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■音楽都市、ユーフォニア ─破壊へのカコフォニー─■

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【2194】【硝月・倉菜】【女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】
 十二月の空気の下に放置していた銃身は冷やりとしていた。
 その冷たさが体温と同化するまでの僅かな間だけ、傷の痛みも耳鳴りの不快感も漠然とした不安も、全て感じずにいられた。
 十七年間、時間の流れは残酷な程に遅かった。苦痛な程に退屈な、長い前置きだった。一つだけ分かったのは、待っていても誰も爆弾を落としてはくれないと云う事だ。
 他者に何を求めても、壮大な破壊は与えられない。
「……只で死ぬ気は無いからな」
 結城・磔也は生気の無い目を細めて呟いた。

──お前も道連れだ。
音楽都市、ユーフォニア ─破壊へのカコフォニー─

【xxx】

──ユートピア国家の理想は軍部と専制政府の完全なる支配下に因ってこそ実現され、それでこそ研究に於ける完全なる秩序とその研究を通じて芸術が目指す素晴らしい成果が保証されるというものである──

 東京音楽才能開発教育研究所内の大ホール。客席は暗く、伽藍としている。ただ一人、冷めた瞳をした未だ幼い少年が独りだけ、二階席の隅で舞台上のピアニストが奏するソナタに耳を傾けていた。
 少年がぼんやりと耳許に手を翳した時、彼の背後からその肩に手を置いた人間が居る。
「……──先生?」
「……いや、」
「──……?」
 見知った筈の人物の、異質な表情を子供らしい敏感さで悟った彼は眉を顰めた。
 その男は笑みを浮かべた視線を舞台に向けたまま、少年の耳許で囁く。
「どう思う?」
「……上手い。……部類なんだろう」
 子供らしく無い、捻くれた返答だ。男は満足気に頷いた後で、どこか相手を話に引き込む力の在る朗々とした調子で語った。
「そうだ。彼は世界に向けても充分に通用する実力を得た。だが、所詮は旧式なんだ。君は頭が良いな。そしてそれは冷静な評価だ。君の感性に間違いは無い。彼のピアノは素晴らしい、だが、退屈だろう。時代は進化して行く、今やただ上手なだけでは世界の目を惹き付ける事は出来ないぞ。何かが、必要なんだ。残念な事に今時の聴衆は贅沢でね、美しい和声などただの背景としてしか認識出来ないんだ。然し、限界を極めた技術の巧みというものは芸術の枠を越えて万人を魅了する。いいかい、今、こうして私と君がお喋りしている内にも時間は流れる、その一分一秒の間に、世界は進化しているんだ。その進化の最先端を行く技術を、君ならば得られるぞ。どうだ、君は世界が欲しくは無いか」
「……別に」
 然し、少年の目には本当に僅かな、余程注意しなければ見逃してしまいそうな動揺が見えた。男はその変化を見逃さなかった。
「見給え」
 舞台の袖に、じっとピアニストを見守る少女の姿があった。彼女を見遣った少年は口唇を半ば開いて、声を発する前に押し止めた。
「君のお姉さんだ」
 少女の陶然とした瞳は、ただピアニストだけに向けられていた。こんな暗がりで交わされる、少年と男の会話には気付きもしない。
「表現など、極めようとすればキリが無いぞ、仕方無い事だ、音楽は人類の歴史を遡った太古から存在する。然し、技術には最先端が存在する。時代の最先端を極めた者が勝者だ。勝者には全てが与えられる。……彼女の意識など、簡単に手に入るぞ」
「……、」
「来なさい」
 男は、少年の腕を取って立たせた。舞台上では、演奏を終えたピアニストにパパ、と歓声を上げた少女が駆け寄った所だった。
「君に最高の高みを見せてやろう。先ずはリストだ。今でも、彼の超絶的な技巧を全て弾き切れる奏者はそうそう居ない。だが君はそれを全て得る。然しそこで安住しては駄目だぞ、新しく生み出され続ける技術も知識も、絶間なく吸収するんだ。その為には特訓も勉強も必要だが、耐えられるな?」
「……、」
 未だ、未練があるように舞台を振り返って少女と、その頭を撫でてやっているピアニストを見遣った後に少年は頷いた。男は満面の笑みを浮かべて頷き返す。
「良いだろう。──自己紹介をして置こう、私はクシレフだ。……後で君に、私を見つけ出す為の合図を教えて置こう。簡単な旋律だよ。私はその旋律を象徴として、何処にでも、君の為に現れよう」
「……クシレフ、」
「私と一緒に革命を起そう。君に、ユーフォニア──音楽一つで君の意のままに動く世界をプレゼントしてあげよう」
「……音楽に何が出来るって?」
 少年は幼い顔立ちに似合わない、嘲笑的な笑みを口許に浮かべた。
「何でも出来るぞ。人間の精神を操る事も、世界の流れを決定する事も、何でも。音楽は絶対だ。但し、生易しい美学は不可ないな。情は捨てる事だ。後々、役に立たない所か邪魔になる」
「……クシレフ、」
 何だ、──男は笑顔で頷く。
「──俺に世界を見せてくれ。……その為なら、あんたの云う事を聞く」
「上出来だ。──結城磔也君」

 『Dies Irae 怒りの日』の旋律と共に、その日から少年の世界にクシレフの思想が君臨する事になる。

【12:00_AC】

「どういう事です、太巻さん!」
 朝も早くから、寝起き早々太巻・大介(うずまき・だいすけ)は何やらお怒りの様子の客人の訪問を受けた。──やれやれ、と肩を落としながら煙草を咥え、火を点ける。
「──何の事かなァ?」
 吐き出した紫煙は、その客人が「惚け無いで下さい!」とテーブルを叩いた衝撃でゆらりと歪んだ。
「涼から聞きましたよ、あなた、磔也君に拳銃を渡したそうじゃ無いですか! 未成年に、それもあんな常識の無い子にそんな危険な物を、一体どういう積もりなんです!? 過激な玩具、では済みませんよ!!」
 まァまァ、と太巻は両手を軽く挙げ、悪びれもせずに笑顔を相手に向けた。
 先日、磔也は何処だと怒鳴り込んで来た医大生、御影・涼(みかげ・りょう)の知り合いだと云う探偵だ。同じ探偵でも遣る気無さ気な某怪奇探偵とは違い、背が高く、眼鏡の奥で元々は温厚そうな造型の、やや明るいセピア色の瞳を光らせた彼は最初から真剣だった。彼は先ず「吉岡探偵所と云う事務所の分局所長で田沼と云うものですが、」と名乗った直後、間髪を入れず先程のように捲し立てたのである。
 厄介な事になったなあ……、と太巻は頭を掻き回した。探偵、田沼・亮一(たぬま・りょういち)の傍らには硝月・倉菜(しょうつき・くらな)が、こちらは押し黙っていたが冷め切った目でじろりと太巻を睨んでいた。──サツより余っ程面倒な連中寄越してくれたもんだ、あのガキ。
「知ら無ェよ、本人がくれっつぅからやったんだぜ、」
「だからって普通、はいプレゼント、って与えますか、実銃なんか!」
「もう直ぐクリスマスだしなァ、」
「そういう問題じゃ有りません!」
 のらりくらりと躱す太巻の知る所では無かったが、実は亮一がここまで語調を荒げるのは尋常な事では無いのである。──然し、このままでは幾ら問い詰めた所でまともな返答など得られないと察知したか、亮一はややして溜息を一つ吐くと、大分静かな調子になった。
「──まあ、一旦彼の手に渡ってしまったものは仕方ないですね。あとは出来るだけ被害に発展しないようにする事です」
「……ガキの喧嘩の後始末までしてやる気は無ェぜ、おれは」
「安心して下さい、あなたには任せません。俺達で、何とかしますよ。一つだけ教えて下さい、磔也君が今現在手許に持っている銃の種類、それと弾数を」
「──ニューナンブM60。弾はデフォルトで5発、予備は渡して無ェ」
 亮一が眉を顰めた。──ニューナンブ、警官が多く所持している銃だ。どうせロクなルートで入手したものでは無いのだろう。──それはさておき。
「……微妙な所ですね、もう少し体格が良ければ筋肉痛で済むかも知れませんが、彼の体型だと……、」
 自分との身長差から考えて、磔也の身長は171、2センチ程度だろう。同年代の少年の中では標準的だが、あまりスポーツ等で鍛えた風でも無く、インドア派の音楽家らしい華奢な体型だ。危険だ、と亮一は思う。
「……磔也君、発砲経験はあるのかしら?」
 倉菜がようやく口を開いた。ニューヨーク育ちの彼女は実銃にも多少の知識がある。2人が気にしているのは同じ事らしい。
「無ェだろう。粋がってんだよ、ワル振りやがって。受け取った時、吃驚してたからな。もっと軽いもんだと思ってたんだろう」
「全く! ……普段はあれだけ指がどうのこうの、と云っている癖に。訓練していない人間が軽率に発砲したりすれば、肩を痛めるんです」
「38スペシャル位ェ、大丈夫だろう。あれでも男なんだからよ」
「……壊れてしまう、……楽器が……、」
 倉菜が顔色を変えて呟いた。冷静な彼女だが、楽器の破損に関しては敏感だ。
「楽器?」
 舞台上の楽器の事だろうか? と亮一は訝った。が、倉菜は「磔也君」と呟く。
「楽器……彼がですか?」
「……、」
 他人には到底理解出来まい、実は倉菜が極度の楽器マニア且つ人間慣れしていない性格である事から、気を遣う相手は「一人で一種の楽器」と認識された楽器奏者だけだと云う事など。
「何はともあれ、発砲自体させない事ですね。……余計な危惧を増やしてくれますねえ、……磔也君……」
 亮一はやっと笑顔を浮かべた。但し、あまりにも不穏な。太巻は肩を竦め、見なかった事にする。
「撃たせないわ。絶対に。……あんな人達の為に、(大事な楽器である)磔也君は腕一本だって犠牲に(演奏不可能なまで破損)する事は無いもの」

「俺はこれからセレスティさんのお邸に戻りますが、硝月さんはどうします? ──レイさんを呼んであるんですが」
 適当な所で太巻の店から引き揚げ、亮一は時計を見ながら倉菜に訊ねた。
「……そっちは田沼さん達にお任せします。私はホールでゲネプロを見ておきます」
「そうですか」
「4時位からはオーケストラピアノを弄れるみたい。弦を私の造った物と取り替えて、本番ではこっちで調整出来るようにしておきますからピアノの事は任せて下さい。それと多分、スタッフとして顔が通ると思います、何かあったら呼んで下さい」
「分かりました」
 それと、と云いながら倉菜は鞄を探った。
「皆さんにもこれを配っておいて貰えませんか」
「これは?」
 倉菜が亮一の手に乗せたサブバッグはずしり、と重い。
「耳栓とMDプレイヤー、イヤホンです。人数分。……MDプレイヤーの中身は、樹君が用意してくれました。混乱した精神を鎮める呪歌だって。妙な気分になったら、これを聴くと良いと思います。万一の為に、皆各自持って行った方が良いと思うので」
「万一……、」
「磔也君が、忠告してくれたから。騒音対策をしておけ、ヤバくなったら逃げろって。……勿論逃げる気は無いけど、騒音対策は必要だと思います。それは煩いだけじゃなくて、不快な音──不協和音(カコフォニー)である可能性も高いと思うし、何が来るか分からないから」
「分かりました、じゃあ俺も一組預かっておきますね。有り難うございます」
「お願いします」
「調律、ですか。いや、細工かな。大変でしょうけど頑張って」
 そこで亮一は寄り道してからセレスティの屋敷に、倉菜は巣鴨へと向かった。

【13:00_A】

「お早うございます」
 午後1時、G.P.(※ゲネプロ・ゲネラルプローゼ/本番と同じ手順で行う最後のリハーサル)前の準備で慌ただしく人員が立ち回る巣鴨ユーフォニアハーモニーフォールに赴き、倉菜は手近なスタッフに取次ぎを願う意を込めて挨拶した。
「……はい?」
 コートを脱いで片手に掛けた倉菜は、ラフなジーンズ姿である。裏方でも大抵がスーツを着用しているオペラ関係者の中で、彼女はやや異質だった。もう一方の手にした鞄には調律用の工具を含め、本番の為、簡単だがフォーマルな服装も一応は用意しているのだが。
 倉菜は少し考えてから自己紹介した。
「あの、硝月と云いますが。……結城さんの紹介で、オーケストラピアノの最終調律をさせて頂く事になっていると思うんですけど」
 あの無愛想なメモの文面では、倉菜としても一体どう辻褄を合わせれば良いものか判断に悩む。取り敢えず、無難にどうとでも取れるよう磔也の名前や詳細を省略して答えた。
 ちょっとお待ち下さいね、と詳しい事情を知らないと思しい彼は手近な内線電話に向かい、直ぐに戻って来た。
「はいはい、硝月楽器工房の方ですね? 本日は宜しくお願い致します」
「こちらこそ」
「ただ、ですね、最終調律は4時からの予定なんですが。未だ、ゲネプロも始まってないんですがね、」
「分かっています、ただ、調律と一口に云っても微妙な調整が必要ですから、結城さんの好みやソリストの音感等を把握しておきたいので。ゲネプロから見学させて頂こうかと思って」
「ああ、そうですか。いや、御丁寧に」
 恐縮しながら、じゃあ、と云って彼は腕時計に目を落とした。
「客席のどこでもお好きな所でどうぞ。ただ、両端にはカメラが入っているので御注意下さい。演奏中で無ければオーケストラピットに話し掛けて貰っても構いません。結城ですが既に打ち合わせに入っていますので、ちょっと今挨拶に来られませんから」
 ──上手く行った。倉菜はありがとうございます、と頭を下げ、その視線を上げてちらりと周囲を見回した。
「──所で、一言御挨拶したいんですが水谷さん、居らっしゃいます? ……お忙しければ後でも良いんですが」
「はあ……、」
 下っ端は何も知らず、柔軟な応対が出来ないものだ。再び指示を仰ぐ可く、内線に向かいかけた彼は然し、そこで物陰から現れた男に押し止められた。
「あ、後は僕がやっておきますから、舞台の方宜しく」
 お願いします、とスタッフは去って行った。くるり、と倉菜に向き直った男は30代前半程度で、管奏者に有り勝ちな確りとした体格の青年だった。後ろで纏めた髪も長く、恐らくは演奏者だろう。愛想良く、温厚そうな笑顔を倉菜に向けているが妙にその笑顔は空虚で、本心から信用を於けない気がした。
「水谷さん、ちょっと立て込んでるんですよ。多分今日は一日バタついてるだろうから、もし見掛けたらその時にでも簡単に挨拶しておけば良いですよ」
「……そうですか、」
 じゃ、と客席へ向かおうとした倉菜を、彼は更に引き留めた。
「君、硝月楽器工房のお嬢さんらしいですね」
「……ええ?」
 首を傾ぎながら、──厭な予感がする、と倉菜は俄に警戒した。
「初めまして、僕は冨樫と云うんですが、トロンボーンやってるんです。オケにも幾つか所属してるんで、周りの連中から良く聞きますよ、お祖父さんの工房の事は。特に弦奏者から信用出来るって聞きますね。そうか、あそこのお嬢さんかぁ、──楽しみにしてますね、あなたの腕前」
「……どうも」
 癪な物云いだ。倉菜の素性が分かっているんだ、と牽制したければはっきり云えば良いものを。憖、如何にも人当たりの良さそうな笑顔を保っているのが気に触る。
「……今日はオーケストラが入らないそうですけど、なのに何故管奏者のあなたが?」
 この際だ。倉菜も見え透いた探りを入れる事にした。が、その質問は見事に受け流される。
「あ、ただアドバイザーで呼ばれただけですよ。一応僕、インペクもやってますし。オーケストラで普通にやってる時と何か違和感があればとか何とかなんだけど、まあ、忍さんも無謀だしなあ、いきなりオケ一個をピアノ一台に。それもぶっつけ本番で。それで頑固な人でもあるし、どうせ僕が何云おうが聞かないし。リハーサルでも、一応副指揮くらい置けば、って注進したけど見事に却下ですよ、まあ、礼儀として形だけ顔出しとけ、って事かな」
「そうですか。お疲れ様です」
「……あー、そうそう、……君、」
 さっさと切り上げようとした倉菜を、冨樫は不意に──やや声の調子に不穏さを滲ませて──呼び止めた。
「はい?」
「君、磔也君とも仲良いんだそうですね。──あ、当然か、あの磔也君が調律に推薦するんだもんなあ、こんなうら若いお嬢さんを。彼、音には厳しいのに妙に信用してた風だから不思議だったんだけど」
 倉菜は息を詰めた。緊張の糸が急激に張り詰め、鞄を持つ手に力が入った。
「……磔也君の推薦?」
 ここは相手に倣ってまずは恍けてみよう。
「そうだよ、皆は忍さんの方だと思ってるけど。上手い事云ってたね、磔也君。普通は、結城忍さんが硝月楽器工房の親方を指定した、って思い込むし」
「……磔也君の事、御存じなんですね」
「そりゃまあ、忍さんとは付き合い長いから。彼とレイちゃんが子供の頃から知ってますよ」
「……、」
 倉菜はそこで開き直った。彼女の場合、怒りを覚えても興奮したり声を荒げる訳では無い。ただ、きゅっ、と吊り上げた眉の下の青い瞳が急激に冷めて熱を失って行った。

──あなたも、磔也君を実験道具として弄んだ大人の一人なのね。

 午前中に立ち寄ったセレスティ・カーニンガムの屋敷で、今回の騒動のあらましを聞いた。磔也は、プロパガンダとして理想するに理想的、且つ優れた音楽家である結城忍のクローンとして東京コンセルヴァトワールの前身機関で「生産」され、7歳までをそこで子供らしい自由も無く、抜きん出た才能を誉めそやされる「飴」と、無菌室で大人しく音楽訓練を受けていなければ重度の免疫疾患から何時命を落とすか分からないと云う「鞭」で、革命思想を植え付けられながら音楽漬けで「飼育」されたのである。姉のレイは、磔也に先立って試験的に作られた女性体でこちらは才能の無さが早々と発覚した為に放置されて来たそうだ。

「君、可愛いですね」
 徐ら、冨樫はそんな事を口にした。
「……そんな事無いと思いますけど」
 ある意味で「キレた」倉菜はあっさりと否定する。
「可愛いですよ。他人になんか全く興味持たない磔也君が気に入ってるらしいって聞いてどんな娘だろうと思ってたんだけど。成る程、磔也君の好きそうな顔だな。ちょっと冷たい、硬質そうな雰囲気が良いですね」
「何が仰りたいのか良く分かりません」
「ん、あんまり深入りすると怖いですよ、色々って」
 大した人間だ。大らかな事この上ない笑顔で冨樫はそう云い捨て、「じゃ」と舞台に上がって行った。
「……、」
 倉菜は無言で、そんな冨樫の背の高い後ろ姿を見送った。

「……、」
 オーケストラピットが覗き込める最前列の客席に落ち着いた倉菜に、中から豪奢なプラチナブロンドを垂らした美しいドイツ人女性が控え気味に手を振った。──ウィン・ルクセンブルクだ。彼女は今日、譜捲りの名目でオーケストラピットの結城忍に付き添う事になっている。どうやらG.P.から参加するらしい。
 微笑を浮かべて軽く手を振り替えした所で、倉菜は客席の隅と舞台上を行ったり来たりとしてうろうろしている一人の少年を認めて腰を浮かせた。
「──里井君!」
 見付けた。──逃がしはしない。倉菜は立ち尽くしている里井に素早く駆け寄り、華奢な彼女が一瞬ぎょっとするようなそのか細い腕を確りと捉えて人目の死角に引き寄せた。
「見付けた。聴いたわよ、あなた、何て事するの!? 惚けても無駄よ、磔也君、本当に危なかったんだから! 虐められてたか何だか知らないけど、やり過ぎよ、それに卑怯だわ。お腹だって立派に楽器の一部なのよ、それに修理しようも無い程壊れてしまったら取りかえしが付かないじゃない!(この辺りの主張には彼女なりの理屈があるのである)」
「いや、……あの、僕、」
「男でしょう、云い訳しないの!」
 問答無用、ぴしゃりと云い放った倉菜に、肩を竦めた里井がひっ、と上ずった悲鳴を上げた。
「良い、あくまで歌っている内はあなたでも立派な『楽器』だから赦してあげる。でも、絶対に楽譜通りに歌うのよ。私は正確じゃ無い音は直ぐ分かるから、もしも何か企んで違う事を歌ったり妙な振動数の声を出したりしたら──、……その時こそ本当に許さない」

【16:20_AF】

 厳密なクラシック界に於いても、リハーサルやG.P.が時間を押すのは良くあることだ。予定より20分遅れてG.P.は終了し、スタッフの一人が倉菜の許へやって来た。
「すみません、押しまして。でも本番までの余裕は見てありますから。半くらいから、最終調律、お願い出来ますか」
「分かりました」
 倉菜は立ち上がり、一旦ホールを出て通用口からオーケストラピットへ入った。
 中には未だ忍とウィンが居る。
「……、」
 倉菜は素早く視線をピット内部に走らせた。
 このホールは、恐らく元々オーケストラを入れる気など無かったのだろう。無論、オーケストラを収容出来るだけのキャパシティはある。が、内部の構造は殆どオーケストラピアノの為だけにあるようなものだ。
 パイプオルガンを連想すれば良い。壁に同化したピアノは一見アップライトのようだが、弦と共振体の構造がオーケストラピットからホール全体に接続されているのだ。
 振り返った忍に、倉菜は頭を下げて挨拶した。
「先日はどうも。硝月楽器工房の者です、今日は最終調律を任せて頂く事になって」
「──ああ、そうですか。宜しくお願いします」
「何か御希望はありませんか」
「特には。全体のピッチは現行のままでお願いします。それだけは変えないように。──それと云うのも、このピッチの振動数が丁度ホール全体の共振になっているので」
 ──成る程ね、少しでもその共振が得られなくなると困る訳だわ、と倉菜は表面上真面目に頷きながら思う。
「分かりました」
 勿論、要望通りで調律はしてやる積もりだ。どうせ、彼ほどの演奏家なら僅か1ヘルツ、否0.1ヘルツの変化でも直ぐに気付いてしまう。──調律はあなたの思い通り。但し、全体的にホールに及す影響の主導権はこちらに貰うわ。いざと云う時には弦自体を消滅させて消音させて貰うから。
 ウィンと擦れ違い様、倉菜は無言で彼女にある物を押し付けた。目配せを交わして受け取った物を眺めたウィンは苦笑した。──オルフェオの衣装だ。

【16:30_A】

 時間が無い。ただの調律ならば1時間もあれば充分だが、何しろ弦を全て取り替えようと云うのだ。まともにやれば数人掛かりで1日仕事である。ここは能力を使うしか無い。
 ──どうせ元々、能力で具現化した弦を張る積もりだったので同じ事だが。

【18:15_ABCDH】

「レイさん、」
 とんとん、と肩を叩かれたレイが振り返ると同時に、シュラインが手に何かを滑り込ませて来た。ちらり、と視線を落としてこっそり確認すると、携帯電話である。
「シュラインさん……、駄目じゃない、電源切らなきゃ……、」
 未だ混乱している所為か、彼女はどうでも良い事を呟く。シュラインは微笑んだまま首を横に振り、耳許で囁いた。
「孝君と私からプレゼント。この携帯で、ホール全体の主電源と火災警報装置の操作が出来るようになってるの。操作は簡単だから分かると思うわ」
「……何で、私が?」
「お願い」
 シュラインは片目を閉じた。
「私達、連中への対処だけで精一杯だもの。観客の避難はあなたが先導して行って、ね?」
「……無理、そんな責任ある役目……、」
「出来るよ、レイさん」
 俺も横に居るから、と涼は笑顔を向けた。む、と唸って黙り込んだ後、レイは「分かった」と携帯電話の操作を確認し出した。
「じゃあ、そちらは安心してお任せして、と」
 シュラインは、レイに責任感からかやや真剣さが見えた事に安堵して着席した。
「田沼さん、今日はどんな感じ?」
 そして亮一に話し掛ける。どんな、とは……。──『今日はどんな感じで仕掛けてるの?』と云う事だ。彼の、「遮断」能力を。
 場慣れした人間にはある程度分かるものだ、超常的な能力が周囲に働いている時。
 亮一が微笑んで口を開こうとした時、作業着のジーンズでは無く、ややノスタルジックな淡いピンクのフレアスカートに白いブラウス、黒のカーディガンと云う服装に着替えた倉菜がやって来て、一同に軽く会釈して着席した。学生らしく派手では無いが、襟元に赤いリボンを結んでいるあたりがフォーマルらしい。
「まあ、保険ですかね。ピアノ自体は硝月さんが任意に操作出来るらしいので、一応、内から外への影響だけを軽減して」
「最悪、私はピアノの弦自体を消滅させます」
「……最悪?」
 何故最悪のケース? とやや気掛かりな事をシュラインが聞き咎めた。
「……余り、望ましく無いので。何故かと云うと、ピアノの弦と云うのは普通のグランドピアノでも数トン単位の張力が働いているんです。オーケストラピアノの調整をしながら構造を見ましたけど、構造的には教会や大ホールにあるパイプオルガンのようなものなの。普通はピアノの固体だけに掛かっている張力が、ホール全体に掛かっている。それを一気に消滅させたとしたら、反動が怖いわ」
「……良く分からないけど、もしかして壁がゴンゴン迫って来たりする?」
 先日セレスティの屋敷で聞いた、ベルリオーズのスプラッタ小説の内容を思い返して涼が訊く。作中では内側向けて迫って来るのは鋼鉄の壁だったが……。
 因みにこのホールは天井も壁も床も全て木である。クラシックコンサートに適した残響を提供し得る理想的な構造だ。
「まさか、それは無いと思いますけど。ただ、物凄く不快な音がするかも知れない」
「──はあ、耳栓はその対策も兼ねてる訳ですね」
 亮一は頷き、莞爾と倉菜に微笑み掛けた。
「何かあったら合図して下さい、『遮断』しますから。音、と云うのは微妙なんですが、ある程度は軽減出来ると思いますよ」
 だから安心して弦を切断でも消滅でも何でもして下さい、と。
「お待たせしました」
 ──と、そこへ現れたのがセレスティである。単身だ。一同の横には、2席の空席が残ったままである。

「涼さん、磔也君は……、」
 倉菜の問いに眉を顰めて涼は首を振った。
「……今日も、来ないのかしら、」
「来る訳無いわよ、あの卑怯者が、ヤバい事が分かってるような場所に」
 レイが未だこだわって憮然と呟くが、涼は「いや」と制した。レイには黙っておくが、実銃まで持ち出して来ない筈は無い。
「途中入場は出来ない筈だわ、休憩無しだもの、今日のプログラムだと」
「──出来ない、って云っても入口で止められるだけだろ? 通用しないよ、アイツには。……それか、急にどこかの窓とかから入って来るか──」
「磔也、裏口から入れる」
 窓から入るとか何とか、自分に取っても都合の悪い話題を反らす為かレイが口を挟んだ。「そうなの?」と涼は瞬いた。
「アイツ、関係者に顔通じるから。私だってしようと思えば出来るわよ。奏者の親族だもん」
「──そうか、……じゃ、何処から来るか分からないな」
 ──ともかく、彼の気配には常に気を最大限配っておこうと涼は思い極めた。
 
 そうする内にも、客席は段々と学生で埋まって行き、とうとう開演を告げるアナウンスが鳴って照明が落ちた。
「孝君と、葛城君は?」
 何も知らないレイが身を乗り出して(知らない事は何でも彼に訊けば分かるとでも思っているらしく)セレスティに囁いた。
「もう直にお見えになりますよ」
 ──そう、もう直ぐに……。

 但し、客席には現れないが。

【19:01】

「……うわぁ、ウィンさんキレイ……、」
 レイが呟いた。ウィンは譜捲りと云う裏方なので黒一色だが、それでも彼女らしく豪奢でセンスの良いドレスを着ていた。その服装で、輝かしい笑顔をちらりと客席に向けた彼女は同性(特に女を捨てた人間からは……)から見ても非常に美しい。
「……葛城君、……それに天音神君も勝るとも劣らないと思いますよ。楽しみに御覧なさい」
 傍らでカーニンガム総帥は何やら意味深長な事を宣った。

 一個のオーケストラに値する豊かな音色の幅と音量を持つオーケストラピアノ。
 結城忍、──シェトランの手に拠るそのオーケストラピアノで、序曲が流れ出した。
 暗転した舞台に、一条の光が射す。そこに照らし出されたのは、最愛の妻を失い、悲嘆に暮れるオルフェオの姿である。

「……ん?」
 レイは疑問を発しそうになって、慌てて声を飲み込んで内心で呟く事にした。
 オルフェオ……、別に黒髪のまま演っても良いんじゃないの? 鬘にしても金髪か栗色かその辺り……、──わざわざ、明緑色にしなくても。──にしても、どこかで見たような色だわ……。
「……ああ、葛城君です。彼は」
 序曲のダイナミクスに合わせ、囁きが漏れないよう低声で、然しどこか楽しそうにセレスティが答えた。
「か……葛城君!? 何で、里井薫じゃ無いの?」
 レイも愕然としながら低声で更に質問を。
「……と、天音神君です」
「!?」
 ──道理で、何処かで見たと思えば。……「あまねちゃん」……、孝の合体した魔法少女の姿である。レイを始め、結城家の人間にはお馴染みも良い所だ。
「……、」
 涼がちらり、と危惧したのは、もしこの場に磔也が乗り込んで来たとして舞台上の彼、否彼女の姿を見て激昂し、銃口を予定変更してあまねちゃんに向けてしまわないだろうか……、と云う事である。──まあ、流石に杞憂に終わるだろうが……。
「オペラでは化粧も濃いですし、要は、『天使の歌声』であれば良いのですから」
「はあ……、」
 天使ねぇ……、とレイはぼやく。あまねちゃんの美しいソプラノで、樹が主導権を持って歌唱力を発揮すれば確かにそれはもう天上の歌声になるだろうが……。──イマイチ複雑。

【19:11】

──Ah, se intorno a quest'urna funesta, Euridice, ombra bella, t'aggiri……

 オルフェオに先駆け、羊飼いとニンフのコーラスが歌い出す。通例は、そのコーラスも舞台上に配置されているものだが本日に限れば、舞台上には抽象的、且つ現代的な演出の舞台装置の中に居るのはオルフェオ……嗚呼もうややこしいのであまねちゃんにして置こう、彼女だけである。──コーラスは、何時かのように3階バルコニーから「降り注いで」来た。

「……成る程……、」
 セレスティは片方の眉を少しだけ持ち上げ、口許には笑みを浮かべて「彼等」を見上げた。
「……何れにせよ大人しくしては居ないと思いましたが。──まあ、宜しいでしょう」

──オペラが上演されている内は、出演者ならば限界までは起きていても許しましょう。

【19:27】

「……、」
 シュラインが、俄に耳を覆った。片手で倉菜から貰った耳栓を探ろうとして、──然し、と思い留まったように再び仕舞う。指先でこめかみを押さえ、眉をやや顰めて俯くことで我慢していた。丁度、第一幕の終わりに近いレスタティーヴォをあまねちゃんが、それこそ天使のような歌声で歌っていた時だ。
「シュラインさん?」
 亮一が顔色を伺いながら訊ねた。──「遮断」します?
 いいえ、とシュラインは手を振って亮一を留め、倉菜に耳打ちした。
「──気付いた?」
「……、」
 倉菜も黙ったまま頷いた。──妙な音が紛れ込んでいる。
 不協和音では無いし、楽譜から外れた音は特に音に敏感な彼女達二人が耳を澄ましても聴こえない。──が、何か、強拍(※便宜上、ここでは小節毎の一拍目と定義する)毎に心臓に響くような、神経に触るリズムが刻まれているような気がする。
「──……、」
 それを受け、セレスティが耳を澄ました。彼は直ぐにああ、と頷く。
「コンティヌオ──通奏低音です。古典作品の多くに見える、伴奏のバス声部。大抵はバス音や和音記号等が示されているのみで、内声は奏者の即興性に任される。……どうも、そこにある振動数の倍音が発生するようなばかりを選んでいるようですね」
「……、」
 どうしよう、と倉菜は逡巡した。何か、不協和音で無くとも特定の音域で人間の不快感を煽るような音が存在する筈だ。それがどの辺りの声部かは、今暫し様子を見れば自分なら割り出せるだろう。──が、良いのだろうか。こんな当初から弦が切れれば、結城忍が異変に気付かない訳は無いし、こんな大掛かりな構造のピアノの弦を切った結果の影響も明確には分からない。それに、自分達でさえここまで不快感を味わっているのだ。周囲の音楽専攻学生達、──一般人で、その上音には敏感な人間が多いだろう彼等にも直ぐに悪影響が出る筈だ。のんびりしていて良いものか。

 舞台上では、彼(女)もまた異変に気付いたらしいあまねちゃんが、少しでもその影響を軽減す可く、不快音──カコフォニーへ呪歌で対抗し続けている。
 ──樹君が頑張ってる、……でも、どうしたら……。

「……気持悪い」
 徐ら、レイがそう呻くと口許を押さえて項垂れた。レイさん、──涼が慌てて支える。
 
 オーケストラピアノの壮大なダイナミクスと、あまりに反響の良いホールに響く音楽は最早、そこまで騒ぎ出した彼等の物音をさえ掻き消していた。

【xxx】

『低周波振動公害』
 
 ……新幹線や多数の大型トラックなどが高速走行すると、その重量やエネルギーは非常に大きなもので大地をも揺るがす。
 こうして発生する振動は大地と云う非常に大きな面積と大きな質量であるため、物理的にも必然的に波長が長くなる。このため、可聴域以下の低い周波数帯域(20Hz以下)の振動が発生し、大きな振動エネルギーで波長も長い事から広範囲に伝播する事になる。

 ……循環系への影響/生物には外界からの刺激に抵抗して体の中を安定した状態に維持しようとする働き(恒常性)があり、これを維持する為には交感神経の反応や、下垂体副腎皮質の系統などが関与すると云われている。振動刺激に対しては、交感神経に影響が現れ6Hz近傍で心血管系の反応が顕著に現れる。

 ……呼吸系への影響/呼吸系への共振周波数と考えられている3あるいは4〜6Hzにおいて著明。上下振動では呼気の場合6Hz、吸気の場合5Hz、水平振動に対しては呼吸ともに3Hzに最大の山があると認められる。
 
 ……消化器系への影響/交通車両従業員で胃症状が訴えられる率が高いが、これも4〜5Hzにおいて最大の影響が認められている。

 ……心理的影響/ストレス、不快感、苦痛、不安感、恐怖感などをもたらす場合が多いことが知られている。

 以上、振動音響療法的見地からの雑学を蛇足ながら述べてみた。

【19:32】

 オペラは第2幕へ移行し、愛の神アモールがそろそろ登場するか、と云う時である。

 ──ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…………!!!!

 突如、幾ら火災警報装置と云え「有り得ない」程姦しいベルが響き渡った。元々注意喚起の為大音量に設定されている警報が、ホールの反響を借りて増幅されたと思えば当然である。
 大した騒音だ。東京コンセルヴァトワールなんぞが出て来ないまでも、これだけで充分音楽──とは云えないが「音の暴力」だ。
 最初の1秒程を聞いた時点で、予めその事が頭に合った一同だけは耳栓が間に合った。他の観客はと云えば、驚く、慌てるの前にあまりの姦しさに耳を塞いで絶叫している光景が多々見受けられる。

「早いよ、レイさん!!」
 ──幾ら何でも! レイが蹲ったと思ったら、片手ではちゃっかり例の携帯電話(=火災警報発動装置)を操作しているのを認めた涼が、耳栓をした上更に耳を塞ぎながら呆れて叫ぶ。
「だってぇ!! 気持ち悪いんだもん!!」
 筆者の知る所では無い。レイに操作を任せる事を提案したのはあまねちゃん、では無く孝である。それが、良い結果に傾いたか悪く傾いたかは、中々に判断の難しい所だ。

【19:33】

 響きの良いホールの特性が役に立った。ベルが途切れたと同時に、シュラインは反響を調節しながら殊更機械的な──録音音声を、スピーカーを通して流した声を模して──声色と調子で朗々と語り始めた。

『火災発生、当ホールのスモーキングルームより火災が発生しました。御客様にお願いします、以下の指示に従い、速やかに退避して下さい。混雑を避ける為、最寄りの出口に近い座席の御客様より順番に外へ退避して下さい。火災発生、当ホールのスモーキングルームより──、』

【19:37】

「……何だよ」
 すっかり暗くなった夜道を、遠くに巣鴨ユーフォニアハーモニーホールを仰ぎ、中からわらわらと出て来る人の群れを認めた磔也は呆然と呟いた。
「……あいつら、何かやらかしやがったな」
 東京コンセルヴァトワールの思惑通りに進んだとすれば、観客が一斉に逃げ出す筈は無い。磔也は立ち止まっている彼にぶつかった手近な青年を掴まえ、「何があった?」と訊ねた。
「……、……」
 彼は短く、この混乱の中では磔也には到底聞き取れない言葉を吐いてまた逃げて行った。
『火事だ、君も逃げろ』
 読唇術は得意では無い。が、恐らくはそう云っていた筈だ。
「火事ィ……?」
 眉を顰めながら人の流れから脇に反れ、ホールを見遣る。
「……んな訳無ェだろ」
 コートのポケットに手を突っ込んだまま、人混みに逆らう。──好都合だ。俺は、あいつらさえ殺れれば良い。

【19:49】

「……まあ、良いでしょう」
 亮一はのんびりと観客の逃げて行ったと思しい方角を見遣りながら呟いた。避難してしまえば、後はセレスティが予め配備しておいてくれたSP連が誘導してくれるだろうし、不審に思った所で再びホールには入って来られないよう、「遮断」はしている。

 さてさてそうしてホール内部は壮観な程にすっきり──基い伽藍としてしまった。残っているのは、客席には倉菜、セレスティ(彼が呼んだ録音技師も、流石に火事となれば殉死する意味も無いので既に避難したらしい)、亮一、涼、シュライン、レイ、そしてオーケストラピットのウィンに忍、舞台上でオルフェオの衣装のまま立ち尽くすあまねちゃん、3階のコーラス達は眉一つ動かさずにそのまま、……スタッフでも本当に何も知らない連中は避難した。後は、東京コンセルヴァトワールの人間程度である。冨樫、シドニー、……いつの間にか物陰に現れた水谷・和馬。

「……あーらら」
 コツ、コツ、……とヒールの高いサンダルが舞台を踏む音が響く。シドニーだ。シドニー・オザワ。涼は既に一度対峙している。フランス系の端正な顔立ちで、この騒動に慌てる様子も無く余裕のある笑みを浮かべて肩を竦めていた。
「大変」
 舞台上から、先ずはあまねちゃんを、続いて客席の一同に視線を投げて、さして大変そうでも無くそう云う。
「折角の壮大な実験だったのに。──随分とせっかちにぶち壊してくれたじゃない。『ZERO(不要品)』、それにお友達の皆さん。……ねえ、どうする? インスペクター、それにクシレフ」
 そしてくるり、と彼女が振り返った先に居たのは冨樫──インスペクター(※監督者/そのままでオーケストラ団体内での役割名)、そして水谷──クシレフ、だ。
 冨樫はコイツもまた気楽そうに肩を竦めて「さあ」などと宣う。
「僕、ただのインペクだし。そういう判断はトップに任せるとして」
「どうする? クシレフ! ねえ、只じゃ済まないわよね、これ」
 シドニーが、先程からずっと自信に満ちた、然し不穏な笑みを浮かべて黙っていた水谷、否その肉体を器として利用したクシレフに声を掛ける。──と。

「只じゃ済まないのはお前達の方だぜ、……シドニー、……冨樫」
 クシレフが口を開く前に、2階席の中央入口から声が響いた。
「──磔也!」
「……磔也君……、」
 涼と倉菜が真っ先に声を上げた。やや逆光でぼんやりとしか見えないが、磔也だ。──左手一本で、太巻の許から持ち出した件のニューナンブを構えていた。
「……、」 
 レイが顔を両手で覆ってその場に崩れ落ちた。丁度良く、座席の陰になっている。涼はレイの肩を押さえ込んで、「そのまま、伏せて立ち上がらないで」と鋭く命じた。そうしていれば、更に自分が庇っていれば万一の事があっても被弾はしないだろう。
「あら? 未だ死んでなかったの?」
 シドニーが笑った。「生憎な」と磔也もやや精神の崩壊が疑われる笑い声を上げた。
「Mauvaiseherbecroittoujours、──ってな」
 何て? と涼はこっそりシュラインに訊ねる。
「……『憎まれっ子世にはばかる』……、」
 溜息と共にシュラインは答えた。相変わらずだ──、と涼もつい眉間を摘んで俯いてしまう。
「ねえー、ここがホールで良かったわね。良く聞こえるでしょ? あ、辛うじて、かしら?」
「ああ、煩いから黙って十字でも切っとけ。……よぉ。散々人の事弄んでくれたなぁ。……そう、特にお前だ、クシレフ」
 ──カチ、とセーフティを落とす音がした。
「──駄目!!」
 倉菜が悲鳴に近い声を上げた。あんないい加減な姿勢で発砲しようものなら、間違い無く肩が壊れる。つまり、演奏が不可能になる。それは楽器を愛する倉菜にとって許せる事では無かった。
「駄目よ磔也君、撃っちゃ駄目!」
「煩ェ! 云うだろうが、Oeil pour oeil, dent pour dent !! ──De mort !!」

「『目には目を』、『死ね』」
 シュラインは同時通訳してみたが、最早誰も聞いていなかった。無論、彼女としてもそれを承知の上で、次に起こる事を察知していたからこそそんな余裕をかまして見たのである。
「……Precherdansl'oreilled'unsourd、かな」
 ついでに、彼女なりに格言を呟いてみる。……その通り、何を云おうが今の磔也が聞く筈も無く。

【19:59】

「……!?」
 トリガーを引く、──カチ、カチ、と小さな音が響くだけで撃鉄が下りない。──太巻の奴、嵌めやがったか──?
「駄目よ、撃たせないわ!」
 倉菜が叫んだ。太巻から銃の事を聞いてから考えていた事だが、トリガーを引け無くしたのは倉菜が咄嗟に銃の内部に鉄板を具現化させたからである。
「──畜生……、」
 発砲が不可能だと悟った磔也はだらりと腕を下ろして悪態を吐いた。──その隙に、亮一は素早く彼の前へ駆け寄って腕を捻り上げ、最早使い物にならなくなったニューナンブを一応取り上げた。
「痛──、」
 自業自得だ。知った事では無い。
「忘れたとは云わせないぞ、云っただろう、巧く配置しろと! ──『手駒』には、俺達も含まれてるんだがな、」
 筆者の口調表記誤りでは無い、念の為。この罵声は他成らぬ──あの、常に温厚で穏やかな笑顔を浮かべた──亮一から発せられたものである。
「……だっ──」
「だって、じゃ無い!」

【19:00】

 一気に全身の力が抜けたように、磔也は呆然とその場に蹲っていた。が、やがて低声で吐き捨てる。
「……どうすれば良かったんだよ」
「──何か云いました?」
 くるり、と振り返った亮一はもう常からの彼らしい穏やかな笑みを浮かべている。
 項垂れた磔也に合わせて屈み込み、「さあ云いたい事があるならはっきりとお兄さんの目を見て云って御覧なさい」と云わんばかりの満面の笑みで彼の顔を覗き込む。
「──俺だって、本当はピアノだけ弾いてたかったんだ、……でも、」
「でも?」
 その言葉を聞いた亮一は不穏な程緩慢に目を細めて先を促した。
「……何だかんだ云ったって、権力者に逆らって音楽なんて出来ないんだ、……最終的には、権力者に付いた人間だけが先の音楽を開拓出来る」
「……ふ────む、」
 聞き分けの良い大人らしく何度も頷きながら、亮一は磔也の頭に手を置く。──が、無論そこで「よしよし辛かったねぇ」などと云いながら頭を撫でてやるほど亮一は甘く無い。
「その責任転嫁はちょっと鮮やかじゃ無いですねえ、」
 前髪を鷲掴みにされて、顔を上げざるを得なかった磔也の目の前にあったのはもう使い物にはならないものの、先程亮一が取り上げた拳銃だ。
「これは、何です? 分かってます? 実銃ですよ、『本物』の。ちゃんと水鉄砲との区別が付いてますか? はい、良く見て」
「……分かってるよ」
「だったら今更子供じみた云い訳をするんじゃ無い!!」
 その場に居た倉菜やあまねちゃんまでがびく、と肩を竦める。涼などは信じられないような目付きで唖然と亮一を眺めていた。
「あなた、幾つです? もう17でしょう、玩具でなくて実銃を持ち出す程の判断力はあったと云うことですよ。そうまでしておいて、今更本当はやりたくなかった、なんて云甘えても許されません」
「亮一さん、ちょっと厳しいよ、──磔也だって耳の事もあるし、混乱してたんだから──」
 流石の涼も遠慮がちながら口を挿む。──その肩に、手を置いたのはウィンだ。
「ウィンさん?」
「御影君、あなたの思い遣りは分かるけど、でも本当の事よ。磔也はもう、何も知らなかった、未だ子供だから、って無条件で許される年齢では無いわ。明らかに、あの子は確信犯だったんだから」
「でも──、」
 その時、それまで亮一の一喝で黙り込んでいた磔也が突如ヒステリックな叫びを発した。
「分かったよ、責任取れって事だろ、取ってやるよ、──死ねば良いんだろう!」
 キン、と金属音が響く。(ああ出た)バタフライナイフの刃が飛び出す音だ。
「駄目だ! 駄目だ、磔也君!」
 ──と叫んだのは真摯だが愛らしいソプラノのままのあまねちゃん、──の意識主導権を持つ樹である。
「磔也君、死んじゃ駄目だ、生きて、生きなきゃ駄目だ、──何も望みが無いって云うなら、僕を虐めて遊べば良い、それで生きる望みが出来ると云うなら!」
「……何云ってんだ、お前……、」
「君の為に、曲を作ったんだ、磔也君の為のピアノ曲を! ──未だ、弾いて貰って無い」
 樹はあまりにも純粋なだけに、やや奇妙な事を口走った。磔也は呆気に取られて口唇を一瞬ぼんやりと開いたものの、手はそのままナイフを自分の首筋(致死率の高い丁度耳の下当たりである)を切ろうとしていた。
 ──何も分かってない、亮一は舌打ちしたい気分で制止しようと手を伸ばした、──が。
「──……、」
 わざわざ止めるまでも無く、磔也は俄に呆然として身体を硬直させ、ナイフを取り落とした。──背後から、倉菜が肩越しに磔也を抱き締めたのだ。
「あ」
「あら」
「……、」
 先程は肩を竦めた面々は今度は目を瞬いて口許を押さえる。亮一までがおやおや、と云うように吊り上げた眉を元に戻し、──一応ナイフは拾い上げた上で──「不粋者は消えますか」などとにこやかに呟いて退く。
 ──既に、ホール内にはセレスティとシュライン、それに舞台上に居た筈のシドニー達の姿が無かった。
 亮一は涼を促す。涼も状況を把握した上でレイをウィンに任せて、亮一に続いた。

【19:03_A】

「磔也君、……止めて。もう、終わりにしましょう、……ね?」
「……止めてくれ、」
 呆然と倉菜の腕に収まったまま、磔也は喘ぐような声で返した。
「やめてくれよ、俺に話し掛けないでくれ、聴こえないんだ、お前の云ってる事まで、何も聴こえないんだ、」
「治るわ!」
 倉菜は顔を反らそうとする磔也の頬を両手で包み込み、真直ぐに目を近付けて断言した。目の前の彼の瞳は、動揺で潤んでいた。
「聴かせてあげる、私の声を。もう、耳鳴りにも無音の恐怖にも脅える事が無いようにしてあげる。だから私の話を聴いて、」
「……、」
「……聴こえるでしょう?」
「……、」 
 磔也は俯き、前髪を掻き上げながら両手で目許を覆って何かを低声で呟いた。何、と倉菜は優しく訊ねる。
「……有り得無ェ、……こんな、……有りかよ、こんな反則……、」

【19:07】

「磔也君、一つだけ確認したい事があるんですがね?」
 何喰わぬ顔でホールに戻った亮一は、一瞬で全ての気力を失ったように呆然と座り込んでいた磔也を認め、──一言、釘を刺しておく必要がある、と声を掛けた。磔也はその声にはちら、と視線を上げただけだ。やや声を顰めて囁いたのだが、何故か聴こえたらしい。
「あなた、自分の命に一体どれ程の価値があると思ってるんです?」
「……、何……、」
「さっき、死んで責任を取る、そう仰いましたよね」
「云ったよ。──今からでも死んでやろうか、返せよ、ナイフ」
              ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
「お言葉ですけど、あなたには死ぬ価値もありませんよ。あなたの命じゃあ、何の代償にもなりません」
「な……──、」
「いつ捨てても惜しくないと思っているような命で、帳消しにして貰おうなんて虫が良すぎませんか?」
「……、」 
「そこまで安く無いですよ、俺達の労働はね? 『雇い主』がそれじゃあ、困りますよねぇ……、何せ、リンスター財閥のトップたるセレスティさんまで借り出して置いて」
 くす、と後に続いて入って来たセレスティが笑う。──まともに交渉して、こんな一高校生が彼を雇える筈は無い……。
「まあ、追々、ですね。──ツケておいてあげますよ、今回の代償は」
 亮一は爽快な笑顔でそう、留めを刺した。──ふっ、と(もうどうとでも云えとばかり)天井を仰いだ磔也が呟く。
「……あーあ、……死に損なったな」

「……、」
 その一言を聞いた涼は眉を顰めた。──が、今は自分が何を云っても聞く訳は無いだろう。恐らく、倉菜達に任せて大丈夫な筈だ。ならば自分は、と──こちらもまた完全に脱力したように座席の陰にへたり込んだままのレイの身体を立たせ、「帰ろうか」と殊更明るく促してみせた。
「……、」
 レイは、うん、ともはあ、とも付かない頼り無い返事を返してふらりと立ち上がった。
「──パパは?」
「大丈夫、後から帰るよ、ちゃんと。先に俺と帰ろう? な、レイさん、」
 そう云ってレイの背中を押し、一同には「お先に」と軽く上げた片手だけで挨拶した涼に、いつの間にかウィンが並んでいた。彼女もまた何処かへ行く予定があるらしく──。
「磔也、大丈夫かな」
「大丈夫でしょう、倉菜と樹ちゃんに任せて置けば。……ただ、辛いのはこれからよ。……今までは、管理され、拘束されると云う不自由はあっても、逆に安心感があったのも確かでしょう。すべき事を他人に決定して貰える、権力者の傘下に居ると云う安住が。──自由になれば、同時にそうした安定を失えば、今後は全て磔也が自分で極めていかなくてはならないのだもの。……そして、だからこそ甘やかしては不可ないわ。少なくとも精神的に、あの子は未だ子供だけど今更劇的に感性が変化するとも思えないわ。……幾らか、分別を身に付けて行ってくれれば良いのだけど」

【21:07_AG】

「泣いても良いと思いますよ、磔也君」
 ホールを出て直ぐの路上、街頭の下に樹は磔也を呼び止めた。
「──何を云って……、」
「泣いたら、忘れられる事もあるから」
 ──莫迦野郎、と真直ぐな樹の視線を反らして磔也は吐き捨てた。
「泣くと思うか、この俺が」
「──人間だから、磔也君も。……男の子だから、我慢しなきゃ不可ない時もあると思う。でも、人間だから、泣きたい時には泣いても良いと思います、僕は」
「──巫山戯んな、」
 くるり、と踵を返す。そして背中越しに呟いた。
「……葛城、──それに硝月」
「……、」
 気付いたか。倉菜は陰からそっ、と姿を現し、樹の傍らに立った。
「何? 磔也君」
「──お前達に取っちゃただの他人事だし、知った事っちゃ無ェだろうけどな、──俺には、……今まで、俺がやって来た事もやられて来た事も、……俺には、わあわあ泣いてさっさと忘れられるような事じゃ無いんだよ。……忘れるって……、──一体、何処から忘れりゃ良いんだよ。生まれた時から、……その前からなんだぜ、」
「もう、死ぬなんて云わないわよね?」
「死ぬ価値無いらしいからな、俺は」
 ──田沼の野郎、と自嘲的に笑みを浮かべながら磔也は吐き捨てた。
「無茶苦茶云いやがるぜ、……安くあげようと思ったけど、駄目らしいな」
 一応、責任を取る心積りはあったらしい。──が、本心は不明だ。
「……安くなんか無い」
 倉菜は真直ぐに磔也の顔を見てはっきりとそう云った。
「安くなんか無いわ、磔也君の命は。──少なくとも、私には、……いえ、樹君にも、他の皆にも、屹度、……多分だけど」
「多分、ねえ……。……お前、正直な所が良いな」
「……え?」
 倉菜は、不意に伸びて来た磔也の指先に驚いて立ち竦んだ。──が、その指先は散々躊躇った後で、結局彼女の頬には触れないままで止まった。

──駄目だ、こいつには触れない。……昔からそうだった、俺はきれいだと思ったものに尽く拒絶されて来た。花も雪の日の寒さにも、『ヘブリディーズ』にも。……俺は、きれいな物には触れない。

「……良いよ、それで。楽器だからだろ? 俺がピアノ弾くから。……あんたみたいな、──に、安く無い価値の楽器だって認めて貰っただけで充分だよ、俺には」
「私みたいな……何?」
「──、……腕の良い楽器職人、っつったんだよ」
 ニヤ、と磔也は笑って見せた。磔也君、──樹が更に彼を呼び止めた。
「……近い内に、弾いてくれますよね。……ピアノ曲、……磔也君の為に作ったから、──絶対に、実際に弾いて批評して欲しいんです」
 呪歌としての祈りを込めたピアノ曲、──ここ一ヶ月程の間、受験勉強の片手間にどれほど努力して仕上げたか。全て、彼の──聴覚を取り戻しても、未だ完全に消えた訳ではない呪わしい教育に拠る──刷り込みを、解放する為だ。
「……あー、……まあ、その内な……、」
「絶対、ですよ、それだけで良いから約束して下さい」
「……良い度胸だな葛城、……お前……さっき俺に何っつった? ……『僕を虐めて遊ぶ事を生き甲斐にしても良いから生きて欲しい』とか何とか、云ってたよなあ?」
 ──ニヤニヤ、と笑う磔也の表情は表面上、彼らしい「虐めっ子」の顔だ。然し、この場に於いては樹もそこで脅えて怯む事は無かった。
「云いましたよ、……それでも良いから。磔也君がどう思おうと、君は僕の大切な友達だから。でも、それだけは譲れないんです。約束して下さい、僕の作ったピアノ曲を弾いて批評してくれるって」
「──……、」
 溜息を吐いたと同時に、磔也は再び無気力な表情に戻って俯いた。
「……執着こいな、……分かったよ。……次、会った時な……。──今日はもう疲れたから」
「構いません、その時は携帯に電話して良いですか?」
「無ェよ。……こないだ、IO2に没収されたままだ。……あー、あれ、何処行ったのかな」
「じゃあ、その時は僕が太巻さんの所に尋ねて行きますね」
 先回りして、どうせ家に帰るとは思えない磔也が転がり込むであろう人間の名前を出して樹は微笑んだ。磔也はと云えば微妙な表情で「何でそこで太巻が出て来る」とぼやく。──実際、図星だったもので。何しろ、樹達を置いて他には友達が居ない。
 別れ際に、見送る二人の内倉菜の視線を殊更避けた磔也は樹の耳許で彼にだけ聞こえるようにこう呟いた。

「──……本当の所云うとな、……もう、何も遣る気が起きないんだよ。……今更、歌心とか云われてもそんなもん元から持って無いし、聴こえるようになったらなったで今までは連中に復讐して遣りたい気持ちがあったんだけど、……理論なんか全部やっちまったしな。それも、……もう使い道無ェし。……ピアノも……もう、特に弾く気にならないし、……正直、お前に何か教えるとか批評するとか、……無理かも知れないぜ」

【XX:XX】

 音楽都市、ユーフォニア。
 ──それは、『調和』と云う名を騙り、ユートピア思想に依存する運命共同体の顔をした独裁国家の理想図である。
 音楽は、ただ美しいだけでは無い。
 それは暴力となり得る一面も、また非常に効果的に洗脳の材料として用いられる一面も合わせ持つ。

 『壮大な実験』を以てユーフォニア市の最初の拠点となる筈だった東京、巣鴨。
 ここは、彼等の尽力に依てその実験を阻止され、陥落を免れた。東京コンセルヴァトワールも今後は表立って大々的には活動を行えない。
 
 然し、組織とは個人の集まりである。そして、ユーフォニアの思想を掲げる個人は既に世界へ向けてばらまかれた。
 文化遺伝子<ミーム>は、限り無く増殖する。

【00:00】

「……で、お前ェ何でおれの所に来るんだよ」
 カウンターの中から、太巻は店内の隅に呆然と座り込んだままの人影に向かってそうぼやく。
 彼は、ほんの少し前にふらりと入って来たと思うと「暫く泊めてくれ」とだけ──太巻の返事を聞きもせずに──云い、太巻の手許からマルボロを一本かすめ取って火を点けた切り、ああしてずっと黙り込んでいるのである。──黙り込んでいる、と云うよりは精神薄弱者のような、生気の無い体だ。先日、彼の許から実銃を持ち出した時よりもある意味で酷い。
「……、」
 返事は無く、代わりに夥しい紫煙だけが吐き出された。
「ったく……、ちったァおれの面倒も考えろ。朝っぱらから煩ェ連中に怒鳴り込まれたと思ったら、今度は物も云え無くなったアホの居候かよ」
「……、」
「だんまり極め込んでっと、お前ェの養父とやらに連絡しちまうぞ(笑)、」
「……、」
 相変わらず、何を云われても彼は答えない。仕方無ェ、と重い腰を上げて彼の許へ歩み寄り、その目を覗き込んだ太巻は目を細めた。──気力と云うものが皆無に近い、呼吸活動さえ面倒そうな、……死んだ魚のような目……。
「……やる事ァ全部遣っちまって、目標が無くなったってとこかねェ。……ま、その内起きるだろ」
 今は何を云っても仕方無い。されるままのだらりとした指先からフィルターに到達した煙草を取り上げると、後は放置して太巻は彼の生活に戻った。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【水谷・和馬 / 男 / 27 / 巣鴨ユーフォニアホール人事担当者】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【里井・薫 / 男 / 24 / 歌手】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】

【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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皆様、お疲れ様でした。
そして第一回からの御参加、心より感謝致します。本当に有難うございました。

東京怪談「幻想交響曲」シリーズよりもすっきりと終わった感の無い最終回となってしまいました。
連載開始前には「音楽の武器」とだけ云って居りましたが、今回の本当のテーマは「プロパガンダとしての音楽」でした。
自然、教育問題や多岐に渡る音楽学、政治的な要素までが絡み合い、シナリオとしても捻くれた上にWR自身の知識とキャパシティが追い付かないと云う無様な事となってしまい、多いに反省しております。
後味の悪さを残さない為にも、後程後日談と云う形で終了したいと思います。
前述の事とは全く無関係ですが、1月中はWRの個人的な事情によりOMCでの受注をストップ致します。それを受けて後日談の予告と受注も2月に入ってからとなる予定です。
やや興醒めかと思いますが、それでも気乗りした際にはどうぞ構い付けて下さいませ。
詳細は目処が立ってから個別受注ページで行います。
また、その間でも感想、苦情、誤りの指摘、後日談含む今後の御希望などありましたら遠慮なくお聞かせ下さいませ。

尚、今回受注時に行いましたシナリオ分岐アンケートの結果は以下の通りです。

A:太巻から拳銃を入手した磔也、その使い道、標的は?
1)東京コンセルヴァトワール……………………………………4※決定
2)身内(養父、姉)………………………………………………2
3)ホール内無差別発砲……………………………………………0
4)自殺………………………………………………………………2

B:プロパガンダとしての、音響行動学に基づいた人間の精神を洗脳し得る音楽が奏される。対処法は?
1)一般客の避難を促す……………………………………………3
2)混乱を生じてでも、演奏を止める(奏者を拘束する)……4※決定
3)逃げる……………………………………………………………0 
4)便乗してみる……………………………………………………0

C:水谷和馬の処理
1)殺しはしない……………………………………………………8※決定
2)クシレフが未だ中に居る場合に限り、殺す…………………0
3)クシレフが居ようが居まいが、殺す…………………………0
4)知ったこっちゃない……………………………………………0

重ね重ね、「音楽都市、ユーフォニア」シリーズへの御参加と辛抱強く文章へお付き合い下さいました事、深くお礼申し上げます。

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