■音楽都市、ユーフォニア ─オーケストラピアノ前夜─■
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【0931】【田沼・亮一】【探偵所所長】 |
IO2に狙われたピアニスト、結城・忍の帰国を巡った騒動から一ヶ月。
東京コンセルヴァトワールとその前身の正体、植物状態の筈の人間が取り仕切る巣鴨ユーフォニアハーモニーホール、行方をくらました不良少年、同じ顔立ちの少年少女合唱団、カストラート、インスペクター、クシレフ、シェトラン、そしてシドニー。
多くの謎を残したまま、ユーフォニアは開かれる。
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音楽都市、ユーフォニア ─オーケストラピアノ前夜─
【xxx】
冬の雨は非情な程に冷たい。
結城・磔也の感覚は完全に麻痺していた。寒さも、焼けるような腹部の痛みも最近になって著しくなった耳鳴りも何も感じない。
殆ど這うような歩調でようやく目的の一軒家に辿り着いた。磔也は凭れ掛かるようにしてドアを叩き、家主の名前を呼んだ。
「冨樫さん、……俺、助けてくれ」
東京ムジカオーケストラ第一トロンボーン奏者兼インスペクター、冨樫・一比は目を通していた新曲のスコアから顔を上げ、溜息を一つ吐いて立ち上がった。
招かれざる客が誰かは直ぐに分かったが、だからこそ中に入れるのは面倒である。ドアを開けはしたものの、彼はその間に長身を立ちはだからせて対応に出た。
「冨樫さん、」
「……うわ」
絶望的な笑みを浮かべて自分を見上げている少年が押さえている腹部から下は、真っ赤に染まっていた。失血の所為か或いは単に寒さの所為か、彼の顔色は紙のように真っ白だった。
「どうしたの、その怪我」
「里井だ、あいつ、刺しやがった、この俺を……」
「……で、刺された訳?」
冷たい視線が淡々とした声と共に降って来た。
「頭が痛かったんだ、知ってるだろう、冨樫さんだって俺の耳の事、……周期的に耳鳴りがするんだ、喉も痛い、耳鼻咽喉系の神経自体がイカれてるんだ、仕方無いだろ」
「救急車、呼んであげようか?」
「冗談云うなよ、医者に説明出来る訳無いだろ、……助けてくれよ。忍も帰って来たし、レイにこんな所見せられやし無ェし、冨樫さんしか頼れないんだ」
「……んー、……今、散らかってるしねぇ……、それも、明日団員に配るパート譜整理してるから、血で汚されても困るし。何より僕、その準備で忙しいから手当てする暇無いし」
「……、冨樫さん……」
「磔也君、友達居るんじゃ無かったっけ? それも、多少の出血じゃ驚か無さそうな人が。結構問題になってたよ、忍さんの護衛だとか、IO2と勝手に取り引きした事とか。実は僕の所にも然る大財閥の御総帥が直々にお見えになって困ったんだよねえ。多分、磔也君その内外されるから僕より彼らを頼った方が良いんじゃ無いかな?」
「あんな連中……友達でも何でも無い、……大体……、忍の事はシドニーが……、」
限界だ。彼はそこで意識を失い、熱に浮かされて目が冷めるまでそこに居た。
【1C】
「──もしもし? ……ああ、先日はどうもお世話になりました。田沼ですが、──ええ、その後お変わり無く──」
事務所の窓から外の景色を眺めながら、電話口に語り掛ける田沼・亮一(たぬま・りょういち)の表情は穏やかだ。
通話先は、友人でもある結城・レイの自宅だ。然し今現在彼女は不在である。その確認は、天音神・孝(あまねがみ・こう)から取ってある(何でも先日来、彼女に奴隷として扱き使われているらしい)。彼女は知り合ってからも自宅を教えたがらなかった。故に、交換したのは携帯電話の番号だけだ。が、自宅の住所も電話番号も、探偵たる亮一が調べれば簡単に分かる事である。
電話口に出たレイの養父、結城・忍の声はあまり友好的では無かった。
『……どうも、先日はお世話になった切り挨拶の一つにも伺えず……。娘には一応、お礼を伝えるように伺わせたのですが、ちゃんと伝わったでしょうか』
亮一は眼鏡の奥で目を細めた。──幾分、思惑有り気な。
厄介扱い、多いに結構である。何しろ、こちらは最初から探りを入れる為に電話したのだから。
「ええ、勿論。……あ、そうそう、わざわざフランスからお持ち頂いたワインまで頂きまして。確か、酒類は持ち込みに制限があるでしょう? 折角のお土産を頂いて恐縮です。有難うございました」
『いえ、私も娘も飲みませんので。ただ、あれば何かと土産になると思っただけで──』
「そうなんですか。あなたもレイさんも飲まれない、……ああ、遺伝でしょうね。となると磔也君も駄目ですか。彼、煙草は呑まれるんですけどねえ……」
『……、』
「……あ、これは失礼しました」
明らかに不機嫌な忍の沈黙にも、亮一は飄々と涼しい声で詫びた。先日、戸籍上レイと磔也は忍の養子であり、一応は血の繋がりが無い筈なのを知っていて、の上でだ。敢て、東京コンセルヴァトワールのデータから忍と姉弟の遺伝子が同じである事はお見通し、と云うニュアンスを触り気無く伝える為に。
「その磔也君ですけど、最近、お宅に帰られました? あ、彼の友人から学校に行っていないとお聞きしたもので」
嘘も方便。
『……いえ、先日来帰っていませんが』
「さぞご心配でしょう?」
『……いえ、まあ昔から反抗的な子で……』
──乗った。亮一の表情は満面の笑顔だ。多分、嬉しそうなニュアンスが電話越しにも伝わっただろう。
「……お察しします。実は俺も、理由ありで15の子を養う身なんです。そろそろ反抗期が気になる歳なんですよねえ……。……磔也君、あ、俺は別に気にする事は無いと思いますよ、17と云えば丁度やんちゃな時期ですし。ただ、……彼、ある時期から急に結城さんの云う事を聞かなくなった、と仰っていましたよね? ……その辺りの事、お聞かせ願えませんか。……是非参考にしたいもので。俺も未だ24ですし、周りには相談相手が居ませんから」
「……、」
亮一の背後で真面目にも期末試験の苦手教科を勉強していたその「15才の子」が無言でじろり、と亮一を睨んだ。……それにも亮一は気付かない振りで。
『済みませんが、あまり時間が無いんです。野望用ですが、これから色々、昔世話になった機関へ挨拶に行ったりしないと不可ないもので』
逃がすものか。亮一は涼やかな笑顔のままで答える。
「ああ、東京コンセルヴァトワール、ですか?」
『……それもありますが』
「少しで結構です、大体、何歳くらいの時から彼に変化が?」
仕方無い、と──降参した、と云うよりは寧ろさっさと質問に答えて切り上げようと云う風に、忍が答える。
『先程も申し上げたように、元々少し勝ち気と云うか、自意識の強い子でした、7歳の──私が引き取った時から。あの子の才能は施設でも抜きん出ていましたから、そうした事でも確固とした自信があった所為でしょう。直後から私は個人的に自宅で教えるようになりましたが、徐々に、ですね。引き取った後も施設には出入りしていましたから、そこでの教師や同級生の影響もあったと思います、『音楽は、技巧だ』とか『技巧は日々進化しているのに、今更ベートーヴェンを攫って何になる』だとか、段々と技巧崇拝的な発言が増えて行って──私が日本を離れる時には、既にあんな感じでした。先日実に6年振りに会いましたが、正直な所、あまり変わっていないというのが実際の感想でしたね』
「成る程。──……所で、姉弟仲なんか、どんな感じだったんでしょう?」
『どうにも何も……、あまり、良いとは云えなかったですが。磔也は姉をピアノの才能差にかこつけて嘲るし、それだからレイはレイで殊更避けるし、顔を合わせれば……ちょっと、申し上げるのも何、な口喧嘩で。ただ、まあ大体どこもそんな感じだと思いますが』
「おや? 実は、先日も居た青年で、御影涼、……あの、茶色髪で青い瞳の。ああ、覚えてられました? 2人共と仲が良いんですが(!?)、彼なんか磔也君はちょっと、失礼、シスターコンプレックス気味じゃ無いか、なんて笑ってましたけど」
『まさか、冗談でしょう』
「そうですかねえ……、」
これは、愛情の裏返しと見る可きか、それとも、或いは逆に、本当に自分の「物」としか思っていないと見る可きか?
──後者であった場合……、彼の性格からして、自分の所有物が他人に奪われる事には子供のようにムキになる、と云う事は充分あり得る。……それも、「処置の一貫」の可能性に加えておく可きか。
『あの、もう構いませんでしょうか。時間ですので』
「ええ、お引き留めして申し訳ありませんでした」
にこやかなまま、亮一は回線を切った。
「ある時期から急に」態度に変化が──、と云う忍の言葉を信じれば、その時期に前後して磔也君に何らかの処置が施されていた──と考えるのが妥当か、と亮一は考えた。そこで、──同年代の子供を養う身として参考にしたいと云うのもあながち方便では無いながら──忍を掴まえた訳だ。
──が、元々の性格に加えて(何しろ、失敗で女性に生まれてしまったとは云え同じく忍のコピーと思しいレイが既にあの「この私が」気質である)、徐々に今のような思想を抱くに至ったとすれば……。
「一度の特別な処置などでは無く、少しずつ洗脳されていった、とも考えられますか……。……例えば……」
──「教育」とか……。……先日、ウィンが云ったように。
【xxx】
「厭な人間を敵に回しましたね」
目の前の男が床の上に叩き付けた報告書を丁寧に拾い集めた冨樫・一比(とがし・かずひさ)はのんびりと呟いた。
「それにしても──財団までリンスター財閥の云いなりか。薄情なものですよねー」
「薄情、で済む問題か!」
「落ち着きましょうよ。この僅か一週間の間で──音楽大学、同付属高校、幼稚園、──出版社、それに今日で──財団も。いやあ、壮観ですよ」
額を押さえて座り込んだ男は、良くもそんなに暢気にしていられる、と飄々の体の冨樫を見遣った。
「たかが、非常勤講師ですしね、僕」
──ここは、施設全体が一戸のビルディングを占める東京コンセルヴァトワールの最上階の一室である。莫迦──では無くて、権力者と煙は高所を好む。故に、冨樫が前にしているこの部屋の主が割合重要な地位に居るであろうことは予測が付く。
冨樫と彼が何をして騒いでいるのかと云えば、今朝になって、今まで資金援助を受けていたとある財団から援助の停止を宣言されたのである。冨樫が先程列挙した名前も、全て資金援助、或いは提携活動を断ち切る、と云う組織だ。
「リンスター財閥、やってくれるじゃないか。……歳若い男が総帥だと云うが、奴が問題らしいな」
「若くないですよ。何でも725歳だそうです」
「……何を云っているんだ、君は」
「アイルランド出身の人魚だそうですよ。いやあ、大したもんだ。研究者達が知ったら愕然とするでしょうね、何せそんな人間が居るなら自分達の研究なんかただの徒労なんですから」
「……、」
最早呆れて何も云えなくなった男への止めに、冨樫は「レイちゃんの情報ですから、信憑性があるか皆無か、どっちかですけどね、極端な情報しか集めて来ませんから、彼女」と微笑んだ。
「……結城のコピーか。……あれも全くの役立たずだ。弟の抑止剤だったが、その弟の方も死にかけているらしいな」
「ああ、里井君でしょう。彼、大分虐められてましたからね、とうとう『キレた』らしいですね。怖いですねえ、今どきの若者。知ってます、キレるとナイフで通りがかりの人間を刺すそうですよ」
この二人、お互いへの対応には慣れているらしい。暢気な冨樫の軽口を聞き流し、男は「寿命だ」とだけ吐き捨てた。
「え、17で寿命ですか。早いなあ、だったら僕なんかどうなるんですかね」
「年齢の問題じゃ無い。……耳の聴こえない──それも感音性難聴の駒など、必要無い」
怖、と冨樫は肩を竦めた。
「僕も気を付けるかな」
【2A】
「──いやあ、大したものだ。一応、心配して来てみたんですが、見事なお手並み、拝見しましたよ」
「──……、」
大学の敷地を後にしたシュラインの背後から、飄々とした男の声が掛かった。振り返った彼女は、見知らない青年の──その声の通り飄々とした涼しい笑顔の──姿を認めた。
「あなたは?」
「ああ、申し遅れました。緋磨・聖(ひば・あきら)と云います、先日は家内がお世話になったようで」
「あら……、」
背中までの長髪に、黒ずくめの風体。眼鏡の奥で一見人の良さそうな笑みを浮かべている彼の正体を知って、シュラインは目を細めた。
「IO2の関係者だと云う、緋磨さんの旦那さんね、あなたが?」
「関係者、と云う訳でも無いんですけどね、僕も妻も。まあ、IO2とはお互いに利用し合いながら牽制している仲、と云った所で。その事で先日は御迷惑をお掛けしたようですし、田沼もお世話になったようだし、……ディテクターには借りも作ってしまいましたからね、御節介ながら、エマさんが単身下っ端とは云え敵の許に乗り込まれた、と云う事で不慮の事故が無いかと」
「まあ、それは御丁寧に」
緋磨相手にやや注意を払いながら、シュラインは口許だけで微笑んだ。……この男の方が、余程怪しい。
「巣鴨での田沼さんには、大分驚いたけれど。私自身、声が出ない、と思っていたら遮断されていたんだもの」
「もしかして、怒ってます? エマさん」
「いいえ。……ま、あわよくばホールと水谷には干渉出来る状態にして、IO2を利用出来ないかと思っていたからちょっと残念だったけど。結果的に人命に危害は及ばなかったのだし、……どうせ、IO2側への事後の手回しも完璧なのでしょう?」
「買い被りですよ」
緋磨の底抜けに明るい笑顔を眺めながら、シュラインは溜息を吐いた。──道理で、先日来穏やかだと思った。
それは置いておいて、という風に緋磨は穏やかそうに細めた目の奥に一条の光を煌めかせて話題を変えた。
「……ときに、彼からは何か聞き出せました?」
「黙秘、かな?」
シュラインも微笑み返す。──乾燥した冬場の、冷たい風が2人の間を通り抜けた。
「現役科学者でも、依頼を受けた研究内容は家族や友人に対しても口外出来ないもの。それに倣ってみるわ」
「……ははあ、」
緋磨は苦笑した。
「安心して下さい、俺だって近しい人間の命でも関わっていなければ、そうそう情報を漏洩する訳じゃありませんよ。妻はあれで、……見た目の通りかも知れませんが男勝りな性分で、口の堅さは信用出来ますし」
「ん、でもこの情報にも一応人命の安全が掛かっているし、約束した事だから。……堅いかと思うけど」
「……成る程、田沼が叶わない訳だ」
それじゃ、失礼します、と緋磨は相変わらず人好きしそうな笑顔を浮かべたままでシュラインに会釈した。
「こちらこそ、御丁寧に。奥様に宜しく」
「……あ、」
緋磨と完全に別れてから、しまった、とシュラインはぺろりと舌を出した。
「シェトランが『ピアニスト』でなければならない理由……訊きそびれたわね」
然し、今更戻るのもどうか──。それにこれからウィンの呼び掛けでカーニンガム総帥宅に「作戦会議と情報交換」に集まる事になっている。そこで今聞いた事を伝えれば、何か分かるかも知れないし。
【xxx】
「未来小説 ユーフォニア、もしくは音楽都市」
──この小説はフランス人作曲家、エクトール・ベルリオーズが1852年に記した、音楽に全てを捧げ、グルックのオペラの『壮大な』記念上演を目指す共産主義的ユートピア思想の伺える共同体についての空想物語である。
ユーフォニア市は音楽、芸術という「全体の崇高な目的」の為軍部の支配下にある鉄の規律に支配されており、クシレフは作曲家であると同時にユーフォニア市の音楽分野での最高責任者である。何故グルックか、と云う点にはただ「素晴らしく『壮大な』古典として」としか記述されていないが、恐らくは19世紀最大のグルック信奉者であったベルリオーズの個人的な趣味かと思われる。
然しあらすじ自体は陳腐なスプラッタ、と一笑に伏されて然るべき単純なものである。
女性歌手に裏切られ、復讐の為に大量虐殺、──『壮大な』破壊を目論むクシレフは彼女の誕生日のコンサートが行われる鋼鉄の音楽堂に残虐な仕掛けを施す。
ところで、当時ユーフォニア市には一人の機械工の巨匠がいた。彼の製作した巨大なピアノは変化自在の音色と音量を持ち、それ故に『独りの名手が』奏するだけで、一団のオーケストラを遥かに凌ぐ音楽を発信することが出来た。──オーケストラピアノ。
クシレフは鋼鉄の音楽堂とこのオーケストラピアノを接続し、その奏者として友人であるピアニスト、シェトランを呼び寄せる。
女性歌手の誕生日祝いに大勢の人間が音楽堂に集った時、そこで悲劇が起こる。シェトランがオーケストラピアノを弾き始めると同時に鋼鉄の壁が内側に向かって聴衆を圧殺すべく押し寄せ、そこは阿鼻叫喚地獄と化す。クシレフはそれを音楽堂の外から傍観している。シェトランは目の前の悲劇にも気付かずにピアノに熱中したままである。
【3C】
──ちぇ、矢っ張り自由にしてやる可きじゃ無かったかな。
孝が喜び勇んで異空間に消えてから、レイは内心で舌打ちした。
「折角のデートなのに」
亮一から電話があったのは昨夜の事である。丁度、夕食の片付けを終えてフランス土産のレコードを聴いていた時だった。
「はい?」
『田沼ですが。レイさん、今自宅ですか?』
「そうよ? 何で?」
『……いえ、何でもありません。……所でレイさん?』
「ん?」
『突然ですけど……デートしませんか?』
「デート?」
『ええ』
「厭だ、急に何を云い出すかと思ったら。……ふふーん、さてはクリスマスが近くなって寂しくなったかな?」
『そういう訳じゃありませんよ、俺としては寧ろクリスマスより、冠雪の方が……』
「は? ……まあ、分かってるって。相手が居ないだけでしょ? 私だってこの歳で15歳の中学生の義母になんかなりたくないわよ。オーケー、どこに行く?」
随分な云い様に触り気無く傷付きながら、亮一は乾いた笑い声を上げた。
『そうですねえ……、俺、車出しますから、任せて貰えません?』
「はい了解ー、じゃ、明日ね。また電話して」
そうして呼び出しの電話からやや遅れて亮一と合流したレイは、「ああ寒ーい」などと云いながら助手席の人となった。彼女の普段通りの服装を認めた亮一は内心、安堵の溜息を吐いた。分かっているだろうとは思いつつも、ドレスなど着て来られた日には女連れで入れるフランス料理屋のアテも無い、どうしようかと心配していた所だ。
小一時間程掛かって混み合った都心の道路を抜け、現在亮一の車は国道411号を西へ向かいつつあった。
「あれ、レイさん携帯変えたんですか?」
妙に印象的なフォルムの携帯電話に目を止めた亮一が訊ねた傍で、彼女は「そう」と嬉しそうに微笑んだ。
「私のもそろそろ古かったし。メモリカードは使えないけど、見た目が格好良いでしょ? 色々機能も増えてるし」
「待ち受け画面は?」
訊いては不可ないとは思いつつ、ついつい好奇心に負けて亮一は今の彼女には非情な事を訊ねてしまった。案の定、レイの顔色がさっと蒼ざめた。──少し前まで、彼女の携帯待ち受け画面は「魔法少女あまねちゃん」、憎たらしい弟が犠牲になった時のものだったのを嬉々として設定していたのだが、自らもその悪夢を経験してしまった今、……。
「……、」
即座に、亮一の横で「カシャ」と云う電子音が鳴った。亮一は苦笑しながら振り返る。
「レイさん?」
ピ、ピ、とテンキーを素早く操作し、レイは液晶を亮一に見せた。そこには早くも亮一の横顔が写っている。
「待ち受け画面は田沼さん。はい、これでどう? 納得? ……あー、矢っ張り大人の男性は良いわねー、これからは待ち受けを見る度に和むわー」
「……に見せちゃ駄目ですよ、また尻尾立てますから」
「えー、駄目? ちぇ、揶揄かえると思ったのに」
「……、」
苦笑いしたまま、亮一は視線をフロントガラスに戻した。──奥多摩だ。遠方にはそろそろ冠雪が見え始め、都会の喧噪の中には無い情緒を醸している。本当にデートならばこんな光景を無邪気に楽しむ事も出来るが、今の亮一にはそうは行かなかった。──ここからは、特に神経を張ってレイの状態を伺っていなければ不可ない。
ピ、ピ、ピ──、と、まだ携帯電話を弄っているレイに亮一は声を掛けた。
「レイさん、ほら、冠雪ですよ。……良いですねえ、何とも云え無いあの色彩……」
これは半ば本心である。
「……まあ、きれいだけど。……田沼さん、……何て云うか、良く云えば粋、悪く云えば……親父っぽい」
レイは呆れ返っている。痛い所を突かれた。──亮一は、こうした赴きに弱いのである。
「……矢っ張り、お年頃の女性にすれば退屈ですかね」
「別に、退屈って訳じゃ無いけど。……分かった、何で田沼さんそんなに格好良いのに彼女居ないのか。若年寄りっぽいのよ、感覚が」
何とも失礼な発言は、先程の仕返しとして黙認しよう。亮一は乾いた笑い声を返した。──そろそろだ。
「……レイさん、何か感じます?」
亮一は、『東京都』の道路表示をバックミラー越しに眺めながら触り気無い調子で訊ねた。レイの返事は、「良く云えば粋」な亮一の感覚にすれば大分夢の無いものだった。
「んー、ちょっとお腹空いたかも。そろそろお昼時かなー」
「……そうですか、」
呆れつつも、亮一は一先ず安堵した。無意識の所為か、矢張り彼女は平常である。
「さてと。この辺、何処か美味しい店あるかな。……勿論、奢りでしょ? 田沼さんの」
「まあ、デートに誘っておいた男が割り勘させるのも不粋ですからね」
「やった」
ピピピ、──レイは再び携帯電話でパケット通信を始めた。
最近のモバイル技術の発展は目覚ましい。現在地付近のグルメ情報を得ようと思えば、今やわざわざ地域別に絞り込みをしなくともGPS衛生の位置情報を利用して瞬時に現在地を割り出す事ができるのである。
「──……、」
一瞬で、彼女は顔色を変えた。──気付いたか。出来れば、安全に安全にクッションを張りながらそれとなく彼女に伝える積もりだったのだが、仕方ない。亮一は殊更何気無く訊ねた。
「レイさん?」
「……田沼さん……、……ここ、……山梨県……、」
レイは顔色が紙のように蒼ざめ、口唇はガタガタと震えていた。尋常では無い怯え方だ。
「……そうですが?」
「ここ、東京じゃ無い!」
レイは俄に取り乱した。亮一は車を停め、シートベルトを外そうとして、慌てるあまり身動きの取れなくなっているレイを宥めに掛かった。
「レイさん、落ち着いて。何も不味い事はありませんよ、たかが県境を越えただけじゃ無いですか?」
「駄目だってば! 酷い、始めからその気だったのね、駄目なの、駄目なのよ私! 私、東京から出ちゃ駄目なのに!」
「落ち着いて!」
「やだ、降りる! ……あ、早く、早く戻らなきゃ、東京に……、」
【xxx】
「東京コンセルヴァトワールと各機関の繋がりや資金源について調べてみたのですが、その中で、どうも不穏な計画が浮き彫りになりましたよ。少し話が逸れますが、古くはバロックの時代から古典派、ロマン派、近代、現代、そして今やクラシックを凌いで世界の音楽の中心となっているジャズやポップスと云った音楽、実はこれらの音楽の区分けは、様式の他にも『その音楽が何処で栄えていたか』と云った観点からも行う事が出来るのです。例えば、現在ではジャズやポップスが全盛ですが、これらの大本の発信地はアメリカです。その時代の音楽の中心地、──それは、その時代の最も力、──財力、政治的な影響力、知名度等……ですね、そうした物を持った国なのです。音楽とその国の力というものは等しく発展するものなのですよ。19世紀初頭にはフランスで現代音楽が栄え、その後はドイツやイタリアに分散し、そうしたヨーロッパの各国が第二次世界大戦で凌ぎを削り合った結果、戦後の音楽の中心地は自国で戦争を行わなかったアメリカに移ったと云う訳です。……そして今、音楽の中心地を再びフランスに据えようと云う計画の情報を得ました。それはつまり、フランスに財力、政治的影響力、今では軍事力も欠かせませんね、そうした力を集め、フランスが世界を支配する時代を作ろうとする事です。そうすれば自然、音楽の中心地もフランスに移る事になりますからね、コンセルヴァトワールの中の一組織が何やら、小細工を行っているようですよ。不思議な事に、彼等の通信文書の中に『クシレフと遭遇』と云った言葉が多く見られたのです。クシレフとは、恐らく独裁者の地位を望む者。第二次世界大戦時のファシズムを思えば間違いはありません。ルクセンブルク嬢、あなたが磔也君の意識の中で聞いたと仰った、『クシレフはあらゆる肉体の壁を飛び越えて自分の前に現れた』と云う言葉と合わせて、意識レベルで独立した存在、そして彼は恐らくあらゆる固体を転移して生き延びる。私達が会っただけでも、最初は幻想交響曲の世界の中に、そして磔也君がそれをメモリカードに保存して水谷に与えた。クシレフが今、そうして東京に止まっている理由が、東京コンセルヴァトワールです。東京コンセルヴァトワールは、そうしたフランスで計画の挙がっている、云わば世界へ向けたクーデターの為の中継地として東京を利用する気です。遺伝子学の研究も、応用すれば音楽家だけでなく軍隊への転用が可能です。また、専門技師や優秀な科学者といった存在も作り得る。それに、音楽はプロパガンダとして非常に有効です。ナチスドイツの政治は、音楽を非常に巧く利用した洗脳であったと云えます。ルクセンブルク嬢の前で失礼ですが、あの聡明なドイツ人種がその計略に掛かってユダヤ人を敵と認識したのです。私は、今度のオペラの上演を一種の洗脳作戦だと予測します。被害の軽減の為、チケットの買収を計ったのですが、大半は回収出来ませんでした。何故だと思われますか。……殆どが、音楽大学や音楽高校等の団体で、学校行事、或いは必修課外授業として組み込まれていたからです。音楽を専攻する若者を「中心」に聴衆に選んでいる、……洗脳は怪しまれますね」
──……。
「ホールへは、実際に行くしか方法は無いと思われます。東京コンセルヴァトワールへ今後の対策としては、少々野蛮ですが資金源を虱潰しに絶つと云う方法を取りました。大分、協力して頂きましたよ。……副産物として、奨学資金の縮小を行った為に、海外へ散っている留学生の大半が東京へ戻る事になりました。シドニー・オザワ、彼女も帰国します。彼女へは特別に、ルクセンブルク女史の御名前をお借りしてコンタクトを取ってみました。恐らく、19日までには帰国することでしょう。今後、フランスで泳がせるよりは少々リスクはあっても、実際に東京で対面して置く方がいいかと思われます」
【4C】
「……、」
「レイさん? 気付きました?」
後部座席に寝かせていたレイが目を覚ました。亮一は莞爾と彼女に微笑み掛ける。
東京の外に出てしまった事が分かってしまったレイの取り乱しようは尋常では無かった。が、先日、孝も云っていたのだ。「異空間って、思っいきり東京(どころか日本、地球の……)外なんだけどなあ。でも平気そうだったし、自覚が無ければ大丈夫なのかな」と。その事も含め、亮一は恐らくは「東京を出てはならない」という認識はただの暗示だろうと考えた。そこを狙って、触り気無く東京都外へ連れ出してみる。「何故、出てはならないのか?」と云う感情を揺さぶってみる積もりで。
但し、そこは亮一らしく慎重を期していた。大火傷のトラウマを持つ人間に冷えた金属を当て、「あなたは今高温で熱した金属を当てられている」と信じ込ませれば負う筈の無い火傷を負い、皮膚が爛れたと云う実験結果もある。暗示でも人間が死ぬ事はあるのだ。だからこそ、先程彼女があまりに取り乱した時には、仕方なく一旦遮断能力を用い、意識を失わせた。目を覚ますまでの間、亮一が傍に付いていてやった所為もあるだろう、──大分、落ち着いたようだ。
「あなたは、自由なんです。東京に縛られなければならない理由など、何も無いんですよ? お父さんに付いてフランスへ行く事だって出来るんです」
「──嘘よ」
「本当です。さっき、あなたは東京の外に居たでしょう? 大分混乱されましたけど、実際にあなたには何が起こった訳でも無い。出られるんですよ、レイさん」
「信じられない、田沼さん、嘘云ってる」
「嘘じゃありませんよ。何なら、自分の足で出てみたらどうですか? ほら、もうそこが県境です。ほんの一歩足を踏み出すだけで、東京から出られるんですよ。……レイさん、あなただって色々な場所へ行きたいでしょう? お父さんに付いてフランスに行きたいでしょう?」
「……、」
目の前に、「山梨県」の道路表示がある。レイはふらりと身体を起し、車外へ出た。
「……、」
前方を見据えながら、レイはそれでも躊躇して足を踏み出せないで居る。亮一も運転席を降りてその横に立ち、彼女の肩にそっと手を置いてやった。
「俺も一緒に行ってあげますから。怖くなったら、ちょっと身体を引けばすぐ東京に戻れるんですよ。……ほら、……レイさん」
「……、」
レイはゆっくりと歩き出した。県境を跨ぐ時に、伸ばした足がガタガタと震えていたが、縋るように見遣った亮一が力強くも穏やかに微笑していた事が支えになったらしい。彼女は、とうとう自分の足で東京の外へ出た。
「……、」
「ね、……何とも無いでしょう?」
「……、」
突然、レイは腰が抜けたようにその場にぺたりと座り込んで顔を両手で覆った。深々と冷えた静かな空気の中に、しゃくり上げるレイの声だけがよく響いた。
「……何で? ……何で私、出ちゃ不可なかったの?」
「……今までの事は良いじゃ無いですか。……これから、あなたは自由ですよ、レイさん」
亮一はレイに合わせて屈み込むと、にこにこと優しい微笑みを向けて背中を軽く叩いてやった。
周囲に見える冠雪の、灰白色の濃淡が美しい。
【xxx】
葛城のアパートは文京区か……。
今からじゃ電車は無いだろうし、タクシーでも拾うか。
別に、あのまま倉菜の祖父の工房に居座っても良かった筈だ。が、何か──倉菜のあのきれいな顔を見ていると無性に自分が惨めに思えて遣り切れなかった。彼女の云う通り、こんな時に頼れる友人が居ない。唯一信頼していた冨樫からは──東京コンセルヴァトワールも含め──冷たく突き放されたし、姉にも養父にも会いたく無い。亮一は信用出来ないし信用されてもいないだろう。何より事務所包みでIO2とも繋がりがあったなんて、あんな探偵に関わるのはヤバい。然もにこにこ笑いながらピアノの蓋で指を潰そうとした奴だ。なんとか財閥総帥も然りだし、それを云えば東京随一の怪奇探偵、草間武彦と繋がりのあるシュライン・エマも同じだ。優男──御影涼、駄目だ、あいつだけは苦手だ。何故、あそこまで人が好いのか分からない。優しい人間は苦手だ。……(恐怖の対象でもあり、宿敵と云えるその兄は無論)ルクセンブルクも同じ理由で厭だし、天音神、──論外。名前を思い出すのも厭だ。
──となれば、矢張りここはちょっと脅せば多分黙って云う事を聞くだろう葛城樹しか居ない。
水谷のデスクから失敬して来た樹の履歴書を手に、(終電後のような深夜に押し掛けるという樹の迷惑は考えず)逡巡して通りに目をやった磔也の肩を、背後からとんとん、と叩いた手がある。
「あ……?」
振り返った磔也の顔色がはっきりと変化した。
「Cava ?」
目の前にあったのは、端正な少女の笑顔だ。シドニー、……磔也の声は上ずっていた。
「……いつ、帰って来た、」
返事の代わりに、少女は何気無い動作で磔也の腹部を押さえ付けた。激痛に悲鳴を上げた少年が蹲っても、東京の明るい夜では誰が目を止めるでも無い。
「厭だ、痛そう。……ねえ、ちょっと確りしたら? みっともないわよ、そんなに顔歪めちゃって。……ねえ、聴こえてる? もしかして、もうそこまで駄目になってる訳?」
「シドニー!」
「あなたが厄介な相手に情報流した所為で、皆が迷惑してるのよ。私だって奨学資金の縮小で呼び戻されちゃったの。……今後は、東京コンセルヴァトワールだってまともに機能出来ないわ。安心して、私はもう直ぐ自分でフランスに帰るわ。あなた、もう駄目なようだし、永遠のお別れになるわね。寂しいわ。昔のあなたは良かった。今はこんなに惨めだけど。……最後に、あなたのデータを貰って行くわ。来て頂戴。直ぐに終わるし、痛くないわよ」
「……お?」
夜の街を我が物顔で行く紹介屋、太巻・大介(うずまき・だいすけ)の目に、一組の男女の姿が映った。
未だ十代の少年少女だ。何やら、揉めている。傍目には痴話喧嘩でもしているようで、東京の人々は気にも止めずに通り過ぎて行く。が、少年の方は太巻の見知った顔である。久し振りだ──と思って見れば、彼は面識のある人間なら異常に気付かない訳は無い苦痛に満ちた表情をしている。一旦その光景を目に入れた太巻の目は誤魔化せなかった。
「……貸しでも作ってやるか」
揶揄かいついでに……。──太巻は、歩を進めた。
「よお、久し振りじゃねェか」
「……?」
磔也と、もう一人の端正な顔をした少女は同時に顔色を変えた。
「太巻……、」
「……どなたかしら、磔也?」
少女は太巻にあまり友好的では無い笑顔を向けた。磔也はと云えば、未だ腹部を押さえたきり俯いている。──本当に、手間のかかるガキだ。
太巻は磔也の腕を取って少女から引き剥がした。
「ちょっと?」
「ああ、ナンパならやめとけ。残念な事にコイツ、あっちの気があるもんでな。あんたみてェなきれいな嬢ちゃんには勿体無ェよ」
「何だとこの野郎──」
磔也が眉を吊り上げた所で、その反論を皆まで云わさず太巻は彼の顎を無理矢理持ち上げて──実際には頬の辺りに──キスをくれてやった。無論、クールで知的な女性を好む(然も妻子持ちの)太巻とこの不良学生が好い仲な訳では無い。単純に助けるのも面白く無い、のでどうせなら思いきり磔也が厭がる事をしてやろうと悪乗りしただけである。
「磔也!」
少女の血の気がさっと引く。同時に、太巻の頬が少女以上に顔面蒼白な磔也の平手で(本気で)張り飛ばされた。
「痛ェな、」
「何の積もりだこの変態、──痛……、」
「暴れるからだ」
暴れたのは誰の所為だ。少女は既に口唇を震わせ、2人を嫌悪感に満ちた目で蔑視している。──これで、追っては来ないだろう。
数十秒後には、それまで誰の注意も集めなかった磔也は一瞬にして人目に晒される事になる。彫りの深い顔立ちの、香水と煙草の匂いを漂わせた男に何やら仲良さそうに引き摺られて移動すれば、それは当然の結果である。然し、彼等の行き先は二丁目に在らず。
──「時空の狭間」。東京の人間がふとした弾みで迷い込む。ここは、太巻の縄張りだ。
「何があったかは知らねェが、おめェみてェなガキが美少女とイチャついてんのが気に喰わなかっただけだ。文句なら聞かねェぜ、」
「……貸しを作ったなんて思うなよ、」
未だ憎まれ口を叩いている磔也に、太巻は口の端に咥えた煙草の煙を吐き出しながら「医者、紹介してやろうか」と低く訊ねた。
「……、」
磔也は俯いたまま頭を振る。それを眺めながら、太巻は僅かに目を細めた。
「……何か、訳有りみてェだな」
──ぱさ、と音がして磔也が顔を上げると、目の前に「おくすり」と書かれた──病院の処方箋のような何の変哲も無い──紙袋があった。
「MS(硫酸モルヒネ)と抗嘔吐剤、抗生物質だ」
太巻は囁き声で中身を告げ、「とっとけ。困った時はお互い様、だろ?」と口の端に笑みを浮かべた。
「……、仕方無ェなあ、……『借り』といてやるよ」
紙袋に手を伸ばし、暫くしてから磔也は云い足した。
「……借りついでに、……太巻、……チャカ、用意出来ないか」
【7】
12月19日。ホールの入口で待ち合わせた面々は揃って中に入った。──譜面捲りの名目で、舞台袖に潜り込む事に成功したウィンを除いて。
「何かあったら、私はサイコで弦を切る積もりよ。そうならない事を願うけど」
別れ際にウィンもそう云っていたが、樹は予め複数の耳栓は持参していた。そしてメージを受けた精神を癒す効果のある呪歌を保存したPC。──磔也の置き手紙から、今日は必要無いかも知れないとは思いながら、念の為。
「……はあ、」
隅の方で、孝が肩を落として溜息を吐いている。本日はライトなピアノコンサートという事で普段通りの服装であるが、彼の気分の重さはコンサート後の予定にあるらしい。反面、セレスティは常通り穏やかながらもどこか楽しそうだった。
ちらり、と倉菜はそんな孝を見遣った。先日、自分の顔を視て露骨に厭な顔をされた事が今だに気になっている。
「……、」
「……、」
ふと、視線を上げた孝は倉菜と顔を合わせた。
「……あ、」
「……、」
ふい、と顔を反らした倉菜の許へ駆け寄り、孝は突如頭を下げた。
「ごめん、」
視線を戻した倉菜は「?」と首を傾いでいる。その顔を相変わらず複雑な心中で眺めながら、孝は低声で告げた。
「君、俺の妹に似てるんだ」
「え?」
「……そんで、吃驚しちまって、こないだは、つい。厭な思いさせたかも知れない、御免な、」
「……、」
そうして孝はそそくさと、再び倉菜から遠離った。
「……何だ」
そのあまりに肩身の狭そうな様子を眺める倉菜は、可笑しくてつい吹き出した。
「エマさん、」
亮一は隣に掛けたシュラインにそっと耳打ちした。
「緋磨から聞いたんですが、……先日は済みませんでした。……勝手に『遮断』してしまって。まさか、エマさんにそんな不都合が生じるとは思っていなかったので……」
先月の13日の事だ。後から聞いた所に拠れば、亮一の能力で遮断されてしまうとシュラインは声自体が発せなくなってしまうと云うことである。恐縮する亮一に、シュラインは苦笑したながら溜息を吐いた。
「良いのよ。……ま、仕方無かったんだものね。ただ、出来れば今度からは事前に合図して下さいね」
「すみません」
「……それより……、……田沼さん達の情報網って、本当に広いのね。緋磨さんの旦那様にまで御会いして、吃驚したわ」
「……まあ、色々」
亮一も苦笑いを返した。
その横で、礼儀正しい彼らしく既に今日からスーツ姿の涼はそわそわと開演前のホールを見回して居た。以前にセレスティが云った通り、学生が多くて見分け難い。
「葛城さん、」
涼は樹を掴まえた。樹の所に居ると聞いていたが、何でもまた再び直前に行方をくらましたと云う事だ。──太巻から穏やかで無い事を聞いた涼は、落ち着かない。
「磔也、来てる?」
「……分かりません、……ごめんなさい」
「いや」
莞爾と涼は微笑んだ。彼が『視て』も、磔也の気配は感じられない。──とすると、今日は来ていないのか……。
……が、未だ客席を見回していた涼はある一点で視線を止めた。
「……、」
とんとん、と亮一の肩が軽く叩かれた。
「亮一さん、俺、ちょっとあっちに移動するよ」
涼が一席だけ空きのあった前方を指した。──そこを見遣り、空席の「前」の人間を認めた亮一は微笑を崩さず、目だけを少しく細めて頷いた。
──会場が段階を経て暗くなり、開演を告げる、オルガンをサンプリングしたアナウンスが響いた。
【8】
プログラムは、ヘンデルからベートーヴェンまでの古典作品のみで構成したピアノソナタと小品だった。
オーケストラ等派手な構成ならばともかく、ピアノ一台では、今どき、音大生にも退屈な演目である。当初には怠惰な鑑賞姿勢の見えた聴衆には、然し演奏開始後から明らかな変化が訪れた。
厳密に設計されたホールの音響効果もあるだろう。クラシックの演奏に最も適した残響は2秒と云うことだが、ユーフォニアハーモニーホールは見事にその条件を制していた。
──それ以上に、……否、その両方の条件を備えていた所為か、シェトラン、結城忍の演奏が壮絶だった。
別段派手な訳では無い。基本的に、楽譜に忠実な古典派が専門らしい演奏である。が、そもそも独奏と云うのは尋常では無い集中力と情熱を必要とするものだ。綱渡り、と云うが、そんなものでは無い。ピン、と張った一本の細い糸の上を、バランスを崩す事無く、真直ぐに進む状態だ。それを達成し得るヴィルトゥオーソの演奏は、特に同じく演奏を専攻する者ならば直ぐに理解して目を見張る。
──周囲の音大生達の熱心な態度を眺めながら一同が感じた事は、もしもこの熱狂がプロパガンダに利用されれば……、と云う予感である。
然し本番自体は何事も無く過ぎた。勿論、演奏上のミスを含め、何事も無く。
アンコールで再び舞台に現れた時、傍にはウィンが楽譜を持って付き添っていた。
無愛想に曲目紹介も無く奏され出した旋律を聞いた樹は、はっと身を乗り出した。──覚えのある旋律だ。
──『妖精の踊り』、
グルックのオペラ、「オルフェオとエウリディーチェ」の中の一曲だ。フルートの優美な旋律の曲だが、ピアノ一台用に編曲してある。
「……、もしかして、」
これが予告編だとすれば、可能性として、明日のオペラでのバンダは、オーケストラでは無いのだろうか。例えば、全曲をピアノ一台で演奏出来るように編曲してあり、ホールの構造と「オーケストラピアノ」を合わせ、「一人の音楽家」でもオーケストラに匹敵する効果を上げられる事を証明する為……。
【xxx】
魔法少女☆あまねちゃん──基い、淡い緑の髪を背中まで垂らし、金色の大きな瞳をどこか不機嫌そうに吊り上げた美少女はやや俯いて淡々と語り出す。
「……今日は、クシレフは居ない。本番はあくまで明日。今日は前夜祭だ。全ては明日起こる」
他には? と命令者本人であるセレスティは先を促す。
「過去の記憶が知りたいですね」
「えと。先ず、シュラインさんの仮説は大体当たりだ。つまり、結城家の連中の素性だけど。……あと、この人、冨樫氏も元はと云えば洗脳、つか教育された人らしいな。……この人が……これ、何だろ? (孝はあまりこちらの世界の固有名詞には詳しくないらしい)何か、管楽器。これを始めたのが10代の時で、そこで東京音楽才能開発教育研究所付属の音楽教室に通ってた。その頃から、この人の思考が段々、何つーか、妙に腹黒くなって行ってるような」
「矢張り、教育と云う『暴力』ですか」
シドニーは、終演後の混乱に紛れて姿を消した。
樹やウィンの対策は決して無駄では無かったが、今日ばかりは何も不穏な事は起こらずに終わった。──逆に云えば、磔也の警告が真実であったと云う事だ。だとすれば、「20日はヤバい」と云う言葉も的中する筈だ。
セレスティと孝は冨樫を解放して意識を失わせてから、レイを連れて脱出した。シュライン、倉菜、亮一、涼、樹は周囲のの音大生達と共に一般客としてホールを後にし、途中でウィンが合流した。
「ちょっと肩透かしだけど、今日だけでも無事に終わったのは良かったわ」
歩きながら、ウィンがそう笑顔を見せた。
「近くで忍さんを見ていて、何か気付いた事ある?」
シュラインが訊ねる。ウィンは肩を竦めた。
「んー、……あれがシェトランなのね、って感じかしら。……何だかね、怖いくらいなのよ、あまりに集中力が鬼気迫っていて」
「ウィン従姉さん、」
横合いから遠慮勝ちに声を掛けたのは樹だ。
「従姉さん、あのアンコールの楽譜なんですけど、……誰が編集したか、分かりませんか」
ああ、「妖精の踊り」ね──。とウィンは微笑んだ。
「忍さん本人よ。楽屋でちらっと見たけど、どうも『オルフェオとエウリディーチェ』全編、オーケストラパートのピアノ編曲譜があるみたい」
矢っ張り──。
「明日ね、全ては」
【zero】
──どうして?
なんで、こんな事になってるの?
ただのピアノコンサートじゃない、何を皆警戒してるの?
なんで、私は今まで東京に居たの?
冨樫さんを信用しちゃ不可ないってどういう事?
磔也が見殺しにされたってとういう事?
たかがコンサートじゃない、何が起きるって云うの?
──もう厭だ……、
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】
NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】
【渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生】
【太巻・大介 / 男 / 30 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】
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■ ライター通信 ■
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相変わらず、長らくお待たせしてしまいました。
更に今回は理屈が多く、あまりに長い個別パートに辟易されたかと思います。
本当に申し訳ありません。実力不足を痛感します。
それにも関わらず、続投を頂いた皆様、本当に有り難うございました。
今回、受注時に取ったアンケート結果は以下の通りでした。
1)里井薫に刺される。(重症)…………3
2)里井薫に刺される。(瀕死)…………0
3)里井薫に襲撃されるも、返り討ち。…1
4)ただのプチ家出。………………………6
重複不可、とは書いていなかった為、敢て二重回答もそのままカウントしました。
内容が内容だけに微妙な所で、多数決よりも数を反映した積もりです。
然し全体的な話の流れをこうしたアンケート式で決定するのも面白いと思いましたので、今後色々な点で取り入れて行こうと思います。
連載開始当初はそんな積もりでは無かったのですが、どうも今回のシリーズでは理屈が多いです。音楽理論、耳鼻咽喉学、生体学等に関しては一応の下調べはしてありますが、私は専門家ではありません。表記に誤りがありましたら、御自分のPC設定、プレイング内容の読み誤りなどと合わせて遠慮無く御一報下さい。
次回、最終話の受注は12月29日月曜日、午後8時から行います。
最終話には3つのシナリオ分岐アンケートを設定しました。
PL様方は恐らく今、モニターの前で呆れ返っておられるかと思いますが、気分が乗れば最終話にも参加してやって下さいませ。
尚、後日談としては最終話の後に一話、独立して受注を考えています。
反省点を抱えたままですが、今回御参加頂いた事に心より感謝致します。有り難うございました。
■ 田沼・亮一様
田沼様のお陰で、結城レイは今後自由に東京を出られるようになりました。有り難うございました。
尚、WRの認識に誤りがあった事と今後の参考の為に報告しますが、エマ嬢は遮断された場合、声自体を発する事が出来なくなります。今後はその点もどうぞ御一考下さい。
某氏にも大変お世話になりました、とお伝え下さいませ。
x_c.
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