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■蒼穹の羽 2■

在原飛鳥
【2194】【硝月・倉菜】【女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】
「サカキから、身代金要求の連絡があった」
顔を合わせるなり、眉一つ動かさずにチェンが告げる。
「金額は」
「百万ドル。身代金としてはあり得る額だが、我々にはそれだけの金額を大人しく払うつもりはない。……きみたちには、サカキがアクションを起こしてくる前に、少女の身柄を確保してもらいたい」
殆ど表情を動かさずに、チェンはそう言って全員の顔を見渡した。その顔には、今も幽閉されているであろう少女に対する同情や懸念など微塵も見られない。そうあるべく訓練されているのかも知れなかったが、まるで蝋人形のような無表情さだった。
「サカキは、都内のウィークリーマンションの一室を根城にしている」
階数と部屋番号を挙げながら、チェンは地図の白黒コピーをテーブルに滑らせた。赤いマジックで、高見ライオンズマンションの文字を丸で囲ってある。
「私がサカキを誘い出す。きみたちはその隙に少女を救出してもらいたい」
こめかみを指で揉みながら足を組み、取り上げた地図を眺めている太巻を置いて、チェンは立ち上がり
「また連絡する」
言い捨てて部屋を出て行った。


「さて、まあコトのあらすじはそんなところだ」
チェンから渡されたライオンズマンション周辺の地図を手渡しながら、太巻は機嫌よくタバコをくわえた。
この話を持ってきた時には、まったく気乗りしなそうな顔をしていたくせに、今日は妙に機嫌がいい。
「ただな、こんだけの人数がマンションを襲撃するのはいただけねぇ。ここは二手に分かれて、一組は榊の後を尾けてくれ。尾行組は、特殊能力はご法度だ。くれぐれも、サエねェツラした捜査官どのに見つかるんじゃないぜ」



蒼穹の羽2
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■回想
宇宙飛行士になるのが夢だった。
あの頃の僕らはまだ夢と希望を捨てておらず、突き抜けるような高い蒼穹の下で、いつまでも飽きずに将来を語り合った。
彼は、空を見上げては宇宙と銀河と大気の話ばかりをする。いつしか僕も、空ではなくて宇宙を見る大人になりたいと思うようになっていた。
「じゃあ、僕は宇宙船を開発する設計者になろう」
そう言うと、山裾から朝の日差しが一条差し込むように、彼は満面の笑顔になった。
その時から、僕と彼は同じ夢を見るようになり、僕の夢は彼なくしては立ち行かなくなった。

空すらも紅く染め上げ、森を殺したあのすさまじい劫火の中で、僕が君と代わることが出来たなら――
今頃、君は宇宙から青い惑星を見て、「地球は青い」なんて、得意げに叫ぶことが出来たのだろうか。


――序章――
電話の向こうにいるはずの相手の声は、ひどく遠い。
互いにこれが茶番だということを承知していながら、そのことを口にはしない。
まるで予定調和のように、この状況に相応しいありふれた台詞を述べ立てるだけだ。
「……何が目的だ」
「百万ドル」
「……いつまでも逃げ切れるものではないぞ。サカキ」
かすかな笑い声が闇を震わせた。
「身代金の相場がわからない。安すぎたかな」
そしてぷつりと声が途切れる。
そして、ツーツーと味気のない音が響いてきた。
チェンは顔を上げる。
逆探知をしていたIO2の仲間と目があった。感情などおくびにも出さずに、声が告げる。
「携帯電話です」
居場所は突き止められなかったということか。携帯電話は、今頃、コンビニのゴミ箱にでも捨てられていることだろう。
「……迷うこともあるまい」
新たな声に、チェンは内心、眉を寄せた。あの男の声が人の神経に障るのは、出会った時から変わらない。そこにあるのは自由で賑やかなアメリカの裏の一面で、チェンはそれを忌避していた。
表向きは無表情に、声の主を振り返る。金色の髪を短く刈り込んだ、一見優男然とした男が雨に濡れたレインコートを部下に持たせて、部屋の入り口に立っていた。口元に浮かんだ笑みは冷笑に近い。
「各国の顔色を窺って我々に追従することしかできない日本人に、一体どれだけの価値がある?」
発せられた言葉は英語だったが、台詞には明らかな侮蔑が混じっている。
男のエメラルドグリーンの瞳から、チェンは視線を逸らした。


「一万分の一でも……身代金欲しい……な……」
太巻が出ていった後……しみじみと呟いたのは五降臨時雨(ごこうりん・しぐれ)だった。
言っていることはえげつない。「多分冗談だろう」という希望的観測のもと、彼の言葉は黙殺された。
「さて、どうしたものかしら。太巻さんの話では、二手に分かれろってことらしいけど」
腕を組んで発言したのは、シュライン・エマだ。その視線は太巻の出て行った先を冷たく見つめている硝月倉菜(しょうつき・くらな)を通り過ぎ、内心を窺わせない美貌の総帥……セレスティ・カーニンガムにひっかかって、物思いに沈んでいるケーナズ・ルクセンブルクに留まる。
「っつうかさぁ」
喫茶店の椅子に浅く腰掛けて話を聞いていた倉塚将之(くらつか・まさゆき)が、ノンビリと発言した。
「気になってたんだけど。こないだ、おれたちで……っつーかそこのでっかい人が、鳥を使って榊の居場所を突き止めたわけだろう?」
と、行儀悪く人差し指をピンと立てて、将之は時雨を示す。彼は……最近この店で頻繁に顔を見せるようになった少年に命じられて、割烹着姿で掃除をしていた。タクヤと呼ばれている少年は、店主の前で文句を言えば掃除を押し付けられると分かっているので、悪賢くも人に押し付けるのである。
そんなわけで、時雨の手によって、さっきまで散々に太巻が散らかした落花生の殻は一つ所に集められていた。店はそれでようやく、少しはマシに見える。
「さっきの太巻さんの話だと、チェンは自分で榊の居場所を突き止めた……みたいに聞こえるわよね」
倉菜の口調は、お世辞にも機嫌が良いとは言い難い。将之と同じことに引っ掛かっているので、太巻を責める声にも棘が篭るのだ。大体、育ちのいい倉菜は太巻とは反りが合わないのだ。彼女にしてみれば泥を這ってでも生きていそうなあの男は、全く住む世界が違う。
「指示はいつも太巻さんを介してで、結局わたしたちはチェンと顔合わせだってしてないわけでしょう?何企んでるのかしら」
「さて……IO2に目をつけられている身としては、直接関わらなくていいのは有難いですが」
憤懣やるかたない様子の倉菜をいなして、セレスティは光の殆ど差さない瞳を、黙り込んでいるケーナズに向ける。
「心配事ですか?ケーナズ殿」
「ああ……いや」
呼ばれて我に返ったケーナズは、軽く頭を振って考え込む表情を振り落とした。
「IO2の尾行は、簡単に撒かれてしまったからな。下手に我々が居所を掴んだと言って、特殊能力を疑われても面倒だったのかも知れん」
筋は通っているが、ケーナズの関心はそこにはないようである。再び、彼の瞳には沈思の表情が浮かんだ。
「用心するべきは、IO2だけではないのかもしれないですね」
面白がっているような調子でケーナズを見てから視線を逸らし、セレスティは笑みを漏らした。
集まった一同は、それぞれに思い思いの表情で顔を見合わせる。
「おれは……まあ、太巻さんのことは信じてもいいと思う」
と、口を開いたのは、今まで黙って皆の言葉を聞いていた御影・涼(みかげ・りょう)である。
「人間関係が結構入り乱れてるみたいだけど……今回は俺、太巻さんの側として行動するよ」
「太巻さんもしょうがないわねえ……」
万感含まれた感想を漏らして、シュラインがため息を吐いた。比較的太巻に近しい彼女だが、太巻が疑われているこの状況下で、特に口を挟む気もないらしい。自分で望んで疑われたような太巻の態度なのだから、それも当然であるが。
「まあ、どうでもいいけどさぁ」
自ら指摘しておきながら、将之は大して気にも留めずにゆらりと立ち上がった。
「二手に分かれるんだろ?おれは、坂崎にカリがあるんだ。尾行組に行かせてもらうぜ」
布につつまれた刀で、トン、と肩を叩いてみせる。どこか飄々としたところは相変わらずだが、将之の視線は狼を思わせて鋭い。坂崎に向けた一撃を、難なくあしらわれたことが気に入らないのだ。IO2の注意人物リストに名を連ねている……という事実も、彼を引き止める役には立たない。
「わたしはセレスティさんと救出組にいくわ。坂崎の相手は、ちょっと務まるとも思えないし」
セレスティの脇で倉菜が手を挙げ、同じ理由でシュラインも救出組に加わった。
「じゃ……ボクは……坂崎を殺……」
「キミは」
何か不吉なことを言いかけた殺し屋を、ケーナズがすかさず遮った。
「私と一緒に来るといい。キミはどうやら方向音痴のようだからな。一人で行動しては尾行に差し支えるだろう?」
時雨を一人で行動させると、何をするか知れたものではない。こう見えても彼は殺し屋であり、彼の発想は最終的に「みんな……死ねば、問題も……文句も、なくなる……ね……♪」という一点に帰結する。全ては無に返るかもしれないが、その実あまり物事は解決されていない。
「ざ……んねん」
無垢にすら見える殺し屋はとても悲しそうな顔をしたが、とりあえずケーナズの言葉に頷いて同意した。
どうやら厄介な荷物を抱えてしまったらしい美貌の青年を、一同は同情と哀れみを込めた生暖かい目で見守った。
「あ……と」
「どうした」
「太巻……から伝言。……ボクのこと……よろしく、……って」
「……ほぉう?」
語尾上がりにもなる。根性の悪い紹介屋は、初めからケーナズに彼を押し付ける気だったようである
「そういうことをするから、尊敬を集めないのよね、あの人は」
呆れ果ててぼやいたシュラインの言葉に、そこに居合わせた全員が深く頷いたのだった。



太巻の店を後にして倉菜が立ち寄ったのは、東京にある小奇麗なホテルである。訪ねる予定はなかったのだが、帰宅するべく目の前を通り過ぎて、気が変わった。雨はじわじわと降る量を増やし、真っ白な倉菜のソックスを濡らした。靴下が完全に濡れてしまう前に、緊急避難をしたのである。
かくして、倉菜はホテルの女主人に迎えられ、今日の出来事を話して聞かせていた。
「誘拐事件?」
客を慮って声は潜めているものの、話を聞いた女主人……ウィン・ルクセンブルクは端正な眉を寄せた。湯気を立てているココアのカップを両手に包んだ倉菜をまじまじと見つめる。
「ケーナズさんから聞いてませんでした?女子高生が誘拐されて。IO2が乗り出しているんです」
「いえ。聞いてないわ。……でも、誘拐事件にIO2なんて……穏やかじゃないわね」
IO2は、常人ならざる能力を持つ者の犯罪を一手に引き受ける、アメリカ生まれの特殊団体だ。特殊な能力を持つ人間が、その力を発揮することで本来の社会の秩序を乱す……という考えだが、最近はその思想が極端に偏りすぎるきらいがあり、ウィンはいい感情を抱いてはいない。色々と噂も聞けば、気持ちの良くない体験もしてきた。……倉菜とは、その体験を分け合う仲でもある。
「誘拐犯は、IO2に目を付けられている能力者なんです。裏があるかもしれない、ってセレスティさんは仰っていたけど」
「けど……警察は?いくらIO2が目を付けているからといって、普通の誘拐なら、警察に連絡して協力を仰ぐんじゃないかしら」
「その様子はないみたいです」
こくりとココアを飲んで、倉菜は首を横に振った。それは、IO2のアメリカ人ゆえの驕りか、プライドか。右へ倣えでアメリカに追従する日本になど、何も任せられないと……思ったのかもしれない。だが、あるいは、
「……やっぱり何か裏があるんじゃないかと」
「裏……」
ウィンは考え込んだ。叔母の下を独立して都内に家を借りた彼女は、近頃一層女っぷりに磨きが掛かったようである。身体のラインを引き立たせるツーピースに身を包んだウィンには、女主人としての風格も備わりつつあった。
「その、榊……だったかしら?彼の持つ能力というのは、どんなものなの?」
「なんでも、亡くなった人の魂を操る死霊使いだとか。今は、坂崎って昔のお侍と行動をともにしているみたい」
「坂崎?」
とっさに聞き返してから、ウィンは自分の口調の強さに気づいて乗り出していた体を引いた。
「坂崎……というの?その死霊の名前は」
「ええ。鬼を倒したって噂されるくらい強い剣士だったそうですけど……あの、何か?」
無意識に爪を噛んだウィンに、倉菜は銀の髪をさらりと揺らして怪訝そうな顔をした。
ウィンはそれでようやく我に返る。
「いえ。なんでもないのよ。……太巻さんから来た依頼なのね?詳しい話、もうちょっと教えてもらえないかしら……」



「榊リョウを呼び出しての人質救出作戦は、明日の夕方に行われるみたい」
ポツポツと傘の上で跳ねて、雨が踊っている。
倉菜の空色の傘と自分の紺とワインレッドの傘とを並べながら、ウィンは雨の中を、神社に向けて歩いている。
新聞に記事が載ったのは、確か去年の夏頃だった。日課として、ウィンは基本的に新聞に目を通している。地方欄の、ごく小さい見出しの中でその記事のことを覚えていたのは、最早僥倖に近かった。「神社から刀が盗まれる」というタイトルだっただろうか。倉菜から話を聞いたウィンは、わざわざ図書館に足を運んで、その記事を見つけ出したのだ。
──○月○日、神社に奉納されていた刀が、何者かによって盗み出される事件が起こった。犯行が行われたのは夜から朝にかけて。現在のところ、目撃者などは見つかっていない。刀は、二十数年前に神社に寄贈された刀で、落陽丸という──
続報はなかった。
図書館で新聞を握り締めて考え込んでしまったウィンを心配して、倉菜は雨の中、こんなところまで付いてきている。
「どこへ行くんですか?」
早足になるウィンに、大股に歩いて追いつきながら、倉菜は問いかけた。うん……、と心ここにあらずな返事をして、ウィンはふ、と足元に落としていた視線を上げる。
「──ここよ」
「神社?」
鳥居にある名前を確かめた。先ほど、図書館で見た神社の名前である。
「ここに何をしに……」
「ちょっと、刀のことで気になることがあって」
倉菜は首をかしげた。彼女が追いかけているのは、山岸正美という少女の誘拐事件である。誘拐犯の側についた男が持つという刀に、そこまで拘るほどの何があるというのだろうか。
倉菜の視線を感じ取ったのか、ウィンは整った顔に苦笑を浮かべた。
「先に帰っていてもいいのよ。あまり雨の中で立っていると、冷えちゃうわ」
「それは、別に」
いいんです、と尻つぼみに答えて、倉菜は黙ってウィンに従った。彼女には彼女の理由があるのだろう。何より、ウィンの思いつめたような横顔に、質問を挟むことは憚られる。
傾斜の厳しい階段を、足を滑らせないように上って、二人は神社の本殿に向かった。ウィンの真意がわからないので、倉菜は彼女につき従うだけである。ウィンは、比較的確りした足取りで階段を上りきると、まっすぐに本殿へと足を向けた。
「ここで、刀が盗まれたのね」
小高い丘の上に建てられた神社は、しんと静まりかえっている。これが祭りでもあれば少しは賑やかなのかもしれないが、こんな雨では訪れる人もなく、あたりは死んだようにひっそりとしていた。
「神主さんにお話でも聞くんですか?」
叶緒(かねのお)の根元についた鈴を見上げて動かないウィンに気を利かせて、倉菜は語りかけた。それでようやく我に返ったように、ウィンはゆっくりと視線を下ろす。
「いいのよ。その必要はないから」
軽く深呼吸をして、ウィンは今は閉じている本殿への扉を見透かすような目をした。
しばらく沈黙。ウィンは一点を見つめたまま動かない。
5分……10分と待って、倉菜はそっと声を掛けた。

「ウィンさん?」
心配そうに呼ばれて、ウィンはびくりと我に返った。雨が降っている。
しとしとと石畳を濡らす音。
「大丈夫ですか」
「え、ええ……」
記憶を「見た」後は、どうしても非現実的な感覚が残ってしまう。頭を振ってそれを追い払うと、ウィンは再び神社を見つめた。
「盗まれたのではなかったのね……」
「え?」
「刀よ」
この建物の記憶を視たの、とウィンは倉菜に説明した。
「刀が盗まれた時、誰もこの神社に足を踏み入れてはいないわ」
「えっ、どういうこと?」
「刀の方から、出ていったのよ。……榊に呼び出されてね」
雨の滴が、傘に弾いて流れていく。
「あの刀には、坂崎の霊が憑いていた。……ってことになるのかしらね」
新聞によれば、刀がこの神社に奉納されたのは、丁度23年前になるのだという。それは、渋谷が生まれた時期……そして彼の父親が姿を消した時期と一致する。
神社に祭られ、その刀に宿ることで、坂崎は……渋谷の父親は、鬼の災いが渋谷に降りかかることを抑えていたのだろうか。
「付き合ってもらって、ありがとう。倉菜ちゃん」
傘を持ち直して、ウィンは隣に立つ少女を見た。
「今日はもう帰らないと。明日、榊を呼び出すのは午後6時…だったわよね?」
「ええ。でも、一人でいくのは」
「大丈夫よ。遠くから見るだけだから。……知り合いの家族かもしれないの。それを、どうしても確かめたいのよ」
心配顔の倉菜に微笑んで、ウィンは「じゃあ、帰りましょうか」と促した。


■ファイア・スターター



僕もジェフも孤児だった。
ジェフリーの父親はドラッグのディーラーで、母親は当時恐ろしく治安の悪かったベトナムを一隻の小船で逃げ出してきたベトナム人。父親の職業以外はパーフェクトな家族だったと、彼は良く言っていた。
僕の両親はといえば、若者が運転する車に時速100マイルで突っ込まれ、ガードレールと車の間に挟まれて即死した。事故を起こした方は奇跡的に助かって、その事を喜ぶべきなのか怨むべきなのか、僕は未だに分からない。残された僕は遠い親戚の家に引き取られ、学校のカウンセラーから報告を受けた警察が僕を保護しにきてくれるまでは、ガレージに出現したネズミみたいな扱いを受けた。
アメリカではよくある話だ。両親が揃った家のほうが珍しい。
最終的にどんな結果を迎えたにしろ、誰かに引き取られた僕らは、ラッキーな子どもだった。

当時僕らが隔離されていたのは、要するに「超能力者はどれだけ能力を制御できるのか」という試みのためだった。
今にして思えば当時から、IO2は2派に分立していたのだ。特殊な能力を持つ者たちに正しい使い方を指導しようという動きと、間違いが起こる前に、災いの芽は摘んだほうが良いという動きと。
当時は今ほどに過激ではなかった両者の歩み寄りの結果が、あの小さな町の自然ばかりに囲まれた小さな小屋だったのだ。
時の流れはあまりに緩やかで、僕らは永遠に子どものままでいられるんじゃないかと思った。

その生活に黒い影が射したのは、あの男が現れてからだった。
その情景は、いつ思い出しても鮮烈な赤と黒のコントラストで、僕に迫ってくる。
乾燥した小屋は、信じられないくらいよく燃えた。ごうごうと狂ったように燃え盛る火は深い深いタンジェリンオレンジで、僕らがまだみたことのない太陽の炎は、こんな色をしているのかと思った。
迫る火に照らされて黒く家の梁が、柱が浮き上がり、それもやがて火に呑まれていく。
「10年なんてあっという間だ」
清々しく、彼は笑った。顔もからだも煤を被って真っ黒で、彼の体についた痣痕は覆い隠されている。真紅に流れるはずの鮮血までが黒く、一秒ごとにじわじわとその染みを広げていた。
「見ろ!!」
凍り付いている僕を無視して、ジェフはぐいと空を仰いだ。
蒼い空なんてどこからも見えない。ただもうもうと立ち込める黒い煙と、火につつまれた梁が、僕には見えただけだった。
「僕たちは空だって飛べるぞ!」


夢を信じて努力をすれば、僕らは何だって出来る。


――彼は、僕には見えなかった空を見ていた。
大地を震わせる轟音と共に家は崩れ、彼の小さな体を飲み込んだ。






外では……まだ雨が降っている。それぞれが止まない雨にうんざりした顔をしながら、報告に耳を傾けていた。
ジェフリー・ラドクリフと榊リョウは、幼少時IO2に身元を引き取られ、能力の成長を見守る形で、保護を受けて暮らしていた。
「特に、危なげなことは行われていなかったようだ。だが……事件は起こった。ジェフリー・ラドクリフの力が暴走し、山火事を引き起こすような巨大な火を巻き起こしたのだ」
淡々と、ケーナズは調べてきたことを全員に報告した。
「これにより、能力者の対応について、意見が2分していたIO2では、能力者は危険と唱える強硬派の立場が俄然強くなったようだ」
「それで……火災のきっかけになったのは?」
学校帰りなのか、教科書の束を小脇に抱えたまま、涼が視線を向けた。ケーナズは軽く首を振り、ため息を吐き出す。
「詳しいことは分からなかった。事件が起こった当時、子どもたちを預かっていたのが、ダイ・チェン。とはいえ、当時のヤツは、ただの世話役のようなものだった。ただ、ダイ・チェンの同期で、同じIO2の職員が一人、時折彼らのもとを訪ねてきていた……ということだが」
ケーナズの視線は、セレスティの元へと向かった。麗人は、膝にかけられたショールの上で指を組んで、頷いてみせる。
「ジョセフ・ウォルフという白人です。超能力者の存在そのものを否定する過激派の一人で、相当な切れ者だったようですね。火災が起こったときにも、彼はその場に居合わせた……可能性がある」
「可能性って?」
木の器に盛られた落花生を割りながら、将之が顔を上げる。
「居たかどうかは、わからないのか?」
「わからないんですよ」
穏やかに、セレスティは頷いた。
「事件の直前、ウォルフ氏がワシントンからカリフォルニアまで、飛んだことは分かっている。しかし、火災の現場に居合わせたかどうかまでは、わかりませんでした。火災が起こった当時、その場に居合わせた人に関しては、記録が一切残されていないのです」
「ますます怪しいわね」
形のいい眉を顰めて、倉菜が苦い顔をした。シュラインも、顎のあたりに指を当てて考え込む仕草をしている。
「その事件の後、チェンはワシントンに呼び戻されて、その年の終わりには昇進した。……これは、実力というよりも寧ろ、FS事件によってチェンの所属する過激派の勢いが強まったせいだろう。ウォルブについては……事件当時、すでにチェンよりも階級は上だったようだが、その後どうなったのかは、分かっていない」
ケーナズが黙ると、外の雨音が強くなった。大地を雨が濡らす音が、穏やかに部屋に立ち込めていく。
「……まー結局」
落花生を口に放り込みながら、将之が言った。
「本当のことなんて、本人に聞いてみなくちゃわかんねえよ。いいじゃねえか、どうだって」
「まあ、確かにね」
「知っていても……ボクには関係……ないし」
涼が苦笑し、時雨も──丁寧に落花生の殻を剥く手を止めて頷いた。
「それじゃあ──」
シュラインが、一同を見回した。
「正美さんの救出作戦と、榊リョウの尾行作戦にうつりますか」




「これが、マンションの見取り図です」
三人乗せてまだ余りある車の後部席で、セレスティは運転席から秘書が差し出した高見ライオンズマンションの青写真を広げた。
よくある間取りのマンションだ。短期滞在を目的にしているためか、多くはワンベッドの小ぶりの間取りになっている。
「榊が潜伏しているのは、ここの12階……ツーベッドのマンションですね」
「侵入するには……エレベーター」
「……と、階段ね」
「階段ね……」
左右から広がった青写真を覗き込んだシュラインと倉菜は、それぞれに歯切れ悪く沈黙した。
階段は、マンションの側面に寄りかかるように取り付けられている。むき出しの鉄のタラップと手すりが、雨に打たれて寒々しく濡れているのを、ここへ来る途中に目の当たりにしたばかりだ。
万全を機するなら、無論エレベーターと階段の両方から侵入するのが常道なのだ、が……。
風が吹いて、ポツポツと雨が車窓を叩いた。
「……雨止まないわねえ」
「そうね……」
例年にない寒波のせいで、外は寒い。寒いのである。
その上霙交じりの雨なんかが降られた日には、誰が好き好んで雨ざらしの階段を上りたがるだろうか。
「階段の方は、私が見張りましょう。お二人には、エレベーターで部屋に向かってください」
二人の姿を飽くまで見やったセレスティが、ようやく微笑んで救いの手を差し伸べた。シュラインと倉菜は、そろって胸を撫で下ろす。
「じゃあ、よろしくお願いします。セレスティさん」
「ご一緒させていただきたいのですが、なにぶん不自由な身の上ですので」
と、穏やかな微笑を苦笑に変えた。何しろセレスティは、榊を追った時に、坂崎に刀を突きつけられているのである。坂崎の血の流れを操作することで防御を試みたのだが、うまくいかなかった。坂崎の肉体は、血の通うそれではないのだと、気づいたのはその時のことである。
「大丈夫です。いざとなったら、力を使えばいいし」
「それでも、お気をつけください」
活発な倉菜をたしなめる表情で、セレスティは首を傾ける。
「IO2に能力を使うところを見られては、都合がよくないですからね」
IO2が敢えて太巻に依頼を持ち込んだのは、芋蔓式に能力者を炙り出すためとも考えられる。セレスティの言葉に、その可能性を思い出して、倉菜は表情を引き締めた。
「はい……」
「では、いきますか」
黒いコートをしっかり着直して、シュラインがドアを開けた。
途端に、冷たい風に混じって雨が吹き込んでくる。
「榊は、幻覚も使うんでしょう?念のために、部屋の上下左右も確認しましょ」
寒そうにコートの襟を立てて、シュラインは風に吹かれた髪を押さえた。
「連絡は、携帯電話で。いつでもサポート出来るよう、控えておりますので」
音もなく開いたパワーウィンドウの向こうで、セレスティが見えない瞳で穏やかに二人を見送った。



マンションに入ってしまうと、雨の音は途端に遠ざかった。マンションの住人のものらしい濡れた足跡だけが、外の天気を知らせている。
十二階のボタンが、薄暗いエレベーター内でオレンジ色の光を発して行き先を告げていた。
携帯のむこうで、雨の音が聞こえている。
「身代金の引渡しに、坂崎を連れて行ったってことは、あちらも用心してるってことよね」
「そうですね。IO2は何をするか、知れたものじゃないし」
「でも、何にせよ人質が居なかったら本末転倒。……人質を放っぽっといて出かけるなんて、なんだか腑に落ちないわねぇ」
『幻術をかけて、人が立ち入らないようにしているので、気を抜いているのかもしれませんよ』
電話の向こうでセレスティが言う。言っている本人がそれを信じているかどうかは、かなり怪しい。
「どちらにせよ、わたしたちは正美さんを無理やりにでも連れ戻すだけですから」
『抵抗するようなら、気絶させてしまったほうが良いかもしれないですね』
「……うーん」
息を吐いて、シュラインはエレベーターの階数を示すランプを仰いだ。ゆるゆると10階を通り過ぎ、11階へと至る。
何か言いかけた言葉は、エレベーターが止まってチンと音を立てたので、口に出ることはなかった。
また後で連絡します、と倉菜がセレスティとの通話を切った。

1213。ドアに取り付けられている部屋番号を確かめて、倉菜はドアをノックした。
ここが榊の部屋ならば、中には正美がいるはずだ。
分厚い扉を、何度か叩いても返事はない。聞こえないのかと、さらに強く叩いてみたが、結果は同じだった。
「あまり気が乗らないけれど……」
無理にでも侵入するか……とドアノブを見つめた倉菜を、シュラインが止めた。
「ちょっと、待って」
言った彼女は、1211とドアに掲げられた部屋をノックしている。
榊が幻覚を使えるのは、報告書にもあったとおりだ。だとしたら、彼女らが目にしている部屋番号は信用できないということだろうか。
「はぁい」と声がして、ドアが薄く開いた。
はっと息を詰めたが、倉菜の予想に反して、ドアの隙間から顔を覗かせたのは人の好さそうな女性だった。
「なんでしょ?」
驚いている倉菜の隣で、シュラインは落ち着き払って女性に笑顔を見せた。
「友達が、このマンションに住んでいるんですけど、部屋番号を忘れちゃって……。1211号室か、1311号室か……このあたりであることは間違いないと思うんですけど」
あらそうなの、みんな似てるからねぇと、彼女は疑う様子もなく首を傾げた。
「なんて方?ウチのお隣は、今は人は住んでいないわよ」
「あ、そうなんですか。……榊といいます」
榊君ねえ……と女性は少し表情を和らげたようだ。
「お行儀のいい人よね。いつも挨拶してくれるの。部屋番号まではわからないけど、一つ上だったんじゃないかしら」
「ありがとうございます」
ドアの隙間からは、夕食の用意をしているのだろう。暖かい匂いが流れてきていた。
扉が閉められ、シュラインは倉菜を促した。
「もう一階上みたいね。行きましょうか」



トントン、とノックをする。住民と話をした階から一つ上がった部屋には、たしかに1213と書かれていた。
しばらく待つと、人がドアに近づく気配がする。ドアが薄く開いて、白っぽく脱色した髪の少女が隙間から顔を覗かせた。ドアチェーンがちゃんと掛かっている。感心だ。
「……なに?」
「山岸正美さん?」
ドアは少女の不審そのもののように、それ以上は開かない。少し沈黙してから、彼女は「そーだけど」と返事をかえした。
「あなたを連れ戻しに来たのよ」
相手を安心させるように口調を和らげたシュラインとは対照的に、きっぱりと倉菜が言い切った。顎を引いて眉を顰め、正美は険悪な顔になる。
「はぁァ?何言ってんの。てゆーかあんた誰。勘弁してよね」
ドアが閉じかかる。ガツ、とその動きが止まったのは、倉菜が閉じかけた扉の隙間に足を挟んだからだ。
「ちょっと、何すんだよ!泥棒!!」
「倉菜さん、まずいわよ」
シュラインの止める声は周囲を憚って低いが、パニックに陥って喚き散らす正美の声のせいであまり意味をなしていない。
「あんたたち何の権利があってこんなことすんの。ワケわかんないヤツについてくわけないでしょッ!?」
「誘拐されたことになってるのよ、あなた」
「誘拐しようとしてんのはてめえのほうだよっ!」
「もうっ、聞き分けのない……!」
「倉菜さん……!」
「何だって……!」
言うんだよ、という最後の言葉はブラックホールに吸い込まれるように細くなって途切れた。ずるりと正美の体は力を失い、ドアの向こうに崩れ落ちる。
「正美さん?」
「気を失わせただけだから、大丈夫」
ドアの隙間に手を差し入れて、倉菜はドアチェーンを外した。シュラインは辺りを見回す。まだ住人の多くは仕事から戻っていないのだろう。騒ぎを聞きつけてドアから顔を覗かせる者はいなかった。
「正美さんのあの調子じゃ、説得して連れて帰るのは無理よ」
まだ考え込んでいるシュラインを力づけるように言葉を強めて、倉菜は榊の部屋に滑り込んだ。
「手を、貸してくれますか?正美さんを外に運び出さないと」
気分を変えるために息を吐いて、シュラインは正美を起こそうとしている倉菜に手を貸した。無理に彼女を連れ出しては、反感を買うだけではないかと思ったが、時既に遅し、というやつである。
「目が覚めた時、ちゃんと説明できるといいんだけど」
親の敵でも見るようにこちらを睨みつけた正美の表情を思い出して、シュラインはひそかに息をついた。
部屋は、正美が今まで使っていたらしい毛布と飲みかけのカップが残っている。特に拘束されるでもなく自由に動き回っていたらしい正美の、目を閉じてしまえば幼い顔を見下ろして、シュラインのため息が再び床に落ちた。

シュラインと倉菜が正美を連れて出て来たのに気がついて、運転手はすぐに車を玄関に回してくれた。ぐったりしている正美を後部席に乗せて、雨から逃れるように倉菜とシュラインは車に乗り込む。
「先ほど、御影君から連絡がありましたよ」
相変わらず穏やかな口調で、セレスティが二人に声を掛けた。
涼たちは、榊と坂崎を尾行していたはずである。セレスティの落ち着いた態度を見れば、何か問題が起こったわけではないらしい。
「なんて言ってました?」
「それが、少し興味深いことになりましてね」
セレスティの口元にちらりと微笑とは違う笑みが浮かぶ。
「どうやら、榊を追っていたIO2のメンバーが、痴漢容疑で警察に捕まったようですよ」
「「……はい?」」
見事なまでのタイミングで、二人は声を揃えた。



■警察
向かい合った警察官はウンザリした顔をしている。ウンザリしたいのはこっちの方だ。
一秒ごとに不機嫌になっていくチェンの神経をさらにささくれ立たせて、警察官はため息をついた。
事情聴取というヤツである。
煩いオカマが「謝ったって許さないワヨ」と言ったので……そしてチェンには「何かあったら謝る」という日本人の感覚にはまったく疎かったので、こんなところまで連れてこられてしまった。
チェンはオカマなどには到底興味がなく、そもそも彼と榊とを隔てる邪魔な物体が、女に扮した男だったことすら気づかなかった。
日本の警察は被害者に優しいのか……ただ単に応対に出た誰もが、オカマの勢いに迫力負けしただけだと思うが……、チェンは榊を見失い、不機嫌の極みで警察と睨み合っている。
「勘弁してくれよなぁもう」
まだ若い警官は疲れたように髪を掻き上げ、はぁ〜っとため息を吐いた。勘弁願いたいのはこちらの方だ。
ガチャリ、と扉が開いた。
警官は身を捩って振り返り、「あっ、ご苦労様です」と背筋を伸ばした。入ってきたのは貫禄もない頭頂部まで禿げ上がった小男である。眼光だけが鋭いのは、刑事の性だろう。
かったるそうに若者に頷いて、すぐに刑事はチェンに目を向けた。
「出て」
「あっ、あのしかし」
「許可は貰ってるから。被害者の方も気が済んだみたいでね。帰したからもう」
困ったように口を挟んだ若者は、その言葉に安心したように「はいっ」と言った。彼にしてみれば、ホモのチカン(非常に不本意だ)の相手をしなくて良いのだから、願ったり叶ったりなのだろう。
チェンが立ち上がったのを見届けて、刑事はさっさと歩き出した。狭いコンパスで歩くので、すぐにチェンは追いついた。
「被害者は一応気が済んだっていってるから」
「……」
「もうこういうことのないようにね」
気のない風に刑事は言って、警察署の玄関口で立ち止まった。
チェンも立ち止まり、自動ドアのすぐ傍に備え付けられた灰皿の前で、悠然とタバコを吹かしている男を見つけて、表情を険しくした。
「迎えきてるから。じゃ、気をつけて帰んなさい」
小柄な刑事は偉そうにタバコを吹かすマフィア然とした男に一度だけ視線を投げて、すぐに奥へ歩いていってしまった。
太巻は、そ知らぬ顔でタバコを吹き上げている。
相手に動く気配が見られないので、ようやくチェンは彼に近づいた。
「よう」
黒いビニール皮のベンチに座ったまま、紹介屋は口元だけでニヤリと笑った。この顔は、何があったかまで聞き知っている顔だ。
「散々だったな」
「……貴様が」
「オタクの組織にほっぽっとかれてるお前に同情して、わざわざこうして手を回してやったんじゃねェか。感謝されても、怨まれる筋合いはないと思うが?」
しゃあしゃあと言ってのける男に、チェンは舌打ちした。
ではやはり、あの男は知っていて自分を放置したのだという事実と……
チェンがその言葉を鵜呑みにしないことを承知していながら、人をからかう態度の悪い紹介屋の両方に。
「貴様が仕組んだんじゃないのか」
受付にいる婦警から見えないように身体の位置を移動させて、太巻の胸倉を掴む。そんな事態には慣れきっているであろう男は、案の定薄笑いを浮かべてチェンの怒りに油を注いだだけだった。
「おれが。何を?」
襟首を掴んだ拳に、思わず力が篭った。相手がやり返さないのは、それが得策だと知っているからだ。チェンは、警察でこれ以上騒ぎを起こすわけにはいかない。
「何を企んでいる。……太巻」
怒りと一緒に声まで噛み殺して、低くチェンは問いかけた。恍けて、太巻は片頬を歪めて煙を吐き出す。
「お前ェはよ」
「……」
「人質まで取っておれを脅しておきながら、まだ不安かよ」
ゆっくりと上がった男の手がチェンのそれを掴み、ゆっくりとチェンの手は太巻の服から引き剥がされた。
怒りに立ち尽くしているチェンの前で、太巻はゆらりと立ち上がる。
「青二才め」
口の端に短くなったタバコを咥えて、太巻はチェンに背を向けた。
「待て」
振り返らないで歩いていく。センサー仕掛けの自動ドアが開いて、風に任せて雨がパラパラと吹き込んだ。
返事がないまま、またドアが閉まり、雨の中に男の広い背中が紛れていく。



■―――
『あんなに笑ったのは、久しぶりだよ』
言葉どおり、青年の口調は以前よりも柔らかかった。
そりゃあ良かったと返事を返して、肺の奥まで溜め込んだ紫煙をゆらりと車内に吐き出す。車の中が白く煙った。
「気は済まねェのか」
言いながら、それこそ気のない台詞だと思う。電話の向こうで相手も笑ったようだった。
『ずっと前から、もう気持ちの問題じゃなくなってるんだ。多分』
そうだろうなと、車を煙で満たしながら、彼も思う。ダッシュボードに足を掛けると、跳ねた泥がつま先についているのが目立った。
『僕らが住んでいる社会は、僕らに前向きな気持ちを抱かせない。この社会が僕らに教える幸せも、幸福の定義も、本当は間違っているんだってことに、みんな中々気づかない。その価値観をはねつけられるほどに強くなくちゃダメなんだ。幸福は、自分の手で見つけるものだよ。……多くの人間はそれが出来ないんだ。そういう人は、僕よりもずっと不幸だと思う』
「キレイゴトばっかり並べやがって」
『後悔してないってことを言いたかったんだ』
してないのなんて、声を聞けば分かる。
「おれはお前が、他の道を歩んでいたらと、ちょっとは本気で思うぜ」
『……同情してんの?』
雨の向こうで男が苦笑した。
「しねェよ」
雨の音が煩い。面倒くさくなって、再びタバコの先端を紅く染めた。
車には、紫煙ばかりが増えていく。


■―――
シュラインと倉菜の手によって気絶させられ、榊のマンションから運び出された正美は、一旦セレスティの屋敷へと連れていかれた。太巻に連絡を取ろうにも彼の携帯は繋がらず、IO2に至っては連絡先すら知らない。
セレスティの屋敷の客室で手厚いもてなしを受けた正美は、素直に出された食事を摂り、シャワーも浴びた。普段着のまま連れ出してしまったので、倉菜が気を使って、洋服を買ってきた。
相変わらず無理に連れ出した事を怒っているのか、誰とも口を利かなかったが、正美は比較的落ち着いているようである。

……と思っていたその夜に、正美はセレスティの屋敷を脱走した。
部屋は庭を見渡せる一階にあったとはいうものの、それはもう見事としか言いようがないほど忽然と姿を消した。
始めから、正美は自分を無理やり「誘拐」した変な女子高生やお金持ちそうな美形の男など、信用してはいなかったのだ。服を素直に受け取ったのも、食事を摂ったのも、つまりはこの脱走を見越してのことだったのである。
やっと連絡が付いた太巻は、正美の救出と脱走の話を、「あっそう」の一言で片付けた。
これが雇用主だったら、確実に社員の顰蹙を買うところである。
「女の子が真夜中に街中を歩いているのよ」
とシュラインが電話口で叱りつけると、渋々というように言葉を付け足した。
「あのガキが行くところは分かってんだし……あとは奴らが勝手に見つけるだろ」
と。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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・2194:硝月・倉菜
・1481:ケーナズ・ルクセンブルク
・0086:シュライン・エマ
・1883:セレスティ・カーニンガム
・1555:倉塚・将之
・1831:御影・涼
・1564:五降臨・時雨
・1588:ウィン・ルクセンブルク

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NPC
・太巻大介:相変わらずろくでなし。
・榊・リョウ:悪霊使いで幻術使い。
・坂崎惣介:数百年前に非業の死を遂げた剣豪。渋谷透の父親。
・ダイ・チェン:チャイニーズアメリカン。今回ちょっと不幸。
・ジョセフ・ウォルフ:過去にチェンとともに榊と関わりがあったらしい。

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■         ライター通信          ■
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こんにちは〜〜。お待たせしました。
いつも遊んでいただいてありがとうございます。
いつまで待たせるんじゃい!と痛いツッコミを自ら入れながら、お届けさせていただきます。
ようやく三部目です。何故ここまで手間取ったのか…(すいません)
そして余計にすいませんな感じで、身の回りが忙しくなるため、微妙に……この話の続きがいつ書けるのか、わからな……(撲殺)
本当ならもう少し早いペースで執筆をして、忙しくなるまでに話を終える予定だったのですが(土下座)。
時間を見て、スケジュールを騙し騙し、シリーズはきちんと終わらせる所存です。
長い目で……見てやっていただけると幸いです……(這い蹲る)
短編などは、ちらりと空いた時間を見て、こそこそ窓を空けるつもりではいるのですが。

何はともあれ、倉菜ちゃんのお父様がいらっしゃるNYは、アホほど寒いらしいですね。
マイナス60度ってどれくらいですか(まずは華氏か摂氏かがわからない)
どんだけ寒いんですか…。でもちょっとだけ見にいってみたい気もします。二日くらい(…)

今回も遊んでいただいて、本当にありがとうございました!
これからも……嫌がらずに遊んでやってください。よろしくおねがいします!

在原飛鳥