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■東昭舘奇異夢想譚 ― 朧変 ―■

伊織
【0931】【田沼・亮一】【探偵所所長】
その光景は、場所的に“在り得ない”とは云い難いものがあるが
状況的には“不自然”であると云えた。

道場の神棚前に人が倒れている。
着ている濃紺の稽古着から門下生であろう。
周囲は静かなもので、この光景さえなければ常の道場と変わらない。

その日の稽古の一番乗りが姿を見せ、
その静かな光景も俄かに動き出す。


「おい、小弥太?……ちょ、どうした……おい!?」


抱き起こされても尚目を瞑ったままのその者は、
東昭舘の四天王と云われる朱鳳小弥太だった。





「小弥太の様子は、」
「結論から云えば命に別状はない。今は意識が戻っていないが大事ないだろうという医師の所見だ。
 だが気がついても暫くは安静状態になる、とさ。」


蒼眞(東昭舘師範代)は玄之丞(東昭舘四天王)の知らせに、ひとまず安堵した。
今ふたりがいるのは東昭舘剣道場の一角にある小部屋。
常に大声で走り回っている小弥太が倒れているのを見ても、
俄かにその状況を理解するのが難しかった。
―― “在り得ない”。
それが皆の持つ共通の認識だった。


「外傷もない、レントゲンの結果も異常はない。
 ただ倒れていた時の様子だと、恐らく水月を一突きされたんじゃないかとあたしぁ思うよ。」
「ふむ、神棚に向かいうずくまる様に倒れていた、という事だったな。」


着衣に乱れも無く、という事は乱闘もなかったのだろう。


「然し、解せないね。」
「……ああ、」


小弥太は成長の途中でもあるので、身長もまだそう高くはないが
これでも猛者の多い東昭舘で四天王をはる実力の持ち主。
また古武術の心得もあるので、何の抵抗も無く倒されるというのは理解し難い。


「更にもうひとつ、あの場から消えたものがある。」
「消えたもの?」
「黒い駿馬の掛け軸が消えていた。ついさっき、白峰が気づいたところだ。」
「そいつは……不味いだろ。其れって主の……、」
「ああ、何としても取り戻さねばならん。」


蒼眞の顔が、より厳しくなる。
小弥太を襲った犯人、掛け軸の消失。
これらはまず関連しているとみてもいいだろう。
結界のはってある場所への侵入、小弥太の撃退、これらの事実から思い浮かぶのは……。


「どうやら届け出しない方がよさそうだね、」
「警察方面の事柄ではないだろうからな。これは恐らく……、」


蒼眞と玄之丞は同一の見解を持って頷いた。


その頃白峰は小弥太の倒れていた場所に立ち
眉間に深く皺を寄せ、苦しげに何かを思っていた……。




東昭舘奇異夢想譚 ― 朧変 ―



緑も濃く、深く色づき始めた季節。
梅雨に入ったと巷では云われており、それは其の一角に在る此処も例外ではない。
東京に在りながら尚緑多く、敷地内はどれ程の広さになるか見当もつかない。

―― 東昭舘。

剣道、古武道、弓道、居合道等
武の道が此処に在る。

其の東昭舘に静かに異変が起きていた。
それは敷地内に足を踏み入れられた者のみが静かに感じるものに過ぎないが。





剣道場の一角にある部屋に、その足音は確実に届いていた。
確りと床を踏みしめている様で在りながら、それでも軽やかな足音。
それは迷うことなくこの部屋を目指しているようだ。

「……女、……まだ少女といったところか、」
「多少、心得のある様子だね、」

部屋にて相対しながら座しているは、
此処東昭舘は師範代、蒼眞・辰之助(そうま・たつのすけ)。
更に東昭舘は四天王、由依・玄之丞(ゆい・げんのじょう)。
ふたりの視線のみが戸へと向かう。
それとほぼ同時に戸が少しひかれ、廊下に座す少女がひとり。

「御免、蒼眞殿に由依殿と御見受け致す。
 我が名は御影・祐衣(みかげ・ゆい)、兄の名代にて罷り越した次第だ。
 火急なる用件につき、無礼は許されたい。」

漆黒の長い髪を高く結い着物に袴姿の祐衣は、どこかこの東昭舘に似つかわしいと云えた。
繊細でありながら、一見きつめのその顔に浮かぶ表情から
ある程度事情を察している様に伺える。

「御影、……じゃああんたが彼の妹御か。」
「うむ、その節は兄が世話になった。礼を申す。」
「いや、顔を上げとくれな、嬢。あたしぁ、何もしちゃあいないよ。」

これ等は祐衣の兄が此処の道場で稽古をしたことを指している。
が、それは、また別の話である。
祐衣は一礼して部屋に入り戸を閉めると、蒼眞に向き直り声を潜めて云う。

「兄の大学病院に小弥太が運び込まれた、それ故ある程度の話は聞いておる。
 兄は病院で念の為警戒をするので、私が名代として此方へ伺ったのだ。
 少しは動けると思うので助太刀致す所存だ。」

蒼眞は祐衣をじっと見る。
その視線は深く心の中を見透かされる様な感覚さえ憶える。
だが祐衣はそれを正面から受け、尚且つ真直ぐ見返す。
それを見る玄之丞の目が感心した様に細められている。

「……いい目をしている、ならば嬢のその目で事を見定めて貰いましょう。」
「我が兄の名代として事を受けた以上、無様な真似だけは晒さぬ。」

古風な言葉遣いではあるものの、その態度は真摯其のもの。
身元も蒼眞の知るが故に安心と危惧が起る。
だが、結局は任せる事にした。
祐衣は無言で頷くと一枚のメモを渡す。
小弥太の現在の状況についてのもので、病院にいる兄からの預かりものだ。
どうやら大事に至らなかった様で蒼眞も玄之丞も、ようやくひと安心をした。

「病院の方はまずは大丈夫であろう、だが小弥太を襲った犯人と盗まれた掛け軸。
 なんとかせねばなるまい、もそっと詳細を……、」

祐衣がそう云いかけた時である。
再び戸がひかれ、門下生のひとりが来客を告げた。

「見学の申し込みだって?ちょいとおまいさん、今うちがどんな状況だかわかってんのかい?」
「……ひっ、あ、……いえ、……はい、」
「どっちなんだい、」
「……待て玄之丞。今道場に起きている事と、見学の申し込みは別の問題だ。
 立て込んだ状態だからといって見学を断るのは、少々了見が狭い。……お通ししなさい。」

最後の言葉は門下生に向け、蒼眞は玄之丞をたしなめた。
仕方ないねぇ、と肩をすくめる玄之丞を祐衣はじっと見ていたがやがて席を立つ。
客人が来るのに部外者がいては不味かろう、と。
とりあえず周辺を見てみたいと云うと玄之丞が案内をかってでる。

彼らと入れ違いに部屋に通ったのは、すらりと背の高いスーツ姿の女性だった。
どこか中性的な雰囲気もあるも、その繊の細さは女性であることを示している。
暫く部屋をでたふたりの姿を見送り、蒼眞と相対して座す。
そして薄いケースから名刺を差し出した。

「都立図書館の司書をしている綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)と云います。
 剣術の本を読んでいてどうしても文章だけでは理解できない部分にひっかかったのですが、
 その、……ある方に此方の道場を紹介されまして伺った次第です。」
「ある方、ですか。」
「ええ……、」

まさか図書館にいる九十九神に、とは初対面の者には云える筈もない。
自分にとっては見慣れた神でも、他人に……然も武道家にそう告げられようか。
だが、蒼眞は表情をやわらげ言葉を繋ぐ。

「九十九神、と仰っても驚きません。
 当道場も神を祭っています、八百万の神ですから此処ではその手のお気遣いは無用です。」
「はぁ……、」

逆に汐耶の方が驚いた。
武道と神々、一見相容れないものの様に思っていたがそうではないらしい。
確かに稽古場に神棚がある。
あれは単なる偶像に過ぎないと思い込んでいたが、やはり文章だけではわからないものである。
そして少し、武道に対して親近感がわいてきた。
東昭舘、成る程興味ある道場である。
どうりで九十九神が此処を示す訳だ。

『彼の道場には古き神がおわしめす、往けば興味深き事に為らん』

古き神……神棚の神の事だろうか。
頭に浮かんだ考えを今は片隅に置き、改めて見学の許可を申し出る。
然し返ってきた答えはあまり芳しくはないものであった。

「見学の申し出はお受けしましょう、当道場の門は常に広く開けています。
 然し、本日は稽古は行いませんのでまた日を改めてお願いしたい。」
「そう、ですか……稽古がないのでは仕方ありません、見学はまたの機会にします。
 其方も何やら取り込んでる様子ですし。」

汐耶は普通に受け答えしたつもりであったが、それを受けた蒼眞の眉がぴくりとはねる。
彼女を見る視線が静かに鋭くなる。

「門下生の誰かが何か申しましたか、」
「あ、いえそういう訳じゃないですが……此方の道場がざわめいているので。
 どうも尋常でない事が起きたようですが、」
「……成る程、それも九十九神、というわけですか。
 為らば黙っていても詮無い事、あなたの推察通り当舘で問題が起きています。」

蒼眞の、そのはっきりとした決断力に汐耶は賞賛を禁じえない。
即座に切り替えられる柔軟な態度は寧ろ好ましいと云えよう。
その態度と、告げられた東昭舘の異変、其処に居合わせた自分。
何か、自分に出来る事があるのではないか。

「助力を?」
「ええ、たまたま此方に伺った、という偶然に過ぎませんが“必然”かもしれません。
 状況を知ってしまった以上、それを素通り出来るほど無関心でもいられません。」
「……危険なことかもしれませんが?」
「あなたならこのような場合、どうしますか?」

逆に切り返され、蒼眞は苦笑する。
この女性、案外肝が据わっているようだ。
あらためて見遣ると、この様な状況下にありながらも冷静に此方を見返している。
彼女なら何が起きても冷静に見極める事ができるだろう。

「見学に来ただけが余計な事に巻き込んで申し訳ない。
 だが、お気持ち嬉しく思います。」
「此方が無理に申したまで、ご迷惑はかけないつもりです。
 ところで状況の詳細を……、」

汐耶が鞄から手帳を取り出した時だった。
戸の外から足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
ふと見ると、蒼眞が苦笑している。
その表情に、今日は客が多い、と云っているのが簡単に見て取れた。



失礼します、と入ってきたのは田沼・亮一(たぬま・りょういち)と篠原・勝明(しのはら・かつあき)。
亮一は長身を畳む様にして座礼をし、その後ろに隠れる様にして勝明もちょこんと挨拶をする。
然し勝明にとって道場は物珍しいものなのか、挨拶しながらも周囲が気になる様子である。
それを引っ張って部屋の中に入ると、先客の汐耶の姿に驚き亮一は詫びる。

「すみません、来客中でしたか、」
「あ、いえ私は……、」
「彼女は綾和泉さん、彼は田沼亮一くん、門下生といってもいいでしょう。……田沼くん、彼は?」

急に自分に視線が集り、勝明は少したじろぐ。
眼力の強い蒼眞に、静かに見遣る汐耶、それを心配そうに見る亮一、確かに少年にはきつい洗礼だろう。
それでも堪えて亮一の真似をして座礼をする。

「……初めまして、俺は篠原勝明といいます。
 亮一や友人から話を聞いて一度此方に伺いたいと思ってました、……けど、」

そこまで云うと口ごもり、亮一を見る。
その様子に片方の眉をあげる蒼眞。
亮一も云おうか云うまいか思案していたが、意を決する。

「今日は白峰さんの言葉に甘えまして勝明を連れてきたのですが、
 その、少々……、」

其処まで云うと、ちらと汐耶を見る。
汐耶自身もなんと伝えたものか悩むところである。
然しそれは蒼眞が説明する事で解決した。

「そうですか、では綾和泉さんも何か感じられたのですね。
 蒼眞さんが了解されているのでしたら問題はありません、実は……、」

今日は稽古としてではなく勝明を東昭舘に連れてくる事を目的としていた為、
亮一は普段の稽古用の出入り口ではなく、正面の玄関より入ってきた。
ところが道場へ入った途端、勝明が眉間に皺をよせ立ち竦んだのである。
勝明は存在や意識を霊的視点より感知する能力があり、
それを知る亮一はいち早くこの道場に異変が起きている事をわかったのだ。

「霊的視点?」
「でも霊が関係してるってわけじゃないと思う、
 ……なんていうか、感情が渦巻いている様な、そんな感じ。」
「それが此処にあると?では、今も?」

頷く勝明に、蒼眞もひとつ唸り腕を組む。
思った以上にやっかいな問題になる感じがして、流石の彼も困惑していた。
人対人、単純にそれだけではないと云うのか。

「蒼眞さん、俺達でお役に立てることがありましたら仰って下さい。
 この場に居合わせたのも何かの縁かもしれませんし、それに綾和泉さんもそうなのではありませんか?」
「…………、」
「ああ、彼が鋭いのは職業柄でもあるのでね、探偵所の所長を努めてるんですよ。」

汐耶は亮一とは初対面であるに関らず、語らずとも何故ここまでわかるのか解せなかった。
だが蒼眞の言葉と、亮一の面立ちから信用するに足る人物とみた。
穏やかな物腰ではあるものの、頭の回転は速そうだ。
汐耶自身とどこか通じるものを感じ取り、警戒をとく。
それに亮一を保護者とするこの勝明という少年、かなり繊細そうな子だが利発そうな目をしている。
じっと猫を連想させる瞳で自分を見つめる少年に、汐耶はふと視線を緩めた。
すると勝明は吃驚した様に目を見開き、亮一の後ろに隠れようとして失敗していた。

そこへ祐衣と玄之丞が戻ってきた音がしたので、蒼眞はふたりを中に入れる。
それ程広くもない部屋に六人もの人数が入り、その視線は皆蒼眞を向いている。
祐衣と玄之丞だけがいまいち現状を解せない面持ちでいる。
それも視線で制し、おもむろに蒼眞が口を開いた。

「皆さんの言いたい事はわかっています。
 此処まで来たら初めからお話ししましょう、東昭舘に何が起きたのかを、」





某所。
黒鎧姿の武者が金属音を高らかに鳴り響かせ闊歩している。
その姿は異様であり、擦れ違う人々の視線も解せない、と語っている。
何かを探し求めている様にも見て取れるも、よくは解らない。
何処へ向かっているのか当てがあるのか、其れさえも、よくは解らない。
姿が道の奥に消えても、その足音である重量を感じさせる金属音だけがいつまでも残った。





いつもの様に岐阜橋・矢文(ぎふばし・やぶみ)が稽古場に入ると、其処には誰の姿はなかった。
常なら既に門下生が素振りを繰り返したり、踏み込みを行っている筈である。
そう云えば……、と思い出す。
東昭舘の門を潜って、誰とも出会っていなかった。
普段なら皆気持ちのよい笑顔で挨拶をしてくれていた。
何か、あったのだろうか。
それでもとりあえず稽古場へ上がり着替えようと、道場下手へ防具を降ろす。

「!?」

よく見ると、稽古場の神棚前に黒い姿が佇んでいるのが見えた。
それまで姿も見えなかったが、近くまできてようやくわかった、というところか。
然しそれでも気配が感じられない。
姿が見えるだけにおかしな感じである。
矢文はのそりと一礼しながら稽古場へ入り、その黒い姿に近づいた。
黒い姿 ― 白峰・寅太郎(しらみね・こたろう) ― は床の一点を見つめている。
矢文が近づいても何の反応も無く、然しその眉間に深く刻まれた皺から苦悩の様子が見て取れる。
そのまま声をかけるのも憚られ、さりとてそのまま放置する事も忍びない。
さしもの矢文もその太い眉を八の字にしてしまう。

(もしかして何かあったのか?……蒼眞に聞けばわかるかもしれない)

そのまま佇む白峰に、又来る、と律儀に声をかけ
矢文は道場の隅にある部屋と向かった。



「蒼眞はいるか、」

そう云って戸を開けると、話の途中だったのか何人もの視線が集り一瞬たじろぐ矢文。
見たところ見知った顔は亮一ぐらいであり、
静かな眼差しの女性やまるで仔猫が身体中の毛を逆立てている様な小童、
更にいきなり開けるのは無礼であろう、と叫ぶ小娘は初めて見る顔ぶれである。
無言で軽く会釈しのそりと部屋に入り(何処かで悲鳴が聞こえた気もしたが)そのまま座す。
そして白峰の様子を伝える。

「俺が近づいても何の反応を示さない、……少し様子がおかしくはないか?
 白峰も、そして今日の道場も、」

矢文の言葉に蒼眞と玄之丞ばかりでなく亮一も驚く。
何も聞いていない筈の矢文もが敏感に異常を感じ取っている事に、である。
特にそういった特殊感覚の能力を持っていない筈の矢文だが、
ここで稽古を続けているうちに自ずと感覚が鋭くなってきたのであろう。
こんな時ではあったが蒼眞も玄之丞も嬉しく思う。

「白峰は何か深く考えているようだ、床の一点ばかりを見つめている。
 あれ程の剣士が人の気配にも気づかずいるのは尋常ではない、無防備すぎる。」
「…………、」
「蒼眞、何かあったのなら話せ。俺に出来る事があれば手伝う。」
「……矢文さん、……わかった、ならばお願いしよう。
 此処にいる皆は同じ様に助力を申し出てくれて、ちょうど今状況を説明していたところだ。」



改めて蒼眞は話し出す、東昭舘で起きた事の顛末を。
小弥太が剣道場の神棚の前に倒れていた事。
現在は意識不明なるもほどなく回復するだろう事。
そこに架けられていた黒馬の掛け軸が消えていた事。
結界のはってあった敷地内で起きた事から警察を呼んでの捜査も成果がないだろう事。

「……以上が今現在わかっている事だ。」
「ちょっと質問なのだけれど、朱鳳君、反撃したような跡が無いのでしたね?」

汐耶が顎に指をあて考えながら云う。

「となると、顔見知り若しくは親しい人の犯行と考えられないでしょうか。」
「……な!では小弥太の周囲の者が事を行ったとそなたは申すのか、」
「御影さんの気持ちもわからないわけではないけれど、単純に考えるとその可能性は高いのよ。」
「な、なれど……、」

汐耶の冷静な判断に、わかってはいてもそうは思いたくない祐衣。
その様子に大人の話に口を出すのを控えていた勝昭が嗜める。

「あまり感情的にものを考えるのは、思考範囲を狭めてしまってよくないと思うけど、」
「む……小童が何を申す、私は感情的になどなってはおらぬ、」
「こっっっ……こ、……こわっっぱ!?」

子供の喧嘩の様相に亮一が苦笑して割って入る。
祐衣は友人の妹であり互いに知ってはいるものの、どうも勝明と祐衣とは馬が合わないらしい。

「東昭舘の大事だというのに何をしてるんですか、ふたりとも。
 由依さん、小弥太くんの発見当時の事をもう少し詳細にお聞きしたいのですが。」
「ん、なんだい?」
「発見時の体勢なのですが神棚と向かい合う形で倒れていたのですよね、……扉や窓、道場の方ではなく。
 ……その時、神棚からの位置はどの位でした?」
「そう、……だねぇ。実際はあたしが第一発見者じゃあないんだが
 現場はほぼ其のまま保存されてたんで特に問題はないと思うね、
 体勢は少し前かがみに蹲る感じで両手を前に持ってきていたな、足はそのまま倒れた状態で普通に揃っている。
 神棚からは……そうさね、5メートルぐらいだったか。」
「5メートル……、あと表情はどうでした?」
「表情は特になかったと思う。田沼さんが聞きたいのは喜怒哀楽の激しいのがないか、ってことだろう?
 そういったのはわからなかったねぇ、小弥太は特に表情が大きいからあればすぐにわかると思う。」

亮一の問う内容に汐耶は成る程、と内心で頷く。
消去法で可能性のひとつひとつを潰していき、残ったものが真実となる。

「5メートルという距離、神棚に向いて倒れていた、暴れた形跡もなし、」
「そう、この事から導き出されるのはまずは相手が“人”であること。
 人間の稼動範囲がちょうどこれくらいになりますね。
「そして事件当時の位置関係は恐らく、神棚・犯人・小弥太くんだったのでしょう。
 犯人が神棚に向かって立っているのを小弥太くんが後ろから声をかけた、
 互いに向きあう形になり、腕を前に持ってきていたことから胸部又は腹部への攻撃により前かがみで倒れた。
「表情も特に無い事から、まったく知らない人ではなくても特には近しい相手ではなかったようですね。
 もし本当に近しい者である場合、其処にいるのが当然なら笑顔、不自然であるなら不審・驚愕になるでしょう。」
「そうか、逆に表情がないことから、相手を知ってもどう反応していいかわからなかった、
 若しくはまったく知らないわけでもない程度だったという可能性もありますね。」

蒼眞と玄之丞は無言で目をあわせ驚いていた。
あれだけの状況で、ここまで推測の範囲が狭めることが出来ようとは。
そこへ大人しく座って何かを考えていた勝明が蒼眞に話しかける。

「あの蒼眞さん、……俺、小弥太くんのいる病院に行ってもいいですか?」
「何故だい?」
「今一番手隙になっているんじゃないかと思って……、
 俺はその方がいいかな、と……あ、でも病院を教えて貰えれば、充分ですけど。」

蒼眞は亮一を見遣り、その保護者が頷くのをみて勝明の申し出を承諾する。

「では勝明君、小弥太を頼む。うちの門下生も詰めているが、私からだと云えばわかるだろう。」
「病院は……、」
「我が兄の通う大学病院だ、そなたも知っておろう。」
「……煩いな、いちいちもう、」
「何だと、この小童が!」
「また……っ!」
「いい加減にしなさい、ふたりとも。ほら、勝明も早く病院にいかなくてはだめでしょう?
 祐衣さんも大人しくしないとお兄さんが嘆きますよ、」

途端にしゅんとし、勝明は皆に一礼すると病院へ向かった。
祐衣も兄の名を出されるとすぐに大人しくなる、どうやら兄に弱いようである。



部屋をでた勝明は、稽古場の方をちらと覗き込んだ。
先程矢文が云っていた白峰が、まだ居るのか確認したかった為である。
言葉どおり白峰は其処にいた。
姿はあっても心此処に在らず、何かを一心に考えている様に見える。
亮一のツボに入ったらしい白峰には特に興味を持っていたが、この様な形で出あうのは悲しかった。
本来なら病院に案内して貰おうかとも考えていたが、彼の姿を見て諦める。

『貴方の眉間の皺が、誰かの為に深くなってるのは解るから……、
 行き先を間違わせる訳には、いきません。貴方の為にも、その誰かの為にも……、』

然しそれも適わぬと見極めると、勝明は白峰の為に小さく神頼みした。
強面で剣も強い人ではあるけれど、何故か彼はそうさせずにはいられない人だった。
彼の姿に悲しみを感じ、なんとかしなくては、と思う。
その為にも小弥太の様子が気がかりであり、勝明は静かに一礼すると東昭舘を後にした。 


 
検証はまだまだ続く。

「此方の道場では終始門は開放されているのですよね、すると門下生は常に居るという事ですね。」
「基本的には、そうなりますね。」
「事が起きる前に朱鳳君と一緒に居た人を見ている方は居ないのでしょうか。」
「ええ、……残念ながら当時誰も稽古場へは入ってなかったということです。
 私も玄之丞も、そして白峰も奥屋敷にいたので事を知ったのは発見から十分程後でした。」
「そうですか、……別方向の視点から云えば結界の張ってある場所への侵入を可能にしてるんですよね、犯人は。
 結界の強度はどれくらいなのですか?」
「単純で且つ強度、でしょう。当舘に招かれざる者は弾かれます。
 つまり出稽古や見学の訪問、東昭舘に縁ある者は悪意ない限り無条件で入れます。」

汐耶は結界に引っ掛かりを感じていた。
自らも結界については見解を持っているので、解せない点があるのだ。

「見たところ結界に綻びは生じてないようですし、仰るように強固なまま保たれてますね。
 それでも侵入を果している……、結界は壊れていない……、逃走も完璧……となると、
 やはりこれは東昭舘に関る者の犯行と断定してもよいのではないでしょうか。」
「…………、」
「東昭舘に関係する人の中に、掛け軸に興味を持っていた人はいませんか?」

祐衣さえも納得せざるをえない汐耶の東昭舘縁の者犯行説に皆黙っていた。
考えたくはない、だがどうしても示す方向はひとつの方向を向きつつある。
と、それまでずっと黙していた矢文が組んでいた腕をはなして云う。

「白峰は、どうなんだ?無関係ではあるまい、寧ろ重要だと思うが。」

矢文は白峰の様子が気になって仕方がなかった。
強面ではあるものの本当は穏やかな剣士が、茫然自失となるのは如何なる事態か。
いつも朴訥とした矢文がここまで人に拘るのは、皆始めて見たような気がした。
だがもともと矢文は岩地蔵。
目の前で苦しみ、困っている者を放っておく事は出来ないのだ。
まして白峰は矢文も世話になっている人物、捨ておける筈もない。

「そう、白峰さんが今回の事件の鍵だと俺も思います。」
「田沼……、」
「蒼眞さん、由依さん、心当たりがあるのではないですか?」

ずばり切り込む亮一に、皆の視線がふたりに集る。
その視線を全て受止め、蒼眞は目を閉じた。
玄之丞はそのまま受止め静かに座している。
やがて目を開けた蒼眞は僅かに苦痛をその表情にのせていた。

「……情報を小出しにしていた訳ではないのですが、確信が持てず迂闊な事は云えなかった、すまない。」
「蒼眞さんを責めないでやっとくれ、彼は東昭舘の師範代だ、……滅多な事は云えないんだよ。」
「……それは我等とて承知している、蒼眞殿の立場も心情もな。」

祐衣の言葉に、ふと笑みを浮かべ蒼眞は此れまで伏せていた事実を公開する。

「此れまで綾和泉さん、亮一くん、矢文さん、嬢が推理してきた条件に当て嵌まる人物がひとりいる。
 それは以前東昭舘に在籍し、剣も古武道の腕もかなり立ち、絵心もありあの掛け軸をよく愛でていた。
 今は出奔してもう何年になるのか……小弥太は彼の後に入門したので話は聞いていても面識自体はない、」
「その人は……、」
「白峰・寅次郎(しらみね・こじろう)、白峰の弟だ。」

静かに皆が息を飲む中、亮一はやはり、と胸の内で呟いた。
先日和菓子を持参した日、白峰の口から過去に余り触れたくない気配が感じられていた。
その時気づかなかった事を悔むが、例え気づいたとしてもどうも出来ない事もまた事実。

「私は虎次郎の名を出すのは今が初めてになる、が、どうやら玄之丞もそう思っていたようだな、」
「ああ、……でも口にするのは抵抗あったんで控えさせて貰った。恐らく、白峰さんもうすうす……、」

だとしたら、なんと皮肉な事か。
血を分けた弟が、同門の弟弟子に危害を加えたとは。
どちらも可愛がっていたが為、彼の心情は察するに余りある。
彼ら兄弟に何があったか不明であるものの白峰の状態をみれば深刻な事に間違いはないだろう。

「ならば探しましょう、その虎次郎さんとやらを。
 彼が犯人であってもなくても重要参考人である事は間違いのない事ですし。」
「……俺は、もう一度白峰の様子を見てくる。」

汐耶が重い空気を断ち切るように云うと、矢文がそれを機会に立ち上がる。
戸が閉められ矢文の大きな背中が消えても、なんとなく皆の視線がそこに集った時、
ふと空気が揺れた様な感覚が起きた。
その方向を振り向くと、いつ現れたものか亮一の肩に真っ赤な鳥が乗っていた。
猛禽系独特の嘴に大きな瞳がくるくると動く。
その羽は黒斑ならぬ赤斑が美しく、まるで燃え立つような赤色であった。
その鳥と亮一は何やら会話している様にも見え、だが然し一見して異界のものとわかる其れだった。

「……皆さん、小弥太くんが意識を回復したそうです。
 そして、犯人の居場所もわかりました、……やはり虎次郎氏で間違いないようです。」





其れより時間は遡り。
小弥太の入院する大学病院の一室に勝明の姿を見ることが出来る。
蒼眞の名をだすと、病室に詰めていた門下生は勝明を中へ通してくれた。
容態を聞くと、もう間もなく目覚める事だろう、との事だった。
その兆候が肌の色に現れている。


勝明は枕もとの椅子に腰掛けると、初めて見る小弥太の顔を覗きこむ。
こうして見ると、何もなくただ眠っているだけの様にも見え不思議だなと思う。
自分と年齢もひとつしか変わらないこの少年が、東昭舘の四天王でありこの修羅場に出くわした。
勝明自身も修羅場は何度か通っている。
だが自らの身体を傷付けられる事はなかった、亮一や守ってくれる人達がいたからだ。
小弥太はその時誰もいなかった、いくら強いとはいえ心細かっただろうに。
そう思うと勝昭は傍にあったガーゼに水を湿らせ、軽く口に当ててやる。
寝たきりの人にこうして湿らせてあげると、唇がひび割れないのだそうだ。
これは医者の卵の友人から以前教わった事だ。
その心やさしい勝明の様子を門下生は目を細め静かに見守っていた。


と、その小弥太のまぶたがぴくりと動く。

「あ!」

徐々にまぶたや眉も動きだし、次の瞬間、がばっと一気に起き上がる。
その突然激しい動きに勝明も、そばにいる門下生も唖然と見返すのみ。
しばらく頭を掻き、現在の状況を把握しようとしている様だったが
ふと傍に座る勝明を見る。

「おまえ、誰?」
「……っ、……篠原勝明、亮一の……剣道の稽古で世話になっている田沼亮一のとこの、」
「あー、あー、あー、あー!でっかい和菓子の田沼のおっちゃんの!
 ……で、なんでおまえがここにいんの?っていうか、何ここ、病院?」
「……何も、憶えてないの?」
「何が?」
「……きみが、何者かに襲われて倒れてた……、」
「そー、そー、そー、そー!俺襲われたんだっけ、」

本当に小弥太は意識不明の被害者だったのかどうかわからぬ元気のよさに
勝明は喜んでいいのか、呆れていいのか悩み、とりあえずは喜ぶ事にした。
自分とはどうも正反対の性格な小弥太の一挙一動に振り回される己に苦笑する。
門下生も呆れつつ小弥太に声をかけ、目が覚めたことを伝えに医者を呼びに云った。
小弥太は寝たきりだったので身体が重いのか、伸びをしたり腕を振り回している。
その度に点滴が大きく揺れるので、勝明は慌ててそれを抑えたりとせわしない。

「朱鳳くん、目覚めてすぐに悪いけど……何か憶えてることってない?
 相手の顔とか、知ってる人だった?」
「小弥太でいいよ、……何、もしかして調べてくれてるのか?」

勝明は頷き、蒼眞のもとに何人か協力者現れている事を伝える。
自分が関係した事で周囲にこんなに迷惑をかけている事に小弥太は困惑し、
勝明に悪かったな、と詫びる。
自分の不甲斐なさを恥じる小弥太に、普段の明るさの内に厳しい環境のなかで生きている事を感じさせ
勝明はことさら自分のできる事をしようと思う。
少しずつ思い出しながら小弥太は話す。

「あいつは俺が稽古場に入った時には、もう神棚の前に立っていたんだ。
 後姿からも門下生じゃねーことはわかったし、でも稽古着みたいの着てたから関係者かもって思ってた。
「最初は何を見てるのかわかんなかったけど、近寄ると黒馬の掛け軸をじっと見ていたんだ。
 で、声をかけた……“何してんですか”ってね、」



……振り向いたその者は穏やかな顔をした二十代の男だった。
やさしげな顔立ちで繊が細ければ女性といっても通ったかもしれない。
全体的に白いイメージのあるその男は、小弥太にこんにちわ、と云って微笑むと逆に問いかける。

『きみは門下生なのかな?』
『朱鳳・小弥太(すおう・こやた)、ここで四天王をはっている。あんたは?』
『朱鳳……、成る程そういう……、だから兄さんは……、』
『おい、ちょっとあんた誰かの兄弟なのか?』
『ねえ、きみ小弥太くんと云ったかな、掛け軸は僕が貰っていくって伝えてくれるかな。
 封印したまま捨ておくのは勿体無いし、僕が有効に使ってあげる、ってね。』
『封印……って、掛け軸が何か……、』
『どうしても取り戻したかったらやってみるかい?そうだな……、
 十三夜の日になら居てあげる、場所は兄さんが知ってるから聞き出せたら来るがいいよ。』
『ちょっと待てよ、何がなんだか……、』

困惑する小弥太に、その男は微笑むと瞬時に間合いを詰める。
それに反応したときには男の顔が下から見上げていた。

『きみに直接怨みはないけれど、仕方ないんだ、ごめんよ。』

そして水月に入った拳は見事な程の鮮やかな手際で、
落ちる意識の中、男の声だけが最後に残った。

『僕はね、白峰虎次郎、……元はここの門下生だったんだ。』

小弥太はその名を何処かで聞いた名だと思いながら暗い意識の中に入っていった……。



勝明はその話を聞き、東昭舘での皆の推測が当たっていた事に驚き、
一刻も早くこの情報を知らせなければと思った。
そこで小弥太に一言詫びて病室のカーテンをひき、部屋に日光を入れ、
延びた自身の影に臥炎、と呼びかける。
すると勝明の影の中から真っ赤な色も鮮やかな鳥の頭がちょこんと覗き、ベット上の小弥太のド肝をぬく。
その鳥、臥炎、 ― 勝明の使役する傀儡 ― に勝明は何かを伝えると、再びその影の中へと埋没していった。
その間、ほんの僅かな時間。
口を開けたまま臥炎の消えた跡をさし何か激しく云いたげな小弥太に、
勝明は携帯代わりだと云って落ち着かせる。
せっかく復活したのを再び昏倒させてしまうのは本意ではないからだ。
そこへちょうどいい具合に担当の医師の姿が病室に入ってきたので、
勝明は門下生と一緒に部屋の外で待機することにした。
先程の情報、亮一達に伝え上手く対処してくれる事を信じて、
今はただ小弥太の傍で待つのを選んだ勝明だった。





再び東昭舘。
臥炎を通じて勝明からの情報を亮一は皆に伝える。
それはこれまでの推理を証拠づける内容であり、ある意味最悪の結果となってしまった。
何故、小弥太を襲ってまで掛け軸を入手する必要があるのか。
その掛け軸にはどの様な秘密が隠されているのか。
それについては蒼眞もよくはわからないと云う。
ここの主が大事にしている、ということは確かなようで、然しそれ以上は不明だ。

「では此れからの指針は決定したようだな、虎次郎殿と会い、事の次第を確かめるとしよう。」
「ええ、どうも相手の思惑にのらされている様な感じもしますが
 先手をとったあちらに分がありますからね、仕方がないでしょう。」
「あとは交渉次第で色々と変わりそうね……蒼眞さん、私達に任せて頂けますか?
 本当なら東昭舘を預かる蒼眞さんが出向くのが筋なのかもしれないけれど、
 でも逆にそれだからこそ此処にいたほうがいいと思うのですが。」
「俺も綾和泉さんと同意見です。」

助力を申し出てくれたはいいが、このような展開になるとは思いもしなかった蒼眞は
その危険な交渉に皆だけで行ってもらう事に反対の意をとなえる。
それはさもあろう。
東昭舘の面倒事に、自らが行かずしてよい筈もない。
然し、亮一の言葉がそれを抑える。

「今、東昭舘の将は蒼眞さんです。将はみだりに動くものではありませんよ。
 蒼眞さんには此処を守る役目があるのですから。
 それに俺も東昭舘の門下生のひとりですし交渉の資格はあると思います。」

それまで黙っていた玄之丞が、こりゃ一本とられたね、と苦笑し蒼眞に云う。
皆さんの心意気を受け取ろうじゃないか、と。

「有難いことじゃないですか、義理人情の世界が未だ残っていたなんて嬉しいことだ。
 あたしは小弥太の事もあるんで病院へ行こうと思う、だから道場の事は頼みますよ。」

そして亮一、汐耶、祐衣に宜しくお願いしますと頭を下げた。
四天王が雁首揃えてながら何もできないとは、さぞ悔しく情けなく思っている事だろう。
それを感じるからこそ、この助太刀を買って出たのが皆の共通の思い。
自分に出来る事があるのなら、自分に出来る機会があるのならそれをすべきだ。
あの時やっておけばよかったと、あとで悔まぬように―――。

「そうとなれば虎次郎さんの居場所、教えてもらいませんとね、」

亮一はそう云うと、皆真剣な面持ちで頷いた。



剣道場、稽古場。
先程と寸分違わず其処にいるかのように黒い影は立っていた。
矢文が様子を見に稽古場に現れても、白峰に動きは見られない。

弟と白峰に何があったのかわからない。
だがあまりいい事ではないのだろう、それは蒼眞達の様子をみればすぐにわかる。
四天王と呼ばれる実力の白峰でさえこの様な有様になるほどなのだから。
矢文は過去を聞こうとは思っていなかった、
人には其々人に云えない、云いたくない事がひとつやふたつあるものだ。
それらをずっと“祈り”という形で受けとめてきた矢文だから
白峰の苦悩も“黙”という形でで受けとめられた。

だが、今回は少し違う。
何かが起ころうとしている、それが何なのか矢文にはわからないが
動かねばならない、そう感じていた。
彼がその渦中にいるのなら、渦に飲まれてしまうだけでは危険だと感じとっていた。

「白峰、おまえは自分のせいだと思っているのか?」

返事があると思わずに矢文は語りかける。

「起ってしまった事をいつまでも悔んでも仕方がないのではないか?
 何が原因で、誰が悪いのか、そんな事は今考えるべきではないと思う。」

聞こえているのか聞こえてないのか、動かない白峰。

「時は止まらず、時は遡らず、ただ流れてゆくのみだ。
 その流れに乗らずおまえはどこへ行こうとしている?
 おまえの持つ剣は、何をおまえに教えてきたのだ?腑抜ける為なのか?」

その時白峰の身体が身じろぎし、僅かだがゆっくりと矢文を振り返った。
矢文はそれでも構わず話し続ける。
常の朴訥な矢文とは違う、厳しさと慈しみの混ざった複雑な矢文。

「掛け軸を結界の張られたこの敷地内から持ち出せる人間は、限られているのではないか?」
「…………、」
「……心当たりがあるのなら、ここで留まっている場合ではないと思うのだが。
 もし、おまえが少しでも自分に責任があると思うのなら、おまえの責務を果すべきだ。」

暫くはそれでも黙っていた白峰だが、やがて常以上に低い声で云う。

「過去が、追って来た……、」
「……過去も時である以上、流れゆくものだ……俺達はその過去を追うぞ、おまえも来い、
 決着をつけなくていい、まずはそれと向かい合って心を極める用意をすればいい。
 見つめて、それから考えろ、答えはすぐにでるものではないのだから。」

矢文はあえて白峰を、その場へと連れて行こうとしていた。
危険かもしれないが、白峰という男を信じているからこそに他ならない。
これまで稽古をつけてくれた白峰は、現実から逃避する様な者ではない。
つけてくれる厳しい稽古の中にも、誰よりも自身への稽古が一番厳しかった。
常に己を戒め続ける男だった。

白峰の巌の様な心に水が沁みるが如く言葉が届く。
それまで張りつめ、頑なに縛り閉じ込めていたものが解れはじめる。
そして初めて見るかのように矢文を見つめ、その岩の様な容貌と精神に感謝する。
白峰はその容貌が故に人に怖れられるが、それでも気にかけてくれる人がいる事に心から感謝する。
和菓子を持参し話を聞いてくれる者、この様に背中を押してくれる者、有難い事だ。

「虎次郎がいそうな場所は、わかるか?」
「……以前は探してもいなかったが、現れたのだったら恐らく……笹倉城だと思う。
 あいつの、好きな場所だったから、」


白峰の復活と参戦の様子を見ていたのは矢文だけではなかった。
亮一もふたりを呼びに来たところであり、
この状況的にも白峰説得を矢文に託し、陰から聞いていた。
矢文の意外な一面も見れ、亮一は頬を軽く掻いて苦笑する。

これで東昭舘側はこれまでの後手から一転、正面向いて対峙する事になる。
肩にとまり小首を傾げていた臥炎へ亮一は、お帰り、と小さく云うと
その紅い伝達者は、鮮やかな色を視覚に残し亮一の影へと消えていった。
それを見届け部屋に戻る亮一の表情がいつになく真剣な厳しい表情になる。
未だ不明であるものの兄弟の確執も含め、
笹倉城での対面で亮一はかなり動かねばならない位置になるだろう。
場合によっては能力の使用もあるやもしれない、そう心で覚悟をするのであった。





某所。
黒鎧姿が白壁に突き当たる。
見上げれば天守閣を備えた城が見え、その上には白い月も既に上り始めていた。
黒い鎧武者、城、月……。
思えば此れほど似つかわしい組み合わせは滅多に見られぬだろう。
それが例え金属の武者だとしても、今は其れほど異を唱える必要もない。
道場を廻るにもよいが、たまには城にて佇むのも悪くはない、
そう鎧は思うと、再び金属の重低音を響かせ城門を潜っていった。





笹倉城。
天守閣と一部の建物を残すこの城は、東昭舘より程近い場所に位置する。
特に有名な武将の城だったわけでもないが、
地元史では城と周辺の町や村とはわりと密接な関係があったらしいと表記されている。
今でこそ歴史資料館としてその姿を変えているが、
派手さはないものの美しい姿を変わらず見せてくれている。



「……こんなところにお城があったなんて、ね。」
「ええ、俺も教えてもらうまではまったく気がつきませんでしたからね。
 特に遮蔽物があるわけでもないのに見えない、けれどもちゃんと建っている。
 地の利に長けた天然の要塞なのかもしれませんね。」

汐耶はそびえる天守閣を眺め感慨深げに云う。
たまたま亮一は以前白峰より聞いていたので知ってはいたが、
それにしても不思議な城だとあらためて思う。

亮一と汐耶、祐衣、そして少し遅れて矢文と白峰ら一行が笹倉城に入城したのは
閉館間近な、所謂“逢魔が刻”。
できすぎた状況だな、と祐衣が云う様に
常ならば見学者等が居ようものも姿は見えず。
城の白壁に次第に黒くなりゆく夕陽が映る。
その上には白い十三夜……虎次郎の告示には間に合ったようだ。
祐衣の感覚が鋭くなり、この城に異質な空気が流れていることを察知する。
特殊な環境に立ち会っている為か巫女体質が顕れてきたのだ。

(……私は名代、我が兄の恥に為らぬ様尽力するまで)

その切ないまでの情が今の祐衣を動かしている。
健気であり、雄々しくもあり、それ故に哀しい娘である。
然し今は戦巫女然と五感をひろげ周囲を探る。
その感覚に突然ひっかかるものが感じられた。

「何時の間に……、皆の者、前方におるぞ、油断するな。」

その指し示す先には、白い影。
静かに、涼しげに立つ姿は見方によっては美しいともとれるだろう。
だがその顔にあるのは、

「鬼面?」

能面の般若とも少し違う、鬼面がその顔にあった。
白木の面が十三夜に光る。
そのなんと異様なことよ。
情景の美しさと姿の美しさが際立つだけにそれは尚更だった。
その鬼が云う。

「久しぶりだね、……兄さん、」

それを受ける黒い影は黙したまま白い影を見る。
落ちる沈黙が逆に全てを雄弁に物語る。
黒い影の方が一歩を踏み出そうとした時、それを止めたのは亮一だった。
そのまま亮一が前に出て、矢文が白峰を抑える様に立つ。

「あなたが白峰虎次郎さん、ですか?」
「……きみは?」
「俺は田沼亮一といいます、東昭舘の門下生でもありこの度の代理人として此処に来ました。」
「へえ……、蒼眞さんが貴方達に託すなんてよっぽど信頼されてるんだね。
 この掛け軸、やっぱり僕にはくれないのかな?」
「なっ、……このたわけ者が!その様なわけが在る筈ないではないか。
 第一人と話す際に面を被ったままとは無礼であろう!」

虎次郎のふざけた物言いに祐衣の堪忍袋の緒が切れる。
然しそれさえも愉しそうに白い影は更に挑発する。

「なら、どうする?」
「……こうするまでのこと、」

祐衣が左手を前に掲げると、そこに梓弓 ― 十六夜 ― が具現化した。
御影一族特有の業物の具現化である。
そのまま弦を引き絞ると白羽の矢が躊躇せず放たれる。
それは瞬時の事で矢は過たず鬼面の眉間に突き立った。
誰もが祐衣の動きについていけず、面にひびが広がってゆくまで動けない状態だった。
亮一が慌てて祐衣を抑えるも既にその手に梓弓はなく、祐衣も悪びれた様子もない。

「よく見るがいい、面が割れるぞ、」

乾いた破裂音にも似た音が響くと、あの鬼面の下から若い男の顔が覗いた。
涼しげで、まるで愉しんでいるかのような余裕のある表情。

「随分せっかちなんだね、……確かに非礼といえばそうだから仕方がないけれど。
 相手が僕だからいいものの、いきなりは危ないよ?……きみは?」
「痴れ者にいきなりも何もない。我が名は御影祐衣、見知りおけ。」

虎次郎は片方の眉を上げたが、結局何も云わず肩を竦めるだけにした。
まわりの大人たちは祐衣の無茶な行動に冷や汗をかいたが
当の本人達が落ち着いているので溜息をつくしかなかった。

汐耶が眼鏡を鼻の上に押し上げ、こほんと咳払いをひとつすると
あらためて交渉に入る。

「白峰さん、私達は争うつもりもないし、駆け引きをするつもりはないわ、
 その掛け軸を返して貰えないかしら……私達は貴方のメッセージを元にここまできたの。」
「ふうん……なら小弥太くんっていったっけ、回復したんだ。良かったね。」
「子供に手をかけるのは大人気ないと思うのだけれど、」
「だって小弥太くん“強い”からね、僕が先にやらなければ此方がやられてたよ。
 けれど掛け軸はね……本当の価値を知らないところに置いておくのは勿体無いのさ、
 あれがどれほどの一品か、きみは知っているかい?」

汐耶は首を振る。

「わたしは見ていないわ、だから知らないの。」
「ならば見るがいいよ、この厄介事に巻き込まれてしまった駄賃ぐらいは貰ってもいいだろうしね。」

そういうと虎次郎は右手を振る。
と、どういう仕掛けかその手に掛け軸が現れた。
そしてそのまま巻かれていた紐を外すとその全容が汐耶達の目にうつる。

それは漆黒の駿馬が緋色の轡を噛みながらいまにも駆け出さん、という瞬間の絵であった。
躍動感に溢れたその姿は今にもそこから踊りださんばかりで、
黒い鬣一本一本でさえもが鮮明に見て取れる。

然し汐耶の目を惹いたのは別の所だった。
轡を飾る組紐の形である。

「この組紐の形は……まさか……、」
「へえ、そっちのお姉さんは少しは知っているようだね。」
「綾和泉汐耶よ、……ねぇもしかしてこの馬、“夜刀命(やとのみこと)”なの?」
「そう、あたり。東昭舘の連中よりよっぽど詳しいじゃないか、情けないよね、兄さん。」

その聞きなれない名前に亮一も矢文も祐衣も、そして白峰も首を傾げる。
汐耶は仕事柄、本の知識にかなり深い。
一般の本から魔術関係等の特別閲覧物も全て把握している為
その特殊な知識があった。

「この夜刀命は日本古来の神々のひとりで、所謂八百万の神々に名を連ねているの。
 刀剣の神で戦を司るのだけれど、ほとんど表には知られていないようね、
 その性格も自由奔放で有名な古来日本の神々からも特に傑出してたらしいのよ。
「その夜刀命を現す姿が漆黒の駿馬。彼の噛んでいる轡は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、
 いつも何処かへ行ったっきりの夜刀命に縄をつけるような意味でつけさせたらしいわ。
 その組紐の組み方は大神を現すものだから特徴が大きいわね。
 だから彼を御せる者は刀剣や戦において統べる力を持つと云われているのよ。」

今まで何気なく見ていた掛け軸にそのような云われがあったとは思いもよらず、
大人達はあらためてその馬を見る。
その様子に虎次郎は溜息をついた。

「これだから……、知らないで見ていたなんて、いや、見てもいなかったんじゃないのかな、」
「でも、それならこの掛け軸に拘らなくてもいいんじゃないの?
 他にも何処かに誰か著名な画家が描いたものはあるでしょうに。」
「いや、これじゃなくちゃ意味がないんだよ。」
「何故そこまで……、…………あ!」
「本当に貴方は目の付け所がいいね、」

虎次郎は云う、まるで陶酔したように。
夢心地な風で言葉を紡ぐ。

「この掛け軸の絵、此れほど見事な絵であるのに花押がないだろう。
 おかしいと思わないか?この毛並みの一本一本がまるで本物のようにあるじゃないか。」
「……おまえ、まさか、」
「この目も生きている目だよ、今にも此方側へ飛び出して来そうだ。
 ほら息をしているようじゃないか、声も、嘶きも……、」
「虎次郎!」

「この掛け軸はね、“本物”なんだよ、」

虎次郎の言葉は激昂した白峰の言葉を遮り、更に皆に衝撃を落す。
思考がついていけず悲鳴をあげその動きも止まる。

兄弟の久しぶりの会話が奇怪な内容とは因果なものだ。
祐衣は理解しきれずに汐耶を見るも、彼女自身が衝撃を受けているようだった。
それでは亮一は、と見ると彼も同じ様に混乱しているようだ。
矢文は常と変わらず無言で立っている。
俄かには信じられようも無く、突きつけられた事に対して理解するのが精一杯。

「……とにかく虎次郎さんが何を考えてるのか俺達は知りませんし、知るつもりもありません。
 然しその掛け軸は返して貰えませんか?俺達も穏便に事を済ませたいと思っているんですが……、」

亮一が賢明な判断をした時だった。
明らかにこの場に異質な金属の連続音が響き渡る。
かなり重量感のある、それでいて滑らかな動きの音。
この場にある筈のない音に皆の眉間にしわがよる。

「あいや、待たれいっ!」

明らかに人のものでない声が白洲に飛び込み、
続いてその黒鎧姿がスライディングの要領で滑り込んでくる。
砂煙が晴れると共に立ち上がるその姿は人には非ず、
されど人型をした機械兵士であった。
突然現れた機巧武者にどう反応したものか、虎次郎でさえもはかりかねている様子である。

「我が名は月霞様の一番刀『おにぎり名人』の楓希・黒炎丸(ふうき・こくえんまる)!!
 そこの白服の者、逃げるでござる!拙者が助太刀するでござる!」

白服とはどうやら虎次郎の事をさしているらしい。
いきなり六本の腕に其々「金棒」「十字槍」「薙刀」、「のこぎり刀」「斬馬刀」「戦斧」を構え、
牽制の動きを見せている。

「黒炎丸とやら、そなたの助太刀の意味がわからぬぞ。
 突然現れて、この状況でどう助太刀に繋がるのだ!」

祐衣が生真面目に疑問をつきつける。だが、それは至極尤もな疑問である。
黒炎丸は暫く動きを止め考えている様子だったが、何やら思い至ったらしい。

「おまえのような好戦的な小娘が相手側にいるということ自体、そちらが敵なのでござろう。
 いや、そうに違いないでござる!されば、白服の者、逃げるでござるよ!」
「じゃあ、そうしようかな、」
「たわけ!」

次から次へと起る理解を超えた出来事に、亮一はこめかみを押さえていた。
然し状況が状況である、このような茶番をしている余裕はないのである。
一刻も早く掛け軸を取り返し、虎次郎を捕縛しなければならない。
その虎次郎がこの場から脱出してしまうという今、亮一の取るべき行動はひとつだった。
黒鎧丸と祐衣との間に割って入り左手を前方に突き出す。
次の瞬間亮一から発された霊的遮断空間に黒炎丸は音も無く閉じ込められた。
そして祐衣には汐耶を守って下がるよう指示。
矢文は、と見ると亮一をちらと見やり虎次郎と対峙するところだった。
互いに其々の相手を任せた……東昭舘でも幾度と竹刀を交えた者だからこそ通じるものだろう。

黒炎丸は何やら自分が閉じ込められている事に気づき、
その六本の腕を滅茶苦茶に振り回し、破壊しようとしていた。
然し、亮一の作った空間は有機物の得物で破壊できるものではなく
尚更黒炎丸の気を焦らせていた。

「な、なんでござるかこれは!?これでは秘技・必殺黒炎陣が使えないでござる!」
「あなたは余計な事をしていることに気がつきませんか?
 俺達は彼を連れて帰り、彼から取り戻さなくてはならない物があるんです。」
「そのような事は拙者の知らぬ事でござる、戦えればそれでよいのでござるよ。
 相手が強いとなればそれを倒すまで、そちらは道場側なのだな?ならば師範代、四天王と勝負でござる!」
「……俺達はもともと戦うつもりはありませんよ、第一師範代はここへは来てないのですからね。」
「ふざけるなっ、拙者は戦いに来たのだ!」

黒炎丸は得物を持った六本の腕を更に振り回し連続攻撃する。

「秘技・必殺黒炎陣!!」
「…………仕方ないですね、」

あくまで穏やかだった亮一の眼差しが鋭くなり、再び掌を正面に向けて構える。
金棒が空気を切り裂き襲うところへ遮断空間を再び発動、前方へ向けることにより盾の様になり金棒は逸れた。
次に戦斧が重量級の唸りを上げると亮一はそこへも発動、再びそれを逸らす。
それを繰り返す事で素手で「受け流し」の要領で攻撃を受けていた。
黒炎丸の攻撃もかなり重みと速さの兼ね備えたものである。
だが得物の長さが長いものばかりであるばかりに、
その威力も時間の隙がどうしてもうまれてしまう。
武器の重さを怪力で補助するとして、右手に持つ十字槍と薙刀は
振り回すたびにその長さが仇となってしまっていた。
その隙を亮一はつく。
これもやはり稽古の賜物だろう、日本剣道形を学ぶ事は実戦にも使えるものも多い。
焦れた黒炎丸が大きく全ての腕を振りかぶった瞬間、
亮一はその長身を大きく踏み込み黒炎丸の水月へ掌をあてる。
当てたときには、もう勝負はついていた……相手に触れ効果を裏返す事で拘束させたのだった。 



一方その戦いを見ていた虎次郎は素直に感嘆し、矢文に笑いかける。

「東昭舘の稽古の成果は凄いね、あんな事まで出来る様になるんだ。」
「……おまえも強いのだろうに、こんな子供の様な真似をしてまで何を待っているのだ?
 どうも俺にはおまえがわざと茶番にして誤魔化している様に思えるのだが。」
「ずっと黙っているからわからなかったけれど、……あなたって怖い人だね。」
「もし兄に何かを期待しているのなら、今回は諦めろ……俺が動かない様言ってきかせたからだ。
 まだおまえに対して何かを決めかねているようだったから、無理に俺が連れてきた。
 でもそれだけだ、おまえ達兄弟に何があったのかわからないが直面すれば何か変わるかもしれない。」

虎次郎は矢文の後ろに立つ兄を見やる。
その顔は複雑で矢文にもどういう感情なのかは量りかねた。
白峰はただ沈黙を保ち、じっと弟を見返すのみ。
肉親というものは愛情があるだけに多分に複雑なものとなる、恐らくこの二人もそうなのだろう。
何があったかしらないが、会って直に解決するような代物では無い事は確かなようである。

「おまえも戻って小弥太に謝れ、それで掛け軸も戻せば穏便に事はすむだろう。」
「……本気で云ってるの?事がそんなに簡単で無い事はもうわかったと思ったんだけどな。
 そういう甘い考え方って、……僕は嫌いなんだよね。」

虎次郎の声が変わったかと思うと、何時の間に彼の手には日本刀が握られていた。
既に抜刀されており、月灯りに鈍く光る。
矢文の背後で白峰の息を飲む気配がしたが、それでもそれを制す。

「腕ずくでこい、というのか、」
「できるのならね、」

矢文は左手をぎゅっと握り締める。
そこには一本の赤い樫の木刀があった。
東昭舘を出る際、加藤先生が矢文を呼び手渡したものだ。

(虎次郎は強い、戦うつもりは無い事はわかっているが持って行け。
 儂が木から削って作った木刀じゃ、お守りがわりになるだろう。)

その無骨で重い木刀を矢文は正眼に構える。
正直に云って自分が倒せるとは思っていない、ただ今は動けない白峰を守ろうと思うのみ。
矢文自身の肉体はちょっとやそっとでは崩れない自信がある、何よりも誰も傷つけないよう戦う事。
人命が第一。
その矢文の想いが気合いとなって高まるのを虎次郎は見逃さなかった。
頂点に達する前に踏み出す。
その動きはまるで白峰の動きにそっくりだ……矢文はあとでそう回想した。
矢文の動きはそれに遅れて続く。
虎次郎の振り下ろす白刃と振りあげる矢文の木刀が、まっすぐ激突する。
鈍い衝撃音が刃と峰が重なった事を知らせ、次いで一条の矢が脇を掠める。
白刃が宙を舞い、円を描きながら落下しようとしている。
それに気づかず矢文は振りかぶった木刀をそのまま真直ぐに振り下ろす。
加藤仕込の重く、速い面。
それを虎次郎は上半身を逸らす事でかわすも、体勢は崩れていた。
それは既に勝負あった、と見なされる状態である。


祐衣の放った矢は雁股で、体勢の崩れ又気を矢文に向けていた虎次郎から
掛け軸を引っ掛けて木に縫いつけていた。
既にそれは汐耶が確保している。


亮一が黒炎丸を拘束し矢文が虎次郎を拘束しようとした時、
突如周囲が夜の闇よりも濃くなり、一陣のつむじ風が起り皆の視界を奪う。
それは既に夜となっている時間にはありえないつむじ風である。
それだけでそれが異常であることが感じられ、皆に緊張が走った。
風は起きた時と同様、唐突に止み
再び皆が顔を上げた時、そこには異形の者たちが虎次郎を守る様立っていた。

「な……、あの者達の面は虎次郎殿と同じ……、」

黒装束に月灯りに光る白木の般若の面。
何も云わず、殺気も感じさせず、ただ彼らはそこに在った。
剛毅な黒炎丸でさえも、その異様な姿に言葉もない。
自らと同じ機巧なのかと思うほど、感情らしき動きはひとつもなく
然しそれゆえに無駄な動きもない、それは正に鬼だった。

「……、凄い力持ちだね、僕も腕が鈍ったのかな、でもいい面だったよ、名前聞いてもいい?」
「……岐阜橋、矢文、」
「矢文さん、か。面は踏み込まないと素振りにしかならない、
 確かに振り下ろしは真直ぐでいいけどね、」

虎次郎の白い額から、一筋の赤い筋が流れる。
恐らく矢文の面は外れはしたものの、その剣圧がかまいたち現象により額を割いたのだろう。
加藤より面のみ重点的に指導された賜物か。

「掛け軸は御影の姫に一杯食わされてしまったけど、また別の機会に受け取るとしようかな。
 今夜はお迎えがきてしまったし、これで退くことにする。」
「虎次郎さん、その黒装束は……、」

そのまま黒装束らと共に去ろうとする様子に亮一が声をかける。
その声に、ふと思いついたように立ち止まりふり返る。

「ああ、彼らはね“鬼門衆”っていうんだ。貴方でも調べてもわからないと思うよ。」

虎次郎は白峰を真直ぐに見詰め、そして穏やかに微笑む。
それは出奔した弟とは思えない笑みで、
何がこの兄弟に、そして東昭舘に関っているのか結局謎に包まれたままだった。
再び背を向け、鬼門衆が印を結ぶ中
白峰はじっと弟を見つめていた。
亮一をはじめ、未だ拘束されたままの黒炎丸でさえ彼らがつむじ風となって消えるのを見守るしかなかった。





掛け軸は奪い返され、それは今、汐耶の腕にしっかりと抱えられている。
虎次郎を連れて帰る事は叶わなかったものの、小弥太は勝明に見守られ無事にいる。
戦わずの方向で臨んだ交渉に、思わぬ伏兵の登場で僅かな戦闘が行われたものの
これは僥倖なのではないか。


汐耶が乱れた髪を耳にかけなおしながら皆に帰りを促し、亮一が黒炎丸の戒めを解く。
不本意な処遇に不満を漏らすも、世の中には道場でなくても強き者がいると知り
新たな決意と共にその黒鎧姿は夜の闇に消えていった。
その後姿を溜息をつきながら見送る亮一の月灯りの陰から臥炎が現れる。
どうやら勝明は病院から東昭舘へ戻ってきたようだ。
祐衣は安堵の溜息をつき歩を進め、なんとか兄の名代を務めることが出来たと微かに喜ぶ。
矢文は樫の木刀をニ、三度振り、のそりとその後を追う。
最後に白峰が踏み出すも、先程虎次郎が消える際の言葉が脳裏に浮かぶ。


―― 兄さん、今僕は“紅葉(くれは)”のところにいるんだよ……






人の想いが今後どのように廻っていくのかは、また別の話しである。














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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【 0931 / 田沼・亮一 / 男性 / 24歳 / 探偵所所長 】
【 0932 / 篠原・勝明 / 男性 / 15歳 / 某私立中学3年 】
【 1449 / 綾和泉・汐耶 / 女性 / 23歳 / 都立図書館司書 】
【 1571 / 岐阜橋・矢文 / 男性 / 103歳 / 日雇労働者 】
【 3115 / 御影・祐衣 / 女性 / 16歳 / 学生 】
【 3300 / 楓希・黒炎丸 / 男性 / 1歳 / 武者型機械兵士 】



登場NPC:蒼眞・辰之助(東昭舘師範代・四天王)
       白峰・寅太郎(東昭舘門下生・四天王)
       朱鳳・小弥太(東昭舘門下生・四天王)
       由依・玄之丞(東昭舘門下生・四天王)

       白峰・虎次郎(元東昭舘門下生)



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■         ライター通信          ■
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再びお目にかかります、伊織です。
此の度は朧変にご参加頂き、真に有り難う御座いました。

このノベルは思いの他長編となってしまいました、WR自身激しく驚いているところです。
今回は参加された皆様ならどう動くだろうか、を主題として東昭舘で起きた事件を軸に展開しました。
頂いたプレイング以上に更に「らしく」動いて頂きましたが、如何でしょうか?
他の参加者の方々とも色々と関っており、個別に分ける事は不可能と判断、
この様な長編と相成りました……このライター通信に至るまでようやく辿り着いた事と思います。
お疲れ様でした。

今回のNGは「殺」でしたので、これは皆さん余裕を持ってクリアされました。
然し準NGにとうとう引っ掛ってしまった方がおりました、残念です。
それは「意味のない戦闘」です。
依頼のOP公開で「探索」と「奪還」が目的と銘打っておきましたので
皆さん戦闘回避の方向で穏便な奪還方法をとられてました。
無事な奪還を目指すのであればこれが正解です。
然し「場合によって戦闘」と表記もしましたが、これは奪還に伴う際の止むを得ない戦闘に限ります。
従って該当の参加者の方には不本意な「拘束」という結果となってしまいました。

さて話は多方面に渡り謎を残して終っています。
皆さんの動きによりこれが問題提起の章となりましたので、今後の展開に関ってきます。
話が神話世界にまで及びこの先どうなるかWRも見当がつきません。
然し、皆さんが今回東昭舘に対して示してくれましたご好意、
真に有り難う御座いました、彼らに成り代わりお礼申し上げます。

次回、またお目にかかれましたら宜しくお願い申し上げます。
此度はご参加、有り難う御座いました。




>田沼亮一様

こんにちわ、亮一様。
此度は朧編へようこそお越し下さいました。
まずはお疲れ様でした、と心より申し上げます。

今回は探索、推理が主でしたので亮一様にうってつけの舞台となりました。
頭脳派、然も探偵であることから必要不可欠の人材であり八面六臂の働きをみせて頂きました。
毎度人使いが荒くお詫びします。
然し不測の事態から戦闘、それも徒手にてお願いしてしまい申し訳ありません。
能力の使い方で応用してみましたが、否であればご連絡下さい。
又此れまで得られた情報は遠慮なくお使い下さい。
きっと有効に使用して頂けるものと信じております故。


改めて此度のご参加、有り難う御座いました。