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■獣の棲む街―鳴動■

在原飛鳥
【1549】【南條・慧】【保健医】
□―――五件目の被害者
悪い夢を見て目が覚めた。
お父さんが怒鳴ったり、お母さんが泣いたりする夢だ。あのこだけはあのこだけはあのこだけは……。
夢から覚めて、里美は怖くなって子ども部屋を出た。そぅっと覗くと、リビングの電気がまだ点いている。暗い廊下を、里美はたっと駆け出した。

「おかあさん……?」
返事はない。里美は床で母が寝ているのを見た。何かを溢したみたいに、赤黒い水溜りが出来ている。びっくりして、里美は母親に駆け寄った。
「おかあさん、起きて!起きてよぅ」
いつもなら「なぁに?」と答えてくれるはずなのに、母は里美が力いっぱい揺すぶっても、かくかく首が揺れるだけだ。
ぬめっとした感覚に、里美は自分の手を見た。
紅い。赤い絵の具をこぼしたみたい。その赤で、母親のパジャマも、里美の手も濡れている。
「あーあ。ガキが起きてきちゃった」
びっくりして里見は顔を上げた。そこには、見たことのない青年が立っている。
母の下にある水溜りと同じ色が、お兄さんのほっぺたにもべったりくっついていた。左手なんか、赤くてびしょ濡れだ。
その手には包丁が握られている。おかあさんが、とうふを切ったり、ネギを切ったりするあの包丁。それが、真っ赤に汚れている。
悪い人が、お父さんとお母さんを倒しちゃった!
里美は飛び上がって駆け出した。むしゃぶりつくようにドアを開けて、もつれる足で階段を駆け上がる。
「待てよ」
お兄さんの声が追いかけてくる。笑っている。
「逃げることないだろ」
里美は自分の部屋に飛び込んだ。どこか、どこか安全なところに隠れなければ。
お兄さんに絶対に見つからなくて、お兄さんが里美を諦めてくれる場所。
タンスの中。それ以外に、隠れることが出来る場所なんてない。飛び込んで、里美は膝を抱えた。
お兄さんは楽しそうに、鼻歌を歌いながら歩いてくる。
こないで。こないでこないでこないで!
……タンスが左右に大きく開かれた。涙でにじんだ視界の向こうで、お兄さんが笑う。
「……見ィつけた」

□―――翌日
「こりゃ……ひどいな」
現場一本で十数年、数々の死体を拝んできた年配の刑事ですら思わず呻いた。それほどに、子ども部屋の惨状はすさまじかったのである。彼に付き従っていた若い刑事は、口を押さえて部屋を飛び出していったきり、まだ戻ってきていない。
若い連中は不甲斐ないといつも嘆いているが、今回ばかりは文句を言う気にもなれない。
少女の死体は、原型も留めないほどに荒らされていた。本来なら白い腹が見えるはずの彼女の胴体は、切り開かれて赤い内臓が露わになっている。引きずり出された臓物は少女の左右に無造作に散らばっていた。幼いその顔の反面は皮を剥ぎ取られ、片目が失われている。血にまみれた女の子用のパジャマがなかったら、性別の判断も付かなかったに違いない。
「直接の死因は?」
「断定できないですが…多分、失血によるショック死じゃないかということです」
これだけ身体を切り刻まれながら、失血死か。苦い顔をした刑事に、それと、と相手が言葉を濁した。
「頬のとこ。肉が削がれてるでしょう。これ、食ったんじゃないですかね」
「またか」
刑事が呻いた。

今年に入って、東京近辺で連続している殺人事件。
まずは20代の男女が殺され、次に一人暮らしの女性が2人襲われて命を落としている。今回の一家3人惨殺事件が一番最近のものだ。
どれも同一犯の犯行と見られているのは、現場からはっきりと指紋が見つかっているからだ。
犯人は動きを奪った被害者を生きたまま切り刻み、被害者は失血死か、痛みによるショック死を引き起こす。二度目の犯行からは死体から肉を切り取って持ち去った形跡があり、三度目の犯行で、犯人は一人暮らしの女性に性的暴行も加えていた。
着衣から足がつくことを恐れたのか、犯人は第一の被害者の部屋から何着か服を持ち出し、その服を着て次の殺害に及んでいる。分かっているのは、それ以外には靴のサイズだけだ。26センチ。一件目の男女殺害現場から持ち出したものと見られている。
血がついた服は、その場で捨て、盗んだ服または持ち込んだ服を着て逃走…。
これだけ犯行が続いているというのに、未だに犯人の姿を見たものはいない。

獣の棲む街―鳴動
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岡部ヒロト、21歳。私立S高校卒業。現在都内私立K大経済学部所属。
成績は中の上、深く付き合っている友人や恋人の存在は見当たらない。授業を欠席することも多く、ネットカフェや漫画喫茶、ゲームセンターなどに足を運んでいる。所属するサークルは特になし。現住所は東京都○区XX町4丁目コーポ大西。賃貸の支払い及び生活費は神奈川の実家が出している。
「……尚、19XX年同氏は14才の時クラスメイトの少女の自宅に侵入し、乱暴行為を働いている。被害にあった家の希望もあり、双方の両親が同意の上で警察には届けなかった。この時、被害にあった少女は岡部ヒロトが突然部屋に現れたと証言しており、一階に居た彼女の両親も、岡部ヒロトが玄関から侵入した気配はなかったと言っている……」
宮小路皇騎が持参したファイルを読み終えて、シュライン・エマは顔を上げた。
「よく調べたわね、こんなことまで」
シュラインの言葉に、美形の青年は頭を掻く。
「ええ、まあ。先達て追っていた能力者が消息を絶っているとのことだったので、準備は怠らないほうがいいかと思いまして」
一体どんなコネを使ったのか。黒髪の陰陽師の情報収集力に舌を巻きながら、シュラインは集まった面々を見回した。
太巻の依頼に答えて草間興信所にやってきたのは、男性一人に、女性が二人だ。陰陽師にして某財閥の御曹司である宮小路皇騎(みやこうじ・こうき)に、学校で保健医をしているという南條慧(なんじょう・けい)。それに怪奇探偵の下でボランティア的アルバイトをするシュライン・エマである。今、三人はバネのきかなくなったソファに腰を下ろし、岡部ヒロトに関する情報を交換しているところだった。
「突然部屋に現れたっていうこの証言は興味深いわね」
ファイルに視線を落としながら、慧が呟く。それにはシュラインも同意を示した。
「一連の事件で目撃者がいないのは、犯人が姿を消せる、もしくは空間を渡れる能力があるから。……そういう可能性はないかしら」
ありえる話だ。警察の必死の捜査にも関わらず、犯人に関する目撃証言は頓挫している。それも、犯人に常識を超える力が備わっているとすれば説明はつくのだ。
理屈としてはそれでいいが、確証が足りない。
「超能力者の間で、岡部ヒロトのことが噂になってないか調べてみたんだけれど。他超能力者との交流は殆どなかったようね。ただ、かなり危ない男だという噂はあったみたい。能力については、手を使わずに相手を攻撃するのを見た人が居たわ」
テレポートなどの能力についての情報はなし、だ。幾つか確認したいんだけど、とシュラインは太巻に向き直った。
「被害者の切り跡から利き腕等は分かっていない?26センチという靴のサイズは屋内のものよね?それと、行方不明になった人たちの能力も聞いておきたいんだけれど」
頭の後ろで手を組んで、目を閉じていた太巻が薄目を開けた。ゆっくりとソファの上に座りなおして、話を纏めるように頬を掻く。
「……まず、被害者の切り跡から犯人は左利きだということが分かっている。ちなみに岡部ヒロトも左利き。ヒロトの靴跡は屋内で発見されたものだ。たまに左足の踵で床を擦るような歩き方をしている。消えちまったヤツらは、一人は霊を操ることが出来た霊能力者。もう一人は式神を使う…お前の同業者だよ」
最後の言葉は皇騎に向けられたものである。その言葉を聞いて、彼は整った眉宇を顰めた。
「陰陽師か」
おざなりに頷いて、太巻は燃え尽きた煙草を灰皿に落とした。男に対して愛想がないのはお互い様であるらしい。
「さて。そんじゃ、ミッション・インポッシブルの時間だぜ。健闘を祈る」
太巻の言葉に、草間興信所に集まった面々は微妙な顔だ。テレビ版「スパイ大作戦」を知らない若者たちが首をかしげている。
「……ちょっと古すぎるわね、それは」
一瞬興信所を支配した沈黙の後に、呆れて慧が呟いた。

□―――南條慧:ネットカフェ
都内で起こっている連続猟奇殺人事件に、慧はかなり腹を立てていた。まずは同棲していたカップルが殺され、次に一人暮らしの女性が二人狙われた。その殺し方ときたら、嬲り殺しという言葉そのままである。人間を生きたまま切り刻んで「解剖」するやり方は、新聞や週刊誌の紙面を散々賑わせた。学校に勤める保健医として、生徒たちに危害が及ばないものかと、気を揉んでいた矢先である。
四つ目の事件は、一家惨殺だった。騒がれるのを怖れてか、犯人は両親を先に殺害し、一人娘の里美ちゃんを追い詰め、生きたまま切り刻んだのだ。
ただでさえ嫌な事件だったが、この幼児虐殺で、慧はなおさら犯人が許せなくなった。
そんなところに舞い込んで来たのが、太巻からの依頼である。
(好都合じゃない。真実を探ってやるわ)
渡りに船で、慧はこの話を引き受けたのだ。
保健医としての仕事は、同僚に手を合わせ、先輩に苦い顔をされながらも休みを取り付けた。興味深い事件に行き着くと、彼女の事件への熱意は本業を忘れさせる。後を任せた保健委員の情けない顔にはさすがに胸が痛んだが、それも事件のことを考えるうちに忘れてしまった。
そして今日、集まった他の二人と簡単な打ち合わせをして、慧はヒロトが現れるのを待っている。
ネットカフェは盛況だ。店内には、男装したシュラインと皇騎の姿も見える。
そろそろヒロトが現れる時間だ。背中を伸ばすフリをして入り口を探ると、大学生くらいの青年がカウンターを通ってやってくるのが見えた。背は高くはないが、人目でそれとわかる質のいい服を着ている。その横顔が、太巻が見せた写真の顔と一致した。
(あれが岡部ヒロトね)
待ち受ける慧たちに気づいた様子もなく、ヒロトは慧の脇を通り過ぎ、空いている台に足を運んだ。モニターを眺めてしばらく考え事をしているようだったが、やがてマウスに手を伸ばす。
慧の斜め向こうで、皇騎の背中が身じろいだ。ヒロトが何をしているのか探ってみると言っていたから、恐らくはハッキングを始めたのだろう。
視線をヒロトに戻す。今まで軽快にキーボードを叩いていたのに、ヒロトの動きはぴったりと止まっていた。
(……気づかれたの?)
まさか、という思いでひらめいた不安を打ち消す。これだけ大勢の人がいて、慧も皇騎もシュラインも、自分のコンピューターの前から動いたわけでもない。気づくはずがなかった。
それでも慎重に気配を探っていると、再びヒロトはキーボードを打ち出した。その背中に、特に変わったところは見られない。やはり気のせいだったのだろう。
半時間ほどすると、ヒロトはウィンドウを閉じて立ち上がった。
来た時と同じように、のんびりとした足取りで店を出て行く。斜め向こうの席で皇騎が椅子を立ち上がるのが見えた。
ぞろぞろと出ていけば目立つから、慧はモニターを眺めるふりを続ける。皇騎はシュラインの後ろを素通りし、慧の席の横を通って、ヒロトを追うように店を出て行った。慧とすれ違う瞬間、意味ありげな視線を残していく。
ヒロトが扉の向こうに姿を消してから、慧はようやく立ち上がった。
「南條さん」
声を掛けられて振り返ると、シュラインが居た。興信所で顔を合わせた時は青かった気がする焦茶色の瞳が、困惑気味に慧に向けられている。
「何か問題があったの?」
「問題というかね……」
益々困惑した顔をして、シュラインは手にしていたメモを慧に見せた。
「出て行きがけに、宮小路君が落としていったの。どう思う?」
シュラインが手にしたメモには、急いで書いたらしい走り書きがしてある。

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"YOU'LL NEVER GONNA GET ME YOU NUMB HEAD."
私たちに向けられたメッセージかも
気づかれたかもしれない。気をつけて
K
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慧とシュラインは顔を見合わせた。
英語の文章は、「捕まえられるわけがないよ、まぬけ」とでも訳せば良いのか。文面だけを見れば、確かにヒロトが追跡者に気づいていることをうかがわせる。
ヒロトが使っていたコンピューターを確かめてみようかと振り返ったが、席はすでに新しい人によって占領されていた。
「仕方ないか」
これ以上手をこまねいていてはヒロトを見失いかねない。二人は顔を見合わせて意思を確認しあった。
「行きましょう。警戒されてる可能性も考えて、ここからの接触はナシってことで」

□―――南條慧:喫茶店
ヒロトが喫茶店へ入っていくのを確認して、慧はその前を通り過ぎた。店内と出入り口を見渡せる位置に、朝のうちに車を止めてある。人通りの多くない路上では、駐車禁止を取り締まるミニパトもそうそうやってこないらしい。半日近く放置してあった車は無事で、慧は安心して運転席に乗り込んだ。
慧の持つ特別な能力をするのに、車内はとても都合がいい。自分の能力を、慧は「夢天憑魂」と呼んでいる。一般には幽体離脱と呼ばれるものである。慧は、自分の意思でこの作業をやってのけることができるのだ。
(その間本体は無防備になってしまうけど……)
魂が抜けている間の肉体は死者と同じだ。本当は信用できる人間に護衛を頼みたいところだったが、顔を合わせて間もない太巻という男に身柄を預けるのは不安がある。結局、慧は車を選んだ。これなら、幽体離脱をしている間も、車内で寝ているように見えるだろう。
ハンドルに手を載せて待つこと一時間。食事をしていたヒロトが席を立った。支払いを済ませて、真っ直ぐに出口に向かう。慧はシートの背を倒す。
一番リラックスできる体勢を取って、目を閉じた。意識して呼吸を浅くする。瞼の向こうの世界に意識を集中し、少しずつ、五感を自分の肉体から遮断していく。「抜ける」タイミングを掴むのは、勘だけだ。
重力を受けたように全身が引っ張られ、次いで体の中から何かが抜けていく感覚がぞわりと走り抜ける。僅かに弾かれたような衝撃があって、次の瞬間、慧は車の外に立っていた。
車内を確かめると、そこには自分の身体が横たわっている。目を閉じて力を抜いた自分が、眠っているようにしか見えないことを確認すると、慧は喫茶店の出入り口から距離を取った。いくら霊体になっているとはいえ、霊感のある人間が見れば、慧の姿は見えてしまうのである。
すぐに、ヒロトは店から出てきた。彼は、背後で扉が閉まるに任せて立ち止まる。迷うこともなく、ヒロトの視線はある一点を目指して動いた。まるでそこに目印があるかのように。誰かに呼ばれでもしたかのように。
(まさか……ばれた!?)
ヒロトの視線は路上に駐車された慧の車に向けられている。能力者が二人消えている、という太巻の言葉を思い出した。
今本体を襲われては、元も子もない。ヒロトの視線は車をしっかり捉えているが、霊体になった慧には気が付いていないようである。
少しの危険を冒してでも戻るべきだろうか。慧は迷う。迷っているうちに、時間は過ぎていく。
実際には、数秒の間だったのかもしれない。ヒロトは慧の車から視線を逸らした。何事もなかったかのように、車とは反対方向に歩き出す。
すぐには反応しかねて、慧はその後姿を見送った。罠かもしれないと心の隅で警鐘が鳴っている。
(けど、ここで諦めて新しい被害者を出すわけにはいかないわ)
今ヒロト弱気になった自分を叱咤して、慧はすべるようにヒロトの後を追いかけた。
ヒロトは尾行がついているなど思いもよらないように、のんびり歩いていく。角を曲がるときも、一度も振り返らず、用心する気配も見せなかった。
(やっぱり、さっきのは気のせいだったのかしら)
ある程度の距離を取ってヒロトの後を追いながら、慧が考え始めた時……。
突然、ヒロトが消えた。
「えっ!?」
シュラインが洩らした「空間移動」という言葉が脳裏に浮かぶ。慧は空へと飛び上がった。
(ヒロトは…!?)
空中に静止してあたりを見回す。
…居た。消失してみせた場所から大分離れている。
慧は急降下して高度を下げた。霊体は身軽だ。豆粒のようだったヒロトの姿がぐんぐん近づいていく。
ヒロトが振り返った。口元に薄笑いを浮かべている。その瞳は、確かに常人には見えないはずの慧を捕らえた。
「いいことを教えてやろうか?」
常人には見えないはずの慧の姿を、ヒロトは認知している。その焦点は合っていなかったが、確かに慧がいる場所を捉えていた。芝居がかった仕草で顎を上げる。
「俺だよ、俺。カップル殺したのも、OL殺ったのも、ガキを切り刻んだのも、みぃんな、お・れ・が・やっ・た・の!」
けたたましくヒロトが笑った。おかしくてしょうがないというように腹を抱え、目に涙まで浮かべて哄笑している。
「あなた、自分が何したかわかってるの!?」
霊体だから、殴れないのが悔しい。ヒロトは薄ら笑いを浮かべたまま、慧と向かい合っている。
「わかってる、わかってるよ。人殺しだって言うんだろ?けど、逢った事もないやつらのために、何を怒ってんのさ?」
外人がやるように肩を竦める。その顔に慧は吐き捨てた。
「あなたみたいな馬鹿には、わからないみたいね」
「……馬鹿って誰のことだよ!?」
ぴたりと笑い声が途切れる。瞳に明らかな怒りを湛えて、ヒロトは慧を睨みつけた。
「あなた以外に誰がいるの?」
慧は狂気の宿ったその瞳をつよく睨み返す。ヒロトの顔が怒りに歪んだ。
「俺が、……」
ギリリ、と歯軋りをして、ヒロトは荒く息をついた。三回呼吸する間を空けて、ようやく口元に笑みが戻る。
「……あんたさぁ、車の中に居た女だな。これから行って、本体を殺してやるよ」
世界の密度が濃くなった。まるで新しい重力が生じたかのように、慧の霊体はヒロトの方へと引っ張られる。咄嗟にこの場を逃れようともがいたが、対極で向かい合った磁石のように、その吸引力は強力だ。霊体であるはずの慧の身体が、震動を感じてビリビリ震える。
ふっと重力が途切れ、すべての音が遠のいた。
一瞬の静寂。本能的に危険を感じて、慧はそこから遠ざかろうとする。本体に戻らなければならない。
しかし、ヒロトの力は慧よりも早く走り、慧の背後に迫ってくる。
そして、衝撃が慧の身体を襲った。

□―――宮小路皇騎:シュライン・エマ
ヒロトはさっきから、突如消えては別の場所に現れる…いわゆる瞬間移動を繰り返している。ヒロトを追わせている幾体もの式神パペットからの報告で、皇騎は何度目かのUターンをして、角を曲がった。
「……あんたさぁ、車の中に居た女だな。これから行って、本体を殺してやるよ」
ヒロトの声が聞こえたと思った瞬間、空気を震わせるような衝撃が押し寄せてきた。
「くっ……衝撃波か!?」
腕を上げて顔を庇い、皇騎は足を速めて衝撃の中心部に向かった。
ヒロトはもう居ない。
「南條さん!」
微かに、慧の居た気配だけが残っている。
(今の衝撃で吹き飛ばされたのか……!?)
慧の霊体を探すべきか、逡巡した皇騎に、新しい報告が飛び込んできた。
喫茶店前に、再びヒロトが姿を現したというのである。
ヒロトの言葉が脳裏に蘇る。
……あんたさぁ、車の中に居た女だな。これから行って、本体を殺してやるよ。
「…しまった」
思わず舌打ちして、皇騎は踵を返して駆け出していた。
魂が肉体から離れている今、慧の本体は無防備だ。ヒロトに襲われても、逃げることも身を守ることも出来ないのである。
(時間を稼げ)
式神に命じた。御意、と短くいらえがあって、通信が途絶える。

目を閉じてぴくりとも動かない慧の唇から、一筋の血が伝った。車の中を覗き込んで、ヒロトはそれを眺めている。
何かに釣られたように、空を仰ぐ。
バラバラと、何体かの人型の人形がヒロトに襲い掛かってきた。皇騎に命じられた式神たちである。
慧の霊体を吹き飛ばしたのと同じように、ヒロトの周りから衝撃波が発して式神たちを吹き飛ばした。ヒロトは肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。左手を、車内に向け、
「操り人形にはご主人様がいるんだろう?出て来いよ」
駆け付けたシュラインとともに、裏道の一つに身を隠しながら、皇騎は舌打ちした。
「私のことも誘い出すつもりらしい」
「行くつもり?あんたまで行って一網打尽になったら、元も子もないわよ」
「女性を見捨てるわけにはいかないでしょう」
男性なら兎も角、と苦笑しながら付け加える。シュラインも皇騎も、本当は分かっているのだ。人を見殺しになど出来ないということを。
「どういう理由かは分からないが、エマさんは彼に存在が知られていない。隠れたままでいてください」
非常に不本意そうに、シュラインが頷いた。
皇騎は頭上を見上げる。大きな鳥影が青空を旋回していた。皇騎に仕える上位式神の「御隠居」と「和尚」だ。
「出てこないんだったら、しょうがないなあ」
ヒロトが楽しげに声を弾ませた。その手が、車内で眠り続ける慧に向けられる。
「そこに居て」
シュラインに言い置いて、皇騎は裏道を飛び出した。彼の意に呼応したように、空を飛んでいた二羽の大梟もヒロトに向かって高度を下げる。
ゴロッ、と雨雲もないのに空が鳴った。梟たちが操る雷の音だ。
待ちかねていたように、ヒロトが皇騎を振り返った。
ヒロトの周りの空間が歪んで、衝撃が押し寄せる。
ヒロトに落ちるはずだった雷の行方を確かめる前に、皇騎は衝撃波に吹き飛ばされた。背中がコンクリートの壁に叩きつけられる。
一瞬の間を置き、ドン!と空気を震わせて雷が落ちた。

ゴロゴロゴロゴロ……と雷の名残が空気を駆け抜ける。
ヒロトの繰り出した衝撃波で壁に叩きつけられた皇騎は、倒れたまま身動きをしない。衝撃波の煽りを受けたのか二匹の梟の姿はなく、ヒロトだけが、雷の余韻から冷め切れずに立ち尽くしている。
ヒロトを狙った雷は、わずかの差で狙いを外し、その足元に焼け焦げた跡を作っていた。
煙が立ち昇っているそこに、ヒロトは視線を落とす。遠目からでも、震えているのが分かる右手を改めて見る。
それをしでかした相手を確かめるために、彼はゆっくりと視線を皇騎に向けた。
落雷の影響を足取りに残して、ヒロトはふらふらと倒れている皇騎に歩み寄る。
「驚かせやがって……ちくしょう!」
左手で右手を押さえ、ヒロトはぐったりとして動かない皇騎を蹴り付ける。
散々蹴って気が済んだのか、ヒロトは荒い息を吐きながら皇騎を見下ろした。
おもむろに左手を伸ばして、その襟首を捕まえて引きずる。長身の皇騎はヒロトの手には余るらしく、身体が少し浮いただけだった。
「ちょっとあんた!何するつもり!?」
堪えきれずに、シュラインが路地裏を飛び出す。余程雷が効いたのか、緩慢な動作でヒロトはシュラインを振り返った。
「こいつらの仲間か」
「手を離しなさい」
シュラインの言葉を、ヒロトは歪んだ笑いを浮かべて聞き流した。
「こいつには世話になったからね。いっそ殺してくれって泣き叫ぶまで、いたぶり尽くして殺してやるよ。なんなら、臓器一つずつあんたに送りつけてやろうか?」
「狂ってるわね…!」
はっ、と鼻で笑ってヒロトはもう一度皇騎の襟首を掴みなおした。
「こいつが終わったら、次はあの女だ。それからおまえ。俺を尾けようとする奴がどうなるか、しっかり教えてやる」
にやにやと笑いながら、皇騎を引きずったヒロトの姿がふつりと消える。
その場に一人立ち尽くして、シュラインは唇を噛み締めた。

□―――南條慧:目が覚める
頬に触れる冷たい指先の感覚で意識が戻った。身体がだるい。
「気が付いたか。無事に身体に戻れたみたいだな」
低い声とともに、また冷えた指先が今度は瞼に触れた。慧は目を開く。
ヤクザじみた顔をした男の顔が視界に大写しになった。助手席に乗り込んで慧の無事を確かめていたのは、太巻大介である。
深く沈んでいた意識が浮上して、慧はヒロトの衝撃で霊体が吹き飛ばされたことを思い出した。
「……岡部ヒロト……!」
がばっと起き上がると目眩がする。太巻の手が肩に触れて、慧の身体を車のシートに押し戻した。
じっとしてろ、と言い置いてから太巻が車の外に顔を出す。車外には、心配顔のシュラインと苦虫を噛み潰したような顔をした草間が立っていた。
「彼女は?」
「大丈夫だろ」
と短い会話を交わす草間と太巻の声を聞きながら、慧は起き上がる。
「岡部ヒロトは?」
衝撃波を受けたダメージのせいで、身体がふらふらした。ボンネットに手をついて身体を支え、だるい身体を起こす。
「逃げられちまった」
太巻が頭を掻き、シュラインがハンカチで慧の唇から落ちた血の筋を拭う。
改めてあたりを見回して、慧は一人、人が足りないことに気づいた。
「宮小路君は?」
「捕まっちまった」
後頭部に手を当てて太巻が言う。あまりのあっさりさ加減に思わず言葉を失くしていると、太巻は口の片端を持ち上げて凄絶に笑った。
「このカリは、利息をつけて返してやらんとな」

そうして興信所に帰った四人だったが、彼らはまだ知らなかった。
その日、四人を嘲笑うかのようにまた一人、若い女性が殺されたということを。
他の被害者と同じように生きながら身体を切り開かれた跡があり、相変わらず犯人の目撃証言は皆無。
ただし、今回の事件には今までと違った点が一つだけあった。
犯人からのメッセージである。
白く綺麗なままで残った遺体の背中に、包丁で切り刻んだ文字だ。
そこには、犯人を追う人々を嘲笑うかのように、言葉が連ねてあった。

「追ウダケ ムダ ダ」
と。
……連れ去られた皇騎は、未だに行方不明のままである。


→獣の棲む街―悪意に続く
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 ・1549 / 南條・慧 / 女 / 26 / 保健医
 ・0461 / 宮小路・皇騎 / 男 / 20 / 大学生(財閥御曹司・陰陽師)
 ・0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
 ・1493 / 藤田・エリゴネ / 女 / 73 / 無職
NPC
 ・1583 / 太巻大介(うずまきだいすけ)/ 男 / 不詳 / 紹介屋 
  一体何に使うのか、ピッキングの技能があるらしい。
 ・岡部ヒロト / 男 / 大学生
  連続猟奇殺人事件の犯人。能力者の能力発動時に、その存在を感知することができる。
  衝撃波を使って攻撃を行う。

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■         ライター通信          ■
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お待たせしました!そしてご依頼受けていただいてありがとうございます。
慧さん、クールかつ熱い女性という感じで、書いてて楽しかったです。一人で楽しんでいたら申し訳ないんですが!(本当にな…)
続編のシナリオは来週頭にはアップするかと思われます。気が向いたらまた遊んでやってください。
あっ、文章中で血を出してますが、大丈夫!慧さんは元気です。
「ちょっとここで何があったの!?」と思われたら、他の参加者の文章を読んでいただけると意味がわかるかと思われます。面倒くさくてすいません!
そこここにいる岡部ヒロトが皆様の気分を害したらなおさらすいません。殴られたらもう片方の頬も差し出す所存ですが、作家冥利です!
お付き合いどうもありがとうございました!

在原飛鳥