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■殺虫衝動 『誘引餌』■

モロクっち
【1388】【海原・みその】【深淵の巫女】
 あの接触から一週間。御国将は元気でやっていたし、彼の影も大人しかった。『平』からの音沙汰もない。
 しかし、実は将は困っていたところだった。『ムシ』の噂が見る見るうちに大人しくなりをひそめるようになり、それに伴って『平』の噂もまた消えつつあったのだ。
 本来なら喜ぶべきことだが、ここのところ血生臭い事件もまた姿を消していた。急に日本は平和になったのである。
 しかし、将やごく一部の人間の胸騒ぎは続いていた。
 これで終わったわけではない――
 胸を撫で下ろすのはまだ早い――
 将の影は、まだ揺らめいているのだから。
 そして、今まで消えてしまった人間が戻ってきたわけではないのだから。

 平から将のもとにメールが届いたのは、そんな矢先だった。
 いや、おそらくメールを受け取ったのは将だけではあるまい。将のメールアドレスは、いつの間にやらメーリングリスト『殺虫倶楽部』の末席に加えられていたのである。
 そのメールは、誘いであった。
 『今夜、お前を会合に招待する。是非来てほしい。刑事もお前を待っているぞ』。

 平が指定した場所は、港の近くの貸し倉庫だった。
 ……そういえば、一週間前に、埼玉県警の嘉島刑事が消えている……。
殺虫衝動『誘引餌』


■序■

  >差出人:平
  >件名:ようこそ

  >ウラガ君へ。
  >きみのムシを見た。それと、娘さんも。
  >面白い娘さんをお持ちのようだな。
  >だがとにかく、我々はきみを受け入れる準備を終え、
  >きみは我々と目的をともにする権利を勝ち取った。
  >おめでとう。『殺虫倶楽部』にようこそ。

 『平』からの歓迎メールが届いてから、早くも一週間が経っていた。御国将は元気でやっていたし、彼の影も大人しかった。あれから『平』からの音沙汰はない。
 しかし、実は将は困っていたところだった。『ムシ』の噂が見る見るうちに大人しくなりを静めるようになり、それに伴って『平』の噂もまた消えつつあったのだ。
 本来なら喜ぶべきことだが、ここのところ血生臭い事件もまた姿を消していた。急に日本は平和になったのである。
 しかし、将やごく一部の人間の胸騒ぎは続いていた。
 これで終わったわけではない――
 胸を撫で下ろすのはまだ早い――
 将の影は、まだ揺らめいているのだから。
 そして、今まで消えてしまった人間が戻ってきたわけではないのだから。

 平から将のもとにメールが届いたのは、そんな矢先だった。
 いや、おそらくメールを受け取ったのは将だけではあるまい。将のメールアドレスは、いつの間にやらメーリングリスト『殺虫倶楽部』の末席に加えられていたのである。
 そのメールは、誘いであった。


  差出人:平
  件名:招待状

  ウラガ君へ。
  待たせてすまなかった。
  今夜、きみを会合に招待する。是非来てほしい。
  刑事もお前を待っているぞ。
  場所は晴海埠頭近くにある三丸14番倉庫だ。


 刑事――。
 自分と接触した数日後に失踪してしまった、埼玉県警の嘉島に違いない。将は確信し、これは誘いではなく脅迫か罠に違いないと、内心頭を抱えた。ウラガこと自分のストレスという武器はあるのだが、一人で行くのはおそらく危険だ。頼れる知人と連絡を取った方がいい。
 彼はそう判断した。

 ――晴海埠頭か。あそこには、よく自衛艦が来るんだよな……。


■熱い昼、暑い夜■

 黒い人魚が静かに海面に浮かび上がる。
 月が出ていた。
 月を見に、人魚は――海原みそのは深海から浮き上がってきた。少しずつ時間をかけ、行き交う魚たちと戯れながら。
 涼しい夜風に目を細め、彼女はふと、暦を思い出した。時間すらも曖昧な深海に座す彼女にとって、月日など意味のないものに等しい。だが、妹たちが「夏が来た」とはしゃいでいたのを思い出した。海が主役になる季節なのだそうだ。みそのはそれを聞いたとき、素直に嬉しがった。自分が愛する海が他人にも愛される季節が来るのなら、喜ぶに越したことはない。
 だがそう言えば、確かに――ある時期になると、日本の近海は騒がしくなり、いたずらに汚れることも思い出した。なるほど、その時期が『夏』なのか。ちょうど今はその時期だ。みそのが陸で見るものが、遠い沖や深海にまで流れ着いてくることもある。
 夏の東京を、ふと見てみたくなった。
 妹たちや最近出来た知人たちが暮らす、あの不思議な街。時折、神のように彼女を誘惑するのだ。
 そんな折、陸で過ごす妹から連絡があった。
 それは、常々みそのが縁があると思ってやまないひとりの男の誘いであった。
 いや、正確に言うと誘いではなく頼みだったのだが、みそのは誘いと受け止めた。彼女は仕える神の許しを得ると、ようやく梅雨が明けた東京に向かったのだった。


 将はアトラス編集部に居た。つまらなさそうにパソコンの画面を眺めつつ、マグカップに入った安物の緑茶を飲んでいた。
 彼はみそのの姿を認めて、「おう」と表情を少しばかり明るくした。さすがに仲間が駆けつけてきてくれたときにもつまらなさそうなままでは、付き合いがいがないというものだ。
「来たか……しかしまた――」
 視線はみそのの服のラインをなぞっていた。その日の『衣装』は、気合が入った黒のカクテルドレスだ。大胆なスリットから、将は慌てたように目を逸らす。みそのの体躯は歳には不釣合いなほど成熟したものだった。彼は「しかしまた」の続きをあえて言わなかったが、みそのはにこにこしながら答えを言った。
「人様からのご招待でしょう? 女性同伴とお洒落は常識だと伺いましたわ」
「……招待にもいろいろあるんだ。それに同伴する女は普通、女房とか恋人だぞ」
「まあ、では将様、奥様をお呼びしなければ。ええと、薬指に指輪をなさっておりますから、ご結婚はされておりますよね?」
「……俺の話を聞いてたか? 招待にもいろいろあるんだ」
「いろいろお教え下さいませ。わたくし、陸のことにはまだまだ疎うございます」
 きつい言い方にもまったく動じないみそのとその微笑みに、将は深く溜息をついた。
 みそのは微笑んだまま、将の影に目を落とした。
 彼の影は――ただの影だ。
 『ウラガ』、
 名前をつけた頃から、影は将の言うことを聞くようになっていた。みそのには、それが少し不思議だった。蟲に憑かれてしまった将の心はけして強くはないはずだ。現にその流れはみそのがよく見かけるレベルのものだった。みそのが数ヶ月のうちに知り合った異能力者には、遥か及ばない。
 ――将様が『ご自分』を征しておいでなのは、「おとこのいじ」というものでしょうか?
 今も彼の言いつけを守っているのか、影は影のまま。蛍光灯が照らし出す、灰色のぼんやりとした影だ。この世の法則の通り、揺らめきもせず、将の動きに従っている。
「でも……将様、今晩お出かけになるのは間違いありませんよね?」
 みそのは影から将に目を移した。彼は平からのメールを眺めながら(ひょっとすると睨んでいたのか)、マグカップに口をつけていた。「ああ」という返事は、マグカップに飲み込まれてくぐもっていた。


■タイラー・ダーデンを知ってるか■

「タイラー・ダーデンを知って……るわけはないか」
 晴海埠頭までのバスを待つ間、冗長とした沈黙が続き、将がやがて口を開いた。どうやら問いかけようとしていたようだったが、彼は何とも自嘲的な笑みを浮かべて、みそのよりも先に否定した。
「『ファイト・クラブ』っていう映画があってな。俺はわりと好きなんだ。……もしかして『えいが』の説明もしなけりゃならないか?」
 馬鹿にしたような風ではなく、まるで自分の子供にでも言って聞かせているかのような口ぶりで、将は続けた。
「主役のひとりがタイラー・ダーデンだ。平はそのタイラーをもじった名前なんじゃないかと思ってな。メーリングリストの名前も殺虫倶楽部ときてる。これで『会合』でやっていることが殴り合いかテロの準備だったら完璧だな」
「その『えいが』の中の倶楽部は、ケンカをするものなのですね」
「簡単に言えばな」
「では、殺虫倶楽部がその『ふぁいと・くらぶ』を真似したものであるならば――将様は今晩、ケンカをしなければならないのでしょうか」
「冗談言うな。喧嘩なんざしたことない。そんな物騒な倶楽部に入るのはごめんだ」
「ウラガ様が居る将様ならば、お強いはずですよ」
「逆に言うと、ウラガが居ない俺は弱いってことだな」
「そうかもしれませんね」
「傷つくことを言うやつだ」
 ふたりの会話はとても友人同士のものとは思えない言い回しで交わされたが、ふたりともうっすらと笑っていた。それなりの信頼感はあったし、どちらもただでは死んだり怪我をしたりしないことを知っていたからだ。そして、晴海埠頭近くの倉庫で、死んだり怪我をしたりしそうな事態が起きそうだということも予想していたからだった。
 バスが来ていた。
 

■三丸14番倉庫にて、20:21■

 貸し倉庫はかなり大きなもので、かなり古くもあった。周囲には物が多い。錆びつき具合や古めかしさから見て、放置されているものがほとんどなのだろう。
 みそのはぐるりと周囲を見回し、流れを読んだ。小さな、ごく普通の虫がかさこそと地面を這っているだけで、周辺には他に誰も居ない。
 辺りはしんと鎮まりかえっていた。しかし――蒸し暑い。こうも暑いままでは、この沈黙が煩わしく思える。涼しい夜風のもとの沈黙は、ときに安らぎさえ覚えることもあるが。
 ごぅん、
 不意の物音はいやに大きかった。
 先に音の出所を掴んだのはみそのだった。14番倉庫の入口だ。鉄で出来た頑丈そうなドアで、錆びついたシャッターの隣にあった。彼女にはその扉が見えてはいなかったが、正確にその鉄扉を指差していた。
 ごぅん、
 再び物音。ドアは、音とともに確かに揺れた。将とみそのは顔を見合わせる。中に何かが居ることは、間違いなさそうだ。将は軽くみそのに頷いてみせると、ドアに近づき、古いドアノブに手をかけた。
 開けるぞ、
 将は確かに目でそう言うと、ドアを開けた。
「ぅおっ!」
 珍しいことに、将が悲鳴を上げ、目覚しい反射速度でドアを閉めた。よほど驚いたらしい。彼の影がぞわりと波打ち、ざわざわと形を歪めた。鎌首をもたげはしなかったが、将の影は百足の形になってしまっていた。
「み、見ない方がいいぞ」
「見てしまいましたわ」
「……と、鳥肌が立った。くそっ、見るだけでストレス溜まりそうだ」
 いや、実際溜まってしまったのだろう。あと一押しでウラガが現れる。
 ごぅん、
 どぅん、
 ドアはなおも内側から叩かれ続けている。
 早く入れ、ここに居る、早く入れ、入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ、待っているんだ――
 みそのは、さらりと答えた通り、見てしまっていた。分厚い鉄の扉に遮られていた流れを、一瞬扉が開いたそのときに、素早く読み取っていたのである。

 中には、蟲が居た。


 蟲だ、蟲だ蟲だ蟲だ蟲だ蟲だ――
 倉庫の中では蟲がひしめきあっていた。それも、自然界には存在しない姿の蟲だった。どれもが人より一回りも大きく、紅い目をぎらぎらと苛立たせている。
 しかも、彼らはただそこにかさこそと佇んでいるわけではなかった。そこかしこで喰いあいをしていたのだ。
 将とみそのがそれを見たのは一瞬だった。
「何なんだ……ここで一体何が起きてるってんだ」
 ごぅん、
 音から逃げるようにして、将はドアのそばから離れる。
「平様からのご招待を受けた方々が、集まっているようです」
「『方々』……?」
 一瞬だが、見た限り、中に居るのは蟲だけだったように見えた――将には。人間の姿はなかった。
 しかし、みそのの言葉の意味を、将は手探りで理解した。
「やつらは……影じゃないのか……?」
「ええ――ウラガ様とは、少し違いますの。何と申せばよろしいでしょうか……」
 みそのは、蠢く将の影に目を落とし、言葉を濁した。
 何と表現すべきか、本当に困った。
 中でお互いを潰し合い、喰い合っていた蟲たちの中に、ある流れを見出したのである。将のウラガは、負の感情の奔流だけで出来ていた。その身体すらも流れで出来ている。物質ではないがただの影でもない、曖昧で不安定な存在だ。
 しかし、この倉庫の中にひしめいているのは、人間にどこまでも近い影だった。血の流れさえ、みそのは見い出した。だがその流れの中に、ごく普通の人間が持つ意思と感情はなかった。押し潰され、吸い尽くされていた。
「……ここから入るのは止めた方がいいよな?」
 みそのの思考錯誤を、将が遮った。その問いかけはむしろ願いだ。
 ――頼む、ここから入るのは無理だと言ってくれ。
 それを察したみそのは顔を上げ、困った笑顔で頷く。
「ふたりでケンカをするには、少し相手が多すぎますわね」


■蜘蛛の巣■

 二人はシャッター前のドア以外にも入口がないか、倉庫を調べることにした。将は影をいつでも実体化させられるように警戒していたが、どうやら倉庫の外に蟲は出てきていないようだった。相も変わらず周囲は静かだ。時折、鉄のドアがごぅんと叫んでいた。音はそれだけだった。

 裏側にもドアがあった。いささか安ぶしんなつくりだったが、将は何となく「助かった」といった表情で胸を撫で下ろしていた。このドアの向こうが楽園である可能性など皆無に等しいが、ひょっとすると、あの肌の粟立つ光景を見ずにすむかもしれない。
 将がノブに手をかけたが、ドアには鍵がかかっていた。
「……古い鍵だな……。なあ、ヘアピンを持ってるか」
「ええ」
 みそのは漆黒の髪をまとめていたUピンを取ると、将に手渡した。将がヘアピンで何をするつもりなのか、彼女にはわからなかった。
 将はUピンを鍵穴に差し込み――しばし、カチャカチャといじり回した。
 小さな音とともに、鍵は開いた。
「まあ! 素晴らしいですわ。『ぴっきんぐ』ですね」
「何でよりによってその言葉は知ってるんだ」
 少し曲がってしまったヘアピンを、将はみそのに返した。仏頂面で、みそのの黒髪に戻したのだ。慣れない手つきだったが、ピンは確かに、もと在った場所に収まった。


 覚悟はしていた。
 その覚悟は無駄ではなかったが、肩透かしを食らったのは否めない。
 ドアの向こうは事務所として使えそうな小部屋だった。テーブルや棚、デスクがあった。 テーブルの上には、携帯電話を繋げたノートパソコンがある。
 だがこの部屋は、異常だった。白い糸が張り巡らされていたのだ。
 二人が部屋に入った途端、男のくぐもった悲鳴が耳に飛び込んできた。見れば、スーツの姿の中年がひとり、糸に捕らえられてもがいていた。口まで糸に塞がれていたが、その必死の形相は見て取れる。
「嘉島さ――」
 将が、行方をくらませた刑事の名前を口にした。みそのも、その流れは知っている。真っ直ぐで不器用な、将に似た流れだ。
 だがみそのは、糸でがんじがらめにされた男が何を訴えているのかわかってしまった。意識の流れが必死に天井を示していたのである。それに何より、部屋の中に漂う流れは嘉島のものだけではなかった。あの、鉄扉の間から垣間見たものとよく似た流れが、確かに存在していたのだ。嘉島はその未知の流れを恐れ、警鐘を鳴らしてくれていた。
 みそのが、遅れて将が、部屋の天井を見た。

 部屋から外に飛び出せたのは、みそのだけだった。
「まずい! 出ろ!」
 将がみそのの背を押したのだ。というより、みそのは外に突き飛ばされた。ここで戦うには狭すぎるし、何よりここは――『巣の中』だと判断したからだった。倒れこみそうになりながら振り向いたときには、すでにドアが閉まっていた。将も、あの刑事も、部屋の中だ。
「将様……!」
 みそのは部屋の天井に張りついていたものを思い出す。

 冗談のように大きい、刃のような八脚を持つ蟲が居た。
 だが陸に上がったばかりの彼女は、例えるべき生物を知らなかった。
 蜘蛛を、知らなかったのだ。




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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1388/海原・みその/女/13/深淵の巫女】

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               ライター通信
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 モロクっちです。大変お待たせいたしました。
 『殺虫衝動』第3話をお届けします。
 わたしはそれほど虫嫌いではない方ですが、どうも今回は書いてて気持ち悪くなってしまいました(笑)。どんな可愛いものでもいっぱいいると気持ち悪いですよね。いや蟲はどれも気持ち悪いデザインなんですけど……。
 さて、今回のラストは次回への引きという形になりました。次回が完結編となります。
 みその様はやっぱり『ファイト・クラブ』ご存知ない……ですよね? 映画もいいお土産話になるでしょうけれど、みその様は内容をノンフィクションとして捉えてしまいそうで心配かも(笑)。

 それでは、この辺で。
 またお会いしましょう!