■常世の牙■
ザイ |
【4128】【和州・狐呼】【古本屋兼何でも屋】 |
強く、強く雨が降っていた。
先程視界に入った大型の蝶は、ふらふらとした頼りない動きで──例えるならば糸を持たれた傀儡のように──空き地へと向かっていた。
入り組んだ、占い屋が立ち並ぶ怪しげな細い路地で道に迷いほとほと困り果てていた事もあった。特別考えも無く、何となしの興味を引かれて蝶の後を追っていく。
──何の音だろうか。
耳を澄ます必要も無い。明らかに、先から空き地の方角で激音が響いている。悪い予感に近いものが胸を締め付けるが、何故か足はそこへ向かおうと必至だった。
蝶が角を曲がる。不自然な程自然に、足がやはりそれを追う。角を曲がる瞬間、不意に見上げた目線は『わたくし屋』という掠れた名前を映した──
刹那。
「黄涙サンッ!」
開けた視界の中で鳥の影と雷が閃いた。同時に届いたのは男の声であって、どうやら当人らしい姿。
そしてその奥に──。
異形。
影のような闇のような、形を為さないが確かに存在するそれの数は九体。周囲を囲まれている男の手には一本の刀、男の後ろ──つまりこちら側には、恐らくは名を呼ばれた鳥だろう、大型のコンドルが眼前を見据えて羽ばたいている。翼が微かに雷を纏っていた。次の瞬間には一声の鋭い鳴き声と共にその雷が影のうち一つを目掛けて飛び、男の刀が異形のうち一つを薙ぎ倒し──、流れるように、男は恐らくはコンドルを振り返ったのだろう。
「──え、」
帽子の下から覗く視線がこちらを確かに見、それは随分と驚きの色を宿していた訳で──
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常世の牙
強く、強く雨が降っていた。
先程視界に入った大型の蝶は、ふらふらとした頼りない動きで──例えるならば糸を持たれた傀儡のように──空き地へと向かっていた。
入り組んだ、占い屋が立ち並ぶ怪しげな細い路地で道に迷いほとほと困り果てていた事もあった。特別考えも無く、何となしの興味を引かれて蝶の後を追っていく。
──何の音だろうか。
耳を澄ます必要も無い。明らかに、先から空き地の方角で激音が響いている。悪い予感に近いものが胸を締め付けるが、何故か足はそこへ向かおうと必至だった。
蝶が角を曲がる。不自然な程自然に、足がやはりそれを追う。角を曲がる瞬間、不意に見上げた目線は『わたくし屋』という掠れた名前を映した──
刹那。
「黄涙サンッ!」
開けた視界の中で鳥の影と雷が閃いた。同時に届いたのは男の声であって、どうやら当人らしい姿。
そしてその奥に──。
異形。
影のような闇のような、形を為さないが確かに存在するそれの数は九体。周囲を囲まれている男の手には一本の刀、男の後ろ──つまりこちら側には、恐らくは名を呼ばれた鳥だろう、大型のコンドルが眼前を見据えて羽ばたいている。翼が微かに雷を纏っていた。次の瞬間には一声の鋭い鳴き声と共にその雷が影のうち一つを目掛けて飛び、男の刀が異形のうち一つを薙ぎ倒し──、流れるように、男は恐らくはコンドルを振り返ったのだろう。
「──え、」
帽子の下から覗く視線がこちらを確かに見、それは随分と驚きの色を宿していた訳で──
あれえ、と相も変わらず気の抜けているらしい声が男──狐洞キトラから漏れた。
その彼に、半眼で片手を上げ挨拶を交わすのは和州狐呼である。
「よ」
「どもです」
何が、よ。なのか。明らかに現段階で交わされるべき挨拶ではないのだが、狐呼もキトラも対して気にした様子も無く応答する。
異形の爪を受け流した刃がひらりと光る。眼前を抉った爪にとんと飛び乗ったキトラはそのまま剣を薙いで異形の腕を落とした。不協和音の悲鳴が轟くが、狐呼もキトラもやはり大して表情を変える事は無い。
ざんざんと降る雨の中、狐呼はひとつ欠伸を漏らした。
彼女の目から見ても、明らかにキトラは遊んでいる。
「何しとんねん?」
「えー。封印に必要なチョウチョ逃がしちゃいまして」
遊んでるわけじゃないんですよう──と、ふと視線をこちらに向かせたキトラが、あ、と口元を象った。
瞬間の感覚に狐呼は飛び退いて一閃を避ける。
背後の抉れは眼前に聳える壁のような異形の所為であって、カチリと狐呼の中の苛立が増した。
「ああもう──なんでこないな面倒な事に巻き込むねや……」
間延びした口調には八つ当たりに近い感情も有り。狐呼からの感覚に戦いたか再びの爪。こちらも大して動く事も無く標準をずらさせた狐呼は舌打ちをした。耳聡く聞きつけたキトラが言う。
「全部やっちゃダメですよ」
「せなら借り一つやで」
言うや掌を組んだ狐呼から瞬時の風が起こった。借りは嫌ー! 本気ではありえないふざけた口調が後ろから。黙りや、応える彼女の口元にも軽く笑みが浮かんだ。
生み出された風は雨をまき散らしては糸の如く異形の爪を縛る。
「──行き」
にっと口元を引き上げると同時の指先の動き。
それに呼応する術式は風のひとつ。高く竜巻いたそれに眼前の異形は為す術もなく吹き飛んだ。ぼろ切れが千切れるように舞ったそれを見ていた後ろのキトラからぱちぱちと拍手が起こる。
「凄い凄い。ど−せだから数削って下さいよー」
「ああ? あんた何座っ──」
言葉の下から舌を打つ。横を抉った異形を押さえていた筈のキトラは離れた処の壁上に座り込んで見物と洒落込んでいるらしい。文句を言う前に頭上を過ぎた爪を再び躱し、狐呼はええいままよと呟いた。
空を裂くかの如く動かした指先が風の刃を練り飛ばす。影の胸を切り裂いたそれに続けて、彼女は多少複雑な印を結び直した。
轟。一陣の風が上から柱となって吹き下ろし、その中央に存在した一体を除いた異形が紙のように押しつぶされる。
「完了。後は知らんで」
「了解でーす。助かりましたよ」
嘘付けとは口に出しては言わず。間延びしたキトラの返答に溜息を一つ。
彼の背後からひらりと蝶が舞う。
あ、と知らせる暇もなく刀を抜いた男は跳躍を。一薙ぎされた刃から広大な光と風の渦が、不自然な程緩やかに巻き起こった。
その一拍の後、狐呼は首を傾げた。
一瞬の内に巻いた閃光に思わず目を閉じた彼女は決定的な瞬間を見逃していたらしい。ぱしゃりと軽い音を起てて着地したキトラの手の中に、動かなくなった蝶が包まれるように持たれている。
「そういや何やの?」
その問いに僅かに帽子の縁を持ち上げたキトラは気の抜ける笑みを浮かべた。
「まあ、標本ですよ。イロイロと入ってる」
「封印の材料なのは解った。見た事ないなあ」
「そですか? まあ、一応オリジナルですからねえ」
で、と続ける。
「和州サンは何してんですか、こんなトコで」
「こんなトコてのはないやん。キトラは店ここに持っとんのやろ…」
呆れた、とでも言うかのように言う狐呼にキトラはまあそうですけどもと笑い、ずぶ濡れの裾を絞った。それから狐呼を見遣る。
「随分濡れちゃいましたねえ。大丈夫ですか?」
「は! 大丈夫なわけあらへんがな。当然あんたの家寄ってくで。風呂貸せ風呂」
おら持て、と押し付けた紙袋をキトラが慌てて受け取り、狐呼は揚々と踵を返した。くるりと振り向いて風呂何処、と問えば、苦笑したようにキトラが三階に、と言った。
店主よりも先に店内に潜り込んだ狐呼は、結局水滴を拭わずに上がるものだから、明らかに通った道順が滲んでいる。その光景に情けなく脱力したキトラはやれやれと苦笑した。さっさと上へ上がった狐呼を追うようにして階段を上ろうとするが、ふと思い出すように店の看板をクローズに戻す。
雨音は未だ続いている。
猫の鳴き声がした。
狐呼はそれに湯船の中から顔を上げ、ああここは自分の家ではないと再確認した。彼女の家に居る猫には未だ名前もなく、その場その場で色々な呼び名が生まれては消えてゆく。
ここにもそういえば猫が居たなと狐呼は思うが、名前を聞いた覚えは朧にしかなかった。否、そもそも聞いただろうか──やはり覚えていない。
黄金のコンドルが、キトラと共に背後から、彼女がこの三階まで上ってゆく様子を気怠そうに眺めていたのは、事実今しがたの事であるから覚えているのだが。
狐呼はふと石鹸に手を伸ばしかけ、首を傾げた。
どう考えても独り身だろうキトラが使うには繊細過ぎるハーブの石鹸が、すっかり乾いたまま置いてあった。その横には市販の何でもない石鹸が。──こちらは使われている。
拒絶、だ。
ひとかけらも濡れていない石鹸が、沈黙の中でまるで意志を持ったかのように、特定の誰か以外に使われる事を拒絶していた。
石鹸が化けるなんて聞いた事が無い。付喪ならば百年以上の時が過ぎているのならばそうである可能性も捨て切れないが。
──あほくさ。んな訳あらへん。
迷いを押し込めて香草入りの石鹸を泡立てる。新しく張った湯の中で滑りを帯びたそれは何事も無く泡立った。
間延びした声に迎えられ、狐呼は三階二階とを散策してから下りてきた事を告げた。珍しく帽子を外しているキトラが微かに困ったように表情を歪めた。
帽子はカウンタの脇に。和服は既に着替えてはいるが、帽子に替えは無いらしい。
「……何勝手にうろついてんですか」
「ん? 別にええやん」
黙ってしまったキトラに適当に笑みを返すが、割合他人との間に壁を作る男であるらしい事が新しく解った。一瞬の逡巡の後に溜息と苦笑、それから膝の上の猫を撫でた彼は狐呼に向き直っては肩を竦める。
「お茶でも?」
「あ、せやせや。あんな、うち茶菓子買いに出てたんよ。もうええわ、此処で食うてって問題なし?」
「問題なしですね。──えーと、それじゃあお茶は」
「それも買うてあるねん。どーせならこのお茶も淹れてんか」
卓上の袋を指差し、店の奥の椅子にどっかと座った狐呼は首を傾げる。キトラは了解ですようと相も変わらず間延びした返答を。
「ういじゃ赤猫、よろしくですよ」
膝上の赤い毛並みの猫が一声鳴いて、袋を銜えると同時にすたりと床に飛び降りた。軽々とした身のこなしで階段を上っては消えてゆく。
「使い魔?」
「まあ、そんなもんです。使い魔よか家族って感じですけどねえ、黄涙サンも然り」
ねー、と、カウンタ脇に構えているコンドルの方を向いて微笑み、彼は再び万年筆を紙に走らせてゆく。コンドルが狐呼を見遣った。やはり気怠そうな目で。
沈黙。
何かを記しているキトラは集中しているのか無言であり、狐呼はその姿を観察する。
妙な男だと思う。
階上からは微かな音が聞こえてくるが、それが何であるのかは未だ良く解らない。暇を持て余して辺りを見回し、直ぐ横の壷を手に取っては戻した。
「あ」
「ん?」
不意に狐呼が上げた声にキトラが顔を上げ不思議そうに口元を曲げた。
「あのハーブソープ、使ったけど良かったんよね?」
狐呼にしては珍しい問いではある。
何処と無く記憶に残っているのは気持ちが悪いからと己で理由を付けた。
キトラは一瞬唖然としたようではあるが、その後に曖昧に口を開く。
「……使ったんですか、あれ」
続くのは苦笑だ。
直ぐに。
「──いや、まあ、いいんですけどね」
「何か曰く付きなん?」
違うのは本能的に察しているが、狐呼は茶化すように笑っては言った。視線は合わせず、キトラはそんなもんですねえ、と。
気怠く冷えた空気は雨音の合間を縫って店内にも響いている。
「あー……まだ雨降っとるなぁ」
呟きとも呼びかけとも取れないそれにキトラの応答は曖昧に輪郭をぼやかし、狐呼もまた黙してその言葉に応えるのだ。
雨はまだ止みそうにない。
了
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【登場人物】
- PC // 4128 // 和州・狐呼 // 女性 // 24歳 // 古本屋兼何でも屋 //...
- NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...
- NPC // 黄涙 // 霊鳥 //...
- NPC // 赤猫 // 悪魔 //...
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