■水底の夢■
織人文 |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
草間武彦は、夢を見ていた。
あたりは、日の光も届かないほど深い深い水の底だった。その水底に、誰かが捕らわれている。
捕らわれているのは、女だった。
長い髪は水の動きにつれてゆらめき、まるで海草のようだ。暗いせいで、顔ははっきり見えないが、目鼻立ちや輪郭から、若く美しい娘だろうと想像できる。
音立てて、女の口から泡が吐き出された。
それと共に言葉が届く。
「助けて……。私を、ここから出して……」
か細い声が、女の口から漏れた。見れば、女の腰から下は、太い頑丈そうな鎖によって縛められ、身動きすらできなくされている。
「その剣で、この鎖を切って……。私を、助けて……」
女はなおもか細い声で哀願する。だが、草間はただなすすべもなく、女を見詰めたままそこに立ち尽くしていた。
翌朝。草間はひどい頭痛と共に目覚めた。脳裏には、夢の内容が鮮明にこびりついており、それが彼の気分をよけいに沈ませた。
(くそ! あんな小説なんぞ、読むんじゃなかった)
思わず内心に悪態をつく。
彼は昨夜、遅くまでオンライン小説を読みふけっていたのだ。その小説を薦めたのは碇麗香で、なんでも作者は彼女の友人だという。ネット上で口コミでファンが広がっているファンタジー作品で、近く出版が決まっているらしい。出版されれば、その作品はネット上からは下ろされる。「タダで読むなら今のうちよ」などと言う麗香の言葉に背中を押され、昨夜読みに行った草間は、すっかりはまってしまい、かなりの長さのそれを一気に読みきってしまったのだ。
作品は、童話の『人魚姫』をモチーフにしたもので、人間に恋をした罰で深海に捕らわれの身となった人魚の娘を、一人の男が救い出し、そのために掛けられた呪いを二人で解くために旅をするという物語だった。
草間の夢に現れたのは、その物語の冒頭のシーンだ。
深い吐息をついて、草間はベッドを出た。だが、その日一日頭痛は去らず……そして彼は、その夜も、その翌日の夜もそのまた次の夜も、連日その夢を見て頭痛と共に目覚めることになった。
「いったい、何が言いたいんだ? 俺に、何をしてほしいんだ?」
とうとう草間は、それがただの夢ではないと感じて、その意味をさぐることを決意した。
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水底の夢
シュライン・エマは、深い溜息と共に読んでいた紙の束から顔を上げた。
時計の針はとっくに深夜の零時を過ぎ、日付の上では翌日に変わっている。彼女は、クリップで綴じた紙の束をデスクの上に置くと、コーヒーでも入れようと台所へ立った。
彼女が先程まで読みふけっていたのは、『人魚は海の底に眠る』と題されたオンライン小説だった。サイト上にあるテキストのダウンロード版を自分のパソコンに落とし、読み易いようにプリントアウトしたのが、あの紙の束だった。
作品は長編のファンタジーで、人間に恋をした罰で深海に捕らわれの身となっていた人魚の娘を人間の男が助け、そのためにかけられた呪いを解くために二人が旅をするというものだった。口コミで人気が広がり、近く出版される予定があるのだという。
もっとも、シュラインがそれをわざわざプリントアウトしてまで読んだのには、理由があった。
草間が、この作品を読んで以来、奇妙な夢と頭痛に悩まされているのだ。
彼が作品に触れたのは、『月刊アトラス』編集長の碇麗香に薦められたためだ。なんでも、作者のイクトと麗香は友人だという。
草間の話では、彼の見る夢は、この作品の冒頭部分――主人公の人魚リリシアを、旅の戦士であるウロボロスが助け出すシーンと酷似しているらしい。ただ、ウロボロスは手にした剣でリリシアを縛める鎖を解き放つが、夢の中の草間は、ただなすすべもなく助けを求める人魚を見詰めているだけだという。そして、目覚めた後には、頭痛が襲う。その頭痛には、どうやら市販の鎮痛剤も効かないらしい。ここしばらくは、眠ると夢を見るからと、なるべく眠らないようにしているとかで、睡眠不足も重なって、彼の姿は痛々しいほどだ。
そんな彼を前にして、シュラインが放っておけるはずもない。自力で夢の原因を突き止めると言い張る草間から、シュラインは無理矢理にその調査をもぎ取った。
だが、彼女の調査もまた、遅々として進まなかった。
まず、どうして草間にこの作品を薦めたのかについて、碇麗香に問い質そうとしたものの、彼女は不在だった。携帯電話どころか固定電話さえない不便な土地に長期出張中だという。
一方、作品の作者であるイクトなる人物も、現在は入院中でやはり連絡が取れないらしい。作品が掲載されている作者のサイトのトップに、そのような告知がしてあった。一応、そのサイトにあったアドレスにメールを送ってはみたものの、返事は期待できないだろうとシュライン自身考えていた。
入れたてのコーヒーのカップを手に部屋に戻ると彼女は、デスクの椅子に腰を降ろし、半分ほど中身を口にして、小さく吐息をついた。
作品自体はたしかに面白かった。だが、至って普通のファンタジー小説であり、なんらかの力を持っているようには思えなかった。
もっとも、彼女には少し気になっていることもあるにはあったのだが。
この作品の作者イクトのサイトである、『水底の夢』の感想専用掲示板の書き込みの中に、時おり、主人公リリシアの夢を見たというものがあったのだ。ネット上のことなので、確定はできないものの、書き込みの主は男性ばかりのようである。
リリシアが生身のアイドル歌手だったり、アニメキャラだったりするなら、それもあるかもしれないが、小説のキャラクターでそんなことがそう頻繁にあるものだろうかとシュラインは不審に思ったのだ。
ただ、彼らの書き込みの実態が草間と同じなのかどうかは、判然としない。彼と同じ症状の者がいるか否かについては、丹念に検索を繰り返してみたが、見つけることができなかった。もしどうしても必要ならば、この掲示板に「リリシアの夢を見た」と書き込んだ者たちに、逐一メールしてみるよりほかにないだろう。
とはいえシュラインは、もう一つの可能性をも視野に入れていた。
それは、このオンライン小説や夢は単なるきっかけにすぎず、草間の症状は彼が最近たずさわった依頼に関係する何かのせいなのかもしれないと。
コーヒーを飲み干して、彼女は小さく唇を噛みしめた。
「……ああ、なんだかじれったいわね。私もその夢に、一緒に行ければいいのに」
思わず呟く。それは、彼女の偽りのない本音だった。
翌日の午後。
外は相変わらずうだるような暑さで、草間興信所の事務所内ではエアコンがフル稼働していた。シュラインは、自分のデスクでたまった伝票の整理にいそしんでいる。零は買い物に出かけていて留守で、草間はソファに座したまま先程から小さく船を漕いでいた。
その草間の顔は見る影もなくやつれ、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。それは、ここ数日の不眠と頭痛、更には例年にない暑さのトリプルパンチによるものだった。
シュラインは、伝票を仕分ける手をふと止めて、そんな草間を見やり、小さく吐息をつく。
その時、事務所のドアが開いて来客があった。
訪れたのは、海原みなもだ。中学一年の彼女は、夏休み中なのだろう。青い髪をいつもどおり背に垂らし、青い水玉模様のワンピースとサンダルという姿で、手には小さな紙袋を下げていた。袋の中身は、彼女手作りの水まんじゅうだという。
「みなさんに食べていただこうと思って、持って来ました」
「ありがとう。零ちゃんは今出かけているんだけど……せっかくだから、おやつにしましょうか」
言って受け取り、シュラインは台所へと入って行く。
二人のその声に草間もうたた寝から覚めたようだ。その彼を見やって、みなもが小さく目を見張る。
「どうしたんですか? 草間さん、その顔……」
「ああ……。ここんとこ、ちょっと体調が悪くてな……」
あくびと共に答える草間に、みなもは小さく首をかしげた。
「まあ……。お医者さんには……? お仕事が忙しいからと、あんまり不摂生をされるのは、よくないです」
「それが、そういうわけじゃないのよ」
台所から戻って来たシュラインが、どう説明しようか困っているらしい草間に代わって答える。彼女の手には、人数分の水まんじゅうと湯呑みの乗った盆があった。彼女はそれをテーブルの上に並べ、みなもに席を勧めると、自分も草間の隣に腰を降ろす。
みなもも礼を言って、二人の向かいに座した。その目の前で、草間がさっそく水まんじゅうに手を伸ばす。
「うまい。なんか、気持ちがしゃっきりした気がするな」
「お口に合ったようで、うれしいです」
一口食べて感想を漏らす草間に、みなもは幾分照れたように言った。そして、改めて問う。
「ところで、不摂生のせいでないなら、体調が悪いってどういうことですか?」
「ああ……実は……」
草間は、水まんじゅうを口にしながら、簡単にここ数日の間に自分の身に起こった不可思議な出来事を語った。
事情を聞いてみなもは、大きく目を見張る。
「そんな小説があったんですか。あたしも読んでみたいです。そのサイト、教えていただけますか」
ずいぶんと興味を引かれたようで、そう矢継ぎ早に問い質す。
「プリントアウトしたものなら、ここにあるわよ」
シュラインは、苦笑しながら言った。作品に、草間の状況を改善するためのヒントがないかもう一度検討するために、仕事の合間に読もうと今朝バッグに入れて来たのだ。
「本当ですか? 読みたいです」
みなもは、聞くなり目を輝かせる。彼女がその作品に興味があるのは、自分自身が人魚の末裔であるせいかもしれなかった。
「いいわよ」
シュラインはうなずき、立ち上がるとデスクの傍に置いた自分のバッグの中からクリップで綴じた紙束を取り出すと、みなもに差し出した。彼女は礼を言って受け取り、それから少し考えて言った。
「その夢は、単純に考えれば、草間さんがその人魚さんに助けを求められた人間に同調しているように思えますけど。碇さんから、その作者さんを紹介していただいて、もっと詳しい事情なりを聞くことはできないんでしょうか」
彼女の言葉には、作品が事実に基づいて描かれているのではないかと言いたげな含みがあった。たしかに、こうして人魚の末裔なる存在が実在する以上、それはあり得ないことではない。だが、どちらにしろ作者と連絡が取れないことには、それも確かめようがなかった。
シュラインが麗香の不在と作者の入院を告げると、みなもは軽く目を見張った。
「……それでは、手立てがありませんね」
低く呟いた後、シュラインに断って、さっそくそのオンライン小説を彼女は読み始めた。
草間興信所の中を、静けさだけが支配していた。
草間は、水まんじゅうを食べ終わると、またソファでうたた寝を始めた。眠いのならいっそ、自分の部屋で眠ればいいのにと思いながら、シュラインは伝票整理の続きに戻る。あたりにはただ時計の音と、読書にふけるみなもが、時おり紙をめくる音だけが響いていた。
その静けさを破るように、新たな訪問者が訪れたのは、三十分ほどが経過した後だろうか。やって来たのは、御崎神楽だった。黒い目の小柄な少年である。黒い髪は、後ろに長く伸ばした部分だけが白い。年齢は十二歳とみなもより一つ下なだけだが、事情があっていまだ小学校一年生である。むろん、今は夏休み中だろう。
「やっほー武クン、何かお仕事……あれ?」
ドアを開け、何か言いかけた彼は、居眠りしている草間に口をつぐみ、首をかしげた。
「武クン、お昼寝?」
その声に、草間が再び目を覚ます。体を起こした瞬間、まるで痛みをこらえるかのように、軽く眉をしかめた。神楽の姿に、バイトを探して来たのだろうと察し、今は何もないと答える。
「そっかー、つまんないの」
本当につまらなさそうに呟いたものの、その目が輝いたのはテーブルの上にそのままになっていた空の器と湯呑みを見つけたせいだった。
「武クン、おやつ?」
問われて、草間は苦笑する。シュラインに、水まんじゅうがまだ残っていたら、出してやってくれと声をかける。シュラインも苦笑して立ち上がった。
みなもが持って来た水まんじゅうは、まだ幾つか残っていて冷蔵庫に入れてあったので、シュラインはそのうちの一つを器に入れ、お茶と共に事務所に持って行く。
それを目にして神楽は無邪気な歓声を上げ、シュラインがそれらをテーブルに置いたので、みなもの隣に腰を降ろした。それで初めてみなもは、彼の来訪に気づいたらしい。紙束から顔を上げ、驚いたように神楽を見やって、挨拶した。
二人は初対面だったが、神楽の方は遠慮する様子もない。挨拶を返して名乗り、彼女の手元を覗き込む。
「何読んでるのー?」
「『人魚は海の底で眠る』っていうタイトルのオンライン小説です」
のんびりした口調で問われて、みなもが答えた。と、神楽はしばし考え込んでから言った。
「かークンも、そのお話読んだよー。なんだかちょっと、悲しくなっちゃうよね」
途端に草間、シュライン、みなもの三人は色めき立った。
「これを読んだって、本当か?」
「それで? あんたは夢を見なかった?」
「もし見たのなら、内容を詳しく聞かせていただけませんか?」
三人にそれぞれ詰め寄られ、神楽は目をパチクリさせる。
「んーとね、見なかったよー。かークン、夢も見ないでぐっすり眠るいい子だからー」
のんびりほえほえとした答えに、今度は三人が三様に落胆した。神楽は、また目をパチクリする。
「どうしたのー?」
尋ねられて、草間が落胆しつつも事情を話した。
聞きながら何か考えていたらしい神楽は、草間が口をつぐむと言った。
「あのねーその女の人、やっぱり武クンに助けてほしいんじゃないかなー。かークンも助けに行く! あ、でも、どこに行けばいいんだろ?」
半分は自問自答しつつ、じっと草間を首をかしげて見やっていた彼は、どうやら勝手に回答を引き出したらしい。
「武クンの中に入ればいいのかなー」
などと言いつつ立ち上がると、草間の傍に歩み寄った。そして、とまどう草間の額をわしづかみにして、目を閉じる。
「おい、やめろ! 神楽!」
草間は、その手から逃れようと思わずもがく。神楽はこう見えても、強大な超能力の持ち主なのだ。一般的に超能力として知られる能力のほとんどを使うことができる。そんな彼が今しようとしているのは、精神感応力を応用して草間の精神世界へ潜る方法だった。
もがいていた草間の体が一瞬硬直し、ややあって神楽が目を開ける。少しだけ呆けた顔をしている草間を見やって、彼は言った。
「あのね、ひょっとして女の人を助けたのって、武クンじゃないの? だって、なんだかおんなじかっこうしてるよ」
彼の言葉に、二人のやりとりを見守っていた、シュラインとみなもは思わず顔を見合わせた。
「それは、どういうことですか? 神楽さんは、草間さんと作中の戦士ウロボロスが同一人物だと言われるんですか?」
「うん、そう!」
みなもの問いに、神楽は大きくうなずく。
「これ書いた人に会いに行こうよー。そうして、女の人を助けるんだ!」
おっとりした口調ながら、真剣な顔つきで提案する彼に、シュラインは少しだけ頭痛を覚えた。
(まさか……オンライン小説の中へ……? 冗談、よね?)
胸に呟く彼女の傍で、みなもと草間も大きな溜息をついている。
不思議そうな顔をしているのは、神楽だけだ。
「あれ? どうしたの?」
尋ねる彼に、草間が小さく咳払いした後、作者とも麗香とも連絡がつかないことを告げた。が、神楽はへこたれるふうでもない。
「でもー、この女の人のとこになら、かークン、きっと行けるよー」
などとのたまう。たしかに、超能力で電子機器の内部やネット空間に入り込むこと自体は可能だった。だが、「オンライン小説の中」に入り込むことは誰にもできない。ネット上にある「オンライン小説のデータ」をいじることは可能だが、たとえ超能力でではあっても、それは違法行為だった。それに、物語上では捕らわれの人魚リリシアは、戦士ウロボロスに救い出されているのだ。助けに行くも何もない。
草間がそれらに言及すると、神楽は軽く天井をふり仰ぎながら、うーんと唸る。草間の言葉は、彼にとっては難しいものだったようだ。
そんな二人のやりとりを、半ば呆れつつ見やっていたシュラインは、ふと脳裏に閃くものを感じて口を開いた。
「ねぇ、神楽くんはさっき、武彦さんの精神世界へ潜って夢を見て来たのよね? だったら、私やみなもちゃんを一緒に連れて行くことはできないかしら」
「どういうことですか?」
みなもが、小さく目をしばたたかせて尋ねる。
「今のままじゃ、手詰まりだわ。麗香さんとも作者とも、いつ連絡が取れるかわからない。それなら、私たちが武彦さんの夢の中へ行って、何か行動を起こしてみる方がいいんじゃないかしら」
シュラインは言った。夢が何を訴えたがっているにしろ、今の草間のやつれた姿が、その夢のせいであるのは間違いない。夢の中に一緒に自分も行ければ……と考えていた彼女にとっては、もしも神楽の能力でそれができるならば、願ったりである。実際にその夢を共有すれば、それから草間を解放するすべも見つけられるかもしれないのだ。
「おい、シュライン!」
草間が、冗談じゃないと言いたげな声を上げる。
「武彦さんだって、いつまでもこれじゃ、体が持たないでしょ」
ぴしりと言ってその抗議をはねつけると、シュラインは改めて神楽と向き合った。
「それで、どうなの?」
「うーん。やったことないけどー、できるかもしれないから、やってみるー」
返って来たのは、そんなどこか頼りない返事だった。少しだけ不安になったものの、シュラインは大丈夫だと自分自身に言い聞かせ、うなずく。
「なら、お願い」
「……試してみる以外に、ありませんよね」
傍でみなもも、どこか諦めたように同意する。そして彼女は、あと少しで借りた作品を読み終わるので、その後でもかまわないかと尋ねる。
全員が話の内容をちゃんと把握している方がいいだろうと考え、シュラインはそれへうなずいた。
そして。
シュライン、みなも、神楽の三人は今、草間の夢の中にいた。といってもむろん、精神だけの話だ。
彼女たちの肉体は、草間の事務所のソファの傍に手をつないで倒れている。そして、ソファの上には横になって眠っている草間がいた。
それは、知らない者が見れば、ずいぶんと驚くだろう図だったので、ドアには鍵をかけ、電話も留守電に切り替えてから決行した。
ともあれ。
周囲は、草間が言っていたとおり、深い水の底のようだった。その中に、腰から下を鎖で縛められた女がいた。もっとも、その下半身は闇の中に沈んでいて、長い髪に隠された顔同様、どうなっているのかがはっきりとはわからない。草間はその正面に、片手に剣を握って立っていた。たしかに神楽の言うとおり、草間は作中の戦士ウロボロスと同じ蛇の鱗のように見える銀の鎖帷子をまとい、額には銀のサークレットをはめていた。
シュラインたち三人は、その二人を囲むようにして水の中に立っている。他人の精神世界であっても、水の中だからだろうか。みなもは、人魚の姿になっていた。
一方、草間にも彼女たちの姿が見えているのか、一瞬驚いた顔をして、三人にそれぞれ視線を走らせた。
それに気づいてシュラインは、神楽に問う。
「武彦さんに、声をかけても大丈夫かしら」
「大丈夫だよー。かークン、こうやって誰かの中に入った時ねー、そこにいる人とよく話すよー」
神楽が相変わらずのんびりした声音で請合った。
「そう、なら……」
「どうするんですか?」
うなずくシュラインに、みなもが訊く。
「あの鎖を切るように言ってみようと思って。案外、あの人の願いってそういう簡単なことかもしれないじゃない?」
「そうですね。私も、それは試してみても悪くないんじゃないかと思っていました」
シュラインの言葉に、みなももうなずいた。
それへうなずき返して、シュラインは草間に声をかける。
「武彦さん、その鎖を切ってみて。もしそれがその人の望みなら、それで夢は終わるかもしれないわ」
「わかった、やってみる」
どうやら、彼女の言葉はちゃんと草間に伝わったようで、彼はうなずくと手にしていた剣を握り直した。そうして、気合と共に女を縛めている鎖の一番手前にあるものを断ち切った。
その途端、水の中だというのに軽い音が響いて、鎖は驚くほどあっけなく断ち切れた。一ヶ所が切れると、鎖は女の体からはずれ、粉々に砕けて水の底に落ちて消えて行った。
「ありがとう……」
女の口から、囁くように感謝の言葉が泡と共に吐き出され、その全身がやわらかな光に包まれる。
それを見やってシュラインは、これで夢も終わるのだと安堵に胸を撫で降ろした。みなもや神楽も、そして草間自身もそう思ったのだろう。彼らの顔にも安堵の笑みが浮かぶ。
だが。
光の中で初めて明らかになった女の全容に、彼女たちは驚愕の目を見張った。
闇に沈んでいた女の下半身は、魚ではなかった。同じように鱗に包まれてはいるものの、水中に長々と尾を引く蛇身である。そして、長い髪の陰になってはっきり見えなかった顔は――これまた、人間のものではなかった。眦はきつく切れて吊りあがり、唇もまた、頬まで切れてそこから鋭い牙が覗いている。
女は、本物の蛇そのままに口を開いて素早い動きで、草間に襲いかかった。
「武彦さん!」
一瞬息を飲んだシュラインが、鋭い叫びを上げる。それとほぼ同時に、みなもが動いていた。周囲の水を操って、草間と女との間に、水の壁を作り上げる。女の体はそれに弾かれ、わずかに後方へ跳ね飛ばされた。女はまさか、自分の攻撃が阻まれるとは思わなかったのだろう。獣のような怒りの声を上げる。それは、周囲に満ちた水をびりびりと震わせた。
女はそのまま再度草間に襲いかかろうとするが、変わらずみなもの作った水の壁が、二人の間を阻んでいる。
それを確認し、シュラインは草間の方へと目をやった。彼の手からは、いつの間にか先程の剣は消えている。オンライン小説では、戦士ウロボロスの持っていた剣は、魔力を持っており、その能力でもって人魚の縛めを力まかせに解いたことになっていた。だが、草間が手にしていた剣は、この女を自由にするためだけのものだったようだ。
(とにかく、この女をどうにかして元どおり縛めてしまわないと。……でないと、武彦さんが、ううん、私たちみんなが危ないかも)
シュラインは胸の中で呟き、さっきからひたすら「すごーい」「かっこいー」などと、どうもピントのずれた歓声を上げながら、静観を決め込んでいる神楽をふり返る。
「神楽くん、あんたの力で、切った鎖を元に戻せない?」
「んー。わかんないけどー、やってみるー」
相変わらず場違いなほどのんびりした口調で答えて、神楽はふっと黒い瞳を女の方へ向けた。と、暗い水の底に粉々になって沈んで行ったはずの鎖のかけらたちが、ゆっくりと浮上し、そして、まるでビデオの巻き戻しを見るかのように、静かに元の形を取り戻し始めた。
やがて、それらの鎖は元どおりに、女の体に巻きつき、その下半身を縛め、動けなくする。女は、必死にそれから逃れようともがき、暴れたが無駄だった。
「凄いですね」
みなもが、もう大丈夫と水で作っていた壁を解除し、感嘆の声を漏らす。
「ええ」
シュラインも、まさかここまで鮮やかな手並みを見せられるとは思っていなかったので、彼女の言葉にうなずく。
二人から称賛を浴びせられて、神楽は照れたように笑った。
その時だ。ふいに彼女たちの頭上に、何か細長い光輝くものが降って来た。よく見れば、それは、水晶細工のようにも見える細身の美しい長剣だった。
『勇気ある者たちよ。その剣を使え。それはただ一つ、その水妖を滅することのできる剣なれば』
驚いてそれを見やる彼女たちの上に、どこか厳かな響きのある男の声が、そう告げた。シュラインたちは、思いがけない展開に顔を見合わせたが、女は吊り上がった目を恐怖に見張り、体を強張らせている。
「武彦さん!」
それに気づいて、シュラインが叫んだ。
「ああ」
草間はうなずいて、ゆるやかに落ちて来る剣を受け止め、構えた。いつもはハードボイルドを気取っている彼だが、今はファンタジー系アニメの主人公とも見えなくもない。
草間のその姿に、女は更に大きく目を見張る。と、彼らの目の前で、女の顔は悪鬼のごときそれから、美しく清らかな乙女のものへと変貌した。青く澄んだ瞳に、真珠の涙を浮べて、命乞いをする。
「やめて……。助けて……」
か細く弱々しげな声に、そちらへ切りつけようとしていた草間の動きが止まった。
シュラインの眉間に、わずかにしわが刻まれる。
(……魔物だってわかっていて、どうしてそこでためらうわけ?)
胸にぼやいた傍から、神楽がのんびりと声をかけた。
「武クン、だまされちゃだめだよー。そいつのホントの姿は、さっきのだからねー」
「わ、わかってる」
草間は、一瞬の動揺を押し殺すようにうなずき、剣を握り直すと、女に向かって行った。半ば体当たりするように、剣の切っ先を女の胸元へと突き刺す。
途端、あたりを震わせて女の絶叫が響き、同時にあたりは女の体から炸裂した光に包まれ、何も見えなくなった。
気づいた時には、シュラインたちは、草間の事務所のソファに寄りかかるようにして倒れていた。シュラインとみなも、神楽の三人が互いに顔を見合わせ、無事を確認し合う中、草間もソファから起き上がった。
目覚めた彼は、ここ数日来という晴れ晴れとした顔つきで、まるで憑きものが落ちたかのようだった。いや、本当にそうだったのかもしれない。ちなみに、神楽によれば女は消えたから大丈夫とのことだった。
その数日後。
シュラインたち三人と草間は、出張から帰って事の顛末を知った碇麗香の仲介で、例のオンライン小説の作者イクトに会うことになった。
白王社近くの喫茶店で会ったイクトは、ごく普通の大学生だった。こちらも、数日前に病状が良くなり退院したのだという。
彼は、四人を前にすると、開口一番詫びた。やはり麗香が草間に、彼の小説を勧めたのには訳があったのだ。
彼は現在大学の三年だが、一年の時、大学の図書館で見つけた本に載っていた水妖に取り憑かれていたのだという。もっとも、彼自身は「取り憑かれている」とは思わなかったらしい。水妖は彼の夢に現れては、予言めいたことを告げるのを常としていた。が、その夢には実際に助けられたこともあるし、彼にしてみれば「ラッキー」ぐらいの気持ちでしかなかったのだ。件のオンライン小説を書き始めたのは二年の時だが、それもヒントを与えてくれたのは、水妖だった。
ところが、今年に入って彼は急に体調を崩し、床に就くことが多くなった。それでも、どうにか学校にも通い、オンライン小説の方も完成させたのだという。
完成した直後から、作品の人気は上昇し始め、やがて出版の話がやって来た。これもあの夢の女のおかげかと喜んでいた矢先、彼は大学で倒れて救急車で運ばれ、そのまま入院ということになってしまった。サイトのトップへの告知は、その時付き添ってくれた友人に頼んだものだったが、そのおり、その友人は気になることを言ったのだ。
「おまえ、何かに取り憑かれているんじゃないか」
と。
それで初めて水妖のことを怪しみ始めた彼は、見舞いに来てくれた碇麗香に、一年の時からの経緯を話した。
話を聞いた麗香は、何か心当たりがあるようで「自分に任せておけ」と胸を叩いたのだったが……それがどうやら、草間のことだったというわけだ。
「……退院してから、麗香さんに連絡を取って、初めて草間さんたちのことを知って……本当に、驚きました。ご迷惑をかけてすみませんでした。そして、ありがとうございました。たぶん、ぼくが退院できたのも、草間さんたちのおかげです」
再度頭を下げるイクトに、草間が小さく溜息をついて言った。
「まあ、いいさ。……とりあえず、俺もこうして元気でここにいられるんだしな。しかし、おまえが退院できたのが、俺たちのおかげってのは、どういうことだ?」
「……ぼくの病気も、彼女のせいだったんじゃないかと思うんです。入院している間、ずっと高熱が続いていたんですけれど、医者は原因がわからないって言うんです。そして、その間ぼくは、ずっと夢を見ていました。鎖に縛められながらも、ぼくにしがみついて、ぼくの血を啜り続ける彼女の夢を……」
イクトは、幾分青ざめた顔で、そう言った。更に彼が言うには、友人たちの中には、彼の首に女がしがみついているのを見た者がおり、例の取り憑かれているのではないかと告げた友人も、そんな中の一人だったという。また、オンライン小説の読者からのメールにも、時おり、主人公の夢を見てうなされたという主旨のものがあったという。
結局のところ、水妖はイクトが見つけた本の中に誰かによって封印されていたのだろう。それが、封印が弱まったのをいいことに、彼に取り憑き力を蓄え、更にオンライン小説という形で自分の元に彼以外の人間を引き寄せる道を作り……そして、その中で自分の封印を完全に解くことができる人間を探していたということなのではないか。シュラインは、彼の話を聞きながら、そんなふうに思った。
やがてイクトが再度彼らに謝罪して立ち去ると、草間たち四人はなんとなく顔を見合わせた。
「武彦さんも、災難だったわね」
シュラインが、溜息と共に言う。
「ああ。麗香には、いずれこの貸しは返してもらわないとな」
電話の向こうで、出張の期日が迫っていてつい……などと言い訳していた麗香の声を思い出したのか、草間はむっつりとうなずいた。
それへうなずき、シュラインはふと思い出す。
「そういえば、あの時、剣をくれたのは誰だったのかしら。私は作者の彼だったのかもって思ってたんだけど」
「んー、違うよー。あれねー、神様」
クリームソーダを飲むことに集中していた神楽が、ふいに屈託なく言った。
「へ?」
「神楽くん、冗談は……」
草間が思わず目を点にして頓狂な声を上げ、シュラインも引きつった笑顔で「冗談はやめて」と言いかける。が、それを遮ったのは、真剣な目をしたみなもだった。
「いえ、冗談じゃないと思います。あたしもあの時、神の気配を感じました。あれはたぶん、海の神様です」
彼女の言葉に、シュラインは草間と顔を見合わせる。
「……俺、本物の勇者になった気分だな……」
ややあって、引きつった笑顔を見せて草間が呟く。
「武クン、勇者ー。すごーい」
クリームソーダのグラスを空にした神楽が一人、はしゃいだ声を上げて小さく拍手した。
彼ののんきな発言に、シュラインは思わず天井をふり仰ぎ、小さく溜息を漏らす。もっとも、こんなことを言って笑っていられるぐらいでよかったとは、思うのだが。
彼女は視線を戻して、隣に座す草間を改めて見やる。あれ以来、それこそ夢も見ないで眠れるようになったらしく、むろん頭痛もないようだ。顔色もすっかり元に戻り、目の下の隈も消えていた。
「なんだ?」
当の草間に怪訝そうに問われて、彼女は慌ててかぶりをふった。
「ううん、なんでもない」
言って、目の前の中身の少なくなったアイスティーのグラスをストローでかき混ぜる。そうしながら、彼女は心底から安堵して胸に呟いた。
(ともかく、武彦さんが夢と頭痛から解放されてよかった)
そうして、少し水っぽくなったアイスティーの残りを、ゆっくりと飲み干した――。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/ シュライン・エマ/ 女性/ 26歳/ 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252/ 海原みなも(うなばら・みなも)/ 女性/ 13歳/ 中学生】
【2036/ 御崎神楽(みさき・かぐら)/ 男性/ 12歳/ 小学生】
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■ ライター通信 ■
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ライターの織人文です。
私のシナリオに参加いただき、ありがとうございます。
●シュライン・エマさま
いつも参加いただき、ありがとうございます。
毎回、いくつもの可能性を秘めたプレイングをいただいて、
私自身も楽しませていただいています。
今回は、草間の夢に入っていただきましたが、いかがだったでしょうか。
またの参加をお待ちしています。
●海原みなもさま
いつもご参加いただき、ありがとうございます。
今回は、草間の夢の中へ行っていただきましたが、いかがだったでしょうか。
また機会がありましたら、よろしくお願いします。
●御崎神楽さま
はじめまして。ご参加ありがとうございます。
神楽さまのようなキャラクターは、自分では書くことがありませんので、
難しいながらも楽しく書かせていただきました。
今回は、いかがだったでしょうか。
少しでも、楽しんでいただけていればいいのですが。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いします。
以上、私も楽しく書かせていただきました。
参加いただいたみなさんが、少しでもこの作品で楽しんでいただけますように。
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