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■時の牢獄■

沓澤佳純
【2726】【丘星・斗子】【大学生/能楽師小鼓方の卵】
 少年が独り、薄く開いた障子戸の向こうをぼんやりと眺めている。射し込む淡い月光が密やかに彼の横顔を照らし、そこに宿る憂いを浮き彫りにする。白い肌。その上には法的罪を犯してしまったという後悔のような色が滲んでいる。
 彼は人を殺した。
 総ての過程が脳裏に明瞭な映像として刻み込まれている。水っぽいものが詰まった頭に叩きつけた花瓶の割れる音に被さる鈍い音。飛び散る白い破片を染めた赤。床に転がる肉塊。確かに一つの生命が失われてしまった刹那を体感した。
 記憶は明瞭だ。
 何を発端にそのようなことに至ったのかは定かではない。しかし相手が少年に云った一言だけははっきりと覚えている。
 ―――殺して。
 たった一言が引き金だったのだろうか。その一言に少年は精一杯の愛を込めて殺してやろうと思ったのだ。何がそうさせたのかはわからない。それほどまでに相手を愛していたのかと問われたら、はっきりと答えることはできないだろう。しかしその一言の響き、そこにこめられた何かが確かに少年を殺人という行為に導いたことだけは確かだ。
 しかし少年が殺した相手は毎夜、彼のもとを訪れては他愛も無い話をして去って行く。それまでと変わらない。姿は生前と同じ。崩れたところなど見当たらない柔らかなフォルムを形成した人間という生き物だった。
 訪問が回数を重ねるにつれて現実というものが緩やかに崩れていく気配がする。
 世界はもう疾うに終わってしまっているのではないかという予感。
 過去に停滞したまま自分は動けないのではないかという恐怖。
 少年は思う。生きている人間に会いたいと。進む時間、現実を確かめたいと強く思う。
 しかしそうするにはまだ肝心な何かが足りなかった。それ故に少年は障子戸と襖に隔てられた一室を出ることができずにいた。

<ライターより>
心理描写中心の内容で書かせて頂きたいと思っているので、個別受注でお願いします。

『時の牢獄』

【壱】

 斗子がその少年の家庭教師になったのは偶然の結果だ。
 学生課の掲示板に貼り出されていた求人広告。ふとそれに申し込んでみようと思ったのだ。何が影響していたのかはわからない。気付けば履歴書を片手にその家の前に立っていた。磨り硝子の嵌めこまれた古めかしい玄関を開けると上品な老女が斗子を出迎えてくれた。
「初めまして。丘星斗子です。こちらで家庭教師を募集していると知り伺ったのですが」
「孫のことを宜しくお願い致します」
 老女は玄関先で頭を下げる。履歴書は必要なかった。老女は最初に訪れた方を採用しようと思っていたと云った。上品な老女は長い廊下の突き当たりにある少年の部屋へと斗子を導くと、あの子次第ですと云ったきり戻ってくることはなかった。
 静かな家だった。
 まるで総ての時間が止まってしまっているかのように空気の流れも感じられない。生活感がない。随分長い年月を重ねたであろう日本家屋は静寂に沈んでいた。声をかけて障子戸を開けると座卓に向かって本を広げていた少年がゆったりと顔を上げる。そして斗子の姿を見とめると微笑んだ。
「家庭教師の方ですね」
 求人には中学生の家庭教師とあったが、少年はひどく大人びて老成した雰囲気を纏っていた。細い項や頤のラインにはまだあどけなさが感じられるというのに、所作や言葉の端々から立ち上る気配はあまりに落ち着いたものだ。
「丘星斗子です」
 少年も静かな声で名乗る。
 そして目の前に広げていた本を閉じると、向かいに座るよう仕草で告げた。それに従って少年の自室なのであろう和室に足を踏み入れると不意に妙な気配が感じられた。違和感と呼ぶには曖昧で、恐怖と呼ぶにはあまりに柔らかすぎた。踏み入れてはならない場所に足を踏み入れてしまったような心地がした。
「早速授業にしますか?」
 云う少年に斗子はいつの間にか主導権が少年の手にあることを知る。
「君次第でいいわ」
 答える自分の声が僅かに震えているような気がした。隙を見せたらそれまでだと警鐘が響く。
「それじゃあ、先生の話をしてくれませんか?」
「私の?」
「そうです。先生の話を聞かせて下さい」
「君の話も聞かせてもらえるかしら?」
 斗子が云うと少年は小さく頷く。
 隙を見せていけない。云い聞かせながら、斗子は静かに自分の話をした。表面をなぞるような当り障りの無い話だ。少年は特別興味を示すでもなく、何かを探ろうとするでもなく静かに斗子の声に耳を澄ましているようだった。その姿にまるで品定めをされているようだと思う。けれど決して不快ではなかった。少年が斗子に女性を見ている気配は全く感じられない。それよりも深い、本性や品格といったものを探られているような気がした。
「私の話はこれだけ。次は君の番よ」
 すると少年は小さく息を吸い込んで俯いた。そして覚悟を決めたかのように顔を上げると真っ直ぐに斗子を見つめ、明瞭な声で云った。
「僕は人を殺しました」
 笑っていた。けれどその笑顔には翳りがあった。今にも泣き出しそうな笑顔に悔いているのだということがわかる。しかしそれは法的な罪を犯した自身を悔いているものではない。殺してしまった相手に対するものだ。
 不思議だった。
 目の前にいる少年のか細い腕にどうすれば人が殺せるのだろうか。少年らしさを残した体躯に人を殺せるほどのものが宿っているとは思えない。強い憎しみも殺意も感じられない。ただ殺したという事実だけが目の前にあるようだった。
「信じてはもらえないでしょうが本当に人を殺したんです。総て覚えています」
 呆然とする斗子に気付いたのだろう。少年は畳み掛けるように云う。
「花瓶で殴りました。頭に叩きつけた時のあの感触が今でもこの手に残っています。割れた花瓶が……」
「信じるわ」
 少年の言葉をさえぎるように斗子が云う。
「それだけじゃないんです。殺した相手が毎夜この部屋を訪れるんです。生前と同じようにこの部屋を訪れては他愛も無い話をして帰っていくんです」
 総てが符合する。
 この部屋には死が満ちているのだ。死の気配。それは斗子にとって未知のものではなかった。両親が他界した日のことを思い出す。幼かった斗子を遺して両親は突然この世を去った。それを機に得たものもある。しかし失ったものの大きさは今も胸の奥に残されたままだ。
「何もなかったように振る舞います。殺されてないとでもいうように笑い、他愛もない話をしていくんです。こんな話も信じてくれますか?」
 斗子には答えるべき言葉がなかった。まるで総ての言葉を忘れてしまったとでもいうように唇は動くことを拒む。何か云わなければと思えば思うほどに唇は重くなる。
「信じてもらえなくてもいいんです。僕は彼を殺した。彼は僕に殺された。その現実は変わらない。それと同じように彼が毎夜この部屋を訪れるというのも現実なんです」
 座卓の上で腕を組み合わせて少年が云う。
 二人の呼吸だけが聞こえる。
 少年は何も恐れていないのだと斗子は思う。ただ殺人を享受しているだけなのだ。殺人という罪に法が与える罰は少年にとって無意味なのだと思うと不意に言葉が零れた。
「どうして殺したの?」
 皆が同じことを訊くとでも云うように少年は吐息を漏らす。
 そしてゆっくりと組み合わせていた腕を解いて答えた。
「殺してほしいと云われたからです」

【弐】

 少年の言葉が頭から離れない。殺してほしいと云われたから殺した。少年の言葉に矛盾する点は見当たらない。
 しかしわからないのは何故殺した相手が毎夜少年の部屋を訪れるのかということだ。
 初日の帰り際、少年の祖母にあたる老女は云った。
「あの子はある日を境に部屋に引き篭もったままなのです」
 少年はどこかで毎夜訪れる相手を待っているのではないだろうか。
 ふとそんな考えが斗子の頭をよぎる。六畳の和室。そこを出るのは容易い。少年はそれを自ら望んで出ることを拒んでいるのではないだろうか。一歩あの部屋を出たら総てが失われてしまうとでもいうかのように、あの部屋に引き篭もって殺した相手を待ち続けることで必死になって何か守ろうとしているのではないだろうか。
 考えながら歩いていると、既に少年の家の前に辿り着いていた。
 引き戸を開けるといつものように老女が出迎えてくれる。そして孫はあの部屋ですと微笑んだ。
「失礼ですがご両親は」
 不意に零れた問いに斗子は焦る。
 触れてはならないものに触れてしまうと思った。
 しかし老女はそれを気にすることなく云った。
「事故で亡くなりました」
 頭を下げて斗子は逃げるように少年の部屋に向かう。
 まるで自分のようではないかと思った。死因など関係ない。失われてしまったものは二度と戻らないのだ。それは自分自身が一番よくわかっている。永遠に失わずにいられるものなどないということを両親の死から知った。失ってしまったら二度と戻らないものがあるということもまた両親が教えてくれたのだ。
「こんにちは」
 障子戸を開けると少年が微笑を浮かべて云う。
「ねぇ、殺してと云われたからといってそんなに簡単に殺せるものなの?」
 障子戸に手をかけたまま云うと少年ははっきりと頷いた。
「望まれて、それが自分に叶えられるものなら叶えてあげたいと思うでしょ?」
 無邪気な声に大人びた雰囲気は幻だと確信した。
 室内に足を踏み入れ、座卓を挟んで少年の向かいに腰を下ろす。家庭教師としてこの家を訪れるようになってからもう一週間になるが授業らしいことをしたことはなかった。ただ少年と言葉を交わし、会話が途切れると帰る。そんなことを繰り返していた。
「じゃあ私が殺してと云ったら殺してくれるの?」
「本当に先生が望むのなら」
 笑う少年に偽りの気配はない。
 ただ純粋な答えが胸に沁みる。
「お願いがあるの」
「なんですか?」
「君が叶えられるものなら叶えてくれるのよね」
「えぇ」
「私を君が殺した相手に会わせてくれないかしら」
 少年はその時初めて迷いを見せた。それまで老成した雰囲気を纏って言葉を綴っていた姿が幻だったのだということを決定付けるようだった。
「駄目?」
 斗子が云う。
 少年はゆったりと刹那目蓋を閉じ、決心したかのように真っ直ぐに斗子を見つめて云った。
「いいですよ。午前零時頃に来て下さい」
「約束よ」
「はい」
 云う少年の声音に偽りも迷いも感じられなかった。ただ不安だけが仄かに漂っているのがわかった。
 現実が瓦解していく音を聞いたのだろうか。総てが幻だということを決定付けられる時が来たとでも思ったのだろうか。真相はその時が来れば明らかになるだろう。思って斗子はその日初めて、家庭教師としての仕事をした。

【参】

 少年に云われたとおり斗子は午前零時に少年の家を訪れた。時間を考えて庭から少年の部屋に上がると少年はいつもと変わらぬ様子で斗子を迎える。
「先生がいると来てくれないかもしれないから隣の部屋にいてもらえますか?」
 その言葉に従い、斗子は続きの部屋から襖越しに少年の部屋の様子を伺う。
 すると程無くして声が響いた。
「いらっしゃい」
 少年の声だった。
「特別なことなんてないよ」
 声はいつになく楽しそうな気がした。
「この部屋を出ないもの」
 笑い声。
「君がいなくなったら僕は独りぼっちだからね」
 こんなに楽しそうに笑うことができるのか。
 杞憂だった。
 思うと笑い声が込み上げてきそうだった。
 少年はただ相手を殺してしまったと思い込むことで唯一の友達を束縛していたかったのだろう。両親との別れと同じことが繰り返されないように、ずっと自分のなかに閉じ込めておきたかっただけなのだ。
 他愛も無い子供じみた感情。
「僕には君だけなんだもの」
 云う少年の声に不意に違和感を覚えた。
 声が、一人分。
 相手の声は?
 斗子は爪先から不安と恐怖が這い上がってくるのを感じる。息が詰まる。どうしてこんなに不安になるのかわからない。襖一枚が二人を隔てる。襖の向こうで少年は楽しそうに笑っている。殺したと思い込んでいる相手を前に無邪気に笑っている筈だ。
 思い込もうとすればするほどに不安と恐怖は募る。
 掛け違えた釦のような違和感。
 拭い去れない疑念。
 相手は本当にそこで生きているのだろうか。
 襖に伸ばした手が震えているのがわかった。
 開けていいものかどうか躊躇う自分がいた。
 この襖一枚を開け放つことで壊れてしまうものがあるという確信。
 残酷な好奇心が突き上げる。開けてしまえと耳元で囁く声が聞こえる。それは紛れもなく斗子自身の声だ。しかし同時に否と云うのもまた同じ声。
 談笑が続く。
 襖一枚に隔てられた先に何があるのかわからない。
 幸福な現実だろうか。
 それとも残酷な真実なのか。
 判断するには情報が足りない。
 だから斗子は泣き出すのを堪えるように唇を噛んで思い切って襖を開けた。
「先生」
 降り返る少年が笑う。
 少年は独りきりだった。
「誰もいないわ」
 斗子が云う。
 少年の顔が強張る。
「君だけよ。一体誰と話しているの?」
 怯える小動物のように少年が震える。
 ゆったりと戻す視線の先には誰かがいるのだろう。
 斗子にはその姿を捉えることはできなかった。
「ねぇ。屍体はどうしたの?」
 斗子の問いが少年を混乱させるのか、彼はこめかみを押さえ考え込むようにきつく目蓋を閉じる。
「……物置に隠し…た……」
 細い声が切れ切れに響く。
 斗子は咄嗟に少年の細い手首を掴んだ。そして強引に立ち上がらせる。少年は抗ったが斗子はそれを許さなかった。
「屍体を見せて頂戴」
 強い口調で云う。
 斗子を見つめる少年の双眸は明らかに混乱していた。
「本当に殺したの?」
 少年は頷く。
「その証拠を見せて」
 少年は斗子の強い口調に負けたのか、それとも諦めたのか従順に少年は障子戸に手をかけた。
 そして刹那斗子を見つめ、僅かな躊躇いを見せた後、抗えないことを確信したのかゆっくりと一歩を踏み出した。
 縁側から庭に下りる。そして斗子を導くように歩を進め、庭の片隅に佇む物置の前で足を止める。
「ここに隠したんだ」
「開けて」
 躊躇いながらも少年は物置の戸に手をかける。
 そしてその向こうに広がる空間を拒むように目蓋を閉じた。
 現実があった。
 雑然とした現実が確かにそこに存在していた。
「君は生きているのよ」
 斗子は云う。
「独りじゃないわ」
「……大切な人ほど早く逝ってしまう」
「仕方が無いことよ。血の繋がりがあってもそれぞれの人生を生きなければならないの。生きている限り大切な人を失うのは当然のことよ。遺された人間のそれを受け止めて生きるの」
 云いながら斗子はそっと少年の細い肩を抱き寄せた。少年が力なく凭れかかってくる。
 いつかの自分もこんな風に思っていたような気がする。大切なものを失うのならそんなものはいらないとどこかで総てを拒絶しようとしていた幼い頃。あの頃の自分が今手の中にいるような気がした。
「君は独りじゃないわ。死者も君を大切に想ってる筈よ」
 少年の肩を包む白いシャツ越しに感じる過去が冷たく掌から染み込んでくる。
 喪失。
 置き去りにされた淋しさ。
 突然の死。
 圧倒的な孤独感。
 強い拒絶。
 総てを許すように斗子は少年の肩を抱く手に力をこめる。
「君は生きているの」
 声に斗子を仰ぎ見る少年の頬が涙に濡れていた。
「人は独りでは生きていけないわ」
 言葉を探るように少年の唇が震える。
「外に出るのよ。そうすれば君は誰かを愛するようになるし、誰かが君を愛するわ」
 そして斗子は両腕で少年を抱き締めた。温かさが胸に染みる。いつも必ず誰かが傍にいてくれる。それは確かなものではないけれど、ふと気付いた時には確かにそこにあるのだ。少年が早くそれに気付けばいいと祈りながら抱き締める腕に力を込める。
「泣いて、傷ついて、強くなりなさい。独りで頑張らなくていい。誰かが助けてくれる。それは惨めなことじゃないわ」
 腕のなかで頷く少年が自分のように思えた。
 どうして喪失というものはこんなに苦しみを残すのだろう。大切なものほど失うのは早い。そしてそれが残す喪失感は計り知れないものだ。しかし遺されてしまったからにはそれを享受する他ない。それは斗子自身が痛いほどよくわかっていた。
「君は一歩を踏み出せたわ。これからも前に進める。大丈夫よ」
 胸に額を押し付けて少年が頷く。
 そんな些細な仕草が嬉しくて斗子はありったけのやさしさをこめて少年を抱き締めた。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2726/丘星斗子/女性/21/大学生/能楽師小鼓方の卵】


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■         ライター通信          ■
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初めまして、沓澤佳純です。
この度はご参加ありがとうございます。
能力を上手く生かせてないのが少々気がかりなのですが、この作品が少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
この度は本当にありがとうございました。