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■幻想交響曲 3 田園の風景■

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【1737】【陵・楓】【中学二年生】
 若手の新進映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)。彼は恋人である女優、陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)を失ったショックから精神を病み、「幻想交響曲」に誘われて音楽の世界へ迷い込んでしまう。その幻想世界へ行き、柾を助け出して欲しいと依頼して来たのは水谷・和馬(みずたに・かずま)という柾の親友にしてディレクターの卵。
 幻想世界は柾の幻覚と、彼を黄泉へ引き摺り込もうとする千鶴子の怨念、魑魅魍魎の類の混沌の世界。生半可な気持では逆に取り込まれてしまう危険な世界。その中で柾の身の安全だけは何とか確保していた一同だが、次第にこの世界に介入できる第三者の存在に気付き始める。
 現実世界とも連係を取り、「幻想世界の正体」をも同時に探り始めた一同。奇遇な事に、時を同じくして草間興信所には千鶴子の兄、陵・修一(みささぎ・しゅういち)が訪れていた。
幻想交響曲 3 田園の風景

【3_0zero】

「……、」
 確か、道路交通法に拠れば法定速度と云うものは自転車にも適用された筈だ。
 が、結城・レイ(ゆうき・れい)はそんな事はどこ吹く風、どうせパトカーだろうと白バイだろうと追い付けないだろう事をいい事にロードバイクの限界速度で東京の路上を飛ばしていた。
 信号無視は常識だ。免許の存在しない自転車がそんなものを守ってどうする。日本の安全神話を信じ切っている歩行者の方が危険を察知して通過を見送る有り様だった。

──お願いがあるのよ、
 今、彼女の頭にあるのはそんな或る少女からのメッセージと、某高級アパートメントへのショートカットだけだ。

【3_0F】

 東京都内、某所。
 学生向けアパートのある部屋のドアを、セーラー服姿の少女が叩いている。その制服は中学校の物と思しいが、都内の物にしてはデザインがやや野暮ったい感じもする。──が。
 目を制服ではなく少女自身に向けたならば、その野暮ったさもこの上ない清楚さへと姿を転じる。少女の腰辺りまで伸びた、漆黒の真直ぐな髪、抜けるように白い肌。そして何よりその顔の造型。
 今どき、これ程大和撫子という言葉がぴったりと当て嵌まる美少女が居るだろうか。憂いを帯びた、その髪と同じ漆黒の大きな瞳、上品な目鼻立ち。間違えても文学者達を嘆かせて久しい、今どきの若者の荒んだ言葉遣いなど発しそうにない口許。
 彼女はその容姿に違わず奥床しささえ感じる控えめな動作で数度に渡ってドアを叩いていたが、やがて小さく溜息を吐いて項垂れた。
「あに様……居ないの?」
 その部屋のルームナンバーの下には、「陵」というラベルが貼られている。
 制服のデザインが大人しいのも当然、彼女は東京都民に在らず、とある山奥の村に在る廃校寸前の某中学校の生徒なのだ。
 彼女は時折こうして、大学進学と同時に上京し、この部屋で一人暮らしをしている兄の世話を焼きに実家のある田舎から上京しているのだが、ここ数カ月は来る事が出来なかった。それと云うのも、この部屋の主である長男も大学の夏休みには帰省するだろうし、夏休みに兄の世話とは云え東京に行くと云い出せば彼女の下の妹二人も行きたがるから、と両親に止められていたのだ。
 だが、この夏中、兄は帰らなかった。──限界だ。
 少女は、両親の反対を押し切って、急ぎ東京行きの国鉄へ飛び乗ったのである。大学はまだ夏休みの筈だ。今しかない、とばかり、中学生の自分はもう新学期である事などすっかり忘れて。
 居ない、となれば──こっちか。
 少女は数歩ばかり歩き、隣の部屋のドアを再び叩く。然し、その調子は今迄よりもやや乱暴だった。
「鞍馬!」
 「草壁」、とラベルの付いたこの部屋から二人が揃って顔を出そうものなら、彼女はどれ程血相を変えて声を荒げた事だろう。──然し、その表情は更に不安気に沈むだけで、幸か不幸か今の所、彼女の大声が聞こえることはなかった。──それは、もう少し後の事である。

【3_1F】

「……、あに様は?」
「……、」
 激しいノックの音に応対に出た草間・武彦(くさま・たけひこ)はドアを開けた先に、絶世の美少女がそれ故に背筋も凍りそうな表情で自分を睨みむように見上げ、そう問い掛けたのを聴いた。
「……今日は千客万来だな……」
「あに様は、って聞いてるの! 鞍馬も一緒なんでしょう!? 私、前に鞍馬から聞いたのよ、あに様と鞍馬が時々ここを仲介して怪しいアルバイトをしてるって! 2人揃って留守の理由なんて、他に考えられないわ、さあ、あに様は何処!?」
 草間は溜息を吐き、ともかく、──君の名前は? と美少女に訊ねる。
 陵・楓(みささぎ・かえで)です、と彼女は名乗った。
 ──ああ、何と云う事だ。選りに選ってこんな日に……。
 
「──……、」
 百数秒の後、草間は少女の消えた廊下を無言で見送っていた。
 あくまでも自分は悪く無い、寧ろ彼を手助けする為に尽力しているんだと云う点を強調し、今現在、彼女の兄と、その親友が共に「居る」と思しい住所を告げると、──彼女は一度瞳を煌めかせ、鞍馬、と低く吐き捨てると共に長い黒髪を靡かせて踵を返して走り去った。
 ……俺、何も悪くないよな、……と草間は胸に手を当てて暫し考え込んだ。
 ──だが、その直後にある事を思い出し、窓から首を出して既に路上の人である楓に怒鳴る。
「ちょっと待て、君、陵と云うんだな!?」
 楓は顔を上げたが、一刻も早く兄、陵・彬(みささぎ・あきら)の許へ駆け付ける事しか考えていない純真な少女は再び戻る気配はない。草間はテーブルの上の一枚のコピーを引っ掴み、「道中でいいから目を通してみて呉れ、」と叫んで窓から落とした。
 ひらひら、木の葉のように舞うその紙を器用に受け止めた少女は再び駆け出す。そのとんでもない俊足を見詰めながら草間は、──俺には追い付けない、あんな顔して、どうなってるんだと目を瞬かす。
 ──大人しそうに見えても、田舎育ちは足が俊いのだ。

【3_1zero】

 水谷・和馬(みずたに・かずま)は背筋を走る冷や汗を感じつつも、土足で駆け込んで来たレイを眉を顰めて睨み付けていた。──彼女の手には、バタフライナイフ。
「……何のつもりだ、ZERO」
「さあね。でも、怪我したくなかったら大人しくそこ、退いて『彼等』から離れて頂戴」
「……そんな脅しが通じると思うか?」
「現にあんた、腰抜けかかってるわよ。……今どきの若者はね、キレると怖いの」

 以下、草間興信所調査依頼参照

【3_2F】

「駄目! 絶対駄目!」
 結城・レイ(ゆうき・れい)は、先程の一騒動の名残りも未だ落ち着かない内に旋風の如く飛び込んで来た少女に必死で取り縋っていた。
「あに様! 離して、早くあに様を助けに行かなきゃ!」
 多少の身長差はあれど、中学生と成人直後の女性では実は中学生の方が力が強かったりするものだ。殊に、今の彼女──楓のように、愛する兄の肉体が精神を失って床に崩れ落ちているのを目の当たりにして平常心を失っていれば、尚更。
「駄目だってば! もう、この世界ヤバいのよ、あんたみたいな子供が入ったって陵君の足手纏いになるだけ! 中には草壁君も居るんだから、陵君の事は彼に任せて見守ってなさい──、」
 草壁、と聞いて楓は眉を吊り上げた。
「鞍馬なんか当てにならないわよ!」
 そして、レイの腕を振り切る。草壁・鞍馬(くさかべ・くらま)──、彬の横で同じく意識を失っている赤毛の青年だ。先程、楓が兄の部屋の次に訪れたのは鞍馬の部屋である。現在、彬の隣人であるが元々は彬や楓と同郷で、彬と共に上京した、現在インディーズバンドのヴォーカルギタリスト。実は、哀れな事に彼、他ならぬこの楓に片思いしているのだ。如何に美少女とは云え選りに選って兄以外の男等誰一人その憂いを帯びた瞳に入って居ない彼女に。彼女は純情な鞍馬の本心に気付いてこそいるものの、その辺りは適当に受け流してあくまで兄の友人としてしか接していない。……兄の友人だが、──ようやく彬に逢えると思って上京してみればその兄を鞍馬が連れ出し、しかも彼が付いていながらそんな危ない世界へ兄を連れ込んだと知れば、今の彼女には親の仇も同然だ。この際、彼女に取って悪いのは全て鞍馬である。
 楓は既に、一つ空きの有ったヘッドホンを手に取っている。レイは彼女の制止を諦めたと同時に一枚のフロッピーディスクを最後の力を振り絞って彼女へ差し出した。
「分かった、分かったわよもう止めないから、──だから、どうせ行くならせめてこれを持って行って!」
 私の代わりにね、私はもうあんな目に遭うのは御免だから。とは心の中で呟くつもりだったが、それよりも先に楓は受け取るが早いか早速意識を失って兄、彬に寄り添うように崩れ落ちてしまった。 

【3_2zero】

「……、」
 レイは脱力して床にへたり込んで居た。
 覚悟を決めて彼等の肉体を水谷から護るべく、バタフライナイフを携えて某ネットカフェからロードバイクを飛ばして来てみれば某怪奇探偵の恋人(とレイは認識している)と、別の探偵事務所(これもまた怪奇事件もカバーしている)の主が乗り込んで来て、その弾みでやたらと肥大化した怨念を暴発させた水谷が間の抜けた事にその反動で自らが幻想世界へ取り込まれてしまい、──そして、今は某怪奇探偵の許へ帰った二人の持ち込んだ調査結果を何とかして幻想世界内の連中に届けようと取急ぎのデータベース化作業が済んだ所へ、これだ。
 ああ、……疲れた。若いっていいわね……。レイは21だが、あの元気な中学生に比べれば……。何より、とレイはつい今し方、兄の為に危険も厭わず幻想世界へ乗り込んで行った陵・楓(みささぎ・かえで)を思い浮かべた。
「兄思いの妹なんか、羨ましい限りだわ……」
 羨望の眼差しを彬へ向けたレイは、彼に寄り添って倒れている楓の手にしている一枚のコピー用紙に気付いた。
 何気なく、それを抜き取って目を通したレイは前髪の奥で目を細めた。
「……成る程ねえ、」

【3_2xxx】

 某ネットカフェ。
 「出張」から戻った結城・磔也(ゆうき・たくや)は同じ頃、姉が楓と彼を比べて溜息を吐いている事など知る由もなく幻想世界の傍観を続けていた。
「……何だこれ」
 姉と違って普通に露出している眉が顰められた。その視線の先に、幽かだが幻想世界を覆い得る黒い影が映っている。
「……これ……、水谷じゃねぇか?」
 何故彼が此処に? と少年は訝る。姉にでも聞き出してみるか、と個室を出て店内を見回した磔也は舌打ちした。先程まで窓際の席に居たレイの姿が無い。
「あの女、……反則だぞ」
 賭けの対象に干渉しやがって。……なら、こっちも、と個室へ引き返す。
 メールボックスをチェックした後、既にハッキング済の次楽章のデータを弄っていた磔也はふとある事に気付いた。
「……水谷もあっち行ったのか。……って事は……次で処刑されるのって、どっちになるんだ?」

【3_3】

「──ルクセンブルク、」
 セレスティがケーナズに耳打ちした。
「そろそろ、ですよ」
「……ああ、」
 何が? とイヴは二人に吊られて視線を空へ向けた。──急に雲行きが怪しくなって来た。
「嵐が来るか、それとも落雷でもあるかな?」
 ケーナズは口唇の端を吊り上げた。
「……あれ、……」
 勝明が声を緊張させ、遠方を指した。あまり強くはないが、どうにも不穏な気配が近づいて来る。涼は安心させるように勝明のその手を取った。自らは神経を研ぎすましてその気配を探りつつ。
「……似てるな、『侵入者』の時と、気配の現れ方が……」
「……、」
 セレスティは無言で、独りぼんやりしていた彬と、刀が現れたの現れないのと大騒ぎして盛り上がっていた鞍馬と将之を呼び寄せた。ばらけていては、またいつ分断されるか分からない。
「やっぱり、『一雨』来たか……、」
 将之はすぐ駆けて来て、柾を庇う。──柾がまともに「誰だ、君」と応えたのに違和感を感じた。
「『侵入者』のようなのですが……、それにしては少し悪意が無い気もします。不穏な気配には違いありませんが」
 そうする間にも、その気配はどんどん近づいて来た。近づくにつれ、それが小柄な少女の形態を取っている事が分かる。
「千鶴子さん?」
 涼が目を細めながら呟く。勝明は首を振った。
「いや、違う……」
「何だ、また侵入者か、結局」
 ケーナズの呟きを掻き消すように背後で悲鳴が上がった。鞍馬だ。
「あ……まさか……、……彬──!」
 何事かと振り返った一同は、近づいて来る気配に一人慌てふためいている鞍馬と、呆然とそれを眺めている彬を見た。
「何なんだ、一体!?」
 将之が業を煮やしたように鞍馬を急っつく。急に鞍馬は彼の手を取ると、哀願に近い声を上げた。
「倉塚、俺、逃げていい?」
「は? 莫迦、何云ってんだ」
 将之は今にも踵を返しそうな鞍馬の手を逆に確りと引き止めた。
「……訊きたいんだが、ここは妖しに化かされる所か?」
 彬が目を軽く擦りながらケーナズ、セレスティ、涼を交互に見遣って訊ねた。
「一言じゃ何とも答えようはないけど……どうして」
 涼の応えに彬が口を開く前に、甲高い少女の声が響き渡った。

「あに様──!!」

「あ、おい待てよこら、」
 隙を付いて逃げ出しかけた鞍馬を、将之があっさりと掴まえた。振り返った鞍馬の表情は、魑魅魍魎を前にした時よりも明らかに怯えている。
「ああもう駄目だ、絶対殺される、俺」
 と云うより、軽蔑される、嫌われる。絶対。選りに選ってこんな時に「彼女」が現れるとは──。

「あに様! 無事で良かった!」
 少女は脇目も振らずに呆然としていた彬の胸に飛び込み、確りとその胸に取り縋った。
「……つまりだ、」
 自分の胸に顔を埋めている少女を、冷静、というよりは何かを諦めたように落ち着きを持って指しながら彬は涼に説明した。
「これが、幻なのか妖しに化かされているのかどうか知りたいんだ」
「明らかに生きた人間の意識ですね」
 セレスティが代わりにさらりと答えたが、流石の彼も多少の混乱を隠せないと見える。──おかしい、全く予定外だ。一体どこをどう通ってやって来たのだ、これ程悪意のない存在が。
「……で、誰?」
 将之が覚悟を決めたように俯いて大人しくなった鞍馬に訊く。全く同じ言葉を、他の面々は彬に向けて発していた。

「……彬の──、」
「……俺の、妹」
 
『……はい?』

【3_4DEF】

「……楓、一つ訊いていいか」
 半ば事務的に妹の背中を軽く叩いて遣りながら、彬は訊ねた。
「ああ、あに様が無事で良かった、あに様にもしもの事があったらと思うと、私どんなに心配したか……」
「──だから俺の話を聞け!」
「何、あに様」
 二度目には楓はあっさり顔を上げた。
「あのな、……何故お前が此処に居る」
 然し、彼女はその問いに答える前にぱっくりと大きく切れた、彬の肩の部分の衣服に目を止めて再び悲鳴のような声を上げた。
「あに様! これはどうしたの!? 血が、血がこんなに、──ああ、あに様の血が!」
 傷自体はセレスティの治癒で完治していたのだが、同時に切り裂かれた服とそこに付着した血痕はそのままだったのである。
「ああ、少し怪我をした。だが、もう傷自体は癒えているから──、」
「鞍馬!!」
 鞍馬の身体が強張った。つかつかと歩み寄って来る楓の目には鞍馬へ向けた怒気が溢れている。逃げるが勝ち、──と行けばいいのだが、それでもその顔を見て、……ああ、矢っ張り可愛いな、ちょっと見ない間にもきれいになったな……、などと思ってしまう、純情で哀れな鞍馬青年。
「どういう積もりなの、あに様をこんな目に遭わせて、あに様に恨みでも有るの!? ……『雪月花』まで持ち出してあに様にこんな怪我させて、守人の名に恥じるわね、全く情けないったらないわ!」
「いや、だからもう傷は何ともないんだ──、」
「あに様は黙ってて!」
 自分をネタに鞍馬に詰め寄っていながら、自分は黙っていろとは一体どういう理屈だ。思春期の複雑な少女の心理など理解出来ない彬は、嘆かわしい、と溜息を吐いた。言葉に責任を持っていない。そうでないとすれば、文脈が崩壊している。自分の妹ともあろう楓が、情けない。
「楓、ちゃんと国語の勉強はしているのか?」
 勿論そんな呟きが楓に届いている筈も無い。
「鞍馬、今日と云う今日はきっちり説明して貰うから! さあ、どうなの」
「やはり、文法能力を養うに最適なのは作文だ。口頭で済ませてしまうから、矛盾に気付かない。文字に直してみれば整然とした文章がどう云ったものか、自ずから理解できる筈だ。──、聞いているか、楓?」
 そこへ来て初めて楓が小さくなっている鞍馬に突っかかる事で精一杯だと気付いた彬は、溜息を吐きながらようやく腰を上げた。
「楓、そんなに鞍馬を責めるな。鞍馬ばかりが悪い訳じゃない。ここへ来たのも半分は俺の意思なんだ」
「だからってぼんやり突っ立ってていい訳じゃないわ、鞍馬もここに居る以上、自分は死んでもあに様を護るべきなのに、自分は無傷であに様に怪我させてるなんて信じられない」
「……ごめん、楓、本当俺……」
 鞍馬はなんとか言葉を絞り出し、だが、もうこんな失態は犯さない、彬と楓は自分の命に変えても護るから、と宣言しようとして──「役立たず!」という少女の絶叫に掻き消される。
「なんて言葉遣いをする、楓」
「……だって、……」
 矢張り兄には弱いらしい。彬が殊更重視する言葉遣いを窘められては反発もできず、楓は俯いて言葉を詰まらせてしまった。

【3_4defi】

「あのー、……取り込み中悪いんだけど」
 この際の鞍馬に於ける天の救い、将之だ。
「草壁、借りていいかな」
 何でも、非常事態という事だ。向こうの連中は取急ぎ柾の説得に当たる必要があり、その間将之と鞍馬で護りを築く、という。
「俺はどうしたらいいんだ」 
 と所在なげな彬に将之は「妹さんの傍に居てやったら、」と遠慮勝ちに提案する。……そうとしか云えない。
「ごめんなさい、お願いします。鞍馬は好きに使って下さい、盾にしていいですから」 
 将之に対しては礼儀正しく、楓は頭を下げる。将之はその清楚さと云っている内容のギャップに苦笑いし、鞍馬の脇を「いいのかよ」と肱でつつく。
「彬と楓の為なら全然OK!」
 答えた鞍馬は元気は良いが、どうにも自棄半分さが見て取れた。既に柾の事など、完全に忘却の彼方のようだし。

【3_5DF】

「……全く、どうしてこんな事態になってしまったのか、説明出来るな? 楓」
「……ごめんなさい」
 鞍馬が行ってしまうと、途端に楓は大人しくなって長兄振った彬の言葉に項垂れている。
「謝れ、とかそういう事を云ってるんじゃない。何故こんな無茶を」
「──無茶してるのはあに様の方じゃない。……私、あに様が危ないと思ったら居ても立っても居られなくて」
「俺よりも自分の身が危ないとは思わなかったのか」
「……あに様って、いつもそう」
 ぽつりと呟いた楓の声に、非難の色が溢れていた。
「そうやって、いつも自分さえ犠牲になればいいと思ってる。独りで背負い込んでる。私はただ、あに様に無事で居て欲しいだけなのに」
「楓」
「……『精霊』の事だって、そんなに厭なら最初から云えば良かったのよ。なのに、限界まであに様独りで思い詰めて、……辛かった癖に。村を出るほど辛かった癖に」
「……、」

「──……!」

 刻一刻と激しさを増して行く強風の中に、絶叫が響いた。……柾の。
「……、」
 不安を感じて彬がそちらを振り返った隙に、楓が彼の胸に取り縋って来た。
「楓!」
「何で、何で私が居ちゃ駄目なの、」
 楓の肩が震えている。彬は仕方の無い娘だな、と溜息を吐きながらその肩を抱いてやった。
「何で、鞍馬は良くて私は駄目なの? ……そんなの納得できない、私だってあに様の事好きなのに、なのに、兄妹では駄目で鞍馬ならいいなんて、……そんなの許せない」
「……あのな、楓、そういう問題じゃない。俺はお前が居ると危ないと──」
 兄への複雑な感情と鞍馬への嫉妬を混同している楓には、今筋を通した話をしようと云う方が無理だろう。──この様子では、先程のダンスの事など口が裂けても云えないな、と──その事を楓が知った時には刺されても不思議はない鞍馬を思い浮かべて一瞬だけ(仕返しの念から)口唇の端に微笑を浮かべつつ──彬は思った。

【3_6DF】

 不意に降り出した雨が、彬と楓の肩を濡らしながら、それでいてどこか、優しく降り注いでいた。
 楓はそれにも構わず、ずっと彬の胸で泣いている。──それを問いただす方が野暮だろう、彬は気付かない振りをして妹の小さな肩を受け止めつつ、雫の流れる黒い髪を優しく撫でてやって居た。
「……寒くないか、楓」
「……大丈夫」
 全てを浄化する雨は、彼女の精神にも落ち着きを与えたらしい。
「いいか、素直に聞けよ。俺は、お前を危険に晒したくないんだ。たまたま平和な場面だったから良かった。後にはかなり危険な死刑場やら魔女の会合やらがあるらしい。今の内に、脱出しろ。──楓一人位なら何とかなるだろう、誰かに頼んでみるから、……素直に云う事が聞けるな?」
 そう、諭すように言葉を紡ぐ彬に楓は大人しく頷いた。

【3_7DEFHI】

「どーだ、今度はきっちり仕事しただろ、ぼけっとしてたお前に変わって」
 偉そうに胸を張る鞍馬に、将之はもう溜息しか返せない。
「ぼけっとしたんじゃねえよ。……て云うかな、当然だろ、それで」
 並んで歩きつつ、二人は軽く小突き合った。
「……ま、いい準備運動にはなったんじゃない」
「同感」

「セレスティさん、頼みがある」
 楓の肩を抱きながら、彬はセレスティに声を掛けた。
「水の力を以て空間に影響を与えられるあなたなら、──ここから一人位、元の世界へ戻す事は出来ないか」
「……、付いて来なさい。早い方が良い。……もう、そこまで真打ちが迫っていますから」
 少女に目を留め、微笑して踵を翻したセレスティに続こうとした彬に、楓は最後の抵抗をする。
「でも、あに様、私何もやってない。……せめて何か一つ位あに様、──じゃなくて、皆の役に立ってから──、」
 本当は出来るだけ長く兄と一緒に居たかっただけなのだが、向こうからやって来た将之に「データを届けてくれただろ、それで充分だよ」と笑顔で励まされてはそれ以上は粘れない。苛立ち紛れに、将之と一緒に歩いて来た鞍馬に言葉を投げ付ける。
「鞍馬! 二度は許さないわよ、帰って来た時にあに様がまた怪我してたら、私、鞍馬を許さないからね!」
「はい!」
 鞍馬は途端に姿勢を正し、直線的な動作で敬礼した。
「草壁鞍馬、命に変えても彬の身の安全は保証します!」
「余計な事は云わなくて良い!」
 彬が睨む。その手の中から、「本当よ!」と楓が念を押した。

【3_8zero】

「──、」
「……あ、あんた戻って来られたのね、良かったわ」
 自らの肉体に戻り、瞳を開けた楓にレイは声を掛けた。
「……、」
「もー、焦ったじゃない。一時はどうなる事かと。でも、まあ無事で良かったわ。彼、ほらそっちの銀髪の美形、大きな声じゃ云えないんだけど、リンスター財閥総帥。彼に感謝しときなさいよ」
 黙ったまま髪を整え、彬をじっと見詰めている楓にレイが「所で」と云う。元々は楓が持って来たコピー用紙を手にしつつ。
「あんたも陵でしょ。聞いたかどうか知らないけど、あの女優、陵千鶴子と云うのよね。お兄さんは存命でそっちは修一と云うんだけど、彼等の母親、旧家の実家を家出して東京で未婚の母やってたらしいのね。……どうも、近からずも遠く無い所で繋がってるみたいよ、あんた達と同じ霊媒体質の血が」
 霊媒体質、か……。その血と、陵家に生まれた事で兄は悩み、苦しんで来たのだ。一概には喜べない。
「でも彼女、千鶴子さんね。その所為で死んでからもある程度自分の意思で恋人を救いに幻想世界に入り込めたんだと思うわ。……私はただの平和な一般市民だけど、そういう力だって、在ってもいいんじゃないの。使い様に拠っては、大事な人間を助ける事も出来るものね」
「……」
 楓は、矢張り言葉の無いまま押し黙っていた。
「あんたも、折角ならそういう大人になりなさいよ」
「……助けたい人間なんて、あに様以外には居ないわ」
「……、あら」
 ──草壁君も可哀想に、とレイは思う。……そして、何を思い付いたか俄にその口許をニヤ、と歪ませると楓の耳許で囁いた。
「……そう云えばね、私ずっと見てたんだけど、第二楽章の舞台、舞踏会だったのよね。……そこで、草壁君てば陵君に女性役やらせて踊ってたわよ」
「……何ですって?」
 すっく、と立ち上がった楓の気配は殺気立っていた。
「──鞍馬!」
 意識のない鞍馬に飛びかかりそうになった楓を、レイは慌てて取り押さえる。
「ちょっと、ストップ、彼、今意識が飛んでるんだから! 気持ちは分かるけどせめて意識が戻ってからにしなさい、──殴りたければ、代わりにあそこに転がってるおっさんで!」
 ──あそこに転がっているおっさん、イコール水谷の事である。

【3_8】

「後は、脱出するだけ、かな」
 確りと自分の足で立ち、感覚を外の世界へ向けている柾を見て将之はポキ、と指を鳴らす。
「……それはそうだが、」
「……何か、重大な事忘れてない、かな……」
 ケーナズに続けて勝明も、何か引っ掛かる、と首を振った。
「……あれ、だろう」
「……あれ、よね」
 涼とイヴが観念したように指した先には、一人の青年がこちらへ向けて近付いて来るのが見えた。どす黒い影を伴って。
「……、正解だったな、楓を帰して」
「セレスティ、だっけ、ありがとうな、俺、あんたには一生感謝するわ」
 セレスティは青年の軽いのか真剣なのか判断し兼ねる言葉には笑みだけで応えつつも、あの少女を帰した事は正解だったと思う。
 その影は一瞬にして周囲を覆い、空を、美しい虹を暗雲に塗り込めた他、周囲の景色さえ変えてしまう。長閑な自然に満ちた光景は、狭く、閉じられた灰色の景色へ姿を帰る。──石畳を、足音を響かせながら近寄ってくる彼の顔が段々とはっきり認識出来る。

「──……和馬……、」
 柾が、憤りと戸惑い、悲しさと寂しさを内包した声で呟いた。

───────────────────────────
幻想交響曲 Phantastische Symphonie Op.14
作曲:Hector BERLIOZ (1803-1869)
作曲年:1830

「病的な感受性と、はげしい想像力を持った若い芸術家が、恋の悩みから絶望して阿片自殺を計る。しかし服用量が少なすぎて死に至らず、奇怪な一連の幻夢を見る。その中に恋する女性は、一つの旋律として表れる──」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0932 / 篠原・勝明 / 男 / 15 / 学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1555 / 倉塚・将之 / 男 / 17 / 高校生兼怪奇専門の何でも屋】
【1712 / 陵・彬 / 男 / 19 / 大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】
【1737 / 陵・楓 / 女 / 14 / 中学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】

NPC
【1630 / 結城・磔也 / 男 / 17 / 学生】
【1889 / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【水谷・和馬(みずたに・かずま)】
・今回の依頼人にして元凶らしい。アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵。
【柾・晴冶(まさき・はるや)】
・新進の若手として注目を集めていた映像作家。千鶴子の恋人。現在、精神が音楽の世界に取り込まれている。肉体は藻抜けの殻。傍目には多分廃人に見える。
【陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)】
・一ヶ月程前に轢逃げに拠り死亡。柾の元恋人で舞台女優。今回の件は彼女の怨念が引き起こした物と見られていたが、本当の彼女はただ柾を心配していた模様。
【陵・修一(みささぎ・しゅういち)】
・陵千鶴子の5つ違いの兄。千鶴子殺害の犯人に見当を付けており、草間興信所に依頼に行った。

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■         ライター通信          ■
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皆様、お疲れ様でした。
続投頂きました8名のPC様、多少はお休み頂けたでしょうか。
そして楓さん、……危険を顧みず、お兄様の為に駆け付けて下さって感謝します。
受注後に幻想世界の正体を公開するという意地の悪い方法を取りましたが、如何でしょうか。意外な展開になったと思われた方も、矢っ張り、と思われた方もいらっしゃると思います。
さて、柾は正気に返りました。これも偏に皆様のお陰です。……ありがとうございました、と行けば良いのですが、この幻想世界、黙っては彼を始め皆様を出して呉れそうにありません。
あとは戦闘に次ぐ混乱と狂気のみが待ち受けています。
しかも、第四楽章では某愉快犯による妨害が予想されます。
第四楽章受注は9月20日土曜日午後9時から行う予定ですが、第三楽章までとはやや募集内容が異なっています。続投して頂けたPC様は基本的に今迄同様の立場で扱いますが、……他にどんな募集があるか、受注前でも「現在登録しているクリエーター」から第四楽章の募集内容を見られると思いますので、気になる、或いは寝返ってみようかという方は御覧になって見て下さい。
今回の御参加、有難うございました。

尚、設定や解釈に誤りが在る時等、その方が助かりますので遠慮なく御指摘下さい。
ファンレターだとタイムラグが長いので、結城宛にでも交流メールを出して頂けた方が有り難いです。

■ 陵楓様

初めまして、今回は果敢にも御参加、有難うございました。
お兄様のお怪我、慎んでお見舞い申し上げます。……別に、白々しくなんか無いですよ?
草壁君が原因ですから、全て。
お怒りの気持ちはお察ししますが、今の所は取り敢えず水谷にでも転嫁して、草壁君には手を出さないで下さい……あんまりですので。
それにしても本当に兄想いで而も可愛い妹さんだと、結城など溜息を吐いています。
お兄様少々意地を張って無理をする傾向をお持ちのようですので、これからも仲良く、労ってあげて下さいね。

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