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■ツキノヤグラ■

ザイ
【3950】【幾島・壮司】【浪人生兼観定屋】
「ツキノヤグラ、って知ってます?」
 唐突な問いかけにそちらを向けば、この店の店主である狐洞キトラが中途半端な笑みを浮かべている。
 訝しげに見えない目を探ろうとしてみれば、キトラはにへりと気の抜けた笑みを更に深くして、吸い込んだ紫煙を吐き出した。
「いえね、実は…今日みたいな満月の晩に…ってもまあ特別な日なんですけどね、ツキノヤグラ、って云われる現象が起きる事があるんです」
 キトラに云わせれば、それは少々不思議な──そう、結界のようなものの事であるらしい。
 外側から見ていれば、非常に美しい長方形の柱が、延々と空へ向けて伸びる──そういった情景であるらしいのだが、内側に入ってしまうと、その人間の精神の、最も脆弱な部分に、月光のような密やかながら確りとした光が差し込むのだと云う。
「要するに、精神の崩壊を計るような…ヤなお月サンの光って事ですよ」
 にこにことしたキトラに曖昧な相槌を打てば、彼は待っていたとばかりに表情を輝かせた。
「…今日の晩が、そのツキノヤグラの出現する日みたいなんですけど…どうでしょ、お月見しませんか?」
ツキノヤグラ

「ツキノヤグラ、って知ってます?」
 唐突な問いかけにそちらを向けば、この店の店主である狐洞キトラが中途半端な笑みを浮かべている。
 訝しげに見えない目を探ろうとしてみれば、キトラはにへりと気の抜けた笑みを更に深くして、吸い込んだ紫煙を吐き出した。
「いえね、実は…今日みたいな満月の晩に…ってもまあ特別な日なんですけどね、ツキノヤグラ、って云われる現象が起きる事があるんです」
 キトラに云わせれば、それは少々不思議な──そう、結界のようなものの事であるらしい。
 外側から見ていれば、非常に美しい長方形の柱が、延々と空へ向けて伸びる──そういった情景であるらしいのだが、内側に入ってしまうと、その人間の精神の、最も脆弱な部分に、月光のような密やかながら確りとした光が差し込むのだと云う。
「要するに、精神の崩壊を計るような…ヤなお月サンの光って事ですよ」
 にこにことしたキトラに曖昧な相槌を打てば、彼は待っていたとばかりに表情を輝かせた。
「…今日の晩が、そのツキノヤグラの出現する日みたいなんですけど…どうでしょ、お月見しませんか?」

 恐らく断ったとしても誘い続けるだろうキトラの表情を見、幾島壮司は表情を微かに強ばらせた。
 幾度か、この『わたくし屋』へと足を運んで、店主であるキトラとも顔なじみとなった壮司ではあるが、月見を共に楽しむ程に仲の良いという事でもない──と思っている。しかし目の前で破顔してこちらの返答を伺っている男の顔を見て、無下に断れる程、壮司は冷たい人間ではないのである。
「……まあ、誘われて断るのもなんだからな…」
「わあ、お仲間ゲットですね?」
 張り切るキトラに対してサングラス越しに苦笑を返すと、壮司はふと思い出したかのようにカウンター脇で構えるコンドル──黄涙を見遣った。
「黄涙も…赤猫も行くか? ん?」
 黄涙は壮司を一瞥するとキトラの様子を見、それから応と言うかのように低く鳴いた。足下の赤猫は赤猫で、壮司を見合げてにゃあと鳴き声を上げる。以前キトラから教えてもらったように、黄涙の頭を撫でた壮司はうきうきと準備に取りかかっているらしいキトラに声をかけた。
 今は夕刻。ツキノヤグラが出現するのはどうやら夜半なようだから、その時間帯になったらまた店を訪れる──。その内容を簡潔に告げた壮司は、日本酒の何本か程度は持って行くか、と一旦の間として店の扉を潜った。


 二十三時。
 そろそろですね、と、手持ちの懐中時計を見遣り呟いたキトラは、今はまだ普通の状態に浮かぶ満月を見上げた。冷えた日本酒はまだ開けていない。
「やー…こりゃ、普通のお月見でも十分に楽しめますねえ」
「…でも確かに、妙な気配がしてますよ」
 倣うように夜空を見上げた壮司が、サングラスをずらしたその左目──『神の左目』を月に向け乍ら言った。金色の視線が、空に浮かぶ同じような金色を射る。
 ちりちりと左目を焼くような感触──を感じた次に。
「今日は危ないですから、じっと視てるのは止した方がいいですヨ」
 横から差し出された手のひらが視界を覆っていた。
 危ないから? そう問い返すと、力の強いものが『まだ目覚めていないもの』を共振させてしまう場合がありますから。キトラはそう言って欠伸をした。まるで緊張感の無い忠告に、本当かどうかを怪しむ壮司ではあるが、微かな痛みを感じたのは事実であるから、強ち嘘ではないのかもしれない。
 ところで、とキトラが言った。
「壮司サン、夜なのにサングラス付けてて不便じゃありません?」
「もう馴れましたかね…この二年間は、眠る時は別として、ずっとですから」
 十九の時の苦い記憶は、壮司の脳裏に確りと刻まれている。興味本位──と云ってしまえば言葉は悪い、だがそれに近い感覚を持ってして延ばした指先。『何か』を祀ってあった祠と、鈍く痺れた身体。──気付いた時には身体と融合を起こしていた『左目』。
 後悔した事も幾度かあった。だが今はそれよりも『右目』を探す事が──。
 そこまで考えて息を吐いた壮司は、ふと口元に苦笑のようなものを浮かべてサングラスを掛け直す。黒を挟んで見上げる月は相変わらず黄金色を宿していた。
「しかし…ここまで満月も満月だと、浮かんでいる、というよりも空の穴みたいに見えますね」
「──穴、ですか?」
「見えません? 宇宙のド真ん中にぽっかり開いてる穴」
 へらへらとした纏まりの無い笑いを零し乍ら云うキトラは、開けた日本酒を準備していた猪口に注いで壮司へと渡した。
「十四代『龍月』、七垂二十貫、純米大吟醸愛山──結構旨いんですよ、これ」
 別に月桂冠でもよかったんですけど──それでも十分に高値の酒の名を並べる男をまじまじと見て、壮司は猪口を小さく上げた。キトラもそれに倣う。
 甘味の強い痺れが舌先に広がり、喉に熱を残して落ちてゆく。
 あまり多く酒を飲まない壮司ではあっても、その旨さには素直に唸るところがあった。
 が。
 ──飲み過ぎないようにせんとなあ…。
 壮司は月を見上げ乍ら思う。
 弱い、という程アルコールに弱いわけでもないが、多くを呑んだ翌日には記憶が飛んでしまう事もしばしばである。──実のところはしばしばという猶予の無い程頻繁に記憶は飛んでいるのだが、人間の記憶というものは如何せん都合のいいものであって、壮司は自分の事を酒乱であるとは認めない。
 勧められるままに猪口を傾ける。
 そして。
「気配が…変わった?」
 そう、壮司が告げた直後だった。
 キン──。そんな音がしたかどうかは定かではないが、比喩するのならば氷が張った湖を──刃がなぞるような。
 そんな感覚のような、音のようなものが壮司の脳裏に直接響いた。
 瞬間。
 膨大な光の渦が弾けるように、空き地に凄まじい風が吹き荒れた。壮司は瞬間的に、上から吹き下ろすそれに思わず視界を腕で守る。金木犀の香り。
 断続する高い音波のようなものが、壮司の鼓膜をぱりぱりと震わせた。視界を守った筈にも拘らず、あまりの強い光に頭がぼやけてしまったかのような感覚。やがて途切れた音と共に、横からキトラが大丈夫ですよと声を掛ける。
「ツキノヤグラに当てられンのはあの子だけですから」
 指を指されて見上げた先に、唖然としたのは云うまでもないだろう。
 赤の毛並みは──健在、とでも表そうか。
 月光、そしてツキノヤグラと称される、光の櫓──その周囲を、赤色の髪と翼を持った人間の形が優雅に舞っていた。黄涙がそれを見上げてかすかに鳴いた。
「だ、誰…」
「赤猫ですよ?」
「え…!?」
 思わず上ずる壮司の言葉に、キトラは気の抜けた笑みを返す。やだなあこの前悪魔サンですよって説明したじゃないですか──。云われてみれば確かにそういう気もするが、まさか目の前で変化するところを見る事になるとは思わなかった。身体が驚いたのだろう、いつの間にか立っていた壮司は、服の裾を引かれて渋々座った。
「……で、これがツキノヤグラ、ですか。……解析はとにかく、中には入らない方がいいかもな…」
 日本酒を啜り乍ら云う。後半は既に独り言である。耳聡く聞いていたらしいキトラもそれには同意を示した。
「自分の嫌な部分、何もこんな綺麗なモンの中で見る必要はないでしょうからねえ…」
「…狐洞さんにもあるんですか、自分の嫌な部分なんて」
 苦笑したが、軽口を叩く事も無くこちらを見ないこの男の姿を初めて見た。──壮司は些か驚きつつも、何も抱えずに生きる人間等居ないのだと思い直す。
 猪口に残っていた日本酒を、一気に飲み下した壮司はキトラに告げる。
「もう一杯頂けますか」
 月光。
 艶やかな程に夜闇を照らすそれは、やはり普段のそれとは程遠く神秘の色を宿している。確かに月から地へと繋がっている『櫓』。ふと、壮司の中に思い出のような御伽話が過った。
 口に出そうかどうか迷ったが、──酒の所為かもしれない。普段よりも饒舌になった口元は、考えるよりも先にぽろりとその単語を漏らした。
「…かぐや姫は、このヤグラで帰った──ってのもありでしょうね」
「はあん…かぐや姫…ですか。成る程、確かにアリ…ですね」
 少々長い沈黙の後にくっくと喉の奥で笑ったキトラを訝し気に見遣る。ああすいません、少しも悪びれる様子もなくそう云ったキトラは、暫くを置いて、酷く楽しそうに壮司に尋ねた。
「…『竹取物語』──かぐや姫、仰る通り最後は月に帰りますよね? どうして地球に訪れていたか、ご存知で?」
「……理由なんてあるんですか?」
 壮司は粗筋を思い出そうとして月を見上げた。
 竹取物語──平安に名の無い者によって綴られた、日本最古の物語。
 竹取の翁がある日に光る竹を見つけ、その中から小さな女性が現れる。その女性は僅か三ヶ月の間に普通の女性と同じ背に並び、それよりも遥かに美しくなり──その噂を聞きつけた、五人の男性と帝から求婚を受けた。しかしかぐや姫は、その人間達に無理難題を押し付けて求婚を全て躱し、やがては迎えに来た天上の者達に連れられて、翁の呼び声も空しく、月に帰って行く──。
「…って、俺は記憶してますけど……地球を訪れた、理由…?」
 そんなものが物語の中で語られていた覚えは無い。
 壮司は眉を寄せる。
「ええ。あるんですよコレが。そもそもかぐや姫は、自らが犯した罪により、地球に流された──言わば謹慎中の身だったんですよ」
「き…謹慎中…? 『姫』が…ですか?」
「でもほら、『姫』っても、要するに翁が名付けたわけですからねえ…。まあ、天上での身分も高かったのだとは思いますよ。お迎えが来た訳ですから。──で、ですね、その犯した罪、ってのが……」
 そうして告げられたキトラの言葉に、壮司は赤猫の姿を認めた時よりも遥かに耳を疑う事になった。
「……すいません、俺、今何か聞き違えて」
「聞き違いじゃないですよん。かぐや姫の犯したタブ−は、すなわち妻子のある男と関係を結んだ罪」
 要するに、『不倫』ですね。
 キトラは事も無げに言葉を放った。
 少なくとも今まで、壮司の中に有ったかぐや姫の印象というものは清純な女性像だった。仄かな光と共に現れて、そうして月光の中を去ってゆく──いかにも美しい情景ではないか。
 それが──。
「…不倫……」
 思わず壮司は項垂れた。黄涙がその姿を呆れたように眺めている。
 キトラは相変わらずツキノヤグラを見上げ乍ら楽しそうに酒を喉へと通した。
「男性からの求婚を断ったのも、まあアレですね。地球でも『そっちの意味』で謹慎してた、って云う」
 止めを刺さなくても良いだろうに。
 続けられたキトラの言葉は、アルコールで判断能力が低下している壮司には随分と辛い。
「狐洞さん、すいません、もう一杯──」
「ん? 良い呑みっぷりですねえ。どうぞどうぞ」
 そうしてたぷたぷと告がれた酒。
 一気に煽った壮司の目が据わり始め、やがて時を追うごとに饒舌になっていく青年の変化に、酒を勧めた店主が後悔するのは恐らく遅くはなかった。
 そして、後日。
 ツキノヤグラを見た筈の月見の日に、飛んだ記憶の合間。そこで一体何が起こったのかを尋ねるべく『わたくし屋』を訪れた壮司に、妙にびくついた赤猫と黄涙、そして引きつる笑顔で接客を行っていたキトラを見た──という人間が居たかどうかは、また別の話である。


 了


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【登場人物】
 - PC // 3950 // 幾島・壮司 // 男性 // 21歳 // 浪人生兼観定屋 //...
 - NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...
 - NPC // 黄涙 // 霊鳥 //...
 - NPC // 赤猫 // 悪魔 //...