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■Battle It Out!■

雨宮玲
【1094】【天音・神】【ピアニスト】
 どうしようもなく暇を持て余してるっていうなら、とりあえず東京某所の某ジャズバーへ行くと良い。
 バーと銘打っておきながらアルコールの需要はぱっとせず、紅茶と甘味の売れ行きだけが妙に良い。もちろん味は保証つきだ。
 ジャズをお望みなら、気持ち程度の小銭と音楽への愛があればオーケー。月に2,3のアマチュアミニライヴが開かれている。
 それから――これを忘れずに言っておかないとな。
 望むと望まざるとに関わらず、「あそこ」では様々なハプニングが目白押しだ。飽きはしないだろうが、落ち着いて酒と音楽を楽しませてもらえるかというと、ちょっと微妙かもしれんな。とにかく退屈を吹っ飛ばしてくれるのは請け合いってこと。
 なんせあそこにたむろしている連中ときたら――
 え、バーがどこにあるかって?
 道なりに真っ直ぐだ、『村井ビル』っていう冴えない建物の二階にある。予備校の看板を目印にして歩けばすぐ見つかるだろ。
 一応忠告しておくが、あー、あんまり大事なものは持っていかないほうがいいと思うぞ。失くしたら困るだろ。例えば命とか身体とか。……置いていけないもんばっかりだな。
 ま、健闘を祈る。
Battle It Out! -No Desafinado-


    01 prologue

 魚が水なしでは生きられないように、彼は音楽なしでは生きられない。
 彼の周りにはいつも様々な音が存在している。
 指先でつかめそうなものもあれば、触れたらあっという間に霧散してしまいそうなものもある。
 時にそれらは、彼の心の奥底に眠っている旋律であったり、今は亡き作曲家が譜面に加えた小さな装飾音符だったりする。
 その一つ一つを、完璧に――音楽には数値で表せる“パーフェクト”など存在しないにしても――紡ぎ出すのは、易しい作業ではない。暗闇の中で鍵穴を探り当てるようなものだ。
 ピアノを覚え立ての頃こそ、思ったように弾けず苛立ちを募らせたものだが、今ならはっきりと言える。
 ――俺はやっぱり、音楽が好きだ。
 先ほどの演奏の感覚が忘れられず、彼は逸る気持ちを抑えられないでいる。恩師を招いたごく小規模な演奏会だったけれど……、
 この音だ、と思ったのだ。
 充実した疲労感を覚えるより先に、物足りない気持ちになってしまっている。もっと弾きたい。足りない。俺を満たしてくれる音楽がどこかにないだろうか――、
 などと思いつつ歩いていると。
 がぁん、と派手な音がした。
 視覚効果として、音符ではなく火花が散った感じだった。
「痛つぅー……」
 置き看板に思い切り脛をぶつけてしまい、彼――天音神は、情けない声を上げてうずくまった。
「どうして俺ってこうなのかな……」
 溜息をつく。
 ピアノを弾いているときは、頭から指先、ペダルを踏む足、リズムを刻む全身、とすべてが一体になっているのに。それ以外だとてんで駄目。まったく連動していない。
「だいたいこんな道端に看板を出さなくたって……」
 自分への慰めとしてそんな台詞をぼやきながら、蹴っ飛ばしてしまった看板の位置を直した。そこに書かれた文字に注意がいく。
「Jazz Bar Escher?」
 神はひょいと顔を上げた。雑居ビルの三、四階が良く見かける大手予備校に占められており、その下のフロアに、いかにも商売っ気のなさそうな小さな店がある。
「へぇ……こんなところにジャズ喫茶?」
 喫茶、ではなくバーか。違いは取り扱っている飲食物と、営業時間帯くらいのものだろうか。
 冴えない雑居ビルも、文字が消えかかった看板も、客の足を止めさせるにはさり気なさすぎる。それなのに、神はなぜか惹きつけられてしまい、何事もなかったように通りすぎることができない。
「…………」
 雑居ビルのドアが、神を迎え入れるように開いていた。


    02 Escher's musicians

 逡巡した後、神は入り口から中へ入った。
 薄汚れた掲示板のほとんどが予備校関係のチラシで埋め尽くされており、その隅にちょこんと、ライヴ情報などといった紙が張り出されている。
 非常階段を使って二階まで上がる。営業時間を確かめてから、木造の扉を開けた。
 店に客の姿はなく、カウンタの奥で、ロングヘアの女性が文庫本を読んでいた。神に気づいて顔を上げ、にこりと微笑む。
「いらっしゃいませ」
 帰るわけにもいかなくなってしまい、神は彼女の前の席に腰かけた。今時清楚な雰囲気の女性だな、というのが彼女に対する第一印象だった。
 静かな音量でジャズが流れている。内装は渋めの暖色を基調とした落ち着いたもので、アップライトピアノが良く馴染んでいた。店内が狭く感じるのは、楽器が所狭しと並べられているせいかもしれない。
 あのピアノ。どんな音がするんだろう。
「ご注文は何になさいます?」
 女性に訊かれ、神は慌てて手元のメニューを取り上げた。
「ええと……紅茶を」
「紅茶ですね」
 はい、と新たにもう一枚メニューを手渡された。ずらっと紅茶の種類がリストアップされている。
「うち、お酒の需要が少ないのよね」と女性。
「はぁ……、それじゃダージリンを」
「かしこまりました」
 ……やはりジャズ喫茶じゃないのか?
 店員の彼女も、私服にエプロンといった簡素な格好をしており、バーテンダーという雰囲気ではない。酒を飲ませるよりは音楽を聴かせるのが目的なのだろう。
「学校帰りですか?」
 神の前にことんとカップを置き、訊ねる女性。
「いえ、仕事帰りです」
 ダージリンは、芳香に違わず良い味がした。冷えた身体が暖まり、かじかんだ指先まで熱が通う。この味はやはり喫茶店だな。酒のおまけに出してるって感じじゃない。
「お兄さん働いてるの?」
 気さくな口調で店員の女性が言う。
「はい、一応――」
「あ、待って待って、職業当てるから」
「当てられるかな」
 神はくすっと笑みを零した。お茶目な人だな、と思う。
「まず、こんなところに来るくらいだから音楽好きでしょう? お酒飲みに来たって感じじゃないものね」
「そうですね。音楽は好きです」
 むしろその一言が神のすべてを表している。彼女はにやっと微笑み、
「それから手が綺麗。もしかしてピアノやってません?」
「え?」
 きょとんとして自分の両手を見下ろした。
「そしてこの間ウィーンでツアーをやった!」
 神は呆気に取られて女性の顔を見上げる。
「……もしかして、俺のこと知ってますか?」
「きゃー、やっぱり!」
 いきなりきゃーなどと叫ばれてしまい、神は少し仰け反る。
「天音神さんですよね? ピアニストの!」
「あ……はい。そうです」肯定してから、「……って、最初から俺のこと知ってたんじゃ、職業当てたことにはならないじゃないですか」
「だって半信半疑だったんだもの。わー凄いなーうちもプロが来るお店になったのねー。明日友達に自慢しちゃおーっと」
「自慢するようなことは何もないですよ」
 清楚な雰囲気の人、という第一印象が早くも崩れてしまった。神は苦笑を浮かべる。
「そんなことないわよ。新進気鋭の若手ピアニストって有名だもの、天音さん」
「……なんか照れるな」
「私、天音さんのピアノ好きよ」彼女は言って、微笑を浮かべる。「優しいピアノを弾く人だなって思ってたんだけど、なるほどー、人柄が演奏に滲み出てるのね」
 なるほどなるほど、と彼女は神を無遠慮に眺め回して頷いた。
『好きよ』、か――。
 面と向かってそんな風に言われる機会はあんまりないなと思い、神は嬉しいような照れくさいような気分になる。『好き』とか『嫌い』は、何よりも率直な評価だ。美辞麗句も悪くはないけれど、それよりか一言『好き』と言われるほうが、自信に繋がる。自分のピアノを好いてくれる人のために弾こうという気になれる。
「去年都内でやってたコンサート、すっごーい後ろの席で聴かせてもらったことがあるの、実は。ほら、一応声楽専攻だとピアノも弾けなきゃいけないから、私は仕方なくやっててね。とても天音さんみたいに綺麗な音は出せないなって――びっくりしちゃった。ほんとに後ろの席だったのに、凄く綺麗に響いてたから」
「ありがとうございます」神ははにかむ。「……声楽をやってらっしゃるんですか?」
「うん、一応。これでも音大生なのよ」片目を閉じてウインクする。「橘夏樹っていうの、良かったら私の名前売っといてね」
「夏樹さん、ですか」
 素敵な名前ですね、と世辞でなく言ったら、彼女はやだもう照れるから! だのと神の肩をばんばん叩いた。その、相手が誰だろうとお構いなしの気さくな態度が『夏』を連想させるのだが。
「夏樹さんは声楽でプロになるつもりなんですか?」
「まあね。才能ないけど」
 一応ソプラノ歌手志望なのよ、と夏樹。
 ――と、会話の邪魔にならない程度の音量で流れていたBGMが、ボサノヴァに切り替わった。リズムに合わせて、夏樹が「愛は終わりのないメロディみたい」と歌詞を口ずさみ始める。ディサフィナード――音痴という意味のタイトルだ。夏樹は英語バージョンを歌っている。
 ふと思いついて、神は夏樹に言った、
「――夏樹さん。デュオしませんか?」
「へっ?」
 でも私達の愛の歌は調子っぱずれ、のところで歌うのをやめ、夏樹はぎょっとして神を見た。
 我ながら唐突な思いつきだったが、口に出したら実行に移したくて仕様がなくなってきた。今夜は取り分け演奏し足りないんだから。
「うん、そうしよう! やりましょう、夏樹さん。俺ピアノ弾きますから」
「そ、そんな、とんでもない!」
 夏樹は首と手を同時に振った。
「なんか俺、今日は物凄く演奏し足りない気分なんです。付き合っていただけませんか?」
 にこっと微笑む。夏樹はその笑顔に押されたのか、うっとたじろいだ。
「でも、私の歌に天音さんのピアノなんて、勿体無さすぎ――」
「『貴方の心がぴったり私と重なれば、音痴なんかにはならない』、でしょう?」
 ね、とカウンタ越しに夏樹の腕を引いた。
「え、ええー? 私なんかでいいのかなぁ……」
 あれ、俺ってこんな強引だったっけ。アルコールは飲んでないはずなんだけど――、
 まぁ、いいか。演奏会の脳内麻薬がまだ効いてるんだな、きっと。
「夏樹さんだから誘うんですよ」
 夏樹は困った顔をしつつもまんざらではないようで、
「そこまで言うなら、やったろーじゃないの」
 拳を握って、(なぜか)喧嘩腰で宣言した。そうこなくっちゃ。


    03 jazz up!

 店の一角を占拠しているアップライトピアノの前に腰かけ、指慣らしに、と神は軽く鍵盤を叩いてみた。華奢な作りに似合わず深い音色が響き渡る。が、キーのタッチは軽く、神の演奏にいくらでも応えてくれそうだった。さらっと弾いてみて、神はこのピアノがすっかり気に入ってしまった。
「良い音ですね。調律も良くされてるみたいだし」
 神は『Desafinado』を自己流にアレンジして弾いてみる。
「うわぁ、やっぱり楽器って弾く人によるのかしら。この箱ピアノ、こんな良い音したのねぇ」
 こんこんと手の甲でピアノを叩く夏樹。
「凄く馴染みますよ。アップライトもたまには良いな」
 コンサートピアノばかり弾いている神からすれば、ある意味新鮮。
 思いの丈をぶつけるかの如く激しく弾くのもありだけれど、ここはピアノの特性を生かしてライトに。――うん、悪くない。
「へぇ、天音さんって色々弾けるんだぁ。クラシックだけじゃないのね」
「誰だって、何かしら自分の内面を表現する術を持ってる。――それが俺の場合、ピアノだったってことです」
「じゃあ今は楽しい気分?」
「はい。それからジャジーな気分かな」
 神のピアノに合わせて、夏樹が簡単に発声練習をする。神は思わず鍵盤から手を上げて夏樹を振り返った。夏樹もびくりとして発声練習をやめる。
「わ、私なんかマズいことした?」
 夏樹は微妙に顔を引き攣らせた。
「とんでもない! とても綺麗な声だ」いよいよ楽しくなってきて、神の表情は自然と綻んだ。「夏樹さんのレパートリーは?」
「ああもう、何でもどうぞ。わからない曲は適当に歌っちゃるから」
「それじゃあ、」
 と、『アヴェ・マリア』をそこはかとなくジャズっぽく弾いてみる。
「えっ、いきなりクラシックのアレンジ!?」
「夏樹さんの声を堪能させてもらおうと思って」
「無茶だなぁ」
 無茶だと言いつつ、夏樹は、バッハの平均律にグノーが載せたメロディを綺麗に歌いこなす。が、ジャズアレンジなので、リズムはしっかりスウィングしていた。
「あはは、お上手ですね。ちゃんとジャズになってる」
「夏樹流ジャズ・フレイバーよ」
「それじゃあ俺流バッハです」
 小フーガト短調の有名な主題に神が加えた妙なアレンジを聴いて、夏樹は大爆笑している。
「『アマデウス』みたい、何でもありなのね!」
「ちゃんとジャズを弾きましょうか。何かお望みの曲はありますか?」
「ジャズロック風『My Favorite Things』とかどうよ」
「ロック風……こんな感じですか?」
 夏樹は目尻に涙を浮かべて笑う。
 笑いながら、ともかくも、『薔薇の上の雨の滴』、と歌い始めた。
 観客はいないが、しっかり、ジャズでデュオだ。夏樹のスキャットと神の即興がかわりばんこにくる。
 神が弾いた数小節を模倣して歌う夏樹。平易なメロディは徐々に複雑になっていき、途中で夏樹が、「そんなの歌えないわよ!」とおかしそうに文句を言う。仕返しと言わんばかりに早口スキャット。オーラルでの表現をピアノで完璧にコピーするのは難しく、神のピアノもおかしなことになってしまったり。
「今のは天音さんの負けー」
「いつから勝負になったんですか?」
「わりと最初から?」
 曲目はどんどん切り替わる。曲調すら一定しない。
 ビバップ、クール、エトセトラ。たまにクラシック。メジャーにマイナー、何でもありだ。
「ちょっといい感じじゃない? お客さんいないのが残念ね」
「飛び入り大歓迎って感じですね」
「あーもうハイになってきちゃった。天音さん、お酒飲まない?」
「折角だからいただこうかな」
「オッケー、ちょっと待ってて」
 ノン・アルコールでここまでハイなのに、酒を飲んだらどんなことになるか、神は考えもしなかった。音楽に没頭しすぎて、そこまで気が回らなかったとも言う。
 夏樹が二人分のグラスを持ってきた。一時休戦、乾いた喉をアルコールで潤す。
「天音さん、素朴な疑問です!」
 いきなり夏樹が挙手した。
「はい、なんですか?」
「私の記憶によると天音さんはまだ未成年だった気がしますが!」
「気にしないで下さい」
 ふわりと微笑で返す。オッケー気にしないことにした、と夏樹は軽く納得した。ハイだとアルコールの巡りが良いのか、二人とも細かいことがどうでも良くなりつつあるようで。
「というわけで再開です、夏樹さん」
「おうよ。歌い明かしてやろーじゃないの」
 夏樹は相変わらず喧嘩腰。ボーイ・ソプラノみたいな美しい声で無茶苦茶な歌い方をするあたり、性格が滲み出ている。
 神は酩酊状態にあったが、ピアノを弾く指が鈍ることはない。
「酔えば酔うほど強いってやつですか」
「ジャッキー・チェンじゃないんだから」
「音楽って麻薬と似た効果がありますよね。ここまで酔えるんだから」
「もう、ヤなこと全部忘れて、ぱーっと、ね! 明日は明日の風が吹く!」
「Everything's gonna be all right――すべて上手くいくさ、ですね」
 神のピアノに合わせてEverything's gonna be all right、と流暢な英語で歌う夏樹。
 キリのない音楽、どちらかが疲れ果ててぶっ倒れるまで、終わることはないんじゃないかというような。
 そんな一夜。加速して、時たま減速して、情感たっぷりにエレジーを奏でる。
 再加速、アップ・ダウン、演奏した通りに楽譜を書いたら真っ黒になってしまいそうな即興パート。
 ブラインドの隙間から差し込む月明かり、口の中に残るアルコールの味。
 すべて上手くいくさ。
 ところで今何時だっけ? 俺はどれだけアルコールを飲んだんだろう。
 曲は振り出しに戻り、Desafinadoへ。
 There'll be no desafinado when your heart belongs to me completely.
 夏樹さん、どうだろう? 俺達一緒に歌えてるかな?
 なかなか良いと思うんだけど――
「あれ、ちょっと、天音さん。大丈夫?」
 少し酔っ払ったみたいだ。
 夏樹の声がぼんやり聞こえる。
「え、なんですか? 俺どっかおかしいですか?」
「や、あの……」
 にへらっと微笑む神。夏樹は心配そうに神の顔を覗き込んだ。
「おかしいっていうか……、大丈夫? 飲みすぎてない?」
「そんなことありませんよ。俺は至って正常――」
 の、はずだったのだが。
 永遠につづくかと思われたセッションの終わりは、意外に呆気なく訪れた。
 世界が引っ繰り返り、あれ、おかしいな、と思った途端、
 ぷつん、という具合に意識が途切れて、
「ちょっ、天音さん――!」
 夏樹の叫ぶ声が遠くに聞こえた。
 あ、マズい。飲みすぎたな……、と意識の端っこでちらりと考える。
 夢の中でも懲りずにピアノを弾いている神であった。


    04 epilogue

「またやっちゃったのか、俺……」
 翌朝。
 ごっそり抜け落ちた記憶を手繰るうちに、思い出したくない事実にぶち当たってしまい、神は頭を抱え込んだ。
 歩いて帰った記憶がないのに自室のベッドにいるということは、当然、夏樹がここまで神を連れてきたということだろう。いくら神が細身とは言え、女性の細腕では骨の折れる仕事だったに違いない。
 ベッドの脇に書き置きが置いてある。綺麗な字で、こんな風に書かれていた。

『変に気を使わせても悪いから、紅茶代とタクシー代はお財布から貰っておきました。
 天音さん、うちに出入りするときは当分お酒禁止ね!
 デュオ楽しかったです。今度はお酒抜きでやりましょ。夏樹』。

「あああああ……」
 神は頭を抱え込んだまま、一人唸る。
 これだからアルコールは。飲みすぎると危ないと自分でもわかっているのに、ちょっとだけなら、と手を出してしまい、毎度この有り様だ。何度も同じことで後悔している。俺って学習能力がないんだろうか。二日酔いが酷く、余計に自己嫌悪に苛まれてしまう。
 ぶっ倒れるまで飲んで、我ながら良くピアノを弾きつづけていたものだ。やはり酔えば酔うほど強いのだろうか……。
「あやまりにいかないとな……」
 頭痛は薬で誤魔化して、ともかくもEscherへ向かうことにした。

    *

 神と同じだけ酒を飲んでいたにも関わらず、夏樹はけろっとした顔で、昨日とまったく同じように文庫本を読み耽っていた。
 神に気づいて顔を上げ、いらっしゃいませ、ではなく、大丈夫だった天音さん? と訊く。
「すみません、夏樹さん……。ご迷惑おかけしました」
「いーのよ、バーで働いてる以上珍しいことでもないし。私としては天音さんの寝顔拝めてラッキー、みたいな?」
 神は昨日と同じ位置に腰を降ろす。
「ご注文は――問答無用で紅茶ね」
 笑顔で紅茶リストを渡されて、神はすごすごとアールグレイを注文した。
「俺、どうも酒が入ると人格が激変してしまうみたいなんですよね……」
 夏樹が淹れてくれた紅茶を一口啜ってから、はぁ、と溜息をつく神。
「あ、変わってた変わってた。口説かれたわよ、貴方はまるで薔薇の大輪のようだとか言って」
「え゛?」
「嘘よ、嘘」
「からかわないで下さい、夏樹さん……」
 神は肩を落としてうなだれる。
「ふふ、楽しかったからチャラにしとくわね」
 その代わり、と人差し指を立てる夏樹。神は身構えた。
 夏樹は悪戯っぽく片目を細める。
「――また、相手してくれる?」
 神は思わず相好を崩した。
「それなら、喜んで。今度はアルコール抜きで、ですね」
 その通り、と夏樹は頷く。


 メイン・テーマはディサフィナード。
 お互いの心をぴったり重ね合わせれば、きっと奏でられない音楽なんてない。
 ――ですよね? 夏樹さん。



fin.



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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■天音・神
 整理番号:1094 性別:男 年齢:19歳 職業:ピアニスト


【NPC】

■橘 夏樹
 性別:女 年齢:21歳 職業:音大生


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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、ライターの雨宮祐貴です。
 この度はゲームノベルへのご参加ありがとうございました! 長らくお待たせ致しました。
 天音さんの方向性を模索しつつどきどきしながら書かせていただいたのですが、いかがでしたでしょうか。
 音楽好きには嬉しいご発注でした。即興性の音楽を文章で表現するというのが新しい試みでした……なかなか難しいものですね。ジャズ・フィーリングの一端でも表せていれば良いのですが。『Everythings gonna be…』に関しては、資料が見当たらずぼかした描写となってしまいました。申し訳ございません。
 それでは、天音さんに良い音楽家との出逢いがあることをお祈りしつつ。
 また機会があればよろしくお願い致します!