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■アトラスの日に■

モロクっち
【2240】【田中・緋玻】【翻訳家】
 某月某日、白王社ビル内、月刊アトラス編集部。
 編集長碇麗香が檄を飛ばし、シュレッダーを稼動させ、記者その壱たる三下忠雄が悲鳴を上げる。
 麗香の目を盗むようにして、船舶模型情報誌に目を通しているのは、記者その弐。無口で無愛想な御国将。緑茶が入ったマグカップを傍らに、どこか覇気のない様相で、時折自分の影にちらりと一瞥をくれている。
 どやどやと応接室に外国人数名が入っていった。何でも、イギリスの秘密結社の幹部たちだそうだ。日本が気に入ったらしく、最近よく編集部でその姿を見かける。彼らがこの編集部にやってくるようになったのは、イギリス人の作家兼オカルティストがアトラスに関わるようになってからだった。集団が入った後に、そのイギリス人が黒尽くめの少女を伴って、応接室に入っていく。リチャード・レイと蔵木みさと、ふたりは最早この編集部の『住人』だ。

 多くの冒険者を抱えて、編集部はこの日も回っているのだ。
 ここは地球で、その縮図がここにある。
 シュレッダーに悪戯をするグレムリン、デスクの上に鎮座するぬらりひょん、暗がりの吸血鬼、影の中の蟲、深淵へと続くドア。
 すべてがここに、収まっている。
アトラスの日に


■エグルの呪詛 1■


『エグルの聖槍』という邦題がつけられた洋書は、回り回って田中緋玻の元に辿りついた。さほど古い本でもなさそうだが、けして新しい本でもない。実のところ、いつ頃書かれたものなのかも定かではないのだ。出版社側は何も言わなかったが、緋玻はその洋書を見ただけで、「曰くつきのもの」であることを見抜いた。
「残念だけど、あたしはまだ死ぬつもりはないのよね」
 緋玻が思った通りのことを口にすると、ファンタジー系ノベル担当者はうっと言葉を詰まらせた。
 しれっとした表情で、緋玻は蒼い視線を担当に向ける。曰くがついていようとなかろうと、これは仕事で、自分はめったに死ぬような身体ではない。それはけして変わらない事実だ。緋玻が怯む必要性は全く無かった。
「……勿体無いんですよ」
「え?」
「今は洋ものファンタジーがブームでしょ。指輪とか魔法学校のおかげでね。20年前に出版されたような話でも、訳せばある程度は売れるんです。で、これは2年くらい前にイギリスで掘り出してきたものなんですよ。これがまた面白くて」
「2年もお蔵入りってわけね」
「理由は聞かないで下さい」
「ちょっと」
「お願いしますよォ。ホラー課の2倍……いや、2.5倍まで出しますから」
 やれやれ、と緋玻は溜息をつく。
 この出版社には世話になっている。最近はほとんどメールや宅配でのやり取りで済ませていたが、久し振りに直々に呼び出されたと思えばこれだ。
「わかったわ。納期はいつ?」
 今は特に他に仕事もないし、と――緋玻は『エグルの聖槍』を受け取った。
 ひんやりとした革のような質感に、囁きのような気配が混じっている。緋玻は不快感を覚えたが、それについては触れず、洋書を鞄の中にしまった。


 地獄の鬼も呪われることがあるらしい。ということは、悪魔も丑三つ時に藁人形で呪われることもあるだろうか。髪を振り乱しながらも冷静に、緋玻は追っ手から逃れていた。
 追っ手というのは、血走った目の鴉たちだ。最近の都会の鴉は凶暴だというが、緋玻を襲ってきた群れの闘志と殺意は並大抵のものではなかった。出版社を出た途端にこれだ。 すれ違う人々のぎょっとした視線が痛い。鴉の鳴き声は耳をつんざく。
 緋玻は黙って走り、ごみごみとした路地裏に飛びこんで鴉をまこうとした。
 細い車道に飛び出した緋玻のすぐ隣で、クラクションが起こる。
「ちょっ……」
 緋玻は顔をしかめると、身を翻した。
 トラックが轟音を立てて狭い道を突っ走っていき、緋玻を襲っていた鴉が何羽か、トラックのフロントガラスに衝突して力尽きた。
「……まずいわね、仕事を引き受けてから10分でこの調子?」
 きっと、この本は2年の間、こうして翻訳者たちを血祭りに上げてきたのだ。緋玻はまだ本を開いてもいない。あらすじすら知らないのだ。担当者が緋玻のためにまとめておいたあらすじは、いつの間にかどこかに消えてなくなってしまったらしい。
「このまま死んで地獄に還るのも手かしらね。……けど……」
 誰かの意図通りの幕切れなど、緋玻はごめんだった。自分が死を悟ったときこそ、己の死期。死期を悟った処こそが死に場所。
 ここは自分の死に場所ではないし、まだ死期は近くない。
 緋玻は鞄の上から『エグルの聖槍』を撫でて、何とか諭そうと思った。
「あたしは、こんな一筋縄では死なないのよ」
 しかし、口をついて出たのは憎まれ口。彼女は微笑み、家路についた。


 『エグルの聖槍』翻訳という大仕事に取りかかろうとした緋玻に、急に入った仕事があった。だがそれは、数時間で終わった。アメリカの三面記事の翻訳で、文章量などたかがしれていたし、記事だけに厄介な言い回しもスラングもない。
 それは白王社から入ってきた仕事で、緋玻はさっさと仕事を済ませると、すぐに白王社ビルに向かった。途中、マンションの5階のベランダから植木蜂が落ちて来たり、またしても鴉に襲われたり、黒猫にくるぶしの当たりを引っ掻かれたりしたが、命に別状はないまま白王社ビルに辿りつくことが出来た。
 自分はこのスリルを楽しんでいるのだろうか、と緋玻は最近の自分の不幸を他人事のように考えた。
「……タナカさん」
 不意に1階ロビーでかけられた聞き覚えのある声に、緋玻は振り向く。
 灰色のイギリス紳士が、相変わらず書類やファイルを抱えてそこに立っていた。
「あら、いいところで会えたわ」
 挨拶もそこそこに、緋玻はリチャード・レイに近づいた。そして有無を言わさず、移動中に読むために持ってきていた『エグルの聖槍』を押しつける。レイは呆気に取られた様相でばさばさと書類やファイルを落としたが、しっかり『エグルの聖槍』は受け取っていた。
「……あの、これは?」
「『エグルの聖槍』よ」
「これが何か?」
「呪われてるの」
「何だと!」
 リチャード・レイは、沸騰中のヤカンに手を触れたときの勢いで、本から手を離した。書類とファイルの上に、『エグルの聖槍』が落ちる。
「乱暴にしないでよ、返すものなんだから」
「……すみません、驚いたもので」
 レイは渋面で本を拾い上げた。驚いたのは事実だろう。彼の口調は一瞬変わっていた。目の色もだ。
「東洋の――特に日本の呪術なら、あたしでも何とか出来る。でもこれは、どうも海の向こうのものらしくて。呪われてるのは今のところあたしだけ。読むだけなら何ともないみたい」
「お仕事は翻訳でしたね」
「ええ」
「対象の範囲が漠然としている上に、狭すぎます。高度なものですね」
 レイは言いながら、『エグルの聖槍』を開いた。

 ばらばらと落ちたものがある。

 レイにもしっかり見えているようだ。彼は、はっと息を呑んで一歩退いた。そして、しっかり本を閉じた。ページの間からこぼれ落ちたものは、文字のようにも見える小さな『鬼』だった。この国にはびこる、緋玻が常日頃糧にしている姿のものではない。涎を垂らし、棍棒を持ち、赤い目をしたその『鬼』は、トロールかオウガに近い姿を持っていた。
 一息もつかず、緋玻は床に散らばった鬼たちを踏み潰し、蹴散らした。食べる気にはならなかった。どす黒い鬼たちは、悪意と呪詛で成り立っていた。呪詛がスパイスになると、ひどく味が悪いのだ。
「……呪いの姿も舶来ものね。というわけで、専門家にお願いするわ」
「翻訳ですか?」
「それはあたしの仕事」
「ああ」
 レイは大きく頷くと、再び本を開いた。
 鬼がぱらぱらと落ちる中、しかめっ面のままレイはページを構わずめくる。
「ギ……ムク……ラブロフカ……ガ……ムク……」
 とても英語とは言い難い文章を、レイはページの中に見出しているようだ。このロビーで立ったまま解読してくれそうだと、緋玻は踏んだ。落ちる鬼たちを潰しながら、緋玻は待った。
「ベス……カトロ……ラブロフカ――」
 不意に、レイは本を閉じた。いつも優れない顔色が、一層悪くなっている。
「わかった?」
「ええ」
「どうだった?」
「危険です」
「そんなことはわかってるのよ」
「小説の中に、巧みに言霊と詠唱を練りこんであります。文字の配置や韻が術式そのものでして――」
「結論は?」
「呪詛の対象は翻訳者、意図まではわからないということです。これは呪うための媒体に過ぎませんから」
 それでも、立ち読みでそこまで暴いたことは誉めてやろうと、緋玻は微笑んだ。
「ありがとう。何の解決にもならないけど」
「お手伝いしましょう」
 意外な返答に、思わず緋玻はレイの顔をまっすぐ見返した。レイは無表情だったが、ふいと緋玻から目を逸らす。照れくさい、とでも言いたげだった。
「ここのところ私小説の進み具合が悪いのです。調査の予定もありません。何か刺激がほしいのです」
「そう」
 緋玻はレイの顔を見つめたまま、再びうっすらと笑った。
「じゃ、刺激をあげるわ」
 レイが、目だけを緋玻に向けた。
 紫の瞳で、ふうっと微笑んだ。




<続>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】

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               ライター通信
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 モロクっちです。これがシチュエーションノベル・シングルならば、納品日ギリギリ(汗)。
 内容お任せのゲームノベルのご発注、有り難うございました。お待たせしてすみません。
 と、続編があるのですね。結末はわたしも知らないだけに書いている方もドキドキします。し、しかし、レイが役に立つのでしょうか……(笑)
 またのご発注、お待ちしております。