■アトラスの日に■
モロクっち |
【2240】【田中・緋玻】【翻訳家】 |
某月某日、白王社ビル内、月刊アトラス編集部。
編集長碇麗香が檄を飛ばし、シュレッダーを稼動させ、記者その壱たる三下忠雄が悲鳴を上げる。
麗香の目を盗むようにして、船舶模型情報誌に目を通しているのは、記者その弐。無口で無愛想な御国将。緑茶が入ったマグカップを傍らに、どこか覇気のない様相で、時折自分の影にちらりと一瞥をくれている。
どやどやと応接室に外国人数名が入っていった。何でも、イギリスの秘密結社の幹部たちだそうだ。日本が気に入ったらしく、最近よく編集部でその姿を見かける。彼らがこの編集部にやってくるようになったのは、イギリス人の作家兼オカルティストがアトラスに関わるようになってからだった。集団が入った後に、そのイギリス人が黒尽くめの少女を伴って、応接室に入っていく。リチャード・レイと蔵木みさと、ふたりは最早この編集部の『住人』だ。
多くの冒険者を抱えて、編集部はこの日も回っているのだ。
ここは地球で、その縮図がここにある。
シュレッダーに悪戯をするグレムリン、デスクの上に鎮座するぬらりひょん、暗がりの吸血鬼、影の中の蟲、深淵へと続くドア。
すべてがここに、収まっている。
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アトラスの日に
■エグルの呪詛 3■
「――それで、呪いの方は……?」
「解決したからこうして2人で飲み食いしてるんでしょ?」
「そうだったのですか」
「あなた――」
「はい?」
「頭悪い?」
「何だと、失敬な!」
「……」
「……失礼しました」
「――ま、心配しないで。本当に呪いは解けたのよ。あなたのおかげでね」
田中緋玻は、ギプスを嵌めた手を何の不自由も無さそうに動かすと、鞄から原稿の束を取り出した。原稿の表紙に目を落としたリチャード・レイが、驚いたような顔を見せた。
緋玻はすました顔で、ギプスを嵌めた手でもって、あまり旨くはないコーヒーを啜ったのだった。
それから、話し始めた。
某月某日、東京の某所にて、その後2日間はワイドショーを賑わせた事件が発生した。ガソリンを積んだタンク車がガソリンスタンドに突っ込み、爆発炎上。スタンドのスタッフとタンク車の運転手、合わせて5名が死亡し、周囲に居た32名が重軽傷を負う大惨事となった。タンク車が突っ込んだ原因は、いつまで経っても不明のまま。これは東京の怪談のひとつとして語り継がれるのだろう。
32名の重軽傷者の中に、田中緋玻が含まれていた。
彼女こそがこの惨事の原因であることを知る者は、アトラス編集部にいた作家リチャード・レイただひとり。
緋玻は人間のものさしから測れば重傷を負ったが、元気にスタンド脇の公衆電話に飛びついて、リチャード・レイと連絡を取っていた。それでも、マスコミにその姿を撮られてしまったがために、その後ひと月に渡って、怪我人を装う羽目になった。ギプスも包帯も止血帯も、彼女には全く必要のないものだった。緋玻は知人の医師に頼んで、それらしい治療の真似事をしてもらった。
だがそれすらも、後日の話だ。
とりあえず、緋玻は振りかかる惨事がこれ以上大袈裟にならないよう、戦うことを心に決めたのだった。
『呪式は複雑ですが、大丈夫ですか?』
「大丈夫じゃないけど、やるしかないわ。このままじゃ、核が落ちてくるわよ」
『それはこまります』
「英語に対応させてみて!」
『やってみましょう』
からからと、緋玻の足元に転がってきたものがあった。ガソリンスタンドで死んだか、怪我をした者の携帯電話だ。液晶に傷がついていたが、問題なく使えそうだった。緋玻はためらうことなくその携帯を掴み取ると、傷ついた身体で走った。彼女のすぐそばで、トラックが1台大きくよろめき、荷台に積まれていたポールが車道と歩道に散乱した。ポールは意思あるもののように緋玻が進む道に倒れ、或いは突き刺さった。緋玻は煙たい顔でポールを避けると、誰かの携帯でレイの携帯に連絡を入れた。
『また何かありましたか』
「もういちいち報告していられないわ。早く!」
『ええい、急くな、覚え書きを落とした』
「ちょっと!」
『待て、呪式の枕は……ちがう、こうか……いや逆だ、おのれ!』
「落ち着きなさいよ!」
『有った! 良いか?!』
「言って!」
『MOON』「太陽」『DREAM』「現実」『DOOM』「創造」『SONG』「沈黙」『VANISH』「出現」『Black』「白」
『DEATH,』
「生」
『Sloth,』
「努力」
『CURSE,』
「祝福」
『ANGEL!』
「<あたし>!」
走り続けて辿りついた廃車場が、にわかに色めきだったのだ。緋玻が叫んだその瞬間、牙を剥かんとしていた廃車の山が、がらがらと彼女の周囲に崩れ落ちた。
不吉で曖昧な呪いのことばを、ひとつひとつ緋玻は封じたのだ。月に太陽を、死に生を、黒に白を、天使に鬼を。
「さあ、これであなたは、もう丸腰なのよ」
冷たく湿った地に、緋玻は手をつき、ちろりと唇を舐めた。
久し振りに、荒っぽいやり方をしなければならない。
「出てきなさい! 喰ってやるわ!」
ごぅん!
その世界は、どの国とも繋がっているのだ。人間の足元に、常に広がっている。
地獄が口を開けて、汚物を吐き出した。年老いた、禿げたイギリス人だった。
彼は、薬物によってすべてを失っていた。ただ逃げていただけだったのか。緋玻はそれを責める気になど、ならなかった。問題は自分までもが狙われたということだ。
これまでに『エグルの呪詛』を受けて死んだ者たちの魂が、イギリス人の魔術師兼作家を取り巻いている。多くにしてひとつのものと化した魔術師は、鬼よりも強大に見えた。
緋玻は目をすがめ、渦巻く怨念の中の情景を見つめる。
砕け散る基地と仲間たち。基地の位置を知るのは、英軍の中でも一握りの人間のはず。それが、偶然とは思えないほど正確に爆撃された。それは、魔術師が編み出した暗号が、「凡慮による凡庸なもの」であったからなのだ。暗号は破られた。今このときのように。
「決めたわ」
緋玻は、うっすらと笑った。
「どんなにやりきれなくたって、あたしはクスリはやらない」
成分も定かではないその秘薬は、老いた脳の中の時間を巻き戻した。
若い冴えが戻り、そして、忘れようとしていた記憶が戻ってきたのだ。思考までもが逆さに回った。
――私の術を破るからには、覚悟が出来ているのだろうな。死ぬという覚悟が。お前たちは、死すべきだ。私の術は……完璧であるべきなのだから。
崩れ落ちたはずの廃車たちは、むくりと身体を起こした。次々に首をもたげ、咆哮じみたクラクションを鳴らす。ガソリンも通っていないその心臓が唸りを上げて、緋玻に襲いかかった。鉄が砕ける音の中に、肉が爆ぜる音は、……なかった。
「すんでいたところが、あさすぎたようね……」
ふうう、と鬼が焔の吐息をついた。鬼が腕を一振りすると、緋玻に飛び掛かった廃車たちは、たちまち鉄屑になって地に這いつくばった。
「あんないしてあげるわ、あたしのくにに」
黒髪の鬼は、呪詛で膨れ上がった魔術師よりも、遥かに強大なのだった。そのあぎとが、ぼりん、と魔術師の禿げた頭を噛み砕く。
紡がれた唄や言葉が解けて崩れ、幻想的な文章の羅列と化した。
それは、田中緋玻が望んでいたものだった。
これでやっと、仕事が出来る。
もうほとんど、終わっているのだけれど。
『エグルの聖槍』の作者名の下に並んでいるのは、田中緋玻という名前と、リチャード・レイという名前だった。田中緋玻とリチャード・レイの右横には、堂々と『訳』と書かれている。
「……わたしは、邦訳に携わったことはありません」
「いま携わったじゃない。気にしないでよ」
「気にします」
「あなたがいなかったら、解決しなかったかもなのよ。言ったでしょ、舶来ものには疎いの」
深夜のファミリーレストランに入っている客は、緋玻とレイだけだった。ウェイトレスはあくびを噛み殺している。
緋玻はまたしても、ギプスを嵌めた手で原稿を掴み、鞄にしまうと、席を立った。レイは苦笑し、ゆっくりとかぶりを振ったあとに、ようやく礼を言う。
「わかりました。有り難く――」
緋玻が経ち上がった途端に聞こえてきたのは、けたたましいブレーキ音。
1台の車が、レストランに突っ込んだ。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】
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ライター通信
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モロクっちです。『エグルの呪詛』もついに完結ですか。2週間お休みを挟んでいるわけですから……1ヵ月以上に渡って展開された超大作であります(笑)!オチも名作『逝きつく先』(笑・直訳です)を意識して遊んでみました。しかし冗談ではなく、鬼形態を書かせていただいたのはかなり久し振りになりますね。
……エグルという名前は「抉る」から取ったという設定は内緒です。
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