を見たものはいない。
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獣の棲む街─鳴動編
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□―――オープニング:五件目の被害者
悪い夢を見て目が覚めた。
お父さんが怒鳴ったり、お母さんが泣いたりする夢だ。あのこだけはあのこだけはあのこだけは……。
夢から覚めて、里美は怖くなって子ども部屋を出た。そぅっと覗くと、リビングの電気がまだ点いている。暗い廊下を、里美はたっと駆け出した。
「おかあさん……?」
返事はない。里美は床で母が寝ているのを見た。何かを溢したみたいに、赤黒い水溜りが出来ている。びっくりして、里美は母親に駆け寄った。
「おかあさん、起きて!起きてよぅ」
いつもなら「なぁに?」と答えてくれるはずなのに、母は里美が力いっぱい揺すぶっても、かくかく首が揺れるだけだ。
ぬめっとした感覚に、里美は自分の手を見た。
紅い。赤い絵の具をこぼしたみたい。その赤で、母親のパジャマも、里美の手も濡れている。
「あーあ。ガキが起きてきちゃった」
びっくりして里見は顔を上げた。そこには、見たことのない青年が立っている。
母の下にある水溜りと同じ色が、お兄さんのほっぺたにもべったりくっついていた。左手なんか、赤くてびしょ濡れだ。
その手には包丁が握られている。おかあさんが、とうふを切ったり、ネギを切ったりするあの包丁。それが、真っ赤に汚れている。
悪い人が、お父さんとお母さんを倒しちゃった!
里美は飛び上がって駆け出した。むしゃぶりつくようにドアを開けて、もつれる足で階段を駆け上がる。
「待てよ」
お兄さんの声が追いかけてくる。笑っている。
「逃げることないだろ」
里美は自分の部屋に飛び込んだ。どこか、どこか安全なところに隠れなければ。
お兄さんに絶対に見つからなくて、お兄さんが里美を諦めてくれる場所。
タンスの中。それ以外に、隠れることが出来る場所なんてない。飛び込んで、里美は膝を抱えた。
お兄さんは楽しそうに、鼻歌を歌いながら歩いてくる。
こないで。こないでこないでこないで!
……タンスが左右に大きく開かれた。涙でにじんだ視界の向こうで、お兄さんが笑う。
「……見ィつけた」
□―――翌日
「こりゃ……ひどいな」
現場一本で十数年、数々の死体を拝んできた年配の刑事ですら思わず呻いた。それほどに、子ども部屋の惨状はすさまじかったのである。彼に付き従っていた若い刑事は、口を押さえて部屋を飛び出していったきり、まだ戻ってきていない。
若い連中は不甲斐ないといつも嘆いているが、今回ばかりは文句を言う気にもなれない。
少女の死体は、原型も留めないほどに荒らされていた。本来なら白い腹が見えるはずの彼女の胴体は、切り開かれて赤い内臓が露わになっている。引きずり出された臓物は少女の左右に無造作に散らばっていた。幼いその顔の反面は皮を剥ぎ取られ、片目が失われている。血にまみれた女の子用のパジャマがなかったら、性別の判断も付かなかったに違いない。
「直接の死因は?」
「断定できないですが…多分、失血によるショック死じゃないかということです」
これだけ身体を切り刻まれながら、失血死か。苦い顔をした刑事に、それと、と相手が言葉を濁した。
「頬のとこ。肉が削がれてるでしょう。これ、食ったんじゃないですかね」
「またか」
刑事が呻いた。
今年に入って、東京近辺で連続している殺人事件。
まずは20代の男女が殺され、次に一人暮らしの女性が2人襲われて命を落としている。今回の一家3人惨殺事件が一番最近のものだ。
どれも同一犯の犯行と見られているのは、現場からはっきりと指紋が見つかっているからだ。
犯人は動きを奪った被害者を生きたまま切り刻み、被害者は失血死か、痛みによるショック死を引き起こす。二度目の犯行からは死体から肉を切り取って持ち去った形跡があり、三度目の犯行で、犯人は一人暮らしの女性に性的暴行も加えていた。
着衣から足がつくことを恐れたのか、犯人は第一の被害者の部屋から何着か服を持ち出し、その服を着て次の殺害に及んでいる。分かっているのは、それ以外には靴のサイズだけだ。26センチ。一件目の男女殺害現場から持ち出したものと見られている。
血がついた服は、その場で捨て、盗んだ服または持ち込んだ服を着て逃走…。
これだけ犯行が続いているというのに、未だに犯人の姿を見たものはいない。
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都内で起こる連続猟奇殺人事件。警察ですら目星のついていないこの件に関する情報を掴んできたのは、迷惑と面倒を運ぶと噂の紹介屋、太巻大介である。
草間の事務所に呼び出されたのは三人。長刀を背中に下げた大男、20代にして近づきがたい雰囲気をかね添えた女性、それに青い髪の中学生である。それぞれ順に、五降臨時雨(ごこうりん・しぐれ)、ステラ・ミラ、海原みなも(うなばら・みなも)というのだと、太巻は手短に紹介した。個性激しい二人がみなもを挟む形で、三人はバネの壊れかけたソファに腰を下ろす。
「大まかなことは説明したとおりだ。岡部ヒロトは昼過ぎに駅前のネットカフェに出没した後、喫茶店で食事をする。そこから先の足取りを探るのが、あんたらの仕事だ」
三人が揃うまで目を通していた手紙をポケットに突っ込み、吸殻が山になった灰皿に煙草を押し付けて太巻は切り出した。余計な挨拶もなければ、前置きもない。すぐに本題に入るのはこの男の癖である。対する三人は、それぞれに口を閉ざして、その言葉の意味を吟味した。
みなもの右隣ではステラが腕を組み、左隣では計り知れない無表情で時雨が沈黙を保っている。始めに口を開いたのは、みなもだった。
「岡部が現在警察にマークされていないのは動機はもとより目撃証言が存在しないから。そして、超能力者同士の噂によると、彼も超能力者と推測されます。そこで、太巻さんに彼の能力についてお尋ねします」
太巻は、笑って掌を空に向ける仕草をしてみせる。
「ノー・アイデア。岡部ヒロトの能力は、よく知られてないんだな。だからみすみす二人の能力者が消えた」
「太巻様は、私たちの前任者は岡部ヒロトに消された…と考えていらっしゃるのかしら」
よく通る声はステラのものだ。太巻はそちらへ視線を滑らせ、答えのかわりに肩を竦めた。
「まだ、死体は出ていないからなんとも言えないね」
その事実が何の意味も成さないことを、居合わせた誰もが知っていた。太巻の台詞は、二人の能力者の生存の可能性が低いことを示唆している。ステラは軽く息を吐き出し、みなもが表情を引き締めた。
「ま、そんな感じだから、くれぐれも用心してくれよ……おいおいおい」
口調を変えて、太巻の手がビシっと時雨にツッコんだ。
「てめえは髪の先まで動かさずに座ってろ。な?どうしたらそんな滑稽なオブジェになるのか、むしろ教えて欲しいぜおれは」
「ご……め…ん。倒れそうに、なった…から」
みなもとステラが振り返った先では、時雨がソファに立てかけてあった大刀が倒れそうになるのを、両手で押さえているところだった。なるほど奇妙な格好で固まっている。
まあいいや、と視線を逸らして、太巻はみなもとステラに向き直った。
「岡部ヒロトは恐らく単独犯だ。ヤツのことは他にも何人かに追わせているから、道中不審な人物を見つけてもあまり関わらないように」
「それは、他にも同じ依頼を受けた方がいらっしゃるということですの?」
ステラが太巻を見つめ返す。岡部ヒロトに関して動いているのは、どうやらここに集まった三人だけでは足りないらしい。言わなかったことを悪びれもせず、軽く頷いて太巻は笑った。
「いいじゃねえか。イザって時は助け合えるだろ?」
□―――作戦会議
時雨の長刀を安定した床の上において、三人は膝を付き合わせた。
「私は、ネットカフェで岡部ヒロトの影に身を潜ませましょう。それだったら行動を逐一監視し、何かあれば犯罪を未然に防ぐことも可能でしょうからね」
はじめにそう口にしたのはステラである。永遠とも思える長い時を使い魔と一緒に旅してきたというだけあって、その態度は落ち着き払っている。
「あたしは本職ではありませんので、必要以上に距離を置きます。時雨さんやステラさんのような力はありませんし……。攻撃よりも支援、支援よりも逃走を優先するつもりでいきたいと思います」
聖水の入ったボトルを片手に、しっかりした意見を述べたのはみなもだ。他人に気おされたり流されたりすることなく自分の意見を言えるのは、彼女の得がたい資質である。
「ボク…は、……動物に、頼む。……尾行」
最後に動物と対話が出来るという時雨がボソボソと発言し、三人は互いの計画を頭の中で復唱して頷く。
「では、そろそろ時間ですし、参りましょうか。私は先にネットカフェで岡部ヒロトを待ち受けることにいたしましょう」
ステラが言って、残る二人を振り返る。すぐにみなもが返事をした。
「あたしは顔を覚えられても困りますので、ネットカフェの外で待つことにします」
「そうですか。岡部ヒロトが去った後に、閲覧したHPや掲示板のチェックもしたほうがいいと思いますが、それは私にお任せいただけますか?」
みなもが頷くと、ステラは一度顎を引き、そのまま興信所を出て行った。ネットカフェでの尾行とバックアップは、彼女に任せても問題がないようである。
「じゃあ……」
突然思い立ったように声を上げたのは、今まで黙って話を聞いていた太巻だ。二人を交互に眺めると、太巻は摘んだタバコをひょいと動かしてその赤い先端を時雨に向けた。
「お前たち、二人で行動するといい。アンタは尾行を動物に任せておけるなら、みなもと一緒に離れたところから尾行しても、問題はないだろう?」
□―――閑話:五降臨時雨
「あー、オイ、お前。…ちょっと」
みなもが消えた扉に続いて手を掛けようとして、時雨は太巻に呼び止められた。自分や弟と似た匂いのする男である。同じ世界に生きている同属の気配に気づかぬわけがあるまいが、太巻は気楽に時雨に声を掛けた。
時雨が立ち止まると、太巻はその胸に向けて人差し指を振り、外に声が漏れないように声を低める。
「さっきのあのコ、お前がちゃんと面倒みてやれよ。あっちはお前みたいに殺しても死なない不死身ボディとはワケが違うんだからな」
自分を差し置いて、これはあんまりな言い分である。だが本人には悪びれた様子もない。時雨にも、それを訂正するだけの勢いが足りず、結局素直に頷くことになる。
「……わかった…」
「了解したからには守れよ」
念を押して、太巻は時雨を送り出す。それからはー、と息を吐いた。
「ったく、アドバイスを寄越すくらいなら、自分で止めろっちゅーの」
言葉の意味を判別しかねて首を傾げる時雨に、お前はいいんだと太巻はおざなりに手を振った。
太巻が時雨の弟からの手紙を受け取ったのは、今朝のことだ。「兄は動物と子どもが傷つけられると理性が飛んでしまうので注意してくれ」という内容である。時雨の弟の忠告が果たして親切心なのか気まぐれなのか……99%気まぐれだろうと、弟のいい噂を聞かない太巻は思っている。
「親切めかして忠告するくらいなら、テメエで兄を止めろっちゅーのな」
パタンとドアが閉まってから太巻が漏らした呟きは、その場に居合わせた草間兄妹だけが聞いたのだった。
□―――尾行:ステラ・ミラ
平日だというのに、足を踏み入れたネット・カフェは盛況だった。
昼から他に何もすることがないのだろうか、と他人事ながらステラは心配になってしまう。入り口を見通せる位置に空いている台を探して、ステラはコンピューターと向かい合った。
モニターの隅の時計を確認すると、そろそろヒロトが現れる時刻である。彼が現れるのを待つまで、ステラは適当にキーを叩きながら気配を探った。太巻は他にも人を雇ってヒロトを尾行していると言っていた。さすがにステラに気配を探らせないが、何人かは「そうではないか?」と思わせる雰囲気を持っている。
どちらにしろ、探っても意味のないことだ。考え直して、ステラは店の入り口に視線を投げた。
入り口に備え付けられたカウンターには、ブランドものの服を着た大学生風の若者の姿がある。太巻が見せた写真の男だ。
(岡部ヒロト……あの方ですね)
ヒロトは入り口でぴたりと足を止め、台を探してあたりを見回す。それから諦めたように、左右を先客に囲まれた台に足を運んだ。背は高くないが、その動きは優雅だ。単に自意識が過剰なのか、育ちの問題なのか、そのあたりの判別は難しい。
しばらくの間、ヒロトはキーボードに手をつけず、画面を眺めて考え事をしているようだった。やがておもむろに手を伸ばし、他の客と同じようにキーボードを打ち始める。
ヒロトの影に身を隠すには、ある程度近くにいかなくてはならない。怪しまれないように、離れた場所ですわり、キーボードの上で指を遊ばせながらステラは待った。ヒロトの無防備な背中越しに、有名なサイトのロゴが見える。と思えばたちまち他のサイトに飛び、次の瞬間には新しい窓を開けている。ヒロトの動きには迷いがなく、遠めには動きが早すぎて何をしているのかまでは分からない。もどかしい時間が過ぎる。
三十分後……ようやくヒロトは開いていた窓を閉じて、席を立った。ぶらりとした足取りで、出口に近づいてくる。ステラが待機している席のすぐそばだ。帰り支度を始めるふりをして、ステラも席を立った。
ヒロトが通り過ぎる。
その一瞬で十分だった。ステラはヒロトの背後を通って影を踏み、その黒い染みの中にすとんと自分が潜ってみせた。
気づいたものはいない。たとえ気づいたとしても、目を擦ってステラがまだそこに居ることを確認し、気のせいかと考えるのが関の山だ。ステラは「潜った」時に分身を作っていた。ステラの分身は、何事もなかったような顔でヒロトの使っていたコンピューターに向かい、何気ない調子でそこに座る。ヒロトの影に扮するステラに変わって、「彼女」はヒロトが閲覧していたホームページや掲示板をチェックするのだ。
ヒロトは店を出る時に一度だけ振り返ったが、自分の席が既に他の人間によって占領されている事も、特に疑問を覚えなかったようである。すぐに踵を返して、ネットカフェを後にした。
□―――尾行:五降臨時雨・海原みなも(喫茶店前)
時雨が電信柱に刀を引っ掛けてじたばたするという失態を犯したので、みなもは考えた末、表通りから一本ずれた裏道に隠れることにした。ネットカフェと喫茶店の間に位置する裏道である。そこからなら、ヒロトがいつも立ち寄るという喫茶店が見わたせる。ヒロトがネットカフェから出てきたら、かならずこの前を通るはずだった。
時雨と二人で立ち尽くし、みなもは時計を確認した。午後2時…今頃はステラが、ネットカフェでヒロトと接触している頃である。何十分もなすすべもなく立っているのは辛かったが、時雨を連れて店に入るわけにもいかない。何しろ彼は目立つのだ。2メートルを越す刀を背負っているだけでも人目につくのに、何かとミスを犯しては人の注目を集めてしまう。
パタパタと軽い羽音がして、時雨の肩に小鳥が着地した。さっきから、10分間隔で鳥やネズミが時雨の足元や頭の上にやってきては、時雨にしか聞き取ることの出来ない声で「報告」をしてくれるのだ。
(これも……目立ちますわね)
チィチィと囀る小鳥の声を、時雨は頷いて聞いている。たまに行き過ぎる人にぎょっとした顔をされるのは少し恥ずかしかったが、確かに便利だ。それに、時雨は妙に柔らかい雰囲気を持っていて、みなもは一緒にいると心地よい。きっと動物たちも同じ気持ちなのだろう、とみなもは黙って待ちながら想像した。
「出て、くる……らしい」
ぼそりと時雨が言った。みなもは慌てて時雨を裏道に押し返して身を隠す。長刀が壁に引っかかってバランスを崩し、どこかで頭をぶつけたらしい時雨が呻くのには、早口で「ごめんなさい!」と謝った。
「痛……」
「今度から、もう少し縦に刀を持つようにしてはだめかしら…」
45度ほどの角度を持って、刀はしきりに両脇の壁に引っかかるのだ。丁寧に刀を直してやりながら、みなもははっと息を詰めた。
薄暗い路地からは、表通りは明るく見える。その狭い隙間を、岡部ヒロトの姿が横切った。
こちらに顔を向けもしない。ヒロトはすぐにみなもと時雨のいる道を通り過ぎた。
二人の視線は思わずヒロトの影を確かめる。ステラがヒロトに気づかれていなければ、彼女は影の中に潜んでいるはずだ。
ヒロトの足から伸びた影は、そこに潜んだ者の存在を示すように、二人の視線を受けてゆらりと揺れた。
□───尾行:五降臨時雨・海原みなも(喫茶店前2)
「五降臨さんは、本当に動物に好かれていらっしゃるんですね」
ヒロトが喫茶店を出てくるのを待つ間、みなもと時雨は日陰に佇んで暑気を避けていた。その間も、時雨の元には動物たちがひっきりなしにやってくる。
コンクリートの塀を伝ってやってきた野ねずみが、時雨の肩をちょろちょろと上っていった。時雨は振り返って、自分の胸ほどの背丈しかない少女を見下ろす。
「ボク……は、言葉……わかる…から」
「それにしても、優しい方でなくては好かれませんわ」
屈託なくみなもは笑った。その瞳は時雨の刀を目に留めると翳ってしまう。
「出来るならずっと、その刀が使われることがなければいいのですけれど」
そういって眉宇を顰める横顔は愁いを帯びている。言葉を返しかねて、時雨は通りを振り返った。肩の上で休息している野ねずみが、ヒロトが喫茶店を出てくると教えてくれたのだ。
「来た……」
カランと軽いベルを響かせて、ドアが開く。ヒロトは喫茶店を出ると、みなもたちが身を隠している通りとは反対側に向かって歩き出した。その足取りは軽快で、まるで用心しているようには見えない。たまにはそれらしく相手の気配に目を凝らしてみたが、時雨にはヒロトはまるで無防備に見えた。…もっとも、時雨は気配を読むのに慣れていないから、実際にヒロトがこちらに気づいていない確証はないのだが。
ともかくも何も考えずに歩き出した時雨の袖を、みなもが引っ張って止めた。
「念には念をいれて、十分距離を置いてから後をつけましょう。最悪彼を見失っても、ステラさんが尾行を続けてくれますわ」
みなもに言われ、時雨は頷く。自分ひとりならともかく、今はみなもも、動物たちもいる。敢えて危険を犯す必要もなかった。
ヒロトとは大分距離を空けて歩いたので、彼が角を曲がるたびに見失いそうになる。時雨は、ヒロトが角を曲がって消えるたびにみなもに急かされて足を速め、ついでにあちこちに身体をぶつけていた。一度電信柱に突っ込んでから、みなもは時雨の手を引いてくれる。
傍から見ればみるからに怪しい二人連れだったかもしれないが、幸か不幸か、彼らに注意を止める通行人は通りがからなかった。
ヒロトが、また一つ角を曲がる。
「急ぎましょう」
みなもが早足になって、トロトロしている時雨の腕を引っ張った。
ヒロトが曲がった道は、途中にある小さな十字路のそのまた向こうだ。距離にすれば結構ある。
足を速めて、十字路を通り過ぎようとしたところで、小さな道の左手側から人影が現れた。
「きゃっ」
小さな悲鳴を上げて、みなもが時雨の腕にしがみつく。通りから出てきたのは中肉中背の、大学生風の若者。
……もう一本先の道を右に曲がって消えたはずの、岡部ヒロトだった。
ヒロトはちらりとみなもと時雨に視線を向けたが、すぐに目を逸らす。ただのカップルだとでも思ったのかもしれない。
両手をポケットに突っ込み、悠々とヒロトは元来た道を歩いていった。
すぐに角の道を曲がる。
「……追って」
時雨が小声で呟くと、彼らの頭上の木が揺れて、一羽の鳥が飛び立った。パタパタと音をさせながら、小さな身体が、ヒロトの去った方向へと飛び去っていく。
それを見届けてから、時雨とみなもは狐につままれたような気持ちで顔を見合わせた。
□───悪意
「見失ってしまいました」
時雨とみなもを見つけるなり、ステラはなんともいえない表情でそう言った。その顔には釈然としない、という気持ちがありありと浮かんでいる。
ヒロトを追って飛んでいった鳥を指に止まらせて、時雨も少し口を噤んでから二人を見た。
「ヒロトは……道の先に…は……いなかった………みたい」
ここでも、ヒロトは忽然と姿を消したのだ。ステラが益々顔を歪め、みなもは困惑顔になる。
「一体……どういうことですの?」
答えるものはいない。
ややあって、ネットカフェの分身の様子を探っていたらしいステラが眉を顰める。
「どうかしたんですか?」
みなもが問うと、ステラは緩く首を振って息を吐く。
「どうやら……」
視線の先には何も描かれていないが、ステラは分身の目を通して、ネットカフェのモニターに表示された文章を読むことが出来る。
「尾行に気づかれていたようですね。ネットカフェの履歴の一つに書き置きが」
ステラの分身が見つけたのは、メモ帳に残されたメッセージだった。
マイドキュメントに保存され、「最近使ったファイル」に残されていたものである。
「なんと書かれていたんですか?」
時雨の袖を握るみなもの手に力が篭る。ステラは僅かに眉を寄せて、そこにある文章を読み上げた。
「YOU WILL NEVER GONNA GET ME YOU NUMB HEAD」
「………意味…」
時雨が哀しそうに言った。
「捕まるわけがないだろう、このあほうども……という感じでしょうか」
「尾行に気づかれていたんですね」
みなもが唇をかみ締める。いつ気づいたのかは分からないが、ネットカフェを出た時点で、ヒロトは尾行に気づいていた。尾けられているのを承知の上で、すぐには見つからない場所にメッセージを残していったのである。
「大胆というか……」
「今日は、もう尾行は無理……ですね」
時雨が動物たちに頼んでヒロトを探して貰ったが、彼は最早影も形もなかった。何より、こちらの尾行がばれてしまった以上、深追いは危険である。
「太巻様のところへ戻って、今後のことを相談することにいたしましょう」
そうして興信所に帰った三人だったが、彼らはまだ知らなかった。
その日、彼ら三人を嘲笑うかのようにまた一人、若い女性が殺されたということを。
他の被害者と同じように生きながら身体を切り開かれた跡があり、相変わらず犯人の目撃証言は皆無。
ただし、今回の事件には今までと違った点が一つだけあった。
犯人からのメッセージである。
白く綺麗なままで残った遺体の背中に、包丁で切り刻んだ文字だ。
そこには、犯人を追う人々を嘲笑うかのように、言葉が連ねてあった。
「追ウダケ ムダ ダ」
と。
→獣の棲む街・中編「悪意」へ続く
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
・1521 / 五降臨・時雨 / 男 / 25 / 殺し屋
・1252 / 海原・みなも / 女 / 13 / 中学生
・1057 / ステラ・ミラ / 女 / 999 / 古本屋の店主
NPC
・太巻大介(うずまきだいすけ)/ 紹介屋 /
・岡部ヒロト(おかべひろと)/ 都内私立大学在学中の大学生 / 連続猟奇殺人事件の犯人と目されている。
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■ ライター通信 ■
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あんまりボケてなくてすいません!(それが挨拶ですか)
諸事情など特に無く、微妙にお届けが遅くなってしまいました……お待たせして申し訳ない。
キャラクターの個性上の適不適に関係なく、シナリオを読んで面白そうだと思って下さる事が著者としては一番嬉しいです。
そんなわけで、依頼を受けていただいてありがとうございました!
早くて今週中には、中編のシナリオをアップする予定です。しょうがないから付き合ってやるかと思っていただけたら、また遊んでやってください。
それでは、夏風邪夏ばてにはくれぐれもお気をつけください!
在原飛鳥
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