■甦る紅「ハイビスカスの詩」■
ALF |
【1108】【本郷・源】【オーナー 小学生 獣人】 |
「いや! 放せ! 誰が、あんたら何かと!」
酒場の中、少女の悲鳴が響き渡る。
小麦色の肌の現地人らしき16、7の少女‥‥彼女の手を引いて、自分たちのテーブルに引き込もうとしているのは、米軍の軍服を着込んだ男達だった。
酒場の中、少女を助けようとする者はいない。酒場の主の老女も、見て見ぬふりを決め込んでいた。
だが、そんな中、静かな声があがる。
「よしな」
カウンターの椅子から立ち上がったのは紅‥‥紅の拳銃を持つ男。
「お客さん‥‥止めときなよ。あの娘はこの辺の札付きのワルだ。助ける事なんてないさ。それに‥‥」
紅を止める老女は、少女を引き合いに出してはいたが、実際には兵士達への恐怖と、巻き込まれる事を厭う気持ちとが、その表情にはっきりと表れていた。
紅は老女からついと視線を外し、兵士達にもう一度目を向ける。
「もう一度言う‥‥よしなよ。兵隊さん」
酒場の中は、酷い有様だった。
床のあちこちで、倒れた兵士がうめいている。
酒場のカウンターの向こう、疲れ切った顔に諦めと怒りを混ぜ込んだ表情を浮かべた老女が、溜息混じりに苦い言葉を吐き出す。
「悪いけど‥‥出てっておくれ。この町じゃ、基地の奴らに逆らっちゃ生きてられないんだ」
「良くある話さ‥‥」
紅はそう小さく吐き捨てると、酒場を静かに後にした。
「お・に・い・さん☆ 格好良かったよ。助けてくれてありがとう」
道を歩く紅の後を、酒場で助けられた少女がつきまとっていた。
「あたい、小枝子って言うの。お兄さんは?」
「‥‥紅」
つきまとう小枝子の声に耐えかねたのか、紅はぽつりと言葉を返す。
「くれない‥‥紅かぁ」
小枝子は何度かその名を呼び、そして嬉しそうに紅の腕に縋った。
「変な名前だけど‥‥お兄さんには、似合ってるよ」
「前に来た時には、こんなフェンスなんて無かったんだがな」
米軍基地を覆うフェンスに手をかけ、紅は呟く。その傍ら、小枝子は憎しみのこもる瞳でフェンスの向こうを見透かす様にしながら言った。
「随分前に基地の拡張をしたの。この辺に住んでた人は、みんな追い出されちゃった。あたいの家も、父ちゃんも、母ちゃんもあいつらに‥‥」
小枝子が黙り込んだ事で、辺りに沈黙が下りる。しばらく続いたそれを、紅が不意に破って聞いた。
「この先にハイビスカスの木があるかどうか知らないか?」
「え?」
「友人の墓なんだ。墓標の代わりに木を植えた。花が咲いたかと思ってね」
墓‥‥とは言っても、そこに骨が眠っている訳じゃない。ただ、そいつを眠りにつかせる場所が必要だっただけだ。
だから用意した。友人の故郷だというこの島に。好きだと言ってた南国の花を添えて。
「ごめん‥‥わからない。もう、連中が切っちゃったかもしれないし」
「そう‥‥か」
かぶりをふる小枝子に、いささか気落ちした様子で答える紅。だがその時、小枝子は弾む様な声を上げて言った。
「そうだ。あたいが確かめにいってあげるよ」
「確かめに?」
問い返す紅に、小枝子は胸を張って答える。
「そ‥‥何度か中に入った事があるんだ。連中、結構いい加減みたいでさ、中の物盗んでも、ぜんぜん騒ぎにならないんだ」
夜に雨が降っていた。
基地の片隅、倉庫として使用されているプレハブ小屋。そこに客が来ていた。本来ならば、基地内に入る事さえ許されないだろう客が‥‥
「いつも通り‥‥だな」
厳つい身体に、向こう傷だらけの顔の男が呟く。その男の腰には、一丁のショットガンが吊ってあった。
その周りには、同様の風貌の、明らかに堅気ではない男達。彼らもまた、銃で武装しているのだろう、上着に微妙な膨らみがある。
そして、彼らの前に置かれた木箱には、黒光りする銃が何丁も詰め込まれていた。それもロシア産中国産の安物ではなく、正真正銘、米軍で使用されている最新の物だ。
「ミスター村井。武器ばかり、随分と集めているじゃないか。極道会は戦争でも始めるのか?」
男‥‥極道会からの使い村井金雄。
その前に立つ、軍服を着た初老の紳士然とした男は、冷酷そうな笑みを口端に乗せて聞いた。彼の周りには、小銃で武装した兵士達が付き従っている。
今までに何度も取引を重ね、初老の男の事を良く知る村井は、それに怖じることなく言葉を返した。
「まあ‥‥な。だが、これ以上は、あんたの個人的なビジネスには無関係の筈だ。アンダーソン基地司令」
「はっはっは。確かにその通りだ。私は、もらえる物がもらえればそれで良い」
アンダーソン基地司令は笑う。と‥‥その時だった、小屋の外でガタリと音がする。
その場にいた全員が窓に目を向けた。外の風景を切り抜いた窓の中、小柄な人影が逃げていくのが見える。
それはアンダーソンの部下ではないし、もちろん村井の部下でもない。
「Pursue!(追え!)」
アンダーソン基地司令は、部下に鋭く命じた。すぐさま、部下の兵士達が小屋の外へと飛び出していく。
「俺たちがやろうか?」
「まあ、任せておけ」
申し出た村井に、アンダーソン基地司令はニヤリと笑って言葉を返した。
「基地は治外法権だ。誰にも、何も出来無い。それに、基地に不法侵入した原住民が歩哨に撃ち殺された所で、誰がそれを気にする? それぐらい、ここでは良くある事だ」
そう言った後、アンダーソン基地司令の表情が更に醜悪に歪む。暗い喜びを期待する表情に‥‥
「それに、私も久々に狩りを楽しみたいと思っていた所でね」
アンダーソン基地司令の手が素早く動く。
と、次の瞬間には、その手の中にホルスターから抜かれた銃が握られていた。
古い銃‥‥コルト・シングルアクションアーミー。まるで芸術品ででもあるかのように慎重に手入れされたそれは、アンダーソン基地司令の手の中で鈍い黒鉄の輝きを放っていた。
息を荒げて走る小枝子。だが、その後ろを兵士達は猟犬のように追いかけてくる。
そして‥‥銃声が一発、響いた。身体を焼き貫く衝撃に、小枝子はその場に倒れ込む。
倒れた小枝子の目に、赤い花が見えた。
広い基地の中、一本だけ残ったハイビスカスの木。それは‥‥紅の友の墓。
「ハイビスカス‥‥」
小枝子は手を伸ばし、ハイビスカスの花びらを握りしめた。その身体から溢れ出る血と同じく赤い、ハイビスカスの花を‥‥
雨が、小枝子の血と命を洗い流していく。
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甦る紅「ハイビスカスの詩」
客船カモメ丸は、一本の航跡を青い海に刻みながら先へと進む。
後甲板に立ち、草間武彦‥‥いやさ紅は、船の行き過ぎた波間の彼方へと目をやりながら、紫煙を立ち上げていた。
住み慣れた屋を捨て、親しき友を捨て、血の繋がりは無いが妹としての絆を結んだ少女を捨て‥‥今を生きる。
懐に忍ばせた紅の拳銃‥‥戦いを呼ぶその宿命に導かれるかのように。
今、紅が向かう先‥‥それは、小さな南の島だった。
今はもう居ない、かつての友が眠る島。
紅は、懐の銃が疼いたような気がして、少し笑った。
「‥‥お前も過去に泣くのか」
つぶやきは、潮の音に流れていく‥‥
向かう先、海の中に紛れて消えてしまいそうな程に小さな島が、緑色の木々に覆われた姿を水平線の上に現そうとしていた。
●酒場の一幕
島は港も町も寂れきっており、活気がある場所と言えば米軍の為の私設がある一角だけ‥‥そんな町の片隅にある、まさに場末と呼ぶのが相応しいと思えるような、木造の薄汚れたバー。
スイングドアを押し開けると、薄暗い店の中、カウンターに立ったバーテンの老婆が、怯えたような目を一瞬向けてくる。
店の中に客はまばら。昼日中から飲んだくれている者がこれだけ居ると言う事だから、むしろ客入りは良いのだろう。
テーブルを占拠して、暗い顔で不味そうに酒をあおる男達‥‥
カウンターでスツールに腰掛け、苦そうにグラスの中身を舐めている小麦色の肌の少女。
彼らは明らかにこの土地の者だが、そうではない者達が店の奥にいた。
カウンターで一人酒を飲む、サングラスと南洋にはあわないコート姿の流れ者らしき男。
そして、丸テーブルを3人で使い、カードに興じている米兵。
粗野そうな顔をした白人の男達だ。よれた軍服を雑に着ている事から言って、職務に忠実な者達というわけではないのが見て取れた。
酒場への来訪者‥‥モーリス・ラジアルは、彼らの姿を見ると、真っ直ぐにそのテーブルに向かう。
「‥‥何だ?」
真剣に睨み付けていたカードから目を上げ、モーリスを見る米兵。彼の日本語は流暢だった。
「いえ、少しお話が‥‥」
言いながらモーリスは、手に持っていた小さなケースをテーブルに散らばったカードの上に置き、それを開く。
中に隙間無く詰められた札束に、米兵達全員が黙り込んだ。
そこへ、モーリスは淡々と言葉を続けた。
「銃を買おうと思いましてね。売ってくれる方を探して居るんですよ」
「な‥‥何処でそれを!?」
米兵達の顔色が変わり、モーリスを睨み付ける。モーリスは、その視線を涼しい顔で受け流した。
実際は‥‥知るも知らないも、ただ単に柄の悪そうな米兵にかまをかけたら当たったと言うだけの話だ。もっとも、そんなことを教える義理もないので、モーリスは黙っている。
そんなモーリスに向けられていた米兵達の視線は移動し、モーリスとテーブルの上の札束を行き来し‥‥そして、仲間達へと向けられる。
「Does it sell to him?」
「Probably, it will be OK」
「The defeat of yesterday's bet is regained‥‥」
米兵達は、少しの間、声を潜めて話し合った。
そしてどうやら、小遣いを稼ごうという方向にまとまったらしい。
米兵の一人‥‥さっきから流暢な日本語を使っている男がモーリスに言葉を返す。
「よしわかった。売ってやる。で、売れるのは、M16かコルト‥‥後はその弾丸だ」
「‥‥待ってください。性能の良い銃が買えると聞いたんですが」
モーリスは米兵の言葉を遮って聞いた。
あくまでもコレクションとして、性能の良い銃を買いに来たのだ。M16やコルトなどありふれて珍しくもない銃は必要ない。
だが、米兵はあっさりと首を横に振る。
「こっちの商品は、あくまでも横流し品‥‥米軍の標準装備しかないね」
米軍の標準装備のM16にコルト。性能が悪いとは言えないが、些か古い武器であると言わざるを得ない。最新の銃と比べたなら、明らかにこれらは見劣りする。
無論、アンダーソン基地司令の直下で動いての話なら、より性能の良い銃器を大量に買い揃えることもできただろう。しかし、この取引は、部下の米兵の個人的な小遣い稼ぎでしかない。
もっとも、そんな事情は、モーリスには知る由もないことであったが‥‥
「では、いつ基地にお伺いしますか?」
聞くモーリスに、米兵は答える。
「基地? 冗談じゃない。基地に来てもらう必要なんか無いね。あんたは、俺達が銃を持ってくるのを待っていれば良いんだ」
正規ルートでの注文客でもないモーリスを基地に入れることなど出来ない。もしそんな事をして、基地司令の耳に入りでもしたら、米兵達自身の命が危うい。
その程度の保身を考える頭は、米兵達にもちゃんとそれぞれ一つずつついていた。
そもそも、基地の中に入れる必要など無いのだから、いらぬ危険を犯す意味など無い。
「明後日の夜だ。商品を持って行くから、港で待ってろ。金を忘れるなよ?」
「‥‥わかりました。では、失礼します。これは、今夜の酒代に‥‥」
言ってモーリスはテーブルの上のケースの中から札束を一つ取り出し、米兵達のテーブルに置いた。そしてケースを小脇に抱えて一礼すると、米兵達に背を向けて店を後にした。
彼が去った後、思わぬ入金に舞い上がった米兵達は歓声を上げ、バーテンの老婆に追加の注文を発する。
老婆は、受難者の顔でその注文に従い、ボトルを壁の棚から出すとテーブルへと向かった。
そして、数刻‥‥
「いや! 放せ! 誰が、あんたら何かと!」
酒場の中、少女の悲鳴が響き渡る。
小麦色の肌の現地人らしき16、7の少女‥‥彼女の手を引いて、自分たちのテーブルに引き込もうとしているのは、米軍の軍服を着込んだ男達だった。
酒場の中、少女を助けようとする者はいない。酒場の主の老女も、見て見ぬふりを決め込んでいた。
だが、そんな中、静かな声があがる。
「よしな」
カウンターの椅子から立ち上がったのは、サングラスにコートを羽織った流れ者の男。その腰に下げられたのは紅の拳銃‥‥彼は紅の拳銃を持つ男。
「お客さん‥‥止めときなよ。あの娘はこの辺の札付きのワルだ。助ける事なんてないさ。それに‥‥」
紅を止める老女は、少女を引き合いに出してはいたが、実際には兵士達への恐怖と、巻き込まれる事を厭う気持ちとが、その表情にはっきりと表れていた。
紅は老女からついと視線を外し、兵士達にもう一度目を向ける。
「もう一度言う‥‥よしなよ。兵隊さん」
からかうような響きが混じり込んだその台詞に、白人男達はその面相を急に怒りに染めさせて、バラバラと席を立った。
そして、その手の指を鳴らしながら‥‥あるいは、空の酒瓶一本を手にぶら下げながら、紅の元へと歩き始める。
「‥‥マスター。ちょいとばかり、暴れさせてもらうぜ」
紅はカウンターの向こうで頭を抱えた老婆に笑いながら言い置き、自らも男達の方へと足を進めた。
店からはすぐに、ガラスの割れる音、何かが壊れる音、そして怒号と歓声が溢れ出す。
観光客のなりをした宮小路・皇騎が少し休もうとこの店の入口に立ったのはまさにこのタイミングであった。
薄暗い店の中では、何人かの男達が殴り合いの大立ち回りを演じている。いや‥‥正確には、一人でしかない紅を、残り3人で倒そうとしていると言うべきか。
しかし、その洗練さの欠片もないただの殴り合いは、3人の男の酔いが随分と進んでいるせいか、一人で戦う紅の優位に進んでいた。
彼は、戸口に立ちつくす宮小路には気付かず、ただ淡々と殴り合いに興じていた。
殴られたダメージのせいか、はたまた酒のせいか、ふらふらと立ち上がっては襲いかかってくる逞しい白人男達を、酷く適当に殴り、蹴りつけている。紅には、カウンターに残っていた自分のグラスを飲み干す程の余裕があった。
「全く‥‥足腰立たなくなるほど酔うような店じゃないってのも、わからないのかね」
苦笑を浮かべながら紅は、ふらつきながらもまた立とうとしている男達に目をやった。そして‥‥
「それから娘さん。そいつはキツイから止めておいた方が良いぜ」
「え? えと‥‥そうかい?」
紅に言われ、先程この男達に絡まれていた少女が、手に持って振り上げていた酒瓶を下ろした。確実に、そいつで仕返しをするつもりだったのだろう。
紅は、少女からグラスへと視線を移して言葉を続ける。
「災難だったな」
「うん‥‥まあね」
紅に微笑みを返し、それから少女は手に持った瓶を投げた。瓶は軽く放物線を描くと、床で藻掻く最初に少女に絡んだ男の尻の上に落ちた。
尻を押さえて激しく身をよじる男を見、少女は笑みをより大きくする。
「お兄さんに免じて、これで許したげる」
「‥‥お優しいこった」
苦笑し、そして紅はグラスを置く。
見渡した酒場の中は、酷い有様だった。
床で、倒れた白人男達がうめいている。
酒場のカウンターの向こう、疲れ切った顔に諦めと怒りを混ぜ込んだ表情を浮かべた老女が、溜息混じりに苦い言葉を吐き出す。
「悪いけど‥‥出てっておくれ。この町じゃ、基地の奴らに逆らっちゃ生きてられないんだ」
「良くある話さ‥‥」
紅はそう小さく吐き捨てると、酒場を静かに後にした。
と‥‥そこで、宮小路に初めて気がつく。ビックリしていた宮小路は、懐かしい顔を見た喜びに、そこでニッコリと微笑みかける。
が、紅はそのまま視線を外すと、まるで空気のように宮小路を無視して、その傍らを過ぎていった。
「あ‥‥待ってくださいよ!」
数瞬の間をおいて、我に返った宮小路は紅を追って走った。
だが、紅は宮小路を完全に無視して歩いていく。走った宮小路は彼に追いつき、肩を掴んで振り返らせることに成功した。
「まさか、こんな所で再会するなんてね。観光ですか?」
とぼけた事を言いながら、にこやかに話しかける宮小路に返ったのは、紅の冷ややかな言葉。
「知らないな。ひょっとして、この顔は兄さんの知っている顔に似てるのかい?」
小さく嘲笑にも似た笑みを浮かべ、紅は宮小路の言葉を流す。
「ま、何の事かは知らないが‥‥人違いだ」
「え、でも‥‥」
「人違いだって言ってるんだ。食い下がってどうする? 言い負かせば、俺が兄さんの言う人に変わっちまうとでも?」
食い下がろうとした宮小路に、肩をすくめて言う紅。
確かに、別人だと言われてしまえばそこまでだ。追求して、言葉を撤回させても意味はない。本当に違うのだとすれば。
それに、今更になってようやく気付いたのだが、紅の纏う空気が、草間のそれとは明らかに違う。
夜の街の臭い‥‥例えるなら、そんな臭いが、紅にはまとわりついていた。
さすがに人違いかと宮小路が思い始めたその時、足音高く二人に駆け寄ってきた少女がいきなり宮小路に向けて声を上げた。
「こらーっ!」
大声が、宮小路に向けて叩き付けられる。
「いい加減にしてよ。あんた、馬鹿じゃないの? 違うって言ってるじゃない! 迷惑なんだからどっかに行ってよね‥‥この、馬鹿!」
「あ‥‥はい。し、失礼しました」
邪魔者はどっかに行けと率直に言っている怒りの言葉。少女の剣幕に、宮小路は慌てて頭を下げ、そして後も見ずにその場を逃げ出した。
いや、少女の言葉から逃げたのではないのかも知れない‥‥宮小路はふと思う。
ひょっとすると宮小路は、紅の纏う空気に耐えられず逃げ出したのかも知れなかった。
そんな宮小路を見送り、紅は少女に目を戻す。
さっき、酒場の中で助けた女の子だ。彼女は、かなりの勢いで駆け寄ってきたにも関わらず、さほど息も切らせずに上機嫌で話しかけてきた。
「待ってよ、お兄さん。いやあ、店の婆さんに捕まってる間に、いっちまうんだもの、見失ったらどうしようかと思った」
「何の用だ? 礼って柄でも無いんだろ?」
言いながら、紅はその足を進める。少女はその後に続きながら、紅を覗き込むようにして見ながら言葉を続ける。
「お・に・い・さん☆ 格好良かったよ。助けてくれてありがとう」
礼を言う少女‥‥だが、どうもそのとってつけたような礼は、紅に言われて思いついたままに言ったらしく、あまり気持ちはこもっていなかった。
「あたい、小枝子って言うの。お兄さんは?」
「‥‥紅」
つきまとう小枝子の声に耐えかねたのか、紅はぽつりと言葉を返す。
「くれない‥‥紅かぁ」
小枝子は何度かその名を呼び、そして嬉しそうに紅の腕に縋った。
「変な名前だけど‥‥お兄さんには、似合ってるよ」
●追ってきた二人
この町ただ一件のバーに立ち寄ったシュライン・エマと田中祐介は、その入口であるスイングドアにかけられた休業中の札に足を止められていた。
そしてその場で、土煙を上げながら走り去っていく米軍の救急車を見送る。先程までその辺に溢れていた米兵達も、ここで起こった顛末が酒の席での喧嘩以上のものではないと悟ったのか、バラバラと各々の乗ってきたハンビーや兵員輸送トラックに乗り込もうとしている。
シュラインは、店の前で米軍兵士達に尋問されていた老婆がバーに戻ってくるのを見、彼女がバーの店主だと悟って声をかけた。
「大丈夫ですか? 事情聴取にしてはずいぶん乱暴だったみたいですけど」
「あんたら、よそもんだね?」
老婆はジロリとシュラインを見ると、疲れた溜め息を吐きながら店のシュラインと田中の脇を通って店のスイングドアを開けた。
「ここじゃ、あんなのは軽い方だよ。何せ、基地に呼び出されたっきりってのも居ない訳じゃないからね」
「基地から帰してくれないのか?」
何気なく聞いた田中の前、老婆はニヤリと笑う。
「死体は帰ってきたよ。身体が倍に腫れ上がるほど殴られてた。その身体で、拘束を逃れて基地に対する破壊工作をしようとしたから射殺したそうだ」
老婆は引き付けるようにヒッヒッと笑い、そして付け加える。
「基地拡張に反対して、抗議だの陳情だのやって‥‥そのざまさ。この島を支配している連中に逆らうなんて、馬鹿な事をしたもんだよ。あいつも‥‥今日のあの娘も、あのよそ者もね」
「よそ者‥‥じゃあ、この騒ぎは」
シュラインは、改めて破壊された店内を見た。中で一波乱あった事は、確実なようだった。
おそらくそれをやったのは、よそ者と言う事なのだろう。僅かに胸騒ぎを覚えての問いかけに、老婆は皺だらけの顔をしかめて更に皺を増やしつつ、思い出し思い出し語った。
「何といったかね‥‥そう、紅の拳銃。あの男は伝説の紅の拳銃を持っていたよ」
●潜入し、捕まった者
密輸の真相を探るという依頼を受け、基地に査察官として送り込まれてきたレミントン・ジェルニールに対し、応接室で応対したルキアン・アンダーソン司令は冷ややかに笑いながら言った。
「残念だが、君を基地に入れる事は出来ない。この基地に、査察官なんて者は来ないのだよ‥‥当然、本国に確認をとった。そう言った命令は出されていないとの事だ」
「‥‥」
正体は早くも露見していた。
アンダーソンの裏家業‥‥それを追求できるのは米軍自体以外にない。他の公的組織、例えば日本政府などがこの事を掴んだとしても、やはり米軍を通して事を起こすだろう。
で‥‥米軍が、傭兵だの何だのと人を雇って、自分の身内を探らせることはない。人を雇わないでも、自分達だけで十分にそれが出来るのだから、無駄に身内の恥を晒すような事をするはずもないだろう。
そして、査察官を送ると言う事が本当にあったなら、米軍がそれを知らない筈がない。
本国に一報打たれれば、嘘は容易くばれる。
と言うか、依頼主から査察官としての潜入を命ぜられてきたのだ。その程度の下準備は当然成された物と思いこんでいた。実際には、何の手も打たれていなかったわけだが‥‥
「で‥‥傭兵風情が何の用だ?」
アンダーソンは口調はそのままに質問を続ける。傭兵‥‥レミントンの本当の商売にまで調査は及んでいた。
「顔色が変わったな。気付かれないと思っていたのか? だがな、写真を送ったら、すぐに照会できたよ。大物らしいな‥‥歴戦の勇士か。外見通りの年齢じゃないな。ふむ、なかなか素晴らしい戦績だ。だが、くだらない所で、くだらないミスを犯したな」
「‥‥こんな、ずさんな計画だと知ってたら、もっと他の手を打った」
苦々しげにレミントンは抗弁する。
まあ、銃器の密輸などと言う、ちんけなアルバイト程度の悪事に、傭兵を雇って投入しようなどと言う子供じみた連中のする事だ。完璧なはずがなかった。
もっとも、そんな子供じみた連中の為にこんな所にいるレミントンの方が、よっぽど惨めなのではあるが。
「そうか。そうだろうな。全く‥‥理解が出来んよ。米軍基地に入りたいなら基地祭にでも行きたまえ。もっとも、この基地じゃそんな金の無駄遣いはしていないがね」
言いながらアンダーソンは喉の奥で笑った。
彼の前、レミントンは考える。
任務は全く遂行されていない。では、別の方法に切り替えるか? ならば、何とかしてこの場を脱しなくてはならない。
懐の銃を抜いて牽制し、とにかく脱出を‥‥
「それで‥‥依頼人は誰なんだ? このくだらない一幕の主催者は」
「‥‥話す事は何もない!」
レミントンは、素早く手を懐に入れ銃を抜き出す‥‥が、その動作は懐に入れた手が銃把を握りしめた所で止まっていた。
「な、速い‥‥」
動きを止めたレミントンの目の前、抜き放たれたコルトシングルアクションアーミーが鈍い光を放つ。
完全にレミントンの動きの方が早かったのに、銃を抜く速度はアンダーソンの方がずっと速かった。
アンダーソンは、口元に笑みを乗せながら、静かに言葉をつむぐ。
「まあ良い。喋らなくてもかまわない。その内、自分から喋りたくなる」
その後‥‥レミントンは部屋に入ってきた兵士に拘束された。そして、彼女の苦痛の時が始まる‥‥
「自白剤‥‥そんな物もあるが、少々雅には欠けてね。私は好きじゃない」
全ての服と装備を剥ぎ取られたレミントンは、屈辱的な身体検査の後、後ろ手に手錠をかけられ、両脇を屈強な兵士に掴まれて基地内を歩かされていた。
そんな彼女の後ろを歩くアンダーソン基地司令は、先程からずっと楽しそうに、レミントンがこれから体験するであろう苦痛の時間について語り続けている。
「幸い、君は頑健そうだから、十分に私を楽しませてくれると期待している」
アンダーソンの嬉しそうな声が耳に障った。
レミントンは、自分がどんどん基地の地下へと下りていっているのを確認しながら、周囲の隙を窺う‥‥
両脇の兵士は、奇襲で何とかなるかも知れない。だが、アンダーソンだけは別格だ。兵士二人を倒した時には、アンダーソンの銃が自分の脳を吹き飛ばしている事だろう。
驚異的な回復能力を持っているが、脳をやられてまだ回復できるかどうかはわからなかったし、それを試すのもゴメンだった。
地下特有のカビ臭い空気に満ちた、薄暗く冷たい、コンクリート剥き出しの壁にパイプの這う廊下が、いつの頃からかずっと続いている。終着点が近いのだろう‥‥そう思わせる何かを感じる。
「君を鞭打っても良いのだがね。仕事があって忙しいのだよ。それに、肉体的苦痛には君は強そうだ」
言いながらアンダーソンがレミントンと兵士を追い抜き、一行の先に立つと、通路の脇にあった鉄製の小さな扉を開けた。
そして、レディに道を譲る紳士のごとく優雅に一礼する。その前を、レミントンは兵士二人に押されて通り過ぎ、その部屋に入る。感じた血の臭いは‥‥決して気のせいではあるまい。
壁の棚には鞭や鋭利なナイフ‥‥親指締め機などの古風な拷問道具が並んでいる。また、棘がまばらに生えた椅子や、鋭利な角をもつ三角木馬なども置いてあった。
そのどれかがこれから使われるのだろうが‥‥レミントンはさほど恐怖は抱いていなかった。
苦痛ならばいくらかは耐えられる。回復能力ももつ自分ならば、かなり耐えられるはず。そして、耐え続ければ脱出のチャンスはいつか現れるだろうと‥‥
しかし、アンダーソンはそれら道具にまるで目もくれず、床の一角の隠し戸を開けていた。
「拷問は苦痛を与えるだけではない。心を削ってこそ、本当に意味が生まれる」
そこには、50cm四方の穴が開いており、鉄格子がはまっている。その鉄格子の下は、水が満たされていた。
「水牢だ。君にピッタリだと思う」
嬉々としながら鉄格子を開けるアンダーソン。そして、レミントンは兵士達に抱え上げられ、足先からその水牢に入れられた。
「う‥‥‥‥」
冷たい水が身体を包む。水には流れがあり、常に新しい水が送り込まれているようで、体温で水が温もると言う事は期待できそうにもなかった。
中は意外に深く、つま先立ちで足がつくかどうか。しかも、電流が流れており、身体に突き刺さるような痛みがあった。
しかし、決して耐えられないほどの痛みではない。これが拷問だというのなら、随分と拍子抜けした物だった。
しかし、アンダーソンは自信たっぷりに言う。
「たいした事が無いと思うかね? ま、それは君自身の身体で、存分に味わって貰おう」
レミントンの頭の上で、鉄格子が締められた。
水面から鉄格子までは5cmほどしかない。顔を真上に向けていないと呼吸は出来ないわけだ。
「辛くなったらいつでも良い。天井にある監視カメラに向かって君の依頼人の名を言いたまえ。ずっと監視しているからな」
アンダーソン基地司令の指さす天井には、監視カメラが一つつき、冷たい視線でレミントンを見下ろしていた。
「何も話す事など無いと言ったはずだ」
「まあ、焦って答を出すことも‥‥」
レミントンが言った台詞に、アンダーソンはにこやかに答える。と‥‥その時、部屋に新たに兵士が入ってきて、アンダーソンに何やら耳打ちした。
「ふん‥‥病院送り? よそ者か」
呟き、アンダーソンはレミントンに目をやって、酷薄な笑みを浮かべて言う。
「近い内に君の仲間がくるかもしれん。寂しい思いをするかも知れないが、それまで我慢しててくれよ」
●再会と出会い
南天高く上った真昼の南国の太陽が照りつける街の中、日陰を選んで歩く紅。
別に、日焼けを気にしているとか言うわけではなく、単にスーツの上にコートを羽織った姿では暑いからだ。
もっと南国に向いた、ましな格好と言う物がありそうな物だが、どうにもハードボールドにラフな格好は似合わない。
アロハしかり、省エネスーツしかり。
それにもう一つ、ここ何日かずっとまとわりついてくるものから少しか身を隠そうという意図があってのもかもしれなかった。
しかし、今日も彼女は、紅をめざとく見つけて遠くから駆け寄ってくる。
「紅のおにいさーん!」
何が気に入ったのか、小夜子は毎日のように紅についてくるようになっていた。
普段、裏道を徘徊しているせいか街には猫の子みたいに詳しく、重宝すると言えば言えるのだが、女の子に昼間からじゃれつかれるのは少々疲れてしまう事もあった。
「またお前か‥‥」
「またはないだろ。せっかく、会いに来てやったんだからさ」
日の降り注ぐ街路に立ち、小麦色の顔におおざっぱな笑顔を浮かべる小枝子。その笑顔は、暗がりに立つ紅には、少々まぶしく見えた。
まるで、闇の中で光を覗き込んでしまったかのように。
「‥‥おい、何、見てるんだよ」
小枝子は、自分の顔に視線を止めた紅に、少し怒ったような口調で言った。それは照れ隠しが多分に入っての事ではあったが‥‥
そんな彼女を前に、紅は無言で視線を逸らすと、さっさと歩き出した。
「あ‥‥待ってよ!」
邪険な扱いだったにもかかわらず、気にせずに小枝子は紅の後を追う。
「ねえ、今日は何処に行くの? 道案内は必要だろ?」
「いや‥‥どうしてついてくるんだ?」
紅は、真横に並んだ小枝子に視線も向けずに聞いた。しかし、それには明るく即答が返る。
「助けてくれただろ」
「‥‥‥‥まあ、な」
呟くように言って、紅は歩き出した。諦めたのか、歩調を小枝子にあわせて。
こうやって小枝子とつきあうのも、この島にいる僅かな時間の間なのだからと‥‥
と‥‥その時だった、歩く二人の背後から声がかかる。
「武彦さん‥‥」
紅と小枝子が振り返る先にいたのは、シュライン・エマ‥‥そして、田中裕介。
シュラインは、うっすらと穏やかな笑みを口元に浮かべ、かつてと変わらぬ口振りで言う。
「探したわよ」
「‥‥‥‥」
紅はただ、その笑顔の前に沈黙を保っていた。
やや、時を置き‥‥4人になった紅の一行は、町外れにある米軍基地を囲う、森の中を歩いていた。
場所が場所だけに、人気が全くない。
小枝子の話だと、監視の兵も監視装置もなく、この森の一角は基地の死角になっているのだという。
そこで、紅とシュラインは二人並んで森を歩いていた。彼らに少し遅れ、小枝子と田中が歩いている。
何となく、紅とシュラインの雰囲気に近寄れなくて‥‥だが、二人はそんなものだろうと納得している田中とは違い、小枝子の方はずっと不機嫌な様子だった。
「ねえ、あの人なんなの? すっごく、紅に馴れ馴れしいんだけど」
「ああ、昔‥‥とは言っても、そんなに前の事じゃないんだけどな。一緒に、仕事をしていたんだ」
聞かれてあっさり答える田中。その目は、小枝子を軽く観察して、メイド服が似合うかどうか考えている。
柄の悪いメイド‥‥根本的に間違いかも知れない。しかし、それはそれで萌えかもしれない。
「何、じろじろ見てるの?」
「いや‥‥何でもないよ」
田中は、メイド服がどうこうと言ったら、小枝子が怒るだろうと判断して、敢えて口に出すことは控えることにした。
それが功を奏したのか、それとも単に聞きたい事を優先したのか、小枝子は田中の不躾な視線を不問に処する。
「まあ、良いけど。それで、あの二人だけど‥‥恋人か何か? 仕事仲間なんて雰囲気じゃないよ」
「いや、恋人まではいってない‥‥と思う。でも、二人って付き合いも長いし、色々と有るみたいだし‥‥」
二人が恋人同士だとしたら‥‥紅はシュラインを捨てたことになる。彼は不意にその姿を消したのだから。
しかし、実際にはそんな関係ではなかったのだろう。親しい仲ではあったのだろうが‥‥
実際、彼らがお互いをどう思っているのかなど、田中にはわかるはずもなかった。
こうして会う事ができたのに、言葉を交わしあうでもなくただ無言の時を過ごしている二人の‥‥関係などわかるはずもなかった。
と‥‥不意にシュラインの方が口を開く。
シュラインは、森の木々の隙間から見える夕日を見つめていた。
「政さんの事だけど‥‥」
「‥‥ああ、死に際は見せて貰った。あの人らしい死に方だったよ」
シュラインの呟くような言葉に、紅は感情を込めずに静かに答えた。
そして、再び沈黙が下りる。それを破って、また言葉を紡ぐシュライン‥‥
「幸せだったと思う?」
「戦いの中で死ねたなら‥‥本望だったろうな。俺達ってやつは、そんなものさ‥‥」
自身を笑うかのような紅の口振り。それを聞き、シュラインも同じ様な寂しげな笑みを浮かべる。
「あの戦いの前に言われたの。先で待っていると伝えてくれ‥‥ですって」
それは遺言だった。
自らの命を捨てて戦う事を選んだ、一人の老ガンマンの遺言。残す意味があるのかも定かではない遺言‥‥
「‥‥そうか。次に一緒に酒を飲むのは、向こうに行ってからだな」
「‥‥武彦さんのその言葉を聞いたんじゃ、やっぱり安心は出来ないわね」
紅の答に、シュラインは呟く。そして、紅の目を真っ直ぐに見上げながら、シュラインははっきりと言った。
「死なれちゃ困るもの。武彦さんの目的が何だろうと関係ない。私は、死んで欲しくないから行動する‥‥それだけ」
「邪魔はするな‥‥例え俺が死のうと」
「約束は出来ないわ。必要な時は‥‥全力で邪魔もする。武彦さんを言葉で止めようとは思わない。私はただ、自分の正しいと思った事をするだけよ」
僅かな時間、紅とシュラインは無言で見つめ合う。その二人の間に、小枝子が突然割り込む。
「何、難しい話してるのさ?」
言いながら小枝子は紅の腕を抱き取り、シュラインを睨み付けた。
「‥‥あらあら」
シュラインの口元が本当の笑みに綻ぶ。そして、その視線は紅へと向けられた。
「随分と懐かれちゃってるのね?」
からかうようなシュラインの問いには答えず、紅は軽く肩をすくめると一人歩き出した。
「武彦さん?」
「‥‥思い出してきた。こっちの方だったな」
独り言のように言い、紅は森を歩き続ける。
やがて紅は、森の中に立つフェンスの前で足を止めた。
「前に来た時には、こんなフェンスなんて無かったんだがな」
米軍基地を覆うフェンスに手をかけ、紅は呟く。その傍ら、小枝子は憎しみのこもる瞳でフェンスの向こうを見透かす様にしながら言った。
「随分前に基地の拡張をしたの。この辺に住んでた人は、みんな追い出されちゃった。あたいの家も、父ちゃんも、母ちゃんもあいつらに‥‥」
小枝子が黙り込んだ事で、辺りに沈黙が下りる。しばらく続いたそれを、紅が不意に破って聞いた。
「この先にハイビスカスの木があるかどうか知らないか?」
「え?」
「友人の墓なんだ。墓標の代わりに木を植えた。花が咲いたかと思ってね」
墓‥‥とは言っても、そこに骨が眠っている訳じゃない。ただ、そいつを眠りにつかせる場所が必要だっただけだ。
だから用意した。友人の故郷だというこの島に。好きだと言ってた南国の花を添えて。
「ごめん‥‥わからない。もう、連中が切っちゃったかもしれないし」
「そう‥‥か」
かぶりをふる小枝子に、いささか気落ちした様子で答える紅。だがその時、小枝子は弾む様な声を上げて言った。
「そうだ。あたいが確かめにいってあげるよ」
「確かめに?」
問い返す紅に、小枝子は胸を張って答える。
「そ‥‥何度か中に入った事があるんだ。連中、結構いい加減みたいでさ、中の物盗んでも、ぜんぜん騒ぎにならないんだ」
「危ないじゃないか。いつかきっと、酷い目に遭うぞ」
田中が小枝子を注意する。正論ではあるだろう‥‥だが、
「うるさいな。そんな分かり切った事言うなよ。そんなでもしないと、飯も食えないんだ」
寂れた孤島の事‥‥米軍関連をのぞけば若い娘の働き口など無い。
小枝子は、盗みに手を染めてでも、米軍の所で働く事はしなかった。それがどれだけ危険か分かっていても。
「キャバレーで腰振って踊って、好きでもないのに抱かれて‥‥そんなのはゴメンだからね」
「あ‥‥と、すまない。でも‥‥」
田中は台詞を探して沈黙した。
危険だから止めろと言うのは容易いが、小枝子が他に生きる手段を持たないのなら、それを言う事は多分、許されない事だろう。他の生き方を提示出来るわけではないのだから。
小枝子はそんな田中にはもう興味を持たず、紅の方に向かっていた。
「だからさ、あたいが忍び込んで、木があるか見てきてあげるよ」
紅は少し考え込み、その後に軽く首を横に振って言う。
「‥‥いや、大した用事でもないんだ。懐かしむ昔が一つ無くなっちまっただけ‥‥ちょいとした寄り道だったが、先へ進む理由が一つ見つかったと思えばそれも悪くない」
「え‥‥すぐに出てっちまうのかい?」
不意に表情を曇らせた小枝子に気付かずに紅は、港の有る方向に目をやって言う。
「ああ、次の船便を待ってだな」
「‥‥ふぅん‥‥‥‥」
小夜子はただ、不満そうに小さく声を漏らすだけだった。そんな小枝子の様子を、シュラインは心配そうに見ていた。
無茶をするんじゃないかと、そこはかとない予感を覚えて‥‥
●風の噂と珈琲
「いやぁ。兄さんが米軍と極道会の情報を欲しがってるて、風の噂に聞いてな」
夜‥‥バーの片隅で、紅を相手に話しているのは井園・鰍。しかし、紅の方はと言うと、自分にそんな話が振られたのが疑問でならない様子だった。
「風の噂もなにも‥‥この島に来るのは、数年ぶりだし、知った人間も居ない筈なんだがな」
だが、裏では知れた紅の名‥‥誰か知る者が居たのかも知れない。このバーでも一立ち回りしているわけではあったし。
ふまえて、米軍基地周りで小枝子と話をしていたのを見られたのか‥‥なら、そんな噂が立ってもおかしくはない。
もっとも、総合的に考えてその風の噂とやらは的外れではあったのだが。
何せ、紅は米軍基地にも極道会にも今のところは興味を持っていない。
「まあ良い。幾らだ?」
「そうやな‥‥本当の依頼人は消されたみたいやから、何処にも売り場のない情報やし‥‥」
どうやら、本来の依頼人は消されたか失踪したようで、全く連絡が取れなくなっていた。
それに、手持ちの情報はネットやら噂やらで手に入れた信憑性の無い情報ばかりで、井園自身が真偽を確認した情報はない。それをする前に、依頼人は消えたから。
捨て値で良いか‥‥と、井園は考えて答えた。
「兄さんが手ずから入れてくれた珈琲がええわ。期限は生きてるうちにな」
「悪いが、珈琲なんて自分じゃ入れた事はないんでね。美味い珈琲が飲みたければ、こいつで飲んでくれ」
言いながら紅は、何枚かの札を丸めて輪ゴムで止めた物をテーブルに放った。
「泥水で良ければ、今すぐに作ってやるぞ? 何処の喫茶店よりも不味く入れる自信がある」
紅が真顔で冗談めかして言うそれは事実で、家事炊事など必要に迫られて以上にはやってこなかったのだから、当然、美味い珈琲など入れられるわけがない。
飲むのが好きなのと、入れるのが得意なのとは、さほど深くは関係ないのだから。
「‥‥わかった。こっちの方をもろとくわ」
井園は、肩をすくめて、テーブルの上の札を拾った。万札が数枚‥‥まあ、泥水珈琲よりは価値があるだろう。どうせ、捨てるより他無い情報だったのだから。
「じゃあ、話すけどな‥‥」
前置きし、井園は自分の調べた事を話し始める。
ほとんどの話には紅は興味を示さなかったが、ただ一つ、極道会が銃器を買いに来ているという話には興味を示した。
「なるほど、極道会‥‥」
紅は、薄く笑うと席を立つ。
「連中の逗留先を知っているか?」
「え? 港の倉庫に寝泊まりしてるみたいやけど‥‥何や、早速襲うんかいな」
物騒な思いつきを言う井園に、紅は肩をすくめて首を横に振って見せた。
「噛み付く理由がない相手には、野良犬だって噛み付かないぜ?」
冗談めかして皮肉げに微笑みながら紅は、ふと思い出したかのように井園に言う。
「後な、お前さん‥‥逃げた方が良い。あんたの依頼人って奴に殺されるかもしれない」
「何言ってんのや。もう、極道会に殺され‥‥違うっちゅうのか?」
言い返しかけて、井園は紅の口調に不安を覚えて聞き返した。と‥‥
「確証は無いがね。こんなネタを追えるのは、恐らく夜街の住人だけだ。夜街の住人が‥‥そんなに甘い筈はねぇさ」
そう答える紅の表情に影が落ちる。
「夜街は東京の裏側‥‥法の手の届かない暗部。そこに表の連中が手を出せば、そいつは全てを失う事になる。誰であろうとな」
●事、始まり
夜に雨が降っていた。
「武彦さん!」
紅が一夜の宿としていた廃屋‥‥そこに駆け込んだシュラインは、そこに誰もいないのを見て奥歯を噛み締めた。
小枝子がフェンスを越えた‥‥無茶をするのではと気にかけていたのだが、彼女の行動の速さには追いつけなかったのだ。
今、田中が後を追っている。シュラインは助けを呼ぼうとしていたのだが‥‥紅は何処にも居ない。
「いったい‥‥何処へ行ったのよ」
疲れた息を吐き出しながら、空を見上げる。月を雲で隠し、夜を真の暗黒で満たした空からは、滝のように雨が降り続いていた。
●密売現場
基地の片隅、倉庫として使用されているプレハブ小屋。そこに客が来ていた。本来ならば、基地内に入る事さえ許されないだろう客が‥‥
「いつも通り‥‥だな」
厳つい身体に、向こう傷だらけの顔の男が呟く。その男の腰には、一丁のショットガンが吊ってあった。
その周りには、同様の風貌の、明らかに堅気ではない男達。彼らもまた、銃で武装しているのだろう、上着に微妙な膨らみがある。
そして、彼らの前に置かれた木箱には、黒光りする銃が何丁も詰め込まれていた。それもロシア産中国産の安物ではなく、正真正銘、米軍で使用されている最新の物だ。
「ミスター村井。武器ばかり、随分と集めているじゃないか。極道会は戦争でも始めるのか?」
男‥‥極道会からの使い村井金雄。
その前に立つ、軍服を着た初老の紳士然とした男は、冷酷そうな笑みを口端に乗せて聞いた。彼の周りには、小銃で武装した兵士達が付き従っている。
今までに何度も取引を重ね、初老の男の事を良く知る村井は、それに怖じることなく言葉を返した。
「まあ‥‥な。だが、これ以上は、あんたの個人的なビジネスには無関係の筈だ。アンダーソン基地司令」
「はっはっは。確かにその通りだ。私は、もらえる物がもらえればそれで良い」
アンダーソン基地司令は笑う。と‥‥その時だった、小屋の外でガタリと音がする。
その場にいた全員が窓に目を向けた。外の風景を切り抜いた窓の中、小柄な人影が逃げていくのが見える。
それはアンダーソンの部下ではないし、もちろん村井の部下でもない。
「Pursue!(追え!)」
アンダーソン基地司令は、部下に鋭く命じた。すぐさま、部下の兵士達が小屋の外へと飛び出していく。
「俺たちがやろうか?」
「まあ、任せておけ」
申し出た村井に、アンダーソン基地司令はニヤリと笑って言葉を返した。
「基地は治外法権だ。誰にも、何も出来無い。それに、基地に不法侵入した原住民が歩哨に撃ち殺された所で、誰がそれを気にする? それぐらい、ここでは良くある事だ」
そう言った後、アンダーソン基地司令の表情が更に醜悪に歪む。暗い喜びを期待する表情に‥‥
「それに、私も久々に狩りを楽しみたいと思っていた所でね」
アンダーソン基地司令の手が素早く動く。
と、次の瞬間には、その手の中にホルスターから抜かれた銃が握られていた。
古い銃‥‥コルト・シングルアクションアーミー。まるで芸術品ででもあるかのように慎重に手入れされたそれは、アンダーソン基地司令の手の中で鈍い黒鉄の輝きを放っていた。
「お前にも働いて貰うぞ‥‥用心棒」
「‥‥そう言う呼び方は気にくわないな」
アンダーソン基地司令に声を投げ掛けられ、小屋の片隅で壁に背を預けていた男が、兵士達が駆け出ていった後の開け放たれたドアに向かって歩く。そして、一言呟いた。
「俺には、紅の名がある」
井園からの情報を聞いた後、紅は極道会の村井のもとを尋ね、雇われていた。雇われれば、大手を振って基地にも入れる。後は、見当を付けた場所に行ってみればいい。
それに‥‥極道会には、紅も興味があった。もう一度、夜街に戻る為にも‥‥
その為にも、今は働かなくてはならない。
紅は雨の中を走り始める。
●夜闇の雨
「紅のお兄さん‥‥また‥‥助けて‥‥くれないかな‥‥なんて‥‥‥‥へへ‥‥」
息を荒げて走る小枝子。だが、その後ろを兵士達は猟犬のように追いかけてくる。
彼らから離れて、何も知らぬ紅もまた小枝子を追っていた。
先を逃げる小柄な人影‥‥雨に隠されて良くは見えないそれに、紅の拳銃の狙いが定められる。
撃ち放つ銃弾。そして‥‥銃声が一発、響いた。身体を焼き貫く衝撃に、小枝子はその場に倒れ込む。直後、赤いものが大きく散った‥‥
倒れた小枝子の目に、赤い花が見えた。
広い基地の中、一本だけ残ったハイビスカスの木。それは‥‥紅の友の墓。
「ハイビスカス‥‥」
小枝子は手を伸ばし、ハイビスカスの花びらを握りしめた。その身体から溢れ出る血と同じく赤い、ハイビスカスの花を‥‥
雨が、小枝子の血と命を洗い流していく。
「あは‥‥み‥‥つけ‥‥た‥‥‥‥」
紅が喜んでくれるかな‥‥と、そんな事を思いながら小枝子は意識を失った。
駆け寄った兵士達が、手に持ったアサルトライフルの銃口を倒れた小枝子に向ける。だが、もはや小枝子に危険性などはない。
そこにさらに二つの足音が近づいた‥‥そして、彼女を前にしてそれは止まる。
「どうした?」
アンダーソンに問われ、紅は苦々しげに口を開いた。
「‥‥知ってる顔だ」
雨と夜が視界を邪魔した‥‥小枝子だと気付くこともなかったわけだが、最後の瞬間に見えた赤い花がとどめの射撃を止めさせていた。
血と見間違え、二発目を撃つのを止めていなかったならきっと、小枝子を撃ち殺してしまっていた所だろう。
「そうか‥‥お前か」
ハイビスカスの木‥‥小枝子をかばうように枝葉を伸ばしている。
紅は、その木が友人の墓だと気付いた。紅は友人への祈りの言葉を胸中で唱え、アンダーソンに目を向ける。
「アンダーソン。すまないが、殺すわけにはいかなくなった」
小枝子の前に立ち、言った紅に、アンダーソンは冷たく言い返した。
「関係ないな。商売を知られた以上、生かして置くわけにも行くまい?」
問い返した言葉が雨音の中に消える。
彼の視界の中、今になって追いついてきていた一人の兵士が小枝子に駆け寄り、アンダーソンを見た。
アンダーソンはその視線を兵士から紅へと向け‥‥もう一言を言い足す。
「‥‥だが、君次第とも言える。子供一人の命で、伝説の紅に恩を売れるなら安いものだ」
「‥‥わかった。早く治療を頼む」
深く溜息を吐き出しながら、紅はそう言葉を返す。アンダーソンは満足そうに頷くと、兵士に向かって軽く手を振った。兵士はすかさず、小枝子に手際よく応急手当をし始める。
アンダーソンはそんな兵士と小枝子から視線を外し、紅を一瞥した後に、視線を夜闇の中に向けた。
「では‥‥仕事してもらおうか」
アンダーソンが見やる夜闇の中から、この場に走り寄る気配と音が届く‥‥どうやら、想像以上にこの密売の情報は広まっている様子だった。
「生きていてくれ‥‥」
足音高く、田中は夜の雨の中を走る。
既に、小枝子が倒れたのは見ていた。小枝子の周辺に立つ男達が、小枝子を撃ったのも‥‥見た。
と‥‥田中の隣を同じように誰かが走る。
「いや、まずいものを見ましたね」
それは、基地内に忍び込んでいた宮小路。彼もまた、小枝子が撃たれたのを見ていた。
「術を使います。雑魚は任せてください」
走りながら宮小路は、束になった札を懐から取り出し、術と共に投げ上げた。
それは空で散り、札の一枚一枚が宮小路の姿となって地に落ちる。走る宮小路と田中は、その分身達の一団の中に飲み込まれた。
「奇遇だな。似たような事をしようと思っていた所だ」
田中は宮小路の術に賞賛の言葉を投げ、そして自らの動きを加速する。残像を残す程に素早く‥‥その動きは、辺りに分身を生む。
宮小路と田中の大軍勢は、雨にぬかるむ道を走った。小枝子と、その回りに立つ敵を目指して‥‥
「魔法使い‥‥か。だが、馬鹿にされたものだな」
走り来る軍勢。それを見たアンダーソンは嘲笑たっぷりに言うと、手を差し上げて振り下ろした。
「fire!」
直後、部下の兵士達が、手に持ったアサルトライフルで弾幕を張る。
制圧射撃。
狙う必要はない。敵がいる場所を、銃弾で満たせばいいだけの話なのだから。
雨粒を避けて歩けないのと同じで、どんなに動いていようと、そこにいるだけで銃弾は当たる。
全ては一瞬の事であったが、銃弾は無数にいた分身を残らず消し飛ばし、その中にいた襲撃者達を容赦なく捉えていた。
「分身など、全て撃ってしまえば良い。騎兵隊の銃列に突っ込む、哀れなインディアンの一群。お前達の勇敢な行動はその程度でしかない」
苦笑混じりの嘲笑‥‥
アンダーソンの言うとおり、多数の銃弾をばらまく事の出来る銃を前に分身などと全く意味がない。
どんなに多くたって銃を撃って来ない以上、余裕を幾らでも持ち、迎撃する事が出来る。
長篠の戦いで武田騎馬隊は負けた。数があり、速度があっても、銃列への突撃は自殺行為でしかない。
田中と宮小路の二人がもんどり打って倒れ、動きが止まった所に、素早く弾倉を交換した兵士達が第二射を叩き込んだ。肉体と共に泥と血が跳ね上がり、無様に踊りを踊る。
「はーっはっ! 馬鹿なグックめ! 敵を侮るからそうなる!」
ひとしきり笑った後、アンダーソンは足を進めた。倒れた二人のもとへ。
二人はま生きており、微かに苦痛のうめき声を上げていた。
「ほう、頑丈だな。生きているのか」
感嘆の声‥‥そして、アンダーソンは紅を顧みる。
「こいつらの命乞いもするかね?」
「殺してしまえば良い。彼女と違って、彼らはその覚悟で来たのだろうからな」
紅の冷たい言葉が投げ返された。
彼らが紅とアンダーソンを敵に回そうとしたのは紛れもなく彼らの意志による。巻き込まれた小枝子とは違う。
「なるほどな‥‥はてさて、どうしたものか」
アンダーソンはそう呟くと、二人に向かって話しかけ始めた。
「銃弾を浴びたのは、初めての事かね? 苦しいだろう? だが安心して良い。次の銃弾が、お前がこの世で浴びる最後の銃弾になる」
言いながら構える拳銃‥‥コルトシングルアクションアーミー。
銃弾で穿たれた傷に、泥の中で蠢くことしかできない二人にとって、それは確実に死をもたらす物の筈であった。
だが、その時、新たに響いた銃声がアンダーソンの動きを止める。
「そこまでです‥‥」
「邪魔するのかね?」
現れたのはモーリス。撃ち放たれたのは、その手の中のアサルトライフル、ヴェクターCR−1。
モーリスはアンダーソンの問いには答えず、独り言のように言った。
「本当は、別の場所で取引の筈だったんですけどね。来なかったので‥‥こちらから出向いてきました」
誰も知ることのない話ではあるが、モーリスと銃器密売の話をした兵士達は、その直後に紅の手で病院送りにされている。もちろん、モーリスのもとに来るはずもない。
「最初は、銃を買ったら帰るつもりだったんですけどね。見過ごせない物を見まして‥‥」
モーリスの言葉に、冷たい色が宿る。
「女性を撃つような連中に人権はないと‥‥こう言わせてもらいましょう」
モーリスはアサルトライフルを紅に向ける。小枝子を撃った、元凶たる紅に。
「少々好みですが‥‥残念です」
容赦なく引き金が引かれる‥‥しかし、それは突然響いたギターの音に遮られた。
●コルト
「ちょほいとまちなは」
鼻にかかったような言葉が唇の端っこから吐き出される。
それは、ボロボロのマントで身を包み、片足をその辺の岩に乗せてギターを抱え、頬に何だか大福を貼り付けた上で、ニヒルっぽい渋めのつもりなのだろう笑顔を見せている本郷・源。
彼女は、風に舞うマントを鬱陶しげに跳ね上げると、激しくギターをかき鳴らした。
「一曲唄わせてもらうのじゃ! あの子をペットに〜♪」
雨の中にもかかわらずギターが良い音を響かせる。しばらく辺りに歌声が流れた。画面下に、歌詞のテロップが流れそうな勢いで。
もちろん、その歌の間に手を出そうとする無粋な奴は居ない。
本郷はスポットライト独り占めだった。
やがて、メドレーを一通り歌い終わると、本郷は雨で落ちかけていた大福を頬に貼り直し、びしりと紅を指さして高らかに言い放つ。
「そうあっさり死なれちゃア、わしの出番が無くならア、この男はナ、コルトの源さんに殺られねえと、成仏、出来ねえことになっているのさ」
「コルトの源!?」
「何だと‥‥コルトを握る者がここに勢揃いとは面白い!」
紅が‥‥そして、アンダーソンが口々に驚愕を表す。
奇しくも、全員持っている銃がコルト‥‥多少違うが、それでも偶然とは面白い。
「ここで、誰のコルトが一番か決めたい所だが‥‥仕事が先だ」
そう言うアンダーソンは少し残念そうではあった。そんなアンダーソンに、本郷は野太い笑み‥‥のようにも見えなくもない笑みを口端に乗せて言う。
「ふふふ‥‥SAAの旦那、いつか撃ち合うこともあらぁな。紅よぅ、お前もそう思うだろぅ?」
「ああ‥‥流れ、流れて流離う内に、いつかは敵となるやもしれねぇな」
振られた紅が答える。それだけで、3人の中には何やら暖かいものが巡っているかのようだった。
「じゃあ、そろそろやらせてもらうぜ。このコルトの源さんの銃捌き‥‥下がってみててくんな」
本郷は笑みを消さずにふらりと足を前に進める。
直後、モーリスの手にあったヴェクターが火を噴き、無数の銃弾が本郷の足下で爆ぜた。
「あわわわわ! ま、待て! 女子に手を挙げる奴は人権無しではないのか!? 今回のマドンナもかくやという、わしの様な美女を殺しては、末代までの恥じゃぞ!」
マドンナは今回は小枝子と言うことになるのだろうが、本郷が本当にそこまでの役柄かという疑問はさておき‥‥ともかくも、その一言はモーリスの動きを止めた。
「‥‥どうも、女性に銃口を向けるなど、とんだ失礼を」
言いながらモーリスは少し困った様子で続ける。
「でも、ポリシーとして女性を撃った男を許せないんですよ。どいていただければありがたいですが‥‥」
「ならん! お主はここで、コルトの源さんの早撃ちの前に破れるのじゃ!」
言うが早いか、本郷の手の中にあったコルトが、驚異的な速度かつ凄まじい精度で銃弾を放った‥‥偶然なのか、本当の腕なのか、はたまた別のファクターが働いているのかは知れない。しかし、その銃弾はヴェクターの銃身に当たり、モーリスの手の中から弾き飛ばす。
「これがファニングなのじゃ!」
本郷はそのまま、とにかく銃を連射する。本当に、ファニング(銃の連射テクニック)なのかは謎。
しかし、その連射はモーリスにチャチャチャを踊らせるには十分だった。
「‥‥これは‥‥女性には手を出せませんしねぇ」
銃弾から逃げながら、モーリスは呟き‥‥そして、本格的に逃げへと転じた。
そもそもが、女性が撃たれた事が許せなかったが故の行動‥‥なので、女性を敵に回してまでしなければならない戦いでもない。
モーリスは夜闇の中へ身を躍らせ、後はそのまま逃げていく。
本郷は、弾切れの拳銃を何回かカチャカチャと引き金だけを鳴らせてモーリスを見送り、ほっと一息ついた後に自分の身体にマントを巻き付けて歩き出した。
自らの役目を終え無言で立ち去る本郷を、アンダーソンは誇らしげな笑顔で見送る。
「ありがとう、コルトの源‥‥また会おう」
本当にその機会があるかどうかは定かではないが、何にしてもこの邂逅はアンダーソンの胸の中に暖かいものを残して終わった‥‥
●自己満足ですら‥‥
‥‥戦いの中、紅は戦場に背を向けていた。
先ほど、小枝子の手当をしていた兵士が、いつのまにか田中と宮小路を拾ってきて治療を施している。それも、超能力で。
彼が手をかざした部分の傷口がふさがっていくのを見ていた紅は、彼を止めるでもなく言った。
「行くなら、旅館を訪ねると良い。島には一件しかないからわかるだろう。そこにシュラインがいた筈だ」
「‥‥何のつもりだ今更」
兵士は、少しあざけりを込めて言葉を返す。
「キミのやったことは単なるエゴであり、自己満足にすぎない。キミはどうやって落とし前を付けるんだ?」
兵士‥‥実際には、そこにいたのはケーナズ・ルクセンブルク。彼は、小枝子と田中、宮小路を抱え、紅をじっと見据えていた。
紅は肩をすくめ、答える。
「自己満足もできないなら、生きてる価値なんざありゃしない。もっとも、俺はまだまだ満足なんかしちゃあいないんだがね」
その答えに、ケーナズはもう一度聞く。
「何を‥‥求めているんだ?」
「そいつは、お前が銃で聞きな」
笑うような紅の答‥‥ケーナズは、これ以上の答えは返るまいと悟り、テレポートの超能力を使って消えた。
どこともなく空を見上げてケーナズを見送る紅。そんな彼に、アンダーソンが声をかけた。
「さてと‥‥蠅掃除は終わりだ。後はこちらでする」
「では、これで‥‥荷運びがあるんでね」
紅は無遠慮に頭を下げ、歩き始める。
アンダーソンはその背に言葉を投げた。
「また会おう‥‥紅」
●夜街への道
田舎道を武器を満載したトラックが走っていた。
その運転席に村井‥‥そして、助手席に紅の姿がある。
「あの伝説の紅を連れ帰れば、俺は叔父貴達に褒められます」
紅が戦列に加われば、極道会は鬼に金棒‥‥だからこそ、村井の大金星になるだろう。
喜びを隠さない村井に、紅は不意に聞いた。
「‥‥お前達、何のために武器を集めている? お前達の傘下の連中も、派手に動いてるようだが‥‥」
それは、当然の疑問だった。これほど大量の銃‥‥死蔵するためとは思えない。
地上げにいそしんでいた金村興業もそうだ‥‥その背景に極道会がないと言うことは有り得ないだろう。
「‥‥夜街で何かあったのか?」
「さすがは紅の旦那。耳が早い」
村井は、少し笑いながら言う。本当にそれを楽しみにしているかのように。
「夜街を極道会が盗る‥‥その為の戦争が始まるんでさぁ。何もかもその準備。あちこちに動員かけてますんで‥‥」
「均衡が崩れるか。東京は血に染まるな‥‥」
何処かと奥に目をやりながらそう一人呟いた後、付け加えるかのように一言続ける。
「ま‥‥俺の目的にはその方が都合が良い」
その時、紅の口端に浮かんだのは笑みだったのか‥‥ともあれ、その僅かな表情は紅が足を止めると同時に消えてしまった。
「止めろ」
「は?」
呟くような台詞に、村井は疑問の声を上げながらも車を止めた。紅はすぐに車を降り、そしてドアを閉めながら運転席の村井を見やる。
「行け‥‥こいつは俺が足止めする」
呟き‥‥鬱蒼と茂る木々の間の道。辺りは音一つなく平穏‥‥いや、村井も気付いた。動物の声がない。恐らくは何かが居るのか?
敵を探して辺りを見回す村井。だが、紅の目は真っ直ぐに闇の中を見据えていた。
その闇の中から、音もなく少女が現れる。
ササキビ・クミノ‥‥彼女は、静かに紅を見据えて口を開いた。
「‥‥密輸の銃とやらを壊しに来てみれば‥‥草間、お前に会えるとはな。わかるか? この私の喜びが。わかるか!? この私の絶望が!」
言いながら歩みを進めるササキビ。その顔に、笑みが浮かぶ。憎悪とも恋慕ともつかぬ感情に歪む笑顔が。
「草間武彦! 何故、私の手はお前に届かない!」
「‥‥草間と言う男はここにはいない」
ニヤリと笑いながら手を振る紅の後ろ、村井は車を走らせた。
もはや興味もなく、ササキビは走り出す車を無視する。今やササキビは、紅のみを見つめていた。
「俺は紅。暁の朱、炎の赤、血の紅‥‥宿命の銃、紅の拳銃と共に夜街を歩く男だ」
紅はササキビに向けて言葉を贈り‥‥そして、誘うかのように無防備に立つ。
「語る言葉有るならば抜け‥‥運命を切り開く弾丸は常にその手の中にある」
「望む所だ‥‥」
ササキビは、自らの手の中に武器を召喚した。自らに危害を加える存在と同性能の武器を生み出す。それは、この世に一つしかない物であっても、コピーが出来る‥‥
しかし、手の中に現れた銃を握ったその瞬間。ササキビの身体は、身の奥底から沸き上がる物に震えた。
思わず銃を取り落とし、ササキビは呟く。
「これは‥‥‥‥」
何と言えばいいのだろう? 怨念や情念とでも言うべきか‥‥それを手に持ったササキビを蝕むほどに強烈な念だ。
魔力がどうとか、呪いがどうとかのレベルの話ではない‥‥ただの銃に過ぎないそれが、まるで巨大な運命そのものであるかのごとく、持ち主を破滅へと呼び込もうとしている。
いや、この銃を持つ者は恐らく、その全てがこの破滅へと飲まれたはずだ。そう確信させるだけの圧倒的な力が、模造品に過ぎない紅の拳銃からも感じられた。
ならば、本物とはどれほどのものなのか‥‥
「草間! それを捨てろ! そんな物を持っていると破滅するぞ!」
その存在への危機感から発されたササキビの言葉に、紅は小さく笑みを浮かべる。
「言った筈だ」
呟き‥‥そして、紅はゆっくりと懐から銃を抜くと、その銃をササキビに向ける。
「運命を切り開く弾丸は常にその手の中にある。俺はこの拳銃で運命を切り開く‥‥」
引き金が引かれた。
高らかな銃声と共に放たれた銃弾は、物理攻撃を無効化するはずのササキビの結界を何も無いかのごとくに突き抜け、ササキビの頬を掠める。銃弾の纏う衝撃波に煽られて、ササキビの長い髪が踊った。
「ただの銃弾の筈だ‥‥あり得ない」
「お前の結界を貫いたのは俺の魂だ」
言いながら紅はササキビに背を向ける。
「今日の所は俺の勝ちだ。行かせてもらう」
「私は‥‥私はまた追うぞ」
また‥‥その背に声を投げ掛けることしかできない自分に歯噛みしながら、それでもササキビは紅に向かって言う。届かない思いを込めて。
紅は歩み去りながら、背中越しに手を振った。
「かまわんさ。だが、お前に俺は止められない。銃弾で言葉が交わせるようになったらまた戦ってやる‥‥それが出来るまでは、俺の背中を追ってくると良い」
●終わらず
その夜、密やかに船は島を出た。
極道会と、彼らが買った銃器‥‥そして、紅を乗せて。
まだ、何も始まっていない。まだ、何も終わっていない。
船の行く先‥‥ただ夜闇が広がっていた。
●碇麗香の話
米軍基地内での騒動があった翌日の夜‥‥
浴衣姿の綾和泉・匡乃は、裸電球一つぶら下がったっきりの薄暗い板張りの廊下で、その片隅に置かれたピンク色の公衆電話の前に十円玉を山積みにして置き、時折、投入口に放り込みながら電話をかけていた。
「何やら事件があったらしくて、それで動いていた連中が返り討ちにあって、転がり込んできたんですよ。どうも、極道会と米軍の銃器密売とか言う話で‥‥」
受話器の向こうにいるのは碇麗香。
彼女にネタを売り込めないかと‥‥いや、アトラスはオカルト系雑誌だからネタを買ってくれない公算の方が大きいので、それなら他の売り込み先を紹介してもらえないかと、そんな意図でかけた電話だ。
「どうです? その極道会のホットなネタをというのは?」
何気なく言った綾和泉に、思いも寄らぬ碇の言葉が返ってきた。
『極道会‥‥夜街ね? 止めとくわ。死にたくないもの』
碇の口調は軽いが、少なくとも冗談を言っている風ではない。
『夜街の記事なんて載せたら、命が幾つ会っても足りない‥‥どんな雑誌社だって断ること請け合いの、一級に危険なネタよ。それ』
「夜街‥‥何なんですか、それは?」
興味を引かれ、綾和泉は聞いてみた。
夜街‥‥あまり聞かない名ではある。普通に聞けば、夜の繁華街という程度の印象しか持たない筈なのだが、碇の言葉の裏には、もっと深い物が感じられた。
『夜街‥‥裏社会と言うべきね。法も正義もない、力が治める夜の世界。悪徳と銃弾の世界よ。中途半端な気持ちで関わる場所じゃないわね』
「興味を引かれますよ」
危険な物‥‥そう聞けば、好奇心がうずいて仕方がない。そんな綾和泉に、碇はきっぱりと言い下した。
『ええ、そう言うと思ったわ。でも、うちの雑誌じゃ扱えない。私はともかく、編集員の命に関わるもの。同じく他の編集社も扱わないわ』
「報道の正義は無しですか‥‥」
『正義なんて犬に食わせておしまいなさい。変な期待は、身を滅ぼすわよ? ハーストをご覧なさいな。報道って言ったって、詰まる所は商売なんだって教えてくれるわ』
事は商売なのだから、報道と言っても正義ではない。金にならない報道なんて、する価値はあるのかも知れないが、する意味は何もないのだ。
『どうしても探るなら、夜街のガンマンには注意してね。彼らに勝つ事はとても難しいわ』
「強いんですか?」
それも興味の種だ。綾和泉は、それを隠さずに碇に言う。
碇は受話器の向こうで笑ったようだった。
『彼らを倒せるのは、魂を込めた弾丸だけなのよ。銃で語らう者だけが彼らの心を知り、鎮魂歌を歌う事が出来る。詳しくは‥‥そう、紅にでも聞いてみるのね』
●残された者達
「で‥‥怪我人はどうです?」
長電話を終えて部屋に帰ってきた綾和泉を、部屋でケーナズとシュラインが出迎えていた。
「どうやら峠は越えたようだ」
3つ並んだ布団の中で、怪我人達は静かに寝息を立てている。
つい先ほどまでは生死の境を彷徨っていたわけだが、ケーナズと綾和泉が治療の術をたっぷりつぎ込んだおかげで、何とか‥‥と言う所だ。
偶然、綾和泉がこの旅館に泊まっていたのは、彼らにとって最高に幸運な事だった。
彼らの様子を見て小さく頷き、綾和泉は部屋の中に腰を下ろすと、電話のついでに台所から盗ってきた焼酎の瓶とコップを三つ畳の上に置いた。
「碇女史と連絡を取っていたんですが‥‥色々と面白い話を聞けましたよ」
言いながら、手酌で一杯注ぎ、ついでに残り二つのコップにも中身を注ぎ込む。そして、ケーナズとシュラインが座るのを待ってから綾和泉は聞いた。
「‥‥貴方達は、誰に雇われたんですか?」
「?」
ケーナズはその質問を不可思議に思いながらも、今更、隠し立てするつもりもないのであっさりと明かす。
「人づてなので、良くわからないな」
その答えに、綾和泉は苦笑しながら言った。
「まず、依頼主が公的機関と言う事は有り得ません。彼らは、人を雇う事はありませんから」
今回のような場合で、公的機関が人を雇う事はあり得ない。
むろん、その事件が非常に重要なものであり、一刻も早い解決を必要としており、組織の中には有する者のいない特殊なスキルを必要としている‥‥などの他者を雇わなければならない理由があれば別だ。しかし今回の件は、このような条件には当たらない。
重要かもしれないが猶予は幾らもあり、そして通常の捜査で十分に対応できるため特殊なスキルを必要とする事もない。
自分達の組織の中で十分に対応できるにも関わらず、決して安くない依頼料を払って、調査した情報を知られる危険をおかし、在野の者達に依頼をする意味があるだろうか?
もちろん、あり得ない。
それに公的機関ならばなおさら、日米の国際関係も考慮してもっと音便に事を進めるだろう。自らの内のみに秘めて内密にだ。
「‥‥報道機関からの依頼の線は? 目的を隠して、調べさせたのかも」
シュラインが、思いつき程度に聞いてみる。しかし、綾和泉は首をゆっくり横に振った。
「それも、碇女史に否定されました。完全にあり得ないようですよ」
「では‥‥」
コップの中身を飲み干すケーナズの顔が、不審げなものへと変わっていく。そんな彼の前、綾和泉は上機嫌に見える笑みを崩していなかった。
「本当の依頼主は、『自分達の正規の人員を動かせず』、『ここでの銃器密輸が目障りで』、『それなりの資金力を持つ』。これだけの条件を満たす誰か。もう、おわかりでは?」
問われてケーナズは事件のパーツを組み立ててみた。
まず‥‥密輸ごとき犯罪で、部外者の介入を招く公的機関は存在しない。
私的な依頼の線も考えたが、残念だがそういった依頼を行った者は存在しないようだ。
ありとあらゆる可能性が消える。残る可能性で最も大きいものは‥‥
「極道会は武器を集めている。何の為か? もちろん、使うためだ。戦争の相手が居る‥‥彼らが、極道会の武器集めの妨害を企んだ」
「そうですね。火中の栗を拾わされた‥‥火傷して泣き喚く猿が皆さんです」
綾和泉は瓶を取り、開いたままになっていたケーナズのコップに焼酎を注ぐ。
「密輸の真相を暴くんだと喜び勇んでやってきた結果がヤクザの使い走りですよ。飲まずにはやってられないでしょう?」
「‥‥‥‥そうか」
ケーナズは苦々しい思いでコップを手に取った。
「何にしても‥‥草間に偉そうな事は言えないというのがしゃくだな」
「そうでもないわよ」
そんなケーナズに、シュラインが声をかける。
彼女は、焼酎を喉に流し込んでから、窓の外の暗闇に目を向けて言った‥‥
「武彦さんも、ヤクザの味方になったみたいだから‥‥」
●拷問部屋からの解放
「どうかね、調子は?」
拷問部屋の扉が開き、アンダーソンが姿を見せる。ここ何日もの間、水牢に漬けられたまま放置されていたレミントンは、すっかり疲弊していた。
電流と冷水に身を蝕まれながら、狭い水牢の中で立ち続ける‥‥それだけでも常人ならば一日は保つまい。
それに空腹が加わる。水だけは周りから幾らでも補給できるが、食事は一切無い。
強大な回復力があり、傷は塞げても、何もないところから体力は湧いてこない。
その上に、この水牢の中では眠る事が出来ない。眠れば身体が水に沈み、溺れてしまう。
肉体的苦痛ならば耐えることが出来た。しかし、そこに睡眠不足が加わり、レミントンの想像以上に急速に体力が奪われ、精神も消耗してしまったのだ。
「肉体的にどんなに頑健でも、眠れないと言うのはなかなかきついものでね。それに精神の変調に直結するから、変な力をもっている連中には、その力を封じる役にも立つ」
「く‥‥‥‥」
レミントンは悔やむ。
能力が使えなくなったわけではない‥‥だが、水牢から這い出して逃げるだけの体力が残っていないのでは、脱走の努力をするだけ無駄という物だった。
アンダーソンは、そんなレミントンの苦痛と憎悪の表情に頬をゆるめる。
「いい顔だ。君が時折見せる、その顔は私の良いコレクションになったよ」
「何も‥‥話す事はないぞ」
結局、ただただこのアンダーソンという変態男を喜ばすだけの結果となった事を口惜しく思いながら、せめてこれ以上は喜ばすまいとレミントンは不敵な笑みを浮かべて言った。
だが、アンダーソンはいとも容易くそれを認める。
「だろうな。君は喋らない。そして、そのまま体力を失い、最後には水槽を飾る死体になるわけだ‥‥しかも、君を裏切った依頼人を守って‥‥だ。つまらない終わりだな」
「‥‥裏切り?」
「同時多方面からの極道会との取引への妨害工作‥‥君はその中の一つに過ぎない。そう、君は捨て石に過ぎないのだよ」
思わず聞いたレミントンに、アンダーソンはニヤニヤと笑いながら答える。そして、胸のポケットから鍵を出した。この水牢の鍵を。
「さて‥‥そうとわかれば、君をここに入れておく意味もない。何せ、君自身も真実など知りはしないだろうからな。これ以上、双方にとって無駄な関係は終わりにして、もう少し有意義な関係を結ぼうじゃないか」
依頼人の裏切り‥‥それは、レミントンも考えていたことだった。
杜撰な潜入計画と言い、有り得ない筋からの依頼と言い、疑える事は幾らもあった‥‥
依頼を受けたのは自らのミスだ。依頼人への憎しみはない‥‥自らの愚かさを憎む。
しかし、裏切りがあった段階で、既にこの依頼を完遂する意味はなくなっていた。
「有意義な関係‥‥?」
「たいした事じゃない‥‥」
アンダーソンは鉄格子の上に立ち、レミントンを見下ろしながら言う。
「今回のくだらなくも脆い策略を立てた愚か者共に、後悔というプレゼントを届けて欲しいと思ってね。君に釣り合うだけの報酬も出そう‥‥しかも、私は君を裏切らない」
アンダーソンは、とても楽しそうに、歪んだ笑みを浮かべていた‥‥
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 年齢 / 性別 / 職業】
1166/ササキビ・クミノ/13歳/女性/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。
0086/シュライン・エマ/26歳/女性/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
1108/本郷・源/6歳/女性/オーナー 小学生 獣人
1481/ケーナズ・ルクセンブルク/25歳/男性/製薬会社研究員(諜報員)
2758/井園・鰍/17歳/男性/情報屋・画材屋『夢飾』店長
2318/モーリス・ラジアル/527歳/男性/ガードナー・医師・調和者
1537/綾和泉・匡乃/27歳/男性/予備校講師
0461/宮小路・皇騎/20歳/男性/大学生(財閥御曹司・陰陽師)
1098/田中・裕介/18歳/男性/孤児院のお手伝い兼何でも屋
0166/レミントン・ジェルニール/376歳/女性/用心棒(傭兵)
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■ ライター通信 ■
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単純な話。
口の端っこから、「ちょほいとまちなはぁ」とか言うのがハードボイルドです(嘘)。
このノベルの価値観は、全てそれで統一されています。
あしからず。
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