■獣の棲む街―鳴動■
在原飛鳥 |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
□―――五件目の被害者
悪い夢を見て目が覚めた。
お父さんが怒鳴ったり、お母さんが泣いたりする夢だ。あのこだけはあのこだけはあのこだけは……。
夢から覚めて、里美は怖くなって子ども部屋を出た。そぅっと覗くと、リビングの電気がまだ点いている。暗い廊下を、里美はたっと駆け出した。
「おかあさん……?」
返事はない。里美は床で母が寝ているのを見た。何かを溢したみたいに、赤黒い水溜りが出来ている。びっくりして、里美は母親に駆け寄った。
「おかあさん、起きて!起きてよぅ」
いつもなら「なぁに?」と答えてくれるはずなのに、母は里美が力いっぱい揺すぶっても、かくかく首が揺れるだけだ。
ぬめっとした感覚に、里美は自分の手を見た。
紅い。赤い絵の具をこぼしたみたい。その赤で、母親のパジャマも、里美の手も濡れている。
「あーあ。ガキが起きてきちゃった」
びっくりして里見は顔を上げた。そこには、見たことのない青年が立っている。
母の下にある水溜りと同じ色が、お兄さんのほっぺたにもべったりくっついていた。左手なんか、赤くてびしょ濡れだ。
その手には包丁が握られている。おかあさんが、とうふを切ったり、ネギを切ったりするあの包丁。それが、真っ赤に汚れている。
悪い人が、お父さんとお母さんを倒しちゃった!
里美は飛び上がって駆け出した。むしゃぶりつくようにドアを開けて、もつれる足で階段を駆け上がる。
「待てよ」
お兄さんの声が追いかけてくる。笑っている。
「逃げることないだろ」
里美は自分の部屋に飛び込んだ。どこか、どこか安全なところに隠れなければ。
お兄さんに絶対に見つからなくて、お兄さんが里美を諦めてくれる場所。
タンスの中。それ以外に、隠れることが出来る場所なんてない。飛び込んで、里美は膝を抱えた。
お兄さんは楽しそうに、鼻歌を歌いながら歩いてくる。
こないで。こないでこないでこないで!
……タンスが左右に大きく開かれた。涙でにじんだ視界の向こうで、お兄さんが笑う。
「……見ィつけた」
□―――翌日
「こりゃ……ひどいな」
現場一本で十数年、数々の死体を拝んできた年配の刑事ですら思わず呻いた。それほどに、子ども部屋の惨状はすさまじかったのである。彼に付き従っていた若い刑事は、口を押さえて部屋を飛び出していったきり、まだ戻ってきていない。
若い連中は不甲斐ないといつも嘆いているが、今回ばかりは文句を言う気にもなれない。
少女の死体は、原型も留めないほどに荒らされていた。本来なら白い腹が見えるはずの彼女の胴体は、切り開かれて赤い内臓が露わになっている。引きずり出された臓物は少女の左右に無造作に散らばっていた。幼いその顔の反面は皮を剥ぎ取られ、片目が失われている。血にまみれた女の子用のパジャマがなかったら、性別の判断も付かなかったに違いない。
「直接の死因は?」
「断定できないですが…多分、失血によるショック死じゃないかということです」
これだけ身体を切り刻まれながら、失血死か。苦い顔をした刑事に、それと、と相手が言葉を濁した。
「頬のとこ。肉が削がれてるでしょう。これ、食ったんじゃないですかね」
「またか」
刑事が呻いた。
今年に入って、東京近辺で連続している殺人事件。
まずは20代の男女が殺され、次に一人暮らしの女性が2人襲われて命を落としている。今回の一家3人惨殺事件が一番最近のものだ。
どれも同一犯の犯行と見られているのは、現場からはっきりと指紋が見つかっているからだ。
犯人は動きを奪った被害者を生きたまま切り刻み、被害者は失血死か、痛みによるショック死を引き起こす。二度目の犯行からは死体から肉を切り取って持ち去った形跡があり、三度目の犯行で、犯人は一人暮らしの女性に性的暴行も加えていた。
着衣から足がつくことを恐れたのか、犯人は第一の被害者の部屋から何着か服を持ち出し、その服を着て次の殺害に及んでいる。分かっているのは、それ以外には靴のサイズだけだ。26センチ。一件目の男女殺害現場から持ち出したものと見られている。
血がついた服は、その場で捨て、盗んだ服または持ち込んだ服を着て逃走…。
これだけ犯行が続いているというのに、未だに犯人の姿を見たものはいない。
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獣の棲む街―鳴動
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岡部ヒロト、21歳。私立S高校卒業。現在都内私立K大経済学部所属。
成績は中の上、深く付き合っている友人や恋人の存在は見当たらない。授業を欠席することも多く、ネットカフェや漫画喫茶、ゲームセンターなどに足を運んでいる。所属するサークルは特になし。現住所は東京都○区XX町4丁目コーポ大西。賃貸の支払い及び生活費は神奈川の実家が出している。
「……尚、19XX年同氏は14才の時クラスメイトの少女の自宅に侵入し、乱暴行為を働いている。被害にあった家の希望もあり、双方の両親が同意の上で警察には届けなかった。この時、被害にあった少女は岡部ヒロトが突然部屋に現れたと証言しており、一階に居た彼女の両親も、岡部ヒロトが玄関から侵入した気配はなかったと言っている……」
宮小路皇騎が持参したファイルを読み終えて、シュライン・エマは顔を上げた。
「よく調べたわね、こんなことまで」
シュラインの言葉に、美形の青年は頭を掻く。
「ええ、まあ。先達て追っていた能力者が消息を絶っているとのことだったので、準備は怠らないほうがいいかと思いまして」
一体どんなコネを使ったのか。黒髪の陰陽師の情報収集力に舌を巻きながら、シュラインは集まった面々を見回した。
太巻の依頼に答えて草間興信所にやってきたのは、男性一人に、女性が二人だ。陰陽師にして某財閥の御曹司である宮小路皇騎(みやこうじ・こうき)に、学校で保健医をしているという南條慧(なんじょう・けい)。それに怪奇探偵の下でボランティア的アルバイトをするシュライン・エマである。今、三人はバネのきかなくなったソファに腰を下ろし、岡部ヒロトに関する情報を交換しているところだった。
「突然部屋に現れたっていうこの証言は興味深いわね」
ファイルに視線を落としながら、慧が呟く。それにはシュラインも同意を示した。
「一連の事件で目撃者がいないのは、犯人が姿を消せる、もしくは空間を渡れる能力があるから。……そういう可能性はないかしら」
ありえる話だ。警察の必死の捜査にも関わらず、犯人に関する目撃証言は頓挫している。それも、犯人に常識を超える力が備わっているとすれば説明はつくのだ。
理屈としてはそれでいいが、確証が足りない。
「超能力者の間で、岡部ヒロトのことが噂になってないか調べてみたんだけれど。他超能力者との交流は殆どなかったようね。ただ、かなり危ない男だという噂はあったみたい。能力については、手を使わずに相手を攻撃するのを見た人が居たわ」
テレポートなどの能力についての情報はなし、だ。幾つか確認したいんだけど、とシュラインは太巻に向き直った。
「被害者の切り跡から利き腕等は分かっていない?26センチという靴のサイズは屋内のものよね?それと、行方不明になった人たちの能力も聞いておきたいんだけれど」
頭の後ろで手を組んで、目を閉じていた太巻が薄目を開けた。ゆっくりとソファの上に座りなおして、話を纏めるように頬を掻く。
「……まず、被害者の切り跡から犯人は左利きだということが分かっている。ちなみに岡部ヒロトも左利き。ヒロトの靴跡は屋内で発見されたものだ。たまに左足の踵で床を擦るような歩き方をしている。消えちまったヤツらは、一人は霊を操ることが出来た霊能力者。もう一人は式神を使う…お前の同業者だよ」
最後の言葉は皇騎に向けられたものである。その言葉を聞いて、彼は整った眉宇を顰めた。
「陰陽師か」
おざなりに頷いて、太巻は燃え尽きた煙草を灰皿に落とした。男に対して愛想がないのはお互い様であるらしい。
「さて。そんじゃ、ミッション・インポッシブルの時間だぜ。健闘を祈る」
太巻の言葉に、草間興信所に集まった面々は微妙な顔だ。テレビ版「スパイ大作戦」を知らない若者たちが首をかしげている。
「……ちょっと古すぎるわね、それは」
一瞬興信所を支配した沈黙の後に、呆れて慧が呟いた。
□―――シュライン・エマ:ネットカフェ
ところ構わず携帯電話を使用するのはマナーとしてどうかという議論は置いておくとして、今日ばかりはそんな日本の風習がありがたい。男もののカジュアルスーツに、焦茶色のカラーコンタクトで目の色を隠し、男装の麗人がしみじみと息を吐き出した。ヒロトを用心して男声を使っているが、間違えるはずもなくシュラインである。
「これで、尾行中に声を出さなくても報告が出来るんだから便利よね」
視線の先には、新しくケイタイのアドレス帳に追加された「太巻」の名前。世の中便利になったものだ。
太巻は自分のケイタイにシュラインのデータを加えて、それを武彦に自慢していた。武彦は未だにケイタイの機能を20%も使いこなせていないのである。「それがどうした?」と言いつつも武彦はくやしそうだったので、シュラインのケイタイメールに草間武彦の名前が加わる日も遠くはないかもしれない。
パタンと待ち受け画面が表示されるケイタイを閉じて、シュラインは戸口を振り返った。そろそろ岡部ヒロトがあらわれる時間帯である。
(ん、あれかな)
ちょうど、店のドアを開けて大学生風の男が入ってきた。背丈はシュラインとあまり変わらないくらいか。太巻に見せられた写真と、彼の顔が一致する。岡部ヒロトだ。
離れた位置から、同じようにヒロトを待っていた皇騎と慧が身じろぐのが見えた。何気なさを装って、シュラインはヒロトから視線をはずす。店内を見回したのは空いている席を探すためだろうが、用心に越したことはない。
ヒロトは急ぐでもなく、空いている席に向かった。モニターに表示された文字を読むフリをして、シュラインは耳を澄ます。常人より鋭敏な感覚を持つシュラインの耳は、いくつもの雑音の中からヒロトの出す音を聴き分けた。
呼吸……浅いが正常だ。たまに呼気のかわりにため息のような音を洩らす。次いで靴音に耳を傾けた。
重そうな音がする。
(靴のサイズが合ってないのね。……運動靴かな)
ちらり、と視線を向けた。一目でそれとわかる有名なブランドのバスケットシューズ。青と水色のマーブル模様に、黒いライン。思わず靴をじっと見てしまった自分に気づき、慌てて視線をモニターに戻した。
事件が起こってから、何度も新聞やニュースが騒ぎ立てる事件は、シュラインの頭にしっかり刻み込まれている。その中で、ニュースキャスターが言っていなかったか。
「犯人は一件目の被害者宅で靴を持ち出し、その靴を履いて犯行に及んでいる模様。足跡から判断されたのはバスケットシューズで、国内でも人気の高い海外ブランドです」
と。
説明と同時にテレビに映った「犯人が履いていると思われる靴」は、まさにヒロトが履いているのと同じ靴だった。
そして、足音。ヒロトは何歩かに一回、まるで身体を動かすタイミングを間違えたかのように、左足が床に擦れる時がある。ほんの些細な足音の違いだが、シュラインの耳は確かにそれを聞き分けた。
脇に置いた携帯電話に手を伸ばし、片手だけで文字を打ち込む。送信ボタンを押すと、こんな状況には不釣合いなアニメーションが、メールを片手に画面の外へ消えた。
画面を見つめていると、すぐに手の中でケイタイが震える。太巻からだ。
『順調なすべりだし。上等。』。なんだか気楽なノリである。そう思ってケイタイを眺めていたら、また電話が震えて太巻からのメールを受信した。
『無理はするな。何かあったらすぐにメールしろ』
一つ前のメッセージとは微妙に口調が違う。
(……武彦さんかしら)
ケイタイを前に、二人でシュラインのメッセージを眺めているのかもしれない。了解、と返事を返して、シュラインはヒロトに意識を戻した。
ここからでは、彼が何をしているのかまでは窺えない。いくつか開いたウィンドウの一つに、くだんの「連続猟奇殺人事件」の見出しが躍っている。
ヒロトのコンピューターは、リアルタイムで皇騎がハッキングして内容を探ると言っていた。何かあったら、彼の方からアクションを起こしてくるだろう。そう思って、怪しまれないように適当にマウスを動かす。
(缶ジュースでも飲んでくれたら指紋を取れるんだけど……)
そう思って待ってみたが、ヒロトがジュースを買いに立ち上がる気配はない。まあそう上手くいくわけもないかと諦めて、シュラインはヒロトが立ち上がるのを待った。
30分ほど経ったころ、ヒロトがブラウザを閉じて椅子を引いた。そのまま店の出口に向かう。店を出て彼を追いかけるタイミングを見計らっていたら、四つ隣の席で皇騎が立ち上がった。
急ぐでもない歩調で通路を歩き、シュラインの前を通り過ぎる。通りがけに、彼女の膝の上に紙が落ちた。
皇騎からのメッセージだ。すぐにメモを開きたいのを堪え、シュラインは椅子に座りなおす。
ヒロトが十分遠くに行ってから、さり気ない仕草で紙片を抓んで開いてみた。
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"YOU'LL NEVER GONNA GET ME YOU NUMB HEAD."
私たちに向けられたメッセージかも
気づかれたかもしれない。気をつけて
K
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二度、それを読み直して紙片を畳んだ。
(能無しとは、言ってくれるじゃないの)
捕まえられるわけがないと、嘲笑っている。これが彼女らに向けられた言葉かどうかは分からないが、
(私たち以外には……向けないわよねえ、こんなメッセージ)
頭を振りながら立ち上がった。慧は気づかれるのを用心してか、まだ席についたままだ。
「南條さん」
声を掛ける。シュラインが声帯模写をした男声に怪訝な顔をした慧だったが、すぐに納得したような顔になる。
「何か問題があったの?」
「問題というかね……」
出て行きがけに皇騎が残していったのだと、説明しながらメモを見せた。
そこに視線を走らせて、慧の形のいい眉が寄る。答えを求めるように、彼女の視線はヒロトが座っていたコンピューターを探したが、そこには新しい客が座ってしまっていた。
「仕方ないか」
どちらからともなく呟いて、二人は出口を見る。これ以上時間を取っていてはヒロトを見失いかねない。
「行きましょう。警戒されてる可能性も考えて、ここからの接触はなしってことで」
□―――喫茶店:その後
喫茶店で、ヒロトは雑誌を読みながら食事をした。特に変わった様子は見られない。霊体になってヒロトを追うと言っていた慧も、ばれたかもしれないと言い残した皇騎も、用心しているのか店内には入ってこなかった。シュラインだけが上着を替えて店に入り、ヒロトの席の斜め後ろに座っている。
コーヒーだけを頼んで、先ほど皇騎が残したメッセージを、そのまま太巻に送信する。今度はさっきよりも間があって、返事が返ってくる。
『十分距離をあけろ。尾行がバレてそうだったら深追いはするな』
返答はらしくもなく真面目で、シュラインは少しだけ気を引き締める。ばれているだろうか?と自問した。服装を変えているし、何よりヒロトは一度もこちらを見なかった。まるで尾行を怖れていないような態度なのである。
(もう少しだけ)
自分に言い聞かせ、コーヒーを飲み終える。ヒロトが食事を終えて席を立つところだった。テーブルには、ヒロトが残した紅茶のカップがまだ残っている。
(あのカップなら、指紋が残っているはずよね…)
伝票を片手に席を立ちながら、シュラインは迷った。一連の事件の殺害現場には、犯人の指紋が残っている。それがヒロトの指紋と一致すれば、警察はヒロトを追うことができるのだ。
だが、騒ぎを起こせばヒロトが不審がるかもしれない。
深追いはするなと言われたばかりだったが、このチャンスを逃すのはあまりに惜しい。
迷ったシュラインを置いて、ヒロトが支払いを済ませて店を出て行く。
覚悟を決めて、シュラインは席を立ち上がった。ヒロトの席を通り過ぎる。さりげない仕草で手を伸ばして、ヒロトのカップをテーブルから落とした。
ガシャン!とガラスの割れる音がして、周囲の人々が驚いたように顔を向ける。
「あ、すいません!」
慌てたフリをして、シュラインは割れたカップの前にしゃがみ込んだ。ヒロトの指が触れていた所……割れたガラスを集めながら、それらしい破片をジャケットのポケットにしのばせる。
「お客様、大丈夫ですか?危ないので拾わなくていいですよ」
ウェイトレスがちりとりを持って駆けつける頃には、ガラスの破片の幾つかはシュラインのポケットに収まっていた。
「ごめんなさい。よかったら弁償しますから」
大丈夫です、とウェイトレスが笑顔で答えるのに、申し訳ないと心中で頭を下げつつ入り口を見やる。
シュラインが起こした小さな騒ぎに、ヒロトはちらりと注意を向けたようだったが、何も気づかなかったらしい。それ以上シュラインには注意を払うこともなく、そのまま店を出て行った。
シュラインが支払いを済ませて店を出ると、ヒロトはもう歩き出していた。やや猫背ぎみのその背中が、角を曲がる。
必要以上に距離を開けて、シュラインはヒロトの後を追いかけた。角を曲がられてしまえば、その姿は見えなくなる。それでも微弱に届く特徴のある足音だけは、どうにかシュラインの耳に届いてヒロトの居場所を教えてくれた。
異常を感じたのは、二つ目の角を曲がったヒロトを追いかけようとした時のことである。足音が完全に消えた。
「……え?」
慌てて立ち止まり、耳を済ませてみるが、ヒロトの足音は完全に消えてしまっている。何人かの足音が聞こえてきたが、どれもシュラインが目指す男のものではなかった。
「消えた!?どういうこと?」
いや、と言ってから否定した。
(まさか…移動したの?)
姿を消せるのではないかと、予想したのはシュライン自身だ。突然消えた足音。
(空を飛んだとも考えられるけど……)
空を見上げても、高いところで鳥が旋回しているだけだ。人の姿が見当たろうはずもない。やはり、最初の予想どおり、移動したのだろう。
「まかれてしまったかしら」
ふっとため息を吐いて、報告をしようとケイタイを取り出した時……。
ヒロトの足音が聞こえた。
彼が姿を消した場所から、だいぶ方角が違う。たまにアスファルトを擦る踵。
シュラインはメッセージの送信を中止して駆け出した。
角を曲がる。
ヒロトの足音が近くなる。シュラインは走るのをやめた。呼吸を整えてから、ゆっくりと歩き出す。足音を立てないように。……ヒロトが誰かと喋っているのだ。
「俺だよ、俺。カップル殺したのも、OL殺ったのも、ガキを切り刻んだのも、みぃんな、お・れ・が・やっ・た・の!」
けたたましくヒロトが笑う。お金持ちのお坊ちゃん然とした外見に反して、その声は下品だった。
立ち止まって、シュラインは耳を済ませる。ヒロトの告白には罪悪感など微塵もない。相手が感じる嫌悪感をむしろ楽しんでいるような口調だった。
対話している相手の声は、シュラインには聞こえない。しかしヒロトは、まるで誰かに何かを言われたかのように喉の奥でくつくつと笑う。
「わかってる、わかってるよ。人殺しだって言うんだろ?けど、逢った事もないやつらのために、何を怒ってんのさ?」
声の聞こえない相手と、ヒロトは会話をしている。
(南條さんかしら)
慧は、霊体になってヒロトを追いかけると言っていた。それならば、シュラインに声が聞こえないのも頷ける。
「……馬鹿って誰のことだよ?!」
ヒステリックにヒロトが声を荒げた。まるで一人芝居を見ているようだ。子どもの癇癪のように甲高い声に、シュラインは息を殺す。ヒロトの荒い息遣いが聞こえた。熱の篭った吐息は、次第に押し殺されたものに変わっていく。
「……あんたさぁ、車の中に居た女だな。これから行って、本体を殺してやるよ」
言葉が途切れた瞬間、声がしていた方から、衝撃が空気を伝わってやってきた。
ぶわりと殺到した空気が、大波のような勢いを持ってシュラインをよろめかせる。
「っ……!!」
飛んでくる小石や埃から顔を庇って衝撃をやり過ごし、シュラインは顔を上げた。
ヒロトの息遣いも足音も、また忽然と消えてしまっている。
……あんたさぁ、車の中に居た女だな。これから行って、本体を殺してやるよ。
ヒロトの言葉が蘇った。やはり、彼は慧と話していたのだ。
(車には、まだ南條さんの身体が残ってるじゃない!)
ヒロトの告白も、報告しなければならない。ケイタイのボタンを押すのももどかしく、シュラインはきびすを返して駆け出した。
ヒロトは案の定、慧が眠っている車の前に立っていた。
慧の口元に、一筋の赤い筋が流れているのが、フロントガラス越しに窺える。
思わず路地から飛び出そうとしたシュラインの腕を、誰かが取って止めた。シュラインが振り返ると、息を乱している皇騎が黙ったまま首を振る。
「宮小路君?」
「今出ては危ない。隠れて」
ヒロトは、ゆっくりと慧の顎を伝っていく赤をじっと眺めている。
ふ、と天を仰いだ。皇騎に命じられた式神たちが、ヒロトに襲い掛かってくる。ぶわり、とさっきと同じように空気が揺れる。ヒロトの周りから衝撃波が伝って、人形たちを吹き飛ばした。
ヒロトは肩を震わせ、ゆっくりと車を振り返る。その左手を車内の慧に向けて翳した。
「操り人形にはご主人様がいるんだろう?出て来いよ」
明らかに、言葉は皇騎に向けられている。慧に向けられた手は脅しだ。出てこなければ、このまま彼女を吹き飛ばしてやる、と皇騎を挑発する。
「私のことも誘い出すつもりらしい」
「行くつもり?あんたまで行って一網打尽になったら、元も子もないわよ」
思わず責めるような口調になったシュラインに、皇騎は苦笑してみせた。
「女性を見捨てるわけにはいかないでしょう」
男性なら兎も角、と嘯いて空を見上げた。大梟が二羽、皇騎の指示を待って旋回している。皇騎の指示を受けて動く、上位式神たちだ。
皇騎の答えを聞いてそれ以上は何も言わず、シュラインは厳しい顔でため息をついた。本当は、シュラインも皇騎も知っているのだ。人を見殺しになど、できるはずがない。
「ヒロトがどういう理屈で私たちに気づいたのか知らないが、エマさんは彼に気づかれていない。隠れたままでいてください」
理屈では、それがいいのだと分かっている。それでも、何もしないで仲間を危険に晒すのは非常に不本意だった。いいですね、と念を押されて、重い首を頷かせる。
「出てこないんだったら、しょうがないなあ」
車の前では、ヒロトが楽しげに声を弾ませていた。
「そこに居て」
シュラインに言い置いて、皇騎が路地を飛び出した。その気配に、用意していたようにヒロトが振り返る。ぶわり、と今度は皇騎を目指して空気が揺れた。
ヒロトは頭上にいる二羽の鳥には気づいていない。ゴロッ、と雨雲もないのに空が鳴った。梟たちが操る雷の音だ。
衝撃が、水の輪のように広がって押し寄せる。
皇騎の身体が衝撃波に吹き飛ばされた。激しい勢いで背中からコンクリートの壁に叩きつけられる。
一瞬の間を置き、ドン!と空気を震わせて雷が落ちた。
ゴロゴロゴロゴロ……と雷の名残が空気を駆け抜ける。
ヒロトの繰り出した衝撃波で壁に叩きつけられた皇騎は、倒れたまま身動きをしない。衝撃波の煽りを受けたのか二匹の梟の姿はなく、ヒロトだけが雷の余韻から冷め切れずに立ち尽くしている。
ヒロトを狙った雷は、わずかの差で狙いを外し、その足元に焼け焦げた跡を作っていた。
煙が立ち昇っているそこに、ヒロトは視線を落とす。遠目からでも、震えているのが分かる右手を改めて見る。
それをしでかした相手を確かめるために、彼はゆっくりと視線を皇騎に向けた。
落雷の影響を足取りに残して、ヒロトはふらふらと倒れている皇騎に歩み寄る。
「驚かせやがって……ちくしょう!」
左手で右手を押さえ、ヒロトはぐったりとして動かない皇騎を蹴り付ける。蹴られるたびに、皇騎の身体は力なく揺れた。
散々蹴って気が済んだのか、ヒロトは荒い息を吐きながら皇騎を見下ろした。
おもむろに左手を伸ばして、その襟首を捕まえて引きずる。長身の皇騎はヒロトの手には余るらしく、身体が少し浮いただけだった。それでも無理に皇騎を引きずる。
「ちょっとあんた!何するつもり!?」
堪えきれずに、シュラインが路地裏を飛び出した。余程雷が効いたのか、緩慢な動作でヒロトはシュラインを振り返った。
「こいつらの仲間か」
「手を離しなさい」
シュラインの言葉を、ヒロトは歪んだ笑いを浮かべて聞き流した。力はないが、悪意があることに変わりはない。
「こいつには世話になったからね。いっそ殺してくれって泣き叫ぶまで、いたぶり尽くして殺してやるよ。なんなら、臓器一つずつあんたに送りつけてやろうか?」
鼻で笑うヒロトの目は笑っていない。得体の知れない薄ら笑いを浮かべて、シュラインを眺めている。
「狂ってるわね…!」
はっ、と鼻で笑ってヒロトはもう一度皇騎の襟首を掴みなおした。
「こいつが終わったら、次はあの女だ。それからおまえ。俺を尾けようとする奴がどうなるか、しっかり教えてやる」
にやにやと笑いながら、突然皇騎を引きずったヒロトの姿がふつりと消える。皇騎を連れて、どこかへ移動したのだ。
なすすべも無くその場に一人立ち尽くして、シュラインは唇を噛み締めた。
□―――シュライン・エマ
慧の車は、内側からロックがかかっていて開けることが出来なかった。苛立ち紛れに窓を叩いて、シュラインは太巻にメールを送る。
すぐに「今から行く」と返事が返ってきてから、こんなに時間が長く感じたことはない。
ヒロトは気を失った皇騎を連れて、行ってしまった。いたぶり尽くして殺してやると、楽しそうに笑ったヒロトの声が脳裏に張り付いている。みすみすヒロトを逃がしてしまった苛立ちと皇騎の無事を心配する不安とで、シュラインは何度も車の周りを行き来した。
軽く背中を叩かれて、シュラインは我に返った。武彦と同じ煙草の匂いが鼻をくすぐる。
「太巻さん!」
「探偵なら後から来る」
待ちきれずに口を開きかけたシュラインを制して、太巻は大股に車に近づいてドアの前にしゃがみ込んだ。ドアのロックを数分弄ると、ロックが外れる。助手席から中に乗り込んで、太巻は慧の様子を確かめているようだ。
「シュライン君!」
「武彦さん」
ざっとシュラインの無事を確認した武彦は、ほっと息をついてから車に半身を乗り入れた太巻を見た。
「彼女は?」
「大丈夫だろ。意識も戻った」
短い会話を交わして、太巻は車に寄りかかって煙草を銜える。無事を確かめようと車に目をやると、慧がよろめきながらも車から降りたところだった。片手で頭を抑えながら、慧が呻く。
「岡部ヒロトは?」
逃げられちまった、と太巻が煙を吐き出した。慧の顔色が変わり、武彦が深刻な表情をする。
「…宮小路君は?」
はっとしたように周囲を見回して、慧は三人目の追尾者の姿を探した。
「捕まっちまった」
唇の端に煙草を銜え、太巻は片手をポケットに突っ込んだ。
余裕とも冷酷とも取れる表情で、太巻は凄絶に笑う。
「このカリは、利息をつけて返してやらんとな」
そうして興信所に帰った四人だったが、彼らはまだ知らなかった。
その日、彼ら四人を嘲笑うかのようにまた一人、若い女性が殺されたということを。
他の被害者と同じように生きながら身体を切り開かれた跡があり、相変わらず犯人の目撃証言は皆無。
ただし、今回の事件には今までと違った点が一つだけあった。
犯人からのメッセージである。
白く綺麗なままで残った遺体の背中に、包丁で切り刻んだ文字だ。
そこには、犯人を追う人々を嘲笑うかのように、言葉が連ねてあった。
「追ウダケ ムダ ダ」
と。
……連れ去られた皇騎は、未だに行方不明のままである。
→獣の棲む街:「悪意」につづく
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
・0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
・1549 / 南條・慧 / 女 / 26 / 保健医
・0461 / 宮小路・皇騎 / 男 / 20 / 大学生(財閥御曹司・陰陽師)
・1493 / 藤田・エリゴネ / 女 / 73 / 無職
NPC
・1583 / 太巻大介(うずまきだいすけ)/ 男 / 不詳 / 紹介屋
シュラインのケイタイの番号を貰った。それをネタに草間をからかうのに大忙しである。
・岡部ヒロト / 男 / 大学生
連続猟奇殺人事件の犯人。能力者の能力発動時に、その存在を感知することができる。
衝撃波を使って攻撃を行う。
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■ ライター通信 ■
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いつも楽しませていただいてありがとうございます!獣の棲む街(鳴動)のデリバリーです。
考えるだけ考えて、使うこともなかろうと高を括っていた設定までしっかりチェックが入っていて、書いていて楽しかったです。参加者の方が頭良いので、三部作にならずに犯人が捕まったらどうしようと、結構戦々恐々です(恐怖刺激)
本編の話とは別個にケイタイ情報貰って喜んでいるバカは放っといてあげてください。多機能なケイタイが嬉しくてしょうがないのです。
文章の形式上、「何があったの!?」と思われる部分があるかと思います(すいません…)。他の参加者の文章を読んでいただけると、何があったのかわかるかと。面倒くさくてごめんなさい!
文章を読んで「コノヤロウ」と思っていただけたら、うらまれつつも作家冥利です。
楽しんでいただけたら幸いです。
はっ、続編はこのシナリオがアップされ次第、受注オープンにしたいと考えています。
構ってやるかと思っていただけたら、また遊んでやってください!
では、どうもありがとうございましたー
在原飛鳥
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