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■幻想交響曲 5 魔女の夜の宴■

x_chrysalis
【1548】【イヴ・ソマリア】【アイドル歌手兼異世界調査員】
恋人の死の痛手から精神を病み、音楽の世界へ取り込まれてしまった映像作家の救出を依頼された一同。
依頼者の正体は暴いた、映像作家は正気に返った、罪人は裁かれた。
……後は、魔女の狂乱の宴を掻い潜って脱出するのみです。
肝心の映像作家(柾・晴冶)もちゃんと連れて帰って下さいね。
幻想交響曲 5 魔女の夜の宴

【-】

──起きて、晴冶さん。

「──……、」

 柾さん? ──先生、柾さんが、

「……、」

 柾さん、気が付きましたか? 確りして下さい、聞こえますか、大丈夫ですか?

「……千鶴子、」

 心拍数、血圧異常無し、……大丈夫ですね、……あ、柾さん無理しないで。

「……」
──奇妙な、夢を見た。

 白い人間達が消えた廊下から、不快な羽音……蝙蝠……、否、col legno(※弦楽器のボウの、木の棹の部分を弦に叩き付けて効果音を出す奏法)が聴こえる。

「──何考えてるの? 夢なんかじゃないわよ」
 ──入り口に、女が立っていた。……目が見え無い。なんて見苦しい前髪だ。
「……君は……?」
「ZEROよ」
 ──ZERO、と云う女が俺の前にノートパソコンを置き、DVD-Rをスロットに挿入した。
「千鶴子と和馬は?」
「……確りしなさいよ。今から見せてあげる。……あんたには、真実と事の顛末を見届ける義務があるわ」
 ──モニタの中に、映像が再生された。……幻想交響曲。

【5_0ABC】

──樹。

 自分の名前を呼ぶ声が聴こえた時、葛城・樹(かつらぎ・しげる)は最初は気の所為だと思った。
 幻聴にしては妙にリアリティのある声だったのだが、それだけに、樹が良く知っているその声の主が今此処には居ないのは確かだし、──。
 若し、彼がその声を「あの方法」で伝えたのだとしても、謎は残る。
 滅多にそのサイコ能力を自ら行使する事を好まない彼が、敢て電話などではなくそうして自分に呼び掛けて来たとしたら、それは、余程状況が切迫して必要に迫られたからだとしか思えない。

「……ケーナズ……従兄さん?」
 自分以外には誰も居ない、文京区のアパートの部屋で樹は恐る恐る、返事を返してみた。

──樹、聴こえたか、良かった。

 矢張り、空耳などでは無かった。間違い無い、従兄のケーナズがテレパスを介して自分に呼び掛けているのだ。

「従兄さん、一体何事ですか、こんな、──、」

──樹、頼みがある。私だけではなく仲間の命の懸った問題だ。助けて欲しい。

 矢張り尋常では無い。あのケーナズが、自分にこんな風に頼み事をしてくるなど。
 樹は慌てて答えた。

「何ですか、僕に出来る事であれば何でも」

──樹、幻想交響曲のスコアは持っているか?

「幻想交響曲? ベルリオーズの?」

──そうだ。

「勿論、在りますよ」

──それを持ってすぐ来てくれ。お前の助けが必要だ。迎えを寄越した。お前も一度逢っただろう、イヴだ、イヴ・ソマリア、彼女に付いてすぐ来てくれ。

 ケーナズが言葉を切ると同時に、インターホンが「ピンポーン」と鳴った。

【5_1ABDFGHIJ】

 周囲が暗転した一瞬の内に、空気の質量が明らかに重くなった。
 異様な臭気だ。匂い、と云うよりも例えばシンナーのような、神経に来る空気だった。
「……う……、」
 一同に引っ張られながら駆けていた足を止めた柾が、口許を押さえて俯いた。
「大丈夫ですか?」
 医大生、御影・涼(みかげ・りょう)が声を掛けるが、実はこの空気に当ったのは柾一人だけではない。
 涼が既に身体を支えてやっているのは篠原・勝明(しのはら・かつあき)で、先程他でもない涼の為に少々無茶を仕出かして精神が参っている為もあっただろう、顔色が紙のようだ。
「……、」
 無言のまま崩おれそうになった陵・彬(みささぎ・あきら)を草壁・鞍馬(くさかべ・くらま)が慌てて支えた。
「大丈夫か、彬」
「……何て臭気だ」
 俺の知らない間に勝手に無茶するからだ、と鞍馬は腕の中の彬に心の中で呟いた。
「……そんな吐きそうになる程か?」
 つい先刻まではこの中で一番の重体だった筈の倉塚・将之(くらつか・まさゆき)は平気そうだ。
「確かに何か匂うけど……。……何か香水みたいな匂いじゃねえ?」
「麝香ですね」
 将之がけろっとして居られるのは、そう静かに告げたセレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)、彼のお陰である。
「……所で、今回に限ってはもう後が無いので先に相談したいのですが」
 と、セレスティが一同を見渡して告げた。
「……今回に限っては、……ね……、」
 イヴ・ソマリア(いヴ・そまりあ)とケーナズ・ルクセンブルク(けーなず・るくせんぶるく)は苦笑を交わした。
「現実世界への出口の事ですが、……さて、どうでしょうね。当初の話では、ともかく音楽さえ終われば脱出出来る、という事でしたが──」
「その事なら、もう手は打った」
 ケーナズとイヴは一度目配せを交わしてから、余裕のある笑みを浮かべた。
「現実世界の方へ応援を呼んである。……少々確りしない奴だが、音楽に関しては頼りになる」
「そうよ。……これでもう、磔也君だってそうそう簡単に手出しは出来ないわ」
 磔也? ……セレスティは小首を傾いでから、ああ、と直ぐに思い当たったようだ。
「レイ嬢の弟君ですか。……彼の方がレイ嬢より上手だったようですね。……然し、」
 それは頼もしいですね、と麗人は呟き、3人は意味深長な微笑を交わした。
 段々と近づいて来るのがはっきりと分かる麝香の官能的な香り、──この主の好きには、もうさせはしない。
「おーい、柾さん、確りして呉れよ」
「勝明、もう少しの辛抱だから、な? ──もう直ぐ、出られるから。……亮一さんに会えるから」
 傍らでは、病人(?)3人とそれぞれの介抱に忙しい人間の激励が飛び交う。武術の達人にも医大生にも、この状況ではメンタルな部分の面倒までは見切れない。
「彬ぁ、確りしろよ、……頼むから」
 本当に、なんとか頑張って持ち堪えてくれ。──でないと、鞍馬には現実世界への脱出でさえ手放しでは喜べない。彬の帰りを今か今かと待ち構えているだろう、彼の妹の存在を考えれば。

【5_2ABDFGHIJ】

「……来たな。柾さん、離れんなよ」
 突如、周囲に潜んでいたと思しい邪気が盛大に沸き起こった。
「神楽、風鳴!」
 その名を呼んだ将之の広げた両手に、「神楽」、「風鳴」、二振の日本刀が現れた。
「倉塚君、柾は引き受ける、護衛は暫く任せたぞ」
 ケーナズは柾の肩を引き寄せ、イヴと共に後へ退きながら云った。
「……了解」
 ちら、と将之は何か考えのありそうなケーナズを横目に頷いた。
 麝香の匂いが空間を覆った。

 「彼女」の、到着だ。

──la reine !! la reine !! la reine !!

【5_2abdj】

 ケーナズは忙しい。柾と、イヴやセレスティ、このまま妖気に当てられ続けたら気が参ってしまいそうな勝明の周囲にサイコバリアを張り巡らせ、これから重要な事を調べなければならない。
 そんな時に、鞍馬はあのおぞましい千鶴子を前にしてもまだ彬を抱き抱えたままおろおろしている。
 確りしろ、見れば分かるだろうあれは魔女だ、お前の頭でややこしい事が整理出来ないと云うなら現実に戻ってから考えろ、とそんな鞍馬の尻をどやしつけるように引っ叩き、吃驚したような鞍馬が何か喚きかけたのにも構う暇は無く後に残して来た。先程千鶴子の兄に貸した身体が弱っているらしい彬には可哀想だが、二人は敢てサイコバリアの外に残して来た。鞍馬が居るから死にはしないだろうし、多少は辛そうな友人を見たほうが鞍馬も決心が付くだろう。
「勝明君……大丈夫?」
 安全圏、サイコバリアの中でイヴが勝明を気遣う。高揚した妖気に因る異様な臭気が遮断された事で、少年の顔色は大分良くなっていた。
「……大丈夫」
「確りしてね、御影君が頑張ってくれるわ」
 イヴの言葉にサイコバリアの外側を見遣った勝明は、座り込んだ柾に目線を合わせて屈んだケーナズにあれ、と訊ねた。
「陵さん達は……」
 ケーナズは彼らにはバリアを与えていない。
「良いんだ、あれで。多少苦しい目を見れば良い薬になるだろう。何しろ、今奴にきちんと諭している時間は無い」
「……、」
 厳しい人だ。……が、それで良いのかも知れない。ここでまた二人──結局水谷や千鶴子への意見が正反対に分かれたまま決着の着いていないケーナズと鞍馬──が揉め出したら、と想像するだけでも頭痛がぶり返す。
 柾も取り敢えず気分だけは大分ましになったようだ。だが、ケーナズはどうも柾の顔色だけを調べているようでは無い。
 ケーナズは、柾の額に手を当てて目を閉じた。この際、遠慮も躊躇もして居られない。柾の精神の中を探らせて貰う。

──今や神の救いは手垢の付いた神話でしか無い! その神に縋るのが崇高か! 否! 最早人間には芸術しか在らず! 我々はグルックの人間的な理想の体現に今こそ一体となり、……──

「矢張り、妙だ」
 柾からケーナズは手を放した。その事が分かれば、ただでさえ消耗し易い精神力をサイコバリアや、何時戦闘に参加しなければ不可ない時の為に節約する必要がある。
「また現実逃避を始めたのとも違うようだが、……おかしい、何か、妙なものが憑いて居るぞ」
 例え戻れたとしても、柾の精神が妙な具合のまま脱出しては意味が無い。それまでには正常に戻さなければ。
「……少々不信心な意識のようですね」
「……、」
 涼しい顔でそう宣うセレスティを、ケーナズは座った視線で見上げた。
「読めていたなら、早くそうと云え」
「失礼。……所で、現実世界の方の応援は?」
「……、」
 ケーナズはイヴを見遣った。イヴのウィンクが返る。
「到着したわよ☆ ……セレスティさん、でも、それと柾さんのこの状態に、何か?」
「……神への冒涜心も、聖歌には救われるかも知れませんよ」

【5_2xxx】

「……、」 
 磔也は無表情を取り繕ったまま、内心で軽く舌打ちした。
 画面の中では目の前に分身が居る女、──イヴと、エスパーらしいケーナズが柾の精神の中を探っている。

──勘の良い奴らだな。

 仕方ない、──「奴」だけ先に引っ張り出すか。……それにも、本当は柾か水谷の身体を使おうと思っていたが、この分だとあのドイツ人が戻って来たら即効でバレそうだ。
 ……、一旦、記憶媒体に逃がして保存して置くか。
 
 ──それにしても。

「──……こんな所に居たのか、クシレフ」
 どうりでおかしいと思った。水谷みたいなフツーの奴にこんな大それた事が出来たのが。
 ──お前が、煽ったんだろう、その崇高な目的とやらの為に。

【5_2BCE】

「ただいま」

 朝比奈・舞(イヴ・ソマリア)に連れられ、柾宅に到着した樹はコンピュータにAIFF形式で取り込まれた音楽データを音楽ソフトで五線譜に表示したものを先ず見せられた。
 傍らでは舞が、先客と思しいやたらと長身の青年と、妙に色の白い怪し気な雰囲気の少年少女一揃いの3人に樹を紹介していた。
「こちら葛城樹君。ケーナズの従弟なの。音大予備校生なのよね。……音楽をどうにかしてあっても、彼は騙せないわよ、磔也君。樹君、探偵の田沼さん、結城レイさん、それからこのデータを弄った人。一応データは修復したんだけど、まだ何かおかしい所がないか、曲がオリジナルのままなのかを調べて欲しいの」
「……葛城、……ああ、アレキサ──」
 何か云い掛けた少年を、レイが勢い良くはたいて黙らせた。ちら、と樹を伺った彼女はほっと安堵の溜息を吐く。彼が画面に集中していて、聞こえていなかったのが倖いである。
「幻想だ。……ケーナズ従兄さんがスコアを持って来いって云ってたのは、こういう事だったんだ」
 そして樹は持参したベルリオーズ作曲、幻想交響曲の総スコアと、五線譜の画面をスクロールさせながら見比べた。
「5楽章はともかく、この4楽章のコーラス……凄いなあ……。……どうやったらこんな四声体、思い付くんだろう。……ええと、誰がやったんでしたっけ」
「あいつ」
 レイは、既にもう弟ですと紹介するのが厭になって他人行儀に磔也を指差した。
「あなたが作ったんですか? 凄いなあ、教えて貰えませんか、どうやってこんな進行作ったのか」
 作曲の道も考えている樹は思わず、状況も忘れて無邪気に歓声を上げてしまった。
 ちらり、と樹を見上げた──田沼と云いハーフかクォーターらしいこいつと云い、どうして今日はこうも相手を見上げて話してばかり居なければ不可無いのか、先程のアクシデント(※幻想交響曲第4楽章現実世界視点参照)の後でもあり少々不機嫌だった──磔也は低い口調で説明を始めた。
「……フツーだろ。先ずこの楽章の調性がト短調イコール変ロ長調の6度マイナーとして、コーラス部の主題を適当に極めてあとはマイナーコードのメロディッククリシエラインが6度マイナー、6度マイナーシャープファイブ、6度マイナーシックスの往復に最後が6度セブンスから2度マイナーへのドミナントモーション或いは6度マイナーセブンスで終止すれば良い訳だからそのラインを基本にして四声体を造る、後は調判定に従って変ホ長調、変ロ長調、曲全体のダイナミクスに合わせて基本のメロディッククリシエかハーモニークリシエかを使い分けて内声を変化させて行く、或いはトップにテンションノートを付加してその場合は一応不快感を煽りたかった訳だからトニックディミニッシュとか特にアウトサイドのマイナーセブンスシャープファイブシャープイレブンスとかを選、」
「もう良いわよ、何云ってるのか全然分かんない」
 再びレイに頭をはたかれた磔也はようやく言葉を切った。放置して居れば延々と理論講釈を続けそうな勢いで、その肺活量たるや声楽を学んでいる樹でさえ呆気に取られそうなものだった。
 ──この人怖い。樹の血の気がさっと引いた。
 彼がアルバイトをしているジャズ喫茶に出入りするミュージシャンに、たまにこういうタイプが居る。未だジャズは勉強中でダイアトニックコード理論で議論を吹っ掛けられても答えられない樹を相手に、酔った勢いで延々と意味不明な解釈を続ける人間が。──そうした時の彼等は、往々にして何故か怖そうなのだ。
 然も、この高校生の場合加えて異様な殺気を持っている。──容赦の無い程徹底的に厳しいケーナズとは違った意味で、樹は彼を恐れた。

【5_3zero】

「行け行け、倉塚君!」
 何故か、将之に対する時だけレイの声援は熱狂的だ。
「結城さん、将之君好き?」
 にこやかに舞が訊き、レイはうんうん、と頷く。お年頃の女性二人が揃えばこういう話題は盛り上がる。
「……」
 亮一も樹も何とも云いようが無く黙って顔を見合わせていたが、一人、剣呑なのは磔也である。
「……ったく、そこのデカいのが良いだとか二刀流の男が良いとか、どうなんだよこのバカ女」
 口調はともかく、ボキャブラリーの質によって人間の精神状態と云うものは大体推し量れるものだ。
「デカ……、」
 亮一は苦笑いしつつ、まあ、この身長では仕方ないか……、と彼の少年より優に二十数センチは高い視界で納得した。
「えー、今ん所倉塚君かな」
「……へぇ、」
「倉塚君、17よ。あんたと同い年。……なんでこうも違うのかしら」

【5_3BCE】

「煩ぇよ、いい歳した女が年下相手にきゃあきゃあ騒ぎやがって、忍にチクるぞ」
 忍、と聞いた途端にレイの動きがぴたりと止まった。
「……え?」
 磔也は通常通りの思惑有り気な笑みを浮かべた。
「忍、近い内に帰るんだと」
「本当!?」
「巣鴨に新しく出来たユーフォニアハーモニーホールってあるだろ。其処のオペラの柿落としで、忍が弾くらしいぜ」
「忍?」
 亮一はふと引っ掛かる物を感じて「どちら様ですか?」レイに訊ねた。
「結城忍。父なの。葛城君、聞いた事無い? ピアニストなの、主にフランスで活動してるんだけど、コンセルヴァトワールで教えたりもしてたのよ」
 やけにうきうきと彼女は答えた。「そっか、帰るんだ」と呟いて。
「……ああ、彼はピアノを、お父さんに?」
 確かこの不良学生、ピアノをやってるとか。即座に磔也の剣呑な声が帰った。
「冗談云うな、誰が忍のピアノなんか真似るか。……あんなピアノ、俺は認めない」
「生意気云わないのよ、磔也。私に云わせればあんたのピアノなんか、ただ器用に指が回ってるだけに聴こえるわ。薄っぺらい。表現が全然なってない」
「……ユーフォニア?」
 樹は、どちらかと云えばその単語に気を取られた。
 ──何だろう、どこかで聞いた気がする。
 ……が、訊ねようかと見遣った二人は目も当てられない姦しい口喧嘩の攻防でそれ所では無かった。……落ち着いたらゆっくり思い出してみよう。
「Cry now, play later」
「何よそれ」
「ガラミヤンの格言だ、知ら無ェのかよ。パールマンの教師だぞ。先ず技術ありき、今泣いて後で歌え、だ。リストも弾かないようなピアニストがあるか」
「パパだってリストのパガニーニ位簡単に弾けるわ。ただ、解釈がし切れてないって客観的に判断するから引かないだけ。パパのフランス組曲、聴いた? 最高だわ、あんたみたいに何でもかんでも滅茶苦茶な倍音出せば良いって物じゃないのよ」
「舐めんな、俺だってその気になればフツーのフランス組曲位弾ける。それじゃ面白くないだろ」
「フツーと解釈を極めた演奏は違うわ。大体あんた、左手の圧力が普通じゃないのよ。何、あの倍音だらけの長3和音は」
「低弦の長3度は倍音列が響いて当然だ。いいか、先ず66Hzの低弦トを鳴らすとしたら、最初に132Hz、次ぎに198Hz、それから264、330、396、462、528、596、660、726って具合に倍音が響くんだよ、それが長3度のインターバルで同時に鳴ったら、お互いのセブンスの並びがぶつかって不協和音になるのは当たり前だろうが、頭使えこのバカ女」
「それ位知ってるわ。計算すれば分かるじゃない」
「じゃあ一々文句付けんな、大体先ずピアノ弾いてから云え」
「弾けないんじゃないわ、興味無いから弾かないの」
「興味無いならピアノがどうこう云うな」
「そうやって人の揚げ足取るの、あんたの十番目位に厭な所よ。可哀想に、それじゃ彼女も出来ない筈よね」
「興味無ェし、女なんか」
「……男なら、とか云わないでよ、じゃないと私、あんた殺すかも」
「巫山戯んな! 色恋沙汰には興味無ェって事だよ!」
「落ち着いて下さい、二人共」
 流石の亮一も仲裁に出しゃばらない訳には行かない。この二人の姉弟喧嘩、放って置くと現状も忘れてとんでも無い方向に話が飛躍する。
 独身ながらに思春期の少年の保護者の気持が分かってしまう立場にある亮一は、そのピアニストという父親もさぞ苦労しただろう、と苦笑いした。

──このファザコン女。……消してやる、……シェトランなんか。

 舞はふと、部屋の隅で磔也が携帯電話のボタンをひたすら押している事に気付いた。マナーモードにしている辺りが、妙に妖しい。
「ちょっと、何やってるの、磔也君」
「メール」
「誰に。何て」
「学校の友達」
 一人やけに浮かれていたレイは、その声でくるりと弟を振り返った。
「あら驚いた。あんたに友達が居たなんて。……ちょっと見せなさいよ」
 レイは携帯電話を取り上げた。磔也は肩を竦めて大人しく手放す。
 ──然も機種変更してる。何となく口惜しい。カメラは勿論、メモリカードからQickTimeやらJavaScriptまで使える最新機種だ。

「……、」

───────────────
悪いけど、今姉貴に掴まってて
出られないから。また明日、学
校で。

>今からカラオケ行くけど、す
>げー集まり悪くてさー(〃_ _)
>結城行かない?
>池袋のパセラに居るから、暇
>だったら来いよ。
>ってか、来て。m(_ _)m
───────────────

「普通だろ?」
「あんた……何歌うの?」
「行くかよ、カラオケなんか。こういう連中、誰にでも送るんだよ」
「……あ、そ」
「磔也君、カラオケを舐めちゃ不可ないわ。演歌は日本の心よ!」
 イヴは一応、カラオケと演歌の素晴らしさを磔也に説いてみせたがこの不良学生、右の耳から左の耳へ流していると思しい。
 見計らったようなタイミングで、レイの携帯電話が鳴った。投げるように磔也に返し、自分の方に出る。待受画面には、何故か淡い緑色の髪と金色の瞳の壮絶な美少女が映っている。
「はい、ZERO──、……只今取込み中です。届けもの依頼は明日以降再開致しますので、またよろしく」

──……行く訳ないだろ、この俺が莫迦騒ぎなんかに。……俺の関心はグルックのオペラだけだ。今の所。

【5_3ABCDEJ】

──従兄さん、今データをざっとスコアと照合しましたけど、4楽章はともかく5楽章自体に妙な所は無いですよ。

「確かか? 樹、ちゃんと細部まで見てくれ。磔也の事だ、どんなギミックを仕掛けているか分からない。4楽章では酷い目に遭ったんだ」

──大丈夫です。……と云うのも、5楽章のデータは先にこっちに居る探偵さんが元々自分のハードディスクにコピーしていた正常なものと差し換えて呉れていたみたいだから。

──このデータは信用できます。……一応、念には念を。彼、未だ少し不審な言動も見えますし。

 探偵の田沼だろう、穏やかそうな青年の声が樹に続いて請け合った。
「……そうか、それなら信用出来るな。助かった、樹。戻るまでは其処に居てくれるか。未だ、お前の助力が必要になるだろう」

──分かりました。

 涼、鞍馬と彬、将之にも一旦集合してくれるように発信してから一旦テレパスでの交信を断ったケーナズは、話を聞く余裕のある面々、──つまりはサイコバリア内のイヴ、勝明、セレスティそれと一応柾に向けて口を開いた。
「これは賭になる、……樹を信じてやってくれるか」

【5_3BCE】

 再びテレパスを介して交信して来たケーナズが告げた、セレスティの提案はこうだ。
「鐘を合図に、第五楽章のデータを切り離し、葛城さんの歌に繋げる、──『怒りの日』の世界へ彼等を移動させてこちらの世界へ導き、水谷の怨念が産み出した陵千鶴子や怨霊達はそのまま第一楽章へサーチさせた音楽に封じ込める……、」
 亮一は自身のノートパソコンの内臓マイクを確認しながら呟いた。
「出来るの、そんな事」
 レイが身を乗り出し、小莫迦にしたような不良学生の声が響いた。
「出来る訳無ぇだろ、莫迦」
 びく、と樹はその言葉に身を竦めた。
 ──先刻から、そう、イヴに連れられて訳の分からないままに一瞬で移動して来てしまった柾宅の、この部屋に入った時から感じては居たのだ、この、一見妙な所の無さそうな高校生の異様な気配は。
 ……何か、怖い、この人。
 それが、磔也へ対する樹の印象だった。
「出来るわ、樹君の歌なら。ケーナズが請け合ったんだもの、間違いないわよ」
「……、」
 この状況で無ければ、出来ればこんな怖そうな少年とは関わり合いたくない。畏縮し掛かっていた樹は、その舞の言葉にはっと顔を上げた。
──ケーナズ兄さんが? 僕なら出来る、と請け合った?
 一瞬、聞き間違いでは無いかと思った。

 樹は、世界的な声楽家を母に持っている。他人から見れば恵まれた環境であるが、同じく声楽家を志す彼にはその名前が負担だった。
 その事を限界まで気に病み続けた結果、音楽大学の入試を実技試験を前に放棄し、実家を飛び出した樹に対する従兄の態度は厳しかった。

──何と云うザマだ。こんな従弟を持ったとは情けない。
 
 従兄から告げられた、容赦の無い言葉を樹は良く覚えている。樹から見れば、ケーナズは自我を確立し、強い意思を持った立派な従兄だった。自分のように甘い人間など、軽蔑されて当然だと常から思っていた。
 ──その従兄が、自分を信頼する、と云って呉れた?
 
「……やります、僕。絶対に、ケーナズ兄さんや皆さんを元の世界へ戻せるよう、──祈りを込めて歌います」
「樹君、私を忘れないで。私も幻想世界に居るのよ」
 舞がやや拗ねたように云うが、それは無理の無い誤解だ。
 「え?」と改めて画面を覗き込んだ樹は目を見開き、──幻想世界内でケーナズに寄り添っているイヴと、実際に今自分の前に居る、変装して「朝比奈舞」と名乗っているにも関わらず彼女当人であると疑いようのないイヴを見比べて、「えぇぇぇぇ!?」と混乱したように頭を抱えた。
「そう云えば、さっきだって、僕は確かにアパートのドアを開けた筈なのに、この家に繋がってて、……え? え? ……、」
「まあ、その辺の詳しい事情は後でゆっくり」
「……あ、そうだ、──急がなきゃ、鐘が鳴り終わってしまう、」

【5_4ABDFGHIJ】

「君、またキレる気は無いか?」
 涼、鞍馬と彬に続き、将之がケーナズの張ったサイコバリアの中へ入ると、前置きも無くケーナズがそう切り出した。
「はァ?」
 思わず、語尾が跳ね上がった。
「つまりだ、また空間を中から操作しようと思うんだが、それに先立って先刻程度の威力の風を起こせないか」
「いや、……それは、微妙」
 先程の途方途轍も無い強風は、実は制御できない代わりに通常の限界の倍程度の威力を持つ。「さあ、どうぞキレて下さい」と云われて簡単に制御を失う程人間の精神は都合良くは出来ていないし、──そうは云われても。
 あまりに都合の良い頼み事に将之は肩を竦めた。
「そうか。まあ、そうだろうな。では、意図的に起こせる風の範囲は何れ位だ」
「……半径30メートル位かな。強さは範囲を縮小すればそれなりに的を絞れるけど」
「どうだ、それで行けるか?」
 ケーナズが勝明に確認を取る。
「大丈夫……だと思う、」
「勝明、何をする気だ?」
 また何か無茶をしはしないかと涼が鋭く聞き咎めた。
「……干渉するんだ」
「何?」
 ケーナズは将之に説明を続ける。
「大丈夫だ。いいか、良く音に注意してくれ。もうすぐ、鐘が鳴る。重厚な鐘の音の筈だ、教会の鐘をイメージしろ。その鐘を合図に、とにかく範囲も程度も出来る限り最大で疾風を起こして欲しい」
「大丈夫? あんたらは」
「同時に、俺達はこの世界から移動するから。……上手く行けば」
 言葉少なな勝明の後を受け、イヴが説明した。
「つまりね、」
 今、外の世界には亮一や舞の他に、ケーナズの従弟である声楽家の卵の少年が待機して居る。
 即興の演奏をする事でいくらかの霊感を解放できる彼に、鐘を合図に、このまま行けば幻想交響曲内でパラフレーズとして使用されている「怒りの日[Dies Irae]」を歌って貰う。将之の破壊能力、基い強風と勝明の干渉能力を使って、魔女の輪舞を避けて聖歌の世界を通って脱出しようと云う訳だ。
「ややこしいようだけど、メリットもあるのよ。さっきから、ちょっと柾さんの様子がおかしいの。でも、セレスティさんの考えでは、そうしてもじってなんか居ない、ちゃんとした聖歌の世界を通過することでそれも解決されるかも、って」
 ね、とイヴはセレスティを振り返り、微笑んだセレスティは「まあ、救い難い不信心は何とかなるかもしれませんね」と意味深長な事を云った。
「遠慮しなくて良い、何なら先刻よりも強くても構わないぞ。怪我をしてもいつも通りカーニンガム氏が何とかしてくれるだろう」
「無茶苦茶云うよ」
 将之の片方の眉が吊り上がった。
「贅沢云うな。君はそれ位しか役には立たない」
「……そういう事云って意図的にキレさせようとしても、無理」
「そうか」
 矢張りな、とケーナズが肩を竦めた。──が。
「まあ、出来るだけやってみるよ」
 将之は微笑みながら溜息を吐き、そして緊張の現れた表情をしている勝明の肩をぽん、と叩いた。
「やってみるから、お前も頑張れよ。──そう気負わずに。お前なら出来るから、ま、気楽に構えてろよ」
「……、」
 ええ、と口の中で呟いて、勝明は不安気にぎこちない笑みを浮かべた。

【5_4xxx】

──……連中も突拍子も無い事を考えるな。
 まあ、いいか。アレキサンドラ・ルクセンブルクの息子の歌にも興味はあるし、「奴」はメモリカードに逃がしたし。

【5_4BCE】
 
 不意に、不良学生が割り込んで来た。
「居間にピアノがあっただろ、そっちでやると良いぜ」
「結構です。弾けない事は無いけど、歌う方に専念したいから」
 内心の怖れを見抜かれたくない。こういう性質の人間は、相手が恐がっていると分かれば余計に調子に乗って舐めてかかる筈だ。樹は殊更強く断言した。
 ピアノも樹の得意とする所だったが、弾き語りでは絶対に歌の本領を発揮出来ない。そもそも、ポピュラー音楽ならともかく、完璧な発声の求められる声楽に於いてピアノを弾きながら歌うなどという手抜きをする声楽家は居ない。
 が、そんな樹の必死の強がりを嘲笑うように磔也は鼻先で笑った。
「あんたに弾けなんて云って無いさ、──俺が弾いてやるよ」
「……え?」
 あまりに意表を付いた一言に、樹、亮一、舞、レイの間に緊張感が走った。
「あんたさ、幻想舐めて掛かると痛いぜ、幾らか霊感が在るみたいだけど、この無茶苦茶な編成のオーケストラの造り出した音相手にアカペラ一声でライン引こうなんて、無理。先ず音量的に無理。絶対無理」
「やって見せます」
「無理だっつってんだろーが。だから、ささやかながらピアノ伴奏付けてやろうって云ってんだよ」
「──折角だけど、即興を加える積もりですから」
 樹は背筋に緊張を残したまま、目を反らすな、反らすな、と自らに云い聞かせながら答えた。
「良かったな。即興なら俺も得意だ。4楽章のコーラス見ただろ。……それとも、怖い? 俺に伴奏させるのが」
 ニヤ、と磔也が笑った。──既に舐められてる、完璧に。樹は辛うじて後ずさろうとする足を留めた。
「葛城君、駄目よ、そいつの挑発に乗っちゃ。磔也もいい加減にしなさい。あんたに伴奏されちゃ、ソリストが歌えやしないわ」
「黙ってろ、音楽の事なんか何も分かって無い奴は」
「──、」
 レイが口惜しそうに口唇を噛んだのが分かった。話を聞く限り、彼女も音楽知識が皆無と云う訳では無さそうなのだが、この二人の会話には何か裏が在った。
「大体怪しいじゃないの、あんな妨害掛けて来たあんたが急に協力的になるなんて」
「別に結果なんかどうだって良いんだよ、面白けりゃ。楽しそうだしさ、『Dies Irae』の即興で幻想を変奏するなんて」
 磔也の本心は読めない。隙を見て妨害するつもりにも見えるし、単に面白半分に参加したがっているようにも見える。
「樹君、……どうする?」
 イヴは不安を残しつつも彼に訊ねた。
「歌を、あちらの世界へ送るならばその作業はバックアップさせて貰います。──申し訳ないですが、伴奏に就いては音楽が専門外の俺には何も云えません。極めるのは、葛城さんです。……磔也君はあまり信用出来ないので、妙な行動に出ないかどうか、監視はしますが」
「外来種の魚類か、俺は」
 磔也が毒吐くが、完全にそれを無視して受け流し、亮一はノートパソコンを手に樹の答えを待って彼を見詰めた。
「──……、」
 確かに、アカペラでオーケストラ──初演当時、作曲者自身の指示で大胆な人数が組まれ、観客の度胆を抜いた編成の──に対抗するより、ピアノ一台あると無いでは大分話が違う。
 ケーナズが、信用して呉れたのだ。その期待を、些細な怖れから裏切る訳には行かない。
「──じゃあ、お願いしようかな」
「極まりだ」
 レイは念の為に部屋に残り、樹、亮一、舞、磔也はピアノのある居間へノートパソコン一台を持って移動した。

【5_4ab】

「イヴ」
 ケーナズは、彼女の名前を呼びながらその腕を掴んだ。確りと。
「大丈夫よ、私だってちゃんと付いて行くわ」
「……いや」 
 ケーナズはイヴの腕を放さなかった。
「そんなに信用出来ないのかしら、私?」
 悪戯っぽく彼を見上げたイヴに、ケーナズは目を伏せた。
「そうじゃない。……怖いんだ。ここは、魔女の支配する魔界の近く、──君が、その中へ紛れてしまいそうで、見失いそうで怖いんだ」
「大丈夫よ、心配症ね、ケーナズ、──……え?」
 ふわり、と水色の柔らかい髪が風に持ち上がり、小さな彼女の身体はケーナズの腕に収まった。
「私のシンデレラは、自分の手で連れて帰る。──約束しただろう、デートする、と。反故にはさせないぞ」

【5_5zero】

「……、」
 画面を覗き込みながら、──どう考えたって大人しく彼等に協力などするとは思えない磔也の表情と、──厭と云うほど聞いて知っている彼の手に拠るピアノの音を思い出して、レイは「知ーらない、私、どうなっても」と呟いた。
「皆……ちょっと他人を信じ過ぎ」
 世の中には、人間の命だとか感情なんか、本当に何とも思わない人間だって居るのよ。
 居間へ移動した彼等の方を見遣り、レイは舌打ちした。
「知るもんですか、……甘いわよ、皆。甘い。甘過ぎ」

【5_5BCE】

 居間には、確かにアップライトだがピアノがあった。
 磔也は慣れた様子で蓋を開け、樹を振り返った。
「あんた、声域はテノール位か?」
「そうです」
「よし、だったらDモールで良いな?」
 そう云って磔也は一度ニ短調の和声的短音階を弾き、歌い始めのヘ音を鳴らした。
「良いです、それで」
 樹は軽く咳払いして、喉を整えながら頷いた。
 亮一はそんな彼等と樹を見守る舞を横目に、適当な場所に設置したノートパソコンを操作してレコーディングソフトと、その音声をサーバ──幻想世界の中へ転送する準備を進めた。
 ──あとは、「あの鐘の音」を待つだけだ。
「おい」
 磔也がニヤ、と笑いながら樹に声を掛けた。
「何か」
 樹も、内心の恐れを見破られないように毅然とした返事をした。
「多分、その内代理コード使うから。……ディミニッシュ、減和音の事だけどな。あんまりクラシックらしく無い響きになるかも知れないけど、ちゃんと付いて来いよ」
「即興には慣れてますから、心配して貰わなくても」
「樹君に妙な真似したら許さないわよ」
 イヴが磔也の耳許にそう、牽制の言葉を告げた。
「俺がそいつをどう出来るって? 見てみろ、俺の手が今の何処にあるか。鍵盤の上。ピアノ弾く以外に何が出来る?」
「だったら良いけど」
 それでも何かあったら、とイヴは独り言を洩した。「……ケーナズに、お仕置きして貰いますからね」

──Do……Do……So……、
 
 鐘が鳴った。審判の日、「怒りの日」の始まりを告げる鐘が。
 亮一は瞬時にリターンキーを押して、予めスタンバイさせていた操作の実行をした。
 磔也が一先ずは無難に主和音を鳴らした。美しい、とても学生のものとは思えない深みのあるテノールが響き始めた。
「Dies irae, dies illa……」

【5_5xxx】

──「怒りの日」とDの減和音、と聞いてピンと来ない音大生予備校生って云うのも間が抜けてる。これであのルクセンブルクの息子か? それとも、大分怯えてたみたいだから緊張して意識が飛んでたのか、……ま、どっちでもいいか。
 普通に伴奏する訳無いだろ、詰まん無ぇグレゴリオ聖歌なんか。それよりもリストの方が余っ程弾いてて面白い。……多少崩したけどな。
 「死の舞踏[TOTENTANTZ]」、リストがフレスコ画の「死の勝利」からインスピレーションを受けて作曲したらしいとか、そういうバックグラウンドはどうでも良い。リストもいい加減イカれてる。曲り也にも聖歌をこんな気狂いじみた音楽に変奏しちまうんだもんな。そう云やリストって確かベルリオーズのパトロンだったか。
 
 幻想世界の風景が変わった。但し、救いに満ちた神の世界では無く、正反対に骸骨が柩を担いで罷り通る、葬列の場面に。
 その景色は樹の霊感を通して、柾宅の居間に居る亮一と舞にも朧気ながらに見えた。
 だが、まだ二人は気付いて居ない。特定の変奏でこの旋律を奏することに依て、その音楽が現すものが全く変わってしまう事を。
 それが不良学生の、気紛れな悪戯だと気付いたのは、苦し気に喉を押さえて身体を折った樹が歌を止めてからである。

【-】

「……覚えてる」
 この景色。この映像。
 俺は、あの時確かに見た、──骸骨達の葬送の列。柩を覗いた俺は悲鳴を上げた事を覚えている。
 その死体の顔は、俺だった。

【5_5ABDFGHIJ】

「──……どうなってんだよ」
 将之は激痛を訴える腕を、もう一方の手で抑え込みながら呟いた。
 教会式の葬送を思わせる鐘の音が鳴り響き、それを境に音楽を切り離し、外の世界でケーナズの従弟が歌って呉れているという鎮魂歌に繋げる。そこまでは、セレスティの云った通り予定通りだったのは分かる。
 とにかくどうなっても良いから最大の威力で、と意識して風の刃を発生させた際、矢張りと云うか再度と云うか「元気の証拠の怪我(某人曰く)」を負ってしまったのは良い。
 確かに一瞬、魔女の女王を囲む狂乱の景色は断ち消え、周囲は静寂に包まれた。
 だが、続けて響き渡ったどこか不快なうねりを伴った旋律と共に現れたものは、柩を担いだ骸骨の夥しい葬送の列である。これでは第二楽章と対して変わり無い。
「……、」
 全員、「どうする?」と云った感じで、──つい、視線をセレスティに向けていた。
「何が起こった?」
「……ああ、この音楽は……、」
 頬に纏わる白銀色の髪を優雅に払いながら首を傾いだセレスティが呟く。
「『死の舞踏』ですね。……なるほど、リストですか。そういう手も在ったのですね」
「彬、」
 鞍馬が彬を振り返る。
「プチ情報」
 彬は鞍馬に云われる迄もなく、懐から「プチ情報」を引き出し得るメモ帳を取り出してページを繰っていた。
「『死の舞踏』、TOTENTANTZ、フランツ・リスト括弧1811年から1886年括弧閉じる作曲。ローマ・カトリック教会の続誦『Dies Irae』括弧怒りの日括弧閉じるに基づく変奏曲。作曲者は1838年頃、ピサの墓地でフレスコ画の『死の勝利』を見てインスピレーションを受けてこの曲を作曲」
 見事である。勝明が冷めた表情で、それだけの情報を一気に、しかも淡々と読み上げた彬へ拍手を送った。
「どういう事だ、樹、一体何をした」
 ケーナズが苛立ちを隠さず吐き捨てた。
「……樹君じゃない。磔也君が仕組んだのよ」
「磔也が何を」
「伴奏を付けると云い出したの、流石に何も出来ないだろうと思ったら、伴奏一つで『Dies Irae』を全く別の曲に変えちゃったんだわ」
 仕舞ったな、と思いながらイヴが見たままを伝えた。
 「Dies Irae」のパラフレーズによる変奏曲は多数存在する。中には、リストの「死の舞踏」のように救いどころか気狂いじみた音楽も。

【5_6BCE】

「ちょっと、樹君に何をしたの?」
 舞が肩に置いた手を、磔也は片手で振り払った。その間にも左手は低音部で減和音を叩き続けている。
「触んな、音楽を止める気か」
「……、」
 舞は黙って手を引いた。これは賭だ、と云うケーナズの言葉を思い出したのだ。こんな不快極まりない音でも、音楽は音楽である。樹が歌えなくなってしまった今、止める事は決して出来ない。

──不味い、

 矢張り信用すべきではなかった、磔也を。亮一は焦りを覚えながらも冷静な判断力を以て最善策を摸索し、この際仕方無いだろう、とノートパソコンを操作した。
 レコーディングは続けながら別ウィンドウで一旦は切り離して第1楽章へ繋げた第5楽章のデータを呼び出し、幻想世界に繋ぐ。
「……、」
 そしてピアノに歩み寄って、磔也がまだ樹を苦しめ得る音楽をまき散らしているのを見ると蓋に手を掛け、前置きも無しにそれを叩き落とした。
「──、」
 磔也は咄嗟に手を引っ込め、重厚な木の蓋に指の骨が砕かれるのを免れた。
「……危ねェな」
 亮一はふう、とわざとらしい溜息を吐いて両手をひらひらと振りながら、仕方無いな、と云うような嘲笑的な視線を上げた磔也の腕を掴んで立たせた。
「ちょっと、こちらへ。大丈夫ですよ、音楽は元の幻想交響曲をあちらへ繋ぎましたから」
 磔也は流石に抵抗する素振りを見せたが如何せん体格差から来る力の違いはどうにもならない。
 居間に、未だ喉を押さえて蹲っている樹と舞を残して亮一は元の部屋へ磔也を引き摺って行った。

【5_6bc】

「樹君、確りして。樹君は悪くないわ、ごめんね、私が迂闊だったわ。まさか、ピアノ一台であんな事が出来るなんて思わなかったのよ。……全く、こんな時孝が居てくれたら……肝心な時に居ないんだから、」
「……、」
 膝を抱えて蹲った樹には、舞の慈愛に満ちた慰めの言葉も通じない。
 また、肝心な時に歌えなかった。それも、ケーナズや皆の命がかかっている重要な時に、──ケーナズが自分を信じて任せて呉れたのに。
 どうしよう、とほとほと困りきった舞は、ふと磔也を引き摺って行った亮一が残したノートパソコンに目を留めた。まだ、内臓マイクは音を拾い続けている。
 舞は姿勢を正して立ち上がり、呼吸を整えた。
 彼女だって、歌は専門なのだ。樹の歌っていた歌は、既に覚えてしまっている。

「──Dies Irae, dies illa, Solvet saeclum in favilla, Teste David cum Sibylla、」

「……、」
 樹は顔を上げた。見上げた舞は眼鏡を外し、歌手、イヴ・ソマリアとしての顔で片手をすっと持ち上げて歌っている。
 セイレーンの娘の歌うグレゴリオ聖歌の旋律には、壮絶なものがあった。
「……イヴさん……」
「樹君、歌って。私だけじゃ覚束無いわ、この歌を幻想世界へ届ける為には、樹君の歌声も必要なのよ」

【5_6zero】

「莫迦じゃないの、あんた」
 レイはPCの前で頬杖を付いたまま、磔也に向けて呟いた。
「分かったでしょ、あんたのピアノなんか、せいぜい人間一人不快にするだけなのよ。たかがピアノ一台で出来ることなんてその程度よ。だったら、パパみたいに感情を表現出来る演奏した方が良いと思わない?」
「……レイ、ピアノ一台、たかがピアノ一台、って云ったな」
「そうじゃない」
「……アップライトだったからだ。これが、オーケストラピアノだったら、あんな気の弱いテノール歌手なんか簡単に殺れたんだぞ」
 磔也の語調が殺気を帯びた。厭な記憶を掘り起こされて、レイは咄嗟に身構えた。
「オーケストラピアノって何よ、……何企んでるの、磔也」
「その内思い知らせてやる。お前がピアノを甘く見過ぎてるって事を」
「……やめなさいよ、それ以上近づいたら、田沼さん呼ぶから」
「……勝手にしろ」
 磔也は舌打ちして煙草に火を点けた。
 
 幻想世界は、狂乱を極めている。
 無音の画面からも、破滅的な終局へ向かうカデンツァが、──魔女の輪舞と、「Dies Irae」の入り乱れた怒濤のオーケストラのシンフォニーが伺える。

【5_6ABDFGHIJ】

 イヴ曰く、亮一が機転を利かせて呉れたらしい。程なく、骸骨の葬送は消えて元々の幻想交響曲の旋律と場面が現れた。
 少し見ない間に、化け物達は更に狂乱の体を極めており、其処は「魔女の輪舞[Ronde du Sabbat]」の渦中だった。
「仕方無い、結局この連中をどうにかするしか、」
 ケーナズの一言で、戦闘要員、つまりは涼、将之、鞍馬がそれぞれ刀を構えた。

【5_7BCE】

──Dies irae, dies illa,
  Solvet saeclum in favill
  Teste David cum Sibylla 

  Quantus tremor est futurus,
  Quando judex est venturus,
  Cuncta stricte discussurus!

「……これは……、」
 再び居間へ駆け込んだ亮一は、そこで樹と舞が寄り添って手を掲げ、思わず息を呑む程に美しい旋律で聖書に在る続誦を歌い上げているのを聴いた。
「田沼さん、ナイスタイミング☆ 急いで、またこの音声を幻想世界へ繋げて呉れない? オーケストラの音が何、怨霊が何よ。私と樹君の聖歌でなら、幻想世界を浄化して見せるわよ」
 歌を一時中断した舞が莞爾と微笑んだ。
「……ええ、──ええ!」
 亮一は頷き、ノートパソコンを引き寄せると一心にキーボードとトラックパッドを叩き続けた。

【5_7ABDFGHIJ】

 ──斬、──斬!

 将之は既に型も二振りの使い分けも無い。更には、彼の腕から放たれている刃は疾風と入り乱れて区別も無い。
 なり振り構う暇は無い。ともかく、斬るだけ、護るだけだ。柾も、仲間も。
 身体を捻ったと同時に下段から大きく払った「風鳴」の刃が、小気味良い金属音を立てて制止した。
「……、」
 将之の刀にかち合ったのは、涼の『正神丙霊刀・黄天』だ。最早居合いにこだわる暇は無いので、当然抜き身である。
「……、」
 背中合わせに制止した涼と将之は、お互いの肩越しに笑みを浮かべた視線を交わした。
「やるね、あんたも」
「あなたこそ」
 短い静、の間から瞬間、二人は再び動、に転じた。魔女の輪舞の回転が産み出す妖気の渦に、間を斬り開きながら。
 
 鞍馬は問答無用、既に迷う余裕は無く、道を斬り開きながら輪舞の中心の最奥目掛けて駆け抜けた。
 手の中の「雪月花」、目標を認めた鞍馬は掌が痛むまでそれに渾身の力を込めた。
 ──目指すのは、あの魔女、鞍馬や柾や水谷を千鶴子の姿を借りて惑わせたこの世界の女王だ。

──彬、分かって呉れるよな。
 
 俺は、あいつを斬らなきゃ不可ないんだ。この迷いを乗り越える為に。

「……、」
 彬は目を閉じ、自分の精神の波長へと絶えず意識を向けていた。
「……、」
 彬の意図を感知した勝明は、彼をじっと見守る。やがて、彬が目を開いた。──その赤い瞳に、満足気な輝きが宿っている。
「……掴まえられたんですね、……本当の千鶴子さんの意識」
「ああ」
 彬が微笑む。
「良かった」
 ──ぱしゃん、と彬、勝明の耳許に涼やかでありながら鋭い水音が響いた。
「え?」
 驚いて二人が同時に見上げた其処に居たのは、彼の麗人、セレスティである。
 セレスティはそれ自体が清廉な水流のような白銀の髪を揺らめかせ、両手を広げて二人を護るように立っていた。
 彼の腕の間には、鞭のような形態をとった水がきらきらと輝いていた。これが、つい意識を危機感から遠ざけてしまった二人を妖気から護ったのである。
「……危ないですよ。千鶴子嬢の魂が確保出来たのは喜ばしいことです。ですが、今柾氏と対面させてあげる暇は在りませんから、せいぜい彼女を確りと連れて帰ってあげて、恋人の最後の別れは元の世界で」
 あくまで、穏やかな微笑を浮かべつつセレスティは二人の「お子様」を諭す。
「……セレスティさん……」
 あなた、戦えたんじゃないですか。
 勝明の目が座る。勿論、感謝はするが、──一言で云うと、もっと早く云え! だ。
「あまり野蛮な真似はしたく在りませんので、あくまで補助として」
「……、」
 彼には何も云うまい。勝明と彬は顔を見合わせて溜息を交わすに留めた。懸命である。二人とも、頭が良いので。

「イヴ、何をしている、離れるな!」
 ケーナズは、先程からついぞ黙り込んで身動きしないイヴに怒鳴って腕を引き、華奢な肩を抱きかかえた。
「イヴ!」
 聴いているのか、──まさか、人間よりは幻想の世界、魔界へ近い彼女がこの魔女の輪舞へ同調してしまったのでは無いだろうな。
 それだけはさせない、彼女が何と云おうとここに留まらせはしない。
「……君は、連れて帰るぞ」
「……、」
 ケーナズの腕の中で、イヴがすっと顔を上げた。──同時に、腕を高く天へ差し伸べた。

「──Dies Irae, dies illa, Solvet saeclum in favilla, Teste David cum Sibylla、」

 美しい歌声が彼女から発せられた。
「イヴ……、それは……」
 「怒りの日[Dies Irae]」だ。最早、その神聖さはただのセイレーンの歌声に留まらない。そして、この狂乱の世界を鎮めながら幻想世界に響き渡った歌声は、イヴ一人のものだけでは無かった。
 美しい、伸びやかなテノールのハーモニーが重なる。
「……樹、」
 ケーナズは、イヴの瞳に映った従弟の姿を認めて呟いた。恐らくは、現実世界の舞の視点と同調している彼女の瞳の中に。

 魔女の輪舞は、溶けるように流れ落ちて行った。
 ──視界が、ホワイトアウトする。
 来た時と、同じように。然し、ずっと輝かしく、荘厳に。

【end】

 白くぼんやりした視界にひらひらと羽のような物が舞って居た。──が、暫くして目が光に慣れると、その正体が羽などと云うロマンチックな物ではない事が判明する。それはロマンの欠片も無い物質、──一万円札である。

──何?

 未だ違和感の消えない身体に戻った精神は、俄には何故周囲に大量の万札が舞っているのかが理解出来なかった。

「報酬よ、柾晴冶生還、君達の勝ち」

 レイが朗々と云い放った言葉を聞いても今一つピンと来ない。──当然、彼等はレイと磔也が彼等を駒に、勝手に柾の生還を賭けて居た事など知る由も無いのである。

「……今一つぱっとしないわよね」
 実は、一度やってみたかったのだ、大量の万札をばらまくと云う行為を。気持ちは良いが、如何せん数十枚では派手さに欠ける。レイは腕を組み、ふむ、と唸った。
「ちょっと磔也、あんたもう少し位持ってんじゃないの?」
「何でだよ。全額渡しただろうが」
 レイは傍らの、イヴを除く幻想世界内に居た彼等には見覚えの無い少年に取り立て紛いの事をしている。
「嘘ばっかり。迷惑料よ、今あるだけ出しなさい」
 仕方無ぇなあ、と少年は大して執着も無さそうに高校のものらしい制服のポケットから無造作に折畳んだ札束を出し、レイに倣って天井向けて放り投げた。
 迷惑料……。……と云うことは……。
 少年を見遣りつつ、目配せを交わしている一同にイヴが、やけに愛想の良い口調で告げた。
「彼、結城磔也君。第4楽章の時に紹介したわよね、『外から幻想内を引っ掻き回して呉れた第三者』」
「……、」

 レイはケーナズの指示に従い、都内の某病院へ携帯から電話を掛けた。執着こいようだが、待ち受け画面は何故か淡い緑色の髪と金色の瞳の壮絶な美(魔法)少女である。
「……すぐ救急車回すって」
 ケーナズは伊達眼鏡を掛けながら頷いた。幻想世界の中とは人が変わったように穏やかな態度に変じた彼の、先ず最初の心配事は柾と水谷の身体だった。
 水谷は勿論抜け殻と化している。柾は、彼等が無事精神を連れ戻したが、元々ここ数日はあの装置の中に居て飲まず喰わずだった為、脱水症状も見え、身体が衰弱し切っていた。目覚めた彼には辛うじて意識があったが、応急処置が必要だ。
 病院では、先ず説明が求められる。何故、と訊かれても本当の所は説明の仕様が無いので、製薬会社研究員であるケーナズがコネのある病院を指定したのだ。
「柾さん、」
 救急車の到着を待つ間、涼と将之が身体を支えている柾の許へ、勝明がす、と進み出た。彼に向き合った勝明が指したのは、水谷の抜け殻だ。
「水谷さんの事は、柾さんに任せます。……意識は幻想世界の中だから、もう戻っては来れないと思うけど、──柾さんは、どうしたいですか?」
 レイが口許を押さえた。──何という事を云うのだろう。
「莫迦、煽るんじゃないわよ」
 慌てて牽制するが、勝明は怯まずに真摯な瞳で柾の答を待っている。
 ある程度常識に慣れた大人の年齢になれば、「まあもう植物状態確定だから、それでいいじゃないか」と流してしまう所だ。が、純粋な少年にはそんなぬるま湯は通用しない。
「今回の事は、柾さんの心の弱さが引き起こした事でもあるんだ。……これは、柾さんが極めるべき事」
「殺れ殺れ、」
 磔也が面白そうに横槍を入れた。
「黙りなさい磔也、勝明君もよ、柾さんを犯罪者にしたいの? 水谷は裁けなくても、柾が水谷を殺しちゃったら罪になるのよ、法律では」
「法律なんか、……」
「まあまあ、君達」
 ケーナズが穏やかに仲裁に入った。
「気持は分かるが、柾だって身体が弱り切っている。手当てが先だ。……ほら、救急車が来た」
 彼の言葉通り、階下の道路にサイレンが幽かに聴こえた。
「すみません、……勝明!」
 亮一が慌てて勝明を引き寄せ、両肩を抱いて頭を下げる。

 程なく、二台の担架が柾と水谷を連れて行った。

【end_ABC】

「樹」
 ケーナズは樹を呼び止めた。──喉元まで、「良くやった」と云う言葉が出そうになったが、そこは何とか押し止めた。この従弟に甘い言葉を掛けては不可ない。……磔也に苛められたようだが、仇は取ってやった事だ。
 樹が顔を上げてから、別の話題を口に出した。
「幻想世界の中で、引っ掛かった事があったのだが」
 ケーナズは、一瞬柾の精神に見えた、例の演説めいた言葉を復誦した。
「心当たりは無いか?」
「……あ、」
 そこで樹は思い出した、先程、磔也が口にして気になっていた単語を。
「ユーフォニア……そうだ、どうして気になっていたか分かった。ベルリオーズだ」
 樹は、以前ベルリオーズに関する研究書を読んだ事がある。その中で、ベルリオーズが「音楽都市、ユーフォニア」という小説を書いていた事を知っていたのである。
「どういう内容だ、それは」
「はっきりとは覚えて無いんですけど、……スプラッタ系の小説だと思いますよ。『Les Soirees de l'orchestre』、邦訳すれば『オーケストラの夜話』って著書の中の一編らしいです。ただ、この本は日本語では出版されてませんし、フランスでも既に絶版扱いみたいで詳しい所は知れないんです。……リストとか、ヴァーグナーとか、メンデルスゾーンとか……ベルリオーズと同時代の作曲家は、関係も結構複雑で、その辺りの私情も大分絡んだ小説みたいな評価がしてありましたけど」
「……たまたま、か……? 幻想交響曲の世界の中に、ベルリオーズの思想が紛れ込んでいた……」
 ──それにしても、まだ引っ掛かるが……。眉をしかめて思案に耽るケーナズの肩に、突如イヴが飛びついた。
「大丈夫よ、柾さんなら私と樹君の歌で救いを与えたもの☆ それよりケーナズ、そんな難しい顔してないで、……約束、覚えてるわよね?」
 ああ、とケーナズは顔を綻ばせて苦笑した。
「勿論、そんな身に余る光栄を忘れる訳は無いだろう。……今度、東京観光に連れて行こう」
「本当よ!」
 微笑ましく、傍目にも麗しいドイツ人の青年とアイドルの恋人同士はようやく落ち着いた空間の中で笑みを交わした。

【end_zero】

 レイは部屋中に散らばった万札を拾い集めるのに手間取っていた。非常に面倒で空しくなって来る作業だが、自らが撒いた種ならぬ紙幣なので仕方が無い。
「……60、2、4、6、8、70、1、2……こんなもんかな」
 そして部屋に残った頭数を数え、等分して配りに掛かった。

【end_xxx】

 柾宅から撤収の道中。
 ──何でこいつと肩並べて帰らなきゃ不可ないのよ、私が! と不機嫌極まりないレイの顔に書いてあったが、帰り道が同じなので仕方ない。
 涼が一発ひっぱたいて呉れたのにはすかっとしたが、結局、全然堪えた様子も無いし。
 ──その後の「ちょっとしたアクシデント」には大分精神的なダメージを負ったらしいが、その事件がショッキングだったのはレイも同じなのである。
 不良学生の手の中でライターが火を吹く音がした。レイは素早くその手から煙草を取り上げる。
「私の傍で吸わないで。大体、行儀悪い、歩き煙草なんて」
「お前が行儀の事を云えるクチか」
「……、」
 口の減らない奴。──所で。
「あんた、何であんなにお金持ってたのよ。水谷の報酬にしては多過ぎるわ。……貯めてたわね。……云いなさいよ、何企んでたの? 何の為の軍資金?」
「……、」
 ニヤ、と少年は思惑有り気に口唇の端を吊り上げた。
「……オペラの公演ってのは金が掛かるんだよ」

【-zero】

 ──幻想交響曲、……ヘクトール・ベルリオーズの夢。……否、

「……これは、……俺の幻か?」

 ──千鶴子の旋律が聴こえない、col legnoが頭に響く。

「……未だ、悪影響が残ってるみたいね。仕方ないな。彼等を呼ぶしか無いか」

【-ABC】

「柾さん、こっちよ」
 病院のエントランスを出た柾は、涼やかに響きわたった少女の自分を呼ぶ声に驚いて顔を上げた。
 見れば、茶色い髪を二つに括った野暮ったい身装の少女と、前髪に一筋、白銀色の走った端正な少年が黒塗りの高級車の前で手を振っている。
「……、」
 訝りながらも柾は彼等に歩み寄り、首を傾いだ。
「君は?」
 私よ、と少女が悪戯っぽい笑みをうかべて眼鏡を外した。柾の目が驚きに開く。
「……イヴ……ソマリア、……何故」
「冷たいのね、幻想世界で逢ったの、覚えてない?」
「……、」
「イヴさん、混乱させちゃ駄目ですよ、柾さん病み上がりなんだから」
 僕だってあの時は大分混乱したんですから、と樹は苦笑する。
「あ、そうよね、ごめんなさいね☆ まあ、そういう訳で詳しい事は追々話すから、取り敢えず乗って、柾さん」
「……乗るって、……どこへ」
 ──俺には、もう行く所は無いんだ。
「極まってるじゃない、柾さんの新しい就職先よ」
「就職?」
 二人へ車内へ押し込まれながらも、柾はまだ戸惑って瞬きを繰り返した。
「……退院おめでとう、祝福する、柾君」
 柾がイヴと樹に挟まれて後部シートに収まると同時に、助手席から声がした。
 にやり、と笑みを浮かべて振り返ったのは、金髪碧眼の美丈夫ながらに、よく似合う眼鏡を掛けたのが穏やかそうな青年、ケーナズだ。
「……?」
 柾の混乱は深まる一方だ。
「柾さん、辛かったでしょうけど、このままぼんやりしてちゃ不可ないわ。今回の事は、一生柾さんが抱えて行かなくてはならない痛みでしょうけど……仕事に打ち込む事で、忘れられる事もあるわ。取り敢えず、柾さんの才能を存分に発揮できる会社に就職しなきゃ。安心して、私と同じ事務所だから。うちの社長は私みたいな存在を平然と受入れる稀有の人なの☆」
「……はあ、……」
「及ばずながら、僕に出来る事があれば協力もしますし。とにかく、今度会うまでには一曲仕上げて楽譜に起して、柾さんにプレゼントします。……柾さんの力になるような曲を。柾さん、頑張って下さい。僕、柾さんの映像のファンになっちゃったんですよ」
 無邪気に笑顔を見せる樹を示し、ケーナズは最後に一言釘を刺した。
「君はこれからは、自分の力でやって行くんだ。その為ならば私達も協力はしよう。……但し、専属の女優が居ないからと云って、イヴに付き纏うのだけはお断りする。その代わり、彼は自由に使うが良い」
 樹は、映像作家の気に入らない訳のない美しい笑顔を柾に向けている。──ケーナズの言葉の意図が、柾がイヴに執着するのを回避する為に自分を生け贄として差し出す事に在るとは気付きもしないで。
「さ、忙しくなるわ☆ 柾さんだもの、マネージャーには見目きれいで優秀な人を探さなきゃ。あと、カウンセラーも必要よね。柾さんにはまた私の映像も撮って貰わなきゃ。……先ずは事務所へ行くわよ☆ 応仁守さんに紹介するわ」
 柾と、彼等を乗せた黒い車体は応仁グループ傘下の音楽事務所へ向けて発進した。

【-xxx】

「寝てる場合じゃ無ぇぞ、このグズ」
 ──起きろ。
「いくら待ったってな、お前の精神は戻って来やし無ェんだよ。──だから」
 少年は点滴と人工呼吸器に繋がれた植物状態の彼の両耳に、イヤホンを差し込んだ。
「……感謝しろよ、燃え無いゴミになる所だったお前の身体、俺が有効活用してやるんだ」
 ──お前の肉体なんか何の役にも立ちやし無いが、『奴』には遣って貰う事がある。
 イヤホンの端子が接続されたmp3プレイヤーに、メモリカードが挿入された。
 彼の耳から漏れるざわめきの中に、ある旋律、──「Dies Irae」が聴こえる。
「……起きろ、クシレフ」 
 
 ──音が、ざわめきのように籠った反響をする病院の廊下、最奥の娯楽室から幽かにメンデルスゾーンのピアノ奇想曲が漏れる。

──甘いな、レイ。
「……わざわざ、あれだけガードの堅い柾を狙う訳無いだろ、この俺が」
 鍵盤から顔を上げた磔也がニヤ、と笑ったのが黒いピアノの蓋に映った。その向こうにはぼんやりと佇んでいる人影が見える。
 ──水谷和馬。

「……」
 磔也は、彼の死人のように生気の無い目に向かって微笑み掛けながら、鍵盤を叩き続けた。
 メンデルスゾーンの奇想曲は変奏され、段々と「Dies Irae」の旋律がはっきりと形を現した。
「……、」

──ユートピア国家の理想は軍部と専制政府の完全なる支配下に因ってこそ実現され、それでこそ研究に於ける完全なる秩序とその研究を通じて芸術が目指す素晴らしい成果が保証されるというものである……、

「……、」
 水谷の死んだ魚のような瞳に、不意に一条のギラギラとした光が差した。
 そこで磔也は演奏を止め、立ち上がって娯楽室を出た。入口に立っていた水谷と擦れ違い様、その肩に軽く手を置く。

「──お早う、クシレフ」

 ──彼等が幻想世界から脱出して一週間後、都内の某病院から意識の無い筈の入院患者が一人、行方不明になった。

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幻想交響曲 Phantastische Symphonie Op.14
作曲:Hector BERLIOZ (1803-1869)
作曲年:1830

「病的な感受性と、はげしい想像力を持った若い芸術家が、恋の悩みから絶望して阿片自殺を計る。しかし服用量が少なすぎて死に至らず、奇怪な一連の幻夢を見る。その中に恋する女性は、一つの旋律として表れる──」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵】
【0932 / 篠原・勝明 / 男 / 15 / 学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1555 / 倉塚・将之 / 男 / 17 / 高校生兼怪奇専門の何でも屋】
【1712 / 陵・彬 / 男 / 19 / 大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】

NPC
【1630(NPC0199) / 結城・磔也 / 男 / 17 / 高校生】
【1889(NPC0198) / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【水谷・和馬(みずたに・かずま)】
・今回の依頼人にして元凶らしい。アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵。御愁傷様です。
【柾・晴冶(まさき・はるや)】
・新進の若手として注目を集めていた映像作家。どうも、厄介な事に見舞われ易い問題青年らしい。
【陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)】
・一ヶ月程前に轢逃げに拠り死亡。柾の元恋人で舞台女優。今回の件は彼女の怨念が引き起こした物と見られていたが、本当の彼女はただ柾を心配していた模様。
【陵・修一(みささぎ・しゅういち)】
・陵千鶴子の5つ違いの兄。千鶴子殺害の犯人に見当を付けており、草間興信所に依頼に行った。総帥、お世話になります。

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■         ライター通信          ■
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大変お待たせしました。皆様の協力を得て進めて参りました、幻想交響曲シリーズ最終章、お届けします。

不安ながらに開始した連載でしたが、結果的に第1楽章からの7名様、第2楽章からの追加1名様、草間興信所から加勢して下さった1名様が最終まで連投して下さる結果となり、全く驚きが隠せません。
皆様、長い間本当に有難うございました。

幻想交響曲シリーズはこれにて終了です。
……が、悪意は連鎖します。
その悪意が今度動きだした時には磔也も便乗しそうです。
どこかで何かが起こった際に皆様の再びの助力頂ければ倖いです。

■ イヴ・ソマリア様

そして、舞様。お疲れさまでした。
特にソマリア嬢のPL様はノベルを読む事自体が大変だったのではないかと……申し訳無く思っております。
情報屋が彼方此方でお目に掛かっているようですが、また適当に構って頂ければ喜びます。今後ともよろしくお願い致します。
最後になりますが、今回の御参加、心より御礼申し上げます。

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