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■その男、タトゥーあり■

リッキー2号
【1388】【海原・みその】【深淵の巫女】
 蛇である。
 不吉、という言葉を形にしたような、黒く、禍々しく、それでいて、どこか蠱惑的な蛇のすがたを、それはしていた。

「クサマタケヒコさんだね」
 おかしなイントネーションで、男は声をかけてきた。
 草間武彦は野暮用を終えて、事務所に戻ろうと、暮れていく渋谷の裏通りを歩いているところだった。ふりかえると男がひとり、立っている。
 背の高い男だ。黒いマオカラーのシャツの上に、やはり黒いジャケットを羽織った黒ずくめ。対照的に肌は青白い。やせぎすなので、黄昏の街を背景にゆらりと立ったそのシルエットは幽鬼じみている。
「そうだが……あんたは?」
 男はうっすらと笑った。
 艶々とした黒い髪をオールバックになでつけ、細面に、切れ長の目と高い鼻梁をそなえた男は……陰気ではあったが、非常に端正な顔立ちをしていると言えた。およそ男の美醜などに関心のない草間でさえ、妙にきれいな顔をした野郎だ、と思ったほどである。
「わたしはあなたのファンでね」
 だがその美貌は、危険なうつくしさだった。とぎすまされた刃の艶。
「よかったら、握手をしてもらえないだろうか」
 草間は、相手が右手に(そして右手だけに)白い手袋をしていることに気づいた。そして、おもむろに男がそれをはずすと……。
「…………」
 息を呑む。その手の甲には――蛇がいた。
 かッと牙をむいた、蛇の鎌首が、男の皮膚には彫りこまれている。その胴体は袖の中に消えているので、おそらく右腕にわたって、蛇の全身が彫られているものと想像された。
 草間の脳内で、“怪奇探偵”としての彼の勘が、危険信号を告げていた。だが、それでもなぜか……魅入られたように、草間は手を差し出してしまったのである。



 乱暴にドアが開くなり、事務所の主は文字どおり転がり込んできた。
「草間さん!?」
 零があわてて駆け寄る。
「畜生……やられた」
 草間は真っ青だった。見れば、脂汗を額に浮かべ、がくがくと震えてさえいる。
「ど、どうしたんですか!」
 答えるかわりに、シャツの右腕をまくった。
「!」
 零の目が見開かれる。
 草間の腕に――その肌の上に、一匹の蛇がまきついていたのだ。むろん、彼の腕に、もともとそんな刺青などなかったことを、零はよく知っている。黒い蛇は、頭を二の腕あたりに位置させ、獲物にむかって這い進む格好をとっていた。
「『二十四時間』だと抜かしやがった……二十四時間後には……コイツが俺の心臓に……くそっ!」
 苦しげな喘ぎの下で、草間は語った。
「草間さん、ひどい熱です!」
「……雇われの殺し屋だろう……たぶん、以前の依頼で……報復……まさか、こんな方法で…………」
 そのまま、草間武彦は意識を失う。
 あとはただ――蛇のタトゥーが、零を嘲笑うかのように、そこにあるばかりだった。


その男、タトゥーあり

 蛇である。
 不吉、という言葉を形にしたような、黒く、禍々しく、それでいて、どこか蠱惑的な蛇のすがたを、それはしていた。

「クサマタケヒコさんだね」
 おかしなイントネーションで、男は声をかけてきた。
 草間武彦は野暮用を終えて、事務所に戻ろうと、暮れていく渋谷の裏通りを歩いているところだった。ふりかえると男がひとり、立っている。
 背の高い男だ。黒いマオカラーのシャツの上に、やはり黒いジャケットを羽織った黒ずくめ。対照的に肌は青白い。やせぎすなので、黄昏の街を背景にゆらりと立ったそのシルエットは幽鬼じみている。
「そうだが……あんたは?」
 男はうっすらと笑った。
 艶々とした黒い髪をオールバックになでつけ、細面に、切れ長の目と高い鼻梁をそなえた男は……陰気ではあったが、非常に端正な顔立ちをしていると言えた。およそ男の美醜などに関心のない草間でさえ、妙にきれいな顔をした野郎だ、と思ったほどである。
「わたしはあなたのファンでね」
 だがその美貌は、危険なうつくしさだった。とぎすまされた刃の艶。
「よかったら、握手をしてもらえないだろうか」
 草間は、相手が右手に(そして右手だけに)白い手袋をしていることに気づいた。そして、おもむろに男がそれをはずすと……。
「…………」
 息を呑む。その手の甲には――蛇がいた。
 かッと牙をむいた、蛇の鎌首が、男の皮膚には彫りこまれている。その胴体は袖の中に消えているので、おそらく右腕にわたって、蛇の全身が彫られているものと想像された。
 草間の脳内で、“怪奇探偵”としての彼の勘が、危険信号を告げていた。だが、それでもなぜか……魅入られたように、草間は手を差し出してしまったのである。



 乱暴にドアが開くなり、事務所の主は文字どおり転がり込んできた。
「草間さん!?」
 零があわてて駆け寄る。
「畜生……やられた」
 草間は真っ青だった。見れば、脂汗を額に浮かべ、がくがくと震えてさえいる。
「ど、どうしたんですか!」
 答えるかわりに、シャツの右腕をまくった。
「!」
 零の目が見開かれる。
 草間の腕に――その肌の上に、一匹の蛇がまきついていたのだ。むろん、彼の腕に、もともとそんな刺青などなかったことを、零はよく知っている。黒い蛇は、頭を二の腕あたりに位置させ、獲物にむかって這い進む格好をとっていた。
「『二十四時間』だと抜かしやがった……二十四時間後には……コイツが俺の心臓に……くそっ!」
 苦しげな喘ぎの下で、草間は語った。
「草間さん、ひどい熱です!」
「……雇われの殺し屋だろう……たぶん、以前の依頼で……報復……まさか、こんな方法で…………」
 そのまま、草間武彦は意識を失う。
 あとはただ――蛇のタトゥーが、零を嘲笑うかのように、そこにあるばかりだった。

■呪殺の刺青

「はい、『調伏二係』――」
 八島真は、受話器の向こうから聞こえてくる取り乱した声に、黒眼鏡の上の片眉をはね上げ、困惑の意を示した。もっとも、電話の相手にそれが見えるはずもない。
「落ち着いて下さい。あなたは……ああ、草間さんのところの。えっ、何ですって」
 彼は、公式にはその存在の知られていない特殊機関の職員である。一般の回線からはつながることさえないという電話を、草間興信所からかけることができたのは、草間武彦の『怪奇探偵』としての名声ゆえに他ならない。本人にとっては不本意なことだったろうが、今回ばかりは、背に腹はかえられない状況なのだ。
「そうですね――たぶん、遠隔攻撃型の呪術を施されたのだろうと思いますが、それだけ異常な状態で安定するには、術者もあまり離れるわけにはいきません。術への集中へも必要でしょうし、都内のどこかにひそんでいることは間違いないでしょう。えっ、いや……申し訳ないのですが……こちらもたてこんでいまして……ええ、すいません、できるだけのことは。では」
 電話を置く。やれやれ、といった調子で、和製マン・イン・ブラックはため息をついた。その時。
「草間のおじちゃん、また厄介事に巻き込まれたんだ?」
「……っ!」
 不覚にも、八島は声をあげてしまうところだった。
 彼の背後に、ひとりの少年が立っていたのである。電話を取るまで、その席の後ろはおろか、室内にそんな少年がいなかったことは賭けてもいい。
「キ、キミは……蓮くん、いったい、どうやってここへ」
「そんなことより、草間さんがタイヘンなんでしょ。助けてあげなくていいの?」
「……気の毒ですがね、民間の事件のすべてにかかわっていられるほどの予算も人員もないんですよ。この間の闘いでだいぶ損害が出てしまった」
 少年――瀬川蓮は、じっと八島を見つめた。
「な、なんです。冷たいヤツだと思っているんなら――」
「八島パパなら」
 ぽつり、と、蓮は言った。
「蓮くん、兄のことは……」
「きっと草間さんを助けてくれたよね」
「…………」
 蓮は目を伏せた。その顔立ちはまだ幼い。
「……『刺青を武器に使う男』――ユニークな事例だから、資料をあたればなにかあるかも……」
 ひとりごとのようにつぶやいて、八島は席を立った。
 その背後で、にやりと蓮が笑ったのに、彼は気づいていない。

「術の成就より先に、この熱でどうにかなったりしないわよね……」
 ソファーに寝かせた草間の額に、濡れタオルをそっと置きながら、シュライン・エマが心配そうに言った。
「草間さまご自身に体力がおありですから、それはなんとか。それにしても、本当に、怪奇事件にまきこまれやすいお方ですね」
 と、海原みそのが草間をのぞきこむ。
「うる……さい」
 探偵が喘ぐような声を出した。この有様では強がりも、むしろ悲痛に聞こえる。
「こんな術、はじめて見たわ」
「この蛇が、動いてゆくというのでしたら」
 みそのは、ちょっと考え込んでから、口を開いた。
「腕を切り落とされてはいかがです?」
「…………」
 背後で大きな音がしたが、たぶん零がなにか手に持ったものをとり落しでもしたのだろう。シュラインは、青ざめた横顔のまま、ただ静かに、
「あまり笑えない冗談だということにさせて頂戴」
 とだけ言った。みそのは目をしばたいた。
「……そうしますと、やはり、術をおかけになった方を探し出さねばなりませんわね」
 もとよりそのつもりである。零を通じて、宮内庁の特殊機関に連絡を取ってみたが、わかったことといえば、敵は比較的近くに潜伏しているであろうということだけだ。
 突然、興信所のドアが荒々しく音を立てて開き、シュラインを驚かせた。
「災難らしいな、草間」
「あ、あなた――」
 文字通りドアを蹴破って、黒いレザーをまとった長身がのっそりと入ってくる。
 ざんばらの髪の下で、燃えるような目が草間を見下ろしていた。
「骨休めのつもりで日本に戻ったが、退屈せずに済みそうだ。見せてみろ」
 乱暴に、草間の腕をつかみ、シャツをまくった。
「ふん。巫蟲・厭魅の類か? よし。こいつは俺が施した巫蠱の毒で、蛇を殺した蟲の毒だ。時間は稼げるだろう。飲みたきゃ飲め」
 男は手荷物の中からシリンダを取り出して、そう言った。
「鬼伏――凱刀さん、よね。以前、お会いしたわ」
 シュラインは記憶を辿った。が、当の凱刀のほうは、鼻を鳴らして、
「さあな。あいにく俺はあまり他人とつるまない主義でね」
 とだけ応える。それから、はじめてその存在に気づいたように、みそののほうを向いた。
「だが、役に立つなら使わんでもない」
 ぐい、と、その手をひきつつ、凱刀は自身が蹴り開けたままの戸口へ向かった。
「あらあら」
 ひきずられるようにしているみそのは、なぜだか、どこかしら嬉しそうだった。
「ちょっと、鬼伏さん」
「蛇狩りに行ってくる。草間を寝かしつけておけ」

 まるで嵐の訪れだった。しばし唖然としていたシュラインは、凱刀のくれた薬を草間に飲ませ(ものすごい味がしたらしかったが、効果はあったらしく、だいぶ熱が治まったようだった)、それから机にはりついて、次々に電話をかけはじめた。
「ええ、そう。渋谷近辺ということでいいと思う。右腕に蛇の刺青がある男。……どんな些細なことでもいいから、情報があったら教えて」
 そうして、何度目かの受話器を置いた時、彼女は興信所のドアがゆっくりと開くのを見た。
「あ……。すいません、今日は」
 男は片手をかるく挙げて、シュラインを制した。
「凱刀が来ただろう」
「……あなたは?」
「巌嶺顕龍。――凱刀がなにか失礼をしなかったかな。いや、したに違いないが……ま、あれはあれで根はいい男なんでね、このおいぼれに免じてやってほしい」
 と言いつつ、男はせいぜい壮年というくらいの歳の頃だ。件の凱刀にも劣らず上背があり、体格がいい。がっしりした身体を仕立てのいいスーツで包んでいる。
 ソファーの傍にかがみこんだ。
「ふむ。厭魅の術だね……昔を思い出す。こういったことからは足を洗ったつもりでいたが……なかなかどうして、久方ぶりに、身が震えるのは、己の宿業というべきか」
 自分自身に言い聞かせるような口振りである。
「あなた、いったい……」
 シュラインの問いに、顕龍は微笑とともに答えた。
「ただの隠居ですよ、お嬢さん」

■追跡

 チープな電子音がオフィスに鳴り響いている。
 それは、蓮が持ち込んだゲーム機の立てる音であった。八島のデスクの上にはスナック菓子の袋に、ジュースのペットボトル。そして彼の椅子にふんぞりかえって、ゲームに興じている蓮――。デスクをすっかり乗っ取られて、当の八島はなんとか退避させたノートPCで、フロアに座り込んで作業しているのだ。
「ねえ、まだ?」
 ゲームにも飽きてきたのか、あくびまじりに、蓮は言った。
「今、やっているところなんですから。……警視庁のデータを少々、拝借してですね……。過去に草間さんが関係した事件を洗っていけば……」
 さえぎるように、電話が鳴った。すかさず、蓮が受話器を取る。
「もしもーし」
「あっ、キミ……」
「うん、そう。なんかわかった?」
「え……」
「ふうん、そっか。オッケー、わかった。サンキュー」
 受話器を置く。
「誰かにここの番号を教えたんですか!?」
「だって地下で携帯通じないんだもん」
「…………」
「それより、あやしい男の足取りがわかったよ。渋谷近辺の、路地裏の子どもたちのあいだで情報を集めたんだ」
 蓮の瞳がきらきらと輝いていた。それはまったく、悪戯な子どもの表情そのものだったのだが――。
「蓮くん……。キミはいったい、何が目的なんだ」
 八島は、理解できない、という困惑に充ちた声音で訊ねた。

 顕龍がふところから取り出したのは、小さなガラス壜である。
 シュラインはその壜の中で、1匹の昆虫が羽をふるわせているのを見た。
「術は今も続いているとなれば、それを辿ればよいこと」
 コルクの蓋を開け放つと、ブ……ン――と羽音をさせて、興信所内を、それは飛び回った。
「……蜂?」
「巫蟲の蜂です。これが……敵のもとへ貴女を案内します」
「でも……わたし」
 シュラインの声に、躊躇の色が混じった。
 鬼を支配する途方もない力を持った凱刀や、この世のすべての《流れ》をあやつるみその、そして、やはり手練の術者であるらしい顕龍……そんな人々の中にあって、自身はなんと無力であることか。
「お嬢さん。人の力は、想いの深さで決まります」
 まるでその思考を読んだように、顕龍は言った。
「草間氏を苦しめているのが何者かの『悪意』であるように、彼への想いが、彼を助け、守ります。……貴女は行くべきだ」
 しばしの沈黙を置いて、シュラインは頷いた。きっ、と、青い瞳が前を見据える。
「後を頼みます、顕龍さん。……零ちゃん、行ってくるわね」
「シュラインさん……お気をつけて」
「大丈夫。ねえ、わたし、賭けをするわ」
 不安げな零に向かって、シュラインは微笑んでみせた。
「次に武彦さんが目を覚ました時、なんて言うか。『あー、タバコだ、タバコ』」
 女たちは、くすくすと笑い合った。
 そして、シュラインも、興信所のドアから外へと出ていったのである。
 それを見届けてから、顕龍は草間の脇に腰を下ろした。再び懐から壜を取り出すが、これには、無数の蜘蛛がうごめいていた。
「おまえたちに、守ってもらうとしよう。……いかんせん、私も歳だ。このくらいのハンデは貰わんとな」
 壜の蓋をあけて、蜘蛛たちを周囲に放つ。それらはかさこそと、草間と顕龍の周囲に這い広がる。
「さて。……目には目を、呪詛には呪詛を。この隠居の、腕が鈍っておらねばよいが――」

 渋谷の雑踏を、凱刀とみそのは歩いていた。
「餓鬼どもが生者の念にひかれる性質を利用して、術者を探させようかとも思ったが。おまえなら、苦もなく呪いの念の《流れ》を追えるだろうからな」
 その凱刀の言葉通り、みそのは人込みの中を、まさに水が流れるような、不思議となめらかな動きで人のあいだを縫って進んでゆく。後に続く凱刀のほうは、身体が大きいこともあって、ときおり、肩が触れてしまうこともあるのだが、それがどんなにつっぱった格好の若者たちであっても、凱刀に一睨みされると何も言わずに引き下がる。
「まだ名を聞いていなかったな」
「海原みそのと申します」
「おまえはどうして、草間を助ける」
「お助けする、というのは、必ずしもあたりませんわ。なんといいますか――そう仰る鬼伏さまこそ」
「ふん。俺はただ、身体を動かしていたい質なんでな。……そろそろ近いか」
 ふたりはいつしか、裏通りのほうに入り込んでいた。渋谷とはいえ、このあたりまでくるとめっきり人通りがない。
 不意に、かれらの前を一台の車が過ぎ、停車する。
「あなたたちは」
 黒服の男が運転席から顔を出した。むろん、八島である。
「『蛇』を追い掛けてきたんだね」
 八島の頭をおしのけて、金髪の少年が顔をのぞかせる。蓮だ。
「何だ。おれの獲物だぞ」
「あーあ、せっかく、いい事教えてあげようと思ったのに」
 蓮がふてくされたような声を出したが、目はどこか面白がってもいるようだった。
「……ここなんだな」
 少年をまるで無視して、凱刀は建物を見上げた。
 裏通りにひっそりと立つ、廃ビルのようである。朽ちかけた看板に、雀荘だのビリヤードなどといった文字がかすかに残っている。
「ええ」
 みそのが頷く。
「行くか」
「待って!」
 追いすがってきたのはシュラインだった。
「女子供は――」
 言いかけて、凱刀は言葉を切った。
 走ってきたせいか、額にうっすら汗を浮かべたシュラインのまわりを、一匹の蜂が飛び回っているのである。
「ちっ。厄介な旦那のおでましか」
 苦々しげに、彼は舌打ちをした。

■蛇狩り

 黒革の表皮が破れて、スプリングの飛び出たソファーに、身体を伸ばしているさまは、まさに、蛇を思わせる。
 独特の香りのする、あやしい煙が、テーブルの上の香炉から立ち上り、部屋に充満していた。まるで阿片窟でおぼれるもののように、男はうつろな目で空を見つめている。かすかにその薄い唇が動き、小声でなにか呪文のようなものを唱えているのを、近くにいるものなら気がついたかもしれない。
 コンコン、と、ドアがノックされた。
 うろんな目つきでドアに目を遣る。誰も入るな、と、命じておいたはずなのだが――。
 男の返事を待たずに、ドアが開いて、入ってきたのは、ひとりの少女だった。長い髪、黒い巫女装束に似た奇妙なデザインの服。
「お願いに参りました」
 少女は言った。
「草間さまにおかけになった呪術を、解いていただきたく」
「何だ、おまえは」
 誰も入るな、誰も通すなと命じておいたのだ。男は苛々と立ち上がると、少女をつきとばすようにして、部屋の外へ顔を出し――そして、立ち尽くした。
 そこは、放棄された、かつてはプールバーだったらしい空間である。置き去りにされたビリヤード台の上には厚く埃がつもり……そのまた上には、男の部下たちが、数十名、全員、目を回して伸びていた。
 ぎゃあぎゃあという、耳障りな声。子どもの背丈くらいの、異形の存在――醜い鬼たちが、その上を飛び回っている。
「ひ……」
 あまりの光景に、気をとられた一瞬。
(――ッ!!)
 甲高い、脳天に突き刺さるような“音”の衝撃が男を襲った。
 執拗にくりかえされ、積み重ねられてきた術を破るには、それで充分だった。思わず、耳をふさいだ、男の手の甲に、さきほどまではなかった蛇の刺青が浮かび上がってきた。おそらく……今頃、草間の身体からそれは消え失せているはずだ。
「お、おのれ」
 物陰から姿をあらわした男女を、男はにらみつけた。
 彼の術を破った音が、シュラインが声帯模写で発した超高音だと男が理解していたかどうかはわからない。
 だが、ここまでの労力をふいにされた、男の怒りは、手の甲の蛇がカッと牙をむいたことで表現されていた。
「貴様ら――」
 男が手をさしのべるのと同時に、凱刀が動いていた。彼の手には、巨大な青龍刀が握られている。
 体格では圧倒的に凱刀が勝っているが、男も意外に機敏であり、また、力もあるようだった。刃を降り下ろそうとする、凱刀の腕を掴み、受け止めたのである。にやり、と、勝ち誇った笑みを、男を浮かべた。
「『蛇に呑まれて死ぬがいい』」
 シュラインは、男の刺青の『蛇』が生きたもののように蠢き、肌から肌へ、凱刀の腕へと這い移ってゆくのを見た。
「バカが」
 だが、凱刀の答えはそれだけだった。
「何!?」
 凱刀の皮膚からしゅうしゅうと煙があがる。その上で、『蛇』が苦悶にとたうっている。
「おまえの手の内はもうわかっている。術のからくりを見破られれば呪殺師は終わりだ」
「ぐあ……っ、蛇を殺した――蟲毒をすでに……身体に……」
 『蛇』の苦痛は、男自身にも伝わるのであるらしかった。
 それから後は、あっという間の出来事だった。凱刀の足下の影から、異形のものが姿をあらわす。身に鎖を巻き付けた男と、包丁を携えた女のすがたをした二体の鬼だ。鬼たちが、男を抑えつけ、そこへ、凱刀が青龍刀をふるう。
 神であれ人であれ魔であれ、あらゆるものを断つという凱刀の武器、『血火』であった。
 ごろり、と、『蛇』の刺青をほどこした腕が床に転がる。凄まじい悲鳴の尾を引き、男もまた、どう、と倒れた。
「蛇は地面を這ってるのが似合いだ。……くたばれ」
「おっと、そこまでですよ」
 無数の足音がなだれこんでくる。
「このあいだの化物とは訳が違います。殺してしまうと、一応、殺人罪が成立してしまいますからねえ」
 八島真だった。その背後には、まるで彼のコピーのような、黒服黒眼鏡の男たちが大勢、立ち並んでいた。
「彼の身柄は『調伏二係』でお預かりしましょう。もし、まだ暴れ足りないとおっしゃるのでしたら――」
 返り血を浴び、まさしく鬼のような形相になった凱刀に向かって、八島は片眉をはねあげて言った。
「男を雇った組織について、お教えしますよ」
 シュラインは、息をついた。
 これで少なくとも、草間武彦の、当面の命の危機は去ったのだ。
 ふと、彼女をここまで導いてくれた蜂が、すがたを消していることに気がつく。役目を終えて、去っていったのだろうか。
 一方、八島もまた、
「……まったく、これだけのことをするのに、厚さにして10センチは、書類を捏造しないといけなくなるでしょうね。ただでさえ忙しいのに……あれ? 蓮くん?」
 いつのまにか、彼の連れの少年が姿を消していることに、気づいていたのだった。

■人を呪わば

「しくじったようです」
 男は、ぽつり、と言った。
 あまりに普通の物言いだったので、相対しているもう一人の男はとっさに意味が掴めなかったようだ。
「何だと。どういうことだ」
「わたしの『蛇』を授けた男が、その術を破られたのです」
「……貴様、何を言っているのかわかっているのか、王(ワン)。おまえに、うちの組はいったいいくら払ったと――」
 電話が鳴った。
 暗い部屋である。一人の男はソファーに腰掛けていて、なにかの胴着のようなものをまとっている。彼は、自分の手の甲を眺めた。そこに彫りこまれているものは――蛇の刺青。今、そこからゆっくりと血がにじみだし、流れ出していた。
「しかし、並大抵の術者では、わたしの『蛇』を退けることなど……」
 男は、はっとした表情で、耳をすませた。
 蜂の羽音を、聞いた気がしたからである。
「まさか……」
 驚愕と恐怖とに、男の目が見開かれる。男の額に、音もなく、一円玉ほどの穴が開く。赤黒い、ねっとりとした血液がそこからあふれだす。
「なんだと、何を言ってるんだ。青龍刀の男とは、どういう意味だ? 事務所で暴れているだと? おい、もっとちゃんと……」
 もう一人の、奥のデスクに坐っていた男は電話で夢中で、刺青の男の異変にまだ気づかない。
「もういい! 今から行くから待ってろ!」
 電話を叩き切り、
「こっちでもトラブルらしい。なにが何だか――」
 そしてはじめて、テーブルにつっぷして、絶命している男と、床の血だまりを目にする。
「ワ、王!?」
 すくみあがった男の耳にも、蜂の羽音が聞こえてくる。
 それにまじって、まだ幼い少年の、くすくす笑う声をも、男は聞いた。そしてそれが、男がこの世で聞いた最後の音だった。

「我が意は我が威。汝は汝、彼の者は之に此処に在り」
 呪文とともに、口に含んだ針をぷっと吹き出す。
 それは、顕龍の手の中の、人形の紙の切れ端に突き刺さった。
「いくら代理を立てても、呪式そのものをあらわにしては意味がない。呪そのものが施した者を明らかにする。それを剥き出しにしたのは、過ちだったな」
 そこは、草間興信所のあるビルの屋上である。
 生ぬるい秋の夜風に吹かれながら、顕龍は呟く。
「蛇の刺青とは……まったく仰々しい輩よ。……呪いとは静かに、そして厳かにやるものだ」
 彼の手の中で、2枚の紙人形が額にあたる場所に針を突き立てられている。そしてその部分から、紙はゆっくりと、黒く変色していきはじめているのだ。
「……さて。そろそろ、見せ物はおしまいだよ。姿を見せてはくれんかね」
 顕龍の呼び掛けに応えて、その背後から姿をあらわしたのは、蓮である。
「おじさんは、どうして草間さんを助けてくれたの?」
「いや、なに……娘の友人たちも、世話になっているそうなのでね」
「ふうん。……ボクもだよ。あの人に今死なれたら困るもん。僕たち異端の力を持つ者がこの東京で存在できるのは、あの人や麗香さんのような、現実と非現実を繋いで循環させることのできる人達が必要なんだからね……」
「名前は何と言うね」
「瀬川蓮」
「その歳で、むやみに闇に触れるものではないと思うが」
「……面白いことを言うね、おじさん」
 蓮は、子が父に寄り添うように、顕龍のかたわらに立った。手の中をのぞきこんだ。
「人殺しのくせにさ」
 そして、蓮と顕龍は微笑みあった。まさに父子ほども歳の離れたふたりだが、確実に、同じなにかを、かれらは共有していた。

「シュラインさん――?」
 シュラインとみそのを興信所まで送りとどけるために、八島が走らせている車中でのことである。ふいに笑いをもらしたシュラインに、八島が怪訝な目を向けた。
「ごめんなさい。なんだか、一気に気が抜けちゃって……そしたら、みそのさんのことを思い出して――」
「わたくしですか?」
「だって、腕を切り落としたらいいなんて言うんですもの。思い出したら、なんだか可笑しくって」
「はあ」
 みその自身は、いたって本気で言ったことだったので、笑われるようなことだとは思っていないようだった。
「あ、すいません。八島さん、その角で、一度、停めていただけませんか?」
「ええ、構いませんが」
「煙草を買っていきたいんです。ちょうど切らしているはずなんですよ。……草間さん、目が覚めたら絶対、こう言うわ。『あー、タバコだ、タバコ』って――」

(了)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト 】
【0569/鬼伏・凱刀/男/29歳/殺し屋】
【1028/巌嶺・顕龍/男/43歳/ショットバーオーナー(元暗殺業)】
【1388/海原・みその/女/13歳/深淵の巫女】
【1790/瀬川・蓮/男/13歳/ストリートキッド(デビルサモナー)】

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■         ライター通信          ■
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ご参加ありがとうございます、リッキー2号です。
お待たせいたしました。『その男、タトゥーあり』をお送りいたします。
こちらは便宜上「紅組」と呼ばせていただいたグループです。
お一方をのぞいて、なかなかブラックなメンバー(笑)になりました。

>シュライン・エマさま
あえて、このメンツの中に放りこむことでさらに心労をおかけした気が(笑)。

>鬼伏凱刀さま
またのご参加ありがとうございます。前回も「暴れさせ過ぎ?」と思っていたのですが、今回も暴れていただきました。

>巌嶺顕龍さま
初めまして! アダルトで貫禄あるキャラクターにうっとり。たいへん、楽しく書かせていただきました。

>海原みそのさま
個人的にかなりウケました。たしかに腕を切ってしまえば……。

>瀬川蓮さま
八島さんは、そんなにからめないつもりだったんですが(笑)。また事務所に遊びに来てあげてくださいね。八島さんも喜んでいるハズです。たぶん……。

ところで、ゲームノベルでは「パラレル分割」をしているのですが、これってなかなか具合が微妙ですね……。
PC掲示板等でもあとあと難しいことになりそうですし、パラレルにせずに、多人数にご参加いただける方法を考えねば……。

それでは、また機会がありましたら、ご一緒できれば嬉しいです。
ありがとうございました。