コミュニティトップへ



■獣の棲む街―後日談■

在原飛鳥
【1576】【久遠・樹】【薬師】

「まァ、お疲れさん」
興信所の入り口を遮る形で相手を見下ろし、さして面白くもなさそうな笑みを浮かべて太巻は言った。贅沢にも室内にはクーラーが聞いているらしい。タバコくさい冷風がひやりと廊下まで流れ出した。
事件の終結からある程度の時間が経ち、岡部ヒロトの名前を聞くことも減ってきた頃である。
久しぶりに訪れた草間興信所で、まるで主のような顔をして太巻は来客を出迎えた。相変わらず、タバコと香水の入り混じった複雑な香りを漂わせている。
外は相変わらず日差しが強く、雨と風に晒されっぱなしの窓の向こうで、アスファルトの照り返しを受けてビルは白く霞んでいた。
「夏バテか?浮かない顔だな」
人の顔をまじまじと見つめて、太巻は口の端に銜えたタバコを揺らす。
「今日も探偵事務所は閑古鳥だ。こんな日くらい、どっかに出かけて夏を満喫したらどうですかネ?」
「余計なお世話だ」
背中に文句を投げる草間の声も気にせずに、親指と人差し指で短くなったタバコを摘んで、ぷかあと太巻は煙を吐き出した。
「プールのタダ券からビアホールの割引券、旅館のチケットから1000円一律食べ放題のビュッフェ、500円でケーキ食い放題のチケットに遊園地の入場券まで色々あるぜ」
あしながおじさんが奢ってやろう、と、マフィア映画から抜け出てきたような悪人顔で太巻は笑っている。

獣の棲む街(後日談):夢の終わりに
-----------------------------------
都会から離れた土地というのは、独特のにおいがする。
河原沿いの旅館から沸きあがる温泉の湯気を眺めて、久遠・樹(くおん・いつき)はむせ返るほどの自然の息吹を肺に吸い込んだ。
太巻が手配した宿の窓からは、すぐ側に流れる川に沿った道が見える。どこまでも澄んだ川の水と、背後に広がる青々とした山に挟まれたアスファルトの道を、時折人や車が通り抜けるのだ。
窓から眺めていると、道を通りすがる人たちはみなゆったりしている。常に何かに追い立てられるように足を速める都会人を思って、改めて時間の流れが違うのだと思い知る。
「坊ちゃんは、何かね。植物の勉強をしてるんかね」
声をかけられて振り返ると、午前中に採集して分類するために広げてあった草木の側で、老人が樹を見下ろしていた。ゆったりした時の流れの中で歳を取ったのだろう。その表情はひどく穏やかだった。
「勉強といえば、勉強です。漢方を扱っているので」
「そりゃ、えらいねぇ」
まるで孫に対するような口調で、老人は樹を褒めた。なんだか子ども時代に立ち返ったようで、少し気恥ずかしい。
「東京から来なすったんかね」
「はい。たまにはノンビリしようかと思いまして」
この夏、東京では一つの連続猟奇殺人事件にピリオドが打たれた。老若男女問わず残酷な手口で人を切り刻んだ殺人犯は、都内の大学に籍を置く青年である。その岡部ヒロトは、今は原因不明の昏睡状態にあるため責任能力が認められず、裁判にかけられないまま病院で眠りつづけていた。
犯罪の事実は歴然としているのに、罪を裁くことを放棄するのかと、つい先日までは散々激論が交わされていた。一時はヒロトが入院している病院にマスコミが押しかけ、大騒ぎにもなったほどである。
太巻から、「夏を満喫してこい」と声を掛けられたのは、そんな騒ぎがようやく一段落した頃のことだった。ヒロトを目覚めることのない眠りに追い込んだのは、他でもない樹自身だったから、気を遣ってもらったのかもしれない。
なんにせよ、世間が夏休みだとしても店を閉めるわけにも行かず、毎日働きづめだった樹は、有難く太巻の誘いを受けた。
宿泊している宿は、旅館というよりは民宿という感じである。平屋建ての宿を取り囲んだ生垣には、おしろい花がぽつぽつと小さな花をつけて、緑の壁を彩っていた。
きゃあきゃあと高い声を上げて、地元の子どもたちが生垣の向こうを通り過ぎていく。
「あの花の種を潰すと、白い粉が出てくる。昔はあれで、よく化粧の真似事をしたもんでねぇ」
「夕化粧、とも呼びますね。7月頃に咲くおしろい花は、夕方になると花が開くから」
よく知っているねぇ、と老人は笑いながら汗を掻いたグラスを樹に差し出した。
「黒みつ生姜水だよ」
カラカラとグラスの中の氷が涼しい音を立てる。受け取って口をつけると、缶ジュースでは味わえない懐かしい味がした。
こんなにゆったりした時間を過ごすのも久しぶりである。
「美味しいです」
「夏にはこういう飲み物がいちばんいいんだ」
最近の若い子は飲まないがね、と、それでも愛しげに老人は笑う。
子どもたちのはしゃぎ声は、どこからともなく、突然に沸いてくる。その声に耳を傾けていると、時間は更に緩やかに流れた。
「いいところですね」
「若い子たちには退屈なんだろうねぇ。皆都会に出て行ってしまうから」
むせ返るような緑の風と、夏の暑さに乾ききった土の道を捨てて、若者たちは排気ガスと、太陽の光を反射するビルの谷間を目指して行く。贅沢な時の流れは、確かに若者にとっては退屈なのだろう。自然を恋しく思う頃には、こんな景色を見ることすら出来なくなっているかもしれないのに。
「ツツジが咲く頃には、花を摘んで蜜を吸ってね。草笛を吹いたり、笹の葉で船を作って浮かべたり。最近の子はそういうことを知らんなぁ」
呟く老人の声は寂しげだ。言葉を捜しあぐねて黙った樹の視線の先を、ランドセルを背負った子どもたちが通り過ぎていく。
「おなかすいたー」
「今日はやきそばだってよ。かあちゃんがやきそば作って待ってるって。ほらぁ、早く歩けよ」
兄弟らしいふたりの少年は、カタカタランドセルを鳴らしながら歩いている。黄色い帽子が、おしろい花の垣根の向こうを一定の速度で流れていった。
小さな手がひょいっと伸びて、おしろい花の実を摘む。
「これ、おしろいに使うんだぜ」
「おしろいって何?」
「お化粧するときにつかうやつだよ」
「お化粧なんかしないよ」
「だから、女子が使うやつなの」
言って、二人はくすくすと楽しそうに笑った。子どもたちの笑い声も、ここで聞くと都会のそれよりものびやかに聞こえるから不思議だ。東京で、あんな声はなかなか聞かない。
果たして、岡部ヒロトも、ああやって笑うことがあったのだろうか。遠くなっていく黄色い帽子を視線で追いながら、樹は考えをめぐらせた。
記憶にあるのは成人してしまった男の姿だ。貪欲で暗い狂気にぎらぎらと目を光らせたヒロトの表情からは、子どもだった頃の純真さなど微塵も読み取れない。
汚い感情にまみれた青年から、少年時代の姿を想像するのは難しかった。
「勉強だ塾だって、それも大事だけどもね。やっぱりゆっくりする時間も必要じゃないかねぇ」
いつもなら、老人の愚痴として聞き流していたかもしれない。だが、今日だけは、その言葉が身に染みた。

□―――
宿泊先から東京へ帰る道中に、小さな病院がある。山の連なりに埋もれるようにして立っている白い建物で、車窓から見た限りではどんな看板も掲げられていない。それが、岡部ヒロトが入院している病院だと知ったのは、幾度となくブラウン管ごしに放送されたからである。東京へと鈍行で帰宅するところを途中下車して、そちらへ足を向けてみる気になったのは、樹自身、世間からは忘れ去られようとしている東京連続猟奇殺人事件を、まだ引きずっていたからかもしれない。
病院は、山を少し登ったところにあった。アスファルトで舗装された車道から、枝分かれするように細い道が山の奥へと伸びている。その方向が病院だった。
夜になれば、あたりはすっかり暗くなるだろう。ぽつぽつと思い出したように設置されている街灯だけでは、いかにも心許なかった。
珍しい花や草木に目を向けながら、長いこと手入れもされていない道路を歩くと、時代からも置き去りにされたような古い病院が見えてくる。しんと静まり返っていて、樹はそこに人がいるかどうかを疑った。
ヒロトは、訪ねてくるものもなく、殆どうち捨てられたような有様でベッドに寝かされていた。
病院特有の消毒液の臭さとともに、おざなりな看護のせいで病室は僅かにすえた匂いがする。
瞼を閉じたまま、ヒロトは眠りについている。動いているのを見たのはもう一月も前のことだったが、当時土気色だった肌は、すっかり色が抜けて青白かった。
ベッド脇に置かれた花瓶には、埃ばかりが積もっていて、誰かが手をつけた形跡もない。埃を洗い落として、行きがけに摘んできた花を活けると、それだけで部屋は明るくなった。こうした気遣いをしてくれる相手も、ヒロトにはもういないのだろう。
岡部ヒロトには家族がいない。祖父母はヒロトが成人する前に他界しており、両親は……ヒロトの実家の床下で白骨化しているのが見つかった。血縁くらいはいるかもしれないが、いたとしても殺人犯として日本全国に名前も顔も知られた親族を、見舞いにくるはずもない。
「運命……か」
誰もいない白い病室で、呟いてみた。
ビルの屋上に追い詰められたヒロトが、顔を歪めて吐き出した言葉が、まざまざと脳裏に蘇る。
「あんたらさ、いちいち自分の家族が死んだって、これはあのせいだったこのせいだったなんて、騒がないだろ?これが寿命だったんだ、運命だったんだって、言ったことがあるだろう?それとおんなじだよ。俺がしているのは、それと同じだ。誰かに運命をもたらした、それだけのことなんだよ」
夏の夕風が吹くビルの屋上で、確かにヒロトはそう言ったのだ。
あの時の彼が、病院で寝たきりになっている自分を見たらどう思うだろう。やはりこれも運命じゃねぇかとせせら笑うだろうか。どこかが痛むように、顔を引きつらせるヒロトの独特な表情が脳裏を掠める。
まさか生きたまま眠り続けるとは思いもよらなかっただろうが、彼はある程度、こういう結末をも予想していたのかもしれない。運命を嘲り、それに殉じるしかなかった被害者たちを嘲り、彼は何をしたかったのだろう。
むしろ、運命だったのだと……言い聞かせたかったのは、何よりも自分自身だったのかもしれない。
事件が公になってから、マスコミによって晒し尽くされた彼の過去を考えると、そんな気がしてならなかった。
子どもには学歴が大事だ、ステータスが大事だと、厳しすぎるほどにヒロトを塾に駆り立てた両親。引っ越す前に囁かれていた保険金殺人の噂。そういったものを、ヒロトはどんな目で見ていたのだろう。
(もしかしたら)
……もしかしたら、ヒロト自身、彼の言う運命の犠牲者だったのかもしれない。
他人よりも強く、親に、環境に、時代に振り回されたと……そう感じていただろう。説明のつかないその圧力を、ヒロトは「運命」と呼んだのではないか。
(寧ろ、今の世が生んだ哀しい子だったのかもしれないな)
ふと思ってから、樹は苦笑する。
「……なんてね」
らしくない感傷だった。
だが……きっとそういうことなのだろう。
世の中に、矛盾は存在する。大なり小なり、人々は矛盾の中で折り合いをつけて生きているのだ。
どこかで少しずつ道を間違えて、ヒロトのように歯車が狂ってしまうこともあるのだろう。そんなとき、運命に負けるほうが悪いのだと、一方的に言い渡すことは難しい。
昏々と眠り続けているヒロトの顔は年相応に幼く、繊細そうだった。
「いつか……目が覚めたら、その時は本当に罰を受けるんだろうな」
血の気の引いた寝顔に呟く。
そしてその時こそきっと……彼にとっての、長い長い、悪い夢の終わりなのだ。


「獣の棲む街」 - END -

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 ・1576 / 久遠・樹(くおん・いつき) / 男 / 22 / 薬師
  
  
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
お待たせしました…!夏!夏が終わってしまいます(いまさら焦る)
…というよりも、七月あたりにはじめたはずのこのシリーズ、夏の終わりまで気長に付き合っていただいて本当にありがとうございます。思いのほかたくさんの方に参加いただいて、大変楽しかったです(へこり)
哀しい子ども、のくだりはあえて入れさせていただきました(こそっとね)。
たとえ人生がそんなものだと割り切っていても、そこに何の思い入れが無かったとしても、やっぱり考えてしまうことだと思ったので。そういうことを考えられる樹君がカッコいいと思ったのでつい!入れてしまいました(事後承諾)
途中寄り道道草三昧で、後日談の受注が遅くなってしまいましたが、それにも懲りずに遊んでいただけて嬉しかったです!
またどこかで、お会いできたら、からかうなりいじめるなり、していただけたら幸いです。
ではでは、どうもありがとうございました。残り少ない休日をごゆっくりお楽しみください!


在原飛鳥