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■幻想交響曲 5 魔女の夜の宴■

x_chrysalis
【0931】【田沼・亮一】【探偵所所長】
恋人の死の痛手から精神を病み、音楽の世界へ取り込まれてしまった映像作家の救出を依頼された一同。
依頼者の正体は暴いた、映像作家は正気に返った、罪人は裁かれた。
……後は、魔女の狂乱の宴を掻い潜って脱出するのみです。
肝心の映像作家(柾・晴冶)もちゃんと連れて帰って下さいね。
幻想交響曲 5 魔女の夜の宴

【-】

──起きて、晴冶さん。

「──……、」

 柾さん? ──先生、柾さんが、

「……、」

 柾さん、気が付きましたか? 確りして下さい、聞こえますか、大丈夫ですか?

「……千鶴子、」

 心拍数、血圧異常無し、……大丈夫ですね、……あ、柾さん無理しないで。

「……」
──奇妙な、夢を見た。

 白い人間達が消えた廊下から、不快な羽音……蝙蝠……、否、col legno(※弦楽器のボウの、木の棹の部分を弦に叩き付けて効果音を出す奏法)が聴こえる。

「──何考えてるの? 夢なんかじゃないわよ」
 ──入り口に、女が立っていた。……目が見え無い。なんて見苦しい前髪だ。
「……君は……?」
「ZEROよ」
 ──ZERO、と云う女が俺の前にノートパソコンを置き、DVD-Rをスロットに挿入した。
「千鶴子と和馬は?」
「……確りしなさいよ。今から見せてあげる。……あんたには、真実と事の顛末を見届ける義務があるわ」
 ──モニタの中に、映像が再生された。……幻想交響曲。

【5_1E】

「──後は、このまま脱出するだけですね」
 田沼・亮一(たぬま・りょういち)は触り気無く画面に視線を向けている、──と見せ掛けて磔也の気配を伺いながら、自然な口調で呟いた。
 水谷と対峙して、一旦草間興信所に戻ってからもずっと「らしく無く」神経を尖らせていた亮一だが、今はもう常からの穏やかな表情と、冷静な判断力を取り戻している。──その、あまりにインパクトの在る……怪奇事件にも程々に慣れては居る積もりの彼にとっても衝撃的な……不慮の事故? ……突発的事件? を目撃してしまったので、頭に登っていた血が一気に冷めたと思しい。
「そうだな」
 さらり、と磔也が相槌を打つ。──引っ掛からなかったか。
 未だ、幻想世界内のデータに手が加えてあればこの愉快犯の事だ、調子に乗って吐くかも知れないと思ってカマを掛けたのだが、頭は悪く無いらしい。
 が、逆に云えば彼が丁寧にも相槌を打った事がそもそも怪しい。矢張り、何か企んでいるのは明らかだ。
 良く考えてみれば、元々が無気味な夜の森のざわめきと蝙蝠の羽音を現す効果音col legno、最後の審判の象徴の鐘の音、グレゴリオ聖歌の旋律と魔女の輪舞が入り乱れて狂乱の宴と化す第5楽章、──木を隠すなら森の中、改竄したデータを分からないように紛れ込ませるには幻想交響曲の中でも最も打って付けの場所だ。この絶好の機会を、この不良学生が放置するか? ──否。
「──ちゃんと連れて帰って呉れれば良いけどな」
 益々怪しい。そんな親切な言葉まで残し、磔也はくるりと背を向けた。亮一は素早くその腕を掴んで引き留めた。
「どちらへ?」
 ぐらり、とわざとらしく仰け反るようにして磔也は振り返る、その身長差実に24センチの亮一を見上げる、という二つの動作を同時に行った。
「……帰んだよ。もういいだろ、幻想世界のデータは元通りにしたんだし」
「もう少し待って頂く訳には行きませんか? そう焦る事も無いでしょう。どの道、あと10分もすれば全て終わるんですし。──本当に、データが正常であれば」
 丁寧な質問形だが、それはイコール命令形である。当然だ。あれだけのデータ改竄をネットカフェでやった磔也なら、目を放した隙にコンピュータは無くとも何を仕出かすか分からない。未だ、帰す訳には行かない。
「……執着こいな。俺の知った事かよ、大体な、元はと云えばこんな訳分かんねぇ世界を造り出したのは水谷だろうが。その中で連中がバケモノと戦ってるのまで俺の所為か? 俺にそんな力が有るように見えんのかよ探偵。──元々がベルリオーズだぜ、知ってるか、この大作曲家先生がどんだけイカれた奴だったか。頭のおかししさで云やあラヴェルと良い勝負なんだぜ」
「そうは云ってませんよ。ただ、それだけに不安要素は一つでも減らしたいですから」
 磔也はこれ見よがしに舌打ちし、かくん、と頭を真直ぐに戻して大人しくなった。
「分かったよ。居りゃあ良いんだろ。──放せよ、あんたと喋ってると首が痛くなる」
 諦めたように首を振った磔也は、低声で「どうでも良いけどあんた、レイに色目使ったら怖いぜ」と亮一には全く身に覚えの無い云い掛かりを、──身長差故に亮一の耳許で囁けないのが口惜しそうに──付けた。

 そう云えば何時の間にか朝比奈舞と孝は姿を消していた。
 某魔法少女は当然かも知れないが、さて舞はどうしたのだろう、と思って居ると──。

【5_2xxx】

「……、」 
 磔也は無表情を取り繕ったまま、内心で軽く舌打ちした。
 画面の中では目の前に分身が居る女、──イヴと、エスパーらしいケーナズが柾の精神の中を探っている。

──勘の良い奴らだな。

 仕方ない、──「奴」だけ先に引っ張り出すか。……それにも、本当は柾か水谷の身体を使おうと思っていたが、この分だとあのドイツ人が戻って来たら即効でバレそうだ。
 ……、一旦、記憶媒体に逃がして保存して置くか。
 
 ──それにしても。

「──……こんな所に居たのか、クシレフ」
 どうりでおかしいと思った。水谷みたいなフツーの奴にこんな大それた事が出来たのが。
 ──お前が、煽ったんだろう、その崇高な目的とやらの為に。

【5_2BCE】

「ただいま」

 朝比奈・舞(イヴ・ソマリア)に連れられ、柾宅に到着した樹はコンピュータにAIFF形式で取り込まれた音楽データを音楽ソフトで五線譜に表示したものを先ず見せられた。
 傍らでは舞が、先客と思しいやたらと長身の青年と、妙に色の白い怪し気な雰囲気の少年少女一揃いの3人に樹を紹介していた。
「こちら葛城樹君。ケーナズの従弟なの。音大予備校生なのよね。……音楽をどうにかしてあっても、彼は騙せないわよ、磔也君。樹君、探偵の田沼さん、結城レイさん、それからこのデータを弄った人。一応データは修復したんだけど、まだ何かおかしい所がないか、曲がオリジナルのままなのかを調べて欲しいの」
「……葛城、……ああ、アレキサ──」
 何か云い掛けた少年を、レイが勢い良くはたいて黙らせた。ちら、と樹を伺った彼女はほっと安堵の溜息を吐く。彼が画面に集中していて、聞こえていなかったのが倖いである。
「幻想だ。……ケーナズ従兄さんがスコアを持って来いって云ってたのは、こういう事だったんだ」
 そして樹は持参したベルリオーズ作曲、幻想交響曲の総スコアと、五線譜の画面をスクロールさせながら見比べた。
「5楽章はともかく、この4楽章のコーラス……凄いなあ……。……どうやったらこんな四声体、思い付くんだろう。……ええと、誰がやったんでしたっけ」
「あいつ」
 レイは、既にもう弟ですと紹介するのが厭になって他人行儀に磔也を指差した。
「あなたが作ったんですか? 凄いなあ、教えて貰えませんか、どうやってこんな進行作ったのか」
 作曲の道も考えている樹は思わず、状況も忘れて無邪気に歓声を上げてしまった。
 ちらり、と樹を見上げた──田沼と云いハーフかクォーターらしいこいつと云い、どうして今日はこうも相手を見上げて話してばかり居なければ不可無いのか、先程のアクシデント(※幻想交響曲第4楽章現実世界視点参照)の後でもあり少々不機嫌だった──磔也は低い口調で説明を始めた。
「……フツーだろ。先ずこの楽章の調性がト短調イコール変ロ長調の6度マイナーとして、コーラス部の主題を適当に極めてあとはマイナーコードのメロディッククリシエラインが6度マイナー、6度マイナーシャープファイブ、6度マイナーシックスの往復に最後が6度セブンスから2度マイナーへのドミナントモーション或いは6度マイナーセブンスで終止すれば良い訳だからそのラインを基本にして四声体を造る、後は調判定に従って変ホ長調、変ロ長調、曲全体のダイナミクスに合わせて基本のメロディッククリシエかハーモニークリシエかを使い分けて内声を変化させて行く、或いはトップにテンションノートを付加してその場合は一応不快感を煽りたかった訳だからトニックディミニッシュとか特にアウトサイドのマイナーセブンスシャープファイブシャープイレブンスとかを選、」
「もう良いわよ、何云ってるのか全然分かんない」
 再びレイに頭をはたかれた磔也はようやく言葉を切った。放置して居れば延々と理論講釈を続けそうな勢いで、その肺活量たるや声楽を学んでいる樹でさえ呆気に取られそうなものだった。
 ──この人怖い。樹の血の気がさっと引いた。
 彼がアルバイトをしているジャズ喫茶に出入りするミュージシャンに、たまにこういうタイプが居る。未だジャズは勉強中でダイアトニックコード理論で議論を吹っ掛けられても答えられない樹を相手に、酔った勢いで延々と意味不明な解釈を続ける人間が。──そうした時の彼等は、往々にして何故か怖そうなのだ。
 然も、この高校生の場合加えて異様な殺気を持っている。──容赦の無い程徹底的に厳しいケーナズとは違った意味で、樹は彼を恐れた。

【5_3zero】

「行け行け、倉塚君!」
 何故か、将之に対する時だけレイの声援は熱狂的だ。
「結城さん、将之君好き?」
 にこやかに舞が訊き、レイはうんうん、と頷く。お年頃の女性二人が揃えばこういう話題は盛り上がる。
「……」
 亮一も樹も何とも云いようが無く黙って顔を見合わせていたが、一人、剣呑なのは磔也である。
「……ったく、そこのデカいのが良いだとか二刀流の男が良いとか、どうなんだよこのバカ女」
 口調はともかく、ボキャブラリーの質によって人間の精神状態と云うものは大体推し量れるものだ。
「デカ……、」
 亮一は苦笑いしつつ、まあ、この身長では仕方ないか……、と彼の少年より優に二十数センチは高い視界で納得した。
「えー、今ん所倉塚君かな」
「……へぇ、」
「倉塚君、17よ。あんたと同い年。……なんでこうも違うのかしら」

【5_3BCE】

「煩ぇよ、いい歳した女が年下相手にきゃあきゃあ騒ぎやがって、忍にチクるぞ」
 忍、と聞いた途端にレイの動きがぴたりと止まった。
「……え?」
 磔也は通常通りの思惑有り気な笑みを浮かべた。
「忍、近い内に帰るんだと」
「本当!?」
「巣鴨に新しく出来たユーフォニアハーモニーホールってあるだろ。其処のオペラの柿落としで、忍が弾くらしいぜ」
「忍?」
 亮一はふと引っ掛かる物を感じて「どちら様ですか?」レイに訊ねた。
「結城忍。父なの。葛城君、聞いた事無い? ピアニストなの、主にフランスで活動してるんだけど、コンセルヴァトワールで教えたりもしてたのよ」
 やけにうきうきと彼女は答えた。「そっか、帰るんだ」と呟いて。
「……ああ、彼はピアノを、お父さんに?」
 確かこの不良学生、ピアノをやってるとか。即座に磔也の剣呑な声が帰った。
「冗談云うな、誰が忍のピアノなんか真似るか。……あんなピアノ、俺は認めない」
「生意気云わないのよ、磔也。私に云わせればあんたのピアノなんか、ただ器用に指が回ってるだけに聴こえるわ。薄っぺらい。表現が全然なってない」
「……ユーフォニア?」
 樹は、どちらかと云えばその単語に気を取られた。
 ──何だろう、どこかで聞いた気がする。
 ……が、訊ねようかと見遣った二人は目も当てられない姦しい口喧嘩の攻防でそれ所では無かった。……落ち着いたらゆっくり思い出してみよう。
「Cry now, play later」
「何よそれ」
「ガラミヤンの格言だ、知ら無ェのかよ。パールマンの教師だぞ。先ず技術ありき、今泣いて後で歌え、だ。リストも弾かないようなピアニストがあるか」
「パパだってリストのパガニーニ位簡単に弾けるわ。ただ、解釈がし切れてないって客観的に判断するから引かないだけ。パパのフランス組曲、聴いた? 最高だわ、あんたみたいに何でもかんでも滅茶苦茶な倍音出せば良いって物じゃないのよ」
「舐めんな、俺だってその気になればフツーのフランス組曲位弾ける。それじゃ面白くないだろ」
「フツーと解釈を極めた演奏は違うわ。大体あんた、左手の圧力が普通じゃないのよ。何、あの倍音だらけの長3和音は」
「低弦の長3度は倍音列が響いて当然だ。いいか、先ず66Hzの低弦トを鳴らすとしたら、最初に132Hz、次ぎに198Hz、それから264、330、396、462、528、596、660、726って具合に倍音が響くんだよ、それが長3度のインターバルで同時に鳴ったら、お互いのセブンスの並びがぶつかって不協和音になるのは当たり前だろうが、頭使えこのバカ女」
「それ位知ってるわ。計算すれば分かるじゃない」
「じゃあ一々文句付けんな、大体先ずピアノ弾いてから云え」
「弾けないんじゃないわ、興味無いから弾かないの」
「興味無いならピアノがどうこう云うな」
「そうやって人の揚げ足取るの、あんたの十番目位に厭な所よ。可哀想に、それじゃ彼女も出来ない筈よね」
「興味無ェし、女なんか」
「……男なら、とか云わないでよ、じゃないと私、あんた殺すかも」
「巫山戯んな! 色恋沙汰には興味無ェって事だよ!」
「落ち着いて下さい、二人共」
 流石の亮一も仲裁に出しゃばらない訳には行かない。この二人の姉弟喧嘩、放って置くと現状も忘れてとんでも無い方向に話が飛躍する。
 独身ながらに思春期の少年の保護者の気持が分かってしまう立場にある亮一は、そのピアニストという父親もさぞ苦労しただろう、と苦笑いした。

──このファザコン女。……消してやる、……シェトランなんか。

 舞はふと、部屋の隅で磔也が携帯電話のボタンをひたすら押している事に気付いた。マナーモードにしている辺りが、妙に妖しい。
「ちょっと、何やってるの、磔也君」
「メール」
「誰に。何て」
「学校の友達」
 一人やけに浮かれていたレイは、その声でくるりと弟を振り返った。
「あら驚いた。あんたに友達が居たなんて。……ちょっと見せなさいよ」
 レイは携帯電話を取り上げた。磔也は肩を竦めて大人しく手放す。
 ──然も機種変更してる。何となく口惜しい。カメラは勿論、メモリカードからQickTimeやらJavaScriptまで使える最新機種だ。

「……、」

───────────────
悪いけど、今姉貴に掴まってて
出られないから。また明日、学
校で。

>今からカラオケ行くけど、す
>げー集まり悪くてさー(〃_ _)
>結城行かない?
>池袋のパセラに居るから、暇
>だったら来いよ。
>ってか、来て。m(_ _)m
───────────────

「普通だろ?」
「あんた……何歌うの?」
「行くかよ、カラオケなんか。こういう連中、誰にでも送るんだよ」
「……あ、そ」
「磔也君、カラオケを舐めちゃ不可ないわ。演歌は日本の心よ!」
 イヴは一応、カラオケと演歌の素晴らしさを磔也に説いてみせたがこの不良学生、右の耳から左の耳へ流していると思しい。
 見計らったようなタイミングで、レイの携帯電話が鳴った。投げるように磔也に返し、自分の方に出る。待受画面には、何故か淡い緑色の髪と金色の瞳の壮絶な美少女が映っている。
「はい、ZERO──、……只今取込み中です。届けもの依頼は明日以降再開致しますので、またよろしく」

──……行く訳ないだろ、この俺が莫迦騒ぎなんかに。……俺の関心はグルックのオペラだけだ。今の所。

【5_3ABCDEJ】

──従兄さん、今データをざっとスコアと照合しましたけど、4楽章はともかく5楽章自体に妙な所は無いですよ。

「確かか? 樹、ちゃんと細部まで見てくれ。磔也の事だ、どんなギミックを仕掛けているか分からない。4楽章では酷い目に遭ったんだ」

──大丈夫です。……と云うのも、5楽章のデータは先にこっちに居る探偵さんが元々自分のハードディスクにコピーしていた正常なものと差し換えて呉れていたみたいだから。

──このデータは信用できます。……一応、念には念を。彼、未だ少し不審な言動も見えますし。

 探偵の田沼だろう、穏やかそうな青年の声が樹に続いて請け合った。
「……そうか、それなら信用出来るな。助かった、樹。戻るまでは其処に居てくれるか。未だ、お前の助力が必要になるだろう」

──分かりました。

 涼、鞍馬と彬、将之にも一旦集合してくれるように発信してから一旦テレパスでの交信を断ったケーナズは、話を聞く余裕のある面々、──つまりはサイコバリア内のイヴ、勝明、セレスティそれと一応柾に向けて口を開いた。
「これは賭になる、……樹を信じてやってくれるか」

【5_3BCE】

 再びテレパスを介して交信して来たケーナズが告げた、セレスティの提案はこうだ。
「鐘を合図に、第五楽章のデータを切り離し、葛城さんの歌に繋げる、──『怒りの日』の世界へ彼等を移動させてこちらの世界へ導き、水谷の怨念が産み出した陵千鶴子や怨霊達はそのまま第一楽章へサーチさせた音楽に封じ込める……、」
 亮一は自身のノートパソコンの内臓マイクを確認しながら呟いた。
「出来るの、そんな事」
 レイが身を乗り出し、小莫迦にしたような不良学生の声が響いた。
「出来る訳無ぇだろ、莫迦」
 びく、と樹はその言葉に身を竦めた。
 ──先刻から、そう、イヴに連れられて訳の分からないままに一瞬で移動して来てしまった柾宅の、この部屋に入った時から感じては居たのだ、この、一見妙な所の無さそうな高校生の異様な気配は。
 ……何か、怖い、この人。
 それが、磔也へ対する樹の印象だった。
「出来るわ、樹君の歌なら。ケーナズが請け合ったんだもの、間違いないわよ」
「……、」
 この状況で無ければ、出来ればこんな怖そうな少年とは関わり合いたくない。畏縮し掛かっていた樹は、その舞の言葉にはっと顔を上げた。
──ケーナズ兄さんが? 僕なら出来る、と請け合った?
 一瞬、聞き間違いでは無いかと思った。

 樹は、世界的な声楽家を母に持っている。他人から見れば恵まれた環境であるが、同じく声楽家を志す彼にはその名前が負担だった。
 その事を限界まで気に病み続けた結果、音楽大学の入試を実技試験を前に放棄し、実家を飛び出した樹に対する従兄の態度は厳しかった。

──何と云うザマだ。こんな従弟を持ったとは情けない。
 
 従兄から告げられた、容赦の無い言葉を樹は良く覚えている。樹から見れば、ケーナズは自我を確立し、強い意思を持った立派な従兄だった。自分のように甘い人間など、軽蔑されて当然だと常から思っていた。
 ──その従兄が、自分を信頼する、と云って呉れた?
 
「……やります、僕。絶対に、ケーナズ兄さんや皆さんを元の世界へ戻せるよう、──祈りを込めて歌います」
「樹君、私を忘れないで。私も幻想世界に居るのよ」
 舞がやや拗ねたように云うが、それは無理の無い誤解だ。
 「え?」と改めて画面を覗き込んだ樹は目を見開き、──幻想世界内でケーナズに寄り添っているイヴと、実際に今自分の前に居る、変装して「朝比奈舞」と名乗っているにも関わらず彼女当人であると疑いようのないイヴを見比べて、「えぇぇぇぇ!?」と混乱したように頭を抱えた。
「そう云えば、さっきだって、僕は確かにアパートのドアを開けた筈なのに、この家に繋がってて、……え? え? ……、」
「まあ、その辺の詳しい事情は後でゆっくり」
「……あ、そうだ、──急がなきゃ、鐘が鳴り終わってしまう、」

【5_4xxx】

──……連中も突拍子も無い事を考えるな。
 まあ、いいか。アレキサンドラ・ルクセンブルクの息子の歌にも興味はあるし、「奴」はメモリカードに逃がしたし。

【5_4BCE】
 
 不意に、不良学生が割り込んで来た。
「居間にピアノがあっただろ、そっちでやると良いぜ」
「結構です。弾けない事は無いけど、歌う方に専念したいから」
 内心の怖れを見抜かれたくない。こういう性質の人間は、相手が恐がっていると分かれば余計に調子に乗って舐めてかかる筈だ。樹は殊更強く断言した。
 ピアノも樹の得意とする所だったが、弾き語りでは絶対に歌の本領を発揮出来ない。そもそも、ポピュラー音楽ならともかく、完璧な発声の求められる声楽に於いてピアノを弾きながら歌うなどという手抜きをする声楽家は居ない。
 が、そんな樹の必死の強がりを嘲笑うように磔也は鼻先で笑った。
「あんたに弾けなんて云って無いさ、──俺が弾いてやるよ」
「……え?」
 あまりに意表を付いた一言に、樹、亮一、舞、レイの間に緊張感が走った。
「あんたさ、幻想舐めて掛かると痛いぜ、幾らか霊感が在るみたいだけど、この無茶苦茶な編成のオーケストラの造り出した音相手にアカペラ一声でライン引こうなんて、無理。先ず音量的に無理。絶対無理」
「やって見せます」
「無理だっつってんだろーが。だから、ささやかながらピアノ伴奏付けてやろうって云ってんだよ」
「──折角だけど、即興を加える積もりですから」
 樹は背筋に緊張を残したまま、目を反らすな、反らすな、と自らに云い聞かせながら答えた。
「良かったな。即興なら俺も得意だ。4楽章のコーラス見ただろ。……それとも、怖い? 俺に伴奏させるのが」
 ニヤ、と磔也が笑った。──既に舐められてる、完璧に。樹は辛うじて後ずさろうとする足を留めた。
「葛城君、駄目よ、そいつの挑発に乗っちゃ。磔也もいい加減にしなさい。あんたに伴奏されちゃ、ソリストが歌えやしないわ」
「黙ってろ、音楽の事なんか何も分かって無い奴は」
「──、」
 レイが口惜しそうに口唇を噛んだのが分かった。話を聞く限り、彼女も音楽知識が皆無と云う訳では無さそうなのだが、この二人の会話には何か裏が在った。
「大体怪しいじゃないの、あんな妨害掛けて来たあんたが急に協力的になるなんて」
「別に結果なんかどうだって良いんだよ、面白けりゃ。楽しそうだしさ、『Dies Irae』の即興で幻想を変奏するなんて」
 磔也の本心は読めない。隙を見て妨害するつもりにも見えるし、単に面白半分に参加したがっているようにも見える。
「樹君、……どうする?」
 イヴは不安を残しつつも彼に訊ねた。
「歌を、あちらの世界へ送るならばその作業はバックアップさせて貰います。──申し訳ないですが、伴奏に就いては音楽が専門外の俺には何も云えません。極めるのは、葛城さんです。……磔也君はあまり信用出来ないので、妙な行動に出ないかどうか、監視はしますが」
「外来種の魚類か、俺は」
 磔也が毒吐くが、完全にそれを無視して受け流し、亮一はノートパソコンを手に樹の答えを待って彼を見詰めた。
「──……、」
 確かに、アカペラでオーケストラ──初演当時、作曲者自身の指示で大胆な人数が組まれ、観客の度胆を抜いた編成の──に対抗するより、ピアノ一台あると無いでは大分話が違う。
 ケーナズが、信用して呉れたのだ。その期待を、些細な怖れから裏切る訳には行かない。
「──じゃあ、お願いしようかな」
「極まりだ」
 レイは念の為に部屋に残り、樹、亮一、舞、磔也はピアノのある居間へノートパソコン一台を持って移動した。

【5_5zero】

「……、」
 画面を覗き込みながら、──どう考えたって大人しく彼等に協力などするとは思えない磔也の表情と、──厭と云うほど聞いて知っている彼の手に拠るピアノの音を思い出して、レイは「知ーらない、私、どうなっても」と呟いた。
「皆……ちょっと他人を信じ過ぎ」
 世の中には、人間の命だとか感情なんか、本当に何とも思わない人間だって居るのよ。
 居間へ移動した彼等の方を見遣り、レイは舌打ちした。
「知るもんですか、……甘いわよ、皆。甘い。甘過ぎ」

【5_5BCE】

 居間には、確かにアップライトだがピアノがあった。
 磔也は慣れた様子で蓋を開け、樹を振り返った。
「あんた、声域はテノール位か?」
「そうです」
「よし、だったらDモールで良いな?」
 そう云って磔也は一度ニ短調の和声的短音階を弾き、歌い始めのヘ音を鳴らした。
「良いです、それで」
 樹は軽く咳払いして、喉を整えながら頷いた。
 亮一はそんな彼等と樹を見守る舞を横目に、適当な場所に設置したノートパソコンを操作してレコーディングソフトと、その音声をサーバ──幻想世界の中へ転送する準備を進めた。
 ──あとは、「あの鐘の音」を待つだけだ。
「おい」
 磔也がニヤ、と笑いながら樹に声を掛けた。
「何か」
 樹も、内心の恐れを見破られないように毅然とした返事をした。
「多分、その内代理コード使うから。……ディミニッシュ、減和音の事だけどな。あんまりクラシックらしく無い響きになるかも知れないけど、ちゃんと付いて来いよ」
「即興には慣れてますから、心配して貰わなくても」
「樹君に妙な真似したら許さないわよ」
 イヴが磔也の耳許にそう、牽制の言葉を告げた。
「俺がそいつをどう出来るって? 見てみろ、俺の手が今の何処にあるか。鍵盤の上。ピアノ弾く以外に何が出来る?」
「だったら良いけど」
 それでも何かあったら、とイヴは独り言を洩した。「……ケーナズに、お仕置きして貰いますからね」

──Do……Do……So……、
 
 鐘が鳴った。審判の日、「怒りの日」の始まりを告げる鐘が。
 亮一は瞬時にリターンキーを押して、予めスタンバイさせていた操作の実行をした。
 磔也が一先ずは無難に主和音を鳴らした。美しい、とても学生のものとは思えない深みのあるテノールが響き始めた。
「Dies irae, dies illa……」

【5_5xxx】

──「怒りの日」とDの減和音、と聞いてピンと来ない音大生予備校生って云うのも間が抜けてる。これであのルクセンブルクの息子か? それとも、大分怯えてたみたいだから緊張して意識が飛んでたのか、……ま、どっちでもいいか。
 普通に伴奏する訳無いだろ、詰まん無ぇグレゴリオ聖歌なんか。それよりもリストの方が余っ程弾いてて面白い。……多少崩したけどな。
 「死の舞踏[TOTENTANTZ]」、リストがフレスコ画の「死の勝利」からインスピレーションを受けて作曲したらしいとか、そういうバックグラウンドはどうでも良い。リストもいい加減イカれてる。曲り也にも聖歌をこんな気狂いじみた音楽に変奏しちまうんだもんな。そう云やリストって確かベルリオーズのパトロンだったか。
 
 幻想世界の風景が変わった。但し、救いに満ちた神の世界では無く、正反対に骸骨が柩を担いで罷り通る、葬列の場面に。
 その景色は樹の霊感を通して、柾宅の居間に居る亮一と舞にも朧気ながらに見えた。
 だが、まだ二人は気付いて居ない。特定の変奏でこの旋律を奏することに依て、その音楽が現すものが全く変わってしまう事を。
 それが不良学生の、気紛れな悪戯だと気付いたのは、苦し気に喉を押さえて身体を折った樹が歌を止めてからである。

【-】

「……覚えてる」
 この景色。この映像。
 俺は、あの時確かに見た、──骸骨達の葬送の列。柩を覗いた俺は悲鳴を上げた事を覚えている。
 その死体の顔は、俺だった。

【5_6BCE】

「ちょっと、樹君に何をしたの?」
 舞が肩に置いた手を、磔也は片手で振り払った。その間にも左手は低音部で減和音を叩き続けている。
「触んな、音楽を止める気か」
「……、」
 舞は黙って手を引いた。これは賭だ、と云うケーナズの言葉を思い出したのだ。こんな不快極まりない音でも、音楽は音楽である。樹が歌えなくなってしまった今、止める事は決して出来ない。

──不味い、

 矢張り信用すべきではなかった、磔也を。亮一は焦りを覚えながらも冷静な判断力を以て最善策を摸索し、この際仕方無いだろう、とノートパソコンを操作した。
 レコーディングは続けながら別ウィンドウで一旦は切り離して第1楽章へ繋げた第5楽章のデータを呼び出し、幻想世界に繋ぐ。
「……、」
 そしてピアノに歩み寄って、磔也がまだ樹を苦しめ得る音楽をまき散らしているのを見ると蓋に手を掛け、前置きも無しにそれを叩き落とした。
「──、」
 磔也は咄嗟に手を引っ込め、重厚な木の蓋に指の骨が砕かれるのを免れた。
「……危ねェな」
 亮一はふう、とわざとらしい溜息を吐いて両手をひらひらと振りながら、仕方無いな、と云うような嘲笑的な視線を上げた磔也の腕を掴んで立たせた。
「ちょっと、こちらへ。大丈夫ですよ、音楽は元の幻想交響曲をあちらへ繋ぎましたから」
 磔也は流石に抵抗する素振りを見せたが如何せん体格差から来る力の違いはどうにもならない。
 居間に、未だ喉を押さえて蹲っている樹と舞を残して亮一は元の部屋へ磔也を引き摺って行った。

【5_6e】

「……矢っ張り、何かやったのね、磔也」
 亮一に引き摺って来られた磔也を見て、レイは呆れたように肩を竦めた。もうこの弟に何か云う気力は失せたらしい。
「田沼さん、知らないわよ、私は。止めときなさいって云ったわよね?」
 ええ、と彼女には短い返事を返し、亮一は磔也を、幻想世界内の仲間達の精神不在の身体の前へ投げ出した。
 あくまで、亮一は亮一だ。多少乱暴な行動には出ても、取り乱す事は無い。「痛ェな、」と自分を睨む磔也を見下ろす明るいセピア色の瞳には、静かな厳しさが宿っていた。
「ちゃんと見て下さい。そこに居る彼等を」
「レイじゃ無ェんだ、目は見えてる」
「私だって見えてるわよ!(彼女の髪型を見る限り非常に不思議な事だが)」
「すみません、レイさん、磔也君と話をしているので黙っていて頂けますか?」
「……、」
 亮一に穏やかに制止され、レイは不服そうながら「ちぇ、」と呟いて大人しく黙った。
「確かに聞きましたよ、磔也君、では、幻想世界の中に居る彼等に若しもの事があれば、そこに在る身体は永遠に意識を戻す事無く植物状態になってしまう事も分かっていますね?」
「だったら何だ」
「……それで、あなたは人間ですか。何も思わないんですか」
 亮一には分かっている。幻想世界の中の怨念が、別に磔也が使役しているものでは無い事位。だが、それをあろうことか玩具にして「面白そう」という思い付きで、仲間達の精神まで巻き込んで遊ぶなど、──ある意味、追い詰められてこの騒動を引き起こした水谷より性質が悪い。
「俺の知った事じゃない。……何だよ、そんなに俺が憎たらしいなら殺れば」
 ──ぞっとする。何て人間だ。
 挑発するように磔也が投げて寄越したバタフライナイフを、亮一は受け取らなかった。
「命の尊厳を軽んじるあなたに協力する気はありません。大体、そんな事したら飯の喰い上げですから。俺は探偵です。……育ち盛りの子供を抱えて路頭に迷いたくは無いですから」
 そう云って、亮一は彼に近づくと、「……詰まん無ぇの」とぼやいている磔也を素通りして勝明の許に屈み込み、そっと彼の髪を撫でた。
 ──必ず、彼等の精神は連れ戻して見せる。
 未だ可能性はある。亮一は、レイにくれぐれも、と磔也の見張りを頼んで居間へ掛け戻った。

【5_6zero】

「莫迦じゃないの、あんた」
 レイはPCの前で頬杖を付いたまま、磔也に向けて呟いた。
「分かったでしょ、あんたのピアノなんか、せいぜい人間一人不快にするだけなのよ。たかがピアノ一台で出来ることなんてその程度よ。だったら、パパみたいに感情を表現出来る演奏した方が良いと思わない?」
「……レイ、ピアノ一台、たかがピアノ一台、って云ったな」
「そうじゃない」
「……アップライトだったからだ。これが、オーケストラピアノだったら、あんな気の弱いテノール歌手なんか簡単に殺れたんだぞ」
 磔也の語調が殺気を帯びた。厭な記憶を掘り起こされて、レイは咄嗟に身構えた。
「オーケストラピアノって何よ、……何企んでるの、磔也」
「その内思い知らせてやる。お前がピアノを甘く見過ぎてるって事を」
「……やめなさいよ、それ以上近づいたら、田沼さん呼ぶから」
「……勝手にしろ」
 磔也は舌打ちして煙草に火を点けた。
 
 幻想世界は、狂乱を極めている。
 無音の画面からも、破滅的な終局へ向かうカデンツァが、──魔女の輪舞と、「Dies Irae」の入り乱れた怒濤のオーケストラのシンフォニーが伺える。

【5_7BCE】

──Dies irae, dies illa,
  Solvet saeclum in favill
  Teste David cum Sibylla 

  Quantus tremor est futurus,
  Quando judex est venturus,
  Cuncta stricte discussurus!

「……これは……、」
 再び居間へ駆け込んだ亮一は、そこで樹と舞が寄り添って手を掲げ、思わず息を呑む程に美しい旋律で聖書に在る続誦を歌い上げているのを聴いた。
「田沼さん、ナイスタイミング☆ 急いで、またこの音声を幻想世界へ繋げて呉れない? オーケストラの音が何、怨霊が何よ。私と樹君の聖歌でなら、幻想世界を浄化して見せるわよ」
 歌を一時中断した舞が莞爾と微笑んだ。
「……ええ、──ええ!」
 亮一は頷き、ノートパソコンを引き寄せると一心にキーボードとトラックパッドを叩き続けた。

【end】

 白くぼんやりした視界にひらひらと羽のような物が舞って居た。──が、暫くして目が光に慣れると、その正体が羽などと云うロマンチックな物ではない事が判明する。それはロマンの欠片も無い物質、──一万円札である。

──何?

 未だ違和感の消えない身体に戻った精神は、俄には何故周囲に大量の万札が舞っているのかが理解出来なかった。

「報酬よ、柾晴冶生還、君達の勝ち」

 レイが朗々と云い放った言葉を聞いても今一つピンと来ない。──当然、彼等はレイと磔也が彼等を駒に、勝手に柾の生還を賭けて居た事など知る由も無いのである。

「……今一つぱっとしないわよね」
 実は、一度やってみたかったのだ、大量の万札をばらまくと云う行為を。気持ちは良いが、如何せん数十枚では派手さに欠ける。レイは腕を組み、ふむ、と唸った。
「ちょっと磔也、あんたもう少し位持ってんじゃないの?」
「何でだよ。全額渡しただろうが」
 レイは傍らの、イヴを除く幻想世界内に居た彼等には見覚えの無い少年に取り立て紛いの事をしている。
「嘘ばっかり。迷惑料よ、今あるだけ出しなさい」
 仕方無ぇなあ、と少年は大して執着も無さそうに高校のものらしい制服のポケットから無造作に折畳んだ札束を出し、レイに倣って天井向けて放り投げた。
 迷惑料……。……と云うことは……。
 少年を見遣りつつ、目配せを交わしている一同にイヴが、やけに愛想の良い口調で告げた。
「彼、結城磔也君。第4楽章の時に紹介したわよね、『外から幻想内を引っ掻き回して呉れた第三者』」
「……、」

 レイはケーナズの指示に従い、都内の某病院へ携帯から電話を掛けた。執着こいようだが、待ち受け画面は何故か淡い緑色の髪と金色の瞳の壮絶な美(魔法)少女である。
「……すぐ救急車回すって」
 ケーナズは伊達眼鏡を掛けながら頷いた。幻想世界の中とは人が変わったように穏やかな態度に変じた彼の、先ず最初の心配事は柾と水谷の身体だった。
 水谷は勿論抜け殻と化している。柾は、彼等が無事精神を連れ戻したが、元々ここ数日はあの装置の中に居て飲まず喰わずだった為、脱水症状も見え、身体が衰弱し切っていた。目覚めた彼には辛うじて意識があったが、応急処置が必要だ。
 病院では、先ず説明が求められる。何故、と訊かれても本当の所は説明の仕様が無いので、製薬会社研究員であるケーナズがコネのある病院を指定したのだ。
「柾さん、」
 救急車の到着を待つ間、涼と将之が身体を支えている柾の許へ、勝明がす、と進み出た。彼に向き合った勝明が指したのは、水谷の抜け殻だ。
「水谷さんの事は、柾さんに任せます。……意識は幻想世界の中だから、もう戻っては来れないと思うけど、──柾さんは、どうしたいですか?」
 レイが口許を押さえた。──何という事を云うのだろう。
「莫迦、煽るんじゃないわよ」
 慌てて牽制するが、勝明は怯まずに真摯な瞳で柾の答を待っている。
 ある程度常識に慣れた大人の年齢になれば、「まあもう植物状態確定だから、それでいいじゃないか」と流してしまう所だ。が、純粋な少年にはそんなぬるま湯は通用しない。
「今回の事は、柾さんの心の弱さが引き起こした事でもあるんだ。……これは、柾さんが極めるべき事」
「殺れ殺れ、」
 磔也が面白そうに横槍を入れた。
「黙りなさい磔也、勝明君もよ、柾さんを犯罪者にしたいの? 水谷は裁けなくても、柾が水谷を殺しちゃったら罪になるのよ、法律では」
「法律なんか、……」
「まあまあ、君達」
 ケーナズが穏やかに仲裁に入った。
「気持は分かるが、柾だって身体が弱り切っている。手当てが先だ。……ほら、救急車が来た」
 彼の言葉通り、階下の道路にサイレンが幽かに聴こえた。
「すみません、……勝明!」
 亮一が慌てて勝明を引き寄せ、両肩を抱いて頭を下げる。

 程なく、二台の担架が柾と水谷を連れて行った。

【end_DE】

「……、勝明」
 声が震えそうだ。それを押し止めようとして、やっと口を付いて出た言葉はそれだけだった。
 未だ、ふて腐れた様子の少年の目を真直ぐ見る。
 ──いつもと大して変わりはしない、たった半日離れていただけなのに、懐かしい、どれだけその顔を早く見たいと願ったか分からない顔が目の前に在る。明るいセピア色の優しい瞳、大きな暖かい手。
 流石の少年も、抑え切れなかったらしい。警戒した猫のような顔に、ぱっと華の咲いたような満面の笑みが現れた。
「──ただいま!」
 ──おや。
 なんて珍しい素直な反応だ。──だが、と云うことはつまりそれ程に少年は今まで堪え難い程の孤独や恐怖や心細さを感じていたのだろう。
「おかえり、勝明」

【end_zero】

 レイは部屋中に散らばった万札を拾い集めるのに手間取っていた。非常に面倒で空しくなって来る作業だが、自らが撒いた種ならぬ紙幣なので仕方が無い。
「……60、2、4、6、8、70、1、2……こんなもんかな」
 そして部屋に残った頭数を数え、等分して配りに掛かった。

【end_DE】

「はい、これ勝明君の分ね。……田沼さんはー、ごめんね、草間興信所と一緒で良い? ルクセンブルク氏が気前良く出してくれる筈だから、今度興信所で受け取って」
「いいえ、皆さんに迷惑掛けましたし、俺」
「まあまあ、その辺は草間興信所で揉めて。で、これ」
 然し亮一はレイが勝明の取り分だと差し出した札束をもやんわりと押し返した。
「これも結構です、──そうだよな? 勝明。お前は未だ勤労年齢に達して無いんだから」
 穏やかに微笑みつつ、勝明を見遣った亮一の意思は依頼料の受け取り拒否と云うよりも独りで無茶をした勝明を窘める態度だ。
「……はい」
 保護者の留守中に危険な真似をした後ろめたさと、無事幻想世界から帰還し、ようやく精神の落ち着きを護って呉れる人間の存在への安堵から気が抜けているのか、非常に珍しく大人しい態度で勝明は頷いた。

【end_xxx】

 柾宅から撤収の道中。
 ──何でこいつと肩並べて帰らなきゃ不可ないのよ、私が! と不機嫌極まりないレイの顔に書いてあったが、帰り道が同じなので仕方ない。
 涼が一発ひっぱたいて呉れたのにはすかっとしたが、結局、全然堪えた様子も無いし。
 ──その後の「ちょっとしたアクシデント」には大分精神的なダメージを負ったらしいが、その事件がショッキングだったのはレイも同じなのである。
 不良学生の手の中でライターが火を吹く音がした。レイは素早くその手から煙草を取り上げる。
「私の傍で吸わないで。大体、行儀悪い、歩き煙草なんて」
「お前が行儀の事を云えるクチか」
「……、」
 口の減らない奴。──所で。
「あんた、何であんなにお金持ってたのよ。水谷の報酬にしては多過ぎるわ。……貯めてたわね。……云いなさいよ、何企んでたの? 何の為の軍資金?」
「……、」
 ニヤ、と少年は思惑有り気に口唇の端を吊り上げた。
「……オペラの公演ってのは金が掛かるんだよ」

【-zero】

 ──幻想交響曲、……ヘクトール・ベルリオーズの夢。……否、

「……これは、……俺の幻か?」

 ──千鶴子の旋律が聴こえない、col legnoが頭に響く。

「……未だ、悪影響が残ってるみたいね。仕方ないな。彼等を呼ぶしか無いか」

【-DEF】

「あら」
 草間興信所の前でロードバイクを降りたレイは、そこで見知った人間の一団と出会して声を上げた。
「……あ、レイさん、先日はどうも」
 亮一は、その慎重に似合わない腰の低い態度で彼女に頭を下げる。ついでに、傍らの勝明の頭も押さえ込んで倣わせながら。
 ……シャアッ! と、勝明は全身の毛を逆立てた猫のような表情になって上目遣いに亮一を睨む。
「レイさん、俺も色々、ごめんね。あの日はばたばたしててちゃんと挨拶も出来ないで、さ」
 一歩離れた場所にいた涼は苦笑しつつもそんな二人を面白く眺めながら、レイにも会釈した。
「いえいえ、こちらこそどうも。……所で君達、雁首揃えて何? やっぱり、ここに用?」
 ここ、とレイは興信所の入口を差した。
 亮一は苦笑いして、片手に持った菓子折りを掲げた。
「ええ、やっぱり草間氏には御礼と謝罪に伺わないと不味いだろう……と思いまして」
「あ、そう。頑張ってねー」
「レイさんは?」
 涼はあなたこそ、と云う視線を彼女に投げた。
「私? 何って届けもの。極まってるでしょ。ルクセンブルク氏から預かった現金書留とソマリア嬢からの招待状。あ、両方共中に田沼さんの分が入ってるから、帰りがけにでも持って行ってね」
 あ、と涼は急いでレイを引き止めると低声で耳打ちした。
「あのさ、その事なんだけど、……ごめん、俺、つい殴っちゃったけど、あいつ、レイさんの弟なんだよな」
「ああ、全然OK。御影君には感謝してるわよ、すかっとしたわ。今度見かけたら好きに殴ってやって呉れて良いわよ。何なら、据え物斬りに使ってくれても良いし」
「……、」
 涼は笑うしか無く、亮一と勝明が興信所の扉を押したのにこれ倖いと急いで続いた。

【-xxx】

「寝てる場合じゃ無ぇぞ、このグズ」
 ──起きろ。
「いくら待ったってな、お前の精神は戻って来やし無ェんだよ。──だから」
 少年は点滴と人工呼吸器に繋がれた植物状態の彼の両耳に、イヤホンを差し込んだ。
「……感謝しろよ、燃え無いゴミになる所だったお前の身体、俺が有効活用してやるんだ」
 ──お前の肉体なんか何の役にも立ちやし無いが、『奴』には遣って貰う事がある。
 イヤホンの端子が接続されたmp3プレイヤーに、メモリカードが挿入された。
 彼の耳から漏れるざわめきの中に、ある旋律、──「Dies Irae」が聴こえる。
「……起きろ、クシレフ」 
 
 ──音が、ざわめきのように籠った反響をする病院の廊下、最奥の娯楽室から幽かにメンデルスゾーンのピアノ奇想曲が漏れる。

──甘いな、レイ。
「……わざわざ、あれだけガードの堅い柾を狙う訳無いだろ、この俺が」
 鍵盤から顔を上げた磔也がニヤ、と笑ったのが黒いピアノの蓋に映った。その向こうにはぼんやりと佇んでいる人影が見える。
 ──水谷和馬。

「……」
 磔也は、彼の死人のように生気の無い目に向かって微笑み掛けながら、鍵盤を叩き続けた。
 メンデルスゾーンの奇想曲は変奏され、段々と「Dies Irae」の旋律がはっきりと形を現した。
「……、」

──ユートピア国家の理想は軍部と専制政府の完全なる支配下に因ってこそ実現され、それでこそ研究に於ける完全なる秩序とその研究を通じて芸術が目指す素晴らしい成果が保証されるというものである……、

「……、」
 水谷の死んだ魚のような瞳に、不意に一条のギラギラとした光が差した。
 そこで磔也は演奏を止め、立ち上がって娯楽室を出た。入口に立っていた水谷と擦れ違い様、その肩に軽く手を置く。

「──お早う、クシレフ」

 ──彼等が幻想世界から脱出して一週間後、都内の某病院から意識の無い筈の入院患者が一人、行方不明になった。

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幻想交響曲 Phantastische Symphonie Op.14
作曲:Hector BERLIOZ (1803-1869)
作曲年:1830

「病的な感受性と、はげしい想像力を持った若い芸術家が、恋の悩みから絶望して阿片自殺を計る。しかし服用量が少なすぎて死に至らず、奇怪な一連の幻夢を見る。その中に恋する女性は、一つの旋律として表れる──」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵】
【0932 / 篠原・勝明 / 男 / 15 / 学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1555 / 倉塚・将之 / 男 / 17 / 高校生兼怪奇専門の何でも屋】
【1712 / 陵・彬 / 男 / 19 / 大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】

NPC
【1630(NPC0199) / 結城・磔也 / 男 / 17 / 高校生】
【1889(NPC0198) / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【水谷・和馬(みずたに・かずま)】
・今回の依頼人にして元凶らしい。アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵。御愁傷様です。
【柾・晴冶(まさき・はるや)】
・新進の若手として注目を集めていた映像作家。どうも、厄介な事に見舞われ易い問題青年らしい。
【陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)】
・一ヶ月程前に轢逃げに拠り死亡。柾の元恋人で舞台女優。今回の件は彼女の怨念が引き起こした物と見られていたが、本当の彼女はただ柾を心配していた模様。
【陵・修一(みささぎ・しゅういち)】
・陵千鶴子の5つ違いの兄。千鶴子殺害の犯人に見当を付けており、草間興信所に依頼に行った。総帥、お世話になります。

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■         ライター通信          ■
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大変お待たせしました。皆様の協力を得て進めて参りました、幻想交響曲シリーズ最終章、お届けします。

不安ながらに開始した連載でしたが、結果的に第1楽章からの7名様、第2楽章からの追加1名様、草間興信所から加勢して下さった1名様が最終まで連投して下さる結果となり、全く驚きが隠せません。
皆様、長い間本当に有難うございました。

幻想交響曲シリーズはこれにて終了です。
……が、悪意は連鎖します。
その悪意が今度動きだした時には磔也も便乗しそうです。
どこかで何かが起こった際に皆様の再びの助力頂ければ倖いです。

■ 田沼亮一様

草間興信所以来、大変お世話になりました。
……助かりました、存在だけで不良学生を牽制出来る田沼さんが居て下さって。
たまに情報屋が遊びに(勝手に上がって)いるようですが、背後様共々、今後もどうぞよろしくお願い致します。
非日常セクションの所長様にもよろしくお伝え下さい。

x_c.