■カデンツァ■
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【2193】【向坂・愁】【ヴァイオリニスト】 |
タイトル通り、カデンツァ(自由に)内容を指定して頂けます。
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春に散る色【palette】
【viewpoint from azure】
視線の先で、青年は腕と足を組んで白い服に包んだ身体を椅子に凭せている。
やや首を傾いでぼんやりと彼を眺めている青年を横目に、彼は床に置いたケースを開けてヴァイオリンを取り出した。
肩当てを嵌めたヴァイオリンを左の肩に挟んだまま、ボウを取り出して螺子を回して張り、松脂を滑らせると準備は完了する。
彼は立ち上がり、楽譜立ての上に置いたチューナーを使って調弦を行う。
ピッチは442Hzに設定されていた。本来はピアノがあれば良いのだが、この空間に無いものは仕方が無かった。先ずA線の開放弦を鳴らして針の揺れが丁度中心に、音の高低を示すランプが青に変わるように調節してから更に5度音程のD線、G線、最後に1弦、E線を完全音程で合わせて行く。
──適当に音を出しているだけでは重音程は合わせられないぞ。
弦の振動幅が大きくなるように意識して、良く両方の弦を鳴らせ、と以前に青年は云った。……それまでは、丁寧に完全音程を合わせようなどという意識が彼には無かった。初めて青年の前でこの作業を行った時、あまりにもいい加減な調弦をして平然としていた彼を見詰めていた視線は呆気に取られていた。青年にしてみれば、自分では到底許せない、信じられない事だったのだろう。
──……まさか、兄さんが音程を聴けない訳じゃないんだろう……、……、
癖になっているんだな、と青年が溜息を吐いた事の方が、彼には不思議だった。
こうして慎重に音を聴きながら、正確な完全音程を合わせられるようになったのはつい最近の事だ。……何度も何度も、──その都度青年の機嫌が悪くなって行く様子を目の辺りにしながら、最終的には『身体で覚え込まされた』事だ。
「……、」
出来た、と彼はチューナーから顔を上げ、改めて青年を振り返って笑顔を向けた。青年は軽く頷いている。今の所、問題は無いという事か……。
「じゃあ、始めるか」
「宜しくお願いします」
──ぺこり、と彼は頭を下げた。
いつも、彼等の「レッスン」はこうやって始まる。
【purple haze】
コーヒーショップのオープンテラスに、レイはたまたまCDショップで出会った顔見知りの青年と向かい合っていた。4人掛けのテーブルで、空いた席の一つには何か大層な黒いスクエア型のケースが立て掛けてある。一見、猟銃が何かが入っているのでは無いかと仰天するが、中身は楽器だ。
レイの向かいで副流煙を嫌う彼女に睨まれつつ、堪えた風も無く「は──……、」と疲れたように煙草の煙を吐き出している青年、一見、クラシックなんぞというお上品な物に興味を示しそうにないがこれで、一応は私立音楽大学までを卒業したヴァイオリン奏者なのである。──上塚・浩司。
「……浩ちゃんもそうだけど、何で楽器やってる人間って煙草吸う人が多いのかしら」
「あ、俺はヴァイオリンの横で吸ったりはしないよ。磔也じゃ無いんだし」
「あれは、ただのバカ」
……。
「結局、やるの?」
アイスカフェモカを啜ったレイは半信半疑さを声に滲ませて訊ねた。
「うん、ブラームスが良いって云ってたから、1番か3番かと思ってる。雨の歌が好きらしいけど、でもなあ、ああ激しい奴だから、3番が無難かと思うんだけど。それはそれで俺が死ぬかなつー感じ」
「信じられない」
レイは天を仰いだ。──春の空は、良く晴れ渡っている。陽光が眩しい。
「浩ちゃん、良くヴァイオリンソナタをやるのに磔也のピアノなんかと組む気になれるわね」
「あ、でも俺さ、音程とか譜読みが甘いじゃん。磔也はその辺凄ェ煩いから、それはそれで良い勉強になるかな、って感じ」
「だからって、何もソナタで組まなくても」
「……て云うか、アイツのピアノじゃ小品とか協奏曲の伴奏、無理だよ。主張が強過ぎてソナタくらいじゃないと手に剰る」
「ああ……、……パパも同じような事、云ってたかなあ」
ねえ、ベートーヴェンはやらないの? とレイは気分と話題を切り替えた。
「ベートーヴェン嫌いだろ、あいつ」
「あれはただの反抗期。磔也じゃなくて、浩ちゃんが」
「無理」
「何でー?」
弾いて欲しかったのにー、パパのピアノとソナタ演って欲しい、とレイは身を乗り出す。それを避けてやや上体を反らせていた浩司は、「無理無理」と手をぱたぱたと振った。
「いや、聴くのは好きだけど。弾くとすれば俺ベートーヴェンは音大んときに思いっ切り滑った記憶しか無いから。ロマン派と違って入り込めないだろ。2年の時の課題が4大協奏曲から第3楽章一曲で、ベーコンにして単位落とし掛かった、……ほら、あれ、誤摩化し利かないから。ぱっと見、簡単だと思ったんだよなー、あれならチャイコにしときゃ良かった。……で、3年の時はオケの曲がダダダダーンだった訳。ファースト。死んだ。あれなら全部音名書き込んででもヴィオラにしときゃ良かった。もー俺ベートーヴェンは苦手意識しか持てねェわ。多分克服出来んのなんか何十年か先っぽい」
「スプリングでも、駄目?」
「あーいう曲の方が本当は難しいんだぜ、きれいな音を出すって、速いパッセージでがちゃがちゃ動くのの何十倍も難しいんだよ。俺なんかスプリング、最初の2小節で止まるわ」
「……駄目ヴァイオリニスト」
「煩せ」
じゃあ駄目かあ、とレイは頬杖を付いた。
「何が?」
「んー、パパがね、知り合いのホテルのミニコンサートでベートーヴェン弾くの。三大ソナタだけどね。で、春だから、スプリングなんか一緒に出来れば良いなあと思って」
「結城さんなんか幾らでも凄いヴァイオリニスト知ってるだろ?」
「あんまりプロだと面白くないのよ。若手を支援するのが目的で設立された企業の文化活動の一貫なんだから。若手で、だけど将来的には可能性のあるセミプロ位が丁度」
「じゃあ駄目じゃん俺」
「期待してないわ。……あーあ、香坂さん、どこ行っちゃたんだろ」
ふ──……、と散々な言葉に態と紫煙を吐き出してから、浩司は不意に真顔に戻った。
「香坂?」
「あ、知らないかなあ。香坂・蓮ってヴァイオリニスト。何かねー、前に一度連絡先聞いてたんだけど、最近連絡付かないのよ」
「……ん?」
──聞いた事あるぞ、と浩司はこめかみを押さえて俯き、記憶を辿る体勢に入った。
【Melancholy of forget-me-not-blue】
「カール・フレッシュって難しいよねー、」
向坂・愁は上級者向けの音階教則本の名前を口に出しながら、その厚みのある楽譜を開こうとした。
彼の今現在の先生、──香坂・蓮、つい最近再会したばかりの、嘗て生き別れていた双児の弟だが、彼に拠れば毎日の音階練習は演奏家として当然の事なのだと云う。……いや……もしかしたら、その必然性を説いたのは蓮が初めてでは無かったかも知れない。高名なヴァイオリニストである父も、同じ事を云っていなかったか? ──然し、つい最近までは自主的にヴァイオリンを弾く気になれなかった愁があまりにも面倒がってその課程を疎かにするので、結局誰もが匙を投げて「好きにしなさい」とばかり放置して来たのではなかったか……。
「ああ」
ちら、と愁が視線を投げた弟は、──得に今の所は不機嫌そうでも無いが、あまりにこやかとも云えない、淡々とした調子で相槌を打った。
「然しいつまでもフリマリーやセヴシックをやっている訳にも行かないだろう。少なくともプロでやって行こうとするなら、カール・フレッシュ程度の音程は取れなければ駄目だ」
「でもさ、10度和音とか……フィフス以上ならともかくファーストじゃそう簡単に取れないよー……」
愁は中々弾き出さない。……大体の評価が弾く前から分かっていて悪足掻きをしたい気持ちと、そうやって甘えた言葉に付き合って欲しいという気持ちが、約半々。
「俺はファーストでも届くぞ。兄さんが俺より指が短い筈は無い。届かないとすれば、指の開き方、あるいは左手のフォームに無駄があって非効率なんだ」
蓮は取りつく島も無い。声質は殆ど同じ筈なのに、やや低いトーンで淡々と、それでいて明瞭な発音で話す蓮の声は自分の物よりもずっと硬質な、冷たいガラスのように聴こえた。──人間の声と弦楽器の音は良く似ている、と云われる。が、蓮の声はどちらかと云えばピアノのようだった。端正で、揺らぎが無い。
「だって無理すると痛いんだよね、音程も正確に取らなきゃいけない、指をギリギリまで開かなきゃいけない、とか考える事が多過ぎてそう簡単には弾けないんだって、」
「──そこで更にボウイングまでが後ろへ曲がる……、」
ぽつり、と冷めた声で蓮が指摘した演奏上での欠点に、愁は「酷いなぁ」と苦笑いを浮かべた。
「未だ弾いてもいないのにさ、」
「……昨日まで俺が見た限りでは、そうだった。一度に云っても分からないだろうから自分で気付くのを待って黙っていたんだが。……3つ。2つまでなら流石にボウイングが曲がりはしないが、3つ、注意点が3つ以上になると、兄さん、右手の肱が微妙に後ろに引いているぞ」
「え、そう?」
「……、」
──ふぅ、と軽い溜息を吐いた蓮は諦めたように、──或いは実際に「やってしまう」までの猶予のつもりか、少し紫掛った青い瞳を伏せて口許に手を当てて少しの間、黙った。
再び顔を上げた時、ヴァイオリンに関しては一切の妥協を許さない蓮の号令は容赦が無い。
「ともかく、1度言葉で注意したからな。……気付いた以上は、まさかもう肱が後ろへ引く事は無いと思うが……、」
──さっさと、弾け。
蓮の瞳がそう告げている。
愁は慌ててヴァイオリンを構えた。
「ストップ」
──ぴたり、と愁の身体は、ヴァイオリンを弾いていた姿勢のままで静止した。
「……未だ、単音階しか弾いてない……よ……?」
「──見ろ」
蓮の手が有無を云わせないが如くに、恐る恐る視線を上げた愁の右肱を掴んでいた。
「そう、未だ単音階しか弾いてない、な。なのにこの角度は? 明らかに直角じゃないだろう。先ず、右の肩と肱の位置のバランスが不自然だ。右肩は絶対に上がってはいけない。無駄に体力を消耗するだけだ。……単音階の時点でこれだから、重音程ではフォームがガタガタに崩れるのは目に見えているな」
「……、」
愁がにこにこと笑っているのは別に楽しいからでも面白いからでも無い。そうでもしなければ蓮の容赦の無い目に返す反応が見出せなかったからである。単に。
蓮は更にもう片手を愁の右肩に添え、やや乱暴に押した。同時に肱がぐい、と前方へ引っ張られる。──抵抗する術など愁には無いので、そこで彼の姿勢は一応それらしく矯正される。
「この感覚を覚えておけ」
蓮の手が離れた。再び腕を組んだ彼の瞳は、背筋が冷やりとする程に冷たい。
「……これで、今日は2度云った事になるな。……次は……、」
愁は慌てて、再び単音程のスケールを弾き始めた。
──次は、3度目だ……。
【purple-blue of a birthmark】
「……はぁ、」
ぐるり、と自らの身体を見下ろした愁は溜息を吐いた。
水滴を弾く彼の白い肌には、薄らと青紫が滲んでいる。痣……。
虐待を受けた覚えは無いが、愁の身体には其処此処に──既に無数の──痣が、薄くなったものも出来たばかりの紫掛ったものまでが散っていた。
蓮、──容赦の無いヴァイオリンの師匠に蹴られたからだ。
レッスンで汗を流した後に熱いシャワーに身を晒すのは気分が良いが、勢い良く迸った水滴が痣を打った時には鋭い痛みでびくりと身体が強張る。
「痛たた、……」
蓮は元々が口数も少なく大人しい性質だからだろうが、出来の悪い生徒である愁のミスにも1度、2度目までは低く注意を促すだけだ。
然し今まで技術的な問題を克服する事を甘やかされて、自らも真剣に考えはしなかった生徒が一度身体で覚えた癖をそうそう簡単に直せる物でも無い。日に1、2度云われただけでは矯正しようが無かった。
3度目には、蓮は足が出る。
手が出るより良いと云うべきか悪いと云うべきか、流石に「何度云ったら分かる」とでも云いた気な表情で、然も無言で、その上容赦無く蹴倒す。
「レッスンを付けてくれるのは良いんだけど、何でこう、直ぐ蹴るのかなあの子は……」
ヴァイオリンを取り落としでもしたらどうする積もりか。──何故だろう、感情に任せて暴力を振るうような過激な子では無かったと思うのだが、……ハンドルを握ると性格の変わる人間の話は良く聞くが、蓮の場合、ヴァイオリンの生徒を持つと性格が変わるような癖でもあるのだろうか。……或いは、誰かから受け継いだか、だが。
「まあねえ、でも、蓮先生が僕を思っての事だと思えば、有り難いと云うべきなのかな」
基本的に素直な性質の愁はそう考えて気を取り直し、この後に提供されるだろう蓮の手料理の夕食を楽しみにする事にして栓を捻り、シャワーを止めた。
【coffee】
「……あれ、」
さて、自分が付けた痣でもある事だしいつもの通り、湿布は蓮に張って貰おうか、と愁がバスルームからダイニングに戻った所で、彼は瞬きを繰り返す事になる。
いつもなら、そこには蓮が準備した夕食の食欲を誘う香りが満ちている筈だった。が、今日に限っては夕食は作り掛けのままキッチンに放置されており、あまつさえ強さでは煎れ掛けの珈琲の薫りの方が勝っていた。
そして、──普段は来客があるでも無いのでそこには2脚しかないスツールの内一つには見慣れない少女がちょこんと収まっていた。
「──蓮?」
くるり、とキッチンでコーヒーメーカーの相手をしていた蓮が振り返ったのと、──別段、愁にとっては驚く光景では無いが──在ろう事か鼻先まで伸ばした長い前髪で目許を完全に覆った少女が顔を上げたのはほぼ同時だった。
──誰、と弟へ質問しようとした愁が口を開くより先に、少女の方が(恐らくは目も、だろうが見えないので割愛)口を驚愕にぱっくり、と開いた方が──更にその口許から姦しい絶叫が上がる方が、早かった。
「ぇぇえええぇええっ!?」
「……、」
「……、」
蓮と愁は、双児らしく──だから同調した訳でも無いが──同時に肩を竦めた。……何という喧しい声だ。
「何、香坂さん!?」
「……ああ、」
立ち直りは、素直な愁よりも冷静な蓮の方が早かった。──ああ、と彼女の驚愕の理由に気付いたように、諦めたように軽く首を振って珈琲を煎れ終え、メーカーを持ち上げた片手の指を一本だけ愁へ向けて簡潔な説明を与えた。
「向坂・愁、──兄なんだ、双児の」
「やだ吃驚」
「……、」
──誰? ねえ蓮、この娘誰っ!?
【peppermint】
──来客の前で失礼する、と断って、蓮は愁に冷湿布を──普段よりはやや乱暴に、手早く張って行った。部屋に、彼女が美味そうに啜っている珈琲の薫りに混ざって薄荷臭が充満した。
「うわ、痛そう」
愁の痣に目を止めた彼女は如何にも他人事らしく、云うほどには苦痛とも思っていないらしい気楽な調子で云う。
「そうなんですよ、この子、レッスンになると乱暴でねえ」
そこで、苦笑を浮かべて云わなくとも良い事を初対面の少女に同意を求めて告げてしまう愁もまた彼だ。
「3回目には必ず足が出るんですよねー、……あーあ、……ーちゃんに云い付けちゃおっかなあ、蓮が暴力振るうんですー、って……」
「愁!」
蓮は兄を名前で怒鳴り付けた。その狼狽振りを前に、愁はくすくすと笑い声を洩す。
「嘘だってば、」
「……はあ……。……暴力は良くないわよ、うん」
彼女が遠い目をして呟いたのが当たり障りの無い言葉であっても仕方が無い。
「……で、……改めて」
間の悪さを濁す為か、蓮は軽く咳払いして彼女を愁に紹介した。
「結城・レイ嬢だ。(自称)メッセンジャーなんだが、父親が忍氏といって高名なピアニストなんだ。……パリのコンセルヴァトワールでの教職……は、もう辞めたと云っていたな、さっき」
「うん、来年からは──大で助教授やるって」
レイは、中堅所の私立音楽大学の名前を挙げた。へえ、と愁は素直に感心して見せた。
「凄いですね」
「どうも」
「……まあ、そうした音楽の繋がりで知っているんだ」
「それはどうも、弟がお世話になりまして」
態々丁寧に立ち上がり、愁はレイへぺこり、と頭を下げた。
「あ、どうも御丁寧に、こちらこそお世話に、……現在進行形で、なってます」
レイも慌てて立ち上がり、「美味しいわよ、コレ」と蓮の煎れた珈琲カップを軽く持ち上げて会釈した。
「……そう云えば、弟は元気か? 最近連絡も無いし。……と云って、俺の方も色々とあって連絡が出来なかった訳だが」
蓮がレイへと振った話題から、やや手持ち無沙汰な愁が出来る事と云えば精々、この娘も弟君が居るのかな? と思案してみる程度である。
「……あら、香坂さん、磔也知ってたっけ?」
「ああ、そう云えば云わなかったか。アイツもピアノやっているだろう、それで」
「香坂さんが気に止めるようなピアノ弾きじゃないと思うけどねー、まあ、元気よ。今はドイツに短期留学中」
「それは凄いな」
「春休み限定でね。不良少年の素行矯正とピアノの集中講義を兼ねて。……ねえ、──ってピアニスト、知ってる?」
「……ああ、」
「彼女が磔也の今の先生なんだけど。……実はね、彼女、ウィンさんのお義母さんなのよ」
「ウィン、……ルクセンブルク嬢か」
「そ」
「……、」
──愁には、最早完全に話の流れが見えない。が、だからと云って機嫌を損ねるような青年でも無かった。スツールが弟とやや強引そうな来客に奪われてしまった為、床に膝を抱えて座ったままにこにこと邪気の無い笑みを浮かべて2人の顔を、飛び交う会話に合わせて交互に見遣っていた。
「彼女とも暫く会っていないな、どうし──」
「そこで、今日の私の来訪の理由です」
「……、」
──他人の話を、聞いていやしない。キン、と高い音を立ててカップをテーブルに置くと同時にレイは胸の前で両手をぱん、と打ち合わせた。蓮は、流石にクールだ。遮られた言葉をいつまでも未練がましく引き摺るでも無く、ただ目を細めただけで軽く首を傾いで思わせ振りにレイが打切った言葉の続きを待っている。
「前にお願いしたじゃない、いつか、父が帰国したら合わせて貰えないかな、って」
「……ああ、」
「そこで、『クロイツェル』と、春だし『スプリング』の2曲、お願いします」
「……、スプリング、」
ちら、と蓮は横目で兄を見遣った。何か思う事があったらしいが、それに応えたのはにこやかにやや細められた愁の空色の瞳だけである。
「……構わないが、それと、ルクセンブルク嬢に何の関係がある?」
「あー、そーだそーだ。肝心な事忘れてたわ。んー、結論から云うと、ミニコンサートなの。会場はウィンさんのホテル。彼女、最近会社を設立したの。凄くない? 未だ来年からは社会学部に編入するのに、一方じゃホテルの女主人兼企業社長よ」
「大した物だ」
「で、その会社の目的は、若手を中心にした音楽家の育成と保護を目的にしてるの。名前は『EOLH』。ついでに父のパトロンだったりもするんだけど。一貫として、ホテルで定期的にミニコンサートを開催して行くらしいのね。その柿落としに父がベートーヴェン弾くの。そこで、一緒に弾かない? ──って訳で」
「……良いのか? 俺が出しゃばって……」
「し!」
レイは俄に勢い良く人差し指を口唇の前へ立てた。
「実を云うとね、これは私からウィンさんへのサプライズなの。私も父も、ウィンさんには本当にお世話になったから。春らしくて良いでしょ?」
「……だから、ルクセンブルク嬢本人が知らないのに、あまつさえピアノ独奏は結城氏だろう、そんなステージに俺のような無名のヴァイオリニストが出て行って良いのか?」
「香坂さんのヴァイオリンは私が認める。だからオーケー、問題無し!」
「……、」
──そういう問題か? ……愁には、目の前の少女の強引さに弟が目眩を起こし掛かって居る事が良く分かった。
「だから、本番は夕方……かなあ、あ、またメールするわ。それ位に直接古城ホテルの東京営業所まで来てくれる? それまではもしウィンさんに会っても、内緒ね」
「良かったじゃない、蓮、コンサートだよ」
「……、」
無邪気に、且つ他人事のように気楽に後押しする愁を横目に睨む蓮にも云いたい事はある。──暫し、彼は返事を引き延ばして口許に手を当てたまま黙っていた。
「……コンサートは、3月中か」
「そ」
「丁度良い」
「ん?」
蓮はそこで立ち上がり、愁の腕を掴んで立つように促して不意に矢面、ならぬレイの前へ突き出した。
「えっ、……蓮?」
「俺からも頼みがあるんだが」
「はい?」
「兄なんだが、4月9日に丁度コンサートで『スプリング』を弾く事になっているんだ。今、それに向けて特訓している最中だから聴けない事は無いと思う。……そこで、だが、『クロイツェル』は俺が弾く、だが『スプリング』、……兄に弾かせて貰えないか」
【midnight-blue】
長い春の陽も落ち、空が青く闇に染まり始めた。
コンサート開始まで半時間を切った頃、レイがホテルのエントランスのガラス越しに素姿を見せた。ウィンは手を振るつもりで振り返り、……そこで……。
「……まあ!」
彼女の瞳が驚きに見開かれ、口唇には再会を喜ぶ笑みが浮かんだ。
「香坂さん! ……お久し振りね、もしかして、ミニコンサートの事を知って聴きに来て下さったの?」
「彼が弾くのよ」
聴きに来た、──と云うよりも……、そうやって2人を引っ張って来たレイが先回りしてニヤ、と微笑んだ。そうして、蓮と愁、2人の背中を軽く叩いてウィンの前に押し出す。
「前からお願いしてたの。父のピアノを伴奏に、クロイツェルとスプリングを弾いて欲しいって。……ふふふー、内緒にしててごめんね、ウィンさん。驚かせたかったのよ」
「吃驚よ、……でも、嬉しいわ。クロイツェルに、スプリング! ……素敵、本当に素敵よ」
そこで蓮に向き直り、「よろしくお願いします」と改めて述べようとしたウィンは頭をぺこり、と下げた後で愁に気付いた。
「あら、こちらは……」
「……兄なんだ」
軽い会釈を返した蓮が、眉を顰める──と見えて、口唇の端に苦笑を浮かべて告げる。
「兄さん、……ウィン・ルクセンブルク嬢。以前に何度かお世話になった。ここのホテルのオーナーなんだ」
兄、と云われれば納得した、──やや蓮よりも背が高くて確りとした風に見える他、顔立ちや肌の色、日本人離れした青い瞳までがそっくり似通った青年は気さくな様子で屈託の無い笑顔をウィンに向けた。
「向坂・愁です、初めましてー。弟がお世話になりまして」
「いいえ、こちらこそ。愁さんと仰るのね。私、演奏はしないけれど音楽が本当に大好きだから。香坂さんのヴァイオリンは初めてお聴きした時から買っていたのよ。今日も彼にヴァイオリンを弾いて貰えるなんて、本当に嬉しいわ! ……あら、……って」
そこでウィンは、愁もまた蓮と同じようにヴァイオリンケースをストラップで肩に掛けている事に気付いた。
「……もしかして、あなたもヴァイオリニスト?」
「はい、一応……まあ、あの子に日々特訓されてるような腕前なんですけど」
「もしかして、今日はあなたも弾いて下さるのかしら?」
「ん」
愁はにっこりと──困ったような、照れ臭いような──明るい笑みを、子供のような表情で浮かべた。
「僕はクロイツェルは弾けないんですけど、スプリングは一応得意なんで。飛び入りだし、未だ未熟な腕前で恐縮ですけど弾かせて貰えれば、精一杯頑張りますよ」
ぺこり、と頭を下げた愁の傍らで、蓮までがまるで保護者宜しく頭を下げてしまっている。
「拙い兄だが、……どうぞ宜しく頼む」
──あらあら、どっちがお兄さんかしら、と自らの双児の兄と比べてウィンは苦笑した。勿論、その苦笑いは直ぐに心からの歓迎の笑顔に変わる。
「勿論歓迎よ! ヴァイオリニストの飛び入りだなんて素敵なハプニングなら。……あ、でも、忍さん……」
主催者は良くとも、伴奏者が……。
いくらベートーヴェンが専門分野というピアニストでも、ピアノソナタを奏するのと同様の心構えを要求されるヴァイオリンソナタの伴奏は可能だろうか?
然し、ウィンが不安気に振り返った忍は平然としていた。
「パパ、香坂さん」
レイが次いで蓮と愁の注意をピアノの前の男性へ喚起し、自分は素早く彼の側へ立って腕を引いた。
「父の結城・忍」
父、という単語に誇らし気がニュアンスを滲ませて笑ったレイを、愁は少し羨ましい気分で眺めながら会釈した。
彼女は音楽はお好きなようだがピアニストでは無い。──ああして、高名な演奏家の父を無条件に誇れる子供は何て良いものだろうと、ふと思った。──それは、愁の傍らで挨拶を交わしている彼の弟にも幾らかは同じ事なのだろう。
「香坂君? 娘からお話は伺っていました。とても良いヴァイオリンを弾かれるのだと」
「恐縮です。大学であなたの古典に関する論文を読んだ事があります。──俺も兄も、あなたにソナタの伴奏をお願いするなど恐縮ですが」
「娘は、プロに対してはシビアでね。批評に関しては信頼しているんです。何も心配していませんよ、どうぞ恐縮為さらず、ピアノを圧倒するくらいの勢いで弾いて下さい」
「とんでもない」
蓮は肩を竦めた。ちらり、と愁を横目に見ていたのは、どこか──相手が相手だけに自分は勿論、技術面で未だ不安の残る拙い兄までがここで大きく出るなど出来る筈が無い、とでも云いたそうだ。
愁は無言のまま苦笑いを浮かべて「酷いよ……」と目で訴えてみる。蓮が賺さず視線を反らせたので、その口許から忍び笑いが洩れた。
「いえ。……私も若手から刺激を受けるのは楽しみなんですよ」
「そう云って頂ければ、気が楽です」
温厚な笑みを見せた忍に、蓮もやや首を傾いで微笑を返した。
──尤も、弾き出せば遠慮する必要が生じないだろう事は、自分でも、──それに愁の事にしても良く分かっていた。
何しろ、愁は血を分けた双児の兄であると同時に彼の一番弟子なのだ。
「大変。レイ、とても嬉しいサプライズを持ち込んでくれたじゃない」
ウィンが、高い笑い声を上げて悪戯っぽく──未だ父親にべったりとくっついているレイを突いた。
「……春じゃない、」
「らしい選曲を、どうも有難う。……さてと、忙しいわ。それらしい演出をしなきゃ」
そう云って踵を返したウィンは一見悲鳴を上げているようで、その実笑顔は絶えず生き生きとしていた。
「──スポットライト、変わらないかしら」
……?
【neutral colors】
3曲のピアノソナタが終わり、2人のヴァイオリニストがスタンバイを終えるまで短い休憩時間を挟んだ。
「──そこで聴いていてくれ。他の誰でもない、アンタの……貴方のために、弾くから」
「あら?」
ウィンは、最後にスプリングを弾く筈の愁がするりと人混みを掻き分けてステージの前の席へ身軽に腰を掛けたのに気付いて瞬きした。
「向坂さん、」
とんとん、と背後から軽く肩を叩く。振り返った愁は携帯電話を片手に、苦笑していた。
「大丈夫? 準備は?」
「自分の準備よりも重大な責任を任されちゃって、あの子に」
携帯電話は、話すでも無いのに通話中を示すランプが点滅していた。
「すみません、コンサート中に。でも許して貰えたら助かるんですけど」
こっそりと愁は通話口を塞ぎ、ウィンに囁いた。
「あの子の大事な人に、中継なんです」
「まあ」
美しいドイツ人令嬢の口許に、笑みが綻んだ。
「構わないわよ、勿論」
【pastel pink of "Spring"】
蓮がクロイツェルを弾き終わると、それまでウィンの前で真剣に携帯電話のマイクで音楽を拾っていた愁がそそくさと立ち上がった。ステージの裾で、彼が携帯電話を蓮に受け渡し、彼がそこへ何事かを低声で囁いているのがちらりと見えた。
クロイツェルは、全曲を通して冒頭の和音に象徴される、悲痛なまでの郷愁を持った情熱を表現しているのに対してスプリングは、ただ春の──厳しい冬の寒さに抑圧されて来た時間からの解放──歓喜を歌う。
拙い、と蓮は云うが、歌心は充分だ。いつの間にか通話を終えたか、ウィンの傍らで不安そうに「弟子」の演奏を見守っていた蓮にウィンは「最高のスプリングよ」と耳打ちした。
然し流石、ヴァイオリンの批評に掛けては容赦が無い。眉を顰めた蓮が憮然と呟いた。
「……またインテンポを見失った。……全く、あれ程日に一度は必ずメトロノームで確認しろと云っているのに、ピアニストが巨匠で無ければ完全に音楽が止まっていた所だ、……ああ、また肱が下がっている、……」
「良いじゃない」
ウィンは微笑みで彼の小言を遮った。
「その辺りは今後のレッスンで厳しーく叩き込んで行けば(実際に叩き込んでいる、とはウィンには知る由も無い……)。香坂先生? だってほら、こんなにも春、……あなたも楽しんで聴かなきゃ、勿体無いわよ」
──そうだな、と応えた蓮の声は未だ憮然としていたが、彼の表情には笑みが浮かんでいた。
【red and white】
「今日は本当に有難う。とても良かったわ。私自身、とても感動しちゃった」
終演後、ウィンはレイが構い切りの忍は一旦そっとして置く事にして、蓮と愁を呼び止めた。
「こちらこそ、柿落としの大事なステージで弾かせて貰った事を感謝する」
既にヴァイオリンを仕舞い、身支度を終えていた蓮は少し首を傾ぐように振り返って、そう、微笑った。
──……あら、
矢張り、何かあったみたい。音がとても柔らかくなったとは思ったけれど、それにしても、前はこんなに自然に笑う人では無かったわ、──ウィンは微笑み返しながら、2人に「こんな所でごめんなさいね」とこっそり、本日のギャランティを入れた封筒を差出した。
「……あ、いや……、」
「いえ、正当な手当てだもの。継続的な物だから破格では無いしささやかだけれど、受け取って貰わなければ困るわ、主催者として」
「……有難う」
愁に封筒を渡した時に、ウィンはウィンクを投げて付け加えた。
「私の春は、あなたのスプリングで明けたわね」
「未熟ですけど、そう云って貰えれば嬉しいです」
愁は素直に礼を述べた。
「ねえ」
ウィンは、既に引き上げようとしている2人をそう云って引き止めた。
「良かったら食事とワインでも、如何? この後、簡単に打ち上げにホテルの料理をお出ししたいのだけど。勿論、お金は取らないわよ、賄いだから」
遠慮されないように、と冗談めかして見たが、──それで無くとも2人はどこか急いでいるような様子を見せて辞退した。
「いや……、有り難いんだが」
「……あ、ごめんなさい、未だ予定があったのかしら」
「そうでも無いんだが、……飲めないし、俺もこの人も」
この人、と云われた愁も苦笑しながら「どうも酔うと始末に負えないみたいでねー、」と肩を竦めているが、そわそわしているのは、パーティよりは帰りを待つ恋人の許へ急ぎたい2人は同じようだ。ウィンの知る所では無いにせよ。
「そう、では残念ね。……あ、ちょっと待って頂戴」
直ぐだからね、と念を押し、ウィンはやや小走りに厨房の方へ駆けて行く。彼女の背中を見送ってから、蓮と愁は顔を見合わせて苦笑を交わした。
「何をそんなに急いでるんだろうと思っただろうね」
「ああ……、……まあな」
本当に、程無く戻ったウィンは胸に、赤と白それぞれのワインのボトルを抱えていた。
「じゃあ、これはその代わりのお土産にね。実家で製造しているハウスワインなの」
「……、」
困惑する蓮と愁に、それぞれ赤、白の透き通った葡萄酒の揺れる音が爆ぜるドイツワインのボトルが差出された。
「……然し……、」
蓮はしきりと辞退しようとしていたが、白ワインのボトルを感心しながら眺めていた愁はある事に気付いた。──それぞれ種類は違うが、製造年が二つとも、2人の誕生年と同じなのだ。双児の彼等と、同じワイナリーで作られた赤と白の対照的なワインを重ね合わせた遊び心か。
「飲めないのよね、ええ、でも、別にワインは寝かせて置いても良いものだから」
「有難うございます」
「?」
お前も飲めない癖に、イタリアでは一度、バールを一件潰し掛かったそうじゃないか、と呆れる蓮の視線を横目に愁が先に、にっこりと笑って頭を下げた。
「……、」
冷たい視線を自らへ投げ続ける弟へ、とんとん、とラベルの製造年を指先で示して愁は笑う。
「いずれ、何か乾杯するような機会でもあれば出して来て頂ければ嬉しいわ。それまではお邪魔かも知れないけれど冷蔵庫に入れておけば充分よ、封を切っていなければ。……今日は、私にとってとても大切な日だったの。だから、そこへヴァイオリンの素敵な贈り物をしてくれたあなた達にも、何か記念になるようなものを持って帰って欲しくて」
「……そういう事なら、」
──栓を抜く機会は無いかも知れない、が気持ちは有り難く受け取る、と蓮も笑みを浮かべた。
「取急ぎだったけれど、セレクトは今日のそれぞれの演奏のイメージなの」
奥深さを内包した赤と、花のような薫りの白を。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【2193 / 向坂・愁 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【2496 / 片平・えみり / 女 / 13 / 中学生】
【NPC / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【NPC / 結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト】
【NPC / 上塚・浩司 / 男 / 24 / ヴァイオリン奏者・講師】
【NPC / 陵・修一 / 男 / 28 / 財閥秘書】
【NPC / 柾・晴冶 / 男 / 27 / 映像作家】
【NPC / 渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生(卒業間近)】
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■ ライター通信 ■
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向坂さん、初めまして。
弟君はNPCもWRも揃ってリスペクトしていたヴァイオリニストだったのです。
今回は弟君と一緒に、お兄さんにまでお会い出来た事を大喜びしています。
春の季節に、「スプリング・ソナタ」の得意なヴァイオリニストなんてあんまり素敵なセッティングで最高でした。
余談ですが、WRはこのソナタに淡い緑色から薄い水色のイメージを持っていたんです。でも今回は向坂さんのイメージであるという淡いピンクの空気を思い浮かべながら考えてみました。
そこから少しずつ向坂さんの音楽がイメージ出来た気がします。
私こそ拙いWRですが、その辺りの空気感が少しでも描写出来ていれば、と思います。
有難うございました。
x_c.
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