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■殺虫衝動 『コドク』■

モロクっち
【1388】【海原・みその】【深淵の巫女】
 冗談のように大きい蜘蛛を憶えているか。
 天井からすべてを見下ろしていた、88の眼を持った蜘蛛を見たはずだ。

 港のそばの貸し倉庫で開かれていた『殺虫倶楽部』の会合には、人間の姿はなかった。己が平だと名乗る者も現れなかった。だが倉庫の裏側の部屋に、行方知れずだった嘉島刑事と、蜘蛛が居たのは確かだ。そして倉庫の中で、異形の蟲たちが犇めき合い、食らい合っていたのも確かな事実なのだ。

 御国将は倉庫の裏側の部屋に入ったまま戻らない。
 そうして数分が経過していたが、相変わらず周囲は鎮まり返っていた。

 道は探せばいくらでも見つかる。
 主な道はふたつだ。
 正面に戻って会合現場に行くか、裏の蜘蛛の巣に飛び込むか。いずれにせよ、この夜のうちに動かなければ――恐らく将はアトラス編集部に戻らず、嘉島刑事は埼玉県警に戻らない。
 蟲たちが何を意味していたか、何を為すのかを知ることもかなわないだろう。

 どうするべきだ?
 今、自分は?
 考えろ、
 考えろ、
 考えろ考えろ考えろ。
殺虫衝動『コドク』


                   ■さいごのこどく■


 冗談のように大きいいきものがいた。
 天井からすべてを見下ろしていた、88の眼を持ったいきものを見た。

 御国将は倉庫の裏側の部屋に入ったまま戻らない。
 そうして数分が経過していたが、相変わらず周囲は鎮まり返っていた。

 みそのは、ドアの向こうにいたいきものが蜘蛛であることを知らなかった。
 知っているのは、蜘蛛が将とウラガによく似た存在であるということだ。苛立ちと悪意の他に、確かな感情の流れを持っていたのである。

「……将様にしては、丁重な扱いでしたわ」
 みそのは将に突き飛ばされたことを根に持つどころか、むしろ感謝していた。要するに、か弱い女性をかばったということになるのだろうと、みそのは解釈したのである。あのぶっきらぼうな将にしては、よい心遣いと言えよう。
 しかし――
 乱れてしまった黒の『衣装』を整えながら、みそのは倉庫を見上げた。
 禍々しい、歪みじみた流れが渦巻いている。ごおごおという音まで聞こえてきそうだ。これほどの大きな流れの顛末を見届けないわけにはいかなかった。神も、未完成な伽話では気分を損ねて、眠りの妨げになるだろう。それでは、こまるのだ。
 『会合』と称した殺し合いも、みそのには関係のないことだった。
 彼女が必要としているのは、結末だけだ。
 きっと将も、それを望んでいるはずだ――
 みそのは目を閉じ、流れを見て、
 息を吸いこみ――そして、吐いた。


 それは、妹から教わったのである。
 流れというものは、加速させると『火』を生み出す。
 妹は要するにぷらずまなのだと言っていたが、ぷらずまと言われても、みそのにはよくわからなかった。ただ、水の如き流れからでも、相反する火を生み出すことができるとは、みそのもさすがに驚いたものだ。みそのがその驚きを話すと、神は笑って答えたのだ――
 水とは、すべてを生み出すものだと。

 ごおっ、と倉庫の裏手が燃え上がった。みそのの視線と力を浴びて、空気の流れが火を呼び、古いドアを焼き尽くし、部屋の中に張り巡らされていた糸を燃やし尽くした。
 みそのは火の息吹を流れとして操り、たちどころに止めてみせた。
 流れから生まれた赤と橙の炎は消え、みそのはしずしずと歩いて、倉庫の裏の部屋に入った。
 だが――御国将と、嘉島刑事の姿はなかった。
 そこに佇んでいるのは、みそのよりもはるかに大きな体躯のいきものだった。蜘蛛だ。みそのには、8つの脚と88の紅い眼を持つ異形としか認識できなかったが。
 みそのは微笑み、蜘蛛の眼を覗きこんだ。
 驚くべきことだろうか、
 88の眼には知性があって、苛立ちを支配しているようだった。多くの流れもまた、蜘蛛の大いなる意思によって統括されている。
「貴方様が、平様でいらっしゃいますね」
『そうかもしれん』
 かさこそと蜘蛛が動いて、囁いた。
 いや、蜘蛛が言葉を話したわけではないようだ。
 みそのの視線は、自然と蜘蛛の足元に向けられた。
『タイラー・ダーデンは――わたしのその、平という名前の由来になるが――すべてを棄てて初めて人間は自由になれると、名言を遺した。だが、タイラー・ダーデンはどこにも存在してはいないのだ。はじめからどこにもいなかったし、最期を迎えてもどこにも行かなかった』
 蜘蛛の影が――
 すう、と盛り上がり――
 真っ黒な人間のかたちを取ると、電源が入ったままのノートパソコンの前に音もなく移動した。
『かつてネットの中でのみ、私は平だった。タイラー・ダーデンを抱えた名無しの主人公だったのさ。「世界」に囚われるまでは』
「……将様と刑事様を、蟲になってしまった人々を……帰していただきたいのです。最後まで、お話を聞かなければなりませんの」
『私に言われても困るな』
「平様が、あの脚の多いひとびとをお集めになったのでしょう?」
『ほう、あれが「ひと」だとわかるのか。……私は仲介役を買って出ただけだ。世界が望んだのだ……この世を呪う蠱毒を作り上げることを』
 影は慣れた手つきでマウスとキーボードを駆り、ゴーストネットOFFに代表されるオカルトサイトをまわっていく。
 すべてのサイトから、すでにムシの噂は消え失せていた。ログはきっと、半永久的に残る。おそらく、人間の記憶の中にも残るだろう。
 だが、すべては過去のものになっていた。
『蟲は集めた。蟲は単純な生命体だ。餌で誘い出すのは簡単なことだ。集まった蟲が何を為すかは、蟲に任せておいた。倉庫の中がどんなことになっているかは見たのだろう? あれが生命そのものの出した答えだ。――呪いだよ』
 影はムシの噂が消えたことに満足したようだった。パソコンから離れ、すうと縮み、蜘蛛の足元に戻っていった。
『最後の1匹は、すべての蟲の想いと呪いを背負う。脳はただひとつの衝動で満たされるはずだ。ひどい苛立ちの矛先を、苛立ちの大きさに見合った規模のものに向けずにはいられなくなるだろう。それこそが――蠱毒だ』
「コドク……」
 みそのは記憶の糸を手繰り寄せた。
 愛する神が話してくれた、ぞっとしない話の中にあったような気がする。
 毒虫をひとつの壷に閉じ込めて、最後の一匹になるまで戦わせる。生き残った虫は、強い生への執着心と、今までに喰った虫の業を負う。その強い念でもって、人や家を呪う術が、東洋にはあるのだと。
「平様は、どなたを呪われるのですか」
『ふむ』
「蠱毒は、呪いだと聞きますわ」
『呪うのは、わたしではない。意思も感情も存在も持たぬ、大いなる「世界」だ』
「それは一体、どなたでしょうか」
『誰でもない。そして、呪われるものもまた、最後の一匹の思いひとつで変わるだろう』
 それを聞いて、みそのは息を呑む。
 ――もし御方様が呪われてしまったら。
 みそのは身震いした。考えてはならないことだった。


 平はかつて、平という名前ではなかったし、蜘蛛でもなかったし、影でもなかった。
 ある人物の影が蜘蛛であり、平だったのだ。
 それがある日、くるりと反転してしまった。
 それが始まりだったのだろうか?
 そこから始まったのか?
 ――きっと、違う。
 おそらく、人間が自然の流れを拒絶したそのときから始まっていたのだ。
 いまのみそのの脳裏に浮かぶのは、御国将とウラガのことだった。
 もし将がこの『会合』を蹴ったとしても、いつかはきっと、影になってしまっていたのではないか。ウラガがこの世に現れて、将という存在は名無しの語り部になってしまうのだ――


『だが、私が恐れているのは、「蟲」なのだ。倉庫で喰い合っている蟲を見たか。あれは、苛立ちと嫌悪感に食い潰された人間の慣れの果てだ。あの浅ましさと獰猛さを見たか。私はあの蟲たちを見たとき、ぞっとすることを考えたよ。……人間も虫と同じで、衝動だけで生きているのではないかと』
 蜘蛛の刃のような足が、汚れた床をかさこそと踏みしめた。
 88の眼の光が不愉快に瞬き、蜘蛛は胸部と繋がった頭を、ぶんぶんと苛立たしげに打ち振った。
『……私も、私は、ひどい頭痛に苛立っているのだ。この頭痛が消えるのならば、私は、誰かに喰われてしまっても、たった独りになってもいい。この痛みは……私の、衝動だ!』

 蜘蛛が牙を剥いて、みそのに襲いかかった。
 そのとき初めて、88の眼には苛立ちと悪意が満ちた。爪なのか足なのかわからない八つの刃が、床に穴と傷をつける。
「まあ」
 みそのはこまった顔で微笑んだ。
「将様以上に、女性の扱いがよろしくありませんわ」
 蜘蛛も百足も、みそのにとってはどうでもいい存在だった。
 ただ、愛しいものを呪われては困るのだ――
 ふりかかる火の粉を払ったところで、神は咎めないだろう。
 みそのはすうと息を吸いこみ、はあと吐き出した。

 彼女の脚は黒い鱗に覆われた魚の尾びれになった。耳は鰓びれじみたものに、両手は胸びれじみたものに変化した。
 蜘蛛の周りの流れが歪み、加速した。時の流れを速めたのだ。
 蜘蛛の身体は不変だった。みそのが首を傾げた刹那、加速した時の流れはまたしても『火』を生み出した。炎の舌は蜘蛛を舐め、脂の焼ける匂いが部屋を満たす。 
 時を征した大蜘蛛は、たかが火で滅びようとしていた。
 しかし、されど火なのだろうか。
『ああ』
 蜘蛛の影が、長いためいきを漏らした。
『死ぬのだな、わたしは。誰も呪うことなく……』
 蜘蛛は蝋のように溶け、みそのは流れの速さを正した。ツンと耳の中の気圧がおかしくなりそうな、張り詰めた空気が徐々に元に戻っていく。
『頭痛が……治った……』
 火が消え、蜘蛛と影は時空の中に溶けていった。
 影は最期に、奇妙なほど安らかな笑みを浮かべていた。影に顔はなかったが、ものをほとんど目視できないみそのの目に映ったのは、確かに笑顔だったのである。


 そして、最後の蟲が現れる。


 みそのが壁を見やるのと、壁が砕け散ったのはほぼ同時。
 破られた壁の向こうには、広い天井の倉庫がある。壁や天井、放置されたコンテナやドラム缶に、殺戮の爪痕が残っていた。血とはらわたが塗りたくられて、死臭にも似た生臭い悪臭を放っていた。
「……将様」
 みそのは、呆然と呟いた。
 壁を破ったのは巨大な百足だった。みそのの呟きなど、百足が咆哮でかき消してしまっていた。
「いえ……ウラガ様――」
そう、百足がいるのだ――いま倉庫の中には、もたげる鎌首が天井にまで届くほどに膨れ上がったウラガがいる。百足の身体に生じた瘤は、絶えず蠢き、脈動しているようでもあった。ひとつひとつの瘤が、いちいち触覚や脚や頭のかたちをとっているようにも見える。ウラガはすでに百足ではなくなっているのかもしれない。これほどおぞましい姿をした虫はこの世にないはずだ。
 百足はぶくぶくと泡立つ己の身体を、苛立たしげに掻き毟った。鋭い脚先は甲殻すら引き裂き、破れた瘤からだらだらと膿じみたものが流れ出した。
 いや、これは――膿ではない。虫を潰したときに腹から飛び出す、はらわただ。
 平を殺したことで、最後の一匹はウラガになってしまった――みそのはそう考えた。
「将様!」
 だが、将は平や他の蟲とは違う。「おとこのいじ」でウラガを支配していると、みそのはそう認識していた。確かに、将はウラガの前にいて、よろよろとみそのに近づいてきているところだった。
「……海原……」
 彼はみそのに助けを求めようとしたのかもしれない。
「頭が痛――」

 銃声、
 銃声銃声、
 銃声。

 みそのの目の前で、将が倒れた。
 眼鏡が吹き飛び、血が飛び散った。
 将の胸と腹からとめどなく血が流れ出し、将の後ろに立っていた男が、のろのろとみそのを見下ろした。
 嘉島だ。
「話は平に全部聞いた」
 彼はぐったりと疲れた声で、みそのに訴えてきた。
「最後に残ったゴキブリを、御国さんのムカデが喰ったんだ。平は――お嬢ちゃんが殺したんだろう。それでムシは、2匹になった。今俺が1匹撃った。残りは1匹、最後の1匹だ」
 嘉島はまだ銃口から煙が出ている銃を、自分のこめかみに当てた。
「でもこれで、そいつもいなくなる」

 銃声。

 みそのは嘉島の影が揺らめいているのを見ていた。
 嘉島がどさりと力なく倒れると、彼の足元で蠢いていた影は、持ち主と同じ姿に戻った。常識とさだめの通り、影はぴくりとも動かない。
 巨大な百足が咆哮を上げた。だらだらと涎とはらわたを垂れ流し、すべてのものに苛立ちながらも、何かをためらっているかのようにそこに佇んでいる。
 まだ、衝動以外の意識があるのだ。
 それは、蟲に名前をつけて、自分と蟲との間に一線を画していた男が混じっているからだ――蟲は自分の一部ではあるが、これが自分だとは決して認めたくなかった人間が溶けているからだ。
 御国将が、居るからだ。

「将様――」
 みそのは跪いて、将の顔を両手で挟み込み、覗きこんで、呼びかけた。
 将は眠たげに目を開いた。
「つめたい手だな」
 彼の愚痴は、血で遮られた。
「これでいい。俺は誰も呪いたくない――」
 今、噴き出す血の流れを止めても手遅れだろう。将の中でどくどくと脈打つ血管が千切れている。それがどうみゃくと云うものだということを、みそのは知らない。さすがに名前を知っているしんぞうは、まだ動いている。
「もし、ウラガが、苦しんでいたら」
 将は眠たげに目を閉じた。
「海原、殺してやっ……」
 面倒臭そうな台詞は途中で途切れて、言い直されることはなかった。
 みそのは黙って将の身体を抱き寄せた。さらさらと流れる黒髪が将を包み、

 ぐぅるおおおおぉぉぉおおお!

 巨大な泡立つ百足が激しくのたうった。百足の身体に無数の紋様が浮かび上がってははじけ、血と脳漿とはらわたが飛び散った。その紋様は壮年の男や成人したばかりの青年たちの顔であり、まれに意思の強そうな女性も混じっていた。いまの世界を支えている者たちのポートレートだったのだ。どれもが苛立ちと怒りと悪意に歪み、口汚く罵っていた。
 だが――将が意地で支配していた影に過ぎない。
 本体を失ってしまった影は、いつまで存在していけるというか。
「ウラガ様」
 みそのは血で汚れた顔を上げて、深い憐れみの視線を百足に向けた。
「苦しんでおられるのですね」
 そうして彼女は、巨大な蟲に流れる呪詛と怒りの流れを堰き止めた。

 一瞬、ぴたりと百足の何もかもが動きを止め――飛び散る涎と血さえもが、一瞬空中で制止したのである――崩壊した。
 百足の身体がずるりずるりと崩れていき、ぼたぼたと床に落ちていった。どす黒い影が傷口から飛び出し、白い欠片をまといながら、音もなく天へと昇っていく。倉庫の血塗れの天井をすり抜け、きらきらと白い欠片をばら撒きながら――
 床に落ちた百足の欠片は、ぐずぐずと泡立っていたが、やがてそれも染み入るようにして消えていった。
 すべてが昇り沈みこむ頃には、みそのの腕の中の将は、みそのよりも冷たくなっていた。



 思い出すのは、安物の緑茶を飲んでいるあの男だ。
 つまらなさそうな顔と、ふわりとした微笑。
 みそのは岩礁にのぼって、しばらく波間に映る月を見ていた。彼女はひとりでいることを恐れはしなかったが、ひとりになってしまったときのことを考えて、少し肌寒い思いをした。
 だが、誰もひとりにならずに済んだのだ――
「最後に謝るのを忘れてしまいましたわ」
 いや、謝る暇がなかったのだと考えたい。
 彼女は揺れる月に向かって囁いてから、ざぷんと波間に潜っていった。
 深淵と家に向かえば、彼女はひとりではなくなるのである。

 月刊アトラスの『ネットにはびこるムシの噂』特集の連載は、その月で終わった。
 御国将のデスクには、新人記者が座っている。



<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1388/海原・みその/女/13/深淵の巫女】

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               ライター通信
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 モロクっちです。『殺虫衝動・コドク』をお届けします。殺虫衝動というお話はこれで終わりです。みその様のお陰で、ひとつの物語を作ることが出来ました。
 『コドク』はマルチエンディングとなっており、今朝美様のこのラストはかなりのバッドエンドとなっております。みその様のプレイングを考慮した結果こうなりました。うう(泣)。
 みその様の『殺虫衝動』、如何でしたでしょうか。ご満足いただければ、何か心に残るものがあったのであれば、これ以上の喜びはありません。
 それでは、この辺で。
 全話のご参加、有り難うございました!