■音楽都市、ユーフォニア ─巣鴨崩壊後日談─■
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【2194】【硝月・倉菜】【女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】 |
音楽都市、ユーフォニア。
──それは、『調和』と云う名を騙り、ユートピア思想に依存する運命共同体の顔をした独裁国家の理想図である。
音楽は、ただ美しいだけでは無い。
それは暴力となり得る一面も、また非常に効果的に洗脳の材料として用いられる一面も合わせ持つ。
『壮大な実験』を以てユーフォニア市の最初の拠点となる筈だった東京、巣鴨。
ここは、彼等の尽力に依てその実験を阻止され、陥落を免れた。東京コンセルヴァトワールも今後は表立って大々的には活動を行えない。
然し、組織とは個人の集まりである。そして、ユーフォニアの思想を掲げる個人は既に世界へ向けてばらまかれた。
文化遺伝子<ミーム>は、限り無く増殖する。
──────………、
「忍先生で良ければいくらでもあなたに差し上げるわ。私は一人で充分。磔也とは違うの。──私はね、」
「──パパは?」
「クシレフの次のミームを生んでみたいの。もう面倒なオーケストラなんて必要無い。……一人でも、世界を動かせる音楽家の私のミームを」
「……本当の所云うと、もう、何も遣る気が起きないんだ」
「やる事ァ全部遣っちまって、目標が無くなったってとこかねェ。……ま、その内起きるだろ」
(「音楽都市、ユーフォニア ─破壊へのカコフォニー─」)
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音楽都市、ユーフォニア ─巣鴨崩壊後日談─
【2003-12-26】
於「時空の狭間」。
「寝てるん……ですか、」
磔也の様子を見に行くかなければ、と思いつつ結局、数日は学校の期末の雑用や、年末年始にやらなければならない事を先に片付けたりしていて、ここへ来るのは今日になってしまった。
年末年始にニューヨークへ帰省する筈だった予定は取り消した。クリスマスもあったものでは無い。
カウンターのスツールに斜に腰掛け、煙草をふかしながら新聞を読んでいた太巻・大介(うずまき・だいすけ)は「さあなあ、一日中ああだからよ」と素っ気無い返事を返した切り、目を向けようともしない。硝月・倉菜(しょうつき・くらな)はふと、厭な予感を覚えて磔也が突っ伏している奥の席へ歩み寄った。
「……磔也君?」
彼の肩にそっと手を置いて見たが、反応が無い。──寝てるんだわ、とそう思って倉菜が手を引いた時、非常に緩慢な動作で磔也が軽く身体を起こした。
「……あ、」
──起こしたかしら、それとも、起きてた?
そっと身を屈め、彼の俯いた横顔を覗いた倉菜は瞬間、ぞっ、と血の気が引くのを感じた。
「……、」
──何て目、
磔也は寝ていた訳では無い。ただ何もかもが面倒で、起き上がって姿勢を保っている事さえ億劫なのだ。然し人間、永遠に眠り続けられる訳でも無い。眠りに落ちる事も出来ないままただ突っ伏していて、丁度同じ姿勢に限界が来て起き上がった所だったのだろう。──ずる、といった感じで磔也が身を起こして行くと、長時間上半身の重みを支えて神経が麻痺したらしい腕が引き摺られるように動いた。
──酷い痩せ方……、
その指先が否応無しに目に止まり、倉菜は痛々しさと憤りから眉を顰めて咄嗟にその手を握り締めた。
「……磔也君? ……分かる? ……私、……」
「……、」
不意に手を掴まれた事には一瞬だけ反応を示し、指先がびく、と強張った。が、その後は矢張り面倒になったのだろう。顔を上げようともしなかった。
手中の頼り無い感覚に不安を隠せず、幾分険しい表情で倉菜は太巻を振り返った。
「食事は?」
「一応勧めたんだぜ、餃子をアレンジしたトマトリゾット(※筆者注:何それ……)とか、バナナの輪切り乗っけたトーストとか。けど喰わ無ェんだからよ、」
「今の磔也君が自分から食事なんか出来る筈無い!」
倉菜は思わず高い声を上げていた。──ぱら、とそれに応えたのは太巻が新聞を捲る音だけで、その軽率な音は倉菜の神経を余計に逆撫でした。
「知るか、おれが。喰うも喰わ無ェもそいつの勝手だろう。餓死しそうになったら、厭でも起きて来んだろ」
「……、」
──分かってない、太巻さんは、……。磔也君の事だから、このままじゃ自分の身体には無頓着なまま死んでしまうかも知れない、……なのに……。
「磔也君、」
不意に、倉菜は確りとした声で磔也の名前を呼びながら握り締めていた手を更にそっと持ち上げた。
「……行きましょう、……ね、起きて、お願い」
「……、」
耳許で囁くと、流石に彼の瞳が僅かだが動いた。──然し、真っ暗な闇、それも汚れた空気で濁ったように輝きのない色彩の黒い瞳は、倉菜を認識しようにも先ず焦点が合わないらしかった。
倉菜は一旦彼の身体をボックス席のソファにそっと凭せ掛け、携帯電話を取り出しながらカウンターの太巻を強い視線で振り返った。無意識の内に非難の色が含まれていた筈だが、太巻は何ら堪えた様子が無い。
「──すみませんけど、磔也君、連れて帰ります。……彼が立ち直るまで、私の家で面倒を見させて貰いますけど、構わないですよね」
「……意外と積極的なんだなァ。男の方がぼけっとしてんのを良い事に、お持ち帰り──、」
「巫山戯ないで下さい! 私には磔也君の聴覚や身体を治した責任があるから、最後まで面倒を見る、それだけです、そんな、」
「あーあー、分かった分かった。好きにしな、大体おれが口出しする事じゃ無ェ。……ただ一つ云うとすりゃだな、アンタ、磔也の事を甘やかし過ぎだ。本人に生活する気力が無くて死んじまうなら、それァ勝手だろう。耳が聞こえ無いだか何だか、それにしても本気で治したきゃ自分でそれなりに行動起こした筈だ。アレルギー持ちはアレルギー持ちなりにその中で上手くやって来たんだし、デメリットを知った上でそいつが煙草吸おうが勝手だろう。耳が聞こえない、まあ可哀想に、じゃあ治してあげましょう、肺もきれいにしてあげましょう、何でも食べられるようにしてあげましょう、か。……そいつ、そうやって今まで散々甘やかされて来たんだよ、ワル振ってたって蝶よ花よのお嬢ちゃんと何の違いも無ェ。……そこで、更に甘やかす人間が居るから、いつまで経っても自分で重要な決定が出来無ェんだ」
「……、」
倉菜は無言で太巻を一瞥し、携帯電話から自宅の工房の番号を押した。祖父へ取次いで貰い、現在地を告げて車を回して貰うように頼むと、磔也の腕を取って肩を貸し、自分では一歩も歩こうとしない、然し抵抗する素振りすら見せない人形のような身体を抱えて出口へ向かった。
「それじゃ、失礼しました」
「……、」
極く儀礼的に太巻に会釈するが、ああ、と低い、気の無い返事が返って来ただけで本当に何の興味も無いらしかった。倉菜も、その後はただ磔也を祖父の車に乗せるまでの事だけを考えて顧みなかった。
「……フン、……ガキが」
読み終えた新聞紙をそのままダストボックスへ落としながら、太巻は誰へともなく吐き捨てた。
→【1h:2004-01-1X】
【2004-02-0X】
遅い午後、不意に前触れも無い来訪者があった。御影・涼(みかげ・りょう)だ。
剣道部に所属している関係で先輩に当たる彼が突然訊ねて来た事に倉菜が戸惑っている内に、日頃は温厚な涼は常と違い、幾分強引でさえある大股の足取りで上がり込んで来た。
→【3b:2004-02-0Xa】
夜になって磔也を伴って戻った涼が、彼とどんな話を交わしたのかは分からない。ただ、磔也は──昼に涼が予告した通りに──この優男、だの当分夜道に気を付けろ、だのと元来の彼らしい悪態を捲くし立てながら帰って来た。
倉菜を見ても何も云わなかったがそれは寧ろ今まで散々弱い所を見せた気不味さから来る沈黙のようで、自分の足で客室に戻った磔也の様子を伺いに彼女が顔を出すと、無愛想な声で「未だ当分部屋借りるぞ、──それと、ピアノと」、と横柄に宣言した。
それでも、磔也がここまでも気力を回復した事が彼女には嬉しかった。
その日から、磔也はぼんやりする代りに急にピアノを弾くようになった。──喜びの欠片も無い、何かに急き立てられたような演奏は傍から見ても息苦しい。然し意思を取り戻したからには何か思う所があるのだろう、と倉菜は黙って見守った。
【2004-02-14】
「日本じゃお世話になった人に配るのよね?」
「……は?」
夜になって、ふらりと起き出して来た磔也は倉菜を捕まえて「珈琲が飲みたい」とさも当然のように注文した。
倉菜は快く応じて低血圧らしくぼんやりしている磔也に砂糖とミルクを添えた珈琲を出してやり、それをブラックのまま怠慢な手付きで掻き混ぜていた彼の前に、きれいにデコレーションしたケーキの化粧箱を差し出した。
当初、磔也はただ面食らっていたようである。年末からずっと、ただぼんやりと過ごしていた彼には今日が2月14日であるとか、そのケーキがチョコレートケーキがである理由まで思い至らなかったようだ。
「……何、」
「私が作ったの。磔也君に」
倉菜は磔也にしてみれば神々しいほど明るい笑顔でそんなことを云う。
「……、」
磔也はこめかみを押えて俯いた。
「……お前、俺が甘い物嫌いなの知っててやってるだろう」
「……嫌い?」
「嫌いだ。どうせお前の事だからその辺りも分かってたんだろう、……で、どういう風に『改造』されたかは知らないけど、とにかく嫌いな物は嫌いだ」
──……、
ちく、と倉菜の良心が痛んだ。──改造、そんな酷い云い方をしなくて良いものを、態々倉菜の気が咎めている事をずけずけと云う。
然し、倉菜は殊更明るい笑顔を浮かべた。
「……知らなかった。……でも、ちょっとでも食べてくれると嬉しいかな。勿論、ワンホール一度に食べろなんて無茶は云わないから」
「要らない。大体、ケーキとか卵、入ってるんだろう。前に一回云ったと思うけどな、アレルギーだって」
「……大丈夫よ、……怖いのは分かるけど、でも、試してみない? それで大丈夫だって分かれば──」
──ばん、と磔也は力任せに両手をテーブルに叩き付けて立ち上がり、倉菜の言葉を打ち切った。肩を竦めた倉菜が恐る恐る見遣った彼は、俯いて前髪に隠れた視線をやや上目遣いに倉菜を睨み付けていた。
「……いい加減にしろ」
「……磔也君、」
「何で、俺はお前の云う通りに嫌いな物喰ったり毒味みたいな真似しなきゃならないんだよ、アレルギーだろうがそうで無かろうが、嫌いなものは嫌いだ。甘い物も嫌いだし花も嫌いだし兎も嫌いだ」
彼の苦々しい表情に自分自身へ向けた侮蔑の色が含まれていた事など、そんな言葉を投げられた倉菜に見抜ける訳が無かった。目を伏せた倉菜に、磔也は更に勢いに任せて悪態を吐いた。
「……恩でも売ったつもりなんだろう、──良い気なもんだな、」
恩……? と、倉菜は戸惑って顔を上げた。一旦口に出してしまうと、言葉の暴力は止まらなかった。
「……別に、もう音楽が聴こえなくてもどうだって良かった。それを勝手に治して、拳銃ぶっ放そうとしたら止めて、挙げ句白痴のガキの世話みたいにベタベタと、──俺が人を殺そうが自殺しようが勝手だろう、それを、救ってやった気にでもなってんじゃ無いのか。俺は少しも有り難くなんか無いし、他人に口出しされるのも大嫌いだ。……大体、絶対治らなかった筈の難聴を治してみました、だとかアレルギーも治したとか煙草吸えなくしたとか、……一体、何様のつもりなんだよ、何も出来ない俺に対して自分にはこんな事も出来るって見せ付けたいのか。それとも、──……俺は、モルモットじゃない」
「……!」
倉菜は耳を覆った。──矢張り、彼は自分を憎んでいたのだ、と──ここまで酷い事を云われても、倉菜は磔也では無く、取り返しの付かない事をした自分を責めた。
「……、」
倉菜の反応に、流石に磔也も面喰らったように口を噤んだ。──が、一瞬間だけ自嘲的な笑みを浮かべると、押し殺した声で留めを刺した。
「……それに、女も嫌いだ。特にお前みたいな、ちょっと顔がきれいだからって何でも自分の思い通りになると思ってるようなお嬢さんは」
そんなつもりじゃ無い、という倉菜の訴えは、続けて一息に投げ付けられた言葉で掻き消された。
「分かっただろう、俺は何の恩も感じてやしない、……出て行けっつーなら今の内だ」
「……厭なら、磔也君が厭だったら太巻さんの所へ帰って良いわ。……でも悪いのは磔也君じゃない、……私。ごめんなさい。……出て行っても良いし、好きなだけ居ても良い。……その間、私はもう御節介、焼かないようにするわね」
「──お人好し、」
態とらしい舌打ちをして、磔也は部屋を出て行った。──が、足音の向かった先は客室らしかった。(その辺りは現金に)
その事を倉菜がどう思ったでも無い。ただ、何とかして償えないだろうかと懊悩しただけだった。
──樹君の云った通りだったわ。……云ってはいけない事、それで、傷付けてたんだ、私……。
【2004-02-15】
「ごめんなさい」
夜中を過ぎて、堪え切れずに客室を訪ねて即座にそう侘びて頭を下げた倉菜を、未だ起きていて窓際に頬杖を付いていた磔也は振り返らなかった。
「……お節介はもう止すんじゃないのかよ」
冷たい声だけが返った。
「……ただ、謝りたくて」
「何を? ──人体実験の事か?」
態とらしいほど皮肉な調子で磔也が笑った。
「人体実験なんて、そんな、」
「……お前さあ、」
ようやく、磔也は振り返って倉菜の前まで歩くと、残酷な視線で彼女をじろじろと見下ろした。
「──一体、何者? エスパー? それか何か人間じゃない類? ……だから、俺みたいなフツーの人間なんか楽器か、好きに弄って良い道具とかだと思ってんだろ?」
「違う、本当に違うの、聞いて、磔也君は物凄く自分で自分を痛めつけてる。今でもそうだわ、絶対、痛い筈なのよ、どうしてそんなに自棄になるか分からない。だから、少しでも楽になって欲しかったの」
「……俺に、何したんだよ、お前」
「……勝手に、耳を治したわ、アレルギーも治した。……本当に申し訳無い事をしたと思ってる。許可も取らないで、……だから、せめて最後まで責任を取ろうと──、ごめんなさい」
「それだけじゃ無いだろう、はっきり云えよ、俺に何した、お前!?」
「──痛っ、」
倉菜は思わず悲鳴を上げていた。激昂した磔也が、彼女の銀髪を鷲掴みにして引っ張ったのだ。
「ごめんなさい……」
ただ、謝る事しか出来なかった。
「……何でそんなに甘いんだ、お前」
そのまま隙を与えず、磔也が、倉菜の手を反射的に強い力で掴んだ。
「え?」
戸惑う間も無く、倉菜の身体は寝台の上に押さえ付けられていた。顔の直ぐ傍に、磔也の手がある。
「……磔也君……?」
「……こういう事される可能性とか、考えて無かったのかよ」
「た……磔也君……?」
冷え切った彼の腕は、震えを抑えようとするように力が入り過ぎていた。……尤も……、……痛い……、などと思う前に、気が動転した倉菜の思考は止まっていた、が。
「助けてくれよ、……寒いんだ、何か、頭とか身体とか指とか、全部がバラバラになりそうなんだ。……助けてくれ」
「わ……、……私に、どうしろって……、」
「……あの時さ、お前、抱いてくれただろう。俺を、ぶっ壊れる寸前だった俺を止めてくれたじゃないか、だったら、今も救ってくれよ。楽器が壊れかけてるんだぜ、放って置けないだろう?」
──……甘えてるんだわ。
自分から、楽器だなんて自嘲的な事を云って。
「……放って置けないわ、」
「だったらどうにかしてくれよ、──何か、この辺、……いや、分からない、とにかく自分の身体の中が、好き勝手に壊れ掛かってるみたいなんだよ、治せるんだろ?」
「……治せない」
「見捨てる気かよ、」
「……だって、人の心までは私が干渉出来る事じゃないもの……、それに私……、」
顔が熱い、と思った。流石に体勢が体勢なので、無意識に頬が赤くなっていたのだが。
──駄目だわ、冷静に応えなきゃ……、と、倉菜は何とか思考を巡らせる。
「俺がピアノ、弾けなくなっても良いのか?」
「それは磔也君が自分で決める事よ、私が強制する事じゃない」
「……お前、」
不意に、磔也が耳許に口唇を寄せたので倉菜はぎくりとして身体を強張らせた。だが、特に何をされたでも無い。ただ、耳許で独白のような言葉を囁いただけだ。
「……どこまでも俺を惨めにさせるんだな」
彼の声は、何かとても寂しそうだった。
「え……、」
「──そう。いっそ、相当我侭な楽器になってやろうかと思っても、駄目か」
溜息でここ数カ月程の間に大分伸びた前髪を吹き飛ばし、磔也は倉菜を解放して立ち上がった。
「どういう事?」
「悪かったよ、……バカみたいだろう、ちょっとお前の気を引きたかっただけなんだ」
「……、」
「先刻云った事も全部そう。態とだよ。態と、傷付けようとしたんだ。……本当は感謝してる、……多少。……嬉しかった。あの時、お前の声が聴こえた時には。……誰でも良い、お前が、異能者だろうが何だろうがそんな事はどうでも良いよ、そうじゃ無くて、……、」
呆然とする倉菜の前で自嘲的な笑みを浮かべ、磔也はもう一度「悪かった」と呟いた。
そのまま部屋を出て行こうとする。反射的に、倉菜は後を追っていた。──今、出て行ったら磔也はもう二度と戻らない気がした。
「……待って、」
磔也は立ち止まらない。そのまま、振り切るように薄着のままで外へ飛び出した。追った倉菜も、この時は普段に無い程必死で、自分の事に構う余裕が無かった。
「磔也君!」
寒空の下を、倉菜の自宅から少し離れた所でようやく倉菜は磔也に追い付き、彼の腕を掴む事が出来た。──腕を掴まれてからも、磔也は俯いて顔を背けた切り、倉菜と視線を合わせるのを意地で避けていた。
「樹君に云われたの、私、残酷な事を云ったって。……磔也君の事、楽器、って。……ごめんなさい、その事で傷付けたのだったら本当にごめんなさい。でも信じて、私はあなたの心まで物扱いした訳じゃない」
「……、」
磔也は未だ顔を伏せていた。倉菜も必死だった。──彼女も、人慣れしていないだけなのだ。幼い頃から楽器に囲まれて育って、あまり他人と深い関わりを持つ事が無くて、だから、無意識の内に大切な人間を楽器、と認識する癖が付いてしまっただけで、決して他人を物扱いする気は無かった。
「私が磔也君の耳や身体を治したのは、楽器だったからじゃ無いの。だから、この先ピアノを弾け、なんて強制しないわ、絶対。それは磔也君の自由だし、ピアノを弾かなくても磔也君は磔也君だし、がっかりしたりもしない。……お願いだから、分かって」
「……いっそ、物扱いしてくれた方が楽だった」
吐き捨てるような言葉が返って、倉菜の胸を刺した。
「……そんな事云わないで」
「触んなよ、もう良いから俺に構わないでくれよ、」
──どうして……、
何故、こんなに辛い言葉を投げられるのか分からない。あまりにも哀しくて、眉を顰めた倉菜の手を振り切った磔也が駆け出した。
「磔也君、──」
追おうとして、倉菜は直感的にその足を自宅へ向けた。──程なく、両手に溢れそうな切り花と、ケーキの箱を抱えて戻った倉菜は必死で後を追い、──未だ身体が本調子で無かったらしく、足取りの覚束無い磔也に通りで追い付いた。
「待って、」
有無を云わさず腕を取り、抱えていた花と箱を押し付けた。
「……何……、」
「お願い、この花、持って行って」
「……、俺、」
「大丈夫! 触れても大丈夫よ、保証する」
「……何で、花なんか……、」
「『不安を取り除いて下さい』、『困難に打ち克って』」
教えられた通りの花言葉を、そのまま彼女自身の気持ちに重ねながら倉菜は告げた。
「実際に触れて欲しいの。大丈夫だから。もう、何も怖く無いって、分かって欲しいの」
「……、」
気押されて、薄着のまま溢れるほどの切り花と、リボンの掛かったケーキの箱を抱える羽目になった磔也は自分でも可笑しくなったらしい。……ふっ、と自棄になったような笑い声が漏れた。
「……バカみたいじゃ無ェかよ、……女って、ほんと、下らない事好きなのな」
「……下らなくて良い。私が、人間としての磔也君に伝えたい事はそれだけ、……それで、全部」
「……、」
今になって足に来たらしい、引き摺るような足取りで歩き出しながら、「重いよ、充分」と独白のような文句を吐きながら、彼は帰って行った。
「……不安を取り除いて下さい。……困難に打ち克って、」
倉菜に出来る事は、ただ祈るようにそう呟くだけだった。
【XXXX-XX-XX】
時空の狭間。
結局、磔也はここに居る。──他人の干渉を受けたくないからか、或いは、養父が自分に与えてくれなかったものを無意識の内に紹介屋に求めているのかは分からないが、結局、落ち着ける所はここしか無い。
今も、何やかやと云われて買い物に出され、不満を蓄積した目でコンビニエンスストアの袋を下げて戻って来た所である。
「……重い、」
「お疲れさん☆」
可愛子振って目から星を飛ばしてみせる太巻を睨みながら、冷蔵庫を開ける。──その磔也の目は、カウンターの上の、何の愛想も無い空き瓶を捉えてそのままそこで止まった。
流石に萎れかかった花は、ヤドリキとクリスマスローズだ。……何となく、自宅を出る時にも荷物と一緒に持って来てしまった。
「……、」
磔也の視線の先に気付き、──どこまでその花の経緯を知っているかも怪しいのに、太巻は彼がぎくりとするような事を云う。
「未だ、お前ェのこと物扱いしてんだろう、あの女」
「……別に……、」
さっ、と視線を花からずらして冷蔵庫に戻る。
──そうであったとして……。
「それに甘んじると思うか、この俺が」
愉快そうな笑い声が返った。
「報われ無ェな」
ごそごそ、と磔也は未だ冷蔵庫の整理で忙しい振りをして答えなかった。
「丁度良いや、何か作れよ」
──ばたん。
不機嫌そうに扉を乱暴に閉める音が、結局は了解、という返答だ。
程なく、フライパンを出して一度神経質に洗ってから、磔也はスクランブルエッグを炒め出した。
「いやァ、悪ィねいつも(あんまり悪いと思ってなさそう)。自分は喰え無ェ卵料理させちまってよう、」
「あ?」
何云ってんだ、と冷めた視線を投げ、磔也は皿を2枚、片手で出した。
「喰えるよ、──卵くらい」
「……あ、そうだったっけな」
太巻は、深くは追求しない。だから、気が楽だ。
「お前ェ、いつまで制服着てんのよ」
既に数ヶ月近く通っていない高校の制服姿の磔也に、彼の2倍程の早さでスクランブルエッグを食べながら太巻が思い出したように訊いた。
「止めんだろう?」
「……行くよ。高校くらい出ておいた方が便利だ。丁度、姉貴が入院してる事にしててくれたらしいし。来週、追試受けて来る」
【2004-03-XX】
『磔也が来てるわよ。……来ない? 話だけでも、』
ウィンからの電話で、倉菜は迷った挙げ句、古城ホテル東京営業所に立ち寄る事にした。樹が第一志望校に合格した事も祝福したかった。
彼女が顔を出した時、室内は明るい雰囲気に包まれていた。ウィンと樹を見付け、歩み寄ろうとした所でウィンの方が、「こっち、こっち」と倉菜を急かす。
「……あの、樹君……、おめ──」
「それは後で良いでしょ? さ、早く、行って」
ウィンが悪戯っぽい笑顔で、倉菜の背中を押す。樹も穏やかな表情で頷いていた。
「どこへ……?」
「……ホワイトデーに少し遅れた事は勘弁してあげてね☆」
「……ウィン……さん……?(ホワイトデーって何?)」
ピアノの音が聴こえる。
「……、」
──何だったかしら、曲名が思い出せないけど、良く聴く曲。
訳も分からず押し出された倉菜は、その軽快なワルツを、それも初心者向けの派手な技巧が折り込まれた訳でも無いその曲を弾いていたのが磔也だった事に驚きを覚えて足を止めた。
磔也のピアノは何度か聴いた事があった、が、それもリストだのベルリオーズだのラフマニノフだの、呆気に取られるような目紛しいパッセージを異常な鍵盤タッチで弾いていた所しか見ていない。だが、今彼が弾いているワルツは何の奇を衒いもしない演奏で、前者の時に感じた悲愴感は一切も無かった。
「……、」
倉菜に気付いたらしい、磔也は一瞬、視線を鍵盤から外して振り返った。
「──……、」
磔也は少し、口唇の端を持ち上げて笑い、そのまま演奏を続けた。
──嘘……、
何だか信じられなかった。倉菜は遠慮勝ちにピアノの傍へ歩み寄って、曲の終わりと同時に、──出来るだけ自然に話せるよう、言葉を掛けた。
「……何て曲?」
「サティだよ、」
「サティの、何だったかしら、……出て来ないの、」
「……"Je tu vous"……、」
云ってから、磔也はしまった、というように視線を逸した。──然し、一瞬遅れてそのシャンソンの邦題に思い当たった倉菜も顔が真っ赤になっていて、気遣い所では無かった。
「た……くや君、……、」
彼はピアノの蓋を閉じ、肘を凭せ掛けて在らぬ方向に視線を泳がせている。こんなバカ正直な反応さえ示さなければ、倉菜もまさか今の演奏を彼女に宛てたとは思い当たらなかったのに。
先日は、何故こんなにもお互いが傷付かなければならない事ばかりを云うのだろうと思い悩んだ。──が、もしかして全ては素直に本当の気持ちを言葉に出来ない彼らしい意思表示だったのだろうか……、……だとすれば……。
「……磔也君、」
「……何だよ」
「わ……、──……笑わないで答えてくれる? 磔也君、……今の演奏……、」
「……、」
ようやく上体を起こしてから、殆ど溜息のような低声で磔也は云い加えた。
「……どうせ、口で云ったってお前には通じないだろう。音楽でも無いと」
「……そんな事、無いわ」
……伝えないと。ちゃんと、相手の目を見て話さないと。
倉菜はピアノの前の磔也に合わせてやや身を屈め、視線を合わせた。
「いつか、云ったわよね、……私の声を聴いて、って。……今度は、磔也君から聴かせて欲しい、……楽器としてじゃなくて、人間としての磔也君の声、……言葉」
「……つまり何ですか、俺に恥ずかし気も無く云え、ってか?」
「……あの、……その……、」
冷たい手が、倉菜の頬に触れた。──何となく、その冷たさが心地良い、彼女はそう思った。
「……『お前が欲しい』、……良いだろう、これで」
「……、」
「倉菜」
不意に、未だ少しその響きに慣れないような、ぎこちない調子で彼が倉菜の名前を呼んだ。彼は、養父と姉以外の人間をファーストネームで呼ぶ事は殆ど無い。倉菜、と呼び掛けられたのもこれが初めてだった。
何故か、それだけの事にドキドキと緊張感を覚えながら、はい、と返事でもするように倉菜は瞬きをした。
「──好きだ」
云ってから、磔也本人が信じられ無いような表情を一瞬、浮かべた。だが、直感的に視線を反らさないで置こうと思ったのだろう。真直ぐ倉菜を見詰めている内、彼はそのまま口許に微笑みさえ浮かべた。
「……、」
「返事は無し?」
「──……、」
「……Dites-moi ce que vous en pensez.(返事は?)」
少し目を細めて彼は再度、答えを促す。
──何だか顔が熱くて、……あまり冷静に考えられ無くて……。
……でも、厭じゃない。理由なんて分かる筈無いけど、彼の声が、こんな調子でそんな言葉を告げてくれた事が嬉しい。
私の事なんか嫌いだと思ってた。……つい、御節介な事を云ってしまうし、勝手に病人扱いしたりしたし、樹君に云われたように、楽器呼ばわりしていたし……。
……信じられないけど、でも、磔也君本人がそう云ってくれるなら。
「……Pourquoi pas ?(厭と云う理由は無いわ)」
──ちょっと、冷たい云い方だったかしら。でも、咄嗟に出て来たフランス語がこれしか無かったの。
「ケーキ、食べてくれた?」
「甘かった」
──本当に、甘過ぎた。……お返しだ。
頬に触れていた手が離れ、倉菜の手を取った。
戸惑う内に、悪戯っぽい視線を向けた彼の口唇が、軽い音を立ててその手に触れた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1787 / 応仁守・雄二 / 男 / 47 / 応仁重工社長・鬼神党総大将】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】
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■ ライター通信 ■
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青い春です。
倉菜ちゃん、バレンタインにはプレゼントを有り難うございました。
その所為でも無いようですが、ホワイトデーのお返しは遅刻しつつ(有り難くないかも知れない)口説きが入るようです。
大分残酷な事を云いまして申し訳ありません。
精神年齢は子供レベルらしく。一回裏返さないと言葉に出来ないのです。
同時納品のどこぞに、姉の視点が入っていたりしますのでご覧になって頂ければ、それで謝罪に代えてやって下さい。
そして懲りずに近く、関係が変わりそうです。
連載開始からの御参加、有り難うございました。
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