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■恋する君へ。■

観空ハツキ
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
 暗く、何処にも繋がらない世界。
 唯一の明りである不可思議な光は、今にも消えてしまいそうなほどか細く弱く。
 忘れてしまいそうになる、何もかもを。
 生きている証であるように輝いていた全ての想いを――今がある理由を。


「恋の話を聞かせて貰えないかしら?」
 閑静な住宅街にひっそりと佇む児童公園。
 赤いビジネススーツに身を包んだ女性が、一人ブランコに揺られて空を見上げる。
「突然何をって思ったでしょ? そうね……人助け、だと思ってくれないかしら? 生きる力を求めてる、そんな少し虚ろになってしまった人間に気合充填して欲しいの」
 おいでおいで、と通りかかったあなたに、彼女は手招きを繰り返す。
 涼やかな印象を与える漆黒の瞳を縁取る目元が、人懐っこく笑い細められる。
「どんな話でもいいのよ。例えば失くしてしまった恋の話でも、現在進行形の片思いの話でも、熱愛中のラブラブな話しでも」
 ラブラブか、と自分で語った言葉がおかしかったのか、赤いスーツの女はくすくすと小さく笑う。
「ま、そんな所につっ立っているのも何でしょ? よかったら、ここにどうぞ」
 示されたのは彼女の隣のブランコ。
 つい先ほどまで誰かが座っていたのか、風もないのにゆらゆらと揺れている。
「私は火月(かつき)、あなたは?」
恋する君へ 〜Silent call〜

「ねぇねぇ、シュラインさんって結婚しないの?」
 ごくありふれた日常。
 いつものようにふらりとやってきた草間興信所の応接テーブルを挟んでの会話。
「はい?」
 来客用のソレではなく、所員達が使う茶碗で差し出された茶が、ここでの彼のポジションを物語っている。
「あれ、と。だって二人ともそれなりにもういい年じゃない」
 まさに突然降って湧いた話題に、思わずポカンと口を開けてしまったシュライン・エマに、草間・武彦の背中を見送っていた京師・紫が「うへへ〜」と人の悪い笑みを向けた。
「いい年、とか言わないでちょうだい」
「あはは、嘘、冗談です。なのでその茶菓子を下さい。って言うか――うん、僕は今のシュラインさんと草間さんの関係好きだよ」
 危く取り下げられかけた芋羊羹の皿をハシっと捕まえて、今度は含みのない顔で屈託なく笑う紫。
 反省の色はないようだけど? と内心苦笑しつつ、シュラインは捕獲された皿を無言のまま手放す。
「つかず離れずって言うか……うーん、何も言わなくても意志の疎通がなされてるって感じ?」
「口出ししないとあの人の場合、餓えて死ぬか、ゴミの山に圧迫死させられるかだと思うけれど?」
「わはははは、言えてる! って、そーゆーんじゃなくって――って、僕が言うまでないか」
「何よ、突然何なの? 奥さんと喧嘩でもしたの?」
「……喧嘩してたら僕この世にいないかもなぁ。はぁ、僕も草間さんも幸せ者ってことだよねぇ」
「本当、頭大丈夫?」


「シュラインさん?」
 名前を呼ばれて現実に呼び戻されたシュラインは、ここが草間興信所の応接室ではなく、夕暮れが迫る住宅街の中にある児童公園であることを思い出す。
「あら――えっと、そうそう、恋の話だったわよね」
 ありきたりの日常の中にすっかり埋没してしまっている怪奇現象の調査作業。その帰り道に通りかかったこの場所で、見知らぬ同年代らしき女性に声をかけられたのはつい先ほどのこと。
 『火月(かつき)』と名乗った女性は、シュラインが名乗る前に
「シュライン・エマさん――よね?」
 と、にこやかに笑って手を振った。その後「職業柄、こういう事には詳しいんですよ」と付け加えられたのだが、彼女の職業は不明のまま。
 唐突な出来事だが、言ってしまえばこんな事も既に「あって当然」の範疇内で、疑問や不思議を抱くレベルの事ではない――少々、人生を誤った気もしないのでもないのだが。
 ただ達人レベルまで磨き上げられたシュラインの洞察力と直観力は、火月が悪人ではなく、なおかつ自分に何らかの害となる存在ではないことを告げていた。
 いや、むしろ。
 どちらかと言うと、自分に近い親しい雰囲気を持つような、そんな気がする。
「そうそう、恋のお話。ちょっと頭の中身が空っぽになりかけてる可哀想な人に気合を充填するっていう心意気で!」
「その心意気は何ともステキね」
 火月が座っていた隣のブランコに腰掛ける。子供が遊ぶには遅い時間だからだろうか、見渡した公園内には二人以外の人影はなかった。
 振り仰いだ空は東の方は既に深い夜を迎える紫色に染まっている。だからかもしれない、ふっと今の空と同じ瞳の色をした彼の事を思い出したのは。
 ほんの少し前の過去に浸ったついでに、少女時代の事を懐かしく振り返るのも偶にはいい事なのかもしれない――今の私がある、強さと優しさの切欠をくれた恋の記憶。
「あれは……そう、十代半ばって頃だったかしら」

   ***   ***

 とある出来事を切欠に、少女は言葉と気力を失っていた。
 引き金になったのは――いや、今はそれを思い出す時ではない。ただ、何もかもが辛く、人の口から発せられる言葉の裏腹な二面性に絶望しか見出せなくなっていた。
 唯一没頭できたのは『いつか翻訳家になりたい』という夢から、様々な言語の本を読む事。両親から与えられる本を無心になって読み漁っていた。
 そんなある日、出会ったのだ。
「…………」
 言葉を失った喉から、嗚咽が漏れる。
 凍て付いていた心をふわりと羽の先でくすぐるような、そんな言葉の宝箱。虚ろになっていた青い瞳に、一筋の光が差し込んだ一瞬。
 まだあどけなさを残す面差しに今までにない熱意を込めて、少女は思いの丈を綴った手紙を書いた。
 人を遮断するために重く引かれたカーテンゆえに昼間でも薄暗い部屋、机に備え付けられた電灯が真っ白な便箋を世界に鮮やかに浮かび上がらせる。
 何をどう伝えていいのか、上手く言葉に出来たかは分からなかったけれど――ただ、胸を満たした感動を。言葉の一つ一つに命を吹き込み、物語に太陽のような輝きを与えた翻訳者に向けて。
 それが最初。
 そして幸運にも貰えた返事から、紙に言葉を紡いでいく文通が始まった。

『君は言葉の本質を理解できる、素晴らしい人だと思うよ』
 ………こつり。
『確かに、言葉には色々な側面がある。当然、心の伴わない言葉もあるだろう』
 ………こつ――こつこつ。
 電話がかかってきたのは、突然のことだった。
 幾度の手紙のやりとりをした後だったかは覚えていないけれど、母が不安そうにそっと受話器を自分に向って差し出した事だけは覚えている。
 自分が言葉を失っている事は、相手も了解済みのことだった。
『話を聞いてくれるだけで良いよ。聞こえて……そうだね、何か思うところがあったら受話器を指で叩いてくれるかな?』
 連ねられる文字と同じ、優しい声の持ち主。一番初めにそう言われ、シュラインは相手には自分の姿が見えているはずもないのに、こっくりと頷きを返してしまった。それから慌てて、言われたとおり受話器の端を爪先で軽く弾く。
『うん、そうそう。良かった、切られたらどうしようかと思っていたんだよ』
 言葉だけで、受話器の向こうの彼がふわりと微笑んでいる事が分かる。胸の奥に小さな火が灯ったような気がした。


『君の言葉が、誰かの心を救う日がきっと来ると僕は思うよ』
 最後に聞いた彼の言葉。
 その言葉に背中を押されたのは間違いない――少なくとも、自分がいまここにいられるのは彼の言葉があったから。
 人と接するのが恐ろしく、家から出る事さえなかった自分が、こうやって彼を見送る為に大勢の人が集う場所まで来ている。
 事情がそうさせた、と言えばそれまでかもしれないが――それでも、心に深い傷を負っていたその当時のシュラインにしてみれば、大きな大きな前進の一歩である事には間違いない。
「話には伺っていました。良かったら書斎を見て行かれますか?」
 随分な高齢であることは本に載っていたプロフィールから知っていた。長年連れ添っていた夫人に先立たれていたのは、ここに来てから知ったのだけれども。
 安らかな顔で眠る棺を前に、これが初めての対面であることをシュラインは気付いた。
 言葉の通り優しい顔。思い残す事は何一つなかったような笑みを浮かべて、故人を偲ぶ無数の花に囲まれ眠っていた。
 還らぬ眠り――永遠の別れ。
 新聞に小さく出ていた記事に気付き、駆けつけた葬儀。喪服らしい喪服なんて持っていなくて、慌てて引っ張り出した余所行きの黒い服からは、少しだけ防虫剤の匂い。
「父は『優しい言葉を知っている子なんだ。だからその分、傷付きやすいんだろうなぁ』と貴女の事を話していました」
 シュラインを彼の書斎へと導いてくれたのは、彼の息子。息子と言っても、シュラインの父とそれほど年齢は変わらないだろう、という感じではあったけれど。
「今日はありがとう。父も喜んでいる事でしょう」
 未だ出ぬ声にもどかしさを覚えつつ、感謝の意を伝えるために深く一礼を返す。
 そうして一人きりになった彼の書斎。
 葬儀の喧騒からは程遠く、耳を澄ませば彼がペンを走らせる音が聞こえてきそうな気がする。
 よく使い込まれた木製の机。同じく歴史を感じさせる椅子のクッションは、シュラインが座るのを待ちわびていたように、彼女を受け止めてくれた。
 彼が座っていた場所。
 机の端にはダイヤル式の電話。あの日、たった一度言葉を――シュラインの声は出なかったけれど――交わした時、彼が使っていたのはこの電話だったのかもしれない。
 静かに受話器に手を伸ばす。
 辛うじて触れた人差し指の腹から、じんわりと伝わってくるのは、きっと彼の温もり。
 ジンっと胸の奥から溢れてきたものを押さえる為に、天井を見上げた。自然と視界に入ってくる、たくさんの書籍が並べられた本棚。
 見覚えのある彼の携わった本から、タイトルさえ読めないような異国の本まで。
 『想い』の込められた『言葉』に囲まれている空間。

 君の言葉が、誰かの心を救う日がきっと来ると僕は思うよ

 リフレイン。
 電話回線を伝わってきた特有の、少し耳の奥にザラつきを残すような響きを帯びていた声。
 そういえば、本当の声を聞いた事はなかったのだと気付く。
 でも、そんな事は関係ない。
 彼に貰った言葉に嘘はないのだから。
「―――――」
 零れるのを堪える為に重力から逆らうようにしていた瞳から、一条の雫がつぅっと頬を伝う。
 私は彼の事が好きだったのだ。
 年も住む世界も遠く離れていた人だけれど。けれどそんなものを全て取り払って。彼の魂が持つ、言葉に命を吹き込む力と温かな光に、自分はどれほど癒され、救われ――そして背中を押されて来たのだろう。
 今更のように思い至った真実に、溢れる涙は止まらなくなる。
 悲しい――当然、その気持ちもあった。
 けれど、それよりも。
 たくさんたくさん、言い尽くせぬほどの「ありがとう」を恋した貴方に。
 貴方がくれた言葉を本当にするために、私はきっと強くなるから。
 そう思えた瞬間、喉の奥がくすりと小さく笑いを音にした。

   ***   ***

「私、鈍かったのよね。のんびりさんだったの」
 語り終え見上げた空は、ビルの彼方に見える西の際がかすかに茜色に染まっている程度。
 ぼんやりと明りを抱き込んだ街灯が、周囲を微かに照らし出している。
『でもそれ、キレイゴトって言うんじゃないの?』
 ノイズのようにシュラインと火月だけのはずだった空間に、第三者が出現したのは本当に突然のことだった。
 懐かしい恋の話をし終え、横に座る火月の方を見遣ろうとした瞬間、つきつけられた煌びやかに飾り立てられた指先。
『って言うか年違いすぎるし。そもそも優しい言葉なんて誰でも言えるし』
 耳障りな声――と思ってしまったのは、その少女がやかましく捲くし立てる言葉の内容からだけではないだろう。
 どこにでもいるような、セーラー服姿の女子高生。
 しっかり決められたメイクは、彼女の年齢を分からなくしてしまっている。
「これは……どうしたことかしら?」
 自分の額に狙いを定めたままの指を気にすることなく、シュラインは当初目的としていた火月の姿を視界に収めた。
 当の彼女は、暢気に「うふふ」と笑いながらブランコを優雅に漕ぎ続けている。
『好きになったらやっぱ自分の物にしなきゃ駄目じゃない。誰かが幸せならそれでいい、なんて絶対にキレイゴト。ホントは絶対に自分が幸せじゃないとダメに決まってる』
 こういう微妙な見守り方、なんとなくあの人に似ているかも。
 そんな場違いな事をぼんやりと考えながら、シュラインは自分の正面に陣取ったままのイマドキ風の女子高生の姿をしたモノに視線を戻す。
 ソレが本物の人間でない事は、彼女が言葉を発した瞬間に分かっていた。
 理由は簡単。
 音がないのだ。心臓の音や、呼吸をする音――生きている人間ならば、絶対に発しているはずの音が。
 つまるところ。
 自分の名前を知っているような職業の人間が、こんな所で理由もなく『恋の話を聞かせて』なんて事を言うはずがない、ということなのだろう。
『他人なんてどうでもいーの。自分が幸せなら。傷つけたって平気に決まってる』
「あなた、それで本当にあなた自身が幸せだって思える?」
『はぁ?』
「誰かを傷つけた。誰かを悲しませてしまった。そんな気持ちをずっと抱えたまま、あなたは幸せになれる? 祝福もされずに?」
『そんなのっ! カンケーないって言ってるじゃん!!』
「本当? 関係ないなら、なんでそんなにムキになるの?」
 決して声を荒げることなく。揺るがない青い瞳が、澱んだ茶色い眼をまっすぐに見つめる。
 人は誰でも幸せになりたい――その言葉に否はない。けれど、誰かを傷つけたまま、そのことで自分の中に消せない痕が残ってしまった状態で、人は本当に心の底から笑えるのだろうか?
『ムキになってなんかないって言ってんじゃん!』
「………貴女もきっと優しい心の持ち主なのね」
 威嚇するように口元を歪めた少女の、固く強張った肩にシュラインはそっと手を伸ばした。そしてゆっくり立ち上がりながらそっと抱き寄せる。
「幸せになれるわ……誰かを愛したいと――誰かに優しくありたいと思う心があるのなら」
 金に近いほどまで抜かれた色の髪を、梳くようにそっと撫でる。むずかる子供をあやす母親のように、とんとんと自分の心臓が刻む一定のリズムに合わせて背を叩く。
「大丈夫」
 その瞬間、シュラインの手の中の少女が弾けるように形を失くした。
 淡く輝く街頭に照らされ、蛍の群れのように散り散りに四散した細かな粒子は、いつの間にかブランコを降りていた火月の掌中に集約されていく。
「さすがはシュラインさん、と言ったところかしら。見事なお手前でした」
 はい、と開かれた火月の手の中に転がったのは真紅のビー玉。懐かしい子供の頃を彷彿させる、何の変哲もないそれ。
「今のは――行き場を失くした心、とでも言ったところのものかしら?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。でもまぁ、お蔭様で元気なくしてる人に栄養をお届けする事が出来ました」
 そういった瞬間、ビー玉は粉々に四散して、明るく輝きだした月を目指すように宙へと駆け上り始めた。
 相変わらず真実にはいまいち手の届かない発言をしながら、火月がくすくすと笑いながら、その赤い光の帯を見送る。
「……京師さん?」
 彼女の笑い方が誰かに似ているような気がして、思わずその名がシュラインの口から零れた。
 と、その時。
 手が届きかけた真実によってもたらされた混乱の熱が冷めないままのシュラインを残し、ひらりと火月が身を翻す。
「え? あ、ちょっと――」
 伸ばした手は届かず空を切る。
 そしてそのまま、一気に公園の出口まで走った火月がくるりと反転、最初にシュラインに声をかけた時と同じように軽く手を振った。
「ステキな恋の話をありがとう。また機会があったらぜひ――そうね、今度は手のかかる男の話でもしましょ」

 胸の奥にしまわれた永遠の恋の記憶の一つ。
 それらが幾重にも積もって少女を大人に成長させて来た。
 だからこそ今この瞬間を、そして現在進行形で胸を躍らせる恋が出来るのだろう。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名】
  ≫≫性別 / 年齢 / 職業
   ≫≫≫【関係者相関度 / 構成レベル】

【0086 / シュライン・エマ】
  ≫≫女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
   ≫≫≫【鉄太+1 緑子+1 アッシュ+2 GK+2 紫胤+2/ A】

 ※GK……ゲートキーパー略

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの観空ハツキです。
 この度は『恋する君へ。』にご参加下さいましてありがとうございました。そして……年明け早々には納品を! と目論んでいたのですが――結果、お届けがギリギリになってしまい申し訳ございませんでした(謝)

 というわけで、毎度毎度心に優しい恋のお話をありがとうございます!
 なおご質問頂きました(?)草間氏との関係に関しては、冒頭で紫に語らせたとおりな感じでございます。こ…こんなんですが、宜しかったでしょうか?
 今回は関係者相関関係等に変動はございませんが、内部的にはばっちり蓄積されておりますので。何のことかは……また何れお目にかけられればいいな、と(含笑)。

 誤字脱字等には注意はしておりますが、お目汚しの部分残っておりましたら申し訳ございません。
 ご意見、ご要望などございましたらクリエーターズルームやテラコンからお気軽にお送り頂けますと幸いです。
 それでは今回は本当にありがとうございました。