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■幻想交響曲 3 田園の風景■

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【1548】【イヴ・ソマリア】【アイドル歌手兼異世界調査員】
 若手の新進映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)。彼は恋人である女優、陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)を失ったショックから精神を病み、「幻想交響曲」に誘われて音楽の世界へ迷い込んでしまう。その幻想世界へ行き、柾を助け出して欲しいと依頼して来たのは水谷・和馬(みずたに・かずま)という柾の親友にしてディレクターの卵。
 幻想世界は柾の幻覚と、彼を黄泉へ引き摺り込もうとする千鶴子の怨念、魑魅魍魎の類の混沌の世界。生半可な気持では逆に取り込まれてしまう危険な世界。その中で柾の身の安全だけは何とか確保していた一同だが、次第にこの世界に介入できる第三者の存在に気付き始める。
 現実世界とも連係を取り、「幻想世界の正体」をも同時に探り始めた一同。奇遇な事に、時を同じくして草間興信所には千鶴子の兄、陵・修一(みささぎ・しゅういち)が訪れていた。
幻想交響曲 3 田園の風景

【3_0zero】

「……、」
 確か、道路交通法に拠れば法定速度と云うものは自転車にも適用された筈だ。
 が、結城・レイ(ゆうき・れい)はそんな事はどこ吹く風、どうせパトカーだろうと白バイだろうと追い付けないだろう事をいい事にロードバイクの限界速度で東京の路上を飛ばしていた。
 信号無視は常識だ。免許の存在しない自転車がそんなものを守ってどうする。日本の安全神話を信じ切っている歩行者の方が危険を察知して通過を見送る有り様だった。

──お願いがあるのよ、
 今、彼女の頭にあるのはそんな或る少女からのメッセージと、某高級アパートメントへのショートカットだけだ。

【3_0ACG】

「お願いがあるのよ、それに聞きたい事が2つばかり」
 再びレイの傍らに現れた朝比奈・舞は前置きもそこそこにそう切り出した。顔を上げたレイの態度は、何故か幾分協力的に変わっていた。

 ──朝比奈さん、ちょっと、と涼が低声で話し掛けて来た。
「あ、ここではイヴでいいわよ」
「え?」
「……、」
 世間的な常識に疎い所のある涼、勿論アイドルの顔と名前を記憶している筈もなく、最初の自己紹介通りイヴを朝比奈舞という名前で認識して居たらしい。
「……はあ、イヴさん、あの、少し頼みがあるんですが」
「なあに?」
 涼は素早く視線を周囲に走らせ、勝明に声の届かない範囲である事を確認する。別に隠す事では無いが、幻想世界内部の事だけで頭が一杯、精神的にもギリギリの少年にこれ以上の不安材料を与える事も無い。
「──水谷の事なんですが」
「……、」
 既に、同じ事を考えていたらしいイヴとその傍らのケーナズは苦笑いして視線を交わし合った。
「危険、ですよね。大した能力を持っていたようには見えませんが、少なくとも俺達の肉体は今藻抜けの殻だ」
「矢張り、奴の見張りは必要だな」
「刺客でも差し向ける?」
「──それもある意味危険でしょう、」 
 一番物騒な事をさらりと、而も非常に可愛らしい顔で提案したイヴに、今度はケーナズと涼が苦笑を交わした。
「見張るだけで充分だと思いますよ、誰か、信頼出来る人に」
「舞でもいいが……万一の事を考えれば、惜しく無い人間が良いか。──適任者が居るじゃないか」
 ──。

「ケーナズや、御影君──全員の頼みでもあるわ。見張りを頼みたいの」
「──水谷ね」
 レイはかち、と親指の爪を噛みながら呟いた。薄々、その必要性には気付いていた。
 今や、完全に水谷は本性を顕わした。幻想世界で彼等の邪魔、基い柾の暗殺まで企てた彼が何時、意識を失った抜け殻の彼等の肉体に危害を加えないとも限らない。
「──分かったわ」
 レイはレコーディング中のシステムは立ち上げたままノートパソコンを閉じ、バッグに仕舞うとそれを斜めがけにして席を立った。
 レジで清算を済ませるレイの横で、舞は更に質問を続ける。……708円になります、千円からで宜しいですか? はい。
「まず、その水谷さんがどういった経緯であなたに仕事を依頼したのか教えて呉れない?」
「……、」
「守秘義務があるならそれでもいいわ、でもせめて彼の能力だけでも教えて。私達は当事者なのよ」
 ……292円のお返しになります、ありがとうございましたー。
 釣り銭を受け取って財布をポケットに捩じ込みながら、レイは皮肉っぽく鼻先で笑った。
「水谷にそんな力がある訳ないじゃない。ただのコンピュータおたくよ。まあ、大分オカルトに気触れては居たみたいだけどね。どうせ、趣味の枠を出やしないわ。……ガタイがああ貧弱だからトロそうだし、……いいわよ、あいつの事は任せて」
「それと、将之君の所へ依頼に行ったストーカー男、事故現場は見たわ、でも一応自宅を調べたいの。住所は?」
「池袋からすぐよ。要町のコンビニの裏。──アパート308号室。行っても無駄と思うけどね。何せ、田舎から両親が出て来てて特に何も知らないママが遺品を抱き締めて泣き崩れてる所だろうから」
「ありがとう。取り敢えず行ってみるわ。……『私達』をくれぐれもよろしく」
「了解」

【3_1ABCDEGI】

「……、」
 空を見上げた柾・晴冶(まさき・はるや)の表情に笑みが現れた。彼は今迄とは別人のように生気を取り戻した瞳を閉じ、風に煽られた前髪を掻き上げ、その手を大きく広げて清々しい風を全身で受けている。
「……は?」
 逸早く彼を追い掛けた倉塚・将之(くらつか・まさゆき)は、その余りの変貌振りに気抜けして間の抜けた声を発した。……何なんだよ? 普通じゃねぇか、これじゃ。
 果てしない草原をゆっくりと歩み出す柾の足取りは確りとしている。……先刻までの茫然自失振りは何だったんだ、と気力を削がれる程。
「……ようやく会話が成立しそうだな」
 柾には云いたい事が山程ある。じっくり話し合おうじゃないか、と歩を進めたケーナズ・ルクセンブルク(けーなず・るくせんぶるく)の肩を、セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)が穏やかに制止した。
「それも結構ですが、今少し黙って様子を見ませんか。折角落ち着きを取り戻した所なのですから。彼の千鶴子嬢に対する本音が聞きだせるかも知れません。どの道、──最後には」
「……、」
 遠くの方で、無邪気な笛の掛け合いが聴こえる。──知っているのだ、彼らは。千鶴子へ呼び掛ける柾の声を象徴するようなその笛の音が、楽章の終わりにはもう、呼び掛けには応じて呉れない事を。
「今の内に、柾氏の本音を探ってみたいですね」
 意味深長な微笑みを浮かべて、ケーナズに云う。──分かっているのだ、ケーナズの内面のバイオリズムも。彼もこの中では「年長組」とは云え、所詮このリンスター財閥総帥に比べれば彼の1/29年月しか生きていない。
「だが……」
「ねえ、ケーナズ、セレスティさんの云う通りにしましょ。……あなたも、休んだ方がいいわ」
 イヴ・ソマリア(いヴ・そまりあ)がケーナズの顔色を覗き込みながら腕を取る。ここまで、ケーナズは精神への負担を顧みずサイコ能力を解放しっ放しだった。弱音は吐くまいとしても、顔色が悪い。
「そうなさい。周囲の気配には私も注意していましょう。……どの道、これ程開けた場所では相手も仕掛け難い筈」
「……」
「……俺もちょっと休んでいい?」
 肩を回しながら将之が大きく息を吐く。セレスティは微笑して頷き、ケーナズもイヴに誘われて柾の傍を離れた。
 続けて草原へ出て来た陵・彬(みささぎ・あきら)と無邪気にも歓声を上げている草壁・鞍馬(くさかべ・くらま)は青い草の香りを満喫して息を深く吸い込んでいた。
「……、」
「すげェ、懐かしいよなあ、な、彬! っあー、久し振りだわ、こんなド田舎!」
 ド田舎とは失礼な発言だ。これでも、新進気鋭の若手映像作家柾晴冶のイメージなのである──多分。
 然し田舎の出身である同郷の彼等二人にしてみれば、この青臭さは郷愁を誘う香り以外の何物でもないだろう。
「……『無関心な東京の優しさ』も良いが……、やはり懐かしいには変わりないな」
「だよなー、東京にはこんな場所無いもんな。あー、やっぱり田舎は良いよ、田舎は!」
 鞍馬は美しい大草原を一言「田舎」「田舎」と連呼する。柾のファンが聞けば何と云って嘆くか──そんな事にはお構い無しだ。あくまで無邪気な赤毛の青年は腕を大きく振って駆け回っている。
「あまり遠くへは行かないで下さいよ、状況把握も大変だから」
 自分より年上の鞍馬に微笑みを送っているのは御影・涼(みかげ・りょう)、柾を見守って大人しくしている篠原・勝明(しのはら・かつあき)はその傍らに居る。
「……手の傷、本当にもう大丈夫なんですね。驚きました」
「……。──皆さん元気の良い事ですね、──では、柾氏には我々で付き添うとしましょうか」
「柾さんと……話が出来るかな」
 勝明はぽつりと呟いた。

【3_1zero】

 水谷・和馬(みずたに・かずま)は背筋を走る冷や汗を感じつつも、土足で駆け込んで来たレイを眉を顰めて睨み付けていた。──彼女の手には、バタフライナイフ。
「……何のつもりだ、ZERO」
「さあね。でも、怪我したくなかったら大人しくそこ、退いて『彼等』から離れて頂戴」
「……そんな脅しが通じると思うか?」
「現にあんた、腰抜けかかってるわよ。……今どきの若者はね、キレると怖いの」

 以下、草間興信所調査依頼参照

【3_2A】

「ううん……」
 要町、某アパート前。コンビニエンスストアの裏口からある部屋の様子を探っていた朝比奈舞は、眉間に皺を寄せていた。
 例の、陵千鶴子のストーカー男宅である。部屋さえ空になれば、空間移動を利用して難無く入り込めるのだが──今現在彼の部屋には、田舎から遺骨と遺品を引き取りに来た両親の内母親が居座っているのである。
 恐らくは部屋中に溢れ返っているだろう女優のストーキング写真の山を見ても何ら驚くことなく、それを息子の遺品として後生大事に胸に抱きながら泣いている母親──異様だ。この母親も線が一本切れている。
「……あんな母親だから、息子がストーカーになるのよ」
 限界だ。この折角の愛らしい顔を顰め続けるのも、時間的にも。

 ──数分後、堂々とインターホンを鳴らした朝比奈舞は、まず応対に出た父親、続いて部屋に居座っていた母親の生気を少々吸い取って昏倒させ、意気揚々と部屋の捜索に取りかかった。
 大した物など残っている筈もない。だがそれでは無駄にした時間が惜しいので苦し紛れに一冊の大学ノートを盗み見てみる。
 中身は「陵千鶴子ストーキング日誌」とでも云えそうなものだ。見ただけで粘着性が伺える、ぞっとするほど細かい文字がびっしり書き込まれたノート、内容は云わずもがな。「×月×日×曜日、千鶴子朝8時起床、今日の私服はどこそこのワンピースで朝食は何と何」と云った、典型的な物である。
「……、」
 私も気を付けなきゃ……、とストーカーの心配が他人事ではない、トップアイドルの分身は血の気が引くのを感じた。
 ──そして、その血の気は引いたままだった。

【3_2AC】

「無茶しちゃ駄目じゃないの」
 一同からやや離れた場所に落ち着くと、イヴは笑顔のまま眉を吊り上げてケーナズを叱った。
「……すまない、心配を掛けたくはなかったんだが……」
 ここへ来てケーナズは精神の疲労を隠す事なく、自嘲気味に笑った。傍らの、ケーナズにとってのこの幻想世界での恋人は、あなたの事位お見通しよ、顔色見れば分かるもの、と横向けに座った彼女の膝をぽんぽん、と叩いた。
「イヴ」
「休息は必要よ。大丈夫、見張りは私に任せてケーナズ、ちょっとお休みなさい」
 その顔には、強がっても駄目、と書いてある。適わないな、とケーナズは苦笑しながらその暖かい膝に頭を横たえた。
「疲れたでしょう」
 彼女の膝に零れ落ちた金色の髪を優しく撫でながらイヴは笑い掛けた。ずっと張り詰めていたケーナズの緊張の糸がようやく解れたのが分かる。
「……そうでもないさ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。……少々精神に負荷が掛かっていたのは事実だが、そんな疲れ、つい今吹き飛んでしまったよ」
「あら」
 相変わらずね。……これだから、いつも損な役回りを背負わされるのよ。人一倍繊細な癖に、表面上を取り繕うのが上手いから。イヴはケーナズの髪を撫でていた手を移動させ、彼の目蓋を閉じた。
「然し、この際だからしっかり休んで置かないとな。……すぐに、恐らくは命がけの場面に変わる。……護らなければ行けない」
 何とも短い、束の間の休息だ。ゆっくりと目蓋を開いたケーナズは、片手をイヴの頬に伸ばす。
「……何があっても君は私が護る」
「ケーナズ……」
 その手を取りながら、イヴは苦笑した。
「嬉しいけど、あなたまで鞍馬君化してるわ」
 ──向こうには相変わらず二人で世界を作っている彬と鞍馬、対象的に肉体的負荷が恐らくは一番重かった将之が寝転がっているのが見える。
「仕方がないだろう。……私はもうただこの世界から君を無事戻す事しか考えられない」
「うぅん……、喜んじゃいけないんだろうけど、やっぱり嬉しいかも……。……ケーナズがナイトだなんて、美味し過ぎる☆」
 イヴまで思わず本音を洩す。
「忠実なナイトにはどうやってお返しすればいいのかしら?」
「……そうだな、一介の製薬会社研究員とトップアイドルがお忍びでデートして呉れる、と云うのは贅沢か?」
「考えて置くわ」
 澄まして受け流しつつも、イヴの返事など極まりきっている。
「所で、草間興信所の結果は未だ出ないか」
 イヴの頬に当てていた手を降ろし、不意に真剣な声になってケーナズは訊ねた。
「ええ、ちょっと待ってね。舞ちゃん今ストーカー男の部屋で足留め喰ってて……、終わったら確認に行くわ」
「レイは、水谷を信用するなと云ったんだろう、君に」
「一杯喰わされたかも、ですって」
「……まさか、水谷の奴」
 ケーナズは眉を顰めて不自由な視界の端に柾の姿を認めた。
「本当の所奴が惚れているのは柾だなんて事はないだろうな。……それで、この世界で柾の精神を殺して肉体だけでも自分の物に……というのは穿ち過ぎか?」
「穿ち過ぎでしょう……それはいくらなんでも」
 流石に二人とも、あまりに薄ら寒い仮説に苦笑して顔を見合わせたが……。
「……でも、柾さんに水谷さんをどう思っているのか訊ねるのは有効かもね」
 イヴが呟き、「ああ」と応えてケーナズはゆっくり身を起こす。
「あら、もういいの?」
 残念そうにイヴは口唇を尖らせて腕を差し伸べるケーナズを見上げた。
「充分だよ、君の膝枕のお陰かな」
 イヴは微笑みを取り戻してその手に縋って立ち上がり、歩き出した彼の耳許で「私も楽しみよ、デート☆」と囁いた。

【3_2a】

「……、」
「あーれ……、イヴ・ソマリアさんじゃないですか」
「……、いつから其処に?」
 ──不覚。魔界の女王の妹たる私が背後を取られるなんて。舞、基いイヴ・ソマリアは両手を上げて振り返ろうとし、冷たい手に止められた。──視界の端に移ったその手は、やけに白かった。
「……姉が世話になってる、──かな?」
「……、」
 こいつか、レイの云っていたバカな弟と云うのは。生気吸引が通用するか、と考えたがその手は割にあっさりと引っ込められた。
「『こっち』にはナイトが居ないんだから、あんたもあんまりうろうろしない方がいいぜ」
 ──そして、彼は気配ごと姿を消した。
 
【3_2zero】

「……、」
 レイは脱力して床にへたり込んで居た。
 覚悟を決めて彼等の肉体を水谷から護るべく、バタフライナイフを携えて某ネットカフェからロードバイクを飛ばして来てみれば某怪奇探偵の恋人(とレイは認識している)と、別の探偵事務所(これもまた怪奇事件もカバーしている)の主が乗り込んで来て、その弾みでやたらと肥大化した怨念を暴発させた水谷が間の抜けた事にその反動で自らが幻想世界へ取り込まれてしまい、──そして、今は某怪奇探偵の許へ帰った二人の持ち込んだ調査結果を何とかして幻想世界内の連中に届けようと取急ぎのデータベース化作業が済んだ所へ、これだ。
 ああ、……疲れた。若いっていいわね……。レイは21だが、あの元気な中学生に比べれば……。何より、とレイはつい今し方、兄の為に危険も厭わず幻想世界へ乗り込んで行った陵・楓(みささぎ・かえで)を思い浮かべた。
「兄思いの妹なんか、羨ましい限りだわ……」
 羨望の眼差しを彬へ向けたレイは、彼に寄り添って倒れている楓の手にしている一枚のコピー用紙に気付いた。
 何気なく、それを抜き取って目を通したレイは前髪の奥で目を細めた。
「……成る程ねえ、」

【3_2xxx】

 某ネットカフェ。
 「出張」から戻った結城・磔也(ゆうき・たくや)は同じ頃、姉が楓と彼を比べて溜息を吐いている事など知る由もなく幻想世界の傍観を続けていた。
「……何だこれ」
 姉と違って普通に露出している眉が顰められた。その視線の先に、幽かだが幻想世界を覆い得る黒い影が映っている。
「……これ……、水谷じゃねぇか?」
 何故彼が此処に? と少年は訝る。姉にでも聞き出してみるか、と個室を出て店内を見回した磔也は舌打ちした。先程まで窓際の席に居たレイの姿が無い。
「あの女、……反則だぞ」
 賭けの対象に干渉しやがって。……なら、こっちも、と個室へ引き返す。
 メールボックスをチェックした後、既にハッキング済の次楽章のデータを弄っていた磔也はふとある事に気付いた。
「……水谷もあっち行ったのか。……って事は……次で処刑されるのって、どっちになるんだ?」

【3_3】

「──ルクセンブルク、」
 セレスティがケーナズに耳打ちした。
「そろそろ、ですよ」
「……ああ、」
 何が? とイヴは二人に吊られて視線を空へ向けた。──急に雲行きが怪しくなって来た。
「嵐が来るか、それとも落雷でもあるかな?」
 ケーナズは口唇の端を吊り上げた。
「……あれ、……」
 勝明が声を緊張させ、遠方を指した。あまり強くはないが、どうにも不穏な気配が近づいて来る。涼は安心させるように勝明のその手を取った。自らは神経を研ぎすましてその気配を探りつつ。
「……似てるな、『侵入者』の時と、気配の現れ方が……」
「……、」
 セレスティは無言で、独りぼんやりしていた彬と、刀が現れたの現れないのと大騒ぎして盛り上がっていた鞍馬と将之を呼び寄せた。ばらけていては、またいつ分断されるか分からない。
「やっぱり、『一雨』来たか……、」
 将之はすぐ駆けて来て、柾を庇う。──柾がまともに「誰だ、君」と応えたのに違和感を感じた。
「『侵入者』のようなのですが……、それにしては少し悪意が無い気もします。不穏な気配には違いありませんが」
 そうする間にも、その気配はどんどん近づいて来た。近づくにつれ、それが小柄な少女の形態を取っている事が分かる。
「千鶴子さん?」
 涼が目を細めながら呟く。勝明は首を振った。
「いや、違う……」
「何だ、また侵入者か、結局」
 ケーナズの呟きを掻き消すように背後で悲鳴が上がった。鞍馬だ。
「あ……まさか……、……彬──!」
 何事かと振り返った一同は、近づいて来る気配に一人慌てふためいている鞍馬と、呆然とそれを眺めている彬を見た。
「何なんだ、一体!?」
 将之が業を煮やしたように鞍馬を急っつく。急に鞍馬は彼の手を取ると、哀願に近い声を上げた。
「倉塚、俺、逃げていい?」
「は? 莫迦、何云ってんだ」
 将之は今にも踵を返しそうな鞍馬の手を逆に確りと引き止めた。
「……訊きたいんだが、ここは妖しに化かされる所か?」
 彬が目を軽く擦りながらケーナズ、セレスティ、涼を交互に見遣って訊ねた。
「一言じゃ何とも答えようはないけど……どうして」
 涼の応えに彬が口を開く前に、甲高い少女の声が響き渡った。

「あに様──!!」

「あ、おい待てよこら、」
 隙を付いて逃げ出しかけた鞍馬を、将之があっさりと掴まえた。振り返った鞍馬の表情は、魑魅魍魎を前にした時よりも明らかに怯えている。
「ああもう駄目だ、絶対殺される、俺」
 と云うより、軽蔑される、嫌われる。絶対。選りに選ってこんな時に「彼女」が現れるとは──。

「あに様! 無事で良かった!」
 少女は脇目も振らずに呆然としていた彬の胸に飛び込み、確りとその胸に取り縋った。
「……つまりだ、」
 自分の胸に顔を埋めている少女を、冷静、というよりは何かを諦めたように落ち着きを持って指しながら彬は涼に説明した。
「これが、幻なのか妖しに化かされているのかどうか知りたいんだ」
「明らかに生きた人間の意識ですね」
 セレスティが代わりにさらりと答えたが、流石の彼も多少の混乱を隠せないと見える。──おかしい、全く予定外だ。一体どこをどう通ってやって来たのだ、これ程悪意のない存在が。
「……で、誰?」
 将之が覚悟を決めたように俯いて大人しくなった鞍馬に訊く。全く同じ言葉を、他の面々は彬に向けて発していた。

「……彬の──、」
「……俺の、妹」
 
『……はい?』

【3_3A】

 呼び出し音は延々鳴り続けている。舞が痺れを切らしかけた所で、ようやく相手は電話に出た。
──はい。
「結城さん、草間さんの方からシュラインさんと探偵さんが行ったでしょう」
──……来たわよ。
「結果は出た? もしそうなら私がテレパスでみんなに伝えるけど」
──あ、それなら大丈夫、……メッセンジャーガールがもう向かってるから。
「メッセンジャーガール? あなたじゃなく?」
 まあそれはどうでもいいじゃない、と誤摩化すようにレイは笑った。電話越しにも、非常に空虚な笑い声だった。
──それより、不味い事が起きたんだけど……。
「何?」
──……調査結果はともかくとして、……余計なものまで、あっち、行っちゃった。
「……訊くのも怖いけど。……ところで」
 あなたの弟さんにも逢ったわよ、と云いかけた舞は、何となく気が引けて「何でも無いわ」とそのまま受話器を置いた。

【3_4ABCGHI】

「余裕が無くなった、何が何でも次までに柾の目を覚まさせなければ──、」
 ファイルから顔を上げたケーナズは柾に視線を投げた後、一同に告げた。
 そのファイルこそ、彼等が待っていた草間興信所の調査結果である。あの少女、──彬の妹だと云う──陵・楓(みささぎ・かえで)が持って来た。彼女自身はともかく兄の姿しか目に入っていなかったらしく、彬の胸に飛び込むと同時にぽい、と地面に投げ出してしまった一枚のフロッピーディスクのラベルに、『草間興信所調査結果在中、幻想世界内でファイルに纏めた書類として見えるようにプログラムしてあるので、あとよろしく ZERO』とやる気のない字で書いてあったのを将之が見つけて拾い上げたのだが。
 彼の手の中で果たしてファイルに変わったそれに、彼方の方で3人の世界を造っている彬、楓、鞍馬を除く全員が注目した。

 ──結果的に云えば、千鶴子を殺したのは水谷だった。物的証拠が挙がらなかったのも当然と云えば当然で、それは、云うなれば「呪殺」だったのだ。水谷は異能者などではなくただの一般人だったが、千鶴子への思慕が過ぎた狂人ではあった。あまりに禍々しい感情が暴走した結果、無人の乗用車を千鶴子へ向けてぶつけてしまった。
 そして、彼はその罪を柾に着せる事を計画し、柾が「千鶴子を殺したのは自分だ」と思い込むよう仕組んだストーリーを幻想交響曲を借りて造り上げ、例の装置を使ってその中に柾を放り込んだ。元々、千鶴子の死が痛手で精神の均衡を失っていた柾はあっさりとその罠に嵌った。延々と繰り返される、自分が千鶴子を想うあまりに殺してしまう、という幻覚から抜け出せなくなった。
 そこまでは水谷の思惑通り、だが、誤算が生じる。柾を放り込んだ幻想世界に、本当の千鶴子の思念体が現れたのだ。柾を正気付ける為、柾を助ける為に。
 恋人同士を死によって引き剥がしたはいいが、皮肉な事に精神世界で再会しては意味が無い。今度は柾を幻想世界から放り出す必要が生じた。彼等が召集されたのは、その為だったのだ。
 だが、同時に暗殺者まで用意していた水谷は、今現在、──追い詰められて、非常に不味い事に、彼等と同じく幻想世界へ来ている、という事だ。

 『一瞬の事で、どーにも出来ませんでした。ごめんね。でも、そういう訳で君達の肉体の安全は保証されたのであとはそっちで頑張って下さい。水谷の身体は適当に殴っときまます』というレイのメッセージが示す通り。

「……やっぱりな、一雨来そうだとは思ったぜ」
 将之が、さっき鞍馬と二人で現れたとか何とか騒いで居た、二振りの日本刀を両手に構えながら眉と口唇の端を吊り上げた。
 嵐か或いはまた化物の大軍でもやってくるかと思ったら、今回に限っては、この世界の元凶が直々にお出ましになったらしい。
「今しかチャンスはない。第四楽章に入ってしまえば、恐らくは柾氏を死刑台へ引こうとする存在まで介入して来てそれどころではない。今の内に、彼に真実を理解させるんだ、千鶴子を殺したのは自分ではないと」
 ケーナズは柾を見遣る。柾は、今迄のように人の話が耳に入っていない訳ではなさそうだが瞬きを繰り返してきょとんとしている。──どこまでも手の掛かる青年だが、全て水谷の策略に掛かった結果となれば哀れなことだ。
「でも、この『影』は──、」
 勝明が不安そうに空を見上げる。既にそこには暗雲が立ち篭めている。遥かには遠雷の音も混っている。
「任せとけよ、」
 将之が力強く豪語し、取込み中らしい向こうの方で楓に詰め寄られて畏縮している鞍馬を刀の先で示した。
「俺と草壁で水谷の相手をしてやる。その間にあんたらで柾さんを説得してくれ。防ぎ切れ無かった分は、御影、頼むな」
「分かった」
 涼は頷き、それでも不安を隠し切れない勝明の肩を大丈夫、と抱く。──因に、彬は、という疑問が残らないでもないが、彼には彼にしか出来ない仕事がある。……こちらへ情報を届けてくれた少女、楓の労を労う、という仕事が。少し放って置いてやろう。
「頼んだわよ、将之君」
 激励の意を込めてイヴはエールを送る。将之は任せろ、と力強く答えて鞍馬を呼びに走った。

【3_5ABCG】

 俄に陰った雲に覆われ、重低音や雷の閃きを伴った空を見上げている柾の表情は不安気に曇っていた。
 その柾の肩を、乱暴とも云える強さでケーナズが掴み、顔を向けさせる。
「心配事があるようだな、云ってみろ」
「……あ、……」
「千鶴子が居ない、死んだのではないか、というのが不安なのか、それともその彼女を自分が殺したのではないか、というのが不安か、」
「ちょっと、ケーナズ!」 
 いくら何でもストレート過ぎるわ、とイヴが焦って止めようとする。
「時間が無いんだ、それに水谷も元はと云えばこいつの現実逃避に付け込んだんだ。遠慮する必要等無い。気を遣うなら君は黙って居ろ」
「……、」
 イヴは俯きつつ後ろへ引いた。冷酷なようだが、ケーナズの云う通りだ。自分はあそこまで厳しくは出来ない。
 遠雷の音と、閃光に身を竦めた柾の手が震え出した。
「……からない、……分からない、俺は、……何も」
「柾さん、」
 ケーナズを制して柾に向き合ったのは、勝明だ。真摯な少年は、何時に無く強い表情の目で柾を真直ぐ見据える。
「逃げちゃ駄目だ、……柾さん、本当は何かを知っている筈、……何を知ってるんですか。何が、柾さんの真実、──千鶴子さんが、どうなったか」
「千鶴子、──……」
 勝明、と涼が少年を引き止めた。
「危ない、」
 柾は傍目にも精神の乱れが伺える程だ。涼を振り切って柾に触れた勝明は、電流に近い意識が脳内で弾けたのを感じた。
「──っ、」
 弾かれたようによろめいた勝明を、涼が胸に抱きとめた。その、目前で柾は頭を抱えて蹲る、──。
「あ────……っ……!!」
 絶叫が響く。
 どうしたの、とイヴは不安に襲われてケーナズの袖を引いた。ケーナズも、一層激しく吹き付ける強風に煽られた髪が視界を踊るのに気付く余裕も無く目を見張っていた。
「……な……に……?」
「……、」
 全身を震わせながら緩慢な動作で顔を上げた柾の手が、真っ赤に染まっていた。

「……矢張り、知っていたんだな」
 千鶴子が、恋人が死んだ事を。……そう簡単に忘れる筈がない。都合良く、記憶の片隅に押しやって「無かった事に」していただけだ。

「……俺が……殺したのか、……千鶴子を」
 呆然と血塗れの両手を眺めながら、柾が呟く。
「違う!」
 勝明が叫んだ。
「違う、柾さんが殺したんじゃない、そうじゃないんだ、柾さんが思い出さなきゃ行けない事、それは、千鶴子さんの死の真相だ。柾さん、思い出して」
「そうよ、あなたは騙されてる、水谷よ、覚えているでしょう、水谷があなたに暗示をかけたの、覚えているでしょう、千鶴子さんを殺したのは水谷よ!」
 イヴも必死の叫びを向けた。柾は今まで以上に錯乱、──否、精神が崩壊しかかっている。──この為だったのだろう。今まで、廃人のように何も見ず、何も聞かなかったのは、事実と向き合えばその重みに耐えられない事をどこかで分かっていた柾の精神が、自ら外の情報をシャットアウトしていたのだ。
「──だが、君には真実を見る義務がある」
 顔を上げろ、前を見ろ、とケーナズは低く、然しよく通る声で云い放った。──その先には、陵千鶴子の姿があった。

【3_6ABCGH】

「……千鶴子、」
 柾は、自らの血に塗れた両手と千鶴子に交互に視線を走らせた。
「……本物だな、一体、どうして……」
 その千鶴子の穏やかな気配を察知したケーナズが呟く。──その背後に、ゆっくりとセレスティ・カーニンガムが歩み寄っていた。
「……また、何をやったんだ君は」
「……、」
 秀麗な水霊使いは、ただ目を閉じて微笑んでいるだけだ。
「……信じられない、この気配の中で──水谷の怨念に覆われた中で本当の千鶴子さんを中心に据えたというの?」
 イヴは手を口許に当てて呟いた。──因みに彼女、外見は十代後半、然し実年齢は502歳。魔界の女王の妹という生まれも手伝ってか、少々の空間を操る事位はお手のものなのだが、──やはり、歳の功には適わないか。同じく外見は二十代半ば程、実年齢725歳の水霊使いがやってのけた神業には目を瞬くばかりだ。
「恋人同士が実際に向き合うのが一番ですよ。……荒療治はお手のものでしょう、ルクセンブルク」
「……君も大分いい性格だ」
 ケーナズは苦笑し、然しその意見に異論は無く柾に改めて視線を向けた。
 ──さて、柾は千鶴子を前にどうした行動に出るだろう。
「……ケーナズ」
「頃合だ。……柾に真実を見せるには、いい機会だろう」
「でもね、ケーナズ」
 イヴはやや力を込めてケーナズの腕を掴み、強い口調で宣言した。
「もし、暗示でも柾さんが千鶴子さんを殺そうとしたら、私はどんな手を使っても阻止するわよ」
「それが良い」
 
「柾さん、良く見て」
 勝明は柾に、ぼんやりと透けるような存在感で佇み、寂しそうな笑みを浮かべている千鶴子を示した。
「悲しいけど、千鶴子さんは死んでしまったんだ。それが、現実。……残された人間は、辛くてもその現実を知らなきゃいけない。……ほら、千鶴子さん、寂しそうだ。忘れちゃ駄目なんだよ。本当の千鶴子さんの事を無理矢理忘れて、幻覚ばかり追うなんて、それじゃ千鶴子さんが可哀想だ」
「……、」
「そして、千鶴子さんを殺したのは──、」
「俺か、──、」
 勝明は目眩を起こしかけた。──これで何度目か。……結局、柾に云いたい事は一つに尽きる。人の話、聞けよ、と。
「──もぉ、柾さん、何聞いてたのよさっきから! 千鶴子さんを殺したのは水谷だと云ってるじゃない!」
 イヴが痺れを切らしたようにやや後方から叫ぶ。
「俺だ、──、そう、和馬、和馬が俺に云ったんだ、……千鶴子は死んだ、お前が殺したんだって、俺はその時までずっと忘れてた、……千鶴子を殺した事を無かった事と思い込んで──」
 そして、やはり血塗れの手を震わせながら見詰めている。嵐は、どんどんと激しくなって行く。雷の閃きは、今やフラッシュのように絶間なく瞬いていた。風が低く、激しく唸る。
 ケーナズは舌打ちした。
「全く、刷り込みが強いらしいな。ここへ来ればとにかく自分が恋人を殺したと思い込むようになっているんだ」
「早く目を覚まさせなきゃ! ねえ、ちょっと、何か方法ないの!?」
 イヴは毒吐くケーナズと、余裕の微笑を浮かべているセレスティの間を行き来しながら焦りを隠さない。柾の身体を押さえ込んでも、意識を目覚めさせなければ意味が無い。──どうすれば?
「……、」
 徐、涼が優しい微笑を浮かべて柾に歩み寄った。
「涼、──」
 柾に対する呆れから来る目眩から立ち直った勝明を始め、ケーナズ、イヴ、セレスティが何をするのかと見守る中で、涼は柾の、──血に塗れた両手を確りと握り締めた。
「──……、」
「……落ち着いて。さあ、冷静に見てみよう、この手は? ほら、血に塗れてなんか居ない。幻覚だよ、全て。……あそこに千鶴子さんが居る。悲しいけど、彼女は亡くなった。でも、彼女は亡くなってもずっと柾さんを見てたんだ。水谷さんに裏切られて、『幻想交響曲』の暗示に掛かった柾さんを心配してね。……そんな千鶴子さんから、目を背けちゃ行けない。……ほら、ちゃんと向き合って。彼女が本当は何をあなたに、恋人に云いたかったのか、確りとその耳で聞いて」
「……、千鶴子」
 千鶴子が微笑む。その口許が僅かに動いた。──私はね、……晴冶さん。

──晴冶さんに忘れて欲しくなかったのよ。私の事も、……晴冶さんは未だ生きている、という事も。

「……、」
「あ……」
 各所に居る全員が、空を見上げた。雷の閃きや風が止み、代わりに激しい雨が降り注いだ。──癒す雨。薙ぎ倒された草や乾いた大地や、救われない哀れな怨念、そして柾の両手の血を、強固な固定観念をも洗い流す、浄化の雨。
「……、」
 セレスティが思惑有り気に、然し優しく穏やかな笑みを浮かべて居る。

 千鶴子は、固定概念からの解放を象徴する、血の流れ落ちた手を呆然と垂らして突っ立って居る柾に近寄り、その耳許で一言──生きて、と──だけ囁くとふわり、と姿を消した。

「……、」
 後には、雨だけが強く地面を打って居たが、それもやがて直ぐに止んだ。──雲が流れて晴れ間が覗き、虹が架かる。

【3_7ABCG】

「……柾」
 ぼんやりと立ち尽くす柾に、ケーナズが歩み寄った。柾は、その呼び掛けに答えて顔を──意思の在る視線を上げた。
「ようやく、正気に返ったらしいな」
「……、」
 柾が頷き返す。
「千鶴子は……──。……まさか、和馬が千鶴子を」
「……分かるさ、愛する者を失う辛さぐらい。……増してや同時に親友にまで裏切られた君の辛さは、な。──だが、それを無かった事にしようとするなど甘え以外の何物でもない。元はと云えば水谷はそこへ付け込んだんだ」
「……、」
 視線を伏せた柾の顎を持ち上げ、真直ぐ上を向かせてケーナズは云い放つ。
「何をしている、今、本来ならば君はこんな所に居るべきではない。彼女を本当に愛していたらなら、今君がやるべきなのは幻想の中で心の空虚を埋める事ではなく、現実世界で彼女を弔ってやることじゃないのか。……それとも、君のような甘い人間は、或いは今度は彼女を殺した犯人が親友だったという事実から逃げるかな?」
「……、」
 柾の表情が反抗的になった。瞳には怒気が含まれている。
 ……そりゃあそうよ、相変わらずシビアだわ、ケーナズ。イヴは言葉に困りながらそんな彼等を見詰めている。
「口惜しそうだな、然し何も云えまい、現実逃避していただけの君には」
 そして突き放すように柾にかけていた指先を放し、あくまで冷酷な表情──を装って、ケーナズは云い捨てた。
「私が憎ければ、まずは現実に戻るんだな。現実世界で私を殴れば良い」

「……、」
 ぼんやりと、そんな柾達を眺めていた勝明の背後から、その頭にぽん、と手が置かれた。
「──涼」
「大丈夫か? さっき、倒れ掛かっていただろう」
「……、あれは」
 余りにも人の話を聞かない柾に呆れて、と目で反論する勝明に、分かっている、と云う風な微笑を伴って涼は頷く。
「……あの人、強いよね」
 一人、やや離れた場所に立っているケーナズを見ながら勝明が呟く。
「俺はあんな風にはなれないよ」
「誰だってそうだろう、独りでは往々にして道を見失い勝ちなんだ。──それを支える人間が居て、初めて生きて行ける。中には、厳しい人間も居るだろうさ」
「涼は?」
「俺?」
「亮一とか、俺が死んだらどうする、──忘れる?」
「……どうだろう、分からないな。憶測で適当な答えをするのは好きじゃない」
「……あ、そう」
 ふい、と彼の手を逃れて歩き出した勝明に、微笑しながら涼は問い掛けた。
「そう云う勝明はどうなんだ、」
「亮一だったら、矢っ張りその時じゃないと分からない。涼だったらさっさと忘れる」
 ──素直じゃない。涼は苦笑しながら、勝明の背中を眺めた。

「……ねえ、柾さん」
 イヴは柾の顔をそっと覗き込んだ。
「……ケーナズを、憎まないであげて。彼、本当は冷たい人間じゃないのよ。ただ、自分にも他人にも厳しいだけなの。さっきの事だって、柾さんを思えばこそあんな事を云ったのよ」
「……、」
 分かっている、という風に柾は頷いた。
「……私は柾さんの辛さも、分かる積もりよ。大事な人を失う事って──、結局、避けては通れないんだわ。でも、みんなそれを何とか乗り越えて頑張って生きてる。それしかないわ。……私だって」
「……君」
 不意に柾が顔を上げた。
「……久し振りだな」
「え?」
「イヴ・ソマリア、──何故こんな所で会うのかは分からないが……」
 柾は不器用な口調だったが、それでもはっきりとイヴに向けて云った。
「……覚えてないかも知れないが、俺は君と仕事をした事がある。……、また、復帰できたら、……頼んでもいいかな」
 柾は生きる希望を取り戻した。イヴは心からの笑顔を浮かべた。
「──千鶴子さん、喜んでるでしょうね」

【3_8zero】

「──、」
「……あ、あんた戻って来られたのね、良かったわ」
 自らの肉体に戻り、瞳を開けた楓にレイは声を掛けた。
「……、」
「もー、焦ったじゃない。一時はどうなる事かと。でも、まあ無事で良かったわ。彼、ほらそっちの銀髪の美形、大きな声じゃ云えないんだけど、リンスター財閥総帥。彼に感謝しときなさいよ」
 黙ったまま髪を整え、彬をじっと見詰めている楓にレイが「所で」と云う。元々は楓が持って来たコピー用紙を手にしつつ。
「あんたも陵でしょ。聞いたかどうか知らないけど、あの女優、陵千鶴子と云うのよね。お兄さんは存命でそっちは修一と云うんだけど、彼等の母親、旧家の実家を家出して東京で未婚の母やってたらしいのね。……どうも、近からずも遠く無い所で繋がってるみたいよ、あんた達と同じ霊媒体質の血が」
 霊媒体質、か……。その血と、陵家に生まれた事で兄は悩み、苦しんで来たのだ。一概には喜べない。
「でも彼女、千鶴子さんね。その所為で死んでからもある程度自分の意思で恋人を救いに幻想世界に入り込めたんだと思うわ。……私はただの平和な一般市民だけど、そういう力だって、在ってもいいんじゃないの。使い様に拠っては、大事な人間を助ける事も出来るものね」
「……」
 楓は、矢張り言葉の無いまま押し黙っていた。
「あんたも、折角ならそういう大人になりなさいよ」
「……助けたい人間なんて、あに様以外には居ないわ」
「……、あら」
 ──草壁君も可哀想に、とレイは思う。……そして、何を思い付いたか俄にその口許をニヤ、と歪ませると楓の耳許で囁いた。
「……そう云えばね、私ずっと見てたんだけど、第二楽章の舞台、舞踏会だったのよね。……そこで、草壁君てば陵君に女性役やらせて踊ってたわよ」
「……何ですって?」
 すっく、と立ち上がった楓の気配は殺気立っていた。
「──鞍馬!」
 意識のない鞍馬に飛びかかりそうになった楓を、レイは慌てて取り押さえる。
「ちょっと、ストップ、彼、今意識が飛んでるんだから! 気持ちは分かるけどせめて意識が戻ってからにしなさい、──殴りたければ、代わりにあそこに転がってるおっさんで!」
 ──あそこに転がっているおっさん、イコール水谷の事である。

【3_8】

「後は、脱出するだけ、かな」
 確りと自分の足で立ち、感覚を外の世界へ向けている柾を見て将之はポキ、と指を鳴らす。
「……それはそうだが、」
「……何か、重大な事忘れてない、かな……」
 ケーナズに続けて勝明も、何か引っ掛かる、と首を振った。
「……あれ、だろう」
「……あれ、よね」
 涼とイヴが観念したように指した先には、一人の青年がこちらへ向けて近付いて来るのが見えた。どす黒い影を伴って。
「……、正解だったな、楓を帰して」
「セレスティ、だっけ、ありがとうな、俺、あんたには一生感謝するわ」
 セレスティは青年の軽いのか真剣なのか判断し兼ねる言葉には笑みだけで応えつつも、あの少女を帰した事は正解だったと思う。
 その影は一瞬にして周囲を覆い、空を、美しい虹を暗雲に塗り込めた他、周囲の景色さえ変えてしまう。長閑な自然に満ちた光景は、狭く、閉じられた灰色の景色へ姿を帰る。──石畳を、足音を響かせながら近寄ってくる彼の顔が段々とはっきり認識出来る。

「──……和馬……、」
 柾が、憤りと戸惑い、悲しさと寂しさを内包した声で呟いた。

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幻想交響曲 Phantastische Symphonie Op.14
作曲:Hector BERLIOZ (1803-1869)
作曲年:1830

「病的な感受性と、はげしい想像力を持った若い芸術家が、恋の悩みから絶望して阿片自殺を計る。しかし服用量が少なすぎて死に至らず、奇怪な一連の幻夢を見る。その中に恋する女性は、一つの旋律として表れる──」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0932 / 篠原・勝明 / 男 / 15 / 学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1555 / 倉塚・将之 / 男 / 17 / 高校生兼怪奇専門の何でも屋】
【1712 / 陵・彬 / 男 / 19 / 大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】
【1737 / 陵・楓 / 女 / 14 / 中学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】

NPC
【1630 / 結城・磔也 / 男 / 17 / 学生】
【1889 / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【水谷・和馬(みずたに・かずま)】
・今回の依頼人にして元凶らしい。アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵。
【柾・晴冶(まさき・はるや)】
・新進の若手として注目を集めていた映像作家。千鶴子の恋人。現在、精神が音楽の世界に取り込まれている。肉体は藻抜けの殻。傍目には多分廃人に見える。
【陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)】
・一ヶ月程前に轢逃げに拠り死亡。柾の元恋人で舞台女優。今回の件は彼女の怨念が引き起こした物と見られていたが、本当の彼女はただ柾を心配していた模様。
【陵・修一(みささぎ・しゅういち)】
・陵千鶴子の5つ違いの兄。千鶴子殺害の犯人に見当を付けており、草間興信所に依頼に行った。

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■         ライター通信          ■
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皆様、お疲れ様でした。
続投頂きました8名のPC様、多少はお休み頂けたでしょうか。
そして楓さん、……危険を顧みず、お兄様の為に駆け付けて下さって感謝します。
受注後に幻想世界の正体を公開するという意地の悪い方法を取りましたが、如何でしょうか。意外な展開になったと思われた方も、矢っ張り、と思われた方もいらっしゃると思います。
さて、柾は正気に返りました。これも偏に皆様のお陰です。……ありがとうございました、と行けば良いのですが、この幻想世界、黙っては彼を始め皆様を出して呉れそうにありません。
あとは戦闘に次ぐ混乱と狂気のみが待ち受けています。
しかも、第四楽章では某愉快犯による妨害が予想されます。
第四楽章受注は9月20日土曜日午後9時から行う予定ですが、第三楽章までとはやや募集内容が異なっています。続投して頂けたPC様は基本的に今迄同様の立場で扱いますが、……他にどんな募集があるか、受注前でも「現在登録しているクリエーター」から第四楽章の募集内容を見られると思いますので、気になる、或いは寝返ってみようかという方は御覧になって見て下さい。
今回の御参加、有難うございました。

尚、設定や解釈に誤りが在る時等、その方が助かりますので遠慮なく御指摘下さい。
ファンレターだとタイムラグが長いので、結城宛にでも交流メールを出して頂けた方が有り難いです。

■ イヴ・ソマリア様

今回も続投、有難うございました。
色々とお気を使わせたようで申し訳ありませんが、イヴ嬢には既に充分活躍頂いて居ます。
ファンレター、申し訳無くもとても嬉しく頂きました。……が。
舞嬢の安否確認を頂いた直前に不良学生と遭遇させた所でしたので、イヴ嬢PL様こそ鋭い……、と一人慌てていました。
……まあ、いざとなれば磔也に関しては生気を奪う等して殺して頂いても結構ですが。
今回はルクセンブルク氏、少し役得でしたね。少し羨みつつ、描写してみました。

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