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■祈りの向かう先■

カゲロー
【2529】【新久・孝博】【富豪の有閑大学生(法学部)】
 それは――誰のためですか?

 扉は今日も耐えている。
 古風なベルのついたその扉は来客を涼やかな音で店主に知らせる。極普通に無造作に開けられた扉のベルはその力と同じささやかさで、ちりりんと可愛らしい音を立てる。
 見た目ばかりは美女な店主は、その音に顔を上げた。
「あら、いらっしゃい」
「いつものを」
 そういって迷わずカウンターに歩み寄ったのはまだ若い男である。慣れた風に注文をしてカウンターの席に腰掛けると、その膝の上にこれまた迷わず漆黒の仔猫が飛び上がった。
「あら」
「おやおや。彼もいつものが欲しいようですよ?」
 その通りだと言うようににゃーと仔猫は泣いた。
 くすくすと笑いながら仔猫の頭を撫でる男、何かにありつけると知ってか喉を鳴らす黒い仔猫、肩を竦めてカップを手にする店主――概ね平穏で穏やかな午後だ。
 その終わりを告げたのは今日も耐えている扉であった。
 バン! ちりりりりりりりん!
 蹴破るような轟音で扉が開かれる。その勢いにけたたましくベルがなる。
「何処だ!」
 その轟音の主は来訪を告げる言葉も発せず行き成りそう怒鳴った。男の膝の上の仔猫がぴやっと背の毛を逆立て慌てて男の膝から逃げる。まるで天敵を見つけたかのようだ。店主は溜息を吐き、客である男は膝から逃げてしまった仔猫を名残惜しそうに見送る。
 そう、今日『も』扉は耐えている。
 毎度毎度蹴破らんかの勢いで己を蹴り開けてくれるこの襲撃者の仕打ちに。
「あら? 翔螺ちゃん?」
「そうだ僕だ! だがわかっていることをわざわざ口に出さなくてもいいぞ権左衛門!」
「……なん、ですって?」
「耳が悪いのか重松! 僕は生憎いい病院は知らないんだ不要だからな!」
 凍った空気もなんのその、わははと大声で笑った闖入者は目ざとくも店の隅へと目を向ける。おおクロだ! こいこいタマ、メリーと好き勝手に名前を呼びつつ、闖入者は毛を逆立てて逃げようとする仔猫を捕獲して高々と掲げる。
 ぎにゃーっと断末魔の悲鳴を上げ出す仔猫を横目で見やって、カウンター席のスーツの男は溜息を吐いた。
「……サチコさん」
「何かしら?」
「あなたいつから権左衛門だの重松だのになったんです?」
「そうそうこの間お客様から砒素を頂いたのよ。是非味見してくださる?」
「結構です」
 聖母のように微笑む店主に同じく人好きのする笑顔を向けつつ、男はさらっと提案を却下する。
 それに気勢を殺がれたか、それとも未だに鳴いている猫に哀れを催したのか、店主は溜息を吐いて被りを振ると、闖入者に向き直った。
「それで、何が何処だ? なの?」
「おおそれだ!」
 どれだ、とは店主、サチコは聞き返さなかった。聞き返しても無駄だという事を知っていたからである。この闖入者、名を西園寺・翔螺(さいおんじ・かけら)、当年二十八歳の独身女性というだけでも色々アレなのだが、挙句生業は弁護士でしかもかなりの敏腕ときている。世の不条理を体現している存在だが当人はそんな不条理は全く意に介してはいなかろう。
 そしてその不条理な弁護士先生がここを訪れる理由も大概の場合不条理なものであったりする。
「子供が子供じゃないのだ!」
 カウンターのストールに片足をずばんと乗せ、翔螺は腕を組んで胸を張る。
 本人は自信満々だが、それでは何がなにやらわからない。サチコは溜息を落とすと、辛抱強く聞き取りを始めた。
 辛抱強く聞き取った内容はこうである。
 子供の様子がおかしい。そう翔螺に言ってきたのは、その子供の母親でもなんでもない、単純に近所に住まう女子高生だったらしい。なんでも小学校の『お受験』を控え塾通いをしていた子供だったらしいのだが、その様子がある日を境にがらりと変化したというのだ。
 それまでは塾を嫌がり、母親の腰に縋って泣くことも多かった子供が、いつの間にか泣くことをやめていた。母親に言われるまま大人しく道を歩いている。そればかりか言葉遣いや態度までまるで『お受験見本品』へと変わってしまったというのだ。
 いくらなんでもおかしいと母親に尋ねてみても、母親としては現状が目標だったのだから取り合ってもくれない。しつこく問い質して漸く一つの事柄だけがわかった。
「神社にお参りした、ねえ」
「だからそういっているのだ!」
 いや言ってない。とはやはりサチコは突っ込まなかった。無駄だからである。
 お受験祈願で母親たちの間では密かに評判になりつつある神社へ子供と共に参拝した結果、子供はレッスンを嫌がらなくなり、そしてそのレッスンそのものも完璧にこなすようになったのだと言うのである。
「だがそんな子供は子供じゃない!」
 翔螺は大声で言い切る。確かにそんな子供は子供ではない。そんな状況がまともとも思えない。
「……なるほどねえ」
 溜息を吐いたサチコは胸元に逃げ込んできてぶるぶると震えている仔猫の頭を撫でた。いつの間にか常連客の姿がなかったが、それを翔螺に告げることはしなかった。

 そしてコルクボードにまた一つ依頼が張り出される。