■幻想交響曲 2 舞踏会■
x_chrysalis |
【1555】【倉塚・将之】【怪奇専門の何でも屋】 |
(第1楽章オープニングより)
「僕はコンピュータを利用して、視聴者がより映像の世界を体感できるようなシステムを考えていました。今まででも、目にゴーグルのように装着して視界のようにスクリーンを見られるようなモニターなんか、ありましたよね。あとヘッドホンなんかもそうです。そういったものの複合体を計画して、医療用の脳波測定器の改造版と組み合わせて作ったのがこれです」
水谷・和馬(みずたに・かずま)と名乗った青年が一同を案内した部屋には、SF映画にでも出てきそうな頭部の半分を覆う設計になっている機械があった。見た目は何かの医療器具のようにも見える。そこから一本のケーブルがコンピュータに接続されており、手前に置いたディスプレイから操作できるようになっていた。
霊の思念によって精神を音楽の世界に取り込まれてしまった青年を救い出して欲しい、という依頼がある。上手くやれば割りのいい仕事になるが、やらないか、といかにも胡散臭い依頼を持ちかけてきたのは、結城・レイ(ゆうき・れい)という東京都内をロードバイクで駆け回ってはどこから情報を仕入れたものか、表向きはその異能を知られる事なく生活している彼らにわざわざ話を持ちかけてくる自称メッセンジャーの少女である。
彼らはレイによって召集され、現在こうしてその青年の自宅であるという高級アパートメントのワンフロアを占めるスタジオ兼住居に居る訳だった。声をかけた張本人であるレイは、依頼者に引き合わせるといつの間にか姿を消してしまったが。
「装置としては、さっき説明したような視界型のスクリーンと外部の音を完全にシャットアウトできるヘッドホン、それから脳波にダイレクトに作用するもので──まあ、これは複雑なんですが微弱な電波、しかし脳の各感覚部分に確実に作用するもの、と考えて貰えばいいですね。それが映像、音響情報と連係して、対象に擬似的な感覚を与える訳です。例えば、木が風に揺れているような映像と効果音だったら、風が身体に当たっているような錯覚を与える、というように。まあ、コンピュータマニアが遊びで作った玩具だったんですよ。柾は、映像の世界に没頭する奴でしたから、彼なら楽しめるかもしれないと思って、彼にやったんです。たまに映画を見たりして、面白い、と云ってくれてましたが。……ですが、例の事故があってから、柾は全く死んだみたいに無気力になってしまって……。彼はある意味、彼女が死んだ事を認めてないようでした。ちょっと言動もおかしかったんです。突然、ふらっと僕を訪ねて来て『おい、千鶴子来てないか』とか聞いたり……」
柾・晴冶(まさき・はるや)は新進の若手として注目を集めていた映像作家だった。映像と音とで白昼夢のような美しい世界を造りあげ、その裏では製作過程で潔癖性なまでのこだわりを見せ、変わり者と評されてもいたが、短編映画やコマーシャルフィルムの監督として将来を期待されていた。水谷は、アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵で、柾の数少ない友人だった。
その柾の恋人は陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)という舞台女優だった。古典的な女優然とした気品のある美貌で、柾の映像世界には理想的だったのだろう、あるショートフィルムの主演に彼女を起用した時から二人の交際は始まった。監督と女優という典型的な関係ながら、相思相愛振りは中学生の恋愛のように微笑ましいほど純粋だったようで、人間嫌いの噂もあった柾が千鶴子に対してだけは少年のようになる、と専らの評判だった。
「似合いでしたよ、柾も美青年だったし、何しろ自分の言動とか身の回りに関しても映像としてのこだわりがあったから、二人が一緒の所だけ別世界のようにきれいで」
悲劇は、一月程前に起こった。
陵千鶴子の急逝。轢逃げによる即死だった。警察も事故、他殺の面で捜査したが未だ犯人は見つかっていない。事故車だけは乗り捨てられた状態で発見されたが、それは少し前に都内で盗難届けが出されていたものだった。
柾は知らせを聞いて半狂乱になり、落ち着いたと思ったら今度は突然無気力になって自宅に引きこもって仕事も、関係者に面会することもなくなった。その少し後には水谷が云うように精神の破綻も来していたらしい。
「問題はここからで……一週間程前、僕もさすがに不安になって柾を訪ねたんですよ。つまり、この家ですけどね。ベルを鳴らしても、出ない。外から携帯で電話しても、通じない。おかしいと思って、入ってみました。鍵は開いてたんです。居間にもいないし声をかけても返事がないので、捜しまわってる内に、この部屋でこの装置を使って何かを見てる柾を見つけました。ディスプレイで確認したら、それが、この映像だったんです。慌てて、中断させました。それから……ずっとああなんです。何も見えてない、聞こえてないみたいな状態です」
柾は音楽、特にクラシック音楽にも深い感性を持っていた。陵千鶴子を使って、ベルリオーズの「幻想交響曲」を映像化する計画があったらしい。一部、撮影が進んでいたが、完成を待たず千鶴子は帰らぬ人となった。
その製作途中のフィルムが、今ディスプレイに映っているものだ。
陵千鶴子が、白いドレスを着て、微笑んでいる。白くぼやけた背景の中を漂うような美しい彼女は、今となってはその直後の不安な死を予感させるほど儚い幻想のようだ。
「こんな装置を柾に与えた僕の責任です。柾が今非常に不安定な状態だと知っていながら……。これは、精神科を含めて医療の範疇では解決できないと思っています。明らかに、柾の精神は別の世界を彷徨ってる。……これは、あなた方だから云うんですが、見えたんですよ、千鶴子が……フィルムに残っていない場面で、誘いかけるように笑って手招きしてる千鶴子の姿が、一瞬だけ映ったんです。千鶴子が柾を引っ張り込もうとしてるに違いないんです。それで、そういった霊的な物に対抗できる方を紹介して貰えるように方々を訪ねてたんです」
「柾に、もう一度この装置を使ってこの映像と、同時に幻想交響曲を最初から最後まで聞かせます。チャンスは一回しかありません。もし、またこの装置を使って実際の柾にこの曲を最後まで聞かせたら、柾は二度とこっちには帰ってこられないでしょう。ですが、その間に柾にこれは幻覚だ、千鶴子は死んだんだと理解させられれば……あるいは、と思いまして。柾に音楽を聴かせている間に、どうか、柾の彷徨っている世界へ行って彼を連れ戻してきてくれませんか」
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幻想交響曲 1 夢
【0E】
授業が終わり、帰路に着くべく校舎を後にした倉塚・将之(くらつか・まさゆき)の視界に、校門の先でロードバイクに凭れ掛かって自分に手を振っている少女の姿が飛び込んだ。
「やあ、怪奇専門何でも屋高校生、頑張ってるかい?」
「……レイさん、でしたっけ」
『自称メッセンジャー』、結城・レイ(ゆうき・れい)だ。将之は何事かと駆け寄り、「ま、説明は道中」とバイクを押して歩き出した彼女に並んだ。
将之は普通にこの私立高校に通いつつ、裏では退魔・浄化・霊的アイテムの捜索と云った怪奇事件を専門とする何でも屋稼業を兼ねている。どこから情報を聞き付けたものか、少し前に将之の許を訪れた彼女は「あんた、頼りになりそうね。何かあったらお願いするから、連絡先、教えて」とさり気なく云い、──で、将之は訊ねられるままについつい携帯電話の番号だけでなく自宅やら通っている高校の名前から住所まで、教えてしまったのである。
最初に会った時、将之がつい「前、見えてます?」と訊いてしまった程鬱陶しそうな前髪に、どうにも思惑有り気な微笑をいつも口許に浮かべている少女だ。実際に腹に一物有りそうな彼女から矢継ぎ早に質問を浴びせられ、楽天家、且つお人好しな将之が莫迦正直に答えてしまったのもある意味無理は無い。
「所で、例の仕事、どう? 捗ってる?」
「ああ……アレは……」
何でも屋稼業の仕事の話中には人が変わって真剣になる将之には珍しく、彼はくしゃくしゃ、と髪を掻き回した。
「内容が、内容だからなぁ……」
何と云うか、──本当に何とも云いようのない仕事なのだ。そうでなければ、いくらレイに乗せられたとしても将之が守秘義務に値する仕事の内容を洩してしまう筈はない。
半月程前の事だ。なんとも形容し難い──敢えて云えば錯乱状態にあった、としか云えないやたら顔色の悪い青年が将之を訊ねて来て、「恋人を殺した犯人を見つけだしてくれ」と訴えたのである。
最初こそ、とりあえず青年を落ち着かせ、詳しい話を聞こうとしていた将之だが──詳しく聞けば聞く程、将之の真剣な表情が段々と崩れて行き──最終的には、口をぽかんと半開きにして「あんた、それストーカー」と呟いてしまった、という内容だったのだ。
何の事はない。青年の云う死んだ恋人、とは少し前に交通事故で死亡したうら若き舞台女優の事だった。勿論、彼がその女優の相思相愛の恋人だった訳ではない。いわゆる狂信的なファン、しかもその追い駆け方がストーカー一歩手前か既に立派な、という末期症状の。
しかし、その青年の一方的な想い人は、最近、他殺も疑われる轢逃げに遭い死亡した。一瞬、将之が内心「思い詰め過ぎてあんたが殺したんじゃないか?」と思ってしまった程の半狂乱に陥った彼は、そこで、何とか犯人を探し出して復讐したいが手がかりが無く行き詰まっている、だから犯人を探してくれ、と云うのだ。
厄介な事になった、と将之は思った。警察は? と聞くとあんなものは役に立たない、と云う。警察が捜査して未だ犯人が特定されていないのであれば、人間関係や物的証拠からは割り出せない相手なのだろう。その手の調査はやや将之の管轄外である。しかし話を聞いてしまい、しかもこの危ない青年を見ていると、放っておけば暴走して関係のない人間でも刺し殺し兼ねない気がしてきた。
ともかく、調査してみよう、と将之は云った。
「但し、俺が結果を報告するまで、素人で勝手に調査したり人の噂を信じ込んで疑わしき相手に手を出したりしないように。それが約束できなければ、引き受けられない」と云い含めた。
そして、一応将之なりに調査に乗り出したのだが、ほとほと雲を掴むような話だった。
まず、警察の捜査状況を調べた。被害者が有名人であり、さっきの青年のような可愛さ余って憎さに転じて無理心中を図りそうなファンから、逆にはその美貌や成功を妬んでいた人間も数多い。疑えば容疑者は際限なく増えて行く。物的証拠からも特定が難しく、その事故車は乗り捨てられていた物が都内で発見されたものの、元々が盗難車だった。車内には元の持ち主以外に特定の人間を割り出せる証拠は無く、その持ち主には事件当日も何人もの証言者が居るアリバイがあるばかりか、被害者の女優との関係性は全くなかった。舞台などに興味はなく、名前すら知らなかったのである。
関係者の聞き込みもできる範囲で行ってはみたが、どうせ警察が既に捜査した範囲を出るものではなかった。
とりあえず、数日の後に「これは警察の捜査結果を待つしかない」と告げたら青年の錯乱振りは更にエスカレートしてしまい、じゃあもういい、あんたには頼まないから相手を呪い殺す方法を教えろだとか、自殺すれば確実に幽霊になってあの世で彼女と結ばれる保証はあるのかとか騒ぎ出したので、将之の方がくたくたになりながら「分かった、引き続き調査する」と云ってようやく追い返した所だ。
だから、一応は調査中の仕事という訳なのだが。
「そのことだけど、そのストーカー男、死んだわよ」
「え? 嘘」
さらりと告げたレイに将之は即答で聞き返した。
「本当。しかも疑う余地のない被害者の信号不注意による交通事故。運転手も酒気帯びもして無い優良ドライバーで普通に自首してるし、仕方ないって事であっさり片付いた事件よ。一昨日ね。まあどうせ、何かあらぬ事考えながらぼけっとしてたんでしょうけど」
「……、」
将之は可哀想に……と今になってみればあまりにも女優への思い入れがエスカレートしてしまった青年の狂乱振りを思い出し、哀れに思いもしたが、これでやっとこの件から解放された、という安堵も多少あった。
「ところで」
一息吐いた将之にレイが、恐らくこれこそ本来の目的だったのだろう、心無しか前髪の奥で目が光った気もする無気味な笑みを浮かべた口許で切り出した。
「その女優の件で、今度はあんたの本領が発揮できそうなアルバイトがあるんだけど、やらない?」
「……、」
【-opening-】
「僕はコンピュータを利用して、視聴者がより映像の世界を体感できるようなシステムを考えていました。今まででも、目にゴーグルのように装着して視界のようにスクリーンを見られるようなモニターなんか、ありましたよね。あとヘッドホンなんかもそうです。そういったものの複合体を計画して、医療用の脳波測定器の改造版と組み合わせて作ったのがこれです」
水谷・和馬(みずたに・かずま)と名乗った青年が一同を案内した部屋には、SF映画にでも出てきそうな頭部の半分を覆う設計になっている機械があった。見た目は何かの医療器具のようにも見える。そこから一本のケーブルがコンピュータに接続されており、手前に置いたディスプレイから操作できるようになっていた。
霊の思念によって精神を音楽の世界に取り込まれてしまった青年を救い出して欲しい、という依頼がある。上手くやれば割りのいい仕事になるが、やらないか、といかにも胡散臭い依頼を持ちかけてきたのは、結城・レイ(ゆうき・れい)という東京都内をロードバイクで駆け回ってはどこから情報を仕入れたものか、表向きはその異能を知られる事なく生活している彼らにわざわざ話を持ちかけてくる自称メッセンジャーの少女である。
彼らはレイによって召集され、現在こうしてその青年の自宅であるという高級アパートメントのワンフロアを占めるスタジオ兼住居に居る訳だった。声をかけた張本人であるレイは、依頼者に引き合わせるといつの間にか姿を消してしまったが。
「装置としては、さっき説明したような視界型のスクリーンと外部の音を完全にシャットアウトできるヘッドホン、それから脳波にダイレクトに作用するもので──まあ、これは複雑なんですが微弱な電波、しかし脳の各感覚部分に確実に作用するもの、と考えて貰えばいいですね。それが映像、音響情報と連係して、対象に擬似的な感覚を与える訳です。例えば、木が風に揺れているような映像と効果音だったら、風が身体に当たっているような錯覚を与える、というように。まあ、コンピュータマニアが遊びで作った玩具だったんですよ。柾は、映像の世界に没頭する奴でしたから、彼なら楽しめるかもしれないと思って、彼にやったんです。たまに映画を見たりして、面白い、と云ってくれてましたが。……ですが、例の事故があってから、柾は全く死んだみたいに無気力になってしまって……。彼はある意味、彼女が死んだ事を認めてないようでした。ちょっと言動もおかしかったんです。突然、ふらっと僕を訪ねて来て『おい、千鶴子来てないか』とか聞いたり……」
柾・晴冶(まさき・はるや)は新進の若手として注目を集めていた映像作家だった。映像と音とで白昼夢のような美しい世界を造りあげ、その裏では製作過程で潔癖性なまでのこだわりを見せ、変わり者と評されてもいたが、短編映画やコマーシャルフィルムの監督として将来を期待されていた。水谷は、アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵で、柾の数少ない友人だった。
その柾の恋人は陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)という舞台女優だった。古典的な女優然とした気品のある美貌で、柾の映像世界には理想的だったのだろう、あるショートフィルムの主演に彼女を起用した時から二人の交際は始まった。監督と女優という典型的な関係ながら、相思相愛振りは中学生の恋愛のように微笑ましいほど純粋だったようで、人間嫌いの噂もあった柾が千鶴子に対してだけは少年のようになる、と専らの評判だった。
「似合いでしたよ、柾も美青年だったし、何しろ自分の言動とか身の回りに関しても映像としてのこだわりがあったから、二人が一緒の所だけ別世界のようにきれいで」
悲劇は、一月程前に起こった。
陵千鶴子の急逝。轢逃げによる即死だった。警察も事故、他殺の面で捜査したが未だ犯人は見つかっていない。事故車だけは乗り捨てられた状態で発見されたが、それは少し前に都内で盗難届けが出されていたものだった。
柾は知らせを聞いて半狂乱になり、落ち着いたと思ったら今度は突然無気力になって自宅に引きこもって仕事も、関係者に面会することもなくなった。その少し後には水谷が云うように精神の破綻も来していたらしい。
「問題はここからで……一週間程前、僕もさすがに不安になって柾を訪ねたんですよ。つまり、この家ですけどね。ベルを鳴らしても、出ない。外から携帯で電話しても、通じない。おかしいと思って、入ってみました。鍵は開いてたんです。居間にもいないし声をかけても返事がないので、捜しまわってる内に、この部屋でこの装置を使って何かを見てる柾を見つけました。ディスプレイで確認したら、それが、この映像だったんです。慌てて、中断させました。それから……ずっとああなんです。何も見えてない、聞こえてないみたいな状態です」
柾は音楽、特にクラシック音楽にも深い感性を持っていた。陵千鶴子を使って、ベルリオーズの「幻想交響曲」を映像化する計画があったらしい。一部、撮影が進んでいたが、完成を待たず千鶴子は帰らぬ人となった。
その製作途中のフィルムが、今ディスプレイに映っているものだ。
陵千鶴子が、白いドレスを着て、微笑んでいる。白くぼやけた背景の中を漂うような美しい彼女は、今となってはその直後の不安な死を予感させるほど儚い幻想のようだ。
「こんな装置を柾に与えた僕の責任です。柾が今非常に不安定な状態だと知っていながら……。これは、精神科を含めて医療の範疇では解決できないと思っています。明らかに、柾の精神は別の世界を彷徨ってる。……これは、あなた方だから云うんですが、見えたんですよ、千鶴子が……フィルムに残っていない場面で、誘いかけるように笑って手招きしてる千鶴子の姿が、一瞬だけ映ったんです。千鶴子が柾を引っ張り込もうとしてるに違いないんです。それで、そういった霊的な物に対抗できる方を紹介して貰えるように方々を訪ねてたんです」
「柾に、もう一度この装置を使ってこの映像と、同時に幻想交響曲を最初から最後まで聞かせます。チャンスは一回しかありません。もし、またこの装置を使って実際の柾にこの曲を最後まで聞かせたら、柾は二度とこっちには帰ってこられないでしょう。ですが、その間に柾にこれは幻覚だ、千鶴子は死んだんだと理解させられれば……あるいは、と思いまして。柾に音楽を聴かせている間に、どうか、柾の彷徨っている世界へ行って彼を連れ戻してきてくれませんか」
【1_0DEG】
「……、」
セレスティは、水谷に抱きかかえられるようにして連れて来られ、されるままに体感型映像音声出力装置の中に収まっている柾を静かに見つめていた。
彼の血の流れを感知し、傍目には茫然自失のように見える彼の鼓動が、時に熱に浮かされたように速く打つのを知った。
彼の運命がどうなる事か、見た目からは想像も付かない子供のような無邪気な好奇心にかられて柾に触れようとしたセレスティを、横から水谷が慌てて制止した。
「何をするんですか、」
「……失礼」
暫く、じっと水谷の怯えたような目を見て居たセレスティはそう云って引き下がった。
そこへ将之がやって来て、水谷に何かを出せと要求している。背後ではアイドル歌手とドイツ系の青年が何やら話し込んでいる。アルビノの大学生がエアガンの空撃ちをやっている。
「……、」
セレスティは一言だけ、心の中で呟いた。──これは面白い事になるかもしれない、と。
「でも、役には立ちませんよ、多分」
「それでもいいから出してくれよ、だって俺、その曲の事すら知らないんだぜ、結局柾さんの頭ん中なんだろ、その世界。だったらもしかしたら事前学習になるかもしれねぇじゃん」
将之が水谷に要求したのは、さっき見た陵千鶴子の映像の他にも、柾が「幻想交響曲」の為に準備していた映像があれば見たい、という事だった。水谷は面倒だったのかどうだか、最初あるにはあるがイメージのメモ程度のもので役には立たない、と云ったが、自らの身の丈程もある大剣を軽やかに肩に担いでいる、一見元気良く愛想の良さそうな高校生に薄ら寒い物を感じたのかも知れない。少し沈黙した後、棚に手を伸ばした。
「ダビングしたもので映像は悪いですが、これなら居間のデッキとテレビで見られますから」
「どうも」
水谷が投げるように寄越したビデオカセットを受け取り、部屋を出ようとした将之に勝明が、俺も見ていいですか、と付いて来た。
確かにそのビデオは映像が荒く、本当に断片的な映像しか映って居なかった。どこで撮影したものか想像もつかない廃虚の街、夜の雑木林、昔の絵画に出て来そうな古い建築物。それに暗い海岸線。
「……でもまあ、大体こういう人気のない場所なんだろうな。……にしても、恋人が死んで逃げ込んだ先が、なんでこんな寂しい場所なのかな。俺だったら、静かでももっと明るい場所がいいと思うけど」
茶色い短髪をくしゃくしゃ掻き回しながら将之は首を傾いだ。
「そうですか、俺は結構好きですけど。……落ちつけそうで」
低声で勝明が反対意見を呟く。……確かに、何処となく人気のない場所を好みそうな、猫のような雰囲気の少年である。
「……あ、そう……」
「……倉塚さんは、もし千鶴子さんに会ったらどうしますか、その中で」
「どうって……」
「攻撃しますか?」
ああ……、と将之はその意味に気付き、傍らに置いた大剣「破神」に視線を落とした。
「柾さんに危害を加えたら、そうするかもな」
「……」
「だってよ、千鶴子さんはもう死んだんじゃないか。柾さんは生きてる人間だぜ。生きてる人間を引き摺り込もうとする奴からは、護んねぇと。……ま、俺に出来ることってそれ位しかねぇし」
そしてまた髪を掻き上げる。
「俺は、千鶴子さんの意思を確かめたいんです」
「え?」
将之は頭にやっていた手を止め、淡々と語る傍らの中学生を見下ろした。
「分からないんです。……千鶴子さんが、本当に恋人だった柾さんを引き摺り込もうとしているのか。……水谷さんは、柾さんを連れ戻して呉れって云う。でも、それにしても本当に柾さんが望んでいないなら、結局は他人の勝手だ。あっちの世界に柾さんを連れ込もうとしているのも、本当に千鶴子さんの勝手なのかどうか……」
「ああ……どうなんだろうな」
将之もまたやや眉を寄せ、思考を巡らせている所へ開いたままの居間のドアが軽くノックされた。
「あ」
佇んでいたのは静かな微笑を浮かべたセレスティである。いつの間に……と思いつつ、将之は何か、と視線で訊ねた。
「準備が出来たそうですよ」
「あ、どうも、わざわざ」
将之はセレスティに会釈し、勝明を促した。
「……ま、どの道実際に行って見ない事には、何も云えないしな」
「そうですね」
勝明は先に部屋を出て行った。素早い。
大剣を担ぎ上げた将之は、目の前のセレスティの、──脆弱そうで、ステッキをついていなければ倒れてしまいそうな身体を慮った。
「あの、大丈夫ですか。結構、危険だって聴きましたけど」
「──……、」
セレスティは目を伏せたまま微笑を続けている。──彼の先、将之の背後にはまだ電源を入れたままのテレビ画面が、暗い海を映し続けていた。
「心配には及びません、──……何より、私自身が見てみたいのでね。奇才ベルリオーズの世界と、柾氏の奇異な運命を……」
「……あんた」
将之はセレスティを一瞥すると、呆れたような表情になって次の一言を指先と共に突き付けた。
「結構、面白がりだろ」
「あまりに長い年月を生きると刺激に餓えるものなのですよ……」
涼しい表情でそう宣った、表面的には自分と多くとも10歳位しか違わなさそうな青年に、ああ、訳分かんねぇ、好きにしてくれ、と内心思いつつ将之も勝明を追って部屋に戻った。
「──……、」
セレスティの前に、粒子の荒い海が広がっている。精神の強さには自信があったもので、幻想の世界では身体的な脆さをもカバーできるだろうと、何より好奇心からその危険を冒して来てみたものの、もしもこの先の世界に海が存在するとすれば──好都合な事だ。
725年もの年月を生きた人魚が人の姿を得た存在、それがセレスティ・カーニンガムの正体である。水と云う物体──特に、海の様にそれ自体の力が強いものであれば、それは彼にとって大きな力となるだろう。
一同が集まると、水谷は各自に柾と同じ音楽を聴かせるヘッドホンを手渡した。
──視界がホワイトアウトした。そして、遠くの方でフルートとクラリネットによるハ単調の静かで、切なくも甘いラルゴの前奏が響き出す。
【1_0zero】
都内の某ネットカフェの窓際に落ち着いたレイは、自分のノートパソコンを広げてある共有ファイル──柾宅の、例の映像装置に繋がったコンピュータに接続した。今頃、その体感型映像、音声出力装置の中には傍目には廃人同様の柾の肉体、云い換えれば抜け殻が収まっている事だろう。
その装置とリンクしている画面は今の所ホワイトアウトしている。
もうすぐ、ヘッドホンからの音楽を入口として草壁・鞍馬、陵・彬、ケーナズ・ルクセンブルク、セレスティ・カーニンガム、倉塚・将之、イヴ・ソマリア、篠原・勝明の7人がログインする筈だ。既にファイルの中にある、未完成の映像と柾の幻想と陵千鶴子の怨念が絡み合った「幻想交響曲」の世界に。
レイ自身はイヤホンも付けていないし、ノートパソコンの音声も切っている。
対岸の火事を傍観するつもりなのに、自分が音楽の中に取り込まれてしまっては元も子も無い。──気付いた時にはもう遅く、音の一つ一つが映像として「見えて」しまうこの曲の恐ろしさは充分理解している。
「……遅くない?」
レイはぽつりと呟き、平行して待機させているストップウォッチソフトと画面上の時刻表示を見比べて呟く。
「……何か準備に手間取ってるのかしらね」
そしてまあいいか、と傍らに置いたアイスコーヒーに口を付ける。
「柾晴冶と彼等がどうなっても、私には関係ないし」
相変わらずの笑みを浮かべて頬杖を付いていたレイだが、「あ」とやがて声を洩した。
「……来た来た」
ホワイトアウトした画面が、ゆっくりと淡い色彩の映像を伴って流れ出す。レイはストップウォッチのスタートボタンをクリックして開始させた。
【1_1】
一同の目の前には、果てしない海岸線が広がって居た。恐らく、時刻は明け方だろう。ホワイトアウトに被さった白い砂浜に静かに寄せる波は、水平線の見えない遥か遠くまで淡い青紫のグラデーションを描いている。
「まあ……きれい」
イヴがうっとりしたように呟く。危機感の欠片も感じられない。然し、それも当然だろう。既にこの先の楽曲の展開を知っている人間ですら、思わずそれを忘れて郷愁に襲われてしまいそうな光景だ。
イヴやケーナズの余裕は強い自分の自我に対する自信に拠ってであり、彬、将之、勝明が緊張感を緩めないのはそれぞれが所持しているやや場違いにも思える武器の存在感と事前にこの幻想世界が千鶴子の怨念によるものだという恐ろしさを辛うじて覚えているからだ。セレスティは何の感想もなさそうにただ観察するように静謐な青い瞳を水面に向けている。鞍馬は一人ぼんやりしていた。
「──柾、」
ケーナズが呟いた。
釣られて視線を向けた一同の先──波打ち際に、裸足の足を浸して両腕を大きく広げ、天を仰いでいる柾の姿が在った。おそらく未だ精神に異常を来す前、水谷が「自分の言動や身の周りに関しても映像としてのこだわりがあった」と云っていた頃の、神経質そうな、整った横顔だ。
前奏に繋がるヴァイオリンの切ない旋律。
柾はゆっくりと海に向かって歩み出す。切なさに支配された心は、甘く誘い掛けるようなヴァイオリンの音色に釣られて恋人を探して彷徨い始めた。
「危ないな、」
勝明が呟いた。
「このままじゃあの人、気が付かないまま海に入っていくぜ、」
将之も少しずつ水に浸かっていく足許には注意を払いもせず、たゆたう様に進んでいく柾の姿には焦りを覚えたようだ。
「……、」
ケーナズが足を進めた。
「ともかく、彼の意識をこちらに向けさせなければ話を聞きもしないだろう」
だが、ケーナズは柾の入っている海に「拒絶」された。壁が存在している訳でもないのに、波打ち際より中には入れないのだ。
「……まだラルゴが始まったばかりよ、穏やかな景色に対して不粋な事はすべからず、という意味でしょう」
イヴがケーナズを親し気に制し、「私が柾さんの注意を反らすわ」と、今度は事も無げに海に入って云った。
「……全く、神経質な映像作家の精神、か、或いは」
ケーナズは吐き捨て、何を思ったかちらりと背後のセレスティを一瞥したが、しかし「まあ、この楽章は全体でも特に長く情景の転換も著しい楽章だ。余裕はあるか」と気を取り直したように腕を組んでイヴの後ろ姿を見遣った。
「あの人、注意を反らすって、どうするんだろう」
眉を顰めた彬に対してケーナズが簡単に云う。
「彼女も女優だ。それもその歌声で人を魅了するセイレーンの血が入った。姿は彼女のままでも、雰囲気や気配だけでも陵千鶴子を『演じる』ことはできるのだろう。そして、ひとまずは安全な水の外まで柾を誘い出す」
果たして、イヴの「演じた」千鶴子の気配に気付いたのか、ふらふらとした足取りで彷徨っていた柾ははっと背後を振り返ると、呆然とその指先をイヴに向けた。揶揄かうように波打ち際に向けて駆け出したイヴを追って、水に足を取られながらも覚束無い身振りで駆け出す。
水しぶきがそこここで跳ねた。それを象徴するように、細かな装飾音を伴ったヴァイオリンがテンポを加速させながら軽やかに愛らしい(アニマート)パッセージを奏でる。
「……遊んでいるように見えるが」
「……あの娘、本当に柾さんを助ける気があるのか?」
彬と将之が不審そうに顔を見合わせている。イヴはさっきよりは深度のある場所へこそ行かなかったものの、なかなか砂浜まで柾を導く気配がない。ずっと、ふくらはぎまで辺が水に浸かる中を駆け回っている。実はその辺り、ケーナズにも「勿論だ」と断言できる自信がなく、そ知らぬ顔でそれを見つめていた。
「……、あの」
勝明には思い当たる事があって、そっと一同を離れるとセレスティに近付いた。
「……何か?」
「さっき水を操ってケーナズさんを近付けなかったの、あなたじゃないんですか」
「……、」
セレスティは表情一つ変えずに澄まして相変わらず「柾の幻想」を眺めていた。やっぱりな、と勝明は思う。
「……不粋な真似は好きではない。……それに、もうしばらくは彼の幻想とやらを眺めていたいとは思いませんか?」
「思いませんよ」
駄目だこの人……、と思いながら勝明は元の場所へ戻った。
「鞍馬」
不意に彬に呼び掛けられた鞍馬ははっとして顔を上げた。彬の表情が一層険しくなる。
「本当に大丈夫か」
「ん……ああ、大丈夫」
「……やっぱりお前は迷ってる。水際に居ればセレスティさんが護ってくれるだろうから、1楽章の間はここにいて終わったらさっさと戻った方がいい」
「……彬、」
だって、何とも思わないのか。あれ程夢中で恋人を(実際は千鶴子の気配を真似たイヴなのだが)追い続けている柾の目の前で、本物の千鶴子の思念体を攻撃することなんか、できるのか? ──駄目だ。
少なくとも、俺には千鶴子さんを攻撃できない、と思いながら鞍馬は再び俯いた。
「……!」
将之が俄に表情を緊張に引き攣らせ、大剣「破神」を構えた。どこからともなく、今までその気配を感じさせることのない程自然に唸りを上げたコントラバスのロングトーンが旋風となってその茶色い短髪を吹き抜けた。──地下鉄の駅構内で、通過車両が強風を残して過ぎ去って行く時のような緊張が肌に染みる。
「来る、か──……?」
「いや」
しかしケーナズは落ち着いたまま組んだ腕を解かない。
その通り、その後は何事もなったかのようにヴァイオリンが甘い旋律を歌い続け、後には一同の緊張を揶揄かうように規則的で穏やかな波だけが打ち寄せていた。──あまりに自然すぎて、錯覚を起こす程に。今、自分は幻覚を見たのではないかと。──彼は剣を構え続けている。柄を握る手に、汗が滲んで居た。
それは、彬と勝明も同じ思いだった。そもそも、この風景自体が柾の幻想だと云えばそれまでなのだが、何か、今一瞬の内に自分の記憶の中で一番不安なもの、見たくないもの、然し思い出さなければならない何かを見たような錯覚を覚えた。
「こんな事はこの先いくらでもあるぞ。君達も分かったら、覚悟して置き給え。美しい旋律に油断すると、その隙をついて不協和音が襲って来る。生半可に安心していると、柾のように精神を乗っ取られるぞ」
その言葉を聴いた彬が眉を持ち上げ、鞍馬は視線を反らした。……余裕で微笑んでいるのはセレスティ。ある意味、一番性質が悪いのではないだろうか……。
幻想の世界に入った途端、いきなり目の前が大海だったのは予想外だったが、如何に幻想と云えども海はセレスティの能力が最も敏感に働く場所だ。これだけ広大な水に包まれた世界ならば、ケーナズ程には楽曲をスコア的に理解していなくとも、未来は読める。この直後に起こる変化を知りつつ美しい光景を前に待ち受けるのは、如何にも楽しい事ではないか。
勝明の上げた声に一同が揃って視線を上げた。
「イヴさんと柾さんが……、」
居ない。
意識が柾から離れた一瞬の隙に、二人の姿は消えていた。──甘い、誘い掛けるようなヴァイオリンとフルートの旋律に、攫われてしまった様に。
「……あ……、」
水面が歪んだ。ぐらり、と傾く視界に目を細めた鞍馬、彬、将之、勝明にセレスティの落ち着いた声だけがよく響いて聴こえた。
『──気を付けなさい。彼女は柾氏だけでなく全てを誘い込もうとしている。……気を許すと──』
だが、四人は青い歪んだ空間に飲まれてしまった。その後に、元通り静かな海岸に残っているのはケーナズとセレスティだけだ。
「……あなたはどうするつもりだ?」
ケーナズは水霊の力を得てか、旋律の変化を経ても尚そこに広大な海を残したままの世界を守ったセレスティに対して問いかけた。
「御覧の通り、私は身体の自由が利きません。……ほら、あの子達の様に元気よく駆け回る事はできませんからね。ここから眺めていることにしましょう。……本当に危なくなったら、ここへ帰って来なさい。出血を止める位の役には立ちましょう」
「……、」
全てを見通しているらしいセレスティがほら、と示した彼等──恐らくは、さっきのうねりに呑まれた鞍馬、彬、将之、勝明──の姿は彼には見えなかったが、ケーナズはそれでも「余裕だな」と吐くと自分の足で次の場面に向けて海岸線を歩き出した。
「……君もだ」
【1_1zero】
「五分経過。──そろそろ最初の固定楽想<idee-fixe>か……」
レイはモニターと、ストップウォッチウィンドウの表示を眺めながら片方の唇を吊り上げた。
【1_2E】
低音弦楽器の倍音が造り出す不協和音が、聴覚どころか感覚全体に纏わり付くような閉じられた空間の中に、将之は閉じ込められていた。
音楽の恐ろしさ、と云われてもピンと来なかった。──まさか、音にこれ程力があるなんて、思わなかった。……甘く見ていたかもしれない。音楽への造詣の深さなんか関係なかった、不快な倍音とは、それを聴覚が感知する生物全てに作用するのだ。
「──……、くそ」
「破神」の柄を握り締めた手に、汗が滲む。手が滑る。将之は大剣を地面に突き刺し、両手で耳を覆った。
──しっかりしろ。これじゃ、これだからお前は甘いって親父に笑われちまう。
強く押さえた指の間からも、ずれた音程の倍音列は低くうねりながら忍び込んで来る。……耳を塞いだって、音から身は防げないって訳か。
「……、」
防げないなら、消してやる。
将之は眼鏡の奥の目を見開き、耳から両手を離すと再び「破神」の柄をしっかりと掴んだ。足を大きく開き、身体を支える。手に力を込める。
──落ちつけ。
肩から腕の力を抜く。慌てて全身を強張らせてはいけない。大型の剣の柄はしっかり握っていても、肩から腕は脱力し、自由にさせていなければいけない。
「──……はっ!」
そして大きく「破神」を薙ぎ払う。鎌鼬のような鋭い風の刃が将之の手許を離れ、倍音の壁を切り裂いた。
──音とは、即ち空気の振動である。ならば、風を操って空気の運動を断つ事ができる将之には斬れる筈だ。
「……、」
辺りには、再び静かな空間と調和した音程の旋律が広がっていた。
「……空気をどうこうして俺に勝とうなんて、百年早ぇよ」
百年──。将之に退魔剣術を教えた父親の生きた年月と、今現在までに将之の生きて来た年月を足して更に少々上乗せはしたが、それにしても死んで一ヶ月そこそこの怨霊が叶う筈はない。意思の強さでは、将之も負けない。
「倉塚さん、こっちです、柾さんが」
勝明の声に気付いた将之は、軽やかに大剣を担ぐと駆け出した。
【1_3BCDEFG】
「……本来ならこの甘ったれた男に本当の事を分からせてやりたい所だが……」
ケーナズは遠くから聴こえてきて、クレシェンドで近づいて来るやたらと明るいトゥッティの響きに耳を澄ました。
「……今はその暇はないようだ」
「え?」
ケーナズは耳を塞いで蹲り、口唇を震わせている柾を冷たい視線で見下ろした。──柾は、明らかにこのトゥッティに続く旋律を畏れている。
ケーナズは将之と彬に注意を促した。
「気を付け給え、もうすぐ魑魅魍魎の類が跋扈するぞ」
「魑魅魍魎だと!? 何だよ、それ」
「……『あれ』じゃないのか」
ピアニシモから急激なクレシェンドを伴って上昇下降を繰り返す半音階の旋律が魑魅魍魎の登場を現すことをケーナズはあらかじめ知っていたが、柾の幻想の中ではそれがどんな形態をとっているかは想像しようもなかった。『あれ』の姿を見たケーナズは、全く想像力の逞しい男だ、と柾に向けて舌打ちした。
「……何て芸術的な魑魅魍魎だろう……」
彬が感心したと云うよりは呆れたように呟いた。
「あれのどこが!?」
そうこうしている内にも『あれ』は迫って来る。大剣「破神」を構えながら半ば怒鳴るように将之が訊ねた。
『あれ』は一見、人魂のように見えるが、よく個体を観察してみればイラスト風にデフォルメされた真っ白な胎児、それの大軍である。然し、胎児にしてみればやたらと手足が細く、大きな頭部の頬はげっそりとして陰気な目が虚ろに見開かれている。それが超高速で飛びかかってくる図は、シュールだ。柾でなくとも、充分怖い。
「『マドンナ』だ。画家エドヴァルド・ムンクの。あれには確か油絵とリトグラフの2種類が存在しているが、そのリトグラフの方にはマドンナを取り囲むようにあの胎児の絵が──」
ちらりと懐のメモから「プチ情報(この際にはあまり役に立っていない)」を引き出した彬の解説を、既に将之は聞いていない。大剣を大きく振りかぶり、目の前まで達した『あれ』、魑魅魍魎共を切り裂いていたからだ。そう云う彬もメモ帳を仕舞い込みつつ、片手ではエアガンを発砲している。
「要は、ビジュアルにこだわってるって事よねぇ、流石柾さんだわ」
うっとりしながら片手を翳し、これもまたある意味恐ろしい事に胎児の姿をした魑魅魍魎共の生気を「吸い取って」いるのはイヴ。ケーナズはイヴをちらりと一瞥した。「吸引」中の方ではない。それは彼女の分身だ。もう一人のイヴは、襲い掛かってくる魑魅魍魎共に震えながら「千鶴子、千鶴子」と呟き続ける柾の横でまたもや陵千鶴子を演じている。
「柾さん、私はここよ」
「……やはり君は優しいな、」
「あなたが強過ぎるのよ。男が皆あなたのように強いとは限らないわ」
「吸引」中のイヴが替わりに答えた。
しかし、あまりにその数の多い魑魅魍魎は時に柾の目の前まで達し、イヴがようやく気を逸らせた柾に悲鳴を上げさせた。……その時には勝明がぺちん、とばかりに叩き落としたが。数が多く、空気のような存在であるだけにキリがない。将之が風の刃で切り裂いても、それは分裂はするが再現なく増え続けるし、彬に至っては対魔可のエアガンだけに確実性はあるが効率は悪い。マシンガンにすべきだった、とマガジンを交換しながら彬は舌打ちした。
「柾さん、しっかりしてくれ、これは柾さんの幻覚が産み出したものなんだ、柾さんがしっかりすれば、こいつらは消える」
勝明が説得しようとするが、柾は怯えるだけで聞こうとしない。都合のいい奴め、と苦々しい表情で彼を見つめるケーナズの頭上を、咄嗟に身を屈めた彼の髪の毛1、2本を跳ね飛ばして将之の大剣が掠めた。
「伏せてくれ!」
「云うのが遅い!」
「悪ぃ!」
そう、ケーナズに謝った将之は柾達の前で大剣を振り被り、その刃から産み出した高圧縮の空気の壁で魑魅魍魎共を遮断し、柾を護る方向へ切り替えた。
「そのまま続けろ、向こうから来る分はこっちで引き受けよう」
「了解!」
元気よく答えた将之に入れ替わり、ケーナズは飛びかかる胎児の大軍に向けて片手を差し向ける。その青い瞳が一瞬、一際強く輝いたと思うとその指先から発動されたPKバリアがその存在を一蹴した。サイコ能力を生身の人間に向けることは好まないケーナズだが、柾の幻覚、或いは化物相手ならば容赦はしない。
「……凄いな」
自らもエアガンを発砲しながら彬が感心したように呟いた。
「向かって来る物を跳ね飛ばすならばテニスと同じだ。こちらも堂々と反則技が使えるだけに、余程他愛無い」
「……テニス?」
「趣味だ」
──……。
セレスティは、一同の健闘振りを微笑ましく「観て」いたが、やがて頃合だろうと水面に向かって両手を広げた。幻想世界全体が、大きな波に包まれ、一同の視界はホワイトアウトした。──グランド・パウゼ。
【1_3zero】
「……8分半経過。ここが山場と思ってたけど……やるじゃん、リンスター財閥総帥」
【1_4】
「……」
そこは、元いた海岸の、砂浜の上だった。但し、空は明るい。妙に明るい。昼の明るさとは違う。──真っ白、だった。
一同の横で涼やかに微笑んでいるのはセレスティである。お疲れ様です、とでも云いたげな表情だ。
「礼を述べるべきなのか、それとも今の今まで傍観を決め込んでいたことに文句を付ければ良いのか?」
ケーナズが皮肉っぽく笑う。
「──千鶴子」
柾が不意にはっきりとした声を洩した。
「……、」
一同の視線の遠く向こうに、美しい横顔を海に向けている女性が立っていた。──陵千鶴子だ。
千鶴子はその声を聞くと、首を傾いで振り返り、柾に向けて妖艶とも云える微笑を浮かべた。誘い掛けるような。
「──……、」
柾が歩みだそうとする。勝明が慌てたように柾の腕を引き止めた。
「駄目だ、柾さん、あれは違う」
「違う? ──あんた、さっき千鶴子さんに会ったって云ってたよな」
将之がさり気なく勝明に加勢してしっかりとその腕を両手で押さえ込みながら聞いた。勝明は頷く。
「違うと思う……あれは……似てるけど、俺がさっき会った千鶴子さんとは全然気配が違う」
「違うって、何が?」
「……さっき会った千鶴子さんからは少なくとも悪意は感じられなかった。……でも、あれは……明らかに柾さんを殺そうとしてる」
ケーナズは柾を睨むと、将之に合図した。
「その幻想狂を押さえていろ。……好都合だ。良い機会じゃないか」
「何を?」
「私がカタを付けよう。……そのバカも、流石にもう一度事実を目の前にすれば目が覚めるだろう」
「……やめてくれ」
「──……、」
千鶴子の向こうから歩いて来たのは、赤毛の青年だ。
「……鞍馬!」
ぼんやりした目をしている。そして、鞍馬はケーナズと千鶴子の間に立った。
「あの莫迦」
彬は珍しく表情を思いきり険しく顰めて吐き捨てた。
それを避けて通ろうとしたケーナズの腕を、鞍馬がしっかりと掴んだ。
「……駄目だ」
「……、」
ケーナズはセレスティに向かって低声で訊ねた。
「君、確か出血を止められると云ったな」
「水は私の領域。操るは自在。それは血液という水とて同じ事です」
セレスティは相変わらず微笑を浮かべたまま答える。
「よし」
そして彼は再び鞍馬に向き合った。
「まさか、その亡霊を庇う気か?」
「お前が千鶴子さんを殺そうとするならな」
「君まで錯乱したか。その女はもう死んでいる。分かっているのだろうな」
「……2度も殺す事ねえじゃねえかよ」
「鞍馬、お前、取り込まれかかっているぞ、」
彬が必死で呼び掛ける。事実、──まずい。このままでは柾と同様になるか、あるいは柾程に千鶴子が執着していないだけにすぐにでも命を取られ兼ねない。
「だって、お前等平気なのかよ、いくら死んでたって、柾さんの目の前でもう一度恋人を殺すような残酷な事、出来んのかよ!?」
「……、」
ケーナズは振り返ると、柾を無理矢理、という感じで押さえ込んでいる将之、そして傍らの勝明、イヴにも声を掛けた。
「君達は柾を連れて離れ給え」
「え? でも──」
「イヴ、柾の気は引けるだろう」
「ケーナズ?」
突然意趣を変えたケーナズにイヴも不思議そうな表情をしたが、「急げ」と一言、静かに、然し逆らい難い不思議な威力でもって命令したケーナズに、柾を引っ張った将之、横から「柾さん、柾さん」と千鶴子の声で呼び掛けるイヴ、勝明の3人は走って行った。
【1_5EFG】
「ここまで来れば大丈夫かしら、……それにしても、ケーナズ、一体急にどうしたのかしら?」
イヴが柾を気にしながらも背後を振り返って云う。
「いやあ……もう、俺にはこの世界自体が訳分かんねえ」
将之はやっと重たい荷物──いかに憔悴して痩せているとは云え、自分と身長のほとんど変わらない大の大人一人と、大剣を両方抱えて走るのは武術に長けた将之にも大荷物なのだ──から解放され、砂浜に大の字に倒れ込んで喘ぐように吐き捨てた。
「……、」
柾はまたぼんやりしている。穏やかな固定楽想<idee-fixe>に、恋人への想いでも馳せているのだろうか。
「ところであなた、さっき云ってた、あの千鶴子さんとあなたが会った千鶴子さんは違う、というのは?」
勝明はもと来た背後の方に神経を向け、次に柾を見てから答えた。
「最初にみんなが逸れた後、俺はまず柾さんを探したんだ。俺が、ここへ来てまず一番、自分の目と耳で確かめたかったのが柾さんと、そして千鶴子さんの意思だから。柾さんの
精神はあまりに不安定過ぎて、俺にもよく分からなかった。そんな時に、最初に千鶴子さんの姿が見えたんだけど」
穏やかだった気配。自分を想うあまりぼんやりと夢を見続けるようになってしまった柾へ向けていた、少し悲しそうな、然し愛情に溢れた表情。
だが、勝明がさっきの、鞍馬を取り込みかけた千鶴子を見た時にはそれは感じられなかった。むしろ、殺せるものは全て殺し、取り込んでしまおうと云った黒い気配に、勝明まで目眩を起こした程だ。
「え? どういう事だ? 千鶴子さんは二人いるのか?」
「俺、思うんだけど……。……この世界は、そんなに単純なものじゃない気がするんだ。何か……。……柾さんの幻想、千鶴子さんの思念、……他に、この世界に介入できるものって……何だろう、」
云いかけた勝明は空の遠くを認めて言葉を切った。
「何か?」
「それより、あれ」
あれ、と元来た方向の空を指差しながら、勝明はまだ大の字で転がったままの将之の肩をぱんぱん、と叩く。起きて下さい、もう一仕事あります、といった所か……。
「……何でもあり、だな」
それを自分でも確認した将之は頷き、砂の上に突き立てていた大剣を構える。
「ケーナズ達の方ね……何をやったのかしら、彼」
「イヴさん、柾さんを頼む」
イヴはまかせて、というように将之に魅力的なウィンクを投げると、柾の後ろに屈んでそっと、しかしまた逃げられないようしっかり両手をその肩に置いた。
まずは柾さん達の頭上に壁を造るのを優先、自分に流れて来たものは避ける方向で行くか──、将之は軌道を計算しながら考える。──何にせよ、戦闘要員が一人で、尚且つぼんやりしている人間を護るのはなかなか厳しい。
そう──明らかに彼等が元来た方向……千鶴子や、鞍馬、彬、ケーナズ、セレスティのいる方向から、刃と化した「気の断片」が雨霰のようにこちら側へ飛んできたのだ。
「相変わらず訳分かんねぇけど、」
将之は呟く。とにかく、自分の最優先事項は柾と仲間を守る事だ。……とりあえず、音楽が終わるまで。
【1_6】
先程までの混沌振りが嘘のような、荘厳な終止に向かう和音が重く響いている。
「無事だな、」
セレスティと共に柾と、イヴ、勝明、将之の許へ辿り着いたケーナズが確認する。柾は無事だ。が、対する将之は腕に無数のかすり傷を作った健闘振りだったらしい。
「傷を」
セレスティが手を差し伸べる。将之は、いや、平気、これくらい、と元気そうにその腕でくしゃ、と茶色い短髪を掻き上げた。
「どうせだから治して置いて貰い給え。……後は長い」
「え、まだ?」
いかにも音楽の集結しそうなアンサンブルに、将之は首を傾ぐ。
「……捻くれているだろう。こんなに物々しい終止をして置きながら、これはまだ1楽章の終わりに過ぎない」
「……全部で何楽章でしたっけ」
勝明が訊く。5楽章だ、と答えたケーナズの言葉を聞いて、一気に脱力したような将之は大人しくされるままにセレスティの治療を受けていた。
「しかしそうでなくてはこちらも困る。……まだ、柾は何にも現実に目を向けていないからな」
イヴが苦笑した。
「やっぱり、あくまで厳しいのね、ケーナズ」
「当然だ。見ただろう、不用意な迷いが危険な結果を招いたのを。……だが彼は強い。手許にないものを意思の力だけでこちらに呼び寄せた程だ。……全く、その廃人に見習わせたい」
ケーナズは向こうから連れ立って歩いて来る、アルビノの大学生と、一振りの刀を下げた赤毛の青年に微笑を向けた。
【1_6zero】
「……なんか滅茶苦茶ではあったけど……意外とタフみたい、彼ら」
14分を過ぎた。ディスプレイから顔を上げたレイは、その傍らの人物が居なくなり、一人になっていることに気付いた。──しかし、その彼女の手許にはしっかりと新品のDVD-Rメディアが置かれている。
「……ちゃっかりしてるわねー……。これ、事務所付けでいいのかしら」
ぱり、とセロファンを剥がしながら呟く。ディスプレイの中では、次ぎの舞台となるべく、華やかな建物のダンスホールに幕が下りている。
「そう云えば……『鹿鳴館』って云ったっけ……二人の共演したフィルム」
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幻想交響曲 Phantastische Symphonie Op.14
作曲:Hector BERLIOZ (1803-1869)
作曲年:1830
「病的な感受性と、はげしい想像力を持った若い芸術家が、恋の悩みから絶望して阿片自殺を計る。しかし服用量が少なすぎて死に至らず、奇怪な一連の幻夢を見る。その中に恋する女性は、一つの旋律として表れる──」
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0932 / 篠原・勝明 / 男 / 15 / 学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1555 / 倉塚・将之 / 男 / 17 / 高校生兼怪奇専門の何でも屋】
【1712 / 陵・彬 / 男 / 19 / 大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
NPC
【1889 / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【水谷・和馬(みずたに・かずま)】
・今回の依頼人。アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵。
【柾・晴冶(まさき・はるや)】
・新進の若手として注目を集めていた映像作家。千鶴子の恋人。現在、精神が音楽の世界に取り込まれている。肉体は藻抜けの殻。傍目には多分廃人に見える。
【陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)】
・生前は、古典的な女優然とした気品のある美貌を持つ舞台女優だった。一月程前に轢逃げに遭い死亡。正木の元恋人。彼女の思念が柾を黄泉に引き摺り込む為、彼の精神を閉じ込めている。
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■ ライター通信 ■
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皆様、お疲れさまでした。そして、今回の御参加ありがとうございます。
今回は、個別パートが多くなり、また少し立ち入り過ぎた点まで描写してしまった気がします。
もっと、あくまでシナリオの流れに沿って各PC様をプレイヤーとして登場させた方がいいのかとも迷いましたが、今回は取り敢えずそのままにしています。
その点等につきましても、要望や不満点などをお聞かせ願えたら有り難く思います。
「幻想交響曲」という曲を通して、音楽の恐ろしさというものを描写したかったのですが、なかなかそれは音楽以外の方法では難しいのだと改めて気付かされました。
是非、聴く機会があれば音の一つ一つを「観る」つもりで聴いてみて下さい。全ての音が何かしらの映像に見えます。
本シナリオは全5楽章まで続きます。
後半に差し掛かったら、某ネットカフェや某興信所に関連のある調査依頼が出るかもしれません。
取り敢えず次回作は「第2楽章 舞踏会」となり、9月2日火曜日午前0時から受注窓を開けるつもりでいます。気が向かれましたら、或いは適当な楽章だけでも結構です。覗いてみて下さい。
■ 倉塚将之様
またお目にかかれて光栄です。厄介な情報屋に目を付けられてしまいましたね。
お言葉に甘え、ストーカーの世話焼きから情報収拾から柾の保護から運び役まで、色々な仕事を押し付けてしまいました。お疲れ様です。
大剣の名前や設定には疑問を残しつつ描写してしまったので、思い違いがないか心配している所です。突っ込みだけでも構いませんので、何かの機会に御指摘頂けると助かります。
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