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■獣の棲む街―後日談■

在原飛鳥
【1252】【海原・みなも】【女学生】

「まァ、お疲れさん」
興信所の入り口を遮る形で相手を見下ろし、さして面白くもなさそうな笑みを浮かべて太巻は言った。贅沢にも室内にはクーラーが聞いているらしい。タバコくさい冷風がひやりと廊下まで流れ出した。
事件の終結からある程度の時間が経ち、岡部ヒロトの名前を聞くことも減ってきた頃である。
久しぶりに訪れた草間興信所で、まるで主のような顔をして太巻は来客を出迎えた。相変わらず、タバコと香水の入り混じった複雑な香りを漂わせている。
外は相変わらず日差しが強く、雨と風に晒されっぱなしの窓の向こうで、アスファルトの照り返しを受けてビルは白く霞んでいた。
「夏バテか?浮かない顔だな」
人の顔をまじまじと見つめて、太巻は口の端に銜えたタバコを揺らす。
「今日も探偵事務所は閑古鳥だ。こんな日くらい、どっかに出かけて夏を満喫したらどうですかネ?」
「余計なお世話だ」
背中に文句を投げる草間の声も気にせずに、親指と人差し指で短くなったタバコを摘んで、ぷかあと太巻は煙を吐き出した。
「プールのタダ券からビアホールの割引券、旅館のチケットから1000円一律食べ放題のビュッフェ、500円でケーキ食い放題のチケットに遊園地の入場券まで色々あるぜ」
あしながおじさんが奢ってやろう、と、マフィア映画から抜け出てきたような悪人顔で太巻は笑っている。

獣の棲む街(後日談):炭酸ソーダ
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結局、自分たちさえよけりゃどうでもいいんだろ───。
岡部ヒロトが吐き捨てた言葉は、今でも頭の奥に残っている。
あれは、海原みなもが仲間とともに、ヒロトを屋上に追い詰めたときのことだった。他人に手を出しているうちはいい……だが、自分の友達に手を出した、それは許せることではないと、みなもが言った時に返ってきた反応だ。
そんなみなもの台詞に対する答えを、始めから用意していたかのように、ヒロトはぴしゃりと言ったのだ。自分たちさえよければそれでいいんだろう、と。
あの場では、腹が立って腹が立って、ヒロトの口を閉ざすことばかりを考えていた。彼に気づかれないように、自分の持つ「力」を使って彼を窒息させようとしたのだ。
その時は、それが悪いことだなどと考えてもいなかった。そんなみなもを見て、やはりヒロトは笑うのだろう。
「免罪符があれば、人を殺しても許されると思ってるんだろう。お前は俺とおんなじだよ」と。
あと一歩でヒロトの命を奪いそうになって、仲間たちに止められた。かっとなっていたみなもは、何故止めたのだと彼らを責めたけれど。
(止めてもらって、よかったんですわ)
殺してしまうところだった。ヒロトの口車に乗って、取り返しのつかないことをするところだったのだ。
ヒロトの言葉には、正直、心のツボを突かれた気分である。正しければ何をしても許されるんだと、心のどこかで思っていたのかもしれない。その自分の甘さを正面に突きつけられて、思い知らされた。
(あたしも、あの人と同じなのかもしれませんね)
その考えは、その日からいつまでもみなもの心の片隅に引っかかり続けている。
少なくともヒロトと対峙していたあの時、みなもは嫌悪する岡部ヒロトという青年と、なんら変わらなかったのだろう。どんなに自分の中に正義があろうと、それが崇高なものであろうと、しようとしたことは変わらない。他人から見れば、どちらも同じ殺人である。
そんなことをするつもりではなかったはずなのに、気が付かないうちに道を踏み外そうとしていた。そのことが恐ろしい。
夏も終わりに近づいても、だからみなもはずっと岡部ヒロトの言葉を引きずっていた。
「夏休みも終わりだし、たまには遊んできたらどうだ?」と太巻が声をかけてきたのは、そんな時である。
思えば彼は、みなもの心中をそれとなく察していたのかもしれなかった。

海沿いの旅館に部屋を取ってもらって、八月の最後の週末を、みなもは海で過ごしている。
穴場なんだと、散々太巻が自慢していた通り、海岸には人影が少なく、波は穏やかでどこまでも青かった。
太陽光を反射してきらきら光る海は、波間を泳ぐみなもを抱き込み、海の中のちっぽけな存在へと変えてしまう。息の続くかぎり遠くまで泳いで、みなもは海上に浮かび上がった。
空には小さなちぎれ雲が流れている。数週間前までの、青よりも青い夏の空は僅かに白く霞み始め、秋の始まりを予感させた。
ちゃぷちゃぷと耳元で波が囁く。こうしていると、みなもの胸に傷を刻んだヒロトの言葉も、それに関わった人たちも、学校の友人たちでさえ、酷く遠い存在に思えた。まるで現実感がない。
(あたしも、あの人と同じ)
頭の中で、もう一度その言葉を反復する。気に食わないから殺そうと思った。生きていてもためにならないから、殺してもいいと思った。それは、ヒロトが嘯いたことであり、みなも自身が感じたことでもある。それを知っていたから、ヒロトはみなもを嘲笑ったのだろう。
冷静にそのやりとりを思い返せば、赤面するほどに恥ずかしい。正義という言葉を拠り所に、みなもはヒロトと同じことをしてしまうところだったのだ。
苦い思い出だ、いい経験になったと、一言で済ませてしまえるものではない。
(あたしは、やはりまだ子どもなんですね)
怒りに任せて、ヒロトと同じやり方で相手を懲らしめることしか思い浮かばなかった。
ヒロトの言葉にあんなに腹が立ったのは、
(普段は忘れていて、見ないようにしているあたしたちの裏の部分を、あの人が暴き出したから……)
自分はヒロトとは違うと思いたかったのだ。なのに、何が違うのか、うまく説明できなかった。
(あの人もあたしも、同じ……)
同じ、なのかもしれない。ただ、きっかけがないだけだ。ヒロトが「勇気」と表現した、「しがらみ」があるかどうかの違いなのだろう。
だとしたら、みなもと岡部ヒロトは、やはり善と悪、二つの違う存在ではあり得ない。なっていたかもしれない自分、紙一重の自分の姿だ。いくら否定しても、ヒロトの影はみなもの心のどこかに、いつも巣食っている。
そういうことを考えていると、気が滅入った。

「お兄様がお迎えにいらっしゃってますよ」
宿に帰ると、数日で親しくなった仲居が気安く声を掛けてきた。
「お兄様……?」
みなもに兄など居ない。勘違いではないかと思いつつ、カウンターに視線を向けると、そこに居たのは太巻だった。
「迎えに来たぜ」
一応気を遣ったのか……派手なシャツは着ていない。白いシャツに、暗いスーツ姿である。それでもカタギには見えない。
「どうしてここへ…?」
チェックアウトを済ませて、黒塗りの車に荷物を積み込みながらみなもは太巻に訪ねた。行きと同じように、電車で帰るつもりだったのである。
「そりゃお前、お兄様が妹を迎えに来なかったら、宿の人が不審がるだろ」
「だからなんで太巻さんがあたしのお兄様なんですの」
慣れた手つきで車の空調を入れ、車を出しながら、太巻は火のついていないタバコを揺らして笑った。
「そりゃ、お前が近所の中学の編入試験を受ける為に、わざわざ遠くからやってきた中学生ってことになってるからさ。一緒に付き合うはずだった年上のお兄様は、急用で一緒にいけなくなった、と」
女性の一人旅だってだけで不審がるのに、中学生が一人旅じゃ、尚更イタダケねェだろうというわけだ。手回しのよさに感心しながら、みなもは皮ばりのシートに身体を預けた。いっぱいに含んだ太陽の光と海の青が、まだ身体のそこかしこに残っている。
「少しは気分転換になったか?」
冷えたコーラの缶を開けながら、太巻が聞いた。聞かれれば、嫌でもヒロトの言葉が胸に甦る。
「……あたしは、ずっと考えていたんです。彼を殺そうとしたあたしは、やはりあの人と変わらないんだって」
岡部ヒロトはそれを知っていた。だからずっと、お前は俺と変わらないんだと、言い続けていたのだ。
喉を鳴らして缶ジュースを飲んで、太巻は肩を竦めた。
「大事なのは、何をしたかだろう。岡部は人を殺したし、お前は殺さなかった」
「……でも、殺そうとはしましたわ」
「だが、実際には殺さなかったし、そう思った自分を恥じてんだろう」
何でもないことのように太巻が笑うと、ずっと尾を引いていた気分が浮上するから不思議だ。思わずみなもが太巻の横顔を見つめると、視線を感じたのか相手は首を斜めに傾けた。
「志が立派だったからいいってものでもないし、たまたま正しいことを為したからそれでよしってことでもねェ。人間だから、誰でも間違えそうになることはあるさ。大事なのは、自分に恥じない人生を歩むことだ。自分が後悔しないように、出来るだけのことをしてこれたかってコトだ」
結果良ければ大概のことはオッケーだと言いながら、太巻はみなもにも缶ジュースを勧めた。勢いに押されて、みなもは汗をかいた缶を受け取る。何が飲みたいか、飲み物のチョイスはないらしい。
「お前、まだいくつだよ?13じゃねぇか。いいんだよ、そんなもんで。ちゃんと悩んだり迷ったり出来てるんだ、上等じゃねェか」
とにかくお前は明るい人生を送るんだぜと、真っ当なような、それでいてやはり穏やかでない台詞を吐いた。頷いて、みなもは缶に口を付ける。
よく冷えたソーダ水は、夏の名残の味がした。

「炭酸ソーダ」